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MOKOTAさんのプロフィール

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博多区
出身
奄美市

カレンダーと連動してコラムを書くので幕末の時間の流れが分かりやすい。 カテゴリーとタグなどで人物ごとに知りたいところだけ読めます。各人物のつながりや影響が分かって来ると幕末は面白い。坂本龍馬、高杉晋作、新撰組なども網羅していきます。

ブログタイトル
幕末の全てが分かるブログ
ブログURL
http://bakumatu1583.seesaa.net/
ブログ紹介文
幕末(1853〜1869年)に起こった事件をそれぞれの人物の視点から紹介していくブログです。
更新頻度(1年)

15回 / 149日(平均0.7回/週)

ブログ村参加:2010/08/19

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MOKOTAさんの新着記事

1件〜30件

  • 坂本龍馬

    江戸剣術修行 坂本龍馬は嘉永6年4月に江戸に剣術修行に出てきた。北辰一刀流の千葉定吉の道場である。 道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われる佐那)がいた。 黒船来襲 江戸に出てきてわずか2月ほどで龍馬は黒船騒ぎに遭遇する。 土佐藩からの命で品川付近の警備にあたっていたそうだが、ペリーは6月11日には江戸湾深くに進入してきたこともあり龍馬が黒船を直接見たであろうことは想像できる。 この直後に家族に戦となったら異人の首を取ると手紙に書いているが、当時の龍馬は純朴な攘夷青年であったのだろう。 佐久間塾 嘉永6年12月1日に龍馬は佐久間象山の..

  • プチャーチンの事情

    クリミア戦争 1853年10月にロシアとオスマン帝国の間で戦端が開かれた。クリミア戦争の始まりである。 この戦争にイギリスとフランスが介入して来るという話は以前からあり、開戦前であったプチャーチンの航海中にもイギリスの邪魔があった。 補給と退避 中立地帯である長崎もプチャーチンらにとって安全とも言えず、補給の必要性もあり香港に向かうことになる。川路らの使節団が長崎に到着する前にプチャーチンは長崎を去っていった。 ペリー 香港へ避難したプチャーチンはそこでペリー艦隊と遭遇する。イギリスの妨害で補給が困難であったプチャーチンはペリーに石炭を融通してもらうように頼み、日本との交渉..

  • ペリーの誤算

    香港へ 浦賀を去ったペリー一行は沖縄を経由して香港へ向かった。 香港にて艦隊を再編成して翌年の春に日本へ向かうためである。 ロシアとの共闘 香港で待つペリーのところへプチャーチンが共闘を求めて来た。 だが、単独での交渉に自信を持っていたペリーは燃料の石炭をあげて追い返す。 アメリカの政変 悠々と準備を進めていたペリーだったが、そこにアメリカでの政変の知らせが届く。日本行きを命じたフィルモア大統領が失脚して日本行きを反対していたピアース大統領が就任していた。実は浦賀に着いた時には既に大統領は交代していたのだ。 この政変によっていつ帰還命令が出されるのか分からなくなったペリ..

  • 川路とプチャーチン

    川路ら長崎に到着 嘉永6年12月5日にプチャーチンが長崎に入ると同年12月8日に川路聖謨と筒井政憲は長崎に到着した。 同年12月14日に両者は初めて会談する。それは交渉というものではなく慰労のための懇談会であった。 日露の交渉は穏便に進み、同年12月17日にはプチャーチンがロシア船に招待して川路らを歓待した。 その翌日から本格的に川路とプチャーチンの日露交渉が始まることになる。

  • 孝明天皇の祈祷

    安部の頼み 徳川家定への将軍宣下の儀のために江戸へ来た三条実万は阿部正弘に開国にたいしての朝廷の意見を求められる。政治に全く関与しない朝廷に意見があるはずはないのだが、阿部は朝廷の意見を参考にしますので何かあれば協力して下さいと頼む。 諸大名・御家人・町人からも意見を求む阿部正弘の政治方針であったのかもしれないが、これが幕末に朝廷が関わってくるきっかけとなるのである。 孝明天皇の祈祷 かといって朝廷に政治のことは分からない。京に戻った三条実万は現在の政治状況を公家たちに教える。 一方で、孝明天皇は祈祷をし、日本国を守るように祈るだけであった。

  • 水戸藩が軍艦を作る

    水戸藩の大砲 海防参与となった徳川斉昭は幕府にいくつかの意見書を出したりと精力的に幕政に関わっていた。 嘉永6年12月15日(1854年1月12日)には大砲74門を幕府に献上した。 軍艦つくりに着手 年が明けて嘉永7年1月2日(1854年1月30日)、水戸藩はいよいよ軍艦の建造を始める。

  • 日露長崎会談

    国境問題 日露の国境問題はこの会談から始まった。千島列島と樺太の領有権を双方とも争ったのだ。 この問題は結論が出ずに先送りされることになる。 通商・和親 プチャーチンはアメリカより先に条約を結びたかったが、川路の粘りにより今後に条約を結ぶときはロシアを優先するという言質をとるのみにいたる。 日プチャーチン長崎を去る 嘉永7年1月8日(1854年2月5日)、ロシア艦隊は長崎を出港する。

  • ペリー再来

    ペリー再来と台場 嘉永7年1月16日(1854年2月8日)、ペリーが再びやって来た。今度は7隻(後に2隻増えて9隻となる )の艦隊をひきいていた。 今回も恫喝から入ろうとペリーは江戸湾内に侵入して神奈川の付近まで行く、ところがそこで品川に並ぶ建設中の台場を発見した。前回の来航から7ヶ月で台場を建設していることに驚愕したのだ。 江川太郎左衛門からすると春に来ると予告されていたペリーが予定より早く来たことにより台場が未完成であったのが悔やまれたであろうが、とにかく精神的な威嚇の役目は果たしたといえよう。 ペリーは礼砲を放つとそのまま江戸湾奥に停泊してしまう。

  • 江川と万次郎

    ジョン万次郎 少年時代に漂流してアメリカで暮らしていた万次郎は嘉永4年に日本に帰国する。いくつかの取調べを受けた後で故郷の土佐に帰り武士としてとりたてられた。 その頃にペリーが黒船で来航し、幕府はアメリカに詳しい万次郎を登用することになる。 嘉永6年11月5日(1853年12月5日)に幕府直参として取り立てられた万次郎であったが、幕閣の中にアメリカ帰りの漁師である万次郎をスパイではないかと疑う声があり、登城することができなかった。中でも強行に反対したのが徳川斉昭であったという。 江川と万次郎 万次郎の処遇に困った阿部正弘は、江川太郎左衛門に預けることにする。元々、万次郎を推薦して..

  • 異国船見物禁止

    ペリーの威嚇 江戸湾内に入り込んだペリーは浦賀まで下がるようにという幕府の要望をはねつけて勝手に測量したりしながら江戸湾の外へ出ることはなかった。 庶民の好奇心 当初は緊張感を持って遠巻きに見ていた江戸近辺の庶民であったが、数日が過ぎて戦にならなさそうなのを察すると、野次馬が集まり見物客で沿岸はにぎわった。 黒船が江戸湾に居座っているために漁業や輸送などの商売で損害があったが、観光商売がにぎわって活気付いたという。 異国船見物禁止令 嘉永7年2月3日(1854年3月1日)、幕府はこれを問題に感じ異国船見物禁止令を出した。

  • 中島三郎助、再び黒船へ

    江戸湾でごねるペリー 戸田氏栄や黒川嘉兵衛が黒船に乗り込んで浦賀まで戻ることを要求するが、ペリーはそれに応じずに江戸湾内にとどまる。 この時に幕府は交渉場所を鎌倉として、なるだけ江戸からペリーらを遠ざけようとしたが、ペリーは江戸での交渉を望み話し合いは平行線のまま膠着する。 交渉地決定 幕府は洋式軍艦を製作していた中島三郎助と香山栄左衛門を黒船へ送り込んだ。ペリーらから信頼を得ていた香山の尽力により交渉地が横浜に決定することになる。 鎌倉と江戸との折衷案であった。

  • ペリー横浜上陸

    横浜上陸 嘉永7年2月10日、ペリーは横浜に上陸した。対する応接掛は林復斎で全権を任されていた。 日本の歓待 上陸したペリー一行らを迎えた幕府はまずは接待ということで最高の料理人と最高の食材による懐石料理をご馳走することにした。莫大な費用がかかった接待であったが、食文化の違いと謙遜文化の意思疎通ミスによりアメリカ側は粗末な食事を与えられたと思った。 日米交渉は誤解からスタートしたのである。仮に万次郎が通訳として同席していたらこのようなすれ違いはなかったであろう。 交渉開始 アメリカ側の要求は複数の港の開港、そこでの薪水の給与、漂流民の保護なと多岐にわたり、また通商や領事の常..

  • 日米和親条約

    日米和親条約 嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約が結ばれた。 条約の主な内容は以下のとおりである。 ・アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港。 ・漂流民の引渡し。 ・アメリカ人居留地を下田に設定する。 ・領事をおくことが出来る。 ・アメリカを最恵国待遇とする。 これにより250年における幕府の鎖国政策は終わりを告げたのである。

  • 松蔭、友との別れ

    松蔭、江戸に戻る 長崎でロシア船に密航するのに失敗した松蔭は翌年の春に来るというペリーの米国艦隊に密航しようと江戸に戻ることにする。 松蔭が江戸に戻ったのは嘉永6年12月27日(1854年1月25日)であった。 友と弟子と師 江戸に戻った松蔭は友人の宮部鼎蔵と弟子の金子重輔と共に過ごす。松蔭は金子と二人で密航を考えていたが、宮部鼎蔵はギリギリまで反対していた。 しかし、松蔭の決意が固いと知ると見送りの宴を開いて送り出した。 師の佐久間象山は松蔭の決意を称えて詩を送った。 こうして嘉永7年3月5日(1854年4月2日)に松蔭と金子重輔は江戸を出て黒船に向かう。

  • 島津斉彬

    島津斉彬 薩摩藩のお家騒動で40歳を過ぎてようやく藩主になった島津斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。 阿部正弘とも親交が深くペリー来航で斉彬を必要とした阿部は参勤交代の次期を早めて江戸に呼び寄せた。 西郷吉之助 薩摩の下級武士であった西郷吉之助は斉彬が藩主になって藩内から意見を求めるようになると意見書を書く。それは藩政批判の色が濃い過激な内容だった。 しかし、斉彬は西郷の一本気な性格に興味を抱き江戸へ連れて行く供に指名する。 江戸についた西郷はお庭番として身分が低いながらも斉彬の側近として取り立て..

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