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来年
早いもので今年もあと二ヶ月となってしまった。年初の誓いはいつものことだがとうの昔に消えて無くなって目の前のことに翻弄される毎日だった。こんなことを繰り返すのであれば。今年の早めに1年の反省を済ませて、来年こそはしっかり生きてみようと思うのだが、さてどうなることやら。来年
2010/11/06 15:33
市ヶ谷20100520
飯田橋の厚生病院から歩いてきた親子母親のお見舞いの帰りだろうか小さな娘の手を引く父親20年後か30年後、この堀端を歩いたことを二人はどんなふうに話し合うのだろうかこれから歩むこの二人む人生を想わずにはいられない市ヶ谷20100520
2010/10/26 22:39
駿河台20101024
なまり色の雲が低く垂れ込める10月最後の日曜日、小川町の交差点からニコライ堂へ歩く。ジャケットを羽織るだけでは肌寒い、晩秋の後に控える冬の気配を感じる。ほんの1,2ヶ月前のことなのに暑かった夏は夢の中のできごとだったように思える。未来よりも過去がいとしく感じるのは私自身が晩秋と呼ぶ季節に生きているからだろうか。駿河台20101024
2010/10/24 21:33
表参道2091010
<表参道>雑踏では匿名の誰かになることができる。そんな自由を楽しめるのが東京の良いところである。表参道2091010
2010/10/23 11:10
原宿20101020
<原宿>携帯電話がいまのように普及したのはいつからだろうか総務省の統計では日本の総世帯数に対する普及率は1994年では約5.6%、2010年では96.3%というから約15年ほど前までは携帯電話を街で見かけることあまりなかったはずだ。それ以前は、友人と外で待ち合わせをする時は、場所の決定は自分と相手がよく知っている所とか、時間に遅れたら何分までなら待っているとか、会えない場合の連絡方法など、待ち合わせをする前のやりとりは大切な仕事。待ち合わせひとつにもけっこうな想像力が必要だった。もっと時を遡ると、学生時代に付き合っていた彼女に電話する時は電話のベルを鳴らす回数とか電話する時間はジャスト9時20分とか何か決めて「こわいおとうさん」を避けたものだった。初めてのデート相手との待ち合わせなんて、もう来るのか来ないのかド...原宿20101020
2010/10/22 07:30
新宿20100505
<新宿御苑にて>「写真はハンティング、絵は黙想だ」といったのは、確かブレッソンだったと思う。休日の新宿御苑はカメラフリークが集う。彼らはせわしなく歩き被写体を探しては狙い澄ましたようにシャッターを切る。絵をたしなむ人は気に入った場所で黙想しているようにスケッチする。「一目惚れと同じでスケッチの場所を見付けたら浮気せずにいることだ」と安野光雅は語っていた。道を究めた人はうまいことを言うものだ。新宿20100505
2010/10/20 22:11
大手町にて
<個人的な旅>東京は常にその姿を変えている。街が変わると、街の空気さえもいつの間にか変わって、記憶の中の思い出までも消されてしまう。しかし、丹念に東京を歩いくと都心に残るひと昔前の点景が私たちに当時の空気と個人的な記憶をシンクロさせてくれる。東京を彷徨うことは、時に個人的な旅に出るような気分になることがある。大手町にて
2010/10/19 07:20
東京の柳
1974年リリースのロックの名盤PHOEBESNOWのなかにHarpo'sBluesという美しい曲がある。この曲の中にIwishIwasawillow、」AndIcouldswaytothemusicinthewind(もしわたしが柳だったら美しい調べにのって風の中でゆらいでいるられるのに...)という美しいフレーズがある。ジャジーなサンウンドとフィービーのユニークなヴォーカルのマッチングが素晴らしい。水際で風にゆらぐ柳は古今東西を問わず人の心に響くらしい。東京の水辺を愛した永井荷風は「水の流れに柳の糸のなびきゆらめくほど心地よきはない」と日和下駄の中で記しているが、和田倉御門の堀端の柳については否定的である。「半蔵御門より外桜田の堀あるいは日比谷馬場先和田倉御門外へかけての堀端には一斉に柳が植わっていて処々に...東京の柳
2010/10/18 08:26
勝鬨橋
恐竜のようなごつごつしたリベットが無数にうちこまれた重厚な作りは近代的な橋と比べると絶滅した恐竜が川の上に横たわっているようだ。勝鬨橋は関東大震災からの復興のシンボルとし隅田川下流のに昭和15年(1940)に作られた。橋のたもとには「勝鬨橋の記」という由来を記した碑が今もあり、日露戦争勝利を記念して「勝鬨の渡」という船が出来、その勝鬨の名を引き継いで橋の名前になったとある。昭和45年11月までこの橋は跳ね橋として1日に5回開いた。三島由紀夫の長編「鏡子の家」(昭和34年)に冒頭でこの橋が開く描写がある。「そのうち鉄板の中央部がむくとうごき出した。その部分が徐々に頭をもたげ割れ目をひらいた。鉄板はせり上がって両側の欄干もこれにまたがっていた鉄のアーチも鈍く灯った電灯を柱につけたまま、大まかにそり上がった。夏雄はこ...勝鬨橋
2010/10/17 06:22
日比谷20801231
一年の終わりの日、新年への準備から解放された午後の遅い時間に都心の様子を見に出かけた。大手町、銀座、とまわって日比谷公園。そのころにはすっかり日も落ちていて、普段賑やかなこの辺りもひっそりと息をひそめて静かに新しい年の訪れを待っている。一年の終わりにはその年のできごとを振り返って自分のあり方が変わるというわけではないのだろうが、そんなきっかけがないとズルズルいってしまうのも人生だろう。そろそろあのホテルの中ではこの一年に句読点を打つためのカウントダウン・パティーが始まるだろう。その歳の最後の仕事を終えて家路を急ぐ人々がイルミネーションの前を通り過ぎていった。日比谷20801231
2010/10/16 19:50
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