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日々これ好日 https://shirane3193.hatenablog.com/

57歳で早期退職。再就職研修中に脳腫瘍・悪性リンパ腫に罹患。治療終了して自分を取り囲む総てのものの見方が変わっていた。普通の日々の中に喜びがある。スローでストレスのない生活をしていこう、と考えている。そんな日々で思う事を書いています。

杜幸
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2023/03/09

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  • 筆は揃えど

    クレジットカードのポイントをマメに貯めていたのには訳があった。ちょっとした「大物」を買おうとしていた。二年間以上時間をかけ値動きを見ていた。しかしこれは株でも投資信託でもないので値の上下に一喜一憂しても仕方が無かった。「納得のできる上玉」が出るか出ないかだった。 デジタル一眼レフのレンズだった。中古の出玉を探していた。あ、あった。カメラメーカーのレンズではなくレンズ専業メーカの物だった。35㎜フィルムカメラの時代から技術を磨いてきたメーカーだった。 ここはプロの意見を聞こう。友人に頻繁に作品展に出展されている方がいる。光を写し込み構図を切り取る名人だった。写真を生業にはしていないでセミプロと呼…

  • 慰霊

    ◇ 彼の一番のファイトは何でしょう?● ベストバウトはビル・ロビンソンだと思いますよ。1975年です。◇ ああ、人間風車、ダブルアームスープレックスですね。なぜベストなんですか?● 60分三本勝負、それぞれ一本取って三本目はタイムアップ。フルタイム。技の応酬、一進一退は見事でした。◇ ボブ・バックランドも好敵手では?● 彼は上手すぎましたね。アマレス出身だから。噛み合っていなかった。◇ ストロング小林戦はどうですか。ブリッジの足が浮いたという伝説のジャーマンスープレックスです。僕はあれがベストバウトと思うのです・・。● あれで頸椎を痛めたと思いますよ。勝ったけれど残念な試合でした。◇ あの試合…

  • 旅をしませんか

    ひどく厄介な気持ちだった。二つの想いが自分を満たす。見知らぬ地の風景に触れその空気を吸いたい。しかし一方では家の中でゆっくりと妻と時を過ごしたい。相反する思いは満ち潮と引き潮のような関係だった。波間に木の葉のボートでも浮かばせてみよう。奥に流され手前に戻される。そのうちに転覆して沈むだろう。 少し遠出しよう。知らない街へ行ってみよう。それが北なのか南なのかも分からない。気の向くままに行くのだ。薄暗くなったら町外れにでも車を停めて寝よう。翌朝が良い天気ならばあたりの山に登るかもしれない。自転車で走るかもしれない。雨に降られたら初めて見る土地を歩き耳にしたこともない方言を聞くだろう。坂道を登れば視…

  • 神父様とのお話・野の花

    Please accept my deepest sympathy for the passing of your family. 余り美しい表現ではないかもしれない。仕事で付き合いのあった外国人のご家族が逝去されたとき、こんなメールを送った。文章は決して自分が考えて作ったものではなく、仕事を通じて自然に得た英文だった。日本語に直訳すると「ご家族の逝去に対する私の深い同情をどうぞ受け入れて下さい」になる。哀しみとは同情するものなのだが、その共有は受容するしないというレベルのものなのか。英語とは直截だな、とその時感じた。 大切な人が病にあるとする。重篤な病だとする。果たして僕は何ができるのだろう…

  • お疲れ様測定器

    全くありがたくない測定機だった。余計なお世話とはこのことだと思った。ドラッグストアの片隅に置いてあるのだった。 脳腫瘍で倒れたとき救急車の中で隊員からこんな質問があったらしい。同乗した家族の話だった。今日は何月何日ですか?何曜日ですかと。どれも答えられなかった。水曜日と答えたらしい。実は金曜日だった。会社員は日にちは別として曜日は決して忘れないものです、と隊員は言われたという。この質問は搬送者の脳の具合・意識レベルを探るためには有効な質問なのだろう。救急医療では脈拍・呼吸・呼吸・体温などに加えて行われる。総じて「バイタル確認」と言われている。高齢者施設を兼ねる自分の職場でも聞き馴れた言葉だ。 …

  • 狂騒曲

    それは自分の中では狂騒曲だった。ここ数日間頭が一杯になっていた。何本も電話をかけまくった。 仲良しグループでも何でも良いが小さな集団を長く維持することは容易でないことを知っている。夫婦がそれだろう。山あり谷あり。しかし夫婦は互いに人生の伴侶なのだからそれをなんとか乗り越える。では趣味の小集団はどうか。好きなことをやっているだけで特に縛るものがない。これは余り波風立たないだろう。さて、バンドになるとどうだろう。 誰もが個人のミュージシャンであり音楽に対する嗜好も志向も皆異なる。何かのきっかけでバンドという小集団形態が出来る。技量や嗜好も違うのだからいずれ何処かにズレができてくる。 組織論で良く聞…

  • 図書の旅・32 泪壷 渡辺淳一

    ・涙壷 渡辺淳一 講談社 2001年 これが「あたるといいな」、そう思って手にした。やや急いでいたため冒頭数ページをパラパラめくって貸本カウンターへ向かった。 渡辺淳一を夢中で読んだ時期は高校か大学の頃だろう。それは彼のキャリアの中では初期の作品だった。外科医でもあった同氏は初期に医療を扱った小説を多く残している。自分はそれに熱中した。外科医として脳腫瘍の母の脳にメスを入れる「死化粧」や心臓移植を描いた書いた「ダブル・ハート」。このあたりに惹き込まれた。使命と葛藤。リアリズムとリリシズムが共存している世界だった。 人間だれしも多面性がある。作家も同様だろう。いつしか渡辺淳一の作品は男女の性愛を…

  • 高台から

    ステージからの風景を味わったのは数年振りだった。わずか50センチほどの高さの演台だが店の奥まで見渡せる。思っていたよりも大きな小屋だな。80人は入るな。サウンドチェックの段階では同じステージに上がる他のバンドなどの関係者しかいない。今夜はここでプレイするのか。アンプに火を入れてDIにシールドを刺した。好きなアンペグではないが緊張してしまい、これがどのメーカーのアンプなのかも目に入らなかった。トーンは全てミドルにしてゲインとマスターをいつものように合わせた。リハのスタジオとは違い図太い低音は地下の部屋を揺らす。ツインリバーブもJCも好い音だった。テレキャスとストラトが良く鳴っている。チェックでP…

  • 公演中止

    自分はまだ十歳で当時は姉の聴くアイドル歌謡曲を聞いていた1973年。熱狂的に初来日を心待ちにしていたファンは失意のどん底だったろう。ライブは公演中止となった。メンバーが過去の麻薬歴を問われ入国禁止となった。それはストーンズ(ザ・ローリング・ストーンズ)の初来日公演だった。結成60年、オリジナルメンバーは80歳代を迎え二名だけとなったが今なお転がり続ける英国のロックバンド。1973年と言えば彼らのキャリアの中で最も脂の乗り切っていた時期だ。来日したら大変だったろうと思う。公演中止になるとチケットは払い戻しになるが、彼らのライブに関しては払い戻さずに券を記念に手元に残しているという話も良く聞く。古…

  • 山道具の歌・ヘッデンの独り言

    僕はヘッデン。つい最近ショップの棚にぶら下がっていたら、ああこれだ、あったあった。と小太りのオジサンが手に取って喜んでいたよ。ヘッデンと言ってわかるかな?本当はヘッドランプと言うらしい。それでも山屋さんつまり登山者やハイカーの間では簡単に「ヘッデン」と呼ばれているよ。ゴムバンドに付けた電灯。頭に付けて夜間や明け方の行動に使うね。 どうやら我が家のオジサンはヘッデンマニアらしい。彼はそれをいくつも持っているんだよ。毎回使うザックの中から一つ、山道具箱をひっくりかえして二つ出てきた。他にもあと一、二個あったはずだけど、古くなって捨てたのだろうな。彼は嬉しそうに並べている。彼はもともとオフロード用オ…

  • 数え歌

    ♪ひとつとせぇひぃろいグランド駆け回る足の大下 先取点そいつぁ豪気だね、そいつぁ豪気だね♪ 今年は広島カープがクライマックス・シリーズに出場して阪神タイガースと戦っている。日本シリーズを目指している。 子供の頃の自分の写真を見るとジャイアンツの野球帽を被っている。横浜の小学生は誰もがそうだった。当時横浜には球団がなくベイスターズは川崎の大洋ホエールズだった。川上監督のV9達成の頃だった。王、長嶋ばかりでなく全ての選手がヒーローだった。誰もが打順を諳んじていた。小学校を卒業して父親の転勤で広島に引っ越した。その時は四月から広島東洋カープは好調だった。クラスメートは言うのだった。「ここは広島じゃ。…

  • 決めるか決めぬか

    電話が掛かってきた。見覚えのない番号だった。 「こちらは◯✕出版社です。先日は弊社主催のコンテストに応募いただきありがとうございました。さて結果ですが…」 下手の横好きでをいくつもの文芸賞に書いたものを送っている。最初は投稿してもなしのつぶてだった。前回は出版社から郵便が来た。最終選考で惜しくも落選、次回に期待します、と書かれていた。今度はなんだろう。電話で来た。 音楽を作り演奏する。写真を撮る、本や絵本を書いてみる。それを社会に向けて発信する。今では動画サイトやSNSで自分を表現する事は容易になった。動画サイトがある。小説投稿サイトもある。そこに自己表現をあげておく。何人かの目に触れる。こん…

  • サグラダ・ファミリア

    二年前から始めたブログ。当初は散発的に投稿していたが今は出来るだけ毎日書くようにしている。楽しいからだ。1600字前後を目途にしているが完成までは興が乗れば一時間程度、苦吟すれば数時間。場合によっては数晩寝かせる。ワインの様に熟成するわけではないが、見直して手直しすることもある。書いている時の感情が強すぎたりすると少しばかり恥ずかしく思える事もある。 書いた文章はある意味自分の子供だと思うようになった。自分の書き物の題材は我が心の中身。単純そうな禿げ頭の中身でもこれが実に複雑に出来ているようで簡単にはいかない。プローブを色々あてて心のページを引き出してくる。そのプローブは登山であり、サイクリン…

  • 筑波山を見て走る・茨城サイクリング

    サイクリングをしたルートを頭の中の地図で広げて見る。とぎれとぎれだと間を結びたくなる。またある点から全く違う点まで伸ばしてみたくなる。自分のサイクリングルートの決定はそんな過程を経る。JR宇都宮線古河駅から常磐線の土浦駅、いやその先の霞ケ浦まで伸ばしたくなったのは関東平野の中央部を横切ってみたかったからだろう。渡良瀬遊水地を擁する古河は何度もサイクリングの起点になってきた。仕事で何度か立ち寄った土浦では美味しい鰻や川魚料理を食べた記憶もあった。周囲に目立つ筑波山と加波山は旧友だった。霞ケ浦は成田に着陸する機内からいつも右手に見ていた。それはまさに地図の通りの形をしていた。行ってみようと思った。…

  • 勘違い

    「ドライブレコーダーなど自分でフロントガラスに貼り付けて内張りの中に配線を通してシガーソケットから直流12ボルトを取れば良い。工事費もかからないしな。」そう考えた。実際その前に乗っていた車も自分で取り付けた。しかし今回実際に使ってみると時折ドライブレコーダーの電源が入っていないことがあるのだった。シガーソケットに差し込むプラグがソケットから抜けてしまい接触不良になるのだった。手で押すと一時的にプラグはソケットに収まるがパネが強すぎるのかすぐに戻ってしまう。 仕方なくそれを買ったカー用品店に行きしっかりとダッシュボードの内側に配線してもらうことにした。ヒューズボックスの空きソケットにダイレクトに…

  • 図書の旅31 荒地の家族 佐藤厚志

    ● 荒れ地の家族 佐藤厚志 新潮社2023年 会議が終わったころだった。ドスンと地面が揺れてしばらく続いた。周りから「おお!」と声がした。昭和30年代製の旧い鉄筋建築の中に居た自分は怖くて外に出てしまった。防災訓練がいきわたっている社員はみな大人しく机の下に隠れている。自分はその事務所に配属されたばかりで勝手がわからなかった。揺れは長かったがただ事ではないと思った。そこは静岡県の駿東地区だった。東京方面に戻る新幹線が止まっていると知り帰宅難民となった。家族三人は無事だった。やりようもなく夕食を買い込んで同じ境遇の社員たちと事務所で寝ることとした。アメリカのCNNニュースサイトをみると無修正のと…

  • 山道具の歌・アルコールストーブ

    アウドドアショップはいつも楽しい。最新の山道具が置いてある。登山を始めた30年以上前に比べて何もかも値上げしている。当時は当たり前だった登山道具店のオリジナルザックや靴などはなくなり、今はどの店も無個性化している。壊れでもしない限り登山道具を今更買うこともない。ガスカートリッジを買う程度だ。時間つぶしで入ったそんな店の一角に置いてあった。略してアルストと呼ばれているらしい、アルコールストーブだった 山屋の間でストーブとは料理用の簡易バーナーを意味する。30年前はガソリンストーブだった。強力な火力と燃焼音はテントや避難小屋での一人っきりの山の夜に心強かった。ジェルや固形燃料などでノズル周りをプレ…

  • 心を映す鏡

    嫌なことが続くと部屋の中にこもりがちになる。外に出るのが億劫だ。すると心は更に内向きになる。負の無限ループはこうして生まれる。断ち切るには無理やりにでも外に出て体を動かすのだ。すると思い悩んでいたことも何処へ消えていくことがある。しかし直ぐに戻ってくる。それでも体を動かす前よりは楽になる。 ゴルフの練習場に行こうと思ったのは、やや内側に気が向く昨今を打破しよう。スカスカとゴルフボールでも打って身軽になろうと思ったのだろう。 久々の練習場だった。体がぎくしゃくしていた。まずは素振りから、とビュンビュン振ってもクラブはマットをこすりもしなかった。弾を置いたところで芯を食わないどころか表面をこすって…

  • スパイスの難しさ

    専門店で食べたことは一度きりだった。それで自分で何とか似たものを作ろうというのも無理な話だった。それらしかったが違っていた。本物を食べたくなり店を探した。隣町のショッピングビルのフード・コートの一角に店を見つけた。 スープは辛さが三段階。載せる具材の違いが料理のバリエーションになっていた。ゴロゴロ野菜は基本形でそこにチキンレッグ、豚角煮、炙りバラ肉といったトッピング具材だった。 プロの手によるスープ・カレー。模倣するにもやはり舌の実体験が必要だった。運ばれてきた皿は美味だった。自分が見よう見まねで何度か造ったそれはカレールーをわずかに使うのでいつもトロリとしていた。お店の物は粘り気を一切排した…

  • 世田谷区松原・北杜夫と宮脇俊三

    一年だけ東京都民だった。それは二十三区ではなく世田谷区の西隣、狛江市だった。大学に通うためだった。小田急線を使い下北沢で井の頭線に乗り渋谷に出るか、代々木上原で千代田線に乗りかえて表参道に出るかだった。小田急線は世田谷区を東西に切るように走っている。祖師ヶ谷大蔵、経堂、豪徳寺、梅ケ丘などどれも住みやすそうな町が続いた。友人の住む下北沢は中でも若かった自分には刺激的だった。「いつか世田谷区の住人になりたいな」、そんな夢をその頃抱いた。 実際の世田谷区は意外に細い道や一方通行が多い。小田急線の北側から京王線の南側、世田谷線の東側、環七の西側に囲まれたエリアは特に顕著だろう。そんな路地を彷徨っていた…

  • ショルダーバッグ

    「縫えたよ、これでいいでしょ。」 そう言いながら妻はとても嬉しそうだった。実際このショルダーバッグをこれまで一番使っていたのは彼女だった。グレーのコットン生地のそれはバッグというよりサコッシュ、いや、頭陀袋だった。深さはあまりなく前後の幅は五十センチ程度だろう。周囲にはのマチもなく、側面に芯が入っているわけでもない。左右の端がそのまま肩紐になっていた。カンガルーのお腹の袋に近いだろう、スイカがそのまま、雑貨も沢山入りそうだ。そう、いかなる形のものも入るのだった。 それは犬を抱えて入れる肩掛け袋だった。グレーの外袋に青白のチェック柄の内布が縫い重ねられている。実際肌触りも良く昼寝などいくらでも出…

  • 素晴らしき朝

    数日振りに心地よい朝を迎えた。パッと目が覚めた。まだウォーキングをしていないのは明け方の雨の余韻が残っているからだった。ここ数日夜は窓を閉めていた。開けると思いのほか空気が張り詰めているからだった。 毎日少しづつ秋が深くなってくる。そのうちヒタヒタと冬が来るだろう。冷たいものばかり飲んでいたが今朝は湯気の立つ珈琲が美味しかった。そんな季節になったようだ。頭が冴えてきた。今日はなにやら楽しい気がする。昨日の朝の疲労は何処に行ったのだろう。今日もいつもと変わらない。特別に午前中にインフルエンザの予防接種がある以外は、昼食づくり、夕方からの仕事。が今朝の明るい気分は、昨夜の温泉銭湯か、いや、気の持ち…

  • 笑顔でコンニチハ

    若い頃は誰もが身なりに気を使う。特に女性はそうだろう。一年間だけ姉と東京で暮らしたことがある。彼女の社会人一年目で自分は大学三年。学校のキャンパスが厚木から渋谷に変わったときだった。親は転勤していたので二人暮らしにすれば安心だったのだろう。 申し訳ないが姉は弟から見ても特に容姿が優れているとは思わなかった。髪の毛は細く光の輪など縁がなさそうだった。そんな姉でも毎朝早起きして髪の毛にドライヤーをあてているのだった。重たそうな一重まぶたにメイクをするのだが自分にはそれが良い方向に進んでいるのかそうでないのかわからなかった。ただ女性は大変だな、と思った。 こんな奴でも外出時は一応気を使う。髭の剃り忘…

  • 無窮に向かう道

    海のある街に出かけた。そこは三方を山に囲まれた湘南の古都だった。その地形がその街をして都にしたのだろう。午後から思い立って出かけた割には目当ての犬カフェで楽しむことが出来た。生シラスと書かれた看板があるのも、海鮮丼の写真があるのも、サーフボードを横にくくりつけた日焼けしたお兄さんがゴム草履履きで自転車に乗っているのも、いかにも湘南の街だった。 小町通りはいつもと同様に混んでいた。小さなアクセサリー屋からさまざまな手軽なグルメ、小粋なファッション、伝統の彫り物・鎌倉彫など、狭い路地に多くの店が軒を並べるのだった。コロナのトンネルも出たのだろう、西洋人、中国人、東南アジアの人々など観光客も多かった…

  • 図書の旅30 昭和八年渋谷駅 宮脇俊三

    ●昭和八年渋谷駅 宮脇俊三 PHP研究所1995年 そこは「エーデルワイス」というレストランだった。僕は叔母と二人だった。叔母の家に泊まりに行った翌日にその街へ行っのだろう。母と違い気さくで明るい叔母を僕はとても好きだった。直ぐそばの児童館で遊びお腹が空いていた。「コウちゃんは何食べる?」と聞かれた。日の丸の旗がご飯に立っている銀色のプレートを選んだ。僕と六歳違いの従兄弟がそこに居なかったのだから彼が産まれる前になろう。1968年、9年あたりだろうか。 レストランはデパートの一階だった。そこから目の上を黄色い電車がゴトゴトと走っているのが見えた。山手線のホームの上を直角にそれは横切っていた。電…

  • 赤く揺れる花

    この花は自分には毒々しい印象がある。しかし里山を歩き幾つも咲いているのを見ると、季節の移ろいを感じるのだった。空が高くなり風が尖ってくる季節にこの花は咲く。今までの自分には見るだけで縁のない花だった。しかし今年は少し考えさせられた。 父は夏の盛りに世を去った。持病が多かったが激動の戦後期を生き抜き九十歳を超えるとは天寿だと思った。犬は十二年生きて秋の始めに死んだ。殆ど病気もせずに過ごしたが晩年は脳疾患になり脾臓の腫瘍だった。僅か一晩苦しんだのが気の毒だった。しかし家族に愛され幸せな一生だったろうと思う。 父の葬儀と犬の火葬。数か月違いでやってきたせいか、夏から秋にかけてとても慌ただしかった。父…

  • 秋の蚊

    夏にしか会わないメンツで蚊とゴキブリほど嫌われる存在もあるまい。かたや血を吸いあろうことか痒くなる成分を人体に残す。かたや黒光りして見るだけでおぞましいが実際様々なばい菌を持ち込むという。 温暖化と言われる昨今、はて今年は何カ所が蚊に刺されたのかと思う。自分の場合ややエキサイティングな性格があってか蚊に食われるとその痕を爪で猛攻撃してから薬を塗るという荒治療をする。そのせいか傷跡は深く残り多くの場合出血する。かさぶたを剥がしても尚を薬塗ったりするのでたいてい悲惨な傷跡になる。それを数えたところ20カ所以上あった。多くの刺され跡に思い出があった。まったく痒かったなと。幸いにゴキブリは一度だけ玄関…

  • 髭の男

    髭。きちんと手入れをすればそれは男性のみに許される「お洒落」だろう。手入れしなければそれは単なる小汚いおやじになってしまう。男である以上、一度は髭を蓄えたい。そんな思いはないだろうか。 どういうわけだろう、自分の時代での日本の会社員文化では髭はどうも容認されていなかったように思える。少なくともメーカーではそんな世界だった。ある同期生が夏季休暇の後髭を生やして出社してきたが、おお、と周りはたじろいだ。僕はしかしその勇気が少しだけ羨ましかった。 髭の男。口髭顎髭となるとニッカウィスキーの彼か、CWニコルさんだろうか。口髭となるとチャップリンやドリフターズの付け髭のイメージがあるが別として俳優ならば…

  • アンサンブル

    このメンツでスタジオに入るのは三年ぶりだった。コロナで予定していたライブハウスをキャンセルしてから様々なことがあった。外出規制、リモート勤務、社会全体の沈滞。また罹患を防ぐマスクのために素顔を出すこともなくなった人々。誰もが相手の素顔を忘れ今ではマスクを外すのも怖い人も居るという。マスク症候群と言うらしい。個人的にもまたメンバーにとってもこの三年間には大きな出来事があったようだ。六十歳になると体にもガタがでる。病は人に不安を運んでくる。 長いトンネルは終わったのだろうか。ライブに出ることが決まった。短い準備期間なので新曲はやらずにこれまでのナンバーからセット・リストを選んだ。 スタジオの扉を開…

  • 山の犬

    奥秩父の甲武信岳に知人が登山したという知らせがメーリングリストに届いた。甲州(山梨)、武州(埼玉)、信州(長野)の三州の境に立つからそう名がついた。安易とは言えるかもしれないが「こぶし」とは良い名前だと思う。彼は甲州側から登られたと言うが辛い行程だったろう。自分は楽をして信州側から登った。 日本一長い川である信濃川がその山の北面を源流とすることに興味を持った。水源を見たかった。沢沿いにブナ林を進み唐松林からシラビソになったのだろうか。記憶は曖昧としている。水源を示す標識があった。日本一の大河がこの一滴からか、と思うと感慨深かった。その先の山頂には素朴な標識が立っていた。三国一の峰にしては展望が…

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