chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
matsu
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2025/05/12

arrow_drop_down
  • 平谷城 伊賀 土塁が完存し虎口構造が興味深く 見学し易い城郭

    平谷(ひらたに)城は三重県伊賀市柘植町にあります。城主は不詳ですが、浜地氏城の出城といわれます。伊賀地方に多い単郭の土塁囲みの城跡で土塁がほぼ完存状態で見ごたえありでした。虎口付近の遺構は独特で、櫓台状の構造がありました。今回の参考資料は(1)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976 (2)「伊賀の中世城館」伊賀中世城館調査会1997 などです。 ※浜地氏城は→こちら平谷城 柘植の地区を領した浜地氏の出城は複数だった 資料(1)によると、倉部を中心に周辺地区を領した有力豪族の浜地氏の出城は平谷城や北谷東城など複数あったとされます。平谷城 立体地形でも、土塁囲みの構造がほぼ見て取れる 常用のソ…

  • 滝川西城 近江 その2 滝川城と一体で櫟野川を堀として西方の守りを担った堅固な城郭

    滝川西城は甲賀市甲賀町櫟野にあります。その1では、主に往時の遺構と後世の耕作地化による改変、農作業道による改変に注目しましたが、その2ではその他の遺構も見ていきたいと思います。今回の参考資料も「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010 などです。その1は→こちら 滝川西城 滝川城とセットで西方向に備え 南の油日への道も抑える位置に占地 北に突き出した尾根に築かれた滝川城と滝川西城は、北側を乱流した櫟野川に北端部を削られ、高低差約15m近くの急角度の崖状になった地形を活かしているようでした。滝川西城 国土地理院地図をの1mメッシュをカシミール3Dで加工 スーパー地形で国土地理院…

  • 滝川西城 近江 その1 滝川城と一体で櫟野川を堀として西方の守りを担った堅固な城郭

    滝川西城は甲賀市甲賀町櫟野にあります。小さな谷を挟んだ東側には滝川一益が在城したゆかりの城・滝川城があり、北側を流れる櫟野川を堀として、滝川城とセットで西方への守りと、南の油日方面への主要な街道を抑える城郭だったと思われます。主な城郭遺構はほとんど残っていましたが、後世の耕作地化で一部の遺構の改変があったようです。今回の参考資料は「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010 などです。※滝川城は→こちら滝川西城 滝川城に隣接した尾根先端部にあり付近には甲賀の大寺 櫟野寺がある 東の方向は鈴鹿山地に遮られているため、西への備えに重点が置かれたようで、北側の櫟野川を堀に見立て、急な…

  • 鯉山砦 遠江 千頭峯城の目の砦と称され 徳川軍が築いたとされる

    鯉山砦は静岡県浜松市北区三ヶ日町にあります。主城である千頭峯城の南方約1kmの地点にあり、千頭峯城からは見えない南側の浜名湖や主要な街道を見下ろすことが出来ることから「千頭峯城の目の砦」と称されたようです。主郭とされるⅠ郭のある主要部から延びる尾根上には、兵が駐屯したと考えられる長大な自然地形に近い平坦地が続き、要所に尾根を断ち切る堀切が設けられていました。今回の参考資料は (1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978 (2)『静岡県の中世城館跡 中世城郭縄張図集成』静岡古城研究会2022 などです。鯉山砦 摩訶耶寺北の千頭峯城からは見えない浜名湖や眼下の街道を見張ることが出来る 千…

  • 藤城 美濃 長大な土塁が見どころ 主要道の結節点を抑える城だったか

    藤城(ふじじょう)は岐阜県恵那市武並町藤にあります。藤は地名で、古くは布志といっていたようです。城歴、城主は不詳で城郭遺構としての地形も不鮮明でしたが、土塁と伝えられる長さ90m程の土塁地形と、土塁造成のために掘り上げたと思われる堀切地形が見どころでした。周囲には白垣外、土居外などの地名が残ります。中山道と木曽川の中間点に当たる場所で、主要な道の結節点でもあるので、道を抑える場所に築かれた可能性も感じました。 今回の資料は (1)「信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河遠江編」宮坂武男 2015 (2)「恵那市史 恵那のむかしばなしとうた」恵那市教育委員会編1974 (3)「岐阜県中世城…

  • 明見A(仮称)は城跡か? その2 明見茶臼山城(仮称)と名付けられた

    明見茶臼山城(仮称)は愛知県岡崎市明見町にあります。その1では明見A(仮称)として紹介しましたが、専門知識豊富な2名の研究者の方に現地を見ていただき、城跡の可能性があるという見解を示していただき、存在する山の名称から明見茶臼山城と名付け、現時点では(仮称)とされました。今回の資料も (1)マップあいち 森林情報マップの微地形図(赤色立体地図) (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 (3)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005 (4)「岡崎市東部遺跡詳細分布調査報告書」岡崎市教育委員会2010 などです。※その1は→こちら 明見茶臼山城(仮称) 明見地区には奥平氏にまつ…

  • 明見A(仮称)は城跡か? その1 赤色立体地図の地形を現地で確認する

    明見A(仮称)は愛知県岡崎市明見町にあります。マップあいち 森林情報マップの微地形図(赤色立体地図)で滝山城を見ていると、偶然 付近に山城跡状の地形がありました。手持ちの資料ではここに山城があると確認できませんでしたので現地で確認をしました。今回の資料は (1)マップあいち 森林情報マップの微地形図(赤色立体地図) (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 (3)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005 (4)「岡崎市東部遺跡詳細分布調査報告書」岡崎市教育委員会2010 などです。今回はとりあえず仮称を「明見A」としました。※その2は→こちら明見A(仮称) 明見地区は奥平氏…

  • 伊勢・松阪城 田丸城と周辺史跡 東海古城研究会の見学会が行われました

    令和7年3月16日(日) 東海古城研究会の日帰りバス見学会が行われました。見学ルートは JR金山駅→松阪城→松阪城御城番屋敷→松ヶ島城→田丸城→JR金山駅 でした。途中で雨に降られましたが松阪城と田丸城では見事な石垣を堪能できました。松阪城 表門への道 松阪の地名は以前 松坂と松阪が混在していましたが、混乱を避けるため松阪に統一したようです。古い資料では松坂となっている場合が多いようです。松阪城 見事な高石垣 石垣は何度も積みなおしが行われているようですが、おかげで見事な高石書きを今も見ることが出来ました。松阪城 石垣のオンパレード 松阪城は大規模な城郭ではありませんが、入り組んだ石垣が組み合…

  • 浜地氏城 伊賀 土塁の規模に驚く柘植地区の有力土豪の城

    浜地氏城は三重県伊賀市柘植町にあります。浜地氏は柘植地区の倉部を領した有力土豪で、浜地氏城を本城として周囲には平谷城・北谷東城・北谷西城・宮の前城が築かれていました。天正伊賀の乱には柏野城に立てこもったとされます。今回の参考資料は (1)「三重の中世城館跡」三重県教育委員会1976 (2)「日本城郭大系 第10巻」平井聖[ほか]編集1980 などです。 浜地氏城 付近には伊賀の有力土豪の城館が多数 伊賀は地域ごとに有力土豪が割拠し、織田信雄の伊賀侵攻時には結束して対抗しましたが第二次天正の乱で敗北し織田氏の侵攻を許しました。※福地氏城は→こちら 福地氏城館は→こちら 浜地氏城 主郭は自然地形を…

  • 広見城 三河 東海古城研究会 2月の城郭見学会が行われました

    東海古城研究会の広見城見学会が2月16日(日)に行われました。広見城は愛知県豊田市に在り市内最大級の山城で東西約400m 南北約300mの規模を誇ります。今回の見学会ではその城郭遺構を2時間かけて、隅々まで徹底見学して山城を堪能し、不明とされる礎石の用途なども考えるのがテーマでした。当ブログでは広見城 その1 ~その4 として掲載していますが、一般の見学では、規模の大きさ故に登城口から主郭までの見学で終わる場合が多いようです。 登城口広場に立つ案内板の縄張図 地元の「保見の歴史を伝える会」の皆さんによって、見学路の整備、落ち葉の除去などが事前に行われていたため、スムーズに見学ができました。見学…

  • 杉本参考地は城跡か その2 赤色立体地図で発見? 縄張図も描かれた

    杉本参考地は愛知県豊田市杉本町にあります。その1では赤色立体地図で現地確認をしましたが、山城跡らしさの確認はできましたが断定は難しかったです。その2では城郭遺構や歴史に詳しい研究者の方に現地の確認をしていただくとともに縄張図を描いていただきましたので紹介したいと思います。※その1は→こちら杉本参考地 赤色立体地図で山城のような地形を発見 現地確認で、それらしい地形は確認できましたが山城跡と断定するのは難しく、専門的な知識をお持ちの方々の見解もお聞きし、現地確認もしていただきました。杉本参考地 参考地は旭中学校に隣接した東西尾根上にある。 縄張図の作図は、東海古城研究会の会員でもある歴史と城郭に…

  • 杉本参考地は城跡か その1 赤色立体地図で発見? 縄張図も描かれた

    杉本参考地は愛知県豊田市杉本町にあります。マップあいち(愛知県統合型地理情報システム)のWebsiteで昨年公開された「森林情報マップ」の微地形図(赤色立体地図)で同地区の大垣内城、源重城を確認していると、両城の間にいかにも山城状の地形がありました。今回はその1です。 ※その2は→こちら杉本参考地 付近にはいくつもの山城がある杉本参考地 赤色立体地図に表れた山城に見える地形 手持の資料には載っていない、いかにも山城に見える地形です。耕作地跡、寺院跡などの場合も多いので新発見の山城跡と安易に言うことはできないと思います。 赤色立体地図の解像度には限界がありますが、帯曲輪状の5 堀切と土橋に見える…

  • 東海古城研究会 3月の城郭見学会の案内ハガキが届きました

    東海古城研究会が3月に行う見学会の案内ハガキが届きました。今回はバスによる一日コースです。 非会員の方は会の公式「X」 https://x.com/Tokaikojo のDM 又はGooogleフォームから問合せ、申し込みが出来ます。当ブログのPC版ブックマークからもリンクが貼ってあります。

  • 桜城 信濃 諏訪下社大祝の城 後に武田氏によって大きく改修された山城

    桜城は長野県諏訪郡下諏訪町にあります。諏訪大社下社の大祝 金刺氏の居館・神殿(ごうどの)に付属した城として古くに築かれた山城ですが、今見る姿は後に武田氏の支配下で大きく改修が行われたとされます。近年の公園化や耕作地化により改変を受け一部の遺構の原形が失われたようですが、規模の大きな堀切や竪堀を堪能することが出来ました。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館 6」宮坂武男著 2013 (2)ひなたGIS 長野県CS立体図 などです。桜城 大祝・金刺氏の居館 神殿(現 下諏訪中学校)のいわゆる詰城として築かれた 桜城は眼下に甲州街道と中山道が見下ろせる場所に占地し、山下の居館・神殿や諏訪湖も一望で…

  • 舟ヶ谷の城山 遠江その2 採土消滅の遺構を想像しながら多数の堀切遺構を見学

    舟ヶ谷の城山は新野新城ともいわれ静岡県御前崎市新野篠ヶ谷字舟ヶ谷にあります。今回はその2です。最高所の本曲輪と周辺は昭和50年代に大規模な採土によって消滅したようですが、採土以前に踏査した資料(1)によって、失われた部分を想像しながら多数の城郭遺構を見学することが出来ました。今回の資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会編1978 (2)「静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」静岡古城研究会2022 などです。舟ヶ谷の城山その1は→こちら 舟ヶ谷の城山 八幡平の城を新野古城 舟ヶ谷の城山を新野新城とも云う 資料(2)によると、武田軍の支配した時期には篠ヶ谷城、八幡平の城…

  • 舟ヶ谷の城山 遠江その1 採土消滅の遺構を想像しながら多数の堀切遺構を見学

    舟ヶ谷の城山は新野新城ともいわれ静岡県御前崎市新野篠ヶ谷字舟ヶ谷にあります。今川系新野氏が支配したが、後に高天神城の攻防戦に際して武田軍によって大改造されたと考えられています。最高所の本曲輪と周辺は昭和50年代に大規模な採土によって消滅したようですが、採土以前に踏査した資料によって、失われた部分を想像しながら見学することが出来、尾根上の興味深い遺構、多数の堀切を堪能することができました。今回の資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会編1978 (2)「静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」静岡古城研究会2022 などです。舟ヶ谷の城山 南北に延びる細尾根を南から登り本曲…

  • 霧山白山城 三河 七里街道を扼する山上の城郭 多数の大岩も見どころ

    霧山白山城は愛知県豊田市霧山町字高山にあります。信州からやってきた松山氏が城主とも言われますが詳細は不明のようです。比高150mの単独峰に幾段もの帯曲輪状地形、畝状竪堀など興味深い遺構が残り、地山の多数の大岩を取り込んだ城域が見ごたえありの山城でした。今回の参考資料は(1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001 (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 などです。霧山白山城 かつては巴川沿いの道はなく七里街道がメインの街道だった 今は巴川沿いに道路が敷設されましたが、往時は七里街道が松平地区と足助地区を結ぶ主要な街道だったようです。城はこの街道を見下ろす高所にあり山下の…

  • 伊勢 四日市の古城と史跡を訪ねて 東海古城研究会の見学会が行われました

    1月19日(日)に東海古城研究会の四日市の古城と史跡をめぐる見学会が、あすなろう鉄道の1DAYフリー切符を利用して行われました。近鉄四日市駅に集合し、特殊狭軌線・ナローゲージのあすなろう鉄道を利用して采女城→日永の追分→赤堀城→浜田城を巡りました。まずは、あすなろう鉄道で四日市駅から終点の内部駅に向かいます。采女城 見学路入口に立つ案内板の案内図 赤線が見学路 采女城は規模の大きな平山城で、すべての城郭遺構をジックリ見学するためには半日必要と思われますが、見学会では案内板の見学ルートで見学しました。采女城 見学路入口には冠木門が新設された 入口には近年新設された冠木門がありました。往時にあった…

  • 東海古城研究会 2月の城郭見学会の案内ハガキが届きました

    東海古城研究会の2月度の城郭見学会の案内ハガキが届きました。今回の見学先の三河・広見広見城は、愛知県豊田市広幡町にあり、豊田市内最大級の山城ですので、当ブログで何度も取り上げています。 ※非会員の方の問い合わせ・参加申し込みは 東海古城研究会公式「X」からできます。 ◆山城好きの方は是非 お気軽にどうぞ!

  • 鬼場城 信濃 何条もの大堀切が見どころ 上原城との関連は

    鬼場城は長野県茅野市にあります。築城年代、築城者は不明のようですが、諏訪の雄族 諏訪氏の支族矢ヶ崎氏との関連が考えられるようで、矢ヶ崎氏の上原城とは山道での連絡が容易だったとされます。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館 6」宮坂武男著2013 (2)長野県立歴史館所蔵 「宮坂武男城郭鳥瞰図」 などです。※宮坂武男氏の鬼場城鳥瞰図は長野県立歴史館のホームページで見ることが出来ます。鬼場城 直下を大門街道が通る 資料(1)によれば、武田氏の諏訪進出により、鬼場城は武田氏によって齢松山城とともに大きく改修され大門街道などの多数の街道の結節点を見下ろす重要な拠点となっていたとされ、狼煙の中継点でも…

  • 三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道 その5 桜井寺街道

    天正三年五月 武田勝頼の大軍に包囲された長篠城の籠城将兵400人は次第に追い詰められ、鳥居強右衛門が単身夜陰に紛れて長篠城を脱出し、岡崎城の信長・家康に救援を訴え取って返したと伝わります。この決死の脱出行と味方に朗報を届けて死に至るいきさつが戦国の世で敵の将兵にも武士の鑑として賞賛され、強衛門の磔の図が武田の武将の背旗に描かれ今に伝わりました。 当ブログでは強右衛門が駆け抜けた道を その1 その2 その3 その4とたどってきましたが、今回は その5として、桜井寺街道の道を地図でたどります。今回の参考資料は (1)「生平のむかし」城殿輝雄町1984 (2)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005…

  • 六呂木城 伊勢 和歌山街道の古道を抑える城郭か 今は果樹園で改変がある

    六呂木城は三重県松阪市六呂木町のあります。城主は六呂木氏と伝わり、城域はミカン園に開墾され、往時の遺構はかなり改変されていました。城址の東下には五箇篠山城に通じる古道が通っていましたので、街道を抑える役割があった城の可能性がありそうです。六呂木城は天正期に五箇篠山城の北畠具親に与して、侵攻する織田軍との戦いに敗れたと伝承されます。今回の参考資料は (1)「松阪の城50選」松阪の城50選編集委員会編 2019 (2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976 (3)三重県埋蔵文化センター小片野新田遺跡発掘情報 などです。六呂木城 小片野城とセットで和歌山街道の古道を抑えていたか 資料(3)には小…

  • 東海古城研究会の1月見学会 案内ハガキが届きました

    2025年1月19日(日)に行われる東海古城研究会の案内ハガキが届きました。ベテランから入門者の方まで楽しめる半日コースの見学会で「非会員の方の参加OK!」。東海古城研究会の公式「X」(旧Twitter)のDM 又は Googleフォームから問い合わせ、申し込みが出来ます。※公式「X」は→こちら采女城は城域が広く、興味深い遺構も多いので今回の見学会でどこまで見ることが出来るか楽しみです。 ◆申し込み締め切りは1月14日(火) 会費は当日、現地での支払いになっています。

  • 望月青木城 近江 柑子集落の入口を守る望月村嶋城の支城か

    望月青木城は滋賀県甲賀市甲南町柑子(こうじ)にあります。望月村嶋城主望月重元の次男、重武の居城とされ、柑子集落の入口に当たる尾根の北端部に築かれ、望月村嶋城を守り、集落への侵入に備えた出丸的な位置付けだった可能性がありそうでした。今回の参考資料は(1)「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010と現地案内板 などです。望月村嶋城は→こちら 望月青木城 周囲には甲賀の集落ごとに小領主の領地と城が見られる 望月村嶋城の周囲にはいくつもの城址が残り、小領主が割拠していたようで、望月青木城は望月村嶋城のある柑子集落の北側の入口を守る位置に在りました。望月青木城 城域は尾根の北端部から南…

  • 久須見城 美濃 「滝坂の渡し」に通じる峠道を抑えるシンプルだが良好に遺構が残る城郭

    久須見城は岐阜県恵那市長島町久須見にあります。松尾左京が城主であったと伝承されますが、詳細は不明のようです。木曽川の渡しに通じる主要な道の峠の切通道を抑える重要な役割があったものと思われます。木曽川は上流で切り出した材木を、いかだ流しで下流に運ぶため、障害となる橋が架けられていなかったので、道は「滝坂の渡し」で木曽川を渡っていたようです。今回の参考資料は(1)「信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河遠江編」宮坂武男 2015 (2)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第三集」岐阜県教育委員会2004 などです。久須見城 下流に笠置ダムが建設され渡船場は水の底 代わりに笠置橋が出来た 往時は…

  • 小畑城 三河 武田軍の侵入路を扼する山城か? 興味深い遺構が多く残りが良好

    小畑城は愛知県豊田市小畑町字城平にあります。小畑の読みは資料によって異なり こばた、おはた、こはた、があり烏城の別称もあるようです。小畑の集落からの比高が160mの山上に築かれ元亀年間の武田氏の侵入に備えて、周辺の複数の領主が立てこもったと伝わり、遺構の形態は意外に複雑で興味深いものでした。今回の参考資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 (2)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993 などです。 ※槙本城その1は→ こちら小畑城 道ab C から武田軍の東からの侵入が考えられる 地区最大の城郭は槙本城 道aは現在の地図には載っていませんが、明治の…

  • 穴ヶ谷城 遠江 その2 茶畑で一部改変されたが残された遺構が意外に多い

    穴ヶ谷城は静岡市牧之原市中字穴ヶ谷にあります。その1では見学路周辺と城域東側の遺構を見学しましたが、その2では城域中心部と西側の城域の城郭遺構を見学したいと思います。今回の参考資料も(1)『静岡県の城跡 西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022 (2)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978 (3)VIRTUAL SHIZUOKA 静岡県 中・西部 点群データ (4)ひなたGIS 静岡県CS立体図 などです。※その1は →こちら 穴ヶ谷城 小仁田薬師堂から登ります 今は放棄された茶畑が稼働していた時に軽トラの道として使われていたと思われる道を見学路として城域目指して登ります。穴ヶ…

  • 穴ヶ谷城 遠江 その1 茶畑で一部改変されたが残された遺構が意外に多い

    穴ヶ谷城は静岡市牧之原市中字穴ヶ谷にあります。文明年間に勝間田十郎政次の城だったが廃城となったとされてきましたが、近年の研究で天正期の武田・徳川の争いの中で改修を受けた可能性が考えられるようです。遠江の山城は近年の茶畑の開発によってその遺構の多くが失われてしまいましたが、穴ヶ谷城も茶畑の開発が行われている為、あまり期待せずに見学に出かけましたが、意外に多くの城郭遺構が明確に残されていました。今回の参考資料は(1)『静岡県の城跡 西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022 (2)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978 (3)VIRTUAL SHIZUOKA 静岡県 中・西部 点群デ…

  • 「城」第236号が届きました。

    東海古城研究会の機関紙「城」の第236号が発刊されて届きました。 「城」は会員には無料で届き、会員の投稿も無料で掲載されます。 今号では村瀬二郎さんの ボールペン画の和歌山城が巻頭を飾っています。 石田 章さんの縄張図奮闘記は、精緻な縄張図を描き続けた締めくくりとして作図の道具の紹介と、これまで描き貯めた縄張図の内から厳選して13点が一挙掲載されています。石川浩治さんは、所在に諸説があった笠松町の田代城の位置の特定についての論考で、誤った情報がネットで流布・拡散されることへの警鐘も鳴らしています。 高橋陽介さんは、「関ヶ原の戦いは無かった」説を発表して話題となっていますが、今回はそれにまつわる…

  • 尾張 物見山と塔山城を訪ねる 東海古城研究会の見学会が行われます

    2024年12月 東海古城研究会の見学会の案内ハガキが届きました。 今回は現地集合での見学会で、各自集合場所にお弁当を持って集合する企画です。下記に、案内ハガキを抜粋して掲載しました。 参加申し込みの締め切りが12月9日(月)となっています。◆申し込み、問い合わせは 東海古城研究会の公式「X」からできます。 公式「X」は→こちら なお「申し込みの際は必ず車参加或いは交通機関参加予定のいずれかを申告してください。」 と注意書きがあります。 ※駐車場からの距離が少しありそうですので、やや健脚向きかもしれませんね。

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、matsuさんをフォローしませんか?

ハンドル名
matsuさん
ブログタイトル
城と歴史歩きを楽しむ
フォロー
城と歴史歩きを楽しむ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用