発達グレー×不登校の息子の育児を通じて「学ぶとは何か」「義務教育とは何か」を問い直すブログです。通信制高校に進んだ息子の変化や、進路選択のリアル、親子の対話の記録などを綴っています。“管理される教育”ではなく、“尊重される学び”を・・
理念と現実のギャップに揺れる副教科——子どもの感性はどう守られる?
副教科は本来、子どもの感性や創造性を育てる教科のはず。それなのに、なぜ評価と管理の対象になってしまうのか?不登校を経験した息子の言葉から、文科省の掲げる“理念”と”現実”のギャップを見つめ直します。
“好き”が動き出す力になる——不登校と通信制高校で見えた学びの原点
学校が苦手になった息子が、もう一度“感じること”を取り戻したのは、音楽室でも、美術室でもなかった——。
従わせる教育から、共に育つ教育へ——不登校体験から考える構造の転換
不登校は“本人の問題”なのか?息子の経験から見えてきたのは、教育現場に根づく「管理構造」でした。今、子どもと大人の関係を問い直す。
「支援はあった、でも答えはなかった」 ——不登校支援の限界と構造の問題
不登校の息子に対し、学校・児相・医師と複数の支援を受けた母の実体験。支援があっても届かなかった「本人の生きづらさ」と、“制度の枠組み”の限界を問い直す記事です。WISC結果や家庭での関わりから、支援の本質を考えます。
息子のいない部屋と、ふわっと抜けた心——一時保護後の日々と私の気づき
児童相談所への一時保護を決断した母親が、その後の心情や息子の変化を綴ります。「やりすぎたのでは」と揺れるなか、少しずつ気づいた“信じて待つ”という支援のかたちとは——。
不登校でも“普通”に見えた息子──でもその生活は、親が想像できないほど複雑だった
不登校の息子は「社会性がない子」ではありませんでした。むしろ、学校以外ではスムーズに人と関われる一面も。制度の隙間に苦しんだ半年間を、親の視点から綴ります。
昼夜逆転は“ただの甘え”じゃない──発達グレーの息子が初めて見せた“困っている”のサイン
発達障害グレーの中学生だった息子が、ある日ぽつりと「僕、病気なのかな」とこぼした一言。学校から離れ、昼夜逆転やゲーム依存が進むなかで見えた“助けて”のサイン。親子で児童精神科に通うまでのリアルな記録を綴ります。
「ゲームに逃げてるだけだよね」——そう言えた息子の言葉に救われた日
思春期を迎えた不登校気味の息子は、ストレスからゲームや動画に逃げるようになりました。「ゲームって逃げなんだよね」——その一言に見えた心の叫びと、家庭でできる限界について考えます。
音読の宿題が苦痛だった理由──“読む力”より“読みたい気持ち”が大事だと思った日
「毎日出される音読の宿題──共働き家庭のタイムスケジュールでは無理がある現実。『読む力を育てる』本当の方法を、親子の体験から問い直します。」
「鼻の形、そんなに大事ですか?」 〜“自画像”で叱られた娘の話から考える、創造と評価の伝え方〜
子どもが描いた自画像に「鼻の形が違う」と指摘──“否定”から始まる図工指導の現場で、親として感じた違和感と、表現を育てる教育のヒントを考えます。
「まだ習ってないからダメ!?」 〜“学ぶ気持ち”が叱られる瞬間〜
「まだ習っていない漢字は書いてはいけない?」子どもの“学びたい気持ち”を守るための家庭の選択を綴ります。
“感じる力”と“選ぶ力”を育てる義務教育──2段階制という新しい学びの提案
感じる力を育む前半、選ぶ力を伸ばす後半──子どもの発達に合わせた「2段階義務教育構想」を提案。体験から自律へ。これからの教育の可能性を考えます。
感性体験にも“教育格差”がある?──家庭の経済状況と子どもの「本物との出会い」
芸術や創作体験の機会は、家庭の経済力によって大きく左右されます。習い事や本物体験が“特権”にならないように、義務教育が果たすべき役割とは何か。教育格差と感性体験について考察。
音楽嫌いは学校が作る?──“正解”より“感じる”を大切にしたい理由
「うまく歌えるか」より「どう感じたか」。音楽の授業で求められる“正解”が、子どもたちの音への喜びを奪っていないか。民間の音楽体験と比較しながら、“音を楽しむ感性”について考える。
図工が嫌いになった理由──副教科の魅力と創造性が失われる学校の現実
幼い頃は誰もが好きだったはずの「描く・作る」こと。なぜ学校で「図工嫌い」になる子が増えるのか?義務教育における副教科のあり方を見つめ直し、子どもの“感性”が育つ教育について考える連載第2回。
不登校と“感じる力”──感性を育てる授業が子どもを救うかもしれない理由
子どもが不登校になる理由は感性を育てない授業にある?図工や音楽など“感じる副教科”の可能性から義務教育を見直す。
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