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  • 『新 南島雑話の世界』

    今日は記録がてら、本の紹介です一昨日のこと、午前中にFBをチェックしたら、歴史関連のグループでご自身の本の紹介を投稿された方の画像の一つに、名越(なごし)護さんによる書評(推薦文)が書かれていたのですが、その名越護さんの紹介に著作としてこの『新南島雑話の世界』が載っていました。「新‥‥?!」と思い早速検索かけたら、某通販サイトに今年の5月10日発行とあり、最近出されたばかりの本があったことに気付きました。(ただし、購入後に奥付をみると、4月20日発行とありました)『南島雑話の世界』の続編とのこと。その日のうちに、早速近所の書店に買いに行くと、1冊、ありました支払いの時に、つい、「ここに載ってるのは先祖が書いた本なんです。曽祖父の父親なんです。」と話してしまいました。カウンターの青年は驚いたように「あぁ、そ...『新南島雑話の世界』

  • 島津重豪の娘・敬姫

    いつもご覧いただき、ありがとうございます私はブログを書くのも読むのもPCを使うのですが、スマホだと読みにくかったりしないだろうかといつも気にしつつ、つい長々と書き、画像も大きいものにしてしまいがちです、、、今時はスマホでご覧の方も多いかもしれませんね。PCで見ると、「このブログの人気記事」という表示があり、今日は『福昌寺跡の島津家墓地に』(2018-03-20カテゴリー 歴史探索)が5番目に上がっていました。ありがたいことですで、どんなこと書いていたっけ?と、読んでみたところ、そこにある画像について、「「島津安藝忠剛」と「島津山◯忠厚」こちらも今和泉島津家。忠剛は、忠冬の父で篤姫の父でもありますね。※写真で見るだけでは山◯がよくわかりません‥‥あとで調べてみます。」と書いていました。画像が小さく、またこの...島津重豪の娘・敬姫

  • 関勇助誕生の地

    皆さま、おはようございます以前、『維新のふるさと鹿児島ウォークin2008(1)』(2017-09-19カテゴリー 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008)で「関勇助誕生之地」の画像を貼って紹介していますが、この一帯を歩いて回った2008年当時はほとんど知らないことだらけでした。画像を後で見直す中で「関勇助誕生之地」に関しても、説明板を読んではみたものの、当時はあまりピンときていませんでしたが、この「関勇助」という人物は斉彬公が最も信頼を寄せていた方なのだということです。改めて調べてみると、「かごしま市観光ナビ」に観光スポットとして紹介されているようです。2008年に撮っていた案内板(下の画像)の説明をより詳しく紹介しています。【関勇助】(せきゆうすけ)生没年不詳名は広国、南塘と号した。城下高麗町(現・...関勇助誕生の地

  • 玉里2代・島津忠済の墓所

    いつもお読みいただき、ありがとうございます今回は、玉里島津家2代・島津忠済の墓所です。案内図には「久光男子」とあります。☆玉里邸は斉興公が隠居後に暮らし、ここで生涯を閉じたと『島津歴代略記』にもあるので、初代は斉興公かと思っていたところ、Wikiで確認したら、明治4年に分家して出来たのが「玉里島津家」とありました。Wiki(上記の各リンク)に詳しくあるので、そちらをお読みいただくとして、ここでは写真を並べることにします。今回の写真は2018年6月13日に撮ったものです。福昌寺墓地の東側の石塀。手前の入口へ。島津忠済墓所入口の門扉です。福昌寺墓地へのメインの入口よりも右手にこの門扉があります。中へ入ってみます。「従一位勲一等公爵島津忠済卿・田鶴子墓」大正五年二月とあります(Wiki情報によると、忠済卿は大正...玉里2代・島津忠済の墓所

  • 19代・光久公などの墓所

    今回は19代・島津光久公の墓などの画像です。☆19代・光久公は「初代藩主・島津家久」の二男。なので「第2代藩主」ということですね。以前撮った写真は、光久公のお墓を意識して撮ったものではありませんでした。この画像は光久夫妻の墓があるあたりを区画入り口から撮ったもので、中央に写っているのは「20代島津綱貴」の墓です。また、19代・光久公の長男が島津綱久様で、綱久夫人・真修院殿との長男が20代・綱貴公ということになります。☆20代・綱貴公のご両親の墓(画像左:真修院殿、右:島津綱久様)は、継豊公の墓所の後方に。・こちらは継豊公の墓石の背面を撮った際に光久公夫妻の墓所が写り込んだもの(画像左端の2基)「綱久夫妻」と「光久夫妻」、案内図で確認してみます。☆『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』(2022-07-03)で、...19代・光久公などの墓所

  • 重年実母・嶺松院殿の墓の周りにあるのが、斉宣公の子供達の墓だったことに気付く!

    ちょっと気付いたことを書いておきます昨年3月の『島津仲家の女性のお墓が福昌寺にあった!』(2021-03-07)カテゴリー 福昌寺墓地探訪に載せた画像の墓石があった場所確認のために『島津歴代略記』巻末の「長谷場御墓(福昌寺跡)略図」を見てみたところ、島津仲家の女性「壽賀」などは「年寄ほか」の一つとして記載されていることを確認。(「壽賀」はNo.97)そこで、重年公の墓の周りの墓もちゃんとチェックし直してみたのです。墓所にある「福昌寺墓地案内図」には「24代重年」の墓と「重年実母(=継豊後夫人)」の表記しかありませんが、『ー略記』の略図によれば、「24代重年」墓(No.86,画像上部)の左には「重豪女子」(No.85)、右には奥から「斉宣男子」が2基と手前に「重豪子」の墓、また「重年実母」=「継豊後夫人(嶺...重年実母・嶺松院殿の墓の周りにあるのが、斉宣公の子供達の墓だったことに気付く!

  • 継豊長男・宗信公の墓所にある三基の墓

    いつもありがとうございます以前にも継豊公の嫡男で23代・島津宗信とその実母については『第22代・継豊公夫人の墓、二つ』(2022-07-05)などで触れていますが、宗信公の墓所をもう少し、いくつか画像を追加してご紹介します。☆前回の『継豊公の墓所』でも書いた通り、継豊公の墓の右後方にあるのは、第20代・綱貴公のご両親、綱久夫妻の墓です。・綱久の長男・綱貴、その長男・吉貴が継豊の父です。継豊は綱久の曽孫ということですね。☆また、左後方にある3基の墓は、左から「重豪後夫人」「吉貴夫人」「重年夫人」。(以下『島津歴代略記』より)・左、重豪後夫人…玉貌院殿か、春光院殿か、清貌院殿。(慈光院殿の墓は吉貴公墓所にある)・中、吉貴夫人…霊竜院殿。桑名藩主松平越中守定重の女子。福姫。・右、重年夫人…垂水家島津備中貴儔の女...継豊長男・宗信公の墓所にある三基の墓

  • 継豊公の墓所

    おはようございます今日もお読みくださって、ありがとうございます前回の『斉彬公の墓所』と、前々回『島津斉興と真了院殿の墓所は別世界』(2022-07-13)の中程でも、斉興公の夫人・賢章院殿の墓が継豊公の隣にあると紹介しました。そこで今回は継豊公の墓所付近を写した写真を並べてみたいと思います。☆22代・継豊公の墓(2017年6月4日撮影)右奥の2基は綱久夫妻の墓(=継豊公の曾祖父母)(下の2枚は2008年2月29日撮影)☆案内図ここで間違えそうなのが、「22代継豊」の後方の3基の墓と左隣の3基の墓。後方の3基については後述します。まずは継豊墓左隣の3基です。☆左の2基は斉彬男子の墓で左から「虎寿丸」「菊三郎」、右が「斉興夫人(賢章院殿)」の墓(上・2008年2月29日撮影、下・2017年6月4日撮影)継豊公...継豊公の墓所

  • 斉彬公の墓所

    福昌寺跡の島津家墓地、斉興公の後はこの方、・島津斉彬(二十八代藩主)…斉興長男。母は鳥取藩主相模守斉邦の妹。弥姫(いよひめ)。周子。賢章院殿。文化六年(1809年)九月二十八日、江戸の芝藩邸に出生。※文政四年(1821年)父・斉興の加冠により元服。同七年(1824年)十一代将軍徳川家斉に謁し、同年元服の礼を行って諱(いみな)を賜り斉彬と改めた。(中略)安政五年(1858)七月十六日、藩内外多くの人々に惜しまれつつ亡くなった。歳50。※斉彬は死に臨み、後嗣に異母弟久光の長男・忠義を定めた。『島津歴代略記』を読み始めた頃は、例えば「島津重豪(二十五代藩主)」とあったり、また別の書物などでは「八代藩主」とあったりして、混乱したものですが、そのうち、江戸時代の藩政になってから「藩主」と言われることで「島津氏当主」...斉彬公の墓所

  • 島津斉興と真了院殿の墓所は別世界

    いつもお読み下さりありがとうございます今回は、島津久光公の御両親の墓所を画像でご案内します。墓所入り口から広場を横切り、左手の区画が斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所。案内図のこの画像で、右手やや下の部分です。入り口の手水鉢。階段を上ると、正面に斉興公の墓。周りにはずらっと石灯篭。背景に緑が広がります。第27代島津斉興之墓石塀に囲まれ、そこだけ異空間な感じも。こちらはお由羅様=真了院殿。お由羅様のお墓越しの斉興公の墓。なんだか、ますます二人だけの世界、という空気感斉興公の墓、向かって左手に「島津周防忠教(ただゆき)=久光公」2008年に初めて見た時もこんな感じでした。かなり風化も見られますが、刻銘は読めます。ひとつ隣のものは更に風化が見られます。ここで、ふと思ったのですが、久光公が「忠教(ただゆき)」だっ...島津斉興と真了院殿の墓所は別世界

  • 島津家歴代御当主の墓(4)ー忠治・忠隆・勝久

    ☆ブログ記事のアップの順番、久光公の墓所紹介で後先になってしまいましたが、『島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌』(2022-07-11)に続き、福昌寺跡の島津家歴代御当主の墓の続きです奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓・左奥台座の墓が「12代・忠治」の墓、右が「13代・忠隆」の墓・島津忠治(十二大守護職)…忠昌長男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。延徳元年(1489年)一月二十七日、出生。永正五年(1508年)、父・忠昌の自刃により、若くして守護職を継ぐ。※この頃領内には一向一揆が続発し、忠治はその鎮定のため身を安んずる暇も無いほどだった。然るに、忠治は永正十二年(1515年)薩州吉田の吉田位清(のりきよ)を攻略中、八月二十五日、鹿児島に急逝した。歳27。・島津...島津家歴代御当主の墓(4)ー忠治・忠隆・勝久

  • 島津久光公② - 久光公の墓と墓所内の石塔群

    ☆前回に続いて、今回は久光公のお墓とその周りの石燈籠群です。「前左大臣従一位大勲位公爵島津公墓」とあります。燈籠群は全部は撮りきれないので、興味を持ったものだけですが、こちらには「島津珍彦」ほか刻銘があります。こちらには「北白川宮能久親王妃富子」、さらに「公爵島津忠義」※「北白川宮能久親王」がどういった方か気になってこのあと調べたところ、Wikiに以下の通り。「北白川宮能久親王明治26年(1893年)11月10日に第4師団長となる。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。遺体は安平から西京丸で本土に運ばれた。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっ...島津久光公②-久光公の墓と墓所内の石塔群

  • 島津久光公① - 墓所前広場と大階段

    ☆福昌寺跡にある島津家墓地、入り口を入ると、島津家墓地の案内図(配置図)があり、そのさきに広場が広がっていて、大階段が悠然と存在している。私はこの広々とした空間と緑が心地よくお気に入りなのです散策するように、画像をお楽しみください('17.6.4撮影、'18.6.13撮影を取り混ぜて)奥には斉興公墓所と、さらに吉貴公墓所を始め、歴代当主の墓所があります。☆鳥居の傷みが気になるところではある。左の柱、中程が細くなっているし。大階段の上からの眺め。こちらは墓所入り口を見下ろした景色。入り口の右手には大きな顕彰碑が立っており、画像の下に写っているのがその台座。顕彰碑には実は第二次大戦の鹿児島空襲の際に爆撃を受けた証拠の銃撃痕が残っているそうです。側面の左淵の真ん中あたりの黒い点↓。これが弾痕だそうです。☆次回は...島津久光公①-墓所前広場と大階段

  • 島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌

    ☆第十一代守護職・島津忠昌…立久長男。母は梶原三郎太郎弘純の女子。茂山夫人。寛政3年(1463年)五月三日、出生。永正五年(1508年)二月十五日、鹿児島清水城に突然自刃した。歳46。※死に臨み、忠昌が吟じた西行法師の歌。願はくは花のもとにて春死なむ其きさらぎの望月のころ「11代・忠昌」夫妻の墓は画像右手、台座の上の2基です。奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓が並びます。☆忠昌公は領国統治も意のままにならず、失意のうちに永正五年(1508年)、鹿児島清水城に突然自刃。46歳で没しました。忠昌公へ献花。このとき、奈良原助八満が忠昌に殉じて自刃。25歳だったそう。福昌寺近くに碑が建っています。これが、2008年5月に初めて「かごしま探検の会」の町歩きに参加した時に、強...島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌

  • 島津家歴代御当主の墓(2)ー忠国・立久

    ☆島津久豊長男、九代守護職・島津忠国の墓所。島津忠国…久豊長男。母は伊東大和守祐安の女子。寿山夫人。応永十年(1403年)五月二日、日向穆佐高城(むかさたかじょう)に出生。「9代・忠国」夫妻の墓☆忠国夫妻の墓の後方、石塀の向こうには福昌寺の「歴代住職墓地」があるそうですが、まだ踏み入れたことはありません。☆その斜め後ろには、忠国の二男・島津立久、十代守護職の墓所があります。「10代・立久」夫妻の墓撮り方に癖があるのか、なぜか左が下がってしまってます(^^;)ほぼ画像整理目的なので、簡潔に。それでは、また。島津家歴代御当主の墓(2)ー忠国・立久

  • 島津家歴代御当主の墓(1)ー師久・氏久、 宗久も

    皆さま、こんばんは〜ちょっと前に『2018年6月13日、島津家墓地にて出会う』(2022-07-07カテゴリー 福昌寺跡島津家墓地)の「島津齊徳之墓」の紹介画像で墓所奥の区域を望む写真を1枚載せました。↓コレ間に3つの記事を書いて「妙心院殿の墓」ではフライング気味に写真をチラッと載せましたが(笑)、今回は、ようやく歴代当主の方々の墓所巡りの画像ですお馴染み、案内図です。画像の中央付近、「齊徳(忠重男子)」から左の区画は歴代のご当主の墓所です。ここには「薩摩6代師久」夫妻、「大隅6代氏久」夫妻、「9代忠国」夫妻の墓を始め、10〜14代までの当主の墓が並んでいます。前に『第六代薩摩守護職・島津師久』(2022-07-07)で少しだけ「薩摩六代島津師久」の墓の写真を載せていましたが、その1年後、この2018年6...島津家歴代御当主の墓(1)ー師久・氏久、宗久も

  • 鎌倉殿と島津家の伝承、鶴嶺神社の「遷塔之記」

    シリーズ「福昌寺跡島津家墓地」の記事が続いていますが、ちょっとここで、閑話休題です。先週の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の「紀行コーナー」では鎌倉の「持仏堂」の紹介がありましたが、源頼朝の墓、石塔の足元には丸十紋が映し出されていたので思わず見入ってしまいました。謂れをご存じない方には「なぜここに丸十紋が‥‥?」と思われたでしょうね。今、再放送を見ていて、ここにも書いておきたくなったのです。で、試しに「持仏堂鎌倉」でネット検索したところ、鎌倉市のHPに「源頼朝の墓」として「島津重豪が‥‥」と紹介されていたので嬉しかったです鎌倉市のHPより↓「現在、墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。墓の層塔(そうとう)は1779年(安永8)に島津重豪(しまずしげひで)...鎌倉殿と島津家の伝承、鶴嶺神社の「遷塔之記」

  • 島津継豊公の後の夫人(2) ー 島津重年公の実母・嶺松院殿の墓

    いつもお読みくださって、ありがとうございます先日書いた記事、『第22代・継豊公夫人の墓、二つ』2022-07-05カテゴリー:福昌寺跡島津家墓地ここに、「継豊公の跡を継いだ長男「宗信公(第23代)」の母が妙心院殿であり、宗信公は江戸の芝藩邸に出生、その兄が22歳で早逝し、跡を継いだ二男「重年公(第24代)」(母は島津嶺松院殿)は鹿児島鶴丸城に出生とある。(『島津歴代略記』参照)」と書きました。また、以前『島津氏と北郷氏と禰寝氏の沼へ』2021-09-07を書く際にカテゴリー「島津重年公の母・嶺松院殿」を作っていました。すっかり忘れていました上記記事ではWikipedia情報として、「また、島津重年は島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、加治木島津家当主・島津久季の養子となる。なお、継豊と母・登免(○松院殿...島津継豊公の後の夫人(2)ー島津重年公の実母・嶺松院殿の墓

  • 島津継豊公の後の夫人(1) ー 島津宗信公の実母・妙心院殿の墓

    いつもお読みくださって、ありがとうございます第22代・島津継豊公の「二人の夫人」の墓は、『第22代・継豊公夫人の墓、二つ』2022-07-05(カテゴリー 福昌寺跡島津家墓地)に以前書いた通りですが、「継豊公の跡を継いだ長男「宗信公(第23代)」の母が妙心院殿であり、宗信公は江戸の芝藩邸に出生、その兄が22歳で早逝し、跡を継いだ二男「重年公(第24代)」(母は島津嶺松院殿)は鹿児島鶴丸城に出生とある。(『島津歴代略記』参照)」と書きました。この二人の継豊後夫人、以前「妙心院殿」と「嶺松院殿」の、どちらの墓かを今回確かめてところです。写真を撮った頃は全く知る由もなかったのですが、ようやく把握できるようになりました。この継豊公の後の夫人お二人の墓もチェックしてみました。まずは、継豊公を嗣ぎ若くして亡くなった長...島津継豊公の後の夫人(1)ー島津宗信公の実母・妙心院殿の墓

  • 2018年6月13日、島津家墓地にて出会う

    〈福昌寺墓地案内図〉お読み頂きありがとうございます2008年2月29日に撮った写真の中で、時代の違う1枚の写真↓がありました。前回の『第六代薩摩守護職・島津師久』からの続きです。上の写真を撮った10年後の2018年6月13日に訪ねた際には、まだ踏み入れていなかった歴代のご当主様の墓所も見て回って、写真に収めていました。撮った画像を順に追っていくと、この時は斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所を巡り、石塀の出口から外に出ると久光公の墓所を右手に見つつ、石畳の通路を左に進み、吉貴公の墓所に再会、更に左奥へ進み、幅の広い階段の前を過ぎた先の、小さな階段を上ってみました。まず目に飛び込んだのが、黒い蝶が群れ飛ぶ姿黒いアゲハ蝶たちが水を飲んでいたのですそこにあったのは「島津斉徳之墓」ピンぼけですが、大正8年9月の生ま...2018年6月13日、島津家墓地にて出会う

  • 第六代薩摩守護職・島津師久

    いつもお読みいただきありがとうございますさてこの数日、福昌寺跡の島津家墓地の画像を並べていますが、今回はちょこっと小出しにしてみます。背景からして、福昌寺墓地の一番奥付近を写していますが、手前の表示は「薩摩第六代島津師久(もろひさ)」です。2008年2月29日に撮った写真の中で、これだけ他の区画と違うものでした。案内図(全体図)です。撮りためた写真をチェックしたところ、10年後の2018年にはこの歴代当主の墓所辺りをたっぷり写真に撮っていましたが、2008年のこの時は、吉貴公の墓所から奥へ入ってみて「こんな古いのもあるんだ〜」と思いつつ、気まぐれに撮ったものと思います。↑「薩摩6代師久」です。この時(2008年2月29日)は吉貴公墓所が目的だったので、もっと古い時代のご当主の区域は回っておらず、この1基だ...第六代薩摩守護職・島津師久

  • 寿国寺にあった4人の島津家女性の墓

    FBで歴史に詳しい方たちとつながることが出来て、新たに気付くことやご教示いただくこともあり、これまでに撮ってきた写真についての解明ができることもあります。第21代・島津吉貴公の墓所のあたりを一通り撮影したのは今から5年前の2017年6月4日でした。目的は月桂院殿の墓石をもう少し丹念に見て、写真に収めることでしたが、吉貴公や月桂院の並びの向かいにある墓石も随分立派な、存在感のあるものだったので、これも是非とも納めておこう、と相成りました。それがこうして、ブログに記せるようになるとは、我ながら「よくぞ撮っておいたものだ!」と悦に入っている昨今です(笑)さて、その墓石群ですが、FBFのブログで、市内武町にあった「寿国寺跡」から移設された島津家の女性たちのお墓だということを知ったのです。その「寿国寺」は、何年か前...寿国寺にあった4人の島津家女性の墓

  • 第22代・継豊公夫人の墓、二つ

    吉貴公墓所の右隣に、同じくらい立派なお墓があります。(↑トップ画像)吉貴公嫡男で第22代・島津継豊公の夫人の墓が並んでいるのです。こちら↓は前にも載せましたが吉貴公の墓。画像整理していても見間違うほど似ているのです!写真を撮ってからずいぶん時が経ち、その間いろいろな事がありましたので、すっかり忘れていましたが、この「継豊夫人」の墓石をぐるっと回り込んで後ろから撮ったものもありました。おもて面を撮っていなかったようですが、側面の神号の画像があります。一部不明ながら「改號可◯(天?)霊華姫命」と読めます。今度行くときには、おもて面に刻まれている法名も確認したいと思います。墓所案内図で確認しますと、「21代吉貴」の右隣(画像では上隣)に「継豊夫人」とあるのがトップ画像の墓です。おや?と思われた方があるかもしれま...第22代・継豊公夫人の墓、二つ

  • 吉貴公後の夫人の墓、2基(その2:慈恩院殿)

    前回の月桂院殿の墓に続き、もうひとりの吉貴公後の夫人の墓です。墓所の案内図画像↓、中央付近に小さく「吉貴後夫人」とあります。福昌寺跡の墓所には、それぞれの墓全てに表示があるわけではありませんので、主だった方以外は墓前での確認はできません。『島津歴代略記』巻末の配置図のコピーを持って行った時もありましたが、5年前のこの時も後で画像を見ながら案内図と照らし合わせることに。その中で、「これは‥‥墓石、なのか?」と思うものがあり、後で見てもわかるようになるべく周りの景色を写り込ませつつ写真に収めましたが、未だよくはわかりません。それが、こちら↓です。【画像1】(2017年6月4日撮影)背の高いものはおそらく「六地蔵塔」。手前のものが墓石なのか石碑なのか、今もこういった石碑や仏教に関するものなど詳しくはないのですが...吉貴公後の夫人の墓、2基(その2:慈恩院殿)

  • 吉貴公後の夫人の墓、その1:月桂院殿

    前回の『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』に続き、カテゴリー「福昌寺跡島津家墓地」として過去に撮った画像で綴ってみます。墓所の案内図にあるように、第21代・島津吉貴公の後の夫人の墓が2基あることがわかります。その1基は吉貴公の墓の左隣にあります。トップ画像中央の1基で、隣り合って立っているのは重豪公の後の夫人の墓です。☆ここからは2008年2月29日に撮った写真をいくつか並べてみます。継豊公墓所を背にすると、吉貴公の墓の前の通路があります。(福昌寺墓所案内図)第21代・島津吉貴公の墓(2008年2月29日撮影)吉貴公の墓に向かって左隣に、2基並んでいますが↓右が「吉貴公後の夫人・月桂院殿(名越右膳恒渡の妹、お須磨)」の墓。亀趺碑(きふひ)があります。2基のうち左は「重豪公後の夫人・慈光院殿(市田喜内貞行の女子...吉貴公後の夫人の墓、その1:月桂院殿

  • 吉貴公の祖父・島津綱久墓など

    いつもお読みいただき、ありがとうございます別ブログに『福昌寺墓地(2)第21代・島津吉貴公の墓所』として書いていますが、こちらにも記録として、過去に撮った写真を個別に、墓所の配置図参照の上検証しつつ、載せてみようと思います。こうすれば、自分でもわかりやすいので墓所の案内図です。('17.6.4撮影)上部左手に、「第十九代島津光久長男島津綱久」の墓が表示されています。(「18代家久」の左下)☆トップ画面にもありますが、こちら↓をクリックすると、大きく表示されます。スマホだとどの程度の大きさに表示されるのか??ですが。島津綱久様は第20代・島津綱貴公の実父であり、第21代・吉貴公の祖父に当たります。「光久長男。母は伊勢大隅守貞豊の女子。曹源院殿。寛永九年(1632)四月一日、江戸藩邸に出生。初め虎寿丸・又三郎...吉貴公の祖父・島津綱久墓など

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