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示衆(47)「爾但自家看。更有什麼」(君たち、ただ自分たちの目で見よ。それ以上の何があろうか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の47回目です。 語り続けた臨済の言葉が、ここで一旦終了します。 さて、どのような言葉で終わるでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 ...
示衆(46)「龍象蹴踏、非驢所堪」(龍象の一蹴りは、驢馬の耐え得るところではない)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の46回目です。 臨済の言葉の真意をいまだ理解できない様子の修行僧たちに、それでも臨済は語り続けます。 自分も修行を始めた頃はなにもわかっていなかった、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声...
示衆(45)「飢來喫飯、睡來合眼」(腹がへったら飯を食い、眠気がきたら目をつぶる、それでいい)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の45回目です。 自分たちがこれまで一所懸命に学んできたことや、自分の身分などにすがり続ける僧たちに、臨済はさらに語り続けます。 そんなものは、私は認めない、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!...
示衆(44)「若人求道、是人失道」(もし人が道を求めれば、人は道を失う)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の44回目です。 臨済の下に集まった修行僧たちへの言葉が続きます。 いつまでも自分自身を認めることができない人たちに向かって語ります。 無駄なことはするな、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」...
示衆(43)「殺父害母、出佛身血、破和合僧、焚燒經像等、此是五無間業」(父を殺し母を害し、仏身から血を出させ、和合僧を破り、経象を焼き捨てる、これが五無間業である)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の43回目です。 ここでは臨済は修行僧の問いに答える形で「五無間業」を説明しています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 問、如何是...
示衆(42)「一心不生、萬法無咎」(一心が生じなければ、何があっても問題なしだ。)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の42回目です。 祖師達の言葉や経典の文字を学ぶことで、その先に何かが得られるという修行僧達の思い込みはなかなか解けません。 臨済は言葉を続けます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の...
示衆(41)「佛常在世間、而不染世間法」(仏は常に世の中にありながら、世の中の物事に染まることはない)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の41回目です。 修行僧たちは、相変わらず修行の先に自分たちの思い描く何かが得られると思っています。 そしてそれをなんとかして確かめようと問い続けます。 しかし、臨済は繰り返し、そんなものは無いのだと説きます。 臨済録の原文全文は...
示衆(40)「為爾向一切處馳求心不能歇」(君たちがなにかを求めてそこら中を駆け回るということをやめないからわからないのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の40回目です。 修行僧たちと臨済との対話は続きます。 僧たちは繰り返し、修行で得られるものは何かを確かめようとします。 それに対して臨済はどのように答えるでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「...
示衆(39)「如何是真佛真法真道」(真の仏、真の法、真の道とはどのようなものでしょうか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の39回目です。 ここでは、改めて「真の仏、真の法、真の道とはどのようなものでしょうか」と修行僧が問います。 それに、臨済はどのように説くでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱...
示衆(38)「真佛無形、真道無體、真法無相」(真の仏は無形であり、真の道は無体であり、真の法は無相である)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の38回目です。 「心心不異處(心と心が異ならないところ)」とはどのようなものか。 その問いに答える臨済の説明の、終わりの部分になります。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に...
示衆(37)「大德、爾莫認衣」(諸君、衣に気を取られたりするな)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の37回目です。 師や先達のもとを訪れる修行僧たちは、誰もが彼らの様子であったり、言葉であったりするようなものに捕らわれてしまいます。 そんなものはどれも無意味だと臨済は言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください...
示衆(36)「幻化空花、不勞把捉」(幻想の現れや空に浮く花を、つかみ取ろうと苦労などするな)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の36回目です。 臨済はここで、自らの修行で学んだ教えがどのように形作られてきたものかについて述べています。 それは臨済自身の修行の道筋でもありました。 どのように臨済の修行は遍歴していたでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリン...
示衆(35)「幻化空花、不勞把捉」(幻想の現れや空に浮く花を、つかみ取ろうと苦労などするな)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の35回目です。 臨済はこの部分で、生き生きとしている私たちの本体について説いています。 そして、無駄な苦労ばかりするな、と繰り返し話しかけています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱...
示衆(34)「擬心即差、動念即乖」(心を働かせるとずれ、動こうとするとそれてしまう)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の34回目です。 ここでは根器(根は感覚器官。眼、耳、鼻、下、身、意の六根)の使い方について説かれています。 臨済は、これらをうまく使いこなすことができるとはどういうことだと説明しているでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンク...
示衆(33)「譬如潛泉魚、鼓波而自躍」(たとえるなら泉に潜む魚が、水面を波立たせて躍り上がるようなものだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の33回目です。 ここでは臨済は「動くもの、動かないもの」について説いています。 これらのどちらにも実体はないと言います。 そのことを用いて、臨済はどのようなことを教えようとするのでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご...
示衆(32)「道流、如禪宗見解、死活循然」(諸君、禅宗の見方とは、死活は循然、その場その場で決まるというものだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の32回目です。 ここでまた、臨済は師と呼ばれる者と修行僧との対話の場面を四通り語ります。 コミカルな場面のようにも読むことができますが、私たちが何かを学ぼうとしている時の姿にも見えてきます。 四通りのものとはどのようなものでしょう...
示衆(31)「爾一念心歇得處、喚作菩提樹」(君たちの一念心が静まり得たところ、それを涅槃と呼ぶ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の31回目です。 臨済は、三界にありながら、何ものにも囚われない在り方について説いています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 大德...
示衆(30)「癡人、爾要出三界、什麼處去」(痴れものめ、君たちが三界を逃れ出たところで、いったいどこに行けるというのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の30回目です。 ここでは三界について語られます。 三界 とは欲界、色界、無色界のこと。 人はその三界で迷い、苦しみ、そこから逃れようとしています。 その三界はなぜあると言われるのか。 臨済はどのように説くでしょうか。 臨済録の原...
示衆(29)「已起者莫續、未起者不要放起、便勝爾十年行腳」(すでに起こった思いは続けない、まだ起こらぬ思いは捨てる必要もない、そうすることが君たちの十年の行脚よりもましなことなのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の29回目です。 臨済は修行僧たちに、何ものにも依存せずにここに出てこい、と言います。 そして、長い年月をかけた行脚よりも勝るものを示します。 それはなんでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝...
示衆(27)「學人云、上智哉、是大善知識」(学人は言う、素晴らしいお知恵、これこそ大善知識、と)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の27回目です。 臨済は世にいる善知識と呼ばれる人たちについて語ります。 「よく見るがいい、彼らに眉毛が何本残っているか」と。 その意味はなんでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が...
示衆(28)「向裡向外、逢著便殺」(内に向かい外に向かい、そこで出会うものがあればすぐに殺せ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の28回目です。 臨済録の中の言葉で、よく引用されるものがあります。 「仏に会ったら仏を殺せ」などです。 これはどのような文脈で出てくるものでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦...
古典文学 こんにちは、暖淡堂です。 相変わらず色々な本を読んでいるのですが、その中でも最近時間を見つけては少しずつ読み進めているのが「臨済録」です。 このところ、一番手にする回数の多い書物かもしれません。 「臨済録」は中国の唐の時代の後半に生きた臨済というお坊さんの語録です。 禅宗の一つ、臨済宗の臨済です。 この本を暖淡堂が最初に読んだのはもう20年くらい前になります。 「老子道徳経」を読んだ後、中国の古典が面白くなって、次にこの「臨済録」にチャレンジしてみました。 一読して、すぐに中国の歴史の知識が必要だと思い、歴史書にも手を出しました。 その流れで「管子」とも出会いました。 で、「臨済録」…
臨済録現代訳推敲の進捗 だいたい全体の1/3くらいのところ 2023年4月8日時点
こんにちは、暖淡堂です。「臨済録」の現代語訳、進めています。 現代訳の推敲を進めながら、作業が終わった箇所を以下のサイトで紹介しています。多くの方に見にきてい…
臨済録現代訳推敲の進捗 しっかりと読み込んでから書いています 2023年4月1日時点
こんにちは、暖淡堂です。「臨済録」の現代語訳、進めています。時間がかかっています。推敲しながら進めているのですが、時々辞書を引き直したりするので、とてもゆっく…
示衆(26)「煩惱由心故有、無心煩惱何拘」(煩悩は心によって生じるもの、無心であれば煩悩になんのこだわりがあろうか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の26回目です。 引き続き、修行の先に何かを追い求める修行僧たちに、臨済は語りかけ続けます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 道流...
臨済は1000年以上前のジェリー・ミンチントン 自尊心に不安が生じたら「臨済録」も読んでみるといい
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」は唐の時代の僧侶臨済の言行録です。禅仏教に関する書物なので、読まれたことのない方は次のように思われるかもしれません。 「偉いお坊さんのありがたい仏教法話を、仏教の専門的な言葉で書き連ねたものだろうな。これを読むと、仏教を信仰するよう...
示衆(25)「所以達六種色聲香味觸法皆是空相、不能繫縛此無依道人」(このように、六種、つまり色声香味触法がみな空相との見地に達した無依の道人は、束縛することなどできないのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の25回目です。 仏には神通力があるというが、修行の先にはそのような力が得られるのでしょうか。 そんなことを質問した修行僧がいたのかもしれません。 それに対して、真の神通とは何かを、臨在は説きます。 臨済録の原文全文は以下のリンク...
臨済の教えはどうして鎌倉で受容されたか 栄西が渡った当時の中国の状況から考える
こんにちは、暖淡堂です。 別ブログ「散木の小屋」で「臨済録」原文全文と現代語訳を紹介しています。 今回は以下の記事を作成した時に考えたことを書きたいと思います。 sanboku.blogspot.com 臨済が修行をし、また多くの修行僧たちを指導した時代は唐の末期。 安史の乱の後の、混乱した状態の唐の国の大体黄河下流域を活動の場としていました。 その頃、その地域を治めていたのが軍閥。 臨在は、その軍閥の有力者のところに説教にいっていたことが、「臨済録」の記述からうかがえます。 そこで考えたのが、「臨済宗」の日本での受け入れられ方。 日本に「臨済宗」の教えが伝えられたのは、宋の頃に中国に渡った栄…
示衆(24)「有身非覺體、無相乃真形」(この世に現れた身体は仏そのものではない、姿形などないものこそ真のあり方なのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の24回目です。 世の中にいる高僧の中には、長い長い時間をかけた修行の結果が仏だと教えているものがいます。 臨在はそんな言葉には騙されるな、と説きます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦...
示衆(23)「爾若求佛、即被佛魔攝」(君たちが仏を求めたら、すぐに仏という魔に捉えられるぞ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の23回目です。 臨済のもとに集まった修行僧たちは、どこかで教えられた「言葉」や「名前」に引きずられ、疑問を抱えたままです。 そんなものに本性はないのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝...
こんにちは、暖淡堂です。 臨済録の現代訳作業を少しずつ進めています。 今回はどのように臨済が修行を始めたのか、それが書かれている部分。 序文の一番初めの部分を紹介します。 「散木の小屋」で紹介した馬防の肩書きの文章のすぐ後に続くところです。 sanboku.blogspot.com 黃檗山頭、曾遭痛棒。大愚肋下、方解築拳。 かつて黃檗山にあったとき、棒でしたたかに打たれたが、大愚のところでは、あばらの下に拳を突き込んだ。 Once, when the master was at Huangbao Mountain, he was hit hard with a stick, but at Da…
示衆(22)「所以古人云、平常心是道」(だから古の人が言っているのだ、平常心こそが道なのだと)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の22回目です。 世の中で師と呼ばれている人たちの中には、修行僧を自分の言葉で縛るような人もいたりします。 修行僧の中にも、むしろ自分からそれを望むような人もいます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝...
示衆(21)「所以師子一吼、野干腦裂」(獅子が吠えれば、野干の脳は炸裂するというではないか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の21回目です。 修行僧たちは、いつまでも世にいる老師たちの言葉や経典に書かれているものを、何よりも大切にしようとしています。 自分たちは、それらの言葉は真実を語っているのだ、それをそのまま受け入れるべきだ。 そう信じています。 凡...
示衆(20)「渠且不是修底物、不是莊嚴得底物」(君たち自身は修行で現れたものではなく、仏の姿が現れたものでもない)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の20回目です。 修行する僧たちは、経典や、過去に言われたとされる祖師たちの言葉に囚われ続けます。 そして、それらを理解したならば、修行が成る、と信じています。 しかし臨済は、それらはむしろ業づくりのことなのだと言います。 臨済録...
示衆(19)「蒺藜夌刺、枯骨上覓什麼汁」(棘だらけのハマビシの実や、カラカラの骨をしゃぶっていったいなにを吸おうというのか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の19回目です。 僧の一人が「三眼国土」について質問します。 「三眼国土」とは「浄妙国土」、「無差別国土」、「解脱国土」の三つ。 臨済は説明し、それらもまた、まやかしなのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認く...
示衆(18)「如菩薩疑時、生死魔得便」(菩薩にでさえ疑いが生じた時には、生死の魔がつけ込む)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の18回目です。 臨済は修行僧たちに、自分自身をもっと信じろと言い続けます。 もし自分に対して疑いが生じたならば、菩薩でさえ生死の魔がつけ込むのだ、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦...
示衆(17)「境即萬般差別、人即不別」(境はさまざまな現れ方をしても、私はいつも同じなのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の17回目です。 ここでは、そこになにか真実がちらちらと見え隠れしていそうな言葉に引き摺り回される修行僧たちに説いています。 それは、方便だ、そんなものではなにも得られない、そんな無駄なことをして日を過ごすな、と。 臨済録の原文全...
示衆(16)「五臺山無文殊」(五台山に文殊なし)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の16回目です。 修行僧たちが探し求めている文殊について、臨済が説明しているところです。 ここでも、やはり、自分自身をしっかりと理解しろ、と言っています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が...
示衆(15)「為達四大如夢如幻故」(四大、すなわち地水火風はみな夢のごとく幻のごとしとの境地に達しているからだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の15回目です。 ここでは四大(世界を構成する地水火風の四つ)との向き合い方について語っています。 人間を含めた世界は地水火風が混じり合ってできたもの。 しかし、臨済は、地水火風は夢だ、幻だ、といいます。 臨済録の原文全文は以下の...
示衆(14)「無形無相、無根無本、無住處、活撥撥地」(形も姿も無く、根も本も無く、定まった在処もないのに、生きた魚のようにピチピチとしているではないか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の14回目です。 真正の見解を求める修行僧に対し、臨済の説明が続きます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 學人不了、為執名句、被他...
示衆(13)「唯有聽法無依道人、是諸佛之母」(ただ、今そこでこの話を聞いている無依の道人、君たちこそが諸仏の母だ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の13回目です。 修行僧が「真正の見解とはなにか」と問います。 それに対して臨済は答えます。 「この世のものはことごとく仮の姿だ、実体などないのだ」と。 そして、さらに言葉を続けます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認くだ...
示衆(12)「直是現今、更無時節」(今のそのままで良いのだ、まさにたった今のその状態だ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の12回目です。 修行僧たちがあちらこちらの「偉い」和尚のいるお寺を巡って、お墨付きを得ようとします。 いつまでもうろうろとし続ける修行僧たちに、そんなことは無意味なのだと臨済は説きます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認...
示衆(11)「然佛與魔、是染淨二境」(つまりは仏と魔とは、清浄なものと疑いの汚れに染まったものなのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の11回目です。 臨済のもとで学ぶ僧たちは、さまざまな疑問をいだきます。 今回紹介する箇所では「魔とは、仏とは」について改めて一人の僧が問い、それに答える形で臨在が説明しています。 この「魔」と「仏」は、前回のところから引き続き説か...
示衆(10)「如明眼道流、魔佛俱打」(しっかりとした眼を持つ修行者であれば、魔も仏も一度にやっつけてしまう)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の10回目です。 臨済の頃の唐では、修行僧が集まる人気の寺があったようです。 そこに仲間入りして、自分は出家したと考える僧がいたのでしょう。 臨済はそのような僧に向かって、それは真の出家ではないと言います。 臨済録の原文全文は以下...
示衆(9)「屙屎送尿、著衣喫飯、困來即臥」(大小便を排泄し、服を着て飯を食い、疲れたら座ればいい)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の9回目です。 ここでも臨済は繰り返します。ことさらなことなどしなくていいのだ、と。 普段通りに生きて、ヒトとしてすることは当たり前にやって、無理なことはやらない。 その日々がそのままで解脱なのだ、と。 臨済録の原文全文は以下のリ...
示衆(8)「外不取凡聖、內不住根本」(外では凡や聖の区別をせず、內は根本の教えのようなものに落ち着いたりせず)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の8回目です。 臨済が自らの説いているところをさらに踏み込んで語ります。 世間の人のしている物事の格付けと、「かの人」の行う格付けとはそもそも違うのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!...
示衆(7)「無事是貴人」(無事であること、これすなわち貴人なのだ): 臨済の四照用 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の7回目です。 ここでも繰り返し、余計なことをしなくていい、と臨済は言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 師示衆云、道流、切...
示衆(6)「猶較些子」(それでも、まだまだだな): 臨済の四照用 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の6回目です。 今回は、これまで多くの人が関心をもってその意味を理解しようとしている文章の紹介になります。 臨済の四照用と呼ばれている部分です。 照とは、光を当てて相手の内実を照らし出すように見抜くこと。 照察という言葉が近いかもし...
示衆(5)「大德、且要平常、莫作模樣」(諸君、まずは平常どおりにやっていくことだ。特別な格好などつけなくていい) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の5回目です。 ここでもやはり、ことさらなことなどしなくてよいと臨済は言います。 その理由は、修行している者たちは、大切ななにかを見失っているだけから。 それに気づくだけで十分なのです。 大切ななにか、とはどのようなものでしょうか。...
示衆(4)「道流、心法無形、通貫十方」(諸君、心の在り方には決まった形はなく、この世のあらゆるものを貫いている) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の4回目です。 ここでは、臨済は心とはなにかを説いています。 心は様々な働き方をしますが、もともとは一つであると。 それから、修行僧たちが求めている修行で得られるもの。 それらはまったくの無駄なもの。 そんなものを求めるよりも、もっ...