響焔12月号〜聰俳句鑑賞
涸れ川のいちぶしじゅうに鉄塔も「聰俳句鑑賞」を二年間担当してみてわかったことは、目にすること全てが俳句になるということだ。俳句だからといって何も特別なことを言う必要はない。日常のほんのひとこま、極々些細なことでいい。だけどその目にしたものの何を持ってくるかの選択が最初の関門。次にそれをどう詠むかが句の出来に関わってくるようだ。掲句、まず作者の目には「涸れ川」か見えた。そしてその先には「鉄塔」。さぁこれどう句にしようか。ただ並べるだけではつまらない。この「鉄塔」に拘りたい。だから「鉄塔」に焦点がいくように「いちぶしじゅう」という言葉を持ってきた。そうすることで「鉄塔」に意外性も出てくる。ハマり過ぎると共感重視の歌謡曲(大衆)。意外性で詩情ある俳句(文芸)か…。この続きはまたいつか…。「聰俳句鑑賞」担当の2年が...響焔12月号〜聰俳句鑑賞
2021/11/29 13:01