いうにいわれない味わいをもつ人のうしろ姿は しみじみ ひきつけられる。 そっと 行って 声をかけたくなる。 すべての対人意識を棄ててしまっている無意識の世界、 それが 背なかの全領域にひろがっている。 その人があるいてゆく道の傍(かたわら)の樹木などのゆるやかな影が、 歩行する動きにつれて 背なかに縞をつくりながら揺らいでいく。 あたりは冬の陽ざしにあふれていたり 昼どきちかいたべもの屋の ものを煮る匂いが漂ったり――。 人間が生きていることに さほどの苦痛も激情も意識しない そんなひとときだ。 道のかたわらにはゴミ屋の取り残しの屑がすこし散らば っているようなしずかさが横丁にながれていて そ…
この、 海岸の町には ビルなどひとつもない。 もう夕ぐれていて わずかに春の燈(ひ)のようなものが滲んでいる。 いくぶん淫らさを ともなった昏いかぜが 時間を微細に蕩(とろ)かしながら吹いてくる。 だいいち人間が棲んでいるのかどうか まるで音というものが ひびかない。 遠い沖合いも 潮を湛えて薄闇の底にひろがる。 まちなみのいらかは艶(つや)もなくひかりを沈めて 海とは反対の方角の山裾に吸いこまれている。 いったい おれはいつから佇ちつくしてこの風景に接し てきたのだろう。 聴覚をうしなってしまった というより最初からそうい う機能をもたぬみずからを、 この形象のよこたわりのなかに没入させて過…
おれは 茫となって 春かぜとともに いずくにか消えていく。 けれども花は たわわと咲きみだれて揺らぎ、 遠いなだらかな山肌は 微笑をおくる。 こんなに ひかり遍(あまね)く地(つち)のうえで さんざめいてる現(うつつ)を透いて かすかな顫音もつたわらぬ気圏にはいってしまえば、 言いがたい香りと化して たちのぼっていく。 (阿里一多)
夕ぞらに 雲の切片が 浮かんでいる。 にわかに浪浪のこころが滲み出て、 おれの身を 頼りなくする。 濁った河が 遅い春のかなたに融けこんでゆく。 長い橋をわたるには疲れ、 あしが鈍るのだが 他に向かう気にもなれない。 どこかの飲み屋の暖簾でもくぐろうと 二、三歩 ふみだしている。 おや、 まだ 都鳥が飛んでいるな…… もう しかし その名を 知る人も少ない。 (阿里一多)
どれだけ手間どったのだろうか 荷づくりを仕終えて さあ出発だとあたりを見廻してみると、 行き着く一点を含んで もとの状況は 消え尽した。 透明な気圏のなかで 準備を終えたわたしが、 満風を孕む帆のような 空虚と充足に在る。 (阿里一多)
ガラス玉の中に融けている青を 夕暮のひかりに透かしてみる。 過ぎ去った日の かなしい色を 低く奏ではじめるつめたい小さな球体の肌には 幼年のひとときも映る。 ころりと転がすと 玉は、 固い板のうえを滑ってゆく。 カチリと もう一つの玉に当たって ゆらゆらとうごいて止まる。 ガラス玉に融けこんだ歳月――。 その深い青が 魂の奥で ひかる。 (阿里一多)
夕暮の破片が ひかりを沈めながら おれのまわりを とびかうので わがたましいたちは横這いとなり 蠢きはじめる。 天には風が四散し 遠い山肌に吸いとられていく。 裏路地から裏路地へと撫でるような歩きぶりも ようやく ひとつの調子におちこんでゆく。 夜気は粘っこさを増す。 その 灯のいろを含んだ闇のなかへ 自分は融けはじめる。 (阿里一多)
午(ひる)が闌(た)けた時間の底に 深い藪がよこたわる。 わたしは自分の奥にゆれる心をいたわりながら 藪のなかに分け入(い)ってゆく。 その暗く絡まりしげった上には 涯もない天がひろがり びょうびょうと風がながれる。 揺れやまぬこころの枝には かぼそいひかりがゆらめきもえ 藪の暗がりゆえ ときに青じろい炎をあげる。 しげみは尽きることもなく彼方にのび あしのちからは衰えがちだ。 午(ひる)はまだ暮れもやらず むなしいあかるさに満ちている。 (阿里一多)
金属器具の膚を撫でていると 寂しさが滲んでくる。 秋の深い空気の層のように 冷気に浸された なめらかな艶(つや)。 日にかがよいながらそれは 虚しいあかるさをはじきかえし 劫(とき)底によこたわる。 そのすべっこい面のしらじらとしたひかりゆえに わが身にひびくしずかな哀しみ――。 あたりは 水のような真昼だ。 (阿里一多)
うつつのなかに紛れゆく うつつのなかに紊れゆく 儚(はかな)ごころよまぼろしよ。 ものに憑かれしごとくにて 見さだめがたき眼の遣り処(ど) 視界のうちを過ぐる状(さま) 惚(ほう)くるに似て涯しなく うつつともなく映りけり。 かかる世に生(あ)れなにごとの 他(ひと)とわれとにかかずらう。 見さだめがたきものみなの 波にゆらげるゆらめきよ あわれ消えゆくあわだちよ。 (阿里一多)
砂も波もない地面のうえ まっさをな夏天(かてん)のした とどろくもののない炎昼に 濃い陰影を彫りこみ 虚無の腰かけとなる。 (阿里一多)
冬陽のあたった しろい石肌のうえに、 蠅が翔んだ。 あおいそらが ひび割れるような寒さのなかで、 生きていた蠅だった。 わたしはひさしぶりに自分に 出会ったきもちだ。 おそろしく間(ま)のびのした時間を、 もちあぐんでいた。 そのなかで わたしはあくびばかりしていたのだ。 だが、 午後の冬陽は石をあかるくし、 いっぴきの蠅にきらめいてやまない。 わたしは立って ひらべったい石肌を撫で、 象皮に似た粗(あら)い手ざわりに、 かげろうのようにゆれる おもいを追っていた。 (阿里一多)
ふるさとの 廃校の庭に 夏の午后の日が直射し 掌に沁みるような空と草の葉。 蝉が 耳朶を射る。 私は幼なく 一人 もち竿をかついで 雑草のなかに佇っている――。 (阿里一多)
すわるところもないまま 境涯を 老(おい)にひたした。 換算の利かぬ 時劫の底で、 ゆび 一本を ながめ暮らしたか――。 (阿里一多)
〈時〉のなかから ころりと 昆虫がうまれ落ちた。 背なかににぶいツヤのあるその個体は かすかな翹音をたて 未来を数えはじめた。 (阿里一多)
人群れを、ぬって歩く。 ひとりひとりの間を 抜けてゆく。 その ひとりひとりから 伝わってくるひびきを受けながら あるいて あるいて どこまでも歩きつづける。 路面があるから ともいえるし それはまさに あたかも歩行をうながすかのようだ。 だが、あるくことのなかに おのずからに、 うながされるよりもそれよりも とどめるすべない或る意志があって わたしを人群れの奥にさそいこむ。 人群れでない遠い林のなかの道―― そこにもわたしの歩みへの せつない うながしがあるようだ。 けれども歩くということは、 人群れを離れた場所でよりも 縫うように くぐり抜けるかのように むこうから来る人を避(よ)けたり …
折れまがった葦の茎に 朝の雨が降っている。 にわかに呼びさましがたい 時間のかなたから わたしの脳裡に 古風な雨脚(あまあし)の音がしてくる。 旅立つように こころは急(せ)きたてられる。 渡り鳥の迅さで すぎてゆくのは うちけむる 雨景だけではない。 (阿里一多)
柳の植わっている 古い古い風景のなかで 路傍の小石たちはあくびをした。 低くくもったそらが斜に視野にあり、 みちゆくものは鴉のごとし。 にんげんらはみな小石となり 時間の微粒に渇き居(い)る。 澱んだ掘割に浮く柳の枯れ葉に 未来への退屈が のっかってゆく。 (阿里一多)
廃港へのしらじらとした路面。 あるいているものは いない。 海にも帆船の影すらない。 鉛色の沖の空は しぐれ雲を はらんでいる。 海鳥の鳴きごえが たまに尾を曳いて過ぎるほか、 時間は朽ちてしまった。 わが生の 奥の遠くくもった風景。 潮風の吹く道のうえには なにものの姿もない。 (阿里一多)
広袤(こうぼう)たる野原に 柱だけのような家があった。 吹き抜けてゆくのは 草のにおいのする風。 なかに坐っているのは 脊ぼねのまっすぐな あるじである。 その仁(じん)は痩せ、 たましいが 下っ肚でひかっていた。 遠い街道からは たえず機械の魔物が埃をあげ がむしゃらに音をたてる。 あるじは しかし、 つよい風の脈に 草の茎が吹き折れるのを聴きながら、 するどく おのが生を研(と)ぐ。 (阿里一多)
物売りが物を売るように わたしがわたしを売ってゆく 削ってゆく。 にちにち 雲の暗く這う空が低くひろがり 時間は 空鑵を叩くごとく過(よ)ぎりゆく。 〈遠いみずうみの上を翔り去る鳥の翳(かげ)〉 脂の浮く卑(ひく)いだまし合いの衢(ちまた)の隅で 自分の値をかすれた声で喚びあげる。 しがない痩せ腕や肢におとす視線のけだるさ。 地上の分秒を身をかがめて生き、 獲た銭(ぜに)の 垢にくろずんだ鈍いひかりにさいなまれながら。 〈湖面は煙霧に霞み 枯葦が聞こえがたい耳の底で葉ず れを鳴らす〉 ――よごれたゼニからただよい出て 幾千歳まえの老子は、 こちらのほうへ歩み寄ってくる。 (阿里一多)
引き裂かれた紙片を もう一度 つなぎ合わせようとする―― そんな営みを 曇り日の午后のかったるい時間、 くり返している。 だれも気にとめぬ片隅の空間で 不定形の砕片を 丹念にあつめては もとの一枚のかたちに戻してみようとしつづける。 そんなふうにして つなぎ合わせたものが 当初のものと同一になることの予期はない。 だが性懲りもなく、 不規則な砕片の縁(ふち)をたどって 馴れない手つきで つなぎ合わせようとしている。 (阿里一多)
冬至の 夜ふけの みんなの はいったあとの 湯に ひたっている。 全身にたゆとうていたものが ひとかたまりに寄り合って ひそひそと はなしをはじめるような ごく わずかな瞬刻。 その 吸い寄せられた微かなものらも 過去の涯に散ってしまった。 深い闇の底で 声もない慟哭がつたわってくる。 (阿里一多)
たゆたいゆらぐ水のような悶え 闇にひろが海面(うなも)のようなかなしび。 わたしは 揺れやまぬものの微かな部分。 その闇のなかに 夜よりも濃くうごめく色彩の紊れに はじめもなく おわりもなく 心を絡まれ足を縺らせ ここまであゆんできた たどってきた。 いま 五十の齢(よわい)にして 念いは重く たましいはよどんで 涯もない波のうごきに ゆれさだまらぬ。 たすけをもとめたとて何になろう。 半世紀のくらやみの深いかなたを振りかえり振りかえり その闇の 底もないつめたさだけが 木枯の奥で潮騒を挙げている 哮えている。 (阿里一多)
レールがある。 車両がひんぱんに通るので みがいたように摩滅している――。 くもった日で うすら寒く 固定したレールの面は つめたいひかりをたもっている。 それは地面を押さえつけるように どこまでも 視野のはてまでも伸び、 おれの思考を定着する。 通勤の途次、 おれはそいつを跨ぎ 向こう側の小っぽけな停留所から ガタガタの電車に のり込むのである。 (阿里一多)
この 空間には ひかりが白く漂い、 それゆえに晒された布のような生(せい)が風に吹かれている。 幅ひろいその面(おも)に おのれのからだを横たえながら、 はるかな時間の揺れをはかるつもりになる。 そこに紛れこむのは色褪せた哀しみだけだ。 うかつに過ぎ去り、去らしめた遠いもの、 もう もどってこないもの… 粗い布に手を触れながら 盲(めし)いた人のしぐさで さむい空間に投げだされたその表皮を きのうのことのように まさぐっていこうとする。 (阿里一多)
道ばたの あちらこちらに、 角のある石の突起。 遠くあるいて来たから もつれた足どりに つまずきを呼ぶ。 いろいろな人生――という言い方は平凡だが、 つまずいた ひとつひとつの体験ゆえ もつれは わたしの心を濃密にする。 柳のある町を過ぎ くもりぞらのビルの基層部を過ぎ ああ、もう そうとうに疲れはてたようだ。 しかし ふと気づくと、 それは夢のなかだったみたいで 足さきの疼きも なんかの錯覚かもしれない。 (阿里一多)
いつもいつも 心のなかがゆれうごいている。 かぜの吹くためでないのに あちらこちらに波がゆらぐ。 波が しずまるのを のぞむのだが、 そういうときが あるのだろうか。 まるでおだやかな平面というような そんな水の状態があるだろうか。 腐った溜池の、あの どろみどろの面(おもて)をみれば、 平静の表情に近い。 だが、あれを生きた水といえるだろうか。 たとえば深い山湖に はたはたと風がわたるとき 青い波のゆらめきから おれもこうやって生きているなと こころは にわかに弾んでくる。 そういう気持ちで眺めると ああ この絶え間なく揺れやまぬふたしかさ、 その ゆらぎつづけるこころのままに おれはこの世…
このくにに 冬が きざしてくる。 涯しもないところから なにものかが ふくらみ生(あ)れる。 いたみが疼き 微かな部分まで さいなむ。 呼んでも呼んでも こたえてくれるはずもなく しろい窓のそとの 茫茫の天に 凍みて震えている。 地上には もう 冬よりほかのもののちかづくこともなく 絶えてしまった いっさいの音という音の かすれにかすれた 墨一色の 無限空間。 (阿里一多)
だらだらと続く塀がある。 遅い春の日なかを その塀に添って あるく。 ものみならは あくびを押えてだまりこむ。 燻(くゆ)るような花のかおりがただよい わたしの身をも心をも いよいよ もの憂げにする。 長い塀に添った空間 その辺で ひととき佇ちどまれば 白っぽくかすれたはなびらが 痩せた肩にちりかかる。 (阿里一多)
ゆうぐれのうすあかりのなかで 灯(ひ)もつけずにじっと考えこんでいると 暮色の蔽ってゆく物のいろ合いが わたしのこころに言いようのない音をかなで出す。 その音が こんな微かなたましいにも なにがしかの思いを染めはじめて それがうごきのとれない観念に固着していくようだ。 それは泣いたあとみたいにしくしくと身をさいなむ。 それを 抱きかかえるようにしながら わたしは飲み屋のガラス戸をそっとあける。 (阿里一多)
爪を切った。 孤独が 弾いた。 つめたい縁側で いのちのない殻(から)が ひっそりと 散った。 芽屋のそとは 萩の原。 うすぐらい庭すみに かわいた風が しきり吹く。 (阿里一多)
芽ぶき季(どき)の曇った午後は なにとなく物欲しいこころにゆらぐ。 満たされたく希(ねが)う寄る辺ないおもいが おのれの生のむなしい襞(ひだ)に漂い起こる。 漂泊したとて往き到るところはなく 侘しい居酒屋の台にもたれかかるにしろ 身の 浸せることもない。 いずこにかその嫩葉(わかば)の果てをたどり ひぐれの薄い横雲のそらに紛れ入らん。 (阿里一多)
縁日で蟲を買った。 あるくと 小さなカゴがゆれる。 蟲は エサの胡瓜に 繊い肢をひっかけ 沈黙する。 人生の 揺れやまぬカゴの中で 発語器官を ゆううつにかかえこんでいるのは 胸の奥に棲む わたしの いっぴきの蟲だ。 (阿里一多)
これが決め手ということない世界を歩いてゆく。 むこうからやってくる事柄の群れ―― ぶつかりそうになることごとくを そのつど、即断しながら右に往き左に往く。 決め手のない人生ゆえに そのつど そのつどに こちらの動きが微妙に生まれる。 生まれてきた のっぴきならぬ現象。 それが そのときのわたしの世界だ。 その世界が、逆にみずからを決定づけて そこから抜け出すことの容易なさが身に沁む。 牛飼いが牛を追って いつの間にか牛の行動にみずからもゆれうごいていくように おのれをとりまく生の流動のままに 自己がはなたれてゆく。 (阿里一多)
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