(深川機関区留萠支区(留萠本線)1971 から続く)道内に「十字街」を名乗る地点はどれだけあるのか。また、あったのか。前記事からの命題である。それにも記した通り、地籍や住所の類いには用いられないから行政の文書に記載されず、国土地理院地図にも一切注記されない。近年のディジタルマップも含む、生活地図の類なら、そこに位置する銀行や商店などの名称に「十字街」が含まれることがあり、それと知れるけれど、事例は全ての「...
モノクロームフイルムで、そしてエクタクロームで撮った北の鉄道。 1966年から40年、北海道風景の記録。
10年程前の記事、奥白滝(石北本線)1979 でも触れたけれど、国鉄におけるCTC制御は、東海道新幹線への導入を念頭に開発が進められたとおり、在来線への適用も、当初には高頻度運転線区に対する運転扱いの一元化を目的としており、ルーラル地域地方線区へ設備する意図は希薄だったものと思われる。おそらくは当時の莫大な設備投資を勘案してのことだろう。けれど、導入前提である自動信号化など含めても、一定の区間・線区に一括で適...
先住民による、ペケレぺッ(peker-pet)とは、pe-peker-petの省略語にて「水の清らかな川」の意と言う。これを「清水」と意訳したのは、1899年8月に、全通した石狩道路のペケレベツに置かれた駅逓の取扱人、村山和十郎と伝えられる。山形県北村山郡高崎村大字関山(現在の東根市の一部)からシントク原野に入植したばかりであったが、高崎村の村長を務め、関山郵便局の局長でもあった前歴を買われての任命だろう。このペケレベツ駅逓所...
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(深川機関区留萠支区(留萠本線)1971 から続く)道内に「十字街」を名乗る地点はどれだけあるのか。また、あったのか。前記事からの命題である。それにも記した通り、地籍や住所の類いには用いられないから行政の文書に記載されず、国土地理院地図にも一切注記されない。近年のディジタルマップも含む、生活地図の類なら、そこに位置する銀行や商店などの名称に「十字街」が含まれることがあり、それと知れるけれど、事例は全ての「...
10年前に他界した親父の遺品整理がようやくに終わる。戦前からの写真の趣味人は膨大なネガを遺し、私的写真の行為者が不存在となれば廃棄処分が相応しいのだが,せめての供養にと全てのコマに目を通しつつ、引き継ぐべきコマのディジタル化に年月を要したのだった。家族写真や日常スナップをさておけば、大半が国内から海外にも及ぶ山行きに旅の記録なのだが、必然に鉄道情景も写され、中には貴重なカットも含まれていた。例えば、...
道内の主に都市部では、「十字街」なる地名を良く見聞きする。内地に事例が無いではなさそうが、圧倒的に道内特有の地名として良かろう。十字交差路ないし、その周辺街区を指して、には違いないけれど、これが土地の座標や地籍の表記、住所・住居表示に用いられた事例は無さそうなので、「地名」とするより「地点名」と解すべきかも知れない。道内の都市の多くは、零細な集落を起点に人口集積に伴って自己増殖したではなく、原野に...
塘路原野への殖民区画の測設は1895年と記録され(*1)、まずは塘路沼南岸と、西側の当時にコッタロ原野と呼ばれた広大な湿原域を一括してのことだった。これを記した殖民地区画図(1905年初版発行)には、1892年に釧路標茶間を全通した幅二間の道路沿いに、釧路川とつながる水路(*2)が塘路沼から流れ出る辺りから南へ3町余に市街地が見て取れる。1890年6月の沿道への駅逓所の設置を機に形成されたのであろう。その東側には整然と区画さ...
根室線の下り列車は大楽毛の手前で阿寒川を渡る。この位置への架橋は、1901年7月20日の北海道庁鉄道部による釧路線釧路-白糠間開業に際してのことで、橋長160ft(≒49m)の鋼製プレートガーダー橋は、施設名称を「大楽毛川橋梁」とされた(*1)。橋梁名が示す通り、当時にそこの水流は大楽毛川であった。釧路川・阿寒川の下流域低湿地への入植の始まりは1884年とされるが、河床勾配が極めて緩やかな原始河川は支川を含めて度々に氾濫し...
噴火湾形成の過程で磯谷の山塊に生じた急崖が海岸線へと落ち込む峻険な地形が続く、噴火湾の最奥北岸、静狩から虻田への陸路の開削は、幕府の命により1799年に着手され、その困難に一度は放棄、中断の後1804年に再着工して1806年に一応の完工を見た、とは2022年の記事、礼文(室蘭本線)1999 に書いた。その補遺である。ここは、山塊から流れ出る礼文華川、小鉾岸川、貫気別川にて、大まかに4区間に区分され、それぞれで尾根を...
1990年代のこと、DD51内燃機が牽いた札幌着発の本州連絡寝台列車は、臨時も含めれば1日に12本のスジが引かれ、東海道/山陽線を上下した九州特急に遜色の無い寝台特急群として良く、敬遠していた多客期でも出掛けていたのは、ひとえにこれが目当てだった。この頃の道内詣には、東日本会社が発売していた「ぐるり北海道フリーきっぷ」を手にしていたけれど、例えその10日間用でも札幌以遠へ脚を伸ばすことなく、函館・室蘭・千歳線ル...
釧路空港への着陸態勢に入った航空機から地上を覗き込めば、内水面と見紛う、光を強く反射する一角が多々見て取れる。ソーラーパネルの集積された太陽光発電所である。釧路市の年間合計日照時間(1991年から2020年の平均値である月平年値の合計)は1957.6時間で、東京の1926.7時間と大差ないのだが、冬季間の晴天率は極めて高く、11月から3月の月間晴日数は20日間を越える。加えて、原野や低い丘陵地など未利用地が広がる地形にはま...
かつて厚岸から浜厚岸への支線が通過していた、今に言う厚岸町真栄や港町あたりを、先住民族は「タンタカ」と呼称していたようである。この位置は、1821年の「大日本沿海輿地全図」の第22図に「タンタカコトエイ」とあり、1859年の「東西蝦夷山川地理取調図」、同年の「仙台藩管轄厚岸領図」には、共に「タンタカ」と注記されている。このほか、図幅を伴わないけれど、1834年の「松前島郷帳」に、「東蝦夷地蝦夷人居所之分」として...
かつてには稚内から興浜北・南線の未成区間を除けば、遥か斜里までを辿れたオホーツクの沿岸鉄道は、1980年代に大部分が失われ、その最南端に位置した釧網本線の網走-知床斜里間が辛うじて生き延びている。沿岸の交通路ではあったけれど、多くで海跡湖や海岸低湿地、砂丘など軟弱地盤を避けて内陸寄りに敷設され、海岸線を辿る区間は限られた。車窓にオホーツクの海を間近に見るのは、天北線に例はなく、興浜北線の斜内山道前後区...
今も、撮影行動の基本は列車移動に徒歩である。車窓からのロケハンで当たりをつけ、最寄り駅に下車してポイントを探しながら歩く。鉄道を撮り始めた蒸機運転終末期から今に至るまで続く、身についたセオリーなのだけれど、いまや少数派どころでなく絶滅に瀕したスタイルだろう。90年代半ば位までだったら、道内夜行急行の始発駅や車内などでご同業の姿を認めたものだったが、2000年代からこの方はとんと見かけない。これを持続した...
コタノロ川は、池田町と豊頃町の境界北側を流下し、流路延長7キロばかりで旧利別川に注ぐ小河川である。1904年12月15日の北海道官設鉄道釧路線の豊頃から利別への延伸に際して、この合流地点の直近に古多乗川橋梁が架けられた。農業地帯に佇む延長僅か26メートルの何の変哲もない桁橋であるけれど、歴史上に一度だけ、その周囲が大変に賑わったことがある。1911年の9月2日、北海道の行啓途上、一日がかりで旭川から釧路へ向かう皇...
室蘭本線の旧長輪(おさわ)線区間の線増(=複線化)は、第二次5ヵ年計画の計画外として1961年度に先行着工した静狩-礼文間を除き、第三次長期計画による幹線輸送力増強の一環として隘路区間を優先して進められた。黄金から陣屋町の区間もその一つであり、1962年の時点での線路容量の102回は、1970年度の伊達紋別-東室蘭間に想定の120回に18回を不足し、さらに1975年度には137回が想定されていたのだった。(出典「札幌工事局70年史」19...
釧網本線は、機関車屋には必須の線区だった。そのオホーツク岸と太平洋岸、Coast to Coastの回廊機能に多くが運行された貨物列車に加え、近代化投資(=ここでは気動車化)の遅れと言って仕舞えば、それまでだが、線内着発の小単位貨物財源など疾うの昔に失われて、実質には旅客列車だったにせよ混合列車が永く残り、沿線で待てばやって来る列車の大半が機関車列車だったゆえである。1984年2月の改正に至っての、ようやくの貨客分離は...
天塩川を遡る古の交通路には最奥地であった和寒(wat-sam)に、天塩石狩国境の分水嶺を越えて鉄道が通じたのは、1899年11月15日と記録される。これに先駆ける7月1・12・13日のこと、士別(si-pet)及び剣淵(kene-puchi)屯田兵村に入隊入植する436名とその家族らが蘭留(run-ru)から工事用の台車にて和寒まで運ばれており、この時期までに軌道は敷設されていたと知れる(工事用の仮設かも知れぬが)。この後1903年までには名寄に達する官設...
函館線の海線区間は、道内各地を青函航路を介して本州線へと結ぶ重要幹線ゆえ、どの停車場も上下列車に共用の、ないしは上下線別に待避線を備えていた。それを持たないのは、貨物列車の運転線路が上下列車で異なる大沼-森間を除けば、仁山、姫川、桂川、本石倉、鷲ノ巣、北豊津の信号場に、もともと棒線の大中山、東森だけだった。(但し、石倉は上りのみが退避可能、戦時設計の砂原回り線では、池田園・渡島砂原・掛澗の各駅は下り...
記憶は正しかったのだった。函館市中央図書館がディジタル化して公開している森や落部、八雲などの古写真、多くは北海道新聞社函館支社の旧蔵写真の寄贈によるものらしいが、その数葉に浜に大量に干される昆布の景観が捉えられていた。以前にも書いた。幼少の頃、父親の転勤にて小樽へと移り住んだ一家は、内地への帰省の行き帰りに函館線の急行列車に揺られた。乗車距離の長い東北・常磐線区間を夜行とするのが通例だったから、青...
国内における建築・デザインの機能主義は、19世紀末のドイツやオーストリアにおけるゼツェッシオン運動の流れを汲み、素材・部材の大量生産を前提に合理的モダニズムを追求したシカゴ派にインスパイアされたものであろう。シカゴ派の中心人物であったルイス=サリヴァンの唱えた「形は常に機能に従う」(原文Form ever follows function)の主張は、国内の建築家たちにも大きな影響を与え、1920年代には新建築運動が活発化していたの...
10年程前の記事、奥白滝(石北本線)1979 でも触れたけれど、国鉄におけるCTC制御は、東海道新幹線への導入を念頭に開発が進められたとおり、在来線への適用も、当初には高頻度運転線区に対する運転扱いの一元化を目的としており、ルーラル地域地方線区へ設備する意図は希薄だったものと思われる。おそらくは当時の莫大な設備投資を勘案してのことだろう。けれど、導入前提である自動信号化など含めても、一定の区間・線区に一括で適...
先住民による、ペケレぺッ(peker-pet)とは、pe-peker-petの省略語にて「水の清らかな川」の意と言う。これを「清水」と意訳したのは、1899年8月に、全通した石狩道路のペケレベツに置かれた駅逓の取扱人、村山和十郎と伝えられる。山形県北村山郡高崎村大字関山(現在の東根市の一部)からシントク原野に入植したばかりであったが、高崎村の村長を務め、関山郵便局の局長でもあった前歴を買われての任命だろう。このペケレベツ駅逓所...
芽室駅から道道715号芽室東四条帯広線を帯広方向へ辿ると、直ぐに河岸段丘崖を下る坂道となって美生川に架橋の大成橋に至り、それを渡り切ったあたりに十勝バスの南2線22号停留所が置かれている。ここを歩く度に気になっているのだが、芽室駅方面行きバスをここに降りても行くところが無い。停留所の背後は美生川河川敷の樹林帯が続いているだけである。大成橋対岸には間近に市街地が見えるが、そこに行くなら次の芽室東6条停留所...
沼ノ端-遠浅(室蘭本線)1969 から続く古い鉄道屋にも遠い昔、「神話時代」の話を続ける。1956年11月改正時点の小樽築港区の仕業表を見ると、C57には甲組として1・2<大雪>、3・4<アカシア>に7・8<まりも>、107・108<すずらん>の急行仕業を含む全14仕業が組まれているが、肝心の<まりも>の牽引は富良野までであり、釧路に至っていたのは昼行411・412、夜行419・418の普通列車2往復牽引である。<まり...
C57型蒸機の道内への配備は、1947年9月30日付で小樽築港機関区へ新製配置された57200と57201を嚆矢とし、1975年の運転終焉まで述べ29両を数えた。新製を除く27両は内地からの転用で賄われ、全てが再び海峡を渡ることなく道内で用途廃止を迎えた。新製配置の2両と、およそ2年後の1949年の6月から7月に仙台機関区から小樽築港に配転の5757・57118は、1947年6月1日の日本国有鉄道の発足時点で9両が在籍していたC55の実質的増備と捉...
以前、八雲(函館本線)1972 に書いた覚えがあるが、めぼしい俯瞰画角がとれない地点にあっては、道路との立体交差、跨線橋は鉄道屋には貴重なポジションに違いない。大楽毛周辺では、国道38号線の大楽毛跨線橋がそれにあたり、位置的に空港に近いこともあって道内到着時や帰途前に連絡バスを大楽毛駅前で乗り降りして撮っている。この跨線橋の供用も、全国で土道砂利道ばかりだった一級国道の抜本的改良が進められた1960年代のこと...
興浜北線が歴史の彼方に果てて40年近い歳月になる。1980年前後の数年間のこと、冬旅に斜内山道を必ず組み入れていたけれど、毎年に吹雪かれるばかりで定番と思える目梨泊方からの神威岬背景のカットなど手にしていない。どれも猛吹雪前提の岬直下での撮影ばかりである。この頃には夜行急行を宿代わりとした周遊行動が撮影行のスタイルであり、同一地に数日留まっての天候待ちなど考えもせず、連日夜行で移動していた。反面、再訪や...
音別(根室本線)2018から続くかくして 「地方分権推進」の実体は、見事に「基礎自治体の合併」へとすり替えられ、2010年度まで続いた「平成の大合併」の時代の幕が開いたのだった。これは、民主主義、デモクラシーの実践にとって正反対の愚策であった。それに相応しいのは基礎自治体の細分化である。原理である「直接民主制」に鑑みれば自明であろう。単純に考えても市町村の規模が大きくなれば、住民の直接請求やリコールなどの成...
1975年だったと記憶するが、音別には帯広に降りるはずの夜行423列車での寝過ごしの偶然で降り立って以来、それこそ幾度も訪れている。特に、道内夜行の廃止で夜間移動が困難となり、地域を絞っての撮影スタイルへの転換を強いられてからのこの方の道内行きでは、半ば慣例化している。つまりは、ここの半世紀余りを訪問者として眺め続けたことになるけれど、近年の、そう2000年代後半あたりからだろうか、駅前周辺の寂れ方はあまり...
随分と古くからと思うが、銭函駅の改札口ホーム側上部には、わざわざ「銭凾」と大書きされた如何にもそれらしき大箱の飾り物が吊り下げられていた。何代目の作り物かは知らぬが、今では下ろされてホーム上への展示となっているらしい。一時期、入場券が縁起物と持て囃されもしたのだが、近頃にはすっかり沙汰止みと見える。道内で最も古くに開業した停車場の一つであり、駅名は所在地名からの採取に違いないが、その起源は先住民の...
道内幹線系線区であまり撮っていないのは根室本線の釧路までの区間だった。共に長大隧道を含む狩勝新線と金山ダム建設に伴う付替線の開業により富良野-池田間が1966年に、その先釧路までも69年早々には無煙化がなされ、蒸機撮影の頃に足が向かなかったのが尾を引いたものか、先の新線区間と音別周辺の他は訪れていないのだった。この線区へ通うのは近年のことで、道内夜行の全廃と、続いた均一周遊券の廃止で周遊型の撮影行が困難...
オダッシュ山の山麓緩斜面に敷設された狩勝新線の開業時、滝川起点126K960Mに置かれた信号場には「広内」の名称が付された。落合-昭栄(信)間にCTCが施行される71年3月31日までは運転要員が配置され、無人の上落合・新狩勝・西新得の各信号場を被制御駅に進路・信号のリモートコントロール制御を行う、当時に最新の技術による狩勝新線運転の核心停車場であった。この際の「広内」とは、所在位置の地名であり、西新得方に開削の隧道...
幾度もの道内通いは、勿論冬場も欠かさなかった。好んで出掛けたとしても良い。風雪や冬枯れの光景に低い斜光線の陰影もあるけれど、貧乏性の鉄道屋はポジションの選択肢が広がる撮影の実用性も感じていたからに他ならない。夏場には登れない熊笹の斜面でも、深雪を厭わなければ這い上がれたし、凍結した湖面にも河畔にも立てるのだった。表土も凍結するから湿地、湿原へも踏み込めた。雪の深い稚内サラキトマナイ原野、エノシコマ...