男は、左手しか使わなかった。古いピアノだった。知り合いのスタイリストが、事務所移転の時に押しつけてきたものだった。捨てるのも勿体ないから、という理由だった。黒い塗装は剥げている。ペダルは少し歪んでいる。鍵盤のいくつかは、押すと戻りが遅い。音...
高野雲の雑記帳。音楽、映画、読書、模型などなど。気軽に色々と書きまくっています。
高野雲の雑記帳。音楽、映画、読書、模型などなど。気軽に色々と書きまくっています。
男は、左手しか使わなかった。古いピアノだった。知り合いのスタイリストが、事務所移転の時に押しつけてきたものだった。捨てるのも勿体ないから、という理由だった。黒い塗装は剥げている。ペダルは少し歪んでいる。鍵盤のいくつかは、押すと戻りが遅い。音...
5/1 (fri)昼飯は、豚骨ラーメン、替え玉3回。晩飯は、カレーうどんと具沢山味噌汁。小泉悠『情報分析力』(祥伝社)読了。5/2 (sat)朝飯はサンドウィッチとクリームあんぱん。昼飯は近所の居酒屋。有吉佐和子の『新装版 青い壺』(文春文...
雨ではなかった。だが、空気は湿っていた。駅前のビルのガラスが、薄く曇っている。男はリュックを背負って歩いていた。少し猫背だった。白髪。細い肩。歩幅は小さい。昔はもっと速く歩けた気がする。だが、急ぐ理由も、もうあまりなかった。男は七十を過ぎて...
女は朝に強かった。朝の陽光が好きだった。目覚ましが鳴る前に起きる。カーテンを開ける。窓を開ける。湯を沸かす。白湯を飲む。リンゴ酢を一滴たらして。それを毎日やる。休日でも変わらない。習慣というより、整備に近かった。人間は放っておくと、少しずつ...
雨は降っていなかった。だが、街は濡れて見えた。夜のビル街というのは、だいたいそうだ。ガラス。排気。磨かれた床。ビルの窓明かり。タクシーのヘッドライト。全部が薄く湿っている。男は地下の階段を降りた。古い店だった。壁に貼られた演奏予定表は黄ばん...
男は四十五歳だった。引越し会社の営業だった。営業といっても、背広で名刺を配る仕事ではない。電話が鳴れば出る。住所を聞く。家族の人数を聞く。エレベーターの有無を聞く。荷物の量を聞く。そして、先に動く。春はそれが一日中続く。二月の終わりから四月...
湿気は、先に肌へ貼り付く。空港に降りた瞬間、男はそれを思い出した。塩。熱。腐りかけた植物の匂い。南の州の空気は、肺より先に皮膚へ張りつく。駐車場では、ヤシの葉が風に揺れていた。乾いた音ではない。ベタついた音だった。バサ。バサ。空気が重い。男...
その音は、先に乾いていた。男が最初に覚えたのは、国名ではない。楽器だった。ジャンベだった。学生時代、男は駅前で叩いていた。最初はドラムだった。高校の軽音部で覚えた。だが、ドラムセットは重い。路上に持っていくには、重すぎた。広げるには、大きす...
男は、机の上に何も置かない。紙も、メモも、カレンダーもない。予定は頭の中にある。忘れるものは、忘れていいものだと決めている。低い音量で電話が鳴る。五回目の呼び出し音で取る。 五回を待たない相手とは、仕事をしない。「例の件、どうなってますか」...
男は女にモテた。それも、かなり。社内でも、飲み会でも、取引先でも。気づけば、女はだいたい男の近くに座っていた。周囲は言った。あの人は、なんとなく感じがいい人だ、と。ある女は、少し身を乗り出してこう言った。「あの人、ほんと聞き上手なんですよ」...
4/1 (wed)午前中、ちょこっと実家(留守)、昼飯は抜き、晩飯は近所の居酒屋。夜食はカレーうどんと、ツナポテサラとレンコンキンピラと、具沢山味噌汁。市川正人『表現の自由「政治的中立性」を問う』(岩波新書 新赤版 2023) 読了。4/2...
なぜ私は、ヘンなサムネとタイトルにしているのかYouTubeを始めた頃、私は普通に「わかりやすいタイトル」と「それらしいサムネイル」を作っていました。ノウハウ動画や書籍を参考にしながら、ランキングや刺激的な言葉を入れれば再生数が伸びる、とい...
私は資料をめくった。分厚い記録。刑事第3部、令和◯年(わ)第九三四号。被告人、殺人。起訴状の写し、実況見分調書、供述調書。証拠番号は既に三桁を超えている。公判前整理手続はすでに数回実施済み。証拠採否の判断も大半は終えている。残るのは、事実認...
紐状銀河・第六区域。それが世界だった。この世界の安定と秩序を守るために、偉い連中がいる。人が暮らす数百の惑星やコロニー。それぞれに事情があり、利害がある。豊かな星もあれば、資源を巡って揉めている場所もある。それをまとめる連中がいる。外交をし...
波は一定の間隔で船腹を叩いていた。船は止まっていた。進んでいないわけではない。流されてもいない。同じ場所に留まっていた。船尾の機械が、低く鳴っていた。同じ音だった。始まってから、ずっと同じだった。ワイヤーが巻き上がっていた。ゆっくりだった。...
成田を出たのは、朝だった。ブリュッセルに着いたのは、まだ昼の光が残っている時間だった。五月の終わり。空気は乾いていた。思っていたより、冷たい。機内持ち込みの鞄の中には、薄手のマフラーを入れていた。海外では、だいたい役に立つ。重たい上着を持ち...
その男は、若い女と暮らしていた。年齢は六十七。女は二十五。近所のスーパーで、並んで歩くと、父娘にも見えたし、もっと悪く見えるときもあった。男はそれを、誇らしく思っていた。女が若いほど、自分がまだ終わっていない証拠になる。どこかで、そう信じて...
その男は、笑いを隠すことがうまかった。笑いそうになると、口の奥に舌を押し込んだ。奥歯の裏に、舌先を当てる。そうすると、顔の筋肉が固まる。目尻の揺れも止まる。学生の頃に覚えた癖だった。昭和四十年代。大学のキャンパスは、いつも煙の匂いがしていた...
音があった。低い音だった。耳ではなかった。足の裏だった。地面の奥で、何かが回っていた。鈍い震えが、靴底を通って骨に届いた。男は動かなかった。周りの連中は、誰も気づいていなかった。煙が流れていた。誰かが火をつけたばかりだった。別の誰かが、古い...
男は、特別な顔をしていなかった。背も、声も、経歴も、中途半端だった。目立つ学歴はない。営業でもない。技術者でもない。現場を仕切る胆力も、会議をひっくり返す弁もない。ただ、返事だけは早かった。「承知しました」「確認しておきます」「先方に伝えま...
算数の時間だった。黒板には、割り算がずらっと並んでいる。先生がチョークでカツカツ書いている音だけが、やけに大きく聞こえる。「はい、次は——」先生が何か言っている。でも、そんなのはどうでもいい。少年の頭の中には、別のことがあった。今日は、どこ...
男は、若い頃から音を信用していた。言葉は、だいたい嘘を含む。音は、外せばすぐ分かる。昭和四十年代の初め。東京の私立大学に入った年、男は初めてジャズを聴いた。下宿先の近くに、小さな喫茶店があった。壁一面に、レコードが並んでいた。店の奥には、巨...
男は、名前で呼ばれなくなって久しかった。局内では、皆が彼を「柿崎ピー」と呼んだ。「カキザキP」。名字のあとに、P。プロデューサーのP。言いにくいのか、略して「柿P」と呼ぶ者もいる。俺は酒のツマミかよ。男は苦笑する。机の上に、進行表が置かれて...
男は、炒め物が好きだった。難しい料理はしない。包丁も最低限しか使わない。フライパンを火にかける。油を落とす。煙が少し上がるのを待つ。そこに、冷蔵庫の残り物を放り込む。キャベツの芯。昨日の焼き豚。しなびかけたピーマン。強火で炒める。音が出る。...
「断固反撃すべし」上からの命令は、それだけだった。男は裏返した木箱の前に座っていた。木箱の上には紙があった。紙の上に、数字が並んでいた。四桁だった。もう一つ、書くはずだった。万年筆を持ったまま、男は手を止めていた。ランプの火が揺れていた。灰...
ガイは、何も言わない。でも、嘘もつかない。最初に見たのは、学校の帰りだった。ランドセルが少し重かった。教科書が増えたからだと思ったが、たぶん違う。歩き方が少し変だったから、気づいた。前を歩く男が、妙に遅かった。止まっているわけじゃない。でも...
花は切られていた。肉は薄く焼かれていた。男は靴音ばかり聞いていた。朝はまだ暗かった。だが廊下には、もう人がいた。灯りを持つ下男。湯を運ぶ小姓。無言で立つ衛兵。起きるのが早いのではない。起きていなければ、置いていかれる。石の床は冷えていた。蝋...
男は数値を見ていた。モニターには、区画ごとの色が並んでいた。薄い青。くすんだ緑。ときどき、黄色。赤は出ていなかった。まだ大丈夫だった。画面の左端に、小さな数字が並んでいた。不安指数。集団怒声率。夜間徘徊率。同時視聴率。消費行動変動。一見、ど...
彼女は人間だった。アンドロイドでも、ロボットでもない。血が流れ、汗をかき、眠れば夢も見た。ただし――少しだけ、作られていた。名前はアイ。覚えやすい音だった。短い。軽い。忘れにくい。呼びやすい名前は、それだけで武器になる。上の連中は、そう判断...
男は掘らせた。理由は言わなかった。兵は、掘った。疑問を持ったまま。湿った土は重かった。刃を入れるたび、鈍い音が返ってきた。土は柔らかいくせに、すぐに刃にまとわりついた。払い落としても、また付いた。カンテラが天井から吊るされていた。数歩おきに...
男は朝が早い。印刷機は、朝のうちの方が機嫌がいい。古い機械は、温まるまで時間がかかる。レバーを入れる。鈍い音がして、ベルトが回る。インクの匂いが、少しずつ部屋に広がる。一階が印刷所だった。二階が住まいだ。ずっと、そうして使っている。昔は人を...
3/1 (sun)昼飯はもり蕎麦。晩飯は近所の居酒屋にて。白石典之『遊牧王朝興亡史 モンゴル高原の5000年』(講談社選書メチエ 818)読了。3/2 (mon)昼飯はチャーハン。晩飯は近所のラーメン屋。渡部潤一『眠れなくなるほど面白い 図...
その男は、やたら声が大きかった。若い頃から、声だけは成功していた。高校の文化祭で、焼きそばを売った。売れた理由は味じゃない。声だった。「いらっしゃい! いらっしゃい!」腹から出る声。それだけで人が集まった。男はその日、「商売は勢いだ」と思い...
属人化のメリット〜勝つ組織は、つまらない戦史を眺めていると、面白いことに気がつく。戦史好きが熱く語るのは、たいていは敗れた側の英雄だ。ガ島上空で被弾、片目の視力を失いながらも、傷ついた零戦で数百キロを単独飛行で帰還した坂井三郎。重戦車ティー...
男は朝が早い。印刷機は、朝のうちの方が機嫌がいい。古い機械は、温まるまで時間がかかる。レバーを入れる。鈍い音がして、ベルトが回る。インクの匂いが、少しずつ部屋に広がる。一階が印刷所だった。二階が住まいだ。ずっと、そうして使っている。昔は人を...
女は春に出ていった。牛は冬に沈んだ。男は牛の背ばかり見ていた。春はぬかるんでいた。道は柔らかく、踏むたびに靴が少し遅れた。牛の蹄は深く沈み、持ち上がるたびに湿った音がした。小屋の裏では、去年の枯れ草がまだ黒く残っていた。朝の空気は冷えていた...
車は、止まっているときが一番金がかかる。走っているときじゃない。止まっているときだ。整備工場のリフトの上。腹を見せて吊られているとき。あの姿が、一番高い。「フロント、そろそろです」整備士が言った。「何が?」分かっていて聞く。「タイヤです」来...
朝は早い。まだ空気が少し冷たい時間に、現場の門が開く。鉄の鍵が鳴る。チェーンが外れる。職人たちはもう来ている。缶コーヒーの湯気が、朝の光に細く立っていた。男はまだ何も指示していなかった。今日の作業は決まっている。型枠は昨日で組み終わっている...
男は、数字をあまり信用していなかった。もちろん、必要なときは見る。テンポも、キーも、コード進行も、拍子も、数字の上に乗っている。ギャラだって、数字で決まる。だが、いちばん大事なものは、数字にならない。それを最初に知ったのは、小学校の頃だった...
彼女は、幼い頃から画面の中が好きだった。刑事が机を叩く場面。法廷で弁護士が追い詰める場面。放課後の教室。雨の中で別れる恋人。家族が食卓で黙る場面。話そのものも好きだったが、もっと好きだったのは、その裏にある段取りだった。誰が嘘をついているか...
男は一人で暮らしていた。都内の、少し古いマンションだった。築40年は過ぎている。3LDK。一人で住むには広すぎたが、広すぎるというだけで、悪いことはあまりなかった。掃除が面倒なくらいだった。そこは週に一度、清掃の業者に頼んでいた。人を家に入...
男は、だいたい勉強ができた。子どものころから、順番が好きだった。算数の解き方。漢字の書き順。夏休みの計画表。赤い線で引かれた目標日。今日やること。明日やること。来週やること。順番どおりにやれば、だいたいうまくいった。男にとって、それは才能で...
タクシーが一台通り過ぎた。それ以外、音はない。エンジンは切ってある。張り込みの車は、ただの古いセダンにしか見えない。ダッシュボードの上に、コンビニの袋が置いてある。男は袋を開け、中からアンパンを取り出した。助手席の若い刑事がため息をつく。「...
男は、昔ヒーローになりたかった。きっかけは単純だった。テレビだった。夕方になると、巨大な何かが街を踏み、別の巨大な何かがそれを止めた。光が走った。火花が散った。最後はだいたい勝った。男はそれを見ていた。勝つところを見ていた。苦しそうな変身も...
男は、東京という言葉に匂いがあると思っていた。アスファルトの熱、古本の紙、地下鉄の風、夜の電車の鉄の匂い。行ったこともないくせに、雑誌やテレビや受験案内の写真を見て、勝手にそう決めていた。男の町には、匂いが少なかった。川の泥、肥料、雨のあと...
その国には、海がなかった。中心から遠く離れた辺境だった。山が多かった。谷が深かった。畑は狭く、雨は容赦なく、川はしょっちゅう怒っていた。怒った川は畑を奪い、奪われた畑は、そのまま飢えになった。貧しい山国だった。男が若かったころ、国はすでに疲...
男は、最短距離を信用しない。若い頃からそうだった。ジムへ行く道も、一本裏の細い道を選んだ。信号が少ないからではない。少し遠回りでも、足裏の感覚が整う道だった。階段を上る。ロープを跳ぶ。シャドーをやる。サンドバッグを叩く。ミットを打つ。終われ...
男は、故郷の名前を言わない。言えば誰もが知っているコロニーだった。だが、言わない。宇宙では、名前より軌道番号の方が正確だからだ。男は技術者だった。構造制御。軌道力学。慣性姿勢制御。巨大スペースコロニーを、数キロだけ動かす。隕石やスペースデブ...
夕方から、空気が少し腐っていた。川の匂いと馬の糞と、古いビールの泡が乾いた床の匂いと、安い香水と汗と、昼のうちに焼けた煉瓦の熱が、まだ路地に残っていた。日が落ちても、街は冷えない。冷えないものは、だいたい怒っているように見える。メンフィスの...
男はいつも、日向の道を歩いてきた。そう本人は思っている。子どものころから、空はよく晴れていた。地方では名の知れた大きな病院の家に生まれ、庭は広く、車は何台もあり、家にはいつも誰かがいた。困ったことは、だいたい困る前に片づいていた。家には習い...
男は、年齢を言わない。数年前に卒寿を迎えた。同じリアクションに辟易している。数年前に卒寿を迎えた。もうだいぶ前から男は相手に年齢を言うのをやめた。同じリアクションに辟易している。「信じられない!」「若いですね、どうみても50代ですよ」「この...
男の家は、掃除にうるさかった。実家は寺だった。古い本堂があり、庫裏があり、朝は早かった。子どもの頃から、「片づけなさい」とはあまり言われなかった。代わりに、箒を持たされた。雑巾を絞らされた。廊下を拭き、縁側を拭き、便所を磨き、庭の落ち葉を集...
バーの仕事の半分以上は掃除だ。男はそう教わった。若い頃、師匠に叩き込まれた最初の言葉でもある。カクテルの作り方より先に、グラスの磨き方を覚えさせられた。バーは酒を飲む場所ではない。綺麗な場所で、酒を飲む場所だ。師匠はそう言った。男は午後の早...
男は、自分のことをゲジゲジに似ていると思っている。鏡を見るたびにそう思う。小柄で、肩幅も狭い。顔の輪郭ははっきりしない。目立つところがひとつもない。街の中に立つと、風景の一部になる。人の記憶に残らない顔だ。それはこの仕事では、むしろ都合がい...
男は、ビルの名前を言わない。言えば通じるビルだった。だが、言わない。湾の風が入りこむ街。ガラスの曲面が空を映し、角度によって白にも灰にもなる。南側には庭園があり、そこだけ時間が遅い。ビルはそこに立っていた。広告の城。企画と会議と数字と、誰か...
路地の奥に、父の仕事場がある。看板は小さい。見つける気のない人間には、一生見つからない場所だ。仕事場は、机の上だけが整然としていた。父親は紙を信じていた。紙は約束を形にする。形になった約束は、人を守るか、人を縛るか、そのどちらかになる。男が...
上司に呼ばれたのは、午後の遅い時間だった。「カルガリーに支部を出す。人が足りない。しばらく行ってくれないか」男は予定を思い浮かべた。「どれくらいですか」「まずは二年。延びるかもしれない」男はうなずいた。一晩考えさせてください、とは言わなかっ...
男は、女と寝たあとにラーメンが食べたくなる。理由は分からない。腹が減っているというほどでもない。体力を使ったからでもない。ただ、終わるとそうなる。若い頃からそうだった。二十代も、三十代も変わらない。女がシャワーを浴びているあいだに、もう決ま...
男は煙草を吸わない。だが、赤と白の箱を見ると、見るたびに、胸の奥が、すこしだけざわつく。子どもの頃、煙草は大人の象徴だった。健康に悪いと知りながら、金を払い、火を点け、吸い、消す。自分で選び、自分で引き受ける。そういうことが許されているのが...
朝から湿っていた。雨が降っているわけではない。降りそうで、降らない。降るなら降ればいいのに、と誰も思わない。ここでは、そういう天気が一番多い。島の海は青い、と本土のテレビは言う。もっと南の、透明度が高くて、底まで見える海の話だ。ここいらの海...
2/1 (sun)昼飯はうまい棒などの菓子類オンリー、晩飯は近所の居酒屋にて。このサイトのテーマは長らくSTINGERを使っていたのだが、Cocoonに変えてみたところ、いたれりつくせりなCocooの機能とバッティングする古いプラグインを1...
男は、作業を始める前にチョコレートを一片だけ食べる。習慣というほど意識しているわけではない。ただ、手を洗い、机のライトを点け、換気扇を回し、冷蔵庫から四角い板を一かけ折る。口に入れる。甘さが舌の奥に残る。それから塗料棚を開ける。瓶は規則正し...
Entry Grade νガンダム 制作記またエントリーグレードのνガンダム作っちゃいました。νガンダムはカッコいい。もっと作りたい。だけど、かっこいいけどフィンファンネルを作ったり塗ったりしなければいけない。面倒臭い。こういうプレッシャが...
テナーサックスを最初に触ったのは、小学生のときだった。父が、どこかで拾ってきたような中古のケースを開けて、真鍮の匂いを嗅がせた。鍵の隙間に黒い埃が残っていた。吹く前から、音は手入れだと分かった。彼女は、早かった。指が早いのではない。覚えるの...
その国には、煙の匂いがあった。朝の霧ではない。火の匂いだ。木を燃やし、肉を燻し、鉄を熱し、言葉を曇らせる匂い。男は幼いころから、その匂いの中に置かれていた。生まれた場所の空気は堅く、外は明るかった。そこでは、笑い方にも順序があった。呼吸にも...
男は、合格した大学の中でいちばん東京に近いところを選んだ。理由はそれだけだった。学部も偏差値も、家からの距離も、特に意味はなかった。「せっかくなら東京っぽいほうがいいかな」と思った。それで決めた。入学してみると、確かに東京だった。電車は混ん...
その二人は、同じ年に生まれた。同じ産院で、同じ時間帯に、同じ助産婦に取り上げられたという話を、町の老人たちは何度もした。だから運命だ、とも言われたが、本人たちは、別にそうは思っていなかった。ただ、ずっと同じ場所にいただけだ。Aは意味を探す子...
ジャズ三大レーベルとはジャズ史は、どうしても演奏家中心に語られやすい。誰がどの時期にどんな演奏をしたか、どのバンドが革新だったか、どのソロが決定的だったか。もちろんそれらはジャズという音楽の本質からすれば自然な視点でもある。しかし、レコード...
逃げ続けてもう1年と8ヶ月になる。とはいえ、その何年何ヶ月というのも、男の星での単位だ。恒星が変われば暦も変わる。周回周期の違う惑星を基準にした時間など、実感はほとんどない。それでも男は、ときどき数える。逃走開始からの経過を。それ以外に測れ...
男は、復讐という言葉を一度も使わなかった。子どものころ、奴は男を「虫」と呼んでいた。「おい、虫」それが合図だった。教室の空気が軽くなる。誰かが笑い、誰かが距離を置く。男はその中心にいた。奴は王だった。教師に可愛がられ、運動ができ、声が大きく...
3年ほど前から、あの店に通っている。駅から少し歩く。大通りの明るさが途切れ、雑居ビルの影に入ったあたりで、看板の灯りだけが控えめに残っている。ジャムセッションの店だ。派手な名前ではない。むしろ、音で生きてきた人間がつけそうな、必要最低限の文...
都内某所。駅から歩いて10分ほどの場所。駅前には、どこにでもある光景。ファストフード、コンビニ、チェーンの看板、飲み屋。時間帯ごとにざわめきの色を変える人波。そんな雑踏から一本だけ、横にそれた細い通り。そこにある古びた雑居ビルの地階に、それ...
男は52歳になっていた。地方の系列局に出向して、3年目になる。肩書きは「制作担当」。実態は、東京から降りてくる企画と現場の間に立って、話を丸く収める役回りだった。決定権はないが、拒否権もない。放っておくとこじれる案件を、丸く収める。そういう...
「いいっすよ」声に出した瞬間、背中側で空気がふっと軽くなったのが分かった。会社の会議室というのは、誰かが一言うなずくだけで、椅子の脚がいっせいに同じ方向へ動き出す。人の気配が、潮目みたいに変わる。男はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。笑...
朝は早い。特に理由はない。目が覚めてしまうだけだ。男は六畳一間のアパートで起き上がり、壁際に積まれた新聞の束を跨いで台所へ行く。台所といっても、流しとコンロが並んでいるだけだ。窓の外では、向かいの建物のシャッターが半分だけ開いている。誰かが...
HGUC RMS-192M ザク・マリナー 制作記配色がカッコ良さげだったので、ザクマリナーを作ってみました。箱。箱の中。ランナーなどパーツを並べたところ。組み立て終えて下塗りしたところ。上から見下ろしたところ。後ろ姿。ラッカー系スプレーで...
北国の夏は、短いくせに濃い。光が強く、海は青というより白銀に近い。昼の熱が夕方まで残り、港のアスファルトが体温みたいなぬるさを返す。男はその熱を避けるように、防波堤に座っていた。波の音だけが一定で、こちらの停滞を責めてこない。四十を少し過ぎ...
男がその町に来たのは、3年前の春だった。雪解けの泥が歩道の端に黒く残り、空気がまだ冬の匂いを引きずっていた頃だ。東京の大学と病院に長くいた。研修も、その後の勤務も、切れ目なく続いた。名刺に書かれた所属が変わるだけで、日常のかたちはほとんど同...
男は、左手しか使わなかった。古いピアノだった。知り合いのスタイリストが、事務所移転の時に押しつけてきたものだった。捨てるのも勿体ないから、という理由だった。黒い塗装は剥げている。ペダルは少し歪んでいる。鍵盤のいくつかは、押すと戻りが遅い。音...
5/1 (fri)昼飯は、豚骨ラーメン、替え玉3回。晩飯は、カレーうどんと具沢山味噌汁。小泉悠『情報分析力』(祥伝社)読了。5/2 (sat)朝飯はサンドウィッチとクリームあんぱん。昼飯は近所の居酒屋。有吉佐和子の『新装版 青い壺』(文春文...
雨ではなかった。だが、空気は湿っていた。駅前のビルのガラスが、薄く曇っている。男はリュックを背負って歩いていた。少し猫背だった。白髪。細い肩。歩幅は小さい。昔はもっと速く歩けた気がする。だが、急ぐ理由も、もうあまりなかった。男は七十を過ぎて...
女は朝に強かった。朝の陽光が好きだった。目覚ましが鳴る前に起きる。カーテンを開ける。窓を開ける。湯を沸かす。白湯を飲む。リンゴ酢を一滴たらして。それを毎日やる。休日でも変わらない。習慣というより、整備に近かった。人間は放っておくと、少しずつ...
雨は降っていなかった。だが、街は濡れて見えた。夜のビル街というのは、だいたいそうだ。ガラス。排気。磨かれた床。ビルの窓明かり。タクシーのヘッドライト。全部が薄く湿っている。男は地下の階段を降りた。古い店だった。壁に貼られた演奏予定表は黄ばん...
男は四十五歳だった。引越し会社の営業だった。営業といっても、背広で名刺を配る仕事ではない。電話が鳴れば出る。住所を聞く。家族の人数を聞く。エレベーターの有無を聞く。荷物の量を聞く。そして、先に動く。春はそれが一日中続く。二月の終わりから四月...
湿気は、先に肌へ貼り付く。空港に降りた瞬間、男はそれを思い出した。塩。熱。腐りかけた植物の匂い。南の州の空気は、肺より先に皮膚へ張りつく。駐車場では、ヤシの葉が風に揺れていた。乾いた音ではない。ベタついた音だった。バサ。バサ。空気が重い。男...
その音は、先に乾いていた。男が最初に覚えたのは、国名ではない。楽器だった。ジャンベだった。学生時代、男は駅前で叩いていた。最初はドラムだった。高校の軽音部で覚えた。だが、ドラムセットは重い。路上に持っていくには、重すぎた。広げるには、大きす...
男は、机の上に何も置かない。紙も、メモも、カレンダーもない。予定は頭の中にある。忘れるものは、忘れていいものだと決めている。低い音量で電話が鳴る。五回目の呼び出し音で取る。 五回を待たない相手とは、仕事をしない。「例の件、どうなってますか」...
男は女にモテた。それも、かなり。社内でも、飲み会でも、取引先でも。気づけば、女はだいたい男の近くに座っていた。周囲は言った。あの人は、なんとなく感じがいい人だ、と。ある女は、少し身を乗り出してこう言った。「あの人、ほんと聞き上手なんですよ」...
4/1 (wed)午前中、ちょこっと実家(留守)、昼飯は抜き、晩飯は近所の居酒屋。夜食はカレーうどんと、ツナポテサラとレンコンキンピラと、具沢山味噌汁。市川正人『表現の自由「政治的中立性」を問う』(岩波新書 新赤版 2023) 読了。4/2...
なぜ私は、ヘンなサムネとタイトルにしているのかYouTubeを始めた頃、私は普通に「わかりやすいタイトル」と「それらしいサムネイル」を作っていました。ノウハウ動画や書籍を参考にしながら、ランキングや刺激的な言葉を入れれば再生数が伸びる、とい...
私は資料をめくった。分厚い記録。刑事第3部、令和◯年(わ)第九三四号。被告人、殺人。起訴状の写し、実況見分調書、供述調書。証拠番号は既に三桁を超えている。公判前整理手続はすでに数回実施済み。証拠採否の判断も大半は終えている。残るのは、事実認...
紐状銀河・第六区域。それが世界だった。この世界の安定と秩序を守るために、偉い連中がいる。人が暮らす数百の惑星やコロニー。それぞれに事情があり、利害がある。豊かな星もあれば、資源を巡って揉めている場所もある。それをまとめる連中がいる。外交をし...
波は一定の間隔で船腹を叩いていた。船は止まっていた。進んでいないわけではない。流されてもいない。同じ場所に留まっていた。船尾の機械が、低く鳴っていた。同じ音だった。始まってから、ずっと同じだった。ワイヤーが巻き上がっていた。ゆっくりだった。...
成田を出たのは、朝だった。ブリュッセルに着いたのは、まだ昼の光が残っている時間だった。五月の終わり。空気は乾いていた。思っていたより、冷たい。機内持ち込みの鞄の中には、薄手のマフラーを入れていた。海外では、だいたい役に立つ。重たい上着を持ち...
その男は、若い女と暮らしていた。年齢は六十七。女は二十五。近所のスーパーで、並んで歩くと、父娘にも見えたし、もっと悪く見えるときもあった。男はそれを、誇らしく思っていた。女が若いほど、自分がまだ終わっていない証拠になる。どこかで、そう信じて...
その男は、笑いを隠すことがうまかった。笑いそうになると、口の奥に舌を押し込んだ。奥歯の裏に、舌先を当てる。そうすると、顔の筋肉が固まる。目尻の揺れも止まる。学生の頃に覚えた癖だった。昭和四十年代。大学のキャンパスは、いつも煙の匂いがしていた...
音があった。低い音だった。耳ではなかった。足の裏だった。地面の奥で、何かが回っていた。鈍い震えが、靴底を通って骨に届いた。男は動かなかった。周りの連中は、誰も気づいていなかった。煙が流れていた。誰かが火をつけたばかりだった。別の誰かが、古い...
男は、特別な顔をしていなかった。背も、声も、経歴も、中途半端だった。目立つ学歴はない。営業でもない。技術者でもない。現場を仕切る胆力も、会議をひっくり返す弁もない。ただ、返事だけは早かった。「承知しました」「確認しておきます」「先方に伝えま...