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印西大師44 国道16号沿いのおかしな道路を通って折立来迎寺
次の番外札所・所沢薬師堂へは、国道16号線を目指して進む。複雑な交差点のすぐ北、1日中車の絶えることがない騒々しい一画に、薬師堂が寂しくたたずんでいる。かつては薬師堂だっただろう建物が建て替えられてから四、五十年経っているだろう。札所も、久しく参拝者がいなかったのを示すように正面に剪定されていない木が繁っている。お大師様の首にかけられた襟巻も、かなり古いもののようだ。所沢薬師堂から次の折立来迎寺まで...
十三番中木戸観音堂は、いったんバス通りに出て北上する。中木戸も、白井市根になる。ニュータウン内の片側1車線歩道付から、側道へ直角に入る。風間街道に出る少し前に、広場と集会所、お堂と札所がある。ニュータウンになって様変わりしてしまったが、このあたりに風間という農村集落があった。いまでは風間街道の名前だけ残っている。この場所は少し変わっていて、他に何もないのに「天台宗来迎寺」「壷良毛別院」の立派な石造...
観音堂から四十二番仏法寺までは、低地の舗装道路を歩いてすぐである。ここまで来ると、北総線・国道464号の高架が目の前に見える。お寺も、たいへん明るい印象を受ける。がっちりした山門と、「天台宗仏法寺」の大きな石柱。参道奥に本堂、右手にご住職のご自宅、左手には社務所がある。参道中央にも石柱の中門がある。左奥に墓地があり、境内はかなり広い。四国四十二番は仏木寺なので、名前の似ているので四十二番としたのだろ...
神宮寺からさらに船尾神々廻(ふなお・ししば)街道を進み、交通量の多い木下街道を左折する。歩道が狭いので気を使う。坂を登って進むと、明治ルートで長栄堂と呼ばれていた十七番札所に出る。1階が車庫になった下長殿(ながとろ)集会所の敷地内にあって、隣にまだ新しい弘法大師像が立つ。平成十七年、白井大師組合の解散時に、再興を願って建立すると刻まれている。札所と大師像だけでなく、庚申塔や記念碑も多くある。10mも...
二十三番薬王寺は西福寺のすぐ先。西福寺が道路の下だったのに対し、こちらは階段を登って道路の上である。境内はこじんまりしているが、ご住職が住まれているお寺で犬が留守番をしていた。本堂と向い合せに札所がある。そして再び回向柱。おそらく小廻大師のものと思われるが、墨が薄くなって確認できない。四国二十三番は名前も同じ薬王寺。「みな人のやみぬる年の薬王寺…」のご詠歌が掲げられている。境内には、寺に伝わる青竜...
安養寺から船尾神々廻(ししば)街道を5分くらい歩くと、十番武西(むざい)観音堂である。江戸時代からある観音堂とは思えないような現代風の建築、しかもまだ新しい。表札は大きく「武西観世音堂」とある。昔の建物だと間違いなく改築記念の石碑が立っているものだが、残念ながらなく詳細は分からない。ただ、建具やサイディングの様式をみると、平成に入ってからのものであることは間違いない。ご詠歌の日付が平成三年だから、...
5日目と6日目は休みを入れずにお参りできた。当初6日間で計画したのだが、歩いてみたらちょっと無理なので7日間に伸ばした。現在の巡行スケジュールをよく見てみると、歩きではなく自動車で移動しているらしい。だから、6日目は白井のどこまで歩けるかである。スタートは船尾の東光院。船尾神々廻街道を神宮寺まで、そこから神崎川に沿って白井駅近くにある仏法寺に向かう。そこから先は、ルートがよく分からない。白井市内の...
多々羅田集落からバス通りに戻り、船尾に向かって南下する。交差点の前に、五十八番船尾観音堂がある。道路の横に白山神社のお神輿のような祠が目印で、その隣の共同墓地の中にある。すぐ横に平屋建ての船尾公民館がある。表札は古いが、建物のサッシや雨戸はそれほど古くない。近年改修されたのかもしれない。船尾集落内には鉄筋の大きなコミュニティセンターがあるのだが、ニュータウン政策なのかなかなか手厚い。明治ルートには...
四十六番結縁寺は大きなお寺である。奈良時代行基の開創と伝えられる。行基は鯖大師の伝説で大師信仰とは縁が深い。宗旨は開設時は法相宗であったが、平安時代以降真言宗となった。結縁(けちえん)の寺号は、真言僧が地域住民と、春秋の年二回大規模な結縁灌頂を行ったことによる。かつては6つの僧坊を有する大寺院であったが、戦国時代に焼失し、現在は本堂と付属建物の他に頼政塚が残るくらいであるが、仏像や美術品などが多く遺...
さて、今回の巡行では草深から松崎に向かったが、明治ルートでは草深からいったん吉田に戻り、それから松崎というたいへん遠回りの経路をとっている。明治ルートでは、松崎集落にはナンバー札所として多聞院・毘沙門堂、番外札所として明源寺、迎堂の2ヶ所があげられている。結縁寺に近いのが迎堂なので、前回紹介した前戸の里コミュニティセンターの小堂がおそらくそれだろう。明源寺は反対の吉田集落寄りだが、古い地図にはその...
草深(そうふけ)から結縁寺・船尾までは結構近く、お散歩コースでもある。ただし、明治コースでは松崎を経由してからお参りすることになっているので、いったん南に水田地帯に下りて回り込むことになる。このあたりは松崎工業団地という工場・倉庫地帯である。千葉ニュータウン計画とは別で、ニュータウンの流通団地や倉庫と比べると小規模なものが多い。ちばコープの冷蔵倉庫の他、運送会社の車庫とか創価会館がある。amazon関係の...
吉田集落から草深(そうふけ)まで、普通に歩くと1時間以上かかる。もっとも短縮できるのは総武カントリーのコース内を通っている公道を横切る経路だが、最近通っていない。通行禁止になっているかもしれない。水田沿いの低地を黙々と歩く。土地の人以外が通ることはほとんどない道である。ここは、江戸時代に吉田集落・草深集落の領地争いがあり、総武カントリーの高台は草深が築いた土塁の跡らしい。聞いた話では、総武カントリー...
さて、初日に天王堂を回った時に、明治ルートでは逆側からとんでもなく遠回りしてここにお参りしたと書いたが、実はそれは、岩不動から丸山観音堂(大師堂)、天王堂という経路なのである。明治ルートの距離表示は、岩不動から丸山観音堂が二十二丁、丸山観音堂から天王堂まで同じく二十二丁とあるけれども、これはどう考えてもおかしい。というのは、丸山観音堂(旧草深小近く)・天王堂間はGoogleで調べても2.1kmで二十二丁なの...
4日目を土曜日に歩いた後、日曜日・月曜日は雨だった。昔の人はこういう時どうしたんだろうと奥さんと話す。「きっともう一晩泊まって、一日お茶飲んでたんだよ。」と奥さん。「全然大丈夫だよ。しゃべってりゃいいんだから。」おそらく、そうなんだろう。役目のある人達は雨でも歩くだろうけれど、みんながそうするとは思えない。多くの人達は、天気が良ければ巡行に付き合うけれども、早めに打ち止めにして旧知の人達と食べたり...
師戸から岩戸まで、また少し歩く。印旛沼病院の裏手の水田地域を抜ける。岩戸集落は旧印旛村でも最も大きな集落の一つで、3つの札所6つの番外札所がある。そして、旧印旛村に多い宗像神社の中心はこちらだったようで、明治時代には宗像村という名前だった。郵便局の名前も小学校の名前も「宗像」である。印旛村の歴史民俗資料館もここにある。スケジュールを修正した甲斐があって、ほぼ予定どおりに歩くことができた。時刻はそろ...
三十三番と七十七番を兼ねる師戸広福寺は、南陽院・来福寺とともに印西大師の結願寺として、いまも幹事役を果たしているお寺である。ところが、私のお参りした時はひと気がなく、車さえ一台も駐まっていなかった。巡礼期間中なのに寂しいものだと思ったのだが、これには理由があったかもしれない。というのは、ある場所でプリントを見つけて、それによると令和四年の結願寺は広福寺と書いてあるのである。ということは、先達一行と...