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六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった まとめ最終回
六六三年の白江もしくは白村江での 倭軍の大敗は無かった 国滅びた百済では抵抗軍が活動し、豊璋が率いる百済救援軍(我が国の兵士が中心)も、これに合流します。 小うるさい抵抗軍殲滅のため、唐は孫仁師率いる兵力を百済に送り込みます。この兵力は、七千人です。 『青萊海之兵七千人...
2015/08/09 08:50
●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった まとめその2
●筑紫地域の数々の防御陣整備は、百済降伏の六百六十年から始まった 九州では筑紫一族が大勢力を誇っていた時代(六世紀)があり、すでにその時代に、原太宰府地域(大宰府設置以前の地域)を中心として、柵、城といった防衛陣は構築されていました。 「柵」は木材を立て連ねて一定の地域...
2015/08/08 08:22
●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である まとめその1
●孝徳帝の後を継いだ斉明帝は、皇后であった間人皇女である 六六〇年七月に、百済国が唐と新羅の連合軍によって蹂躙され、首都扶余は焼け野原になってしまいます。 百済の滅亡と遺民の抗戦を知った斉明女帝は、我が国に滞在していた百済王子豊璋(百済義慈王の王子豊)を、百済に送り帰しま...
2015/08/07 06:10
関西旅行の思い出 「えっ 扉が開かない」
「えっ 扉が開かない」 あれは大学入試を終えたばかりだったから、昭和39年3月。窮屈な受験体制からやっと開放されて一息ついた私は、奈良県今市にある母の実家を訪問することにした。福岡県の小倉駅から夜行列車を利用して大阪駅へ、さらに奈良駅で桜井線に乗り換えて実家に近い帯解(...
2015/08/06 07:34
第三話 結論 車木ケンノウ古墳が皇極帝(宝皇女)の陵墓、そして牽牛子塚古墳が斉明帝(間人皇女)の陵墓だ
4-3 二つの陵墓と二つの墓室が意味するもの これらの新しい発掘結果はさまざまな論議を呼んでいますが、新しい牽牛子塚古墳を皇極帝すなわち斉明帝(宝皇女)の陵墓と考え、古墳内にある二つの石室を、書紀天智称制六年条の記述どおり、宝皇女の墓室とその娘間人皇女の墓室とする考え方が...
2015/07/30 07:34
第三話 4 斉明帝の二つの陵墓が意味するもの
4 斉明帝の二つの陵墓が意味するもの 書紀は天智称制六年(六六七年)条の二月、『斉明天皇と間人皇女を小市(おちの)崗上陵(おかのうえのみささぎ)に合葬し、同じ日、孫の大田皇女を陵の前の墓に葬った』と記しています。 この斉明帝の陵墓については、二〇一〇年九月に新しい発掘結果が...
2015/07/29 09:18
第三話 3-3 間人皇女が斉明帝ではないか
3-3 間人皇女が斉明帝ではないか ここで疑問となるのは、中大兄皇子は六四五年(乙巳の変)から六六八年までの長い期間、何故皇太子のままでいなければならなかったのかということです。 孝徳帝の没後(六五四年)でも帝に就くことは可能だったでしょうし、斉明帝の没後(六六一年)す...
2015/07/28 09:21
第三話 3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう
3-2 間人皇女(宝皇女の娘)を紹介しましょう 間人皇女は、舒明帝と宝皇女との娘であり、孝徳天皇の皇后です。さらに中大兄皇子(天智帝)と大海人皇子(天武天皇)とは兄妹です。 この間人皇女に関連する書紀の記録では、六四五年に孝徳帝の皇后に即位したこと、そして六六五年に没したこ...
2015/07/26 17:12
第三話 3 斉明帝は宝皇女ではない
3 斉明帝は宝皇女ではない 皇極帝と斉明帝とではその人間性が全く異なります。書紀では同一人物と伝えていますが、二人は異なる人物、つまり斉明帝は、「土木好きで好戦的なもっと若い女帝」ではないかと考えてみたらどうでしょう。 3-1 「中皇命」は一体誰でしょう 「中皇命(な...
2015/07/25 06:38
第三話 2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります
2-3 女帝には愛情と冷淡の二面性があります 六五八年五月、中大兄皇子の子すなわち斉明帝の孫にあたる建王が、僅か八歳で亡くなってしまいます。この時の斉明帝の嘆きは甚だしく、『私の死後、必ず陵に合葬せよ』とさえ命じています。 そして斉明帝の詠んだ悲しみの歌が、 『今城(い...
2015/07/24 06:51
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