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  • 年の終わりは20年ぶりの仕事復帰

    拙宅ブログへのご訪問、ありがとうございます画像は昨年11月末に霧島神宮で撮ったもの〈関連記事〉→『霧島神宮誌で歴代宮司名を確認』(2021-11-30)カテゴリー:永吉島津家この2ヶ月ブログ更新をしていませんでしたが、「働かざる者食うべからず」というか、生活の糧を得るための仕事を幸運にも見つけることが出来て、仕事第一で専念しておりました。ようやく環境にも馴染んできたところです。さて、大晦日です。今年の1月にはブログに何を書いていたっけ?とチェックしてみたところ、→『平山矢九郎季徳とは?』(2022-01-13)カテゴリー:爲恵祥院殿菩提石塔1月11日に照國神社で引いたおみくじが「大吉」で、「開運招福お守り」に入っているラッキーチャームは打ち出の小槌の「小槌」だったと書いてありました。ひょんなことでタイミン...年の終わりは20年ぶりの仕事復帰

  • 高祖母・タネの晩年は?

    いつもお読みいただき、ありがとうございます我が家の楓、夏場に葉も縮れてみっともなかったのでバッサリ剪定したのですが、その後に出てきた葉がちゃんと紅葉してくれました(画像は今月7日に撮影)さて、今年もあと2ヶ月となりつつありますが、来年の手帳・カレンダーを入手された方も多いと思います。私も少し前に、カレンダー形式の月別卓上ノートと、見開き1週間形式の手帳を購入しました。今年使ってきた手帳も残りわずか、近いところで12月1日の高祖母の命日を書き込んでいた時に、ふと、「名越タネさんは、夫・泰藏亡き後、誰と暮らしていたんだろう??」と思ったのです。高祖父・泰藏(名越時敏)は明治14年6月16日に亡くなっていますが、その後26年と5ヶ月半は、誰とどのように暮らしていたのか‥‥。長男・時成さんは宮崎県高鍋で4年後の明...高祖母・タネの晩年は?

  • 久しぶりの町田家墓所訪問(日置市石谷)

    拙宅ブログへのご訪問、ありがとうございます本日放送のNHK『英雄たちの選択』で町田久成にスポットを当てた「日本の宝を守れ!町田久成・博物館創設への挑戦」が放送になる前にと、久しぶりに町田家の墓を訪ねてみました。・町田家の墓所に最初に偶然であったのは、2013年5月22日のことでした。これについては以前、2017年の5月8日の日記に書いています。・『町田家墓地(石谷)』(2017-05-08)写真もいくらか撮りましたが、PCやデジタル機器の容量などの問題で画像をアップしづらい状態なので新たな画像はガラホで撮った入り口の表示のみです・夕暮れ近くだったので、静かな空気の中でゆっくり見て回れました。ヤブ蚊にも刺されてしまいましたが(笑)虫除け、塗っていくべきだったなぁにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村にほ...久しぶりの町田家墓所訪問(日置市石谷)

  • 2018年1月 桐野利秋誕生地を訪ねてみた記録

    いつもお読みいただき、ありがとうございます2017年にFacebookを始めて、そちらに記事をアップすることも増えたので、あとから見返してみて「ブログ記事になってない!」ということも多々あるのですが、この桐野利秋誕生地跡を訪ねたことも当ブログには書いていませんでした・・・ということで本日、2018年1月の日記↓としてアップしましたのでどうぞご笑覧ください『桐野利秋誕生地を訪ねて』(2018-01-22)カテゴリー:別府晋介&桐野利秋では〜2018年1月桐野利秋誕生地を訪ねてみた記録

  • 曽祖父が残した明治30年の澎湖の水産業レポート

    いつもお読みいただき、ありがとうございます6年前に書いた記事『曾祖父・轟の名を台湾のサイトに見つける』(2016-09-12)カテゴリー 曾祖父・轟のことこの記事に貼っていた「国立台湾師範大学」のサイトのリンク先が見られなくなっていたので、先ほど探してみたところ、というサイトで見ることが出来ました「篇名」というのは何でしょうか『澎湖白沙地區的社會與經濟變遷』となっていました。作者:王右邦出版年月:2007年「出版品名称」が『臺灣師範大學歷史學系在職進修碩士班學位論文』で、指導教授の名前も表示されています。この論文の「参考文献」一覧に曽祖父・轟の書いたものが上がっています。画面をスクロールすると結構下の方にあります↓↓↓「栗川轟(陳春暉譯)(1939)1999〈一百零二年前澎湖之水產業概況(原名:〈四十二年...曽祖父が残した明治30年の澎湖の水産業レポート

  • 「デヴィッド・ボウイ ライブ イン バンクーバー 1983」

    今夜はちょっと趣向を変えて‥‥DavidBowieの1983年のライヴ映像を観てるのだけど、私にとってのボウイは70年代の曲がほとんどで、80年代に入ったら、「何だか‥‥ちょっと、違うよなぁ‥‥」と思って聴かなくなった。そんな中、聴き馴染みのある曲がかかった。70年代の曲っぽく思っていたこの曲、♪AshestoAshes1980年のアルバム『スケアリー・モンスターズ』に入ってる曲だったっけ?!このアルバム、持ってたかなぁ?明日確かめてみよう。意外な発見があった夜でした。では、お休みなさい(↑上のリンクはライヴ音源。こちらのとは別物です↓)(ビックリ和訳)デヴィッド・ボウイ-AshestoAshes-DavidBowie「デヴィッド・ボウイライブインバンクーバー1983」

  • 「於枝様」に気付いた話

    昨日、FBにも書いたのですが、以前このブログで書いた記事の画像を目にして、あることに気づきました。『小松帯刀清廉の誕生日に』(2020-12-03)カテゴリー 曾祖父・轟のこと以下、FBで投稿したものをそのまま載せておきます。===================今日(8月3日)、拙宅ブログでこの6時間以内に読まれた記事リストを見て、その中の一つをチェックしてみたところ、その中の画像から気付いた事がありました。記事タイトルの「小松帯刀の誕生日」はこの際関係ないのだけど、『鹿児島県史料名越時敏史料一』のp.74に文久二年(1862年)の正月の名越家の家族構成を書いてあり、よくよく見てみると、その中で「文化二年乙丑八月三日誕生於枝様一母上様御歳五十八歳」とあるのです!それに気付いたのが今日、8月3日とは‥‥。...「於枝様」に気付いた話

  • 『新 南島雑話の世界』

    今日は記録がてら、本の紹介です一昨日のこと、午前中にFBをチェックしたら、歴史関連のグループでご自身の本の紹介を投稿された方の画像の一つに、名越(なごし)護さんによる書評(推薦文)が書かれていたのですが、その名越護さんの紹介に著作としてこの『新南島雑話の世界』が載っていました。「新‥‥?!」と思い早速検索かけたら、某通販サイトに今年の5月10日発行とあり、最近出されたばかりの本があったことに気付きました。(ただし、購入後に奥付をみると、4月20日発行とありました)『南島雑話の世界』の続編とのこと。その日のうちに、早速近所の書店に買いに行くと、1冊、ありました支払いの時に、つい、「ここに載ってるのは先祖が書いた本なんです。曽祖父の父親なんです。」と話してしまいました。カウンターの青年は驚いたように「あぁ、そ...『新南島雑話の世界』

  • 島津重豪の娘・敬姫

    いつもご覧いただき、ありがとうございます私はブログを書くのも読むのもPCを使うのですが、スマホだと読みにくかったりしないだろうかといつも気にしつつ、つい長々と書き、画像も大きいものにしてしまいがちです、、、今時はスマホでご覧の方も多いかもしれませんね。PCで見ると、「このブログの人気記事」という表示があり、今日は『福昌寺跡の島津家墓地に』(2018-03-20カテゴリー 歴史探索)が5番目に上がっていました。ありがたいことですで、どんなこと書いていたっけ?と、読んでみたところ、そこにある画像について、「「島津安藝忠剛」と「島津山◯忠厚」こちらも今和泉島津家。忠剛は、忠冬の父で篤姫の父でもありますね。※写真で見るだけでは山◯がよくわかりません‥‥あとで調べてみます。」と書いていました。画像が小さく、またこの...島津重豪の娘・敬姫

  • 関勇助誕生の地

    皆さま、おはようございます以前、『維新のふるさと鹿児島ウォークin2008(1)』(2017-09-19カテゴリー 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008)で「関勇助誕生之地」の画像を貼って紹介していますが、この一帯を歩いて回った2008年当時はほとんど知らないことだらけでした。画像を後で見直す中で「関勇助誕生之地」に関しても、説明板を読んではみたものの、当時はあまりピンときていませんでしたが、この「関勇助」という人物は斉彬公が最も信頼を寄せていた方なのだということです。改めて調べてみると、「かごしま市観光ナビ」に観光スポットとして紹介されているようです。2008年に撮っていた案内板(下の画像)の説明をより詳しく紹介しています。【関勇助】(せきゆうすけ)生没年不詳名は広国、南塘と号した。城下高麗町(現・...関勇助誕生の地

  • 玉里2代・島津忠済の墓所

    いつもお読みいただき、ありがとうございます今回は、玉里島津家2代・島津忠済の墓所です。案内図には「久光男子」とあります。☆玉里邸は斉興公が隠居後に暮らし、ここで生涯を閉じたと『島津歴代略記』にもあるので、初代は斉興公かと思っていたところ、Wikiで確認したら、明治4年に分家して出来たのが「玉里島津家」とありました。Wiki(上記の各リンク)に詳しくあるので、そちらをお読みいただくとして、ここでは写真を並べることにします。今回の写真は2018年6月13日に撮ったものです。福昌寺墓地の東側の石塀。手前の入口へ。島津忠済墓所入口の門扉です。福昌寺墓地へのメインの入口よりも右手にこの門扉があります。中へ入ってみます。「従一位勲一等公爵島津忠済卿・田鶴子墓」大正五年二月とあります(Wiki情報によると、忠済卿は大正...玉里2代・島津忠済の墓所

  • 19代・光久公などの墓所

    今回は19代・島津光久公の墓などの画像です。☆19代・光久公は「初代藩主・島津家久」の二男。なので「第2代藩主」ということですね。以前撮った写真は、光久公のお墓を意識して撮ったものではありませんでした。この画像は光久夫妻の墓があるあたりを区画入り口から撮ったもので、中央に写っているのは「20代島津綱貴」の墓です。また、19代・光久公の長男が島津綱久様で、綱久夫人・真修院殿との長男が20代・綱貴公ということになります。☆20代・綱貴公のご両親の墓(画像左:真修院殿、右:島津綱久様)は、継豊公の墓所の後方に。・こちらは継豊公の墓石の背面を撮った際に光久公夫妻の墓所が写り込んだもの(画像左端の2基)「綱久夫妻」と「光久夫妻」、案内図で確認してみます。☆『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』(2022-07-03)で、...19代・光久公などの墓所

  • 重年実母・嶺松院殿の墓の周りにあるのが、斉宣公の子供達の墓だったことに気付く!

    ちょっと気付いたことを書いておきます昨年3月の『島津仲家の女性のお墓が福昌寺にあった!』(2021-03-07)カテゴリー 福昌寺墓地探訪に載せた画像の墓石があった場所確認のために『島津歴代略記』巻末の「長谷場御墓(福昌寺跡)略図」を見てみたところ、島津仲家の女性「壽賀」などは「年寄ほか」の一つとして記載されていることを確認。(「壽賀」はNo.97)そこで、重年公の墓の周りの墓もちゃんとチェックし直してみたのです。墓所にある「福昌寺墓地案内図」には「24代重年」の墓と「重年実母(=継豊後夫人)」の表記しかありませんが、『ー略記』の略図によれば、「24代重年」墓(No.86,画像上部)の左には「重豪女子」(No.85)、右には奥から「斉宣男子」が2基と手前に「重豪子」の墓、また「重年実母」=「継豊後夫人(嶺...重年実母・嶺松院殿の墓の周りにあるのが、斉宣公の子供達の墓だったことに気付く!

  • 継豊長男・宗信公の墓所にある三基の墓

    いつもありがとうございます以前にも継豊公の嫡男で23代・島津宗信とその実母については『第22代・継豊公夫人の墓、二つ』(2022-07-05)などで触れていますが、宗信公の墓所をもう少し、いくつか画像を追加してご紹介します。☆前回の『継豊公の墓所』でも書いた通り、継豊公の墓の右後方にあるのは、第20代・綱貴公のご両親、綱久夫妻の墓です。・綱久の長男・綱貴、その長男・吉貴が継豊の父です。継豊は綱久の曽孫ということですね。☆また、左後方にある3基の墓は、左から「重豪後夫人」「吉貴夫人」「重年夫人」。(以下『島津歴代略記』より)・左、重豪後夫人…玉貌院殿か、春光院殿か、清貌院殿。(慈光院殿の墓は吉貴公墓所にある)・中、吉貴夫人…霊竜院殿。桑名藩主松平越中守定重の女子。福姫。・右、重年夫人…垂水家島津備中貴儔の女...継豊長男・宗信公の墓所にある三基の墓

  • 継豊公の墓所

    おはようございます今日もお読みくださって、ありがとうございます前回の『斉彬公の墓所』と、前々回『島津斉興と真了院殿の墓所は別世界』(2022-07-13)の中程でも、斉興公の夫人・賢章院殿の墓が継豊公の隣にあると紹介しました。そこで今回は継豊公の墓所付近を写した写真を並べてみたいと思います。☆22代・継豊公の墓(2017年6月4日撮影)右奥の2基は綱久夫妻の墓(=継豊公の曾祖父母)(下の2枚は2008年2月29日撮影)☆案内図ここで間違えそうなのが、「22代継豊」の後方の3基の墓と左隣の3基の墓。後方の3基については後述します。まずは継豊墓左隣の3基です。☆左の2基は斉彬男子の墓で左から「虎寿丸」「菊三郎」、右が「斉興夫人(賢章院殿)」の墓(上・2008年2月29日撮影、下・2017年6月4日撮影)継豊公...継豊公の墓所

  • 斉彬公の墓所

    福昌寺跡の島津家墓地、斉興公の後はこの方、・島津斉彬(二十八代藩主)…斉興長男。母は鳥取藩主相模守斉邦の妹。弥姫(いよひめ)。周子。賢章院殿。文化六年(1809年)九月二十八日、江戸の芝藩邸に出生。※文政四年(1821年)父・斉興の加冠により元服。同七年(1824年)十一代将軍徳川家斉に謁し、同年元服の礼を行って諱(いみな)を賜り斉彬と改めた。(中略)安政五年(1858)七月十六日、藩内外多くの人々に惜しまれつつ亡くなった。歳50。※斉彬は死に臨み、後嗣に異母弟久光の長男・忠義を定めた。『島津歴代略記』を読み始めた頃は、例えば「島津重豪(二十五代藩主)」とあったり、また別の書物などでは「八代藩主」とあったりして、混乱したものですが、そのうち、江戸時代の藩政になってから「藩主」と言われることで「島津氏当主」...斉彬公の墓所

  • 島津斉興と真了院殿の墓所は別世界

    いつもお読み下さりありがとうございます今回は、島津久光公の御両親の墓所を画像でご案内します。墓所入り口から広場を横切り、左手の区画が斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所。案内図のこの画像で、右手やや下の部分です。入り口の手水鉢。階段を上ると、正面に斉興公の墓。周りにはずらっと石灯篭。背景に緑が広がります。第27代島津斉興之墓石塀に囲まれ、そこだけ異空間な感じも。こちらはお由羅様=真了院殿。お由羅様のお墓越しの斉興公の墓。なんだか、ますます二人だけの世界、という空気感斉興公の墓、向かって左手に「島津周防忠教(ただゆき)=久光公」2008年に初めて見た時もこんな感じでした。かなり風化も見られますが、刻銘は読めます。ひとつ隣のものは更に風化が見られます。ここで、ふと思ったのですが、久光公が「忠教(ただゆき)」だっ...島津斉興と真了院殿の墓所は別世界

  • 島津家歴代御当主の墓(4)ー忠治・忠隆・勝久

    ☆ブログ記事のアップの順番、久光公の墓所紹介で後先になってしまいましたが、『島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌』(2022-07-11)に続き、福昌寺跡の島津家歴代御当主の墓の続きです奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓・左奥台座の墓が「12代・忠治」の墓、右が「13代・忠隆」の墓・島津忠治(十二大守護職)…忠昌長男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。延徳元年(1489年)一月二十七日、出生。永正五年(1508年)、父・忠昌の自刃により、若くして守護職を継ぐ。※この頃領内には一向一揆が続発し、忠治はその鎮定のため身を安んずる暇も無いほどだった。然るに、忠治は永正十二年(1515年)薩州吉田の吉田位清(のりきよ)を攻略中、八月二十五日、鹿児島に急逝した。歳27。・島津...島津家歴代御当主の墓(4)ー忠治・忠隆・勝久

  • 島津久光公② - 久光公の墓と墓所内の石塔群

    ☆前回に続いて、今回は久光公のお墓とその周りの石燈籠群です。「前左大臣従一位大勲位公爵島津公墓」とあります。燈籠群は全部は撮りきれないので、興味を持ったものだけですが、こちらには「島津珍彦」ほか刻銘があります。こちらには「北白川宮能久親王妃富子」、さらに「公爵島津忠義」※「北白川宮能久親王」がどういった方か気になってこのあと調べたところ、Wikiに以下の通り。「北白川宮能久親王明治26年(1893年)11月10日に第4師団長となる。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。遺体は安平から西京丸で本土に運ばれた。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっ...島津久光公②-久光公の墓と墓所内の石塔群

  • 島津久光公① - 墓所前広場と大階段

    ☆福昌寺跡にある島津家墓地、入り口を入ると、島津家墓地の案内図(配置図)があり、そのさきに広場が広がっていて、大階段が悠然と存在している。私はこの広々とした空間と緑が心地よくお気に入りなのです散策するように、画像をお楽しみください('17.6.4撮影、'18.6.13撮影を取り混ぜて)奥には斉興公墓所と、さらに吉貴公墓所を始め、歴代当主の墓所があります。☆鳥居の傷みが気になるところではある。左の柱、中程が細くなっているし。大階段の上からの眺め。こちらは墓所入り口を見下ろした景色。入り口の右手には大きな顕彰碑が立っており、画像の下に写っているのがその台座。顕彰碑には実は第二次大戦の鹿児島空襲の際に爆撃を受けた証拠の銃撃痕が残っているそうです。側面の左淵の真ん中あたりの黒い点↓。これが弾痕だそうです。☆次回は...島津久光公①-墓所前広場と大階段

  • 島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌

    ☆第十一代守護職・島津忠昌…立久長男。母は梶原三郎太郎弘純の女子。茂山夫人。寛政3年(1463年)五月三日、出生。永正五年(1508年)二月十五日、鹿児島清水城に突然自刃した。歳46。※死に臨み、忠昌が吟じた西行法師の歌。願はくは花のもとにて春死なむ其きさらぎの望月のころ「11代・忠昌」夫妻の墓は画像右手、台座の上の2基です。奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓が並びます。☆忠昌公は領国統治も意のままにならず、失意のうちに永正五年(1508年)、鹿児島清水城に突然自刃。46歳で没しました。忠昌公へ献花。このとき、奈良原助八満が忠昌に殉じて自刃。25歳だったそう。福昌寺近くに碑が建っています。これが、2008年5月に初めて「かごしま探検の会」の町歩きに参加した時に、強...島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌

  • 島津家歴代御当主の墓(2)ー忠国・立久

    ☆島津久豊長男、九代守護職・島津忠国の墓所。島津忠国…久豊長男。母は伊東大和守祐安の女子。寿山夫人。応永十年(1403年)五月二日、日向穆佐高城(むかさたかじょう)に出生。「9代・忠国」夫妻の墓☆忠国夫妻の墓の後方、石塀の向こうには福昌寺の「歴代住職墓地」があるそうですが、まだ踏み入れたことはありません。☆その斜め後ろには、忠国の二男・島津立久、十代守護職の墓所があります。「10代・立久」夫妻の墓撮り方に癖があるのか、なぜか左が下がってしまってます(^^;)ほぼ画像整理目的なので、簡潔に。それでは、また。島津家歴代御当主の墓(2)ー忠国・立久

  • 島津家歴代御当主の墓(1)ー師久・氏久、 宗久も

    皆さま、こんばんは〜ちょっと前に『2018年6月13日、島津家墓地にて出会う』(2022-07-07カテゴリー 福昌寺跡島津家墓地)の「島津齊徳之墓」の紹介画像で墓所奥の区域を望む写真を1枚載せました。↓コレ間に3つの記事を書いて「妙心院殿の墓」ではフライング気味に写真をチラッと載せましたが(笑)、今回は、ようやく歴代当主の方々の墓所巡りの画像ですお馴染み、案内図です。画像の中央付近、「齊徳(忠重男子)」から左の区画は歴代のご当主の墓所です。ここには「薩摩6代師久」夫妻、「大隅6代氏久」夫妻、「9代忠国」夫妻の墓を始め、10〜14代までの当主の墓が並んでいます。前に『第六代薩摩守護職・島津師久』(2022-07-07)で少しだけ「薩摩六代島津師久」の墓の写真を載せていましたが、その1年後、この2018年6...島津家歴代御当主の墓(1)ー師久・氏久、宗久も

  • 鎌倉殿と島津家の伝承、鶴嶺神社の「遷塔之記」

    シリーズ「福昌寺跡島津家墓地」の記事が続いていますが、ちょっとここで、閑話休題です。先週の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の「紀行コーナー」では鎌倉の「持仏堂」の紹介がありましたが、源頼朝の墓、石塔の足元には丸十紋が映し出されていたので思わず見入ってしまいました。謂れをご存じない方には「なぜここに丸十紋が‥‥?」と思われたでしょうね。今、再放送を見ていて、ここにも書いておきたくなったのです。で、試しに「持仏堂鎌倉」でネット検索したところ、鎌倉市のHPに「源頼朝の墓」として「島津重豪が‥‥」と紹介されていたので嬉しかったです鎌倉市のHPより↓「現在、墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。墓の層塔(そうとう)は1779年(安永8)に島津重豪(しまずしげひで)...鎌倉殿と島津家の伝承、鶴嶺神社の「遷塔之記」

  • 島津継豊公の後の夫人(2) ー 島津重年公の実母・嶺松院殿の墓

    いつもお読みくださって、ありがとうございます先日書いた記事、『第22代・継豊公夫人の墓、二つ』2022-07-05カテゴリー:福昌寺跡島津家墓地ここに、「継豊公の跡を継いだ長男「宗信公(第23代)」の母が妙心院殿であり、宗信公は江戸の芝藩邸に出生、その兄が22歳で早逝し、跡を継いだ二男「重年公(第24代)」(母は島津嶺松院殿)は鹿児島鶴丸城に出生とある。(『島津歴代略記』参照)」と書きました。また、以前『島津氏と北郷氏と禰寝氏の沼へ』2021-09-07を書く際にカテゴリー「島津重年公の母・嶺松院殿」を作っていました。すっかり忘れていました上記記事ではWikipedia情報として、「また、島津重年は島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、加治木島津家当主・島津久季の養子となる。なお、継豊と母・登免(○松院殿...島津継豊公の後の夫人(2)ー島津重年公の実母・嶺松院殿の墓

  • 島津継豊公の後の夫人(1) ー 島津宗信公の実母・妙心院殿の墓

    いつもお読みくださって、ありがとうございます第22代・島津継豊公の「二人の夫人」の墓は、『第22代・継豊公夫人の墓、二つ』2022-07-05(カテゴリー 福昌寺跡島津家墓地)に以前書いた通りですが、「継豊公の跡を継いだ長男「宗信公(第23代)」の母が妙心院殿であり、宗信公は江戸の芝藩邸に出生、その兄が22歳で早逝し、跡を継いだ二男「重年公(第24代)」(母は島津嶺松院殿)は鹿児島鶴丸城に出生とある。(『島津歴代略記』参照)」と書きました。この二人の継豊後夫人、以前「妙心院殿」と「嶺松院殿」の、どちらの墓かを今回確かめてところです。写真を撮った頃は全く知る由もなかったのですが、ようやく把握できるようになりました。この継豊公の後の夫人お二人の墓もチェックしてみました。まずは、継豊公を嗣ぎ若くして亡くなった長...島津継豊公の後の夫人(1)ー島津宗信公の実母・妙心院殿の墓

  • 2018年6月13日、島津家墓地にて出会う

    〈福昌寺墓地案内図〉お読み頂きありがとうございます2008年2月29日に撮った写真の中で、時代の違う1枚の写真↓がありました。前回の『第六代薩摩守護職・島津師久』からの続きです。上の写真を撮った10年後の2018年6月13日に訪ねた際には、まだ踏み入れていなかった歴代のご当主様の墓所も見て回って、写真に収めていました。撮った画像を順に追っていくと、この時は斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所を巡り、石塀の出口から外に出ると久光公の墓所を右手に見つつ、石畳の通路を左に進み、吉貴公の墓所に再会、更に左奥へ進み、幅の広い階段の前を過ぎた先の、小さな階段を上ってみました。まず目に飛び込んだのが、黒い蝶が群れ飛ぶ姿黒いアゲハ蝶たちが水を飲んでいたのですそこにあったのは「島津斉徳之墓」ピンぼけですが、大正8年9月の生ま...2018年6月13日、島津家墓地にて出会う

  • 第六代薩摩守護職・島津師久

    いつもお読みいただきありがとうございますさてこの数日、福昌寺跡の島津家墓地の画像を並べていますが、今回はちょこっと小出しにしてみます。背景からして、福昌寺墓地の一番奥付近を写していますが、手前の表示は「薩摩第六代島津師久(もろひさ)」です。2008年2月29日に撮った写真の中で、これだけ他の区画と違うものでした。案内図(全体図)です。撮りためた写真をチェックしたところ、10年後の2018年にはこの歴代当主の墓所辺りをたっぷり写真に撮っていましたが、2008年のこの時は、吉貴公の墓所から奥へ入ってみて「こんな古いのもあるんだ〜」と思いつつ、気まぐれに撮ったものと思います。↑「薩摩6代師久」です。この時(2008年2月29日)は吉貴公墓所が目的だったので、もっと古い時代のご当主の区域は回っておらず、この1基だ...第六代薩摩守護職・島津師久

  • 寿国寺にあった4人の島津家女性の墓

    FBで歴史に詳しい方たちとつながることが出来て、新たに気付くことやご教示いただくこともあり、これまでに撮ってきた写真についての解明ができることもあります。第21代・島津吉貴公の墓所のあたりを一通り撮影したのは今から5年前の2017年6月4日でした。目的は月桂院殿の墓石をもう少し丹念に見て、写真に収めることでしたが、吉貴公や月桂院の並びの向かいにある墓石も随分立派な、存在感のあるものだったので、これも是非とも納めておこう、と相成りました。それがこうして、ブログに記せるようになるとは、我ながら「よくぞ撮っておいたものだ!」と悦に入っている昨今です(笑)さて、その墓石群ですが、FBFのブログで、市内武町にあった「寿国寺跡」から移設された島津家の女性たちのお墓だということを知ったのです。その「寿国寺」は、何年か前...寿国寺にあった4人の島津家女性の墓

  • 第22代・継豊公夫人の墓、二つ

    吉貴公墓所の右隣に、同じくらい立派なお墓があります。(↑トップ画像)吉貴公嫡男で第22代・島津継豊公の夫人の墓が並んでいるのです。こちら↓は前にも載せましたが吉貴公の墓。画像整理していても見間違うほど似ているのです!写真を撮ってからずいぶん時が経ち、その間いろいろな事がありましたので、すっかり忘れていましたが、この「継豊夫人」の墓石をぐるっと回り込んで後ろから撮ったものもありました。おもて面を撮っていなかったようですが、側面の神号の画像があります。一部不明ながら「改號可◯(天?)霊華姫命」と読めます。今度行くときには、おもて面に刻まれている法名も確認したいと思います。墓所案内図で確認しますと、「21代吉貴」の右隣(画像では上隣)に「継豊夫人」とあるのがトップ画像の墓です。おや?と思われた方があるかもしれま...第22代・継豊公夫人の墓、二つ

  • 吉貴公後の夫人の墓、2基(その2:慈恩院殿)

    前回の月桂院殿の墓に続き、もうひとりの吉貴公後の夫人の墓です。墓所の案内図画像↓、中央付近に小さく「吉貴後夫人」とあります。福昌寺跡の墓所には、それぞれの墓全てに表示があるわけではありませんので、主だった方以外は墓前での確認はできません。『島津歴代略記』巻末の配置図のコピーを持って行った時もありましたが、5年前のこの時も後で画像を見ながら案内図と照らし合わせることに。その中で、「これは‥‥墓石、なのか?」と思うものがあり、後で見てもわかるようになるべく周りの景色を写り込ませつつ写真に収めましたが、未だよくはわかりません。それが、こちら↓です。【画像1】(2017年6月4日撮影)背の高いものはおそらく「六地蔵塔」。手前のものが墓石なのか石碑なのか、今もこういった石碑や仏教に関するものなど詳しくはないのですが...吉貴公後の夫人の墓、2基(その2:慈恩院殿)

  • 吉貴公後の夫人の墓、その1:月桂院殿

    前回の『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』に続き、カテゴリー「福昌寺跡島津家墓地」として過去に撮った画像で綴ってみます。墓所の案内図にあるように、第21代・島津吉貴公の後の夫人の墓が2基あることがわかります。その1基は吉貴公の墓の左隣にあります。トップ画像中央の1基で、隣り合って立っているのは重豪公の後の夫人の墓です。☆ここからは2008年2月29日に撮った写真をいくつか並べてみます。継豊公墓所を背にすると、吉貴公の墓の前の通路があります。(福昌寺墓所案内図)第21代・島津吉貴公の墓(2008年2月29日撮影)吉貴公の墓に向かって左隣に、2基並んでいますが↓右が「吉貴公後の夫人・月桂院殿(名越右膳恒渡の妹、お須磨)」の墓。亀趺碑(きふひ)があります。2基のうち左は「重豪公後の夫人・慈光院殿(市田喜内貞行の女子...吉貴公後の夫人の墓、その1:月桂院殿

  • 吉貴公の祖父・島津綱久墓など

    いつもお読みいただき、ありがとうございます別ブログに『福昌寺墓地(2)第21代・島津吉貴公の墓所』として書いていますが、こちらにも記録として、過去に撮った写真を個別に、墓所の配置図参照の上検証しつつ、載せてみようと思います。こうすれば、自分でもわかりやすいので墓所の案内図です。('17.6.4撮影)上部左手に、「第十九代島津光久長男島津綱久」の墓が表示されています。(「18代家久」の左下)☆トップ画面にもありますが、こちら↓をクリックすると、大きく表示されます。スマホだとどの程度の大きさに表示されるのか??ですが。島津綱久様は第20代・島津綱貴公の実父であり、第21代・吉貴公の祖父に当たります。「光久長男。母は伊勢大隅守貞豊の女子。曹源院殿。寛永九年(1632)四月一日、江戸藩邸に出生。初め虎寿丸・又三郎...吉貴公の祖父・島津綱久墓など

  • 画像フォルダをチェックして、過去の動向を振り返る

    きのうの記事『重富島津家屋敷跡の鹿児島県民教育文化研究所('2010.3.3撮影)』をアップする際に、昔フォルダにアップしていた画像を見直していたのですが、ほとんど画像を上げていない年があったりして、その年はどう過ごしていたっけ?と振り返ってみることに。ブログ記事を読み返せばいくらかわかる、と思ったら、過去に「インデックス」というカテゴリーで一度整理していたことを思い出しました。なるほど2010年以降は画像も携帯(ガラケー)で撮ったものだったり、飼っていた犬猫の画像だったり、庭の花、寄せ植えなど、ガーデニングに目覚めた頃のものだったりするのです。それと犬猫が高齢化し、そのお世話で父と協力しながら薬を飲ませたり、病院に連れていったりと、忙しかった時期でもありました。・『2011~2015年』(2021-04...画像フォルダをチェックして、過去の動向を振り返る

  • 重富島津家屋敷跡の鹿児島県民教育文化研究所('2010.3.3撮影)

    いつもお読みいただき、ありがとうございますさて、タイトルの物件ですが、重富島津家の屋敷はすでに無く、この建物は80年以上前に建てられたもので、呉服店、料亭、離島の子供達の進学寮などを経て文化施設になった歴史があり、その造りや装飾性などから国登録有形文化財に指定されていたものでありましたが、何やら取り壊されるというお話を本日小耳にしました鹿児島県教育会館に耐震上の問題ありで、その建て替え地として取り壊されるのだとか突然な話と思ったら、3年ほど前から話があったらしく‥‥。こういうのって決まってから一般に知られる印象がありますね。出来れば残して有効活用に知恵を絞っていただきたいところ。仮に取り壊し、新しい建物を建てるにしても、上町という歴史的な土地柄、景観を損なわないように配慮願いたいものです。では、気を取り直...重富島津家屋敷跡の鹿児島県民教育文化研究所('2010.3.3撮影)

  • 継豊の後継、長男・宗信と次男・重年

    いつもお読みいただきありがとうございます画像は紫式部の花🌸5月末に撮影。黄色の花🌼はカランコエです。前回は吉貴・継豊親子の時代を再確認しましたが、その後、継豊の長男・島津宗信も若くして亡くなり、継豊次男の島津重年が後を継いだのです。・島津宗信…享保十三(1728)年江戸の芝藩邸に出生。延享三(1746)年継豊が隠居し、宗信が封を継ぐ〜寛延二(1749)年病に罹り、同年七月十日鹿児島鶴丸城に没す歳二十二関連記事:→『第24代藩主・島津重年と嗣子・重豪』(2019-05-26)カテゴリー:第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊以前、平田靱負について書いた記事もありますが、→『平田靱負と藩主・島津重年』(2019-05-25)カテゴリー:第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊島津重年は江戸へ参勤交代の途中、まだ子供だっ...継豊の後継、長男・宗信と次男・重年

  • 「田沼時代」は安永・天明年間

    前回に続き、『英雄たちの選択』からもう一つ。昨夜は「田沼意次」の回だったけど、その中身というよりその年代についていろんなことが気になった。☆「先見の明か山師か田沼意次の真実」(初回放送日:2021年9月8日)「田沼意次」…1772(安永1)年,幕府老中。子の意知(おきとも)と共に田沼時代を現出。(1719〜1788)(※「広辞苑」より)江戸中期、第9代将軍徳川家重の小姓を経て側用人となり、第10代将軍・徳川家治から老中に登用されたわけだけど、正直このお二人の将軍には馴染みがなかった。第8代将軍はよく知られた徳川吉宗、第11代将軍は徳川家斉で、松平定信を老中に任じ「寛政の改革」を行なった。そのお二人の間に埋もれた印象。田沼時代の後半には「天明の飢饉」(天明2〜7年)、天明の大火(天明8年1月晦日,京都の大火...「田沼時代」は安永・天明年間

  • 「曽我どんの傘焼き」と「曽我事件」

    子供の頃に見た甲突川河畔の「曽我どんの傘焼き」、その元となった「曽我事件」が先週の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもあったけど、きのうの『英雄たちの選択』再放送でしっかり理解できた。昔、「曽我兄弟」由来のものとは聞いていたけど、それっきりで、「そが」といえば「蘇我入鹿」くらいしか知らなかった私はなぜ「蘇我」ではなく「曽我」なのか?と思ったけど調べもしなかった。「曽我兄弟の敵討ち」深掘りすると面白い典型のような回だった。「頼朝暗殺未遂!?曽我兄弟敵討ち事件の深層」初回放送日:2022年6月8日「曽我どんの傘焼き」と「曽我事件」

  • 4月も終わり、5月突入

    3月終わりに前回の記事を書いて、気がつけば4月を通り越して5月になってしまいました。昨年春に父が買った鉢植えのバラ「ラ・フランス」が今年も無事に咲いてくれましたし、白いバラもラベンダーも咲いています先月は専らFBなどでやり取りして遊んでいたのですが、身の回りももう少し本腰入れて片付けようとあれこれ算段し、コロコロ変わる天気や気温の乱高下に翻弄されつつ過ごしました。それと、最近では先祖(といっても曽祖父母以下、台湾引き揚げ後のわずかな親族のみ)の墓所の整備に勤しんできましたが、明日までは日差しもありそうで、今日もまたちょこっと行ってこようかな、と思っているところ。そう、今時分からの作業なのです。陽の高い時間は体力消耗してしまうので、日没にかけての1時間半ほどの作業をこの4日間ほど続けています。それでは、また。4月も終わり、5月突入

  • 鶴嶺神社と鎌倉殿と

    3月も明日で終わりますね。今日は新型コロナワクチンの3回目接種に行ってきました。行き帰りに目にした桜はそこかしこで満開となり、思いがけないお花見ドライヴで幸せな一日となりましたトップ画像は数日前に撮った近所の集会所の桜さて先日、昔撮った画像を見ていたら、現在放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に関連するものがあったのでちょっと並べてみたくなりました画像は全て、2008年2月18日に撮ったものです。「鶴嶺神社」と書いて「つるがねじんじゃ」と読みます。仙巌園の隣にあります正面には錦江湾(鹿児島湾)越しの桜島ここに、鎌倉殿と島津氏との繋がりを示すものがあります。『遷塔之記』に説明されています。鎌倉市の方々との繋がりを記しています。おまけ↓「狭野杉(さのすぎ)」以上、画像は全て2008年2月18日に撮ったものでした〜そ...鶴嶺神社と鎌倉殿と

  • 14年間の軌跡(3)

    (前々回からの続き)高祖父・名越左源太のことが分かればそれで済む、と思っていたのは大きな間違いで、名越氏を初代が名乗ったのが島津吉貴公の時代で、その吉貴公の世継ぎを産んだのが、名越家始祖の妹・須磨(月桂院殿)ということで、島津氏のことを知っておかなくては分からないと、『島津歴代略記』を読んだはいいのだけど、分家のことまでは詳しく知ることもなく、そのうち新聞の連載記事やツイッターなどで歴史に関するものを読んだり、黎明館の「分家のチカラ」などの展示を見に行ったりして少しずつ理解できるようになりました。黎明館企画展「分家のチカラ・弟たちの役割」を観に行ったのは2017年2月でした。『ブログ「おじゃったもんせ」ご紹介』2017-05-0811:06:37 歴史探索また一方で、祖父母から、曾祖父母へと遡り先祖のことを知ろ...14年間の軌跡(3)

  • 14年間の軌跡(2)

    いつもお読みいただきありがとうございます前回『14年間の軌跡(1)』に続き、これまでを振り返り、総括してみようと思います。とっかかりは「名越左源太」という人物を(高祖父ながら何も知りませんでしたので)知るところから始まりました。何しろ地元の歴史も、関わりがあるらしい島津家などについてもさっぱり頓着ない歴史オンチでしたので、母が買い集めたらしき歴史資料(主に書店で入手できる程度の出版物)の中から、『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄/高城書房)を見てみたのです。名越氏や我が家の名字などを目にし、島津氏の項目でたくさんの「〇〇島津家」「△△島津家」に戸惑いつつ、とりあえずは母がメモしていた「島津吉貴」「島津継豊」「須磨」のあたりから「探って」行くことにしました。また、『島津歴代略記』でも、初めは「吉貴」「継豊」のあた...14年間の軌跡(2)

  • 14年間の奇跡(1)

    いつもお読みいただき、ありがとうございます気付けば今日は、曽祖父が家族4人で今の家を継いだ日でありました。明治15年、西暦では1882年ということで、なんと140年前のことでした祖父は明治14年生まれ、生まれた時は名越家の人でした曽祖父以下、今の姓になって140年‥‥なんとも感慨深いものです。さて、このブログを始めて14年が経とうとしています。この間にはいろんなことがありました。近いところでは、昨年6月に95歳の誕生日目前だった父を送ることとなりました。そもそもこのブログを書き始めたきっかけは、以前にも書いていますが、なんとなく、ただ何となく書いてみたくなった、それだけなのです。『春分の日に、ブログを始めてみた。』2008-03-2016:45:19 このブログのことまた、2008年は大河ドラマで『篤姫』が放映...14年間の奇跡(1)

  • 『夢留』を読むために‥‥

    一つ前の記事で、下野敏見先生の訃報を目にしたこと、その記事に『南西諸島史料集』が紹介されていたことを書きました。↓『原点に帰る機会を頂いた』2022-03-12カテゴリー このブログのことところで、我が家の書棚になぜか高額の『南西諸島史料集』があります。この第二巻、「名越左源太関連史料」なので入手したものでしたけど、そこに収録されている『夢留』を読みたいがために、ごく平凡な一般市民の身でありながら18,000円(税別)もする「南西諸島史料集」を購入したことをすっかり忘れていました‥‥家に届いたのは2008年11月7日のことでしたただ、「現代語訳になって読めるのかと思っていたのは浅はかであった」と反省していたことまで、以前このブログで書いておりました(苦笑)↓『南西諸島史料集第二巻』2008-11-09カテゴリー...『夢留』を読むために‥‥

  • 原点に帰る機会を頂いた

    いつもお読み下さり、ありがとうございます近頃は少しずつ春めいて日中も暖かくなって来ましたねさて今日は、私にしては珍しく朝から当日の新聞を開いてみたところ、下野敏見氏の訃報を知りました。『下野敏見氏が死去92歳種子・屋久、トカラ…民俗研究60年余』https://373news.com/_news/storyid/152908/心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。私はこれまで面識などありませんが、お名前は『南島雑話の世界』(2002年発行、名越(なごし)護著)の巻末の諸先生方との座談会でそのお姿と共に目にしておりました。つい先日も、所々読み直していたところでしたが、正直申しますと、これまではつい左源太じい様の動向にばかり気持ちが向いて、巻頭からの「奄美の世界」についての記述にはざっと目を通しただけで...原点に帰る機会を頂いた

  • 剣術・川上天真流と槍術・鏡智流

    春ですね〜梅の花も咲いています近くの公園では桜の花が咲いているところもさて、先日、左源太じい様の武術について書いたのに→『旧国宝の刀発見から篤烈の槍術へ』剣術の流派と師範のことを書き忘れていました剣術は「川上天真流」とあったのだけど、ネットで検索した限りでは分かりませんでした。ただ師範は「加藤権兵衛」とのことだったので調べたら、『日本掃苔録掲示板』の「島津家関連」トピックの書き込み「南林寺由来墓」(2005.6.18)の暮石一覧に「4列目加藤権兵衛藩士・天真流」とありましたまだ南洲寺に行ってないけど、行く前にこの件を見つけられたのは良かったで、さらに槍術「鏡智流」について調べてみた。槍術の「鏡智流」では鹿児島大学デジタルコレクションに『鏡智流槍術由来』というものがあった。著者は「梅田九左衛門」とある。左源太じい...剣術・川上天真流と槍術・鏡智流

  • 旧国宝の刀発見から篤烈の槍術へ

    3月になりましたねいつも読みいただき、ありがとうございますさて、最近はFBでの投稿・活動が多いのですが、先日、鹿児島神宮の宝物の刀が見つかったというニュースから、刀剣のことを話題にしていたのです。それに関連して、日置市の青劔神社の刀は「三条小鍛冶宗近」の作だという話も知りました。刀剣には詳しくないのですが、たまたま刀剣・刀工の特集が載っている、父が以前購入していた雑誌を目にしたばかりだったので、それをパラパラめくって読んでいくうちに、刀はいつ頃から盛んに作られ出したのかとか、どのように変遷していったのかとかも気になったり、刀だけではなく、薙刀や槍はどうなのか?など興味が広がりました。そこから、そういえば左源太じい様についての説明書きにも「槍術」とあったなぁ、と、昨日は左源太じい様の槍術の流派を確認しようと、『鹿...旧国宝の刀発見から篤烈の槍術へ

  • 興国寺墓地の和泉家の墓

    今日は一段とお寒うございます。いつもお読みいただき、ありがとうございますさて、バレンタインの日に再訪した興国寺墓地に和泉家の墓があり、気になって撮った写真が、2018年にブログにいただいたコメントと繫がりました!↓『島津登について』(2017.3.9)のコメント欄これは、2018年11月の「知覧のぼっけもん」さんのコメントから、曽祖父の養母・「於須賀」の最初の夫、「島津(務)久命」の墓ではないかと!「久命」(ひさ…のり?)という名前、例によっていろんな家に同じ名前があるのですが、この「和泉家」は「今和泉島津家」に繋がる家だし、ということで撮っておいてよかった♪でも、久命の隣の「和泉イマ子」様って、もしかしたら於須賀様と離縁した後の奥様なのか知らん?手前の「篠崎」という姓にも興味を惹かれる。名越彦太夫高房(名越氏...興国寺墓地の和泉家の墓

  • 興国寺墓地を再訪

    お天気が回復して気温も上がり、今日こそ行ってみようと興国寺墓地再訪を決行!今回は一人で思う存分廻って来ました♪ですが、2年近く前にブログに情報を頂いていた「町田家」(もしかしたら左源太の実母?)の墓石は見つけられず残念でした。。☆2020年4月29日にshinshinさんから頂いたコメントは→コチラです車を近くの駐車場にとめて、墓地まで歩き、13時到着。階段を登り切った右手から手始めに、それこそ虱潰しにチェックしました。・まず右手奥には「汾陽(かわみなみ)家」の一群(↓画像奥)・「三原家」の墓も入り口近くと中腹にも見つけましたが、「経」の文字が入ったお名前も気になりつつ曾祖母の家との関わりまでは分からず☆関連記事→『三原氏について知りたい』2020-10-12 三原藤五郎と倉山藤五郎・それから右手端をず〜っと見...興国寺墓地を再訪

  • 名越時敏が名越右源太篤烈だった頃

    いつもお読みいただきありがとうございますさて、前稿で「惠祥院殿菩提」の石塔について書きましたが、「名越右源太篤烈夫婦」ということはいったいいつ頃のことなのかを、はっきり認識しておいた方が良いだろうと思いつき、長女・イサさんの誕生日の1年前くらいを計算すれば、1839年(=天保10年)初めには夫婦だったのだろうと思うわけです。関連記事:『イサさん生誕170年!』2010-01-07カテゴリー:名越左源太と家族実は最近、島津登久包について新しい情報が届いたのです。それで思ったのですが、島津登久包は、高祖父・名越時敏の妻・タネの実父であり、高祖父の舅となったのが天保10年頃として、その頃に建立された石塔であろうと思われるわけです。また、高祖父は奄美・小宿に遠島時代(1850~1855年)の「南島雑話」の下書きにある署...名越時敏が名越右源太篤烈だった頃

  • 平山矢九郎季徳とは?

    新年のご挨拶、遅くなりました〜本年もよろしくお願いいたしますさて、連休明けの11日に雨の中、照國神社へ新年のご挨拶に行ってきました。お参りしてご挨拶申し上げ、おみくじを引くと‥‥‥大吉でした六角形の箱を振って出てきた棒の番号は「1」(番号自体には意味はないけど、なんとなく嬉しい)で、中のお言葉もありがたいものでした(中身は内緒)それといつも引いている「開運招福お守り」の入ったおみくじも大吉で、小さなラッキーチャームの「お守り」は「小槌」でした〜そう、打ち出の小槌の「小槌」〜ありがたいです今年もこれで頑張れそうです☆こちら↓、クリックで大きい画像を見られます。さてさて、お参りの帰りにふと立ち寄ったのは、以前『倉山久籌は島津登久包の義理の弟だった!2019-10-27』にも書いた、「爲惠祥院殿菩提」の石塔のある場所...平山矢九郎季徳とは?

  • いちき串木野市照島を「こころ旅」で

    皆さん、こんにちは昨日といい今日といい、鹿児島も冷たい空気に覆われてすっかり初冬の気配です。(寒くて冷たくて、外に出る気ゼロ〜って天気)今日は、火野正平さんの『こころ旅』鹿児島2日目水曜日夕方の「とうちゃこ版」録画していたのをお昼前の再放送直前に観て、そのあとの再放送放映でまた観たところ。https://www.nhk.or.jp/kokorotabi-blog/100/458251.html#moreいちき串木野市は羽島(はしま)の薩摩藩英国留学生の記念館以外は、駅近くの商店街も照島(てるしま)神社もいまだに行ったことが無い。照島神社に「驪龍厳(りりょうがん)」というのがあるらしく、テレビ画面に映ってる案内板をジーーっと観ていたら、「寛政二年(1790)、島津家第二十六代‥‥云々」とあったので、調べてみたとこ...いちき串木野市照島を「こころ旅」で

  • 父の伯母の婚家、実方の川上家と別府家

    ☆以前、実方の川上家について書きましたが、以前書いた記事→『実方の別府家と川上家』(2021-09-24 西南戦争)書く内容の焦点が絞りにくく、その為、説明に次ぐ説明で自分でも読みにくいな〜と思っていたところ、FBで数日前に書いたものが思いの外スッキリ読みやすくまとまったので、記録としてこのブログにも残しておこうと思います。(以下の通り)吉野実方(さねかた)の川上家は、父の伯母・フクが後妻に入った家で、実は別府九郎・別府晋介兄弟の姉が川上忠太郎と結婚している。<川上良助さんは父の伯母の夫。後ろの「忠太郎妻」は別府九郎・別府晋介兄弟の姉><この墓碑には「川上忠太郎妻」明治13年4月16日(没)とだけ表記>※1996年(平成8年)の『敬天愛人』第14号に塩満郁夫さんが「別府九郎と西南戦争」(p.245~260)の中...父の伯母の婚家、実方の川上家と別府家

  • 霧島神宮誌で歴代宮司名を確認

    今日、前々から行こうと思っていた霧島神宮へようやく行ってきました。明日からは寒くなるということだし、明後日の2日から23日までは国宝指定が決まった社殿などの特別拝観も始まるので混むだろうから、どうしてもその前に行かなくては!と思い立って行ったわけです。紅葉もまだまだみられましたが、落ち葉もだいぶ積もっていました。帰りにはだいぶ雨に降られましたが、平地に降りるまではどうにか持ってくれたので助かりました。帰路はさらに西側山手の道を辿り、紅葉を楽しむことができました。途中の温泉郷や川の流れなども目にして楽しめました。今度は温泉にも行きたいな♪ところで、霧島神宮へ行った目的は、今回の世界遺産認定とは関係なく、島津登久包の嫡子であった島津久籌(高祖母・タネの実弟)が、明治7年に霧島神宮の宮司であったことを確かめることが目...霧島神宮誌で歴代宮司名を確認

  • 祖母が戦後お参りしようとしていたお墓

    以前、今年の3月20日の日記『先祖のお墓探しは前途多難っぽい』の中で、父が「終戦後、台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話」を書きました。〈以前の日記より引用〉「父の話に、終戦後台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話があります。祖母のおかあさん、とは義母・スガさんのことだったのか、実家・寺山の墓だったのか??」「その時(昭和21年ごろか?)は大雨のあとだったかで土砂崩れで道が塞がれていて、お墓に行く事は叶わずお参り出来ずに帰ったという事でした」記事を書いて以降気になりながらも、興国寺墓地には行く機会がないままですが、今日になってふと頭に浮かんだのです。思い返すと、祖母・ふくの「お母さん」と...祖母が戦後お参りしようとしていたお墓

  • 親族目線で『鹿児島県史料 名越時敏史料 二』を読む

    ☆『鹿児島県史料名越時敏史料』ですが、私個人としては歴史史料としてよりも、やはり、親族としての注目・着眼点というのがあります。例えば、小林地頭に任命された頃の日記が収められた『鹿児島県史料名越時敏史料二』ですが、以前からじっくりと読んでみようと思っていましたが、今回のきっかけは、小林の郷土史に関心を持つFBFが、ある1ページを画像にアップして紹介していたことでした。その画像は『鹿児島県史料名越時敏史料三』のp.236でした。「常不止集(とことわしゅう)」(六・七・八之巻)が収められている部分です。調べてみたら、天保12年(1841年)8月19日の日記ですので、これは名越左源太時敏の父親も地頭職ということなのか、詳細はわかりません。それから、『同名越時敏史料二』を持ち出してきて、もう少し丁寧に目を通してみることに...親族目線で『鹿児島県史料名越時敏史料二』を読む

  • 十三屋を見つけた!

    タイトルの「十三屋」というのは、昨年シリーズで紹介していた『都見物日記』で出てくる老舗の髪結い道具のお店なのです。「5月6日佐原芳どのを訪問、天王寺の吉次殿とは?」ここ↑に「十三屋という東京にて名高き櫛屋に行き、又ここにて櫛、へら、すき櫛〆て八十四銭だけ買入、‥‥云々」と出てきます。9月1日にあったBS放送の番組での再放送『神田川紀行』を観ていて、画面に映った橋の名前、何だったかなぁ?と東京のガイドブックを見たのでした。橋の名前は「万世橋」というのは分かりました。で、ふと前のページに「十三や」という「髪結いのプロが使うツゲ櫛」とあるのが目に留まり、「十三や‥‥どこかで見聞きしたような‥‥」と思ってハタと気づきました慌てて確認すると、やはり載っていたのですこれ、嬉しくて9月1日当日にFBでアップしたのですが、この...十三屋を見つけた!

  • 曽祖父の養母・須賀の前夫、島津務(司)久命とは?

    以前、『島津登について』で頂いたコメントの中で、「島津務(司=つかさ)久命」という人が気になり、今頃ですがネット検索してみました。この方、曽祖父の養母・御須賀さんの最初の夫・「島津務(司)久命」だったようだ、とのこと。(「久命」の読みがわかりません「新納久命(ひさのり)」という名前があったので同様かな?)検索した結果、そこから「島津歳久」→「島津常久」→「島津忠隣」と見ていったら、「木脇祐定」の名前を見つけました。こちらは日向伊東氏の一族とのこと。この結果、「島津務久命」についてはわかりませんでしたが、自分用のメモとして取り敢えず並べてみることにします。「島津歳久」これは単に「島津」と「久」に反応してヒットした模様島津歳久(しまづとしひさ)は、戦国時代の武将。島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。日置島津家...曽祖父の養母・須賀の前夫、島津務(司)久命とは?

  • 鎮守神社(炭床)

    2010年11月28日撮影前回に続き、これも過去に撮った画像炭床(すみどこ)、地元では「すんどこ」というのかな?そこの鎮守神社です。確か2010年当時、引っ越しからだいぶ経つのに、「そういえば、土地神様、氏神様に一度もご挨拶していないなぁ」と思い、鹿児島県神社庁に電話して尋ねたところ、ここと、黒丸神社を教えていただきました。それで父と訪ねてみたのです。県道35号永吉入佐鹿児島線を春山方面へ向かい、途中右手の道に入ります。行き着いたのは住宅の横の細道の奥まったところでした。市のコミュニティバスは近くの公民館までは通るみたいですが、そこからさらに奥に行ったところです。車で行ったので止めるスペースがかろうじてあったので良かったです。鳥居の奥の階段を登ると社殿がありました。(トップ画像)社殿の横には紀念碑がありました。...鎮守神社(炭床)

  • 歌誌「にしき江」創刊者の歌碑と烏帽子岳神社の鳥居

    いつもお読み頂き、ありがとうございます例によって、FBにアップしたきりで当ブログにあげてなかった画像が多々あるので、ちょっと並べてみます。国道226号線を鹿児島市から南へ向かい、平川付近の左手に鳥居が見えます。2014年11月2日撮影車を降りて見てみたところ、「烏帽子岳神社御由緒」の案内と、短歌雑誌「にしき江」創刊者の歌碑がありました。「鶴田海南歌碑・昭和三十九年三月建立同さゑ歌碑・昭和四十七年九月建立」とありました。〈海南〉歌碑↓〈さゑ〉歌碑↓7年前の撮影時にはありませんでしたが、FBで最近撮影された方の画像には「鶴田正義歌碑」が写っていました。新しく建立されたのだろうと思います。今、「にしき江」で検索したところ、HPのTopicsにありました!平成27年3月28日に除幕式があった模様です。実は亡き母が一時期...歌誌「にしき江」創刊者の歌碑と烏帽子岳神社の鳥居

  • 南洲翁遺訓や海上築堤など

    今、番組見ながら書いてるんですが、ただの鉄道マニア向け番組ではなかった!NHKBS-Pのプレミアムカフェ『ニッポンに蒸気機関車が走った日』西郷隆盛は鉄道敷設に反対だったようで、「莫大な資金を他の事に当てるべき、西洋の真似をすることだけでは日本の発展はない」など、『南洲翁遺訓』からの引用など紹介もあった。品川の海上築堤跡の保存についても意見が様々な昨今にも関係ある内容。琉球王子(伊江王子の名は初めて知った🤭)の話も出てきた。とりあえず、記録として。南洲翁遺訓や海上築堤など

  • 五代友厚命日は、祖母の実母の命日

    いつもご覧いただきありがとうございますさて、大河ドラマ「青天を衝け」では、朝ドラ「あさが来た」でも演じたディーン・フジオカさんが再度キャスティングされて話題になっている五代才助、五代友厚ですが、今日は明治18年に亡くなった五代様の命日でした。明治18年(1885年)、五十一歳(満49歳)東京・築地の別邸にて病没これまでにも書いていますが、改めて画像をアップして、遺徳を讃えたいと思います。↑泉町の泉公園にある五代友厚の銅像(2016.1月撮影、2019.9月に画像フォルダ入れ)『五代友厚公の命日に誕生地を訪ねる』(2019.9.25記事)公園になった五代友厚誕生地(2017.1月撮影、2019.9月に画像フォルダ入れ)『五代友厚誕生地、憩いの公園に』(2016.9.29)工事着工前と工事中の画像(2016.9.2...五代友厚命日は、祖母の実母の命日

  • 実方の別府家と川上家

    トップ画像は『敬天愛人』第37号p.205より9月24日は、明治10年(1877年)に城山で西郷隆盛らが終焉を迎えた日。今日はニュースでもFBでも、#西南戦争関連の記事を多く見かけました。自分でもちょっと整理するために関連事項を書いてみます。#桐野利秋が#別府晋介の従兄だと云うことはよく知られているけど、別府晋介と兄・別府九郎の父、別府十郎の姉・スガが、同じ実方の桐野兼秋と結婚し、二男として利秋が生まれた。(『敬天愛人』第14号1996年9月24日発行より)関連記事『桐野利秋の実像は?』('18.9/9)『桐野利秋生誕地』('18.1/22)←※と書いておきながら、FBにしか記事を書いていなかったことに気づく!あとで記事をアップしてリンク貼る予定です別府晋介の兄、別府九郎の墓石。(墓所の画像は全て、2011年7...実方の別府家と川上家

  • 古地図で遊ぶ(3)ー城山~南泉院~新照院~西田橋~南林寺

    ☆トップ画像はNo.33古地図遊びの最終回です2008年1月23日に上町のバス停にあった古地図を撮影しましたどうぞお楽しみくださいなお、ご感想のコメントは大歓迎ですが、「画像にある〇〇家について」など詳細等を質問されても全く詳しくないので何卒ご了承くださいNo.41No.34No.40No.35No.37No.38No.39上町のバス停にあった古地図をご紹介しました(2008年当時ですので、現状はわかりません)いかがでしたか?では〜古地図で遊ぶ(3)ー城山~南泉院~新照院~西田橋~南林寺

  • 古地図で遊ぶ(2)ー城山~南泉院~藩校造士館~明時館

    眺めて楽しむ古地図遊びです2008年1月23日に上町のバス停にあった古地図を撮影しましたどうぞお楽しみくださいなお、ご感想のコメントは大歓迎ですが、「画像にある〇〇家について」など詳細等を質問されても全く詳しくないので何卒ご了承ください地図の中央、城山からいづろ(石燈籠)、海に向かった範囲No.33No.42No.36No.37No.38次回は↓こちら側へ。No.34古地図で遊ぶ(2)ー城山~南泉院~藩校造士館~明時館

  • 古地図で遊ぶ(1)ー福昌寺〜浜屋敷

    上町のバス停にあった古地図、結構楽しめるので、並べてみたいと思います。眺めて楽しむ古地図遊びです2008年1月23日に上町のバス停にあった古地図を撮影しましたどうぞお楽しみくださいなお、ご感想のコメントは大歓迎ですが、「画像にある〇〇家について」など詳細等を質問されても全く詳しくないので何卒ご了承ください全体が収まった画像↓No.28No.26No.27右上、福昌寺のあたりからNo.43No.30No.31No.32古地図で遊ぶ(1)ー福昌寺〜浜屋敷

  • 名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(7)

    今日は「秋分の日」ですね鹿児島は気持ちのいい快晴ですここまで長々とシリーズ化した上町散策ですが、結局のところ、2008年1月23日のこの日、名越家の屋敷跡を確定するには至りませんでした。(前回はこちら→『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(6)森有礼誕生地』)とはいえ、上町巡りの続きを書いておかなくては春日神社の前の森有礼誕生地を後にして、細い路地に入ってみました。この地図↓には春日神社の表示がないけど、春日交番から北へ向かい、左手の斜めに入る路地です。いい感じで苔むし年季の入った石垣だったので思わずパチリで、元の「名越家」があったあたりに戻り、空き地になっている場所を少し覗かせていただきました。中へは入れません↑↑『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(2)重富島津家屋敷跡』でアップした画像の逆サイド↓からの絵です...名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(7)

  • 名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(6)森有礼誕生地

    今回は、森有礼の誕生地です春日神社の道路を挟んだところにあります。今、2021年の今画像見て気づいたけど、↑「春日小路」ってありますね2008年1月23日の時点では知る由もなかったのですが、実は、私の曽祖父・轟が妻子ともに養子となり家を継いだ家がほぼこの辺りで、「森有礼誕生地」の隣にあったようなのです。(古地図にて確認しました)(上の地図では森有礼誕生地の上隣)「森有礼」については‥‥、特にここで書くことはありません名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(6)森有礼誕生地

  • 名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(5)薩摩水軍軍港跡

    今回は、前回の春日神社にも関連する話13年前に散策して知ったのですが、(画像は全て2008年1月23日に撮影)春日神社があるこの地が、戦国時代は軍港であったことが分かる石碑をご紹介します。と、その前に、春日神社の周りの石塀に、あるものを発見!丸に十文字が刻まれていましたよこれがどういったものかはわかりません。もしかしたら軍港だった場所であることと関係するのかな?と思っていましたが、今考えると、前述の説明板にあったように、(これクリックしてね→)島津家藩主が折々に参詣する鹿児島五社神社の一つだからかもしれませんね。こちら↓が「薩摩水軍軍港跡」の碑です。石碑には「薩藩」って書いてあるけど説明書きには「薩摩水軍軍港」となってる。戦国時代にはすでに港が築かれたから、ということですかね。「三國名勝図会」(鹿児島県立図書館...名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(5)薩摩水軍軍港跡

  • 名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(4)春日神社

    2008年1月の上町散策です(前回はこちら→『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(3)』)重富島津家屋敷跡から東へ向かい、角を曲がって北へ向かうと、ぐるっと回り込むような道があり、その先に春日神社が見えて来ます(上の地図には表記がありませんが‥‥)道路を挟んで眺める春日神社です。春日神社の敷地にもある石碑がありますが、それはまた次回に名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(4)春日神社

  • 名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(3)

    2008年1月23日の散策、画像整理ついでと言ってはなんですが、記憶の掘り起こしが続いております。お付き合い頂き、ありがとうございます前回『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(2)』で重富島津家屋敷跡まで出てきた後、北に向かいました。ここで、この通りの名前が「南洲門前通り」と判明↓画像奥が少し高くなっていて辿って来た道。少し下って来ました。ここから春日神社に向かうのですが、「歴史アメニティ回廊」とあるこの表示は角を曲がったところにあったと思います(曖昧)そこには上町の歴史を詳しく説明する掲示がありました。「鹿児島発祥の地・上町(かんまち)」です。鹿児島の発祥の地、なのですね、上町は南方神社奉納「恵比寿踊り」(尚古集成館蔵「倭文麻環(しずのおだまき)」より)「鹿児島五社と三ヶ寺(さんかじ)」鹿児島五社は「南方(みな...名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(3)

  • 名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(2)

    今日もご訪問ありがとうございます秋分の日も間近、朝夕はいくらか過ごしやすくなってきましたねさて、2008年の上町散策の続きです。『名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(1)』の最後に「左源太の遠島処分」とあるのは、嘉永三年(1850年)の「嘉永朋党事件」、いわゆる島津家のお家騒動で「お由羅騒動」ともいわれるものです。あまり大きな声で言いたくはないのですが(汗)、左源太の別邸(野屋敷)が密談の舞台となったというもの。左源太は屋敷を貸したものの連判状に署名しなかったこともあり、遠島処分で済んだのだろうということだそうですが、それだけじゃない複雑な事情もありそうです。それはともかく、大龍小学校の前を通り、「名越家」の角まで来た私たち親子この角地も屋敷があった場所なのだろうか?と手がかりもなくウロウロ(怪しまれなかったか知...名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(2)

  • 名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(1)

    前回に続き、2008年1月23日に散策した鹿児島城下の上町の画像です。(当然ながら、画像は全て13年前に撮ったものですので御了承下さい)まずは、当時大河ドラマ『篤姫』の放送でにわかに注目を浴びることとなった、篤姫の実家、今和泉島津家本邸跡を訪ねることからスタートしました。付近の様子。「上之馬場(うえんばあ)」と表示がありました。この↓右手が屋敷跡。この屋敷跡の向こうにバス停があり、先ずは地図をたっぷりと写真に収めました(堪能♪)バス停に到着。大きな古地図をじっくり見てみます。「今和泉島津家本邸跡」の説明書きバス停前には古地図のパネルが二つもあったので、ここで色々と確認します。「名越家」は、篤姫のご実家のご近所でした。お向かいは重富島津家のお屋敷。ただ、名越家のはっきりした場所は、この時点ではわかっていませんでし...名越邸跡を探しつつ上町の散策にー(1)

  • 若宮神社の恵比寿さま

    若宮神社の画像、改めて眺めていて気づいたことなどを書いてみます。以前、記事に書いていますが、『若宮神社~篤姫生誕地~春日神社界隈を散策(mixi日記より)』(2008.1.25カテゴリー「若宮神社」)何となく気になって撮っていた恵比寿さまがありました(↑トップ画像)なぜ若宮神社に恵比寿さまが?と思って、「若宮神社由緒沿革」を読むと、明治初年までは「若宮八幡宮」と呼ばれていたようです。(参考までに)→「八幡宮」「神社の分類と神様の系統」祠の横、この左側の石塔↓の中に居られますフォトチャンネルも作ってはいたのですが、ブログ記事としては画像が少なくて不完全燃焼というか、画像を紹介したりなくて改めてアップしたいと思ったのです「若宮神社」は画像上部中央↓近くには春日神社もあります。こちらはまた次回に若宮神社の恵比寿さま

  • 庭の四季 2021 9月

    いつもご覧いただき、ありがとうございます今日はここで少し趣向を変えて今の時期の庭の画像などを並べてみようと思いますこちらの塀側には朝日が当たらないので、デュランタが今頃になって咲いています。咲いた後は黄色い数珠の玉のようになります。こちらでは季節外れの紫陽花が咲いています。母が好きだった(と思う^^;)アメジスト・セージ。いつの間にか庭から無くなっていたので、苗を買ってきて直植えにしたら大きく育って花をつけてくれました。これはアメリカ芙蓉、かな?(真ん中に伸びているのは花海棠の幹)紅葉も少しずつですが色づいてきました。金柑の木、思い切って剪定したら、いつの間にか緑の葉が繁ってきました。大きく繁って剪定するのも大変だった銀木犀も6月にバッサリ切り戻してもらいましたが、その頃からするとだいぶ枝葉が蘇ってきました。←...庭の四季20219月

  • 9月、命日と誕生日もいろいろ

    5年前に作った「家族・先祖の生没年月日専用ダイアリー」↓ですが、『2016年4月のあれこれ及び、先祖の生没年月日専用カレンダー式手帳完成!』(2016.4.23)今も役立てています。で今月、9月には誕生日や命日が割に多いのです。7日は、父の長姉の命日(2009年、96歳没)で、15日は町田久成(一時期曽祖父の次姉の夫だった)の命日だったり、同日は父の伯母(明治9年生まれ、吉野・実方の川上家)の誕生日だったりします。また、22日は伯母(父の義姉、旧姓津曲、1984年没)の命日24日は曽祖父・轟の実兄・名越時成(なごやときなり薩摩藩英国留学時の変名:三笠政之介)の誕生日(弘化四年=1847年生まれ)さらに江戸時代の旧暦ながら、第22代・島津継豊公の命日が九月二十日(宝暦十年=1760年、磯別邸に没、六十歳)その父で...9月、命日と誕生日もいろいろ

  • 父の没後100日目の墓参とワクチン接種

    今日は2回目のワクチン接種の予約日。午後2時半に予定していたので、それまでに父母の墓参りに行ってきました。少し雨に降られたものの、無事済ませてワクチン接種会場へ。9時間経って、別段変わりはなく安堵しています。昨日は昨日で、父の次兄が建てた、曽祖父母以下が眠る父方の先祖の墓へ。市営墓地ですが、がけ崩れの跡らしきものが見られました。ブルーシートをかけてあったので目についたのですが、我が家の先祖が眠る墓所からは少し遠く、どの程度か、道路を通れるのかはわかりませんでした。市内の北部、遠くの方では雨の柱も見られました。帰る頃にはすっかり暗くなってしまいました^^;古い墓所なので、法面の蔦がひと月の間に伸び放題!次は鎌と鍬を持って草刈りに励まなくてはならないようです‥‥。お盆の頃には墓所の方で法面もカットされていたのですが...父の没後100日目の墓参とワクチン接種

  • 西郷家墓地へ(2018.3.9)

    前回記事で、石敢當(せっかんとう)の画像を探していたら、この写真を撮った2018年3月9日の出来事をブログに書いていないことに気づきました。なぜかな?と考えるに、この頃はあちらこちらを探索し、画像処理や記事のアップで忙しく、このブログでも2018年3月をチェックすると、だいぶ前に幾島様のお墓を訪ねたことをアップしていたり→『幾島君招魂墓(鹿児島市)』FBでもその日あった出来事をアップしたりと、とにかく忙しかったようです(笑)で、3年前の3月、この日は父と、市内の常盤町へ西郷家墓地やその他気になっていた石碑などを探しに出かけたのでした。ちょうど大河ドラマ『西郷(sego)どん』が放送中でもあり、墓所があると聞く常盤町は、小さい頃に母の妹家族が住んでいたし、兄弟揃って書道教室へ歩いて通ったりして昔から馴染みのある場...西郷家墓地へ(2018.3.9)

  • 石敢當(せっかんとう)から都城島津家、更には北郷氏へ

    いつもお読みいただき、ありがとうございます(画像は以前、鹿児島市内の常盤町で写したもの)さて、FBの歴史を語るグループで昨日話題に上ったのが石敢當(せっかんとう)でした。沖縄や鹿児島ではよくみられるもので、「中国から入ったのでは」とか「琉球から」と話題になったことから、私は「唐人町」のある都城あたりも関係するのでは?と、以前購入していた佐々木綱洋氏の『都城唐人町』や『都城島津家墓地』をめくってみたのです。すると、前回書いた北郷家について、『都城島津家墓地』の冒頭、第1章第1節に「北郷氏と都城島津家」と題して詳しく書かれていました。ただ、以前は「和泉(今和泉)島津家」に関するところに興味があり、北郷家については気になりつつも、詳しいところまでは読んでいませんでした。北郷家は川内の平佐北郷家もありますが、都城島津家...石敢當(せっかんとう)から都城島津家、更には北郷氏へ

  • 島津氏と北郷氏と禰寝氏の沼へ

    昨日はちょっと歴史沼にまたハマってしまってアップアップしていました。Wiki情報ですが、「広大院(茂姫)」の母親で、島津重豪の側室「慈光院(市田氏お登勢の方)」の弟、「市田盛常」から始まって、重豪から「近思録崩れ」「樺山久言」→「島津忠貫」→「島津忠紀(重富家)」→「島津貴儔」☆貴儔の娘・都美は島津久門(のちの重年)の正室。第8代藩主・島津重豪と「佐土原藩主・島津忠持」の外祖父、及び第11代将軍徳川家斉の御台所・茂姫の曽祖父にあたる。(Wikiより)で、「島津忠持」…日向国佐土原藩9代藩主。島津宗家の島津重豪の従弟であり、義理の甥である。→その父「島津久柄(ひさもと)」また、島津重年は島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、加治木島津家当主・島津久季の養子となる。なお、継豊と母・登免(○松院殿)との子は重年(幼名...島津氏と北郷氏と禰寝氏の沼へ

  • 『古の遺愛』繋がりで「伊集院俊矩」の名を知る

    先日、当拙ブログのアクセス状況をチェックすると、「アクセスされたページ」の中に『「古の遺愛」とは?』が上がっていたのです。記事の中の何かが検索でヒットしたか何かなのでしょうけど、何を書いていたか自分でも見直してみたんです。で、ここに貼ってあったリンク先を久しぶりに読み直してみたところ、最初の項「一「古の遺愛」について」にあった「伊集院俊矩」という人物が気になったわけです。この伊集院俊矩という人は「宗信の傳育役」で、「その事績を収録した「伊集院俊矩言行集」も篤烈(=名越左源太時敏)は書写している」とありました。そこで「伊集院俊徳」で検索したところ、『第七部鹿児島の金石文』という、鹿児島市のHPの史料がヒットしたので、このPDFのどこにこの名前が載っているのか探してみました。すると、ページ「七六一〜」の「17.福昌...『古の遺愛』繋がりで「伊集院俊矩」の名を知る

  • 浄光明寺と南洲墓地 in 2018

    今日もご覧いただきありがとうございますさて、これまで島津吉貴公や竹公園のことは記事にアップしていましたが、☆郷土史探訪の日々<1.西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)☆西郷南洲顕彰館と竹公園☆「西村天囚」からの「島津吉貴の時代」先日の南日本新聞の桐野作人さんのシリーズ記事『かごしま街道見聞記』【29】で、「浄光明寺」の名前が上がっているのを知り、このブログ内で検索してみたところ、2017年6月25日の『西郷南洲顕彰館と竹公園』の1件だけでした多分FBでアップしたことで、このブログにも残したつもりでいたようですと、いうことで、今頃ですが3年前に訪ねた時の画像をアップしたいと思います画像は全て、2018年3月30日撮影浄光明寺、場所はどこかというと、南洲顕彰館の駐車場から南洲墓地の入り口鳥居へ向かう途中、...浄光明寺と南洲墓地in2018

  • 歴代藩主の母親は?

    いつもお読みくださって、ありがとうございます※トップ画像は何年か前の曲水の宴を見に行った際に撮った仙巌園からの桜島さて、これまでに随分と限定的ながら島津のことなど一通り書いてきたので、もう書くこともあまり無いかな〜と思っていたのですが‥‥。ひょんなことから、俄然、書きたいことが出てきたのです今朝、目が覚めて何となく考えたのが、鹿児島で名越家を起こすきっかけになった、お須磨さん(月桂院殿)と吉貴公のことや、嫡子・継豊公のこと、それから重豪公の母・都美さん(正覚院殿)が継豊公の弟・島津貴儔の娘であり、貴儔さんもまた、お須磨さんが産んだ子であること、などなど、これまでに知り得たことの思い起こしでした。※画像は随分前にメモしたものです。文字がひどいよくよく考えるとそれまで読みこなせずにいた『島津貴久』(新名一仁著)を改...歴代藩主の母親は?

  • TOKYO2020が終わる

    PCでご覧の方で、文字が読みにくい時は枠外左の「文字サイズ変更」の「大」をクリックしてくださいね。さて、今日でオリンピック競技も終わり。父が亡くなって2ヶ月、東京オリンピックがあることで随分救われたかも知れない。思えば、6月は諸々の手続きで過ぎて行き、7月に入ると大相撲中継が始まった。いつも父とテレビで楽しんでいたけど、習慣的にもひとりで観ていても楽しめた。で、その大相撲も千秋楽だなぁ‥‥と思っているところで東京オリンピックが始まった。特に注目している競技があったわけではないけど、ひとりで居ても気が紛れたことも確かだし、元来スポーツ観戦は好きだからどの競技も興味深く楽しめた。日を追ってオリンピック競技でいろんな選手がそれぞれに頑張っている姿を目にして、元気をもらえた。ソフトボールの日本優勝、卓球混合ダブルスの優...TOKYO2020が終わる

  • リモート中継で五十日祭

    先月の記事で「これまで本当にありがとうございました」と書いたので、もしかしたらこのブログも終了?と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。父が亡くなって50日目の先日、自宅にて五十日祭を行いました。母の十年祭(12年前)の時の神主さんにお願いして、無事に父も神様になりました。☆神棚の下の犬・猫のカレンダー写真は父のお気に入りでした(笑)これからは母や先祖の皆さんと一緒に家族の暮らしを見守ってくれることと思います。ところでこの五十日祭の時に、初めてリモート中継を経験しました。義妹が「リモートで参加しますね」と言ったのがきっかけで、どうすればリモート中継できるのか聞いたらメッセンジャーが使えると弟から教えてもらい、前日になって試してみてぶっつけ本番で、県外で離れて暮らす兄と弟夫婦と一緒に祭祀に参加することが出来て...リモート中継で五十日祭

  • ドルフィンポートの思い出、再び

    前回の投稿、父の画像を探す中で、昨年の今頃の記事を目にしたのです。『ドルフィンポートの思い出と、古地図遊び♪』(2020.6.19)鹿児島の市民・県民、県外からの観光客の皆さんの憩いの場だったドルフィンポートも今はもうありませんが、ぜひ、有効活用して欲しいところです。貝汁、美味しかったなぁ♪‥‥って、去年の記事でも書いてあった(笑)ドルフィンポートの思い出、再び

  • 皆様にお知らせです

    いつもお読みいただき、心より御礼申し上げます先月いっぱい『都見物日記』の再度のご紹介を続け、一段落したところでした本日でちょうど二週間が経ちますが、去る6月9日未明、父が他界いたしましたあと20日で95歳の誕生日、という日の午前3時前、家中で倒れ救急搬送搬送中もさまざま手を尽くしていただきましたが、搬送先の病院で午前4時16分、死亡が確認されました突然の病死(腹部大動脈破裂)でした翌日、家族葬にて静かに送りましたこれまでのご厚情に感謝致します昨年の今頃、父と史跡巡りをした際のことを記事にしていますので最後にご紹介してご報告を終わりますこれまで本当にありがとうございました『皇徳寺跡2020』『高祖父・名越左源太泰藏の命日に、皇徳寺跡へ再び』☆なお、今回のカテゴリーは「ある日の父の問わず語り」としましたお時間のある...皆様にお知らせです

  • 神戸から鹿児島へ

    いつもお読みいただき、ありがとうございますさて、「4月17日鹿児島を出帆」してからひと月と十日余り、長い旅の最後に鹿児島へ帰るイサさんたちです☆「5月28日三原氏母様も一緒に鹿児島へ」☆「5月29日船旅は、行きも帰りも・・・」☆旅の終わり昨日28日、新型コロナのワクチン接種の、父の分の予約をネットで取れました♪ちょっとのんびりし過ぎて、1回目は7月14日、2回目は8月4日となりましたが、一応ほっとしています神戸から鹿児島へ

  • 美濃丸にて帰りの船旅へ

    神戸滞在も最後となり、朝から色んなかたがおいでになったようで‥‥☆「5月26日神戸最後の夜に・・・」まずは朝方「青山と申すお方」がお話に来られ、「鈴木信弥と申すお方」も暫くお話し、九時過ぎに帰られ、程なくして「三原母様」が「西村時彦様」と御出でになり、お昼に食事・お酒などご一緒された後、午後二時には西村時彦様がお帰りになった翌日、翌々日の日記を読んでいくと、三原のお母上はイサさん達三人と一緒に鹿児島へ向かうので、西村時彦さまが送って来られた、ということだったようですね。この日はこの後も、三時過ぎには楠公社あたりを散歩なされ、雨が降ってきたので早めに宿へ戻ると、「上(カミ)の納屋の上の田尻様」も御出でになった。夕飯はこの宿で四人で食べ(ということは、イサ、イサのお姑さん、轟、三原の母様(轟の義母)の四人)、ゆっく...美濃丸にて帰りの船旅へ

  • のさん、のさん

    今日の『都見物日記』紹介は二本立て〜☆「5月24日宿屋増元、長崎の小間物屋さん」ここにも「西村時彦様」が出てきてるしw☆「5月25日神戸へ移り、布引瀑見に出掛け候」大坂に5泊して、イサさんたち三人は神戸へ移動しています令和3年の今日25日は火曜日で、何かと気忙しい雑用ばかりなり本当にのさん、のさん‥‥、でした本日はこれまで、のさん、のさん

  • ひと月ぶりに大坂で過ごす(明治の旅日記)

    今朝はだいぶ気温が下がって最低気温が14.2℃だったのには驚いたそれでも日中は気温が上がったようで27.2℃天気も良くなってやっとナスタチュームとスイートマジョラムを鉢植え出来たのでほっとしました写真撮ってないのでその画像はありません〜明治の旅日記『都見物日記』です昨日の記事で、「西村時彦」で検索しても記事が見つからなかったと書いたけど、今日の23日の日記に早速それを覆すことが載っていた(自分で書いたのにw)☆「5月23日今日は三人で大坂見物」その記事がこちらですひと月前に大坂で過ごした時の日記(タイトルにも入ってるしw)※「4月22日大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」(2020-04-22)あと一週間の旅日記ですひと月ぶりに大坂で過ごす(明治の旅日記)

  • 西村時彦さん

    いつもお読み頂きありがとうございます『都見物日記』です20日に大坂入りして宿屋「増元」泊、翌21日には久々に「三原氏母様」にもお会いしました→「5月21日和田すみ殿と再会、三原氏母様とも久々にお目にかかり上げ」☆「5月22日昼間はお買物、夜は西村時彦さん方へ」この日、西村時彦(ときつね)さん登場この日以前に書いた記事を探してみたら、『都見物日記』ではこの日が最初(この後5月28日の日記にも登場します→「5月28日三原氏母様も一緒に鹿児島へ」)そうだった?西村時彦=西村天囚西村天囚では2018年、2019年にも書いていた。ということで、以前書いた記事を並べてみます「古の遺愛」とは?(2018-02-15)カテゴリー 名越左源太と家族「西村天囚」からの「島津吉貴の時代」(2019-03-05)カテゴリー 第21代藩...西村時彦さん

  • 『明烏』つながり!?

    いつもお付き合いいただき、ありがとうございます『都見物日記』もいよいよ関西編に☆「5月20日神戸、そして大阪へ」☆「5月21日和田すみ殿と再会、三原氏母様とも久々にお目にかかり上げ」ところで21日の日記に出てくる文楽『明烏(あけがらす)』ですが、先日の『鶴瓶の家族に乾杯』(大河ドラマ『青天を衝け』所縁の埼玉・深谷の回)で笑福亭鶴瓶師匠が、故・立川談志師匠が落語会を開いた老舗旅館を訪ねるシーンがありました偶然にも、演目に『明烏』(談志師匠だったか古今亭志ん朝かは失念)が並んでいたのを観たのでした立川談志/明烏『明烏』つながり!?

  • 東京滞在も今日で終わり(明治の旅日記)

    今日はのち、深夜になり『都見物日記』、予定では17日出立でしたが、イサさんの長男・久良殿がお見えになり、この日は一日ゆっくり過ごされた模様以下、19日までの工程☆「5月17日久良さんと永岩さんと」イサさんたち、長かった東京滞在を終え、汽車で横浜へ移動☆「5月18日東京を離れ、横浜の蓬莱屋に一泊」横浜からは、帰郷途中に大阪を訪ねるために船に乗ります☆「5月19日新潟丸で横浜出帆」令和3年の日記17日の月曜日、朝顔の花が小さく咲いていた鉢植えのはまだ蕾→雨の止んでるうちに、ニオイスミレを鉢植えと地植えに19日、今日は苔むした庭を小ぎれいにしたくてホームセンターに行って平レンガを買い足してきた雨が降らない時を見計らって作業予定じゃ、また書きます〜東京滞在も今日で終わり(明治の旅日記)

  • 東京を離れる日も近くなり‥‥(明治の旅日記)

    令和3年の今日のお天気は時々、夜になってまたでした今日の『都見物日記』は2回に渡って5月16日の日記なので、同時リンクです☆「5月16日島津お染様、佐原芳殿、お出でにて」お二人ともそれぞれにおみやげ物を下さってるんですよね。最初読んだ時にはなんでだろう?と思ったのだけど、「第七章」にある17日の日記でわかりました。☆「5月16日(続き)芳殿、吉村お仙殿、そして久良殿との再会に!」そういえば、15日の日記にも「九良賀野辰彦さんお出に相成り、已(※スデ)に御出発が近寄りはせぬかと思うて参りましたとの事」とありましたものね今日は雨が上がってる間に、随分前に買っていた花の苗をようやく植えることが出来た←ニオイスミレでも、まだハーブの苗が残ってる〜梅雨があまりにも早くやって来たので大変です‥‥やれやれでは、また明日東京を離れる日も近くなり‥‥(明治の旅日記)

  • 向島、増上寺、辰様と銀座の千歳へ(明治の旅日記)

    今日は一日中でした九州北部、四国、中国地方まで梅雨入りで、3週間早いとか言ってましたね〜まずは『都見物日記』です両日とも轟は電信の事で出かけています☆「5月14日向島、堀切の菖蒲、桜馬場」向島の辺り、桜馬場、堀切の菖蒲の所には数寄屋風の座敷もずら〜っと並び、景色も最高だったようですね去年このリンク記事を書きながら、ガイドブックを読んでいたら「向島百花園を造園した人が骨董店経営の「佐原何某」という名前」だったことに驚いたのですが、果たして5月6日に登場する「佐原芳どの」と何か関係あるのでしょうか??☆「5月15日増上寺黒本尊前の通りでお買い物、夜は辰様と銀座の千歳で」これを書いて、後日「堂の前」が判明しました「辰様」=九良賀野辰彦さんは、イサ、轟姉弟の従兄弟。5月2日に登場→『「5月2日新橋松元屋から京橋区加賀町...向島、増上寺、辰様と銀座の千歳へ(明治の旅日記)

  • 5月11日 令和3年は入梅、13日には有川様と鰻を戴く(明治の旅日記)

    まずは『都見物日記』です5月11日、12日は一泊二日の日光山社参詣☆「5月11日上州日光山へ参詣」9:20京橋の宿屋から馬車で上野停車場まで→汽車で宇都宮まで→馬車で日光まで夜9時に宿屋・神山へ着く☆「5月12日日光より宇都宮まで参り〜東京へ帰る」お天気良く宿屋・神山を早くに出ると、9時には日光を見学・参詣(12時ごろまで)日光までの道中も、両脇の杉木立ち、6〜7里(約24~28km)は松・杉も素晴らしく実に感心されたご様子その後少々雨模様日光の宿屋・神山へ戻り、昼食を摂るとすぐに馬車で宇都宮まで→午後4時には宇都宮の停車場から汽車で上野停車場まで夜7時過ぎに上野着、馬車で新橋まで、そこから三人連れで歩いて宿屋へ戻る昔の旅は大変そうだけど、その分じっくり旅気分を味わえそうです。コロナ禍の現状ではまだまだ難しいで...5月11日令和3年は入梅、13日には有川様と鰻を戴く(明治の旅日記)

  • 5月10日は御祖先のお墓参り(明治の旅日記)

    今日は一日2回、叔父のアルバムなど、重い荷物運びで疲れました〜残りは明日。明日で何とか区切りつけられそうです今日の「都見物日記」〜☆「5月10日泉岳寺、大円寺、浅草の観音へも参詣」東京訪問中のイサさんたち三人は、泉岳寺で大圓寺の名越家御祖先の墓を訪ね、草取り掃除をしてお参りしています。また、その少し下にあるという「筆どのの子供の墓」もお参りしています。浅草観音参詣や、見世物小屋で熊や人魚(!?)、お花などもみて回り、花や野菜の種なども購入した模様。では令和3年の今日は?BS放送で「プレミアムカフェ」を観ていたところ、キナノキから抽出されるキニーネがマラリアの特効薬であることを紹介していたので、思わず田代安定を思い出しました。↓こんなサイトの記事を見つけました「カルチベ-農耕と園藝ONLINE」私も田代については...5月10日は御祖先のお墓参り(明治の旅日記)

  • 5月9日は手紙つながり、ってことで

    今日は黄砂の飛来も?(トップ画像は庭で見つけた金蛇(トカゲ)さん)明治23年の旅日記はというと、、☆「5月9日轟殿は博覧会へ、佐原芳どの、山井於時様、永岩直次郎さんもご来訪」息子の精一殿から永岩直次郎さんへの手紙で、イサさんに「早く帰って来るように」と書かれていたようですこの回は「山井於時様」も「永岩直次郎さん」も気になるところですが、カテゴリー〈「都見物日記」番外編〉で改めて書くことにして今日は、亡くなった叔父が大事に保管していた古い手紙類を昨日持ち帰ったので読んでみたのですが、なんと!叔父が小学生だった頃の友人達からの手紙の束でした中学校が別々になってもやり取りしていたようで、その後高校、大学へ行ってもやり取りが続いたようです。それだけに、叔父にとって大事なものだったんでしょうね〜明日はまた叔父の部屋の片付...5月9日は手紙つながり、ってことで

  • 上野博覧会から九段坂招魂社へ(明治の日記)

    本日の『都見物日記』は☆「5月8日上野博覧会、美術館、九段坂招魂社」九段坂って、あの日本武道館が近くにあるんですね!今の今まで知らんかった〜九段といえば、前の記事で書いた亡き母の弟は、武蔵野音大を卒業後、九段中学校と茗荷中学校で音楽講師をしていました。その教え子に、声楽家の鮫島有美子さんがいらっしゃいます。「鮫島有美子」オフィシャルサイト「日本コロンビア」のプロフィール素敵な方だなぁと以前から思っていましたが、叔父から「中学校の時の教え子なんだよ」と聞いたときには驚きましたすぐには信じられませんでしたが、大事にとってある年賀状やお手紙、LPレコードやCDなどを見るうちに、鮫島さんが大成されて光栄で幸せなことだったんだろうなぁ、と感慨深いものがありましたでは〜上野博覧会から九段坂招魂社へ(明治の日記)

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