■ 福岡輝一郎氏 町固定資産税審議委員に 固定資産税新議員は固定資産(土地・家屋・機械等)の適正評価を決める機関、固定資産は年数の経過と共に評価が軽減されるので評価の見直しを審議することを主目的とする機関 町長が選任し、議会の議決が必要。 任期は3年、喜界町では各中学校から1名選任される。おめでとうございます。 しっかり頑張ってください。 ■ 生島常範氏 町財政改革推進委員に任命 我が喜界町では他市町村と合併しないで自立の道を選択したので現行の行政改革大綱の見直しを行わざるを得なくなっています。 民間人で組織する喜界町財政改革推進委員..
これらの人ばかりでなく、私をはじめ島をはなれて島外に居住している人に共通する。その証に各地で郷友会を結成して互いの親睦と郷愁の念を一つにしている。 かつて私の父は 「どこで暮らしてもよいが、生まれ島は忘れるな」 が口癖で私に対する生遺言でもある。父の一家は、明治33年父16歳の時、土地を処分し種子島に農業移民として島をはなれたという。 父はどうしてか、自分の生い立ちや過去(47,8年)について一切私たち子どもに話さなかった。 父が自分のことについて語るのは、上嘉鉄の駐在所に赴任して来る警察官が警察の先輩として表敬挨拶に来訪する時に語るのみであった。 ..
ふるさと 秋田 秋貞 私は郷里喜界島を「誰が名付けた百之台、眼下に見下ろす海原広く、磯打つ白波島を彩る」と詠んだ。 それは奄美百景の一つである百之台が喜界島の代名詞であろう。狭義の郷里(ふるさと)は、上嘉鉄が私のふるさとである。 いつしか沖縄在住半世紀余、島をはなれたのは、昭和28年5月、大きな夢をふくらませて渡沖した。 「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」・・・と来沖以来、片時も島を忘れることなく郷愁の毎日でした。 そのこころざしは果..
上嘉鉄集落の起こりは縄文晩期の頃(2300〜3000年前)には、小字名でマチィチャ・ウックダ・ウフドゥンムの付近一帯の構造改善偉業の際、大型土木機械で表土を掘り起こしたら、大量の土器・石器の破片が出土して関係者を驚かせました。 一時工事を中止する騒ぎにまで発展したが、どのゆな経緯があったか、はっきりしないが工事は続行された。 出土した遺物を数名の興味関心のある方々が採集し保管してあったものを当時の熊本大学の白木原教授が鑑定して「ハンタ遺跡調査報告」にまとめてあります。以来付近一帯を上嘉鉄遺跡と称しています。 それに因ると上嘉鉄遺跡は縄文晩期の遺跡であることが判明してい..
馬の仔が駆ける広場や金久原(はにくばる) 馬飼うも一家の力蕃蔗(はんすう)植う ハイとドウ手綱一本の馬耕かな 友岡 藤市郎氏の「句集憧憬喜界島」にある歌です。喜界馬が昔は上嘉鉄にもたくさん飼育されていたことを裏付ける歌です。 馬に関する俳句が3句も出てきます。それだけ馬の思い出が心に残っているのでしょう。 友岡氏は鹿児島県の農業普及員をされていた方で農業の専門家、私の尊敬する大先輩です。農業大学校など指導する立場にあった方です。もちろんシマの上嘉鉄の出身です。 1句目は、上嘉鉄の県道沿いには、草競馬みたいなことをやっていたのでしょうか。先輩方か..
この夏、久々にシマの盆踊りに参加する機会がありました。「はにく」から聞こえるシマ歌やサンシン・テーコーの音に胸の高鳴りを押さえられず、会場へ急ぎ、感動と感謝の思いで参加することでした。 「ふるさとは遠くにありて思うもの、そして・・・・」という句もありますが、伝統的な行事に直接参加することによってシマの良さを肌で感じ取り、ふるさとを再発見する良い機会になりました。 踊りの輪の中では、幼児からアジー・アンマーまで多くの人々が渾然一体となって、踊りそのものを楽しんでいる姿に大きな感動を覚えました。 踊る人、見る人と参加の方法はそれぞれであったにしても、会場のみなさんの気分は..
桐野 達江 私たち上嘉鉄八月踊り唄保存会一行20名は、5月3日の夜「フェリーきかい」で出発、5月4日、鹿児島より空路東京へと向かいました。 羽田空港には、東京上嘉鉄会の方々、親戚の方々が出迎えてくださり、ホテルに落ち着きました。その日は、親戚のところへ行く人、親戚とホテルで面会する人、同級生と雑談される人、街に出られる人と自由行動でした。 5月5日、いよいよ東京上嘉鉄会との交流の日です。朝からそわそわして落ち着きません。誰、誰が見えるかな? 念入りに化粧や身支度を済ませ、ロビーに集まってきては、..
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