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小説『ザ・民間療法』 https://www.hnym.jp/blog/

ある美術家が人体の特殊な現象を発見。その意味を知って震撼する。人類史に残る発見の軌跡とともに、世界の民間療法と医療の実像に迫る本稿は『モナ・リザの左目』の著者である花山水清が「真実はフィクションの中でのみ存在し得るか」を探る実験小説である。

この特異な現象が人体にもたらすインパクトはあまりに大きく、同時代の人間の多くには全容を把握することさえできなかった。そしてこの発見の重要性を訴えるMの発言は、社会からはことごとく排除されていく。ついに彼も老いと呼ばれる年齢を迎え、「このままでは神から託された預言が埋もれてしまう」と焦る。彼が見つけてきたもの、成し遂げたものとは何だったのか。果たしてその真実が正しく評価される日は訪れるのか。

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  • 小説『ザ・民間療法』第3話 序章「美術教師が特殊美術でテレビ業界に転身!」

    『モナ・リザの左目』非対称化する人類(藤原書店)の著者である花山水清の最新作【小説『ザ・民間療法』】を公式サイトにて連載中! 20世紀末の日本において、ある一人の男Mが齢40にして美術の世界から民間療法の世界へと飛び込んだ。彼は美術家として培った能力によって、人体にある特異な現象を発見。その意味を知って震撼する。 だがこの現象の存在を訴えるMの発言は、既存の社会からはことごとく排除されていく。この現象がもたらすインパクトはあまりに巨大で、同時代の人間の多くには全容を把握することさえできなかった。そして理解できた人間は、自らの立場を守るために沈黙し、Mにも沈黙を強いるしかなかったのである。 彼はその後もさらに現象の解明に年月を費やし、ついには老いと呼ばれる年齢を迎えた。「このままでは神から託された預言が埋もれてしまう」と焦るM。彼が見つけてきたもの、成し遂げたものとは何だったのか。果たしてその真実が正しく評価される日は来るのか。 人類史に残る発見の軌跡とともに、世界の民間療法の実像と医療の限界に迫る本稿は、「真実はフィクションのなかでのみ存在し得るのか」を探る実験小説である。

    地域タグ:北海道

  • 002 序章「医者の仕事は美術なんぞより崇高なんだ!」

    中学の時点で人体のからくりをかいま見たとはいえ、その後の私の興味は絵を描くことに向かっていた。 地元の進学校に入学した私は、その興味のまま、なんとなく美術クラブに席をおいた。 もともと絵を描くのは苦手だったのに、入部後に初めて描いた油絵は違った。

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  • 001 序章「ビギナーズラック」

    あれは私が川釣りを覚え、黒曜石拾いに熱中していた中学生のころのことだった。学校から帰った私が、いつものように近くの河原に行く準備をしていると、それまで平静だった母が、「うっ」と胸を押さえてうずくまった。 突然のできごとというのは、

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  • 小説『ザ・民間療法』近日公開!

    20世紀末の日本において、ある一人の男Mが齢40にして美術の世界から民間療法の世界へと飛び込んだ。彼は美術家として培った能力によって、人体にある特異な現象を発見。その意味を知って震撼する。 だがこの現象の存在を訴えるMの発言は、既存の社会からはことごとく排除されていく。この現象がもたらすインパクトはあまりに巨大で、同時代の人間の多くには全容を把握することさえできなかった。そして理解できた人間は、自らの立場を守るために沈黙し、Mにも沈黙を強いるしかなかったのである。 彼はその後もさらに現象の解明に年月を費やし、ついには老いと呼ばれる年齢を迎えた。「このままでは神から託された預言が埋もれてしまう」と焦るM。彼が見つけてきたもの、成し遂げたものとは何だったのか。果たしてその真実が正しく評価される日は来るのか。 人類史に残る発見の軌跡とともに、世界の民間療法の実像と医療の限界に迫る本稿は、『モナ・リザの左目』非対称化する人類(藤原書店)の著者である花山水清が、「真実はフィクションのなかでのみ存在し得るのか」を探る実験小説である。

  • パラレルワールドでは生き残れない

    私は西岸良平さんのマンガが好きだ。 彼のマンガには、パラレルワールドをテーマにした作品がよく登場する。 パラレルワールドとは、ある時点で分岐し、並行して存在する別の世界のことである。 人生でいえば、今の自分の人生とは全く違った人生が並行して展開していることになる。

  • 日本人はみそ臭いのか

    海外のホテルでは、日本人の団体客が泊まったフロアはみその匂いがするらしい。 海外旅行にインスタントみそ汁を持参する人は多いから、みなホテルで一斉にみそ汁を作っているのだろうか。

  • マムシが出た!!

    5月も終わりのある日、近所の道路にマムシが出た。 カラスに追われてピョンピョン跳ねているのを、近くの家の奥さんが見つけて旦那さんが捕虫網で獲った。 連絡が来たので見に行ってみれば、30cmぐらいで赤茶色。

  • 写楽とピーター・パンと逆遠近法

    写楽「三代目大谷鬼次」

  • 百済観音像の脚は長いのに、なぜ日本の仏像はみな脚が短いのか

    私は日本でもっとも美しい仏像は、法隆寺の百済観音像だと思っている。 百済観音像といえば、飛鳥時代を代表する仏像の一つである。 その左右対称ですらりとした八頭身は、アルカイック様式を思わせる。 しかし日本では、このようなプロポーションを持つ仏像は他にはない。 日本のほとんどの仏像は、顔が大きくて寸胴で脚が短い、まるっきり日本人体型そのものなのである。 渡岸寺の十一面観音像にしても、あれだけ美しい姿でありながら、脚は極端に短い。 なぜ日本の仏像はこんなに脚が短いのだろうか。 以前読んだ本には、拝観者が仏像を仰ぎ見るのに都合が良いように、下半身を短くしてあるのだと書かれていた。 当時はその説明で納得していたが、よくよく考えてみればそんなわけがない。 仏像を見上げるのなら、遠近法では逆の表現になるはずなのだ。 遠近法には、大きく分けて線遠近法と逆遠近法とがある。 線遠近法では遠くのものを小さく、近くのものを大きく表現する。 一般的に遠近法として知られているのは、この線遠近法のことである。 逆遠近法では、その反対になる。 信仰の対象となる仏像であれば、大きさを強調するためには、線遠近法を用いて脚を長く上半身を短くしたほうが、より効果的だ。 現に百済観音像の場合は、そのように造られているのである。 それなのに、なぜ日本の仏像の多くは逆遠近法で造られているのだろうか。 実は遠近法と逆遠近法には、遠近の向きだけでなくもう一つ大きな違いがある。 それは視点の違いなのだ。 線遠近法の場合は、作者は鑑賞者と同じ視点に立って、見る側の目線で対象物を造り上げる。 ところが逆遠近法となると、作者の視点は対象物の側に立つ。 そして内側から鑑賞者を見る。 つまり、視点が180度逆転するのである。 すると日本の仏像を造った仏師の目線は、拝観者の側ではなく仏の目線だったことになる。 日本の仏像の脚が短いのは、単にわれわれに似せたわけではなく、仏が衆生を見下ろしている形を表現した、特殊なものだったのだ。

  • インカの村にはたどりつけない

    昨日から、探検家の関野吉晴氏の『インカの村に生きる』という本を再読している。 ここに登場する「インカの村」とは、ペルーの標高4300mの高地にあるケロ村のことだ。 標高4300といわれてもピンと来ないだろうが、富士山よりもさらに500mも高い。 このケロ村では、インカの時代とほぼ同じ、自給自足の生活が続いている。 本書では、そのケロに生きる人々の暮らし、貴重な習俗の記録が、数多くの写真で綴られているのだ。 どうしてこれほど美しいのか、ため息が漏れる。 この写真の美しさもさることながら、ファインダーを覗く彼の視線もすばらしい。 だがさらに驚かされるのは、彼の体力なのである。 ケロ村までは車の通れるような道もなく、岩山を縫うようにして徒歩で登っていくしかない。 しかも、平地ではない。 標高4300mである。 当然、空気も薄いのだ。 高山病は2500~3000mぐらいで発症するといわれている。 日本人に人気の高いあのマチュピチュ遺跡は標高2400mだ。 あそこでは、近くまでは行ったものの、高山病で目的地まで到達できない人も多いし、毎年何人もの日本人観光客が、高山病で亡くなっているときく。 以前、恩師の相沢韶男先生が、バスでチベットのラサに向かった。 途中で立ち小便しようと思って下車したら、先に用を足していた人がそのままバタッと倒れた、と話してくれた。 そのラサだって標高3600mだ。 かつて私も、ヒマラヤのふもとにあるガントクという街に行ったことがある。 ガントクには、軍隊しか通らないような険しい道を、延々と登っていくのだ。 いたるところに崖崩れがあり、谷底は遥か彼方にかすんで見えた。 そこでせいぜい標高2000mぐらいだったが、私にとっては大冒険だった。 ケロはそこからさらに2000m以上も雲の上なのだから、尋常ではない。 そこに大荷物を背負って徒歩で行くなど、信じがたい体力だ。 高地となれば気温差も大きいはずだから、私など到底生きてたどりつける自信はない。 運良く到達できたとしても、また歩いて降りてくるという試練が待っている。 そんなことに思いを巡らすと、軽いめまいとともに、この写真の1枚1枚のありがたみが、さらに脳天に沁みてくるのであった。

  • 新一万円札の渋沢栄一は私の祖先である

    日本で最初に銀行を創ったことで知られる渋沢栄一が、新一万円札の顔に決まった。 選考の経緯は知らないが、彼の経歴をみれば、これまで登場しなかったのがおかしいほどだろう。 実は渋沢栄一は私の祖先に当たる人物なのである。 ただし、祖先といっても血の繋がりはない。 そしてここからの話が少々長くなる。 渋沢栄一の孫が、日本の民俗学の基礎を築いた渋沢敬三である。 その敬三の一番弟子だったのが、歩く巨人とうたわれた宮本常一であった。 さらにこの宮本の愛弟子が、私の師である相沢韶男だ。 相沢には萱野茂という友人がいた。 萱野茂といえば、二風谷アイヌ資料館を作り、アイヌ文化の保存に尽力したことで有名な人物である。 相沢は『萱野茂のアイヌ語辞典』の編纂や、アイヌ民具の実測などを通して、彼とは何かと交流があったのだ。 そんなある日、相沢と萱野の会話で、渋沢敬三の話が出た。 萱野は「オレは金田一京助先生を介して渋沢敬三の孫弟子に当たる」といって、暗に相沢より自分のほうが上だと自慢した。 それを聞いた相沢は、後で宮本常一にあったときに、「宮本先生は渋沢敬三の弟子ですよね。すると私は渋沢の孫弟子と名乗ってもイイわけですか?」とたずねてみたのである。 すると宮本は、腕を組んでしばらく間をおいてから、「ウン、イイ」と大きく頷いた。 そんな話を、私は相沢先生と飲んでいるときに聞いた。 そこですかさず私も「つーことは先生、なんですか、相沢先生が渋沢の孫弟子ということは、私は渋沢のひ孫弟子ということでイイんですか」と聞き直してみたのである。 すると先生はおもむろに腕を組み、しばらく間をおいてから「ウン、イイッ」と大きく頷いてくれた。 というわけで、新一万円札の渋沢栄一は私の祖先に当たるといえるのだ。 だからといって、私のもとに多めに渋沢先生が集まってくるわけではないことはいうまでもない。

  • 新刊構想と最近の健康本の傾向を知る

    おかげさまで、3月に『からだの異常はなぜ左に現れるのか』が増刷になったあと、次の出版の話が持ち上がっている。 出版社の意向では、2005年に出した『 腰痛は「ねじれ」を治せば消える 』の復刻版をというお話だった。 まことにありがたい。とはいえ、あれからもう14年も経っている。もちろん基本は変わらないのだが、この期間に多くの新たな発見があった。その分、私の理論も手技も大きく進化している。そのため復刻としてではなく、新たな内容の本にすることで了承をいただいた。 路線としては、腰痛とひざ痛で悩む人を対象に、モルフォセラピーの入門的な本をイメージしている。そこで、読者の傾向を調査すべく、書店の健康本のコーナーに寄ってみた。 実は私は健康本が苦手である。 かもしだす雰囲気があまりに強烈で、前著の出版以来、足が遠のいていたのだ。だが、意を決して百鬼夜行の魔界に踏み込み、一冊一冊手にとってみた。すると・・・ 「ん、これは!?」 「いや、そんなはずは・・・これはどうだ?」 「お、これもか!?」 どれもこれも、ほぼ同じである。 見事に文章がない! 文章どころか、文字がほとんどない! あったとしても、極端に字が大きい! まるで幼児向けの絵本だ。それなのに、題名だけはゴリゴリに大人向けなので、余計に異様なのだ。 確かに、本が売れなくなったといわれて久しいことは知っている。本が売れないのは、本を読まない人が増えたからだ。20年も前からずっとそうだったから、ある程度は予想していた。 私などは、本を手にとって文字数が少ないと損をしたような気がするが、今の日本はそうではないようだ。それにしても、症状もここまで進んだか! と衝撃を受けた。 これはもう「本を読まない」というレベルではない。本を「読む」時代は終わって、本は「見る」時代になっているのだ。 電子書籍の売上は3000億円にもなるそうだが、その9割がマンガだという。当然ながら、その読者の大半は若年層だから、本を読まない層は今後ますます拡大するのだろう。 一方、私が配信しているメールマガジンは、文字だけで3000字を超すこともある。テキストメールでの配信なので、マンガどころかイラストもないし、文字修飾すらない。 これを好んで読んでくださっている人が、どれだけ貴重な存在であるかを思い知らされた。改めて感謝を申し上げたい。私の本を読んでくださった方々にも、心からありがとうといいたい。 そういえば

  • 幻の珍獣を見た!? ウソではない話

    先日、北海道の海辺でキテン(ホンドテン)を見かけた。 岩場でチョロチョロと愛らしい動きを見せたと思ったら、突然、海に潜ったのである。 テンが海に潜る? こんなシーンを見た人など、めったにいないのではないだろうか。 海水でずぶ濡れになって岩に上がり、プルプルと体を振ってしぶきを飛ばす姿は、何ともいえずかわいかった。 そういえばずっと前にも、もっと衝撃的な場面に出会ったことがある。 あれは今から30年以上昔のこと、北海道の大雪山系に岩内仙侠までドライブした。 そこから山道を車でさらに奥へ進むと、森のなかに名も知らぬ小さな沼があった。 人が立ち入ることなどほとんどない、いつクマが出てきてもおかしくないような、そんなところだった。 私がその沼に見とれていると、目の前でとつぜん1メートル以上ある動物が泳ぎ出し、そして水のなかに潜っていったのである。 ほんの一瞬のできごとだったが、私の頭のなかには「カワウソ!」という文字が点滅していた。 私はある博物館で、絶滅したといわれるニホンカワウソの剥製を見たことがあった。 あのとき沼で遭遇したのは、そのニホンカワウソと同じものだったのだ。 もちろん、北海道でもニホンカワウソはとうに絶滅している。 見まちがうとしたら、テンか野生化したミンクしかない。 だが、それでは大きさが違いすぎるだろう。 今でこそ、ペットとして輸入されたカワウソを飼うことがブームらしいが、30年も前にペットのカワウソなどいなかった。 だから、ペットが逃げたものでもない。 やはりあれはオオウソ・・・いやオオカワウソだったことはまちがいない。 そして今でも、美しい沼の風景とともに、あの映像は私の脳裏に焼き付いているのである。

  • 仕事に命を懸け、日本一痛い思いをしてきた男

    昔、インドの田舎でゲストハウスに住んでいたことがある。 ある夜、日本から電話があった。 電話があったといっても、電話機があるのは私の部屋から100m以上も離れたところである。 そこまでの道のりは、ちょうどその日の昼間、コブラが出て大騒ぎになった草むらを抜けて行かなければならない。 徒歩だし、もちろん街灯などない。 真っ暗ななかを、懐中電灯を頼りにしてやっとたどりついたら、電話口からは懐かしい日本語が響いてきた。 電話を切って、また暗い草むらを抜けて部屋まで戻ると、玄関口で何やら動くものがある。 あわてて懐中電灯で照らすと・・・サソリだった。 昼がコブラで、夜、サソリ。 しかもちょっとしたロブスター並のサイズである。 電話一本受けるのも、かなり命がけなのだった。 その後、間もなくして日本に帰ったが、私には住むところがない。 仕方ないので、しばらくは知人の家に居候していた。 はるばるインドまで電話をかけてくれたのも、居候させてくれたのもこの人、スタント界のレジェンド、高橋勝大さんである。 通称「ボス」、私もそう呼んで、長いことお世話になってきた。 インドから帰ったばかりの私は栄養失調だった。 体重が50キロにも満たない状態だったのに、ボスのお宅で三度々々豪華なタダ飯をいただいて、生き延びたのである。 私が今(命)あるのは、ボスのおかげだ。 私の大師匠である民俗学者の宮本常一も、当時の日銀総裁だった渋沢敬三の邸宅に居候していた。 渋澤から、「日本一の食客」といわれていたという逸話もある。 その環境があったればこそ、彼は民俗学であれだけの業績を残せたのだ。 果たして私の場合はどうだろうか。 ボスの体には、40数ヶ所もの骨折の痕がある。 「身体を使うことに関しては、誰にも負けたくなかった」という言葉の通り、スタントマンとしてやむを得ない事情もあっただろうが、他人にはいえないほどの痛みを抱えて生きている。 私が治療の世界に足を踏み入れてからは、その一つ一つを練習台にさせてもらってきた。 その成果の結晶が、現在のモルフォセラピーなのだ。 あれからもう四半世紀が過ぎようとしている。 今では大勢の人が、モルフォセラピーの技術の継承者となり、世界へと飛び立っていった。 ボスは私の恩人というだけでなく、モルフォセラピーの功労者でもあるのだ。 そのボスが最近、スタントマンとしてだけでなく、生身の人間としても生き様が注目されている。 特に

  • 三丁目の夕日と改元の憂鬱

    私が大好きな西岸良平のマンガに、『三丁目の夕日』という作品がある。 実写での映画にもなったので、ご存じの方も多いだろう。 この作品の時代設定は昭和30年代だ。 コマの隅々まで、私が子供のころに見て育った風景だから、見ていて飽きない。 流行に疎い私は、マンガだけでなく音楽からファッションまで、昭和仕様のままである。 昔は良かったなどというつもりもないが、科学以外のこととなると新しさには関心が薄いのだ。 そして今、なじむ間もなく平成という時代も終わろうとしている。 歴史区分では、現代に近い時代のことを近代という。 今までの日本では、明治から太平洋戦争集結までを近代としていた。 ところが平成が終わると、ずっと現代だと思ってきた戦後まで近代となり、昭和はまるごと遠い過去に押しやられてしまう。 『三丁目の夕日』どころか、平成よりも前のことなど、だれも懐かしがらない時代がくるのだ。 そういえば子供の時分、まだ町内には慶応生まれの人が生きていた。 「え! あの薬屋のばあさん、江戸時代の生まれなの!?」などと話していた記憶があるから、100近い年齢だったのだろう。 幕末の動乱、明治維新、大正デモクラシーに世界恐慌、2度の大戦の時代を生き通したとなると、驚異的な人生だ。 子供にしてみれば、化石のようなものすごい年寄りにしか思えなかったが、昔話の一つでも聞いておけばよかった。 改元の騒ぎを耳にすると、ふとそんなことを思い出すのである。 ■元号メモ ・慶応 1865年~1868年 4年間 ・明治 1868年~1912年 45年間 ・大正 1912年~1926年 15年間 ・昭和 1926年~1989年 64年間 ・平成 1989年~2019年 31年間 ( Wikipedia http://tinyurl.com/y8tkewn3 )

  • 美術家の本懐

    私は美術家である。 アーティストと表現することもあるが、自分では美術家だと思っている。 美術家の目的は、自然のなかから美を見つけ出し、それを切り取ることである。 自然から美を見つけること自体はむずかしいことではない。 神が作った自然のなかに、美しくないものなど存在しないからだ。 逆に、美とかけ離れたものを探すとしたら、人間の頭のなかか人間が作ったものぐらいだろう。 しかし美術家というのは、なまじ美を追求するあまり、自分の頭のなかの美しくない部分ばかりが際立ってくる。 以前の私も、美術家として大きな間違いを犯していた。 自然のなかから美を切り取るどころか、過去にだれかが見つけた美を寄せ集めて、借り物で自分の美の世界を作り上げようとしていたのだ。 そのような偽りの美術には、感動も喜びもあるはずがない。 レオナルド・ダ・ヴィンチは、「画家は自然以外のものを手本に選べば、いたずらに自分を疲労させる」といった。 彼のいう通り、あるのは苦しみだけだった。 美術家であろうとすれば、そんなウソを生涯つき通すしかない。 そのため、私の作品には常に後ろめたさがつきまとっていた。 美術の世界の怖いところは、そのウソを自分以外はだれにも見抜けないことなのだ。 実はほとんどの美術家は本人が意識するしないにかかわらず、私と同じ苦しみを味わっている。 ピカソやロダンほどの天才でも、やはり似たような経験をしていたはずだ。 皮肉なことに、美術は決して美術家を救ってはくれない。 だから美術家は、美術の世界ばかりか、現実の世界から逃げ出してしまう者も多いのである。 しかし私は、人体の「アシンメトリ現象」の発見を機に、自分にも世間にもウソをつかなくてすむようになった。 「アシンメトリ現象」の研究は、私にとって心底没頭できる美の探究なのである。 おかげで偽りの美術の呪縛からは完全に解放された。 美術家として評価されるかどうかは別として、美術家であろうとする自分を、今では誇りに思えるのである。 そして今、美術の世界から医学の世界を眺めるようになってみると、そこにはかつての私と同じ表情を隠し持った人たちが大勢いる。 彼らもまた、苦しみのなかにいるのである。

  • 展覧会の絵

    昨年2月、大学の同期生たちが銀座でグループ展を行なった。 招待されて出かけてみたら、40年振りの旧友たちはみな私同様ジジイの顔をしていた。 この40年の間、美術の世界でそれぞれが精一杯奮闘していたようで、彼らの顔を眺めているといろいろな意味で感慨深かった。

  • 重版(3刷)決定しました!

    昨年末に完売していた本(『からだの異常はなぜ左に現れるのか』)の増刷が決定しました! 中古市場にもほとんどない状態だったので、一時は1万円台でも売れていたようです。 増刷分は3月上旬には店頭に並ぶものと思われます。 これで3刷ですから、ありがたいことです。 同じく完売してしまっていたDVDの増刷(?)分も、今月末納品になりますので、よろしくお願い致します。

  • 親鸞の「他力」と日本人気質

    私は日本人気質と呼ばれるメンタリティは、親鸞によって作られたと思っている。 釈迦入滅後2500年以上をかけて、仏教はさまざまな形に変化しながら世界に広がっていった。その究極の姿が、浄土真宗の宗祖である親鸞(1173-1263)の教えではないかと思うのだ。 親鸞の教えとはなにか。 師である法然は、「南無阿弥陀仏」と唱えれば阿弥陀様に救ってもらえると説いた。これに対し弟子の親鸞はさらに、仏教にあるべき修行や戒律までも取り払い、ただ「ナムアミダブツ」と唱えるだけで救われるという、念仏一途の道を説いた。 後にも先にも、これほど見事な他力信仰は存在しない。 この圧倒的な他力信仰の上に、われわれ日本人の思考は形成されているのである。 かつてキリスト教は、帝国主義と手に手を取って世界中を席巻した。多くの国々、多くの民族がキリストの名のもとに跪き、キリスト教は地の果てまで広がった。 一方、日本では、国中でクリスマスを祝い、教会で結婚式を挙げているというのに、実際にクリスチャンになる人などほとんどいない。諸手を挙げて歓迎しているようでいて、受け入れているのは上辺だけ。日本がキリスト教国になることなどありえない。 どんな宗教に傾倒しようが、根底にある「他力」のメンタリティが揺らぐことはない。逆に全ての宗教が、日本に入った途端に換骨奪胎し、日本の色に染められてしまうのだ。 「他力信仰」とは、一切の疑問を持たず、思考停止を旨とする。脳科学に問うまでもなく、脳は楽をしたがるものだ。だから、思考停止の許容ほど楽な信仰はない。 今や親鸞の教えはさらに高度に進化して、念仏さえ不要になった。これが広まらないはずがない。見渡せば、いつの間にかこの「他力」の教えが世界を支配している。そう感じざるを得ないのである。

  • 『オロッコ譚』と『十勝平野』で極北の歴史に浸る

    『オロッコ譚』若山純一著

  • 全く類書のない本『馬の骨放浪記』山田勝三 著

    あるとき、武蔵野美術大学の相沢韶男先生が、リヤカーに自著を積んで売っている男に出会った。話を聞くと、これからリヤカーを引いて日本中を売って回るつもりだという。 早速、彼の本を買い求めて読んでみると、とんでもない名著であった。学生たちにもすすめ、一部地域では話題の本となった。

  • 渋沢敬三の予言

    武蔵野美術大学には、民俗学者の宮本常一が教鞭をとっていた時期があった。美術大学であるから、ふしぎなことではある。他の大学からも引き合いはあったそうだが、宮本が師事していた渋沢敬三はうんとはいわなかった。そして、武蔵野美術大学からの誘いに対してだけ、「ここならいい」といってくれたのだという。 この渋沢敬三という人はかなりの傑物だったことで知られている。宮本の本にもたびたび登場しているが、当時、日銀の総裁だった渋沢が語った言葉は大変興味深い。 「日支事変は次第に泥沼へと足を突込んだようになっていって、その収拾をつけることのできる政治家も軍人もいないから、おそらく近いうちに世界大戦になるであろう。そうして日本は敗退するだろう。それまでの間に日本国内を歩いて一通り見ておくことが大切である。満州へゆくことも意義があろうが、満州は必ず捨てなければならなくなる日がくる。(中略)これから敗戦後に対してどう備えていくかを考えなければならない」(『民俗学の旅』宮本常一著) 渋沢がこう話したのは、なんと昭和15年の初めのことであった。これから起こる歴史の筋書きを、すでに見てきたかのような話ぶりである。眼の前にある「事実」を丹念に集めていけば、彼にとっては当然の結論だったのかもしれない。 私には今の日本が良い方向に向かっているとは思えないが、彼ならこれから世界がどうなっていくと見るのか、聞いてみたいものである。

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花山 水清『モナ・リザの左目』非対称化する人類(藤原書店)さん
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