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「桑名の旅」編が途中でしたので、続きを再開します。桑名の街を自転車で走っていたら、「薩摩義士墓所」という文字が見えたので、立ち寄ってみました。宝暦3年(1753)、幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられました。宝暦5年に工事は完成しましたが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負(ひらたゆきえ)は自刃しました。これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され...
薩摩藩士が濃尾で治水工事? 地元が伝えたい史実とは「治水神社」(岐阜県海津市)
江戸時代の中頃、特に慶長から宝暦にかけて、頻繁に水害で被災していた濃尾(美濃・尾張)地方、この辺りは、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が合流していたからである。ついに幕府は、宝暦3年(1753年)12月にその分流治水工事を「薩摩藩」に命じた。普請の費用は全額
やっと来られました海蔵寺(かいぞうじ)に眠る、平田靭負(ひらたゆきえ)と薩摩藩士の墓参りがしたかった。 平田靭負像江戸時代の中頃、徳川幕府は、木曽三川の水害で悩む濃尾平野西南部の住民を救うため、薩摩藩にお
薩摩義士役館址・史蹟大巻薩摩工事役館址 むかし濃尾平野は木曽・長良・揖斐の三大川が乱流していた。幕府は薩摩藩に治水工事を依頼しました。幕府の厳しい検分の元、完成しましたが、多数の薩摩義士犠牲者を出し、工
平田靭負(ひらたゆきえ)が治水工事現場に向かった堤8キロを『平田靭負ロード』 堤に植えられた千本桜を『平田靭負桜』と命名して、宝暦治水の遺徳を偲ぶ地となっています。 毎年7月第1土曜日に、宝暦治水に感謝