グアラニー族布教区の興亡/イエズス会ユートピアの出現

グアラニー族布教区の興亡/イエズス会ユートピアの出現

後年、大ミッション地方の布教区は、イエズス会の名を冠し、帝国とも共和国とも呼ばれるようになる。私は、カトリックの世界布教を掲げたイエズス会によるグアラニーのコミューン(自治区)と定義する。先例として、コミューンなる語を史的用語に変えたパリ・コミューン(1871)がある。ロシア革命もコミューンを至上目的とした時期があった(戦時共産主義、1917~21)。いずれも、周りを取り囲む世俗世界の壁と敵意に阻まれ、短期間で歴史の幕を閉じ、ユートピアの語源のとおり、どこにもない国になった。どこにもないから私にとってひいき目もしくは憧憬の対象にもなるのである。それでは、布教区はいかにして創られたか考えてみよう。布教区成立の制度的・組織的条件まず、イエズス会が法王庁に所属し、国王によって直接管理されたカトリック修道会であっ...グアラニー族布教区の興亡/イエズス会ユートピアの出現