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ゆきのおと Yuki's Note ♪
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https://blog.goo.ne.jp/yuki_bins35
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名越左源太翁(なごや さげんた)の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史☆記事・写真の転載禁止
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129回 / 365日(平均2.5回/週)

ブログ村参加:2017/03/18

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名越 幸(なごや ゆき)←本名ではありませんさんの新着記事

1件〜30件

  • 五輪塔板碑だった!

    ずいぶん前に行った鹿児島市吉野実方の「御内用方」の跡に、気になる物があったのです。屋根の形をして、丸い模様や二つの塔のようなものが彫られた平板な石碑のようなものです(↑トップ画像)。『「実方(さねかた)というところ」mixi日記より』その時にはよくわかっていなかったのですが、クマタツさんのブログによく似たものを見つけました!「本立寺跡」の記事内の画像ですが、「五輪塔板碑」というのですね、これ!(トップ画像↑)『島津家廟堂を訪ねる』勉強になります〜♪五輪塔板碑だった!

  • 本立寺跡へ、ちょこっと福昌寺へ

    ちょっと日数が経ってしまいましたが、アップするのを忘れていました先週火曜日、23日に「本立寺跡」を訪ねてみました。事前に他の方のブログ記事いくつかを参考に。そのひとつ、九州下町おやじさんのブログ『本立寺跡(島津家5代墓所)と、奈良原助八殉死の地と~鹿児島市の史跡』、そしてもちろん、クマタツ1847さんのブログも参考にしました→『島津家廟堂を訪ねる』なので、リンク先をご覧いただくと同じような画像になってしまいますが、、、。扉が閉まっていて遠くからのズームなのでうまく撮れませんでした。。それと、この日はもう一つの目的がありました。「調所笑左衛門広郷」さまの刻銘が「島津重豪公のお墓の後ろ側の献灯にもある」と、FBFにさせていただいている調所様直々に以前教えて頂いたのです。「ここだよん♪」とでも言っているような三毛猫さ...本立寺跡へ、ちょこっと福昌寺へ

  • 島津直江久敬でコンプリート~!!

    いつもお読み頂きありがとうございますこれまでカテゴリー『「爲惠祥院殿菩提」石塔』でいくつか書いてきました。最初の記事は、2016年12月20日『名越右源太篤烈とは?』この石塔に刻まれている名前を調べていましたが、最後までわからなかったのが、画像左の「島津直○久○」でした昨夜、別件で『島津家家臣団系図集』を見ている中で、市成島津家「土岐氏本家」(主水家)一所持」の久浮(23代?)の娘が「初二階堂蔀行経室後島津直江久敬室」と書かれているのに目が止まったのです(野田さん、女性の情報まで載せて頂き、ありがとうございます!!)以前書き留めたメモには「島津求馬家」5代・島津久憑の次代に「久敬」の名前があり、「愛之助直江(早世不継家督)」とあったのですが、「早世」を「夭逝」と同意だと思い込んでいたため、「これは違うかな」と判...島津直江久敬でコンプリート~!!

  • 寺山源右衛門家

    今日は父方祖母の実父、寺山用之の命日でした。昭和16年(1941年)なので、来年は没後80年になります。昨年、『曾祖父・寺山用之の命日と曾祖母の名前』を書いた時点では分からなかったことも少しずつわかってきました。昨年7月には除籍謄本を取り、曽祖父・寺山用之の兄が「寺山用信」であり、「寺山源右衛門」を継いでいること、明治20年9月7日に兄から戸籍を相続している事などもわかりました。(昨年9月25日の記事『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)』)また、同じ稲荷馬場町の町田藤蔵の長女・スキと結婚したこと、子供は3人だったこと、長男・用麿は明治21年に生まれ、大正9年に小倉市で亡くなっていること、長女・節は明治25年に生まれ、妹より3年後に清水町の肥田木氏と結婚していること(その妹が次女・ふく、私の父方...寺山源右衛門家

  • 水上の野元彦十郎様も

    またまた『【第1話】永吉の九良賀野辰彦様と水上の野元彦十郎様』からのお話。東京でイサと轟に会いに、従兄弟の九良賀野辰彦様と一緒に宿を訪ねて来られた「水上の野元彦十郎様」についてわかったことがあります数日前のこと、別件で例の『島津家家臣団系図集』をみていたところ、島津登家の系図に「彦十郎」の名前がありました。以前もみてはいたのですが、今日はその下の「野元氏嗣」に気が付き「はっこれは」と思ったわけですということで、左源太の妻・タネの弟・島津久籌の息子が「永吉の九良賀野辰彦」さん、さらに3番目の弟・久馨の三男・彦十郎さんが「水上の野元彦十郎」さんだったようです野元彦十郎様も島津登久包の孫であり、イサと轟の従弟であったようですは〜スッキリしたでも、悲しいかな、彦十郎さんのところに「35歳卒」とありました。。東京で会った...水上の野元彦十郎様も

  • 興国寺墓地を再訪(2018. 5.18)

    いつもお読みいただきありがとうございます2年前の5月、興国寺墓地を再訪したのですが、FBだけに画像をアップしていたのでブログにも記しておきます以下、自身のFBより転載ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー昨日(2018.5.18)再訪したのは、ここ!興国寺墓地でした〜♪☆以前訪ねたのは、もう10年前になるんだなぁ。。↓「"ワイン王長沢鼎"というひと」mixi日記よりhttps://blog.goo.ne.jp/yuki_bins35/e/0cb5632dcb73c3fb4098cad054b468a9車で行っても付近には駐車するところはありません。前に訪ねた時は車をどうしたかハッキリしなかったけど、現地に行ってみて思い出しました。前回も同じ状況で、冷水峠の「びくに坂」の辺りを過ぎてもタクシー以外...興国寺墓地を再訪(2018.5.18)

  • 後醍院真柱(ごだいいんまはしら)誕生地碑

    FBをやっていると、過年の同日の自身の投稿記事を知らせてくれるのですが、自分でも忘れていることが多々あります。この「後醍員真柱誕生地」を訪ねたことも忘れていました。訪ねたのは昨年6月20日でした。以下、1年前のFB記事よりコピペ(一部加筆しました!)「後醍院真柱(ごだいいんまはしら)」通称:彦次郎国学者・大河平(おこびら)隆棟の二男、後醍院良次の養子に従兄がTL(タイムライン)で誕生地碑をアップしていたので「後醍院」という苗字も珍しいなと思い調べてみた。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/後醍院宗重なるほど!後醍醐天皇の子孫で「後醍院」なんですね〜それも「懐良親王」の子孫!☆夕方父と一緒に行ってみたら、草に覆われて石碑が見えませんでした。おまけに説明板も無くなっていて、残念なことでし...後醍院真柱(ごだいいんまはしら)誕生地碑

  • ドルフィンポートの思い出と、古地図遊び♪

    鹿児島市本港区の商業施設ドルフィンポートは、新型コロナ禍の最中、取り壊されてしまった。最後にもう一度、と思いながらとうとうお別れにも行けないままだったので寂しい限りです。(↓ドルフィンポートからの眺めと「篤姫展」の思い出)そんな思い出のドルフィンポートで催された、2008年の「篤姫展」の写真を見ていたら、出口付近にあった古地図を写した画像があって、見比べてみると面白かったのでご紹介貝汁も美味しかったなぁ。。父の同僚でもあった、故・谷川信夫さんの作品展も、昨年ここドルフィンポートでありました。9月19日に行った時に、娘さんともお話することができ、父も昔を懐かしんでいました。ドルフィンポートの思い出と、古地図遊び♪

  • 12年前の画像とブログ記事

    「皇徳寺跡」や「白山神社」で撮った写真を探してる中で、2008年の12月のファイルに、こんな画像があった。桐野作人さんのブログへの私の書き込みでした。日付は「2008/12/21(日)」記念に画像に撮ってたんですね。で、この頃はどんなことやってたっけ?と、ブログ内を探してみたら、こんな感じでした。→「2008年12月のブログ記事一覧」12/12『気がつけば師走』とか、12/24『ネズミがチュ~!(mixi日記より)』とかの合間に書いたものということになりますか。これ↑見ると、2008年の前半の動向がわかります。大河ドラマ『篤姫』放送の年ですね。更には、前年の2007年を振り返って書いた『やっぱり、今年を振り返ることも大事ね。(2007年のmixi日記より)』なんて記事も読めた(笑)今はもう取り壊されてしまったド...12年前の画像とブログ記事

  • 皇徳寺跡 2020

    前回の予告通り、『皇徳寺跡』を再訪した記録です。(無駄に写真撮ってる気もする、けど)←☆小さい画面はクリックすると拡大表示されます大きな岩の下にあった、首のない小さめの石像。これもおそらく廃仏毀釈の影響。←☆小さい画面はクリックすると拡大表示されますもう少し進むと崖の下の竹林で薄暗くなっていますが、すぐにひらけて左手に無外円照和尚、円照の師・峨山禅師の供養塔が並んでいます。←☆クリックすると拡大表示されます更に進むと大きな石塔。「山本親匡(ちかまさ)塔」とありますその角の左手先には‥‥広い空き地に只々雑草が生い茂っていました・・・。以前、2005年11月に来た時も、この空き地を見て「これが皇徳寺跡か‥‥。」と思って帰ったのだけど、歴代和尚の墓もなく、新聞記事の観音様(石像?)もなかったので、腑に落ちないままでし...皇徳寺跡2020

  • 高祖父・名越左源太泰藏の命日に、皇徳寺跡へ再び

    今日6月16日は高祖父・名越左源太時敏(のち明治期に改め、泰藏)の命日明治14年(1881年)5月16日は私の祖父・篤彦が生まれた日。泰藏二男・轟の長男であり、泰藏の孫である。その一ヶ月後に、名越泰藏は亡くなっている。以前にも、左源太の命日関連のことを書いていますが、カテゴリーもバラバラ(爆!)ざっと上げてみると、『没後130年』(2011-06-16)カテゴリー:名越時敏史料『名越左源太のお墓は?』(2017-06-16)カテゴリー:名越左源太と家族『6月の左源太時敏もしくは泰藏』(2019-06-19)カテゴリー:奄美大島と名越左源太↑↑この記事の最後に、「2021年6月16日には「名越左源太の命日、没後140年」」って書いてる。そういうことになりますね。そして、この6月16日は、左源太の二女・筆さんの誕生...高祖父・名越左源太泰藏の命日に、皇徳寺跡へ再び

  • 皇徳寺跡

    ずいぶん前に撮った写真をブログにもアップしておきたくなりましたmixiをやってた頃のものですが、一度退会したので2006年までのものがどのブログにも残していないのです季節が違いますが、2005年11月24日に撮ったものです細かい説明はここではしませんので悪しからず《関連記事》雪見月のブログ『歴史秘話ヒストリア』皇徳寺跡の仁王像と案内板でした。皇徳寺跡

  • 伝・「三條小鍛冶宗近遺跡」

    前回に続いて、2005年12月1日に訪ねた鹿児島市五ヶ別府町三重野(みしげの)の「三條小鍛冶宗近遺跡」です。案内板にあるように、「京の役人、三条小鍛冶宗近が、薩摩国に流されて、この地に住み、刀鍛冶を学んだ」と言われているそうです。ただ、伝わっている、といったほうがいいのかも知れません。以前ネット検索したことがあったので、今回再度見てみたら、コメント欄にクマタツさん(最近ブログを通してお友達になった方)のブログのURLがリンクされていました!「自家焙煎コーヒー「Gaya通信」」さんの2014年5月4日のブログ記事、「伝説が史跡に…?三重野「三條小鍛冶宗近遺跡」~五ケ別府」のコメント欄のトップで、書き込み日付が「2014.6.14」だったので、クマタツ1847さんのブログのその辺りを見てみると、、、ありました201...伝・「三條小鍛冶宗近遺跡」

  • 隠れ念仏跡入り口と紅葉

    2005年12月1日、地域の地図にいくつかの史跡が掲載されていたので巡ってみたくなり、父と出かけたのです。この坂を登っていくとあるらしいのですが、あまり入り込めそうになかったし、ちょっと登ってみる勇気がありませんでした。。。☆この年は格別に紅葉が鮮やかでした2005.12.1鹿児島市山田谷地区〜三重野(みしげの)隠れ念仏跡入り口と紅葉

  • 西村天囚と三原家の繋がり

    昨日、西村時彦(ときつね)さんのことを書きました。『懐徳堂』について覚えがなかったのですが、三原家の女性たちの確認のため、以前黎明館調査史料室前室長の内倉昭文さんから頂いていた黎明館調査研究報告第24集(二○一二年三月)別刷「『鹿児島県史料名越時敏史料』について」を読み直していたら、その中に『懐徳堂』の名前も出ていました。西村時彦すなわち、西村天囚氏の妻・タカさんと、私の曽祖母・ツタとの年齢差や親兄弟の名前の確認のために読み返したところだったのですが、それについて少しまとめて記しておこうと思います。まず、曽祖母・ツタの生年月日は『曾祖母・ツタの誕生日』にも書きましたが、安政五年(1858年)10月23日また、書いたつもりでその形跡が無かったのですが、我が家の除籍謄本に「三原經賢二女」とあります。で、西村天囚氏の...西村天囚と三原家の繋がり

  • 西村時彦は「ときひこ」ではない⁈

    以前書いた通り曽祖母・ツタは三原家出身ですが、西村時彦(天囚)の妻も三原家の女性で、詳しい繋がりはわかりませんが親族だと思われます。(4年前の4月にはこんな記事書いてました→『2016年4月のあれこれ』)で、今日は改めて西村時彦さんの生没年月日を知りたくてネット検索してみました。まずはWikipediaを見てみると…、https://ja.m.wikipedia.org/wiki/西村天囚西村天囚(にしむらてんしゅう、1865年9月12日(慶応元年7月23日)-1924年(大正13年)7月29日)は、日本のジャーナリスト。本名は時彦(ときつね)で、天囚は号。他に碩園(せきえん)とも名乗った。字は子駿。大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親である[1]。祖先は西村織部丞時貫。とあり、、、エッ?「ときつね...西村時彦は「ときひこ」ではない⁈

  • 「吉利宝探しマップ」を求めて( '20. 4/25 )

    ☆トップ画像の左側が「吉利宝探しマップ」で、右は公民館長さんが持ってきてくださった「よしとしガイドブック('18発行)」。活動資金に充てられるとの事で、1,000円で購入させて頂きました。ーーーーーーーーーー先月、先々月と『都見物日記』に時間を割いていたので、日々の記録をアップしていないこともいくつかありました。新型コロナ禍の中FBで仕入れた情報から、日置市吉利のガイドブックが出来たということで、4月25日に父と二人で久しぶりの吉利参り。以前行ったのは2008年6月1日でした。『鬼丸神社せっぺとべ(2008.6.1)』『小松帯刀仮屋跡(吉利小学校)〜清浄山園林寺』FBには書いても特定の人しか見られないので、このブログでも画像アップしておきます。流石にあまり人がいませんでした。旧・吉利小学校の校庭から校舎のある高...「吉利宝探しマップ」を求めて('20.4/25)

  • 港区のホームページ

    2008年3月に書いた『「目黒区の大円寺」mixi日記より』に港区のHPをリンクしていたけど、今見てみたら、随分変わっていた。ちなみに「港区エリアガイド」というのがあったので見てみると面白い、かも?2018年7月に『大円寺いろいろ』と題して、目黒区ではなく、杉並区の大円寺のことを「最近、桐野作人さんにご教示いただいた」と書いているけど、2008年4月に『「大円寺」違い。。』の中ですでに、「きょうの南日本新聞読んでたら、大円寺にもいろいろあって杉並区の永福町にある曹洞宗のお寺、泉谷山大円寺が島津家の菩提寺であるらしいことが書かれていました。*桐野作人さんの「さつま人国誌」No.54『島津ゆかりの大円寺』」と、自分で書いていた(爆!)お粗末様でした港区のホームページ

  • 町田家の人々と名越家

    最近になって思うこと「名越家」のこともよく分からない状態ですが、名越左源太時敏の父・盛胤(町田實明)も祖父・盛尚も町田家から養子に入っているんですよね。ということは、私たちにしても、元をたどれば町田家の人間ということではないかと、思うのです。名越盛胤:実は町田(主馬)久輔二男、町田實明→名越盛尚養子となり、名越左源太盛胤と改める名越盛尚:右膳実は町田源左衛門久亮二男→名越恒当養子左源太※盛尚は盛胤の父・町田久輔の弟であり、盛胤の叔父にあたる備忘録として名越氏(左源太家)享保年中樹家(=は養子)初代・恒渡(つねただ)‥‥浅右衛門右膳妹於須磨ノ方ハ継豊公ノ御母堂也、享保五年家老恒渡ー恒索(平八右源太)ー恒次(当)(※恒篤)=盛尚=盛胤ー時敏ー時成※名越恒次(恒当、恒篤)の表記が度々違うのに戸惑いますが、恒篤のこと。...町田家の人々と名越家

  • 仁王堂水(清水馬場・坊中馬場)&鶴嶺高等女学校校跡(本立寺馬場)を訪ねて

    仁王堂水(清水馬場・坊中馬場)&鶴嶺高等女学校校跡(本立寺馬場)を訪ねて5月26日に訪ねた鹿児島市上町の仁王堂水などをフォトチャンネルにまとめました(1枚目は稲荷川に架かる一つ橋です)見てみて下さいね☆本立寺馬場(ほんじゅじばあ)は、現在の県職員住宅の前の通りです。仁王堂水(清水馬場・坊中馬場)&鶴嶺高等女学校校跡(本立寺馬場)を訪ねて

  • 旅の終わり

    最後の1ページは「さんぎし」未掲載分です。イサさんのお孫さん・川上久雄さんが平成6年3月27日に完成させたものです。『都見物日記』(このページは「さんぎし」には未掲載)(桜島の頭のような山を描いて)↑※トップ画像此のやうな所が見えて元気も出。チン〳〵甲板にあがり眺めおり候所、早。故郷のなつかしき所などそろ〳〵見え、天保山の前も通りていよ〳〵前の浜に着き荷物などかたつけ端舟(ハシケ)にて上陸致し候。上より皆々様がお出迎に来り居られ、精一殿(久良の弟)ツバタ(津端?)迄来たり居られ久々にてうれしき事妙々酒匂問屋より皆々さんとお分かれ致し、精一どのと帰り武之橋の入口に迄に着く。又子供皆々「おとみ」「貞」他に「おみか」「おけさ」来り居り夕暮より「お君さん」を取寄せ(芸者を呼びの意?)三味などひき心悦びいたし候。酒肴にて...旅の終わり

  • いづろの和田屋のおすみ殿

    『都見物日記』4月19日に「和田屋のすみばば」とあります。→「4月19日讃州多度津〜金比羅様へ」そして4月22日に↓「石燈籠(いづろ)和田屋母おすみ殿」とあります。「4月22日大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」わかったんです「いづろ和田屋」というのが「呉服店」だということが昨日(というか、先ほどAM2時前)「5月26日神戸最後の夜に・・・」を書いている時に「納屋町」か「納屋通り」か、当時の町名を知りたくて唐鎌祐祥(やすよし)先生の『昔の鹿児島ーかごしま新聞こぼれ話ー』(南日本新聞開発センター2008年発行)をパラパラめくっていたら、「祗園祭は休日だった」というタイトルのところに明治30年7月14日の鹿児島新聞の記事紹介と共に、ほかに石燈籠(いづろ)通りの「和田呉服店」は反物で「道成寺安珍鐘入り...いづろの和田屋のおすみ殿

  • 「5月29日 船旅は、行きも帰りも・・・」

    さてさて、第八章も最後になりました。長かった旅も終わりを迎えます。『都見物日記』(八)‥‥⑦五・二九天気よし。別に風なし。船大ゆりいたしそれにこまり、今日は七時ごろより苦きもの吐き、実に頭痛いたし、三人ともいね居り申候。残念には存居候え共めしも得(エ)食べず、うろうろ気分也十一時比(ゴロ)よりチンチン鹿児島が見え(桜島の頭のような山を描いて)此ような所が見えて元気出(以下次号へつづく)風もなく天気はいいのに、船は大揺れ‥‥。ご飯も食べられず、うろうろ気分のイサさんです。思うようにいかないのが船旅ですね〜第八章、終わりました。次号への掲載は、果たしてあったのでしょうか?!「5月29日船旅は、行きも帰りも・・・」

  • 「5月28日 三原氏母様も一緒に鹿児島へ」

    昨日午後四時、美濃丸で神戸を出帆。船に乗って2日目です。『都見物日記』(八)‥‥⑥五・二八今日天気よし。夜明け三時ごろに売船通りかかり、其船とつき合わせ中々の混雑。然し人は皆あがりバッテラ(※→ボート、大きな船に積載する短艇)にておくり候。其(ソレ)がため七時過に漸くこのかかりし所より出帆、鹿児島着も自然おそく相成るとの頃。先(マズ)船おだやかにて仕合(シアワセ)、鹿児島之人だんだんのり込み居られ候。そろそろ気分あしく寝ねつづき、母上様も三原氏母様も同敷(※オナジク)気分あしき風にお見え居候。この頃になると、ひたすら鹿児島へ向けての船旅で快適とは決して言えない状況のためか、日記も短いです(^-^;)往路と違うのは、御三方に加え、三原氏母様も一緒に鹿児島へ向かっていることです。三原氏母様は轟の妻・ツタの母親で...「5月28日三原氏母様も一緒に鹿児島へ」

  • 「5月27日 神戸を離れる日」

    長かったお江戸上りもいよいよ締めくくりとなりました。『都見物日記』(八)‥‥⑤五・二七今日天気よし。六時過に起き茶、七時過にめし、今日はゆるゆると薩摩屋より出立の賦り(←※くばり)。十二時前昼飯、美濃丸へ二時乗込、四時出帆、例のごろごろにて酒を飲み候て夜の入る頃よりいね、海も平和故、先ず酔いもせず。船へのり着(ツク)と後(アト)より鈴木さんお暇乞にお出被下(クダサレ)候事。※「賦り」が読めず。。「くばり」と読むんですね今回は船酔いもせず、まずまず良かったですね前後しますが、船に乗り込んだ後、前日にもお見えになった鈴木さん(=名越氏の知人)が挨拶においでくださったようです。「5月27日神戸を離れる日」

  • ◇ 都見物日記 ◇ 第八章 (5/23〜5/29)

    いつもご覧いただき、ありがとうございます前回の第七章目次に続き、第八章のタイトルを並べてみました※只今、更新中です《PCでご覧の方へ》文字が小さく読みづらい場合は、左の「文字サイズ変更」で「大」をクリックしてくださいね第八章①「5月23日今日は三人で大坂見物」(2020-05-2318:01:49)②③④⑤⑥⑦◇都見物日記◇第八章(5/23〜5/29)

  • 「堂の前」、、、とは?!

    いつもお読みいただきありがとうございます昨日は『都見物日記』のアップも18日から20日の分まで進み、だいぶ捗りましたところで、5月15日の『都見物日記』で「鹿児島の上町堂の前煙草屋の…云々」と書かれていましたが、本日別件で、以前撮っていた画像を探していたら、2年前の3月に撮った写真(↑トップ画像)の「鹿児島城下絵図」に「堂の前」の文字を発見通りの名前として載っていることに気付きました福昌寺(現、玉龍高・玉龍中)や大乗院(現、清水中学校)があった地域に「堂の前通り」という表記があったので、父にも話してみたら、場所が何処かということこそ知りませんでしたが、地元の人たちが「どのまえ」と言うのを聞いたことはあったと教えてくれました。「坊中馬場(ぼじゅんばば)」と「清水馬場(しみっばば)」の交わる所に「仁王堂水(におうど...「堂の前」、、、とは?!

  • 「5月26日 神戸最後の夜に・・・」

    神戸・薩摩屋、最後の夜です。衝撃のアクシデントが、あったとか、、なかったとか、、いや、あったようです『都見物日記』(八)‥‥④(※印は、ゆき註釈)五・二六今日雨。六時おき茶飲み夫(※ソレ)より程なく青山と申すお方はなしにお出、又鈴木信弥さんと申お方お出にて暫らくお談(※ハナシ)、九時過にお帰りの事。程なく三原母様、西村時彦様とお出、今日船も出帆之はずにて此方へお越しにてゆるゆると成され、皆々十二時過にはめし、牛(ギュウ)など向こうさん買入ちんと酒などお分かれに飲かた(※飲み方=宴、酒飲み)有之候。二時には西村さんもお帰り之事。三時過に楠公社辺に又歩行致し、少し雨降出しせわせわ敷候に付、早目にかえり候得ば上(カミ)の納屋の上の田尻様もお出の事。夕飯は此宿にて四人ともたべ、ゆるゆるといたし居り候処、鈴木さんお出に...「5月26日神戸最後の夜に・・・」

  • 「5月25日 神戸へ移り、布引瀑見に出掛け候」

    大坂滞在は5泊。今日は大坂を後にして神戸へ移ります。『都見物日記』(八)‥‥③五・二五今日天気よし。六時おき茶飯、今日より又神戸へ差越す。九時比(ゴロ)に出立、梅田停車場迄人力車にて、それより十時に汽車も出、途中鳥渡(チョット)ずつとどまる所、神崎、西の宮、住吉、三宮などなり。神戸停車場に着、直ぐ浜辺の薩摩屋へ十二時比(ゴロ)行く。昼飯たべ腹ならしに三人連れ布引瀑(タキ)見に出掛け候。雄瀑雌瀑とて随分見ものなり。茶屋など有り、景色よろしき也。瀑見の道に神戸直き見える所も有り、帰りには小さき石など七つ八つ拾いて帰り、又たかつぶり也。夕暮にかえり着、七時に飯、ちんと酒飲み、十二時ごろにいね申候。往路でも泊まった「薩摩屋」へ移った御一行は、「布引の滝」を堪能したようですね。「たかつぶり」って、何?まさかの「かたつ...「5月25日神戸へ移り、布引瀑見に出掛け候」

  • ◇ 都見物日記 ◇ 目次 第七章(5/16(続き)〜5/22)

    いつもご覧いただき、ありがとうございます前回の第六章目次に続き、第七章のタイトルを並べてみました※只今、更新中です《PCでご覧の方へ》文字が小さく読みづらい場合は、左の「文字サイズ変更」で「大」をクリックしてくださいね第七章①「5月16日(続き)芳殿、吉村お仙殿、そして久良殿との再会に!」(2020-05-1612:53:52)②()③④⑤⑥◇都見物日記◇目次第七章(5/16(続き)〜5/22)

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