今回は草創期の菊池氏の紹介ラストということで、菊池氏がどのように肥後国で勢力を拡げていったか、初代・ 則隆《のりたか》からみていった話になりまする。下記リンク…
見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。歴史好きの者が書いているブログです。
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治承4年(1180年)11月7日(以降の日付はすべて『吾妻鏡』に拠ります)。この日、佐竹氏を常陸国と陸奥国の国境付近へと追いやった軍勢が頼朝のもとへ凱旋してき…
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今回は草創期の菊池氏の紹介ラストということで、菊池氏がどのように肥後国で勢力を拡げていったか、初代・ 則隆《のりたか》からみていった話になりまする。下記リンク…
昭和34年(1959年)に志方正和先生が発表された「菊池氏の起源」で、従来菊池氏祖とされた菊池則隆の父として見出された藤原蔵規について軽く調べてみました。 …
今回は今現在菊池氏の起源で定説となっている志方正和先生の説を紹介しています。 志方正和「菊池氏の起源について」(『熊本史学』第15・16号 1959年)がベー…
日本中世前期に九州の武家として有名な菊池氏。今回は第1弾といたしまして、菊池氏の起源について、主に系図に基づいた近代までの研究をお話しした【前編】になります。…
治承・寿永の乱の第51弾です。今回は九州で起こった「菊池隆直の乱」の序といった話です。菊池隆直の乱(前)【治承・寿永の乱 vol.51】 【治承・寿永の乱 v…
2010年撮影の写真を掘り起こして記事にしました。よかったらリンクよりどうぞ 【甲斐国】 甲斐武田氏始まりの地(武田八幡宮、武田信義館跡、願成寺)|およま…
こんにちは。更新がまたしばらく滞って申し訳ありません。今回はみなさまへお知らせです。 今、こちらでは投稿数はそれほどではないものの「治承・寿永の乱」の話を中…
治承・寿永の乱、第63弾ですこれまでの話はこちらから。 🟦義仲の上野入国 治承4年(1180年)10月13日。源義仲は信濃国から上野国に入国しました。この…
治承・寿永の乱、第62弾ですこれまでの話はこちらから。 市原(信濃国)の戦い 以仁王の乱以降、地方で挙兵した勢力は頼朝や甲斐源氏だけではありませんでした。そ…
治承・寿永の乱、第61弾ですこれまでの話はこちらから。 はじめに 治承4年(1180年)8月に伊豆で挙兵し、わずか4ヶ月足らずで南関東を勢力下に置いて北…
こんにちは 今回の人物紹介は前回紹介した北条宗時を討ち取ったとされる人物、平井久重(小平井久重、紀久重、平井紀六とも)さんです。 平井紀六久重について こ…
こんにちは今回の人物紹介は北条宗時さんを紹介したいと思います とは言っても、宗時さんに関してお話しできることが少ないので、彼のお墓についてや討死した場所につい…
治承・寿永の乱、第60弾ですこれまでの話はこちらから。 新田義重、頼朝のもとへ 治承4年(1180年)12月21日。この日、上野国の新田義重(にった-よし…
治承・寿永の乱、第59弾ですこれまでの話はこちらから。 鎌倉の頼朝のもとへは坂東だけでなく他の地方の武士も馳せ参じてきましたが、今回はそんな方たちのお話しで…
治承・寿永の乱、第58弾ですこれまでの話はこちらから。 治承4年(1180年)11月17日(以降の日付はすべて『吾妻鏡』に拠ります)。この日、鎌倉に帰還した…
治承・寿永の乱、第57弾ですこれまでの話はこちらから。 治承4年(1180年)11月10日(『吾妻鏡』)。この日、小栗御厨(おぐり-みくりや)を発った頼朝は…
治承4年(1180年)11月7日(以降の日付はすべて『吾妻鏡』に拠ります)。この日、佐竹氏を常陸国と陸奥国の国境付近へと追いやった軍勢が頼朝のもとへ凱旋してき…
鎌倉散策記事⑩。今回はようやくこのシリーズ最終回【二階堂エリア】になります 前回の大倉御所東御門の石碑のほぼ向かい側に東へ延びる路地が一本あるので、そこを入っ…
鎌倉散策記事⑨。今回は【鶴岡八幡宮周辺(西御門)エリア】の後編になります 頼朝公に久しぶりの挨拶を済ませ、今度は鎌倉政権重鎮の方々へ挨拶に向かいます。 頼…
鎌倉散策記事⑧。今回からは【鶴岡八幡宮周辺(西御門)エリア】になります 鎌倉北条氏ゆかりの宝戒寺(ほうかい-じ)を出て北上。少し金沢街道を歩いていきますが、…
2010年撮影の写真を掘り起こして記事にしました。よかったらリンクよりどうぞ 【甲斐国】 甲斐武田氏始まりの地(武田八幡宮、武田信義館跡、願成寺)|およま…
こんにちは。更新がまたしばらく滞って申し訳ありません。今回はみなさまへお知らせです。 今、こちらでは投稿数はそれほどではないものの「治承・寿永の乱」の話を中…