私が小学校3年から4年の頃、幼かった私の耳にもたび重ねる東北地方の冷害による凶作で農村では娘身売りなどが行われるなどの悲惨な状況が聞こえてきていました。昭和11年(1935)春の頃ひそひそと話す大人達の声に私は陸軍の若い将校達が軍隊を率いて反乱((クーデター)を起こして鎮圧され銃殺されたことを知り怖いなーと思いました。どうやら青年将校たちの反乱は悲惨な東北地方の農民達の現状を改善する為だったこと、そしてその話の中に高松の宮(昭和天皇の弟)のことなども大人達の声などから私のような子供にも聞こえてきたりしていました。私は母の購読している雑誌(名前は不明)に青年将校たちの写真が掲載されて青年将校達をたたえる記事が報道されているのを読みました。当時の雑誌の記事の漢字にはすべてルビがふってありましたので、小学校4年の子供...226事件に94歳爺いの思うこと。(1)
爽やかな新緑の輝きが嬉しくて脚の痛みが薄らいでようやっと歩けるようになって3週間ぶりの散歩道に命が生き返りました。植え終わる圃場広々と
「石油ランプで暮らしていた集落に電気がきた嬉しい!」そんな経験をした人など今はもう居ないでしょうね。でも私は小学校2年7歳の時それを経験しているんです。昭和7年(1934)の年でした。石油ランプで暮らしていた集落のそれぞれの家ではランプの石油を倹約する為に早々とランプを消して眠ります。集落の夜は真っ暗なんですよ。「草木も眠るうしみつどき」という言葉がありました。「うしみつどき」といのは古い計時法で現在の午前2時から2時30分の頃の時刻にあたります。つまり「うしみつどき」にはすべての生き物は眠ってしまって、「魑魅魍魎(ちみもうもうりょう)がさまようているということです。魑魅魍魎というのは化けものや幽霊なぞのことです。つまりその時間帯ではお墓に青い火が静かに燃え、この世に恨みを残す幽霊が姿を見せ、きつねやタヌキが人...遠い日の思いを懐かしむ
私が小学校2年の頃(昭和9年1934)の冬はすごい豪雪でした。5月になっても1m近くの積雪が残っていて田んぼに苗床がつくれないのでした。集落の人たちは相談して皆鋸とスコップを持って集まり鋸で積雪を切ってスコップでのけてようやっと田面をだして5月末には苗床を作ることが出来ました。大人の人たちはみんな心配で心配で必死の作業だったと思います。でも私たち小学校2年の頃の子どもたちにはその作業がなんかお祭りみたいに見えて愉しんで見ていた記憶があるんです。その年は気温が上がらず米の収穫はほとんど皆無でひどい凶作でした。当時の東北地方の農村では○○さまと言われる大地主が小作人を抱えて稲作の農業をやっていました。小作人は凶作であっても定められた小作料を納めなければ小作地を取り上げられてしまいます。やむを得ず一家が生きるために娘...懐かしい冷害凶作の時の思い出
小立岩と言うのは奥深い山あいの、安越又沢(あごしまたさわ)と檜枝岐川(ひのえまたかわ)が合流する場所の狭い居平に寺を含めて10軒ほどの民家が寄り添っている小さな集落でした。そこに茅葺き屋根の2教室に教員住宅のついた民家同然の小さな小学校校舎がありました。その小学校に教員として父が着任し私たち家族が住むことになったのです。私はその小立岩の集落に小学校の1年から5年までの5年間を過ごしました。狭い居平の世界でしたけどそれは子供の私にとっては私の全世界でした。楽しいこと、寂しいこと、悲しいことなどの思い出がいっぱいある私の大事な古里でした集落の子供仲間の小学校1年生は「とくお君」と私の二人でした。「とくお君」は私を友達としてではなくて先生の息子の新入りの世話を親切にしてやるという態度でした。だから私に大きな影響を与え...小立岩での思い出(トクオ君)
6歳になって伊北村只見小学校に入学した私の家族は5月になって業者のポンコツのダットサントラック(90年も昔当然荷物運搬は馬車でした。ポンコツのトラックといってもとても珍しいことでした)に家財をのせて父の新任地の大川村小立岩の小学校に移住しました。途中エンジンが止まったりして朝出発して午後に着きました。今の車なら3時間程度のコースなんです。(昨日の書き出しと同じ)トラックで午後に小立岩の小学校前につくと「自動車だ~」と叫んで集落の子供達5~6人もがもの珍しらしそうに集まってきました。そして集落の大人の人もいらっしゃって荷物の運搬など手伝ってくださいました。小立岩と言うのは奥深い山あいの、安越又沢(あごしまたさわ)と檜枝岐川(ひのえまたかわ)が合流する場所の狭い居平に寺を含めて10軒ほどの民家が寄り添っている小さな...新しい世界の小立岩
6歳になって伊北村只見小学校に入学した私の家族は5月になって業者のポンコツのダットサントラック(90年も昔当然荷物運搬は馬車でした。ですからポンコツのトラックといってもトラックはとても珍しい乗り物運搬車でした)に家財をのせて父の新任地の大川村小立岩の小学校に移住しました。途中エンジンが止まったりしてのろのろ走ってその日の朝出発して午後遅くの居に着きました。今の車なら3時間程度のコースなんですけど。写真は現在の小立岩(現南会津町小立岩)です。昔の面影は全くありません。福島県側からの尾瀬沼登山口の檜枝岐村までの道が国道になり立派な舗装道路になっています。それにすぐ近くにパウダースノーの素晴らしいスキー場(高畑スキー場)が開設され、かつての茅屋根の民家はすべて新しくて綺麗な民宿や旅館に変わってしまいまそこでこのさい昭...遠い日の古里の思い蘇らせて
5歳のとき伊北村只見に移り住んで一年が過ぎました。その年の4月父は檜枝岐村の隣の大川村小立岩の小学校に転勤になりました。奥会津の4月はまだどっしりと雪が積もっていて道路があきません。除雪車などない昭和の初期の昔です。父は3月末に先に小立岩に赴任し、家族は雪が消えてトラックが通る5月に小立岩に移住することになったのです。当時の小学校の入学式は4月4日前後だったと記憶しています。父の転勤によって只見に残った私は一ヶ月ほど只見小学校に入学し5月になって大川小学校に転校することになりました。当時は幼稚園などありません、6歳になった子供たちは初めて小学校という集団教育の場に入学するのです。子供たちはもちろん保護者も先生方も大変なことでした。初めて入学する子供たちは国語と修身(道徳)の教科書一冊と石盤(薄い石のスレートで出... 5歳の頃の伊北村(いほうむら)只見の思い出の記(2)
昭和7年(1932)5歳になった私は親しんでいた隣の幼な友だちの女の子とも別れて父の勤務先の伊北村只見(いほうむらただみ)に移り住みました。住居は新築したばかりの空き屋を借りていました。庭には屋根のついた井戸がありました。初めて見る井戸です。麻縄につけられた桶のつるべを滑車で曳いて井戸の水を汲み上げていたのです。深い井戸の底を見ると水面がかすかに光って見えてなぜか神秘的でした。幼い私はいつも井戸の底を見るのが好きでした。お隣の家は鍛冶屋さんでした、ふいごで炎を上げる炭火で真っ赤に焼いた鉄を叩いて鉈や鎌などの刃物や鍬などを作ったり修理したりしていました。初めて見る鍛冶の仕事です。珍しくて興味しんしん暇ががあればいつも眺めていました。娘さんが3人ほどいたんですけどちよっと清潔感に欠けて見え性格も少し粗々しくて友達に...5歳の頃の伊北村(いほうむら)只見の思い出の記(1)
私は昭和2年(1927)1月3日、当時の南会津郡朝日村熊倉と言われる集落にあった小学校の文教場の教員住宅で生まれました。父がその学校の教員をし母はその校舎の二階で集落の女の子達を集めて裁縫を教えていました。早春の裏山にシュンランの花の咲く静かな集落でした。成人になってその集落を訪れるとおばさん達が「あーらさんたろうがこんなに大きくなって可愛い赤ちゃんだったのに」とおばさん達に言われました。そう言われればかすかに母が裁縫を教えていた女の人たちに可愛がられた記憶が蘇るんです。生まれた最初の思い出と言えば父の肩車に乗って川から亀が獲れたと言うので見にいった時のことです。ほんわか温かい思い出でなんですよ!。でもどうしたことか亀の記憶は全くないのですが父の背で見た夕暮れの空の大きな月が思い浮かぶんです。たぶん3歳の頃まで...私の誕生の遠い日に
ご免なさい、所用のためなどと書きましたけど實はちがうんですよ、階段を急いで駆け下りて階段を踏み外し激しく転倒左脚を強く打撲したんです。幸い骨に異常はありませんでしたけど打撲の痛みで散歩が出来ず、年甲斐もない失敗が恥ずかしくて「所用のめ」などとごまかしたのです。ごめんなさい。幸い打撲の痛みは改善されたんですけど完全ではありません。それにはやばやと梅雨に入ったみたいでまだ散歩はままなりません。そこでこのさい昭和2年(1927)に生まれ18歳で狂気の時代を敗戦で終わり新しい日本を迎えた18年間の子供から青年前期までの体験の思いを追ってみようかと思いたったのです。94歳の私当然ながらだいぶ惚けましたしたけどいまでは集落の男性では最高齢の古老になってしまいました。こころへんでひとつふたつの思い出をたぐって見るのも私にとっ...ブログ再開いたします
所用がありますのでしばらくブログを休みます。しばらくブログを休みます
けぶる野が広々と中国大陸部の内部ゴビ砂漠などで強い風に巻き上げられた土壌や鉱物粒子が海を越えて会津の空まで飛んでくるんだそうですね,かつては中国からの有害汚染大気が含まれていて問題になりました。でも今はその心配はないみたいですね。空の雲みたいに見えるもやは黄砂の流れです黄砂流れる空に
コロナ禍の厳しい春ですけども4日後には第一回のワクチン接種を受けます。第2回目の接種後10日をすぎたらやりたいこともあるんです。気をを許すことではありませんけどもほのかな希望に明るい気持ちになるんです。やりたいこと?・・老体の爺いです。30年使い込んだ総入れ歯を新調することなんです。つまらんこと?!・とんでもありません老体には大事なことなんですよ!黄砂にけぶる春の緑の散歩道
コロナ禍の厳しい春ですけども4日後には第一回のワクチン接種を受けます。第2回目の接種後10日をすぎたらやりたいこともあるんです。気をを許すことではありませんけどもほのかな希望に明るい気持ちになるんです。やりたいこと?・・老体の爺いです。30年使い込んだ総入れ歯を新調することなんです。つまらんこと?!・とんでもありません老体には大事なことなんですよ!黄砂にけぶる緑の春の散歩道
コロナ禍で人通りの多い緑公園の散歩はずっと避けて人の姿の見えない農道だけを散歩していましたけど、桜が葉桜になり、散歩なさる姿もパークゴルフっを愉しむ人たちの姿も見えなくなったのでしばらくぶりに河川敷の緑公園を訪れました。1年ぶり、見るものすべてが新鮮でした。堤の桜並木の1本1本にはこんなプレートがついているんですよ。約10年ほどの長期計画で町が町民に呼びかけて堤の桜並木を植樹したんですね。若木の桜もありますけども立派な太い桜の木にあるんです。でもその1本1本には町の呼びかけに応じて植樹された桜樹ですのでこんなプレートがつけられてその木の手入れもしているんです。今でも見事な桜並木ですけども10年もすれば名所になるんだとおもいます。町の誇りだと思っているんです。1年ぶりに河川敷の緑公園を散歩しました。
耕耘の終わった圃場に私が一人です圃場の空気は澄み切って人の姿は見えません。ですから爽やかな風にコロナウイルスの心配は少ないと思ています。気持ちいい散歩道、私一人歩む私の散歩道です。ワクチンの接種も始まっています。マスクをしなくていいようなったイスラエルのように日本もやがてはコロナ禍も治まると思います。力のない弱い個人の私です。国や県や町の対策を云々しても意味がありません。コロナ禍から自分をしっかり守ることが唯一最善の道だと思って耐えていくつもりでいる私です。鮮やかな農道の緑遠くまで
村の緑が鮮やかに濃くなりました今日は朝から曇り、ばばちゃんのデーサービスの日です。迎えの人に支えられて笑顔になって車に乗って行きました。週2回のデーサービスがばばちゃんの元気を支えているんです。心からの感謝のきもちで「よろしくお願いします」と送り送りました。ばばちゃんを送ってほっとして録画しておいたテレビを見終わって、台所に立って三日分の自分の山賊料理を作りました。ニンジンの皮を剥いて銀杏葉の形に刻みなはがら「とんとん」とリズミカルな包丁の音にわれながら上手になったもんだと嬉しくて満足しました。終わって三日ぶりの生協での買い物です。レジは息子と同級のおなじみのMさんです。「こんにちは」と挨拶する私に「お元気そう」といわれ「ボケが進んでどもならんのよ」応たえ、短い言葉をかわしながらのレジでした。60歳を過ぎていら...飯豊連峰の白雪輝いて
輝く緑の村通り村の空高くカイトが風に舞っていましたはやばやとカラスから作物を守る鷹のカイトです。収穫の終わる晩秋まで昼夜を問わず舞い続けるんですね、美しいです、ご苦労さまです、どなたさんがセットされたカイトなんでしょうか嬉しいです。新緑の5月
今水田の圃場は田植え前の耕耘がほとんど終わって畦の草刈りが行われています。畦草を綺麗に刈り取るのは水稲の害虫の草カメムシなどの防除にとても大事だと聞いたことがあります。少しお若く見える方の畦草を刈る姿に私のような古老は驚いてしまいます。最新式の草刈り車です。畦草刈る姿は時代とともに変わってくるんですね70年前私が20歳代頃の田んぼの畦は田んぼの境をするだけの狭い畦でした。なにせ田んぼの広さは4畝(4アール)前後の狭い田んぼでした。馬や牛で耕耘し代掻きするにはちょうど良い広さでしたからです。今は大掛かりな基盤整備で大型機械に適応するヘクタール単位の広い田んぼに変わっていますけど。古い時代には田植えが終わると鎌を研いで狭い畦の草を刈り、刈り取った草は大事に持ち帰って馬や牛の飼料にしていました。そしてその刈り取った跡...あちこちに畦刈る人の姿が見えました
晩春の野にチョウを追いました。晩春の野にはチョウしかいないんです、他の昆虫ははまだ姿を見せてはいないんです。それに私のお師匠さんの会津マッちゃんさんに絶滅危惧種のヒメシロチョウに注意して欲しいと言われていましたから。今はまだチョウの種類も数も少ないんです。いま盛んに飛び交っている蝶はモンシロチョウらしい白い蝶です。その中に気のせいかちょっと姿の小さいチョウがいるような気がするんです。でも今のチョウはすごい早さで飛び交っているだけでで止まってくれないので確かめようがありません。50mm-200mmズームレンズをつけて追ったんですけどだめでした。それに姿は小さいけどキアゲハチョウらしいチョウがときおり見られるんです。でもこれも早いスピードで飛んでいて止まってくれません。それに一頭だけ小さなヒメシジミチョウがタンポポ...しばらくぶりの晴れ間が嬉しくて
物語りありそなお屋敷の緑に心惹かれます明るい5月の陽を受けて
新緑の緑5月です国道49号線鶴沼橋の上からの眺めです。老いの歳を一瞬わすれて嬉しくなりました。緑・緑・緑
でも少しもやってましたけど空は綺麗に晴れていて新緑の集落が綺麗でした立っているのがやっとの強い東風に耐えてシャッターをきったんですよ晴れているけど強い風の午後の散歩でした
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