私が16歳になったばかりの頃、ハッキリと両親が「離婚のための別居」をしたのですが、(最終的なこの時には、一旦母親だけが家を出ましたが、 それは親戚たちと作戦を立てて、 私と弟が少しあとで母と一緒に暮らすためでした)そこに至るまで何回「家出」した事でしょう
私が16歳になったばかりの頃、ハッキリと両親が「離婚のための別居」をしたのですが、(最終的なこの時には、一旦母親だけが家を出ましたが、 それは親戚たちと作戦を立てて、 私と弟が少しあとで母と一緒に暮らすためでした)そこに至るまで何回「家出」した事でしょう
ハッキリと自覚を持った時の事のは、はっきりと覚えている。小4の4月ひと月休んだときこのあたり、同時にいろんな記憶がつながり、鮮やかによみがえる。医者たち、先生たち、友達たち、両親、弟。そして、『自分が自分だと初めて自覚した』遅いかもしれないが、私の自我の
私の記憶、小学2年生の頃に、近所の同学年の男子に、「ここで〇〇しろ」と言われ、したことがあった。覗き込みはしなかったけど、じっと見ていた、今思うとただのエロ親爺と同じ(笑)。多分、今現在では「子供同士の性虐待」と大騒ぎになるような事だった。その子はいわゆ
私の人生は困難に満ち溢れた、穏やかな時間などほんのわずかで、一難去ってまた一難といったぐあい・・・。子供の頃の悩みは、「自分の身体の喘息の事」と「両親の不仲」。「喘息」は、急にやってきて、苦しい、苦しい、死んだほうがマシだと思いながら、即効性のアダプター
私が母のお腹に居たある日、父はこう宣言したそうです。「今日から○○に入るから」と。問答無用、その瞬間から、母も生まれる前の私も弟も、その新興宗教団体の会員になったのです。私は子供の時、気がついたら、その団体の子供会員になっていました。小学生の時は「少年部
両親の不仲は、物心付いた時からずっと・そういう状態だったので、それが普通でした。普通だったというか、それ以外知らない間は、パパがママを殴るのは普通の事?と思っていたのかも・・・。自分の家はおかしいと気付いたのは、いつ頃だったのかしらん?小学校に入って、友
両親の話を少しずつ・・・。私はけっこうな都会で生まれ育ちました。父はその都会の南の隣県の田舎、母はその都会の北の隣県の田舎で生まれ育ちました。その二人が都会で出会ったわけではなく、母の兄嫁がお節介で、二人をお見合いさせたのです。父は知りませんが、母は本当
私は長年専業主婦として生きていますが、そうなるまでの道のりを、両親の事も含めて備忘録に残したいと思います!幼児期から結婚するまでの時期時期で違う暮らし方がこのまま私が年老いて忘れ去ってゆくのが本当に惜しいから、書くことにしました!頻度は2週間に一度、毎週
朝起こして着替えの手伝い。三度の食事の前後に階段の付き添い。三度の食後の洗面台の椅子と歯磨きセットの用意。外出の付き添い。外出後の着替えの手伝い。お風呂の前に脱衣の手伝い。お風呂に入るのを見届けて10分後に迎えに行く。パジャマ着るまで見る。お風呂の中滅茶
(弟へのメールの写し))信じられないけど、要支援2でした病院のソーシャルワーカーのシュミレーションでは要介護1が出ていたのに…多分、あの医者、院長のボケナスが軽いことを書いたんだと思います本当にムカつくしかし、決まったものは仕方ない、今後は要支援の範囲で
シリーズ化している記事の続きです。(当時友人に書いたメールの写し)さっき郵便が来て、要支援2でした、ビックリしました。この市は年寄りが多いし、仕方ないかなとは思います。でも、入院していた病院の医師が悪いと思うんです、きっと軽く書いたと思うの。老健、金曜日
前回までの記事の続きです。(当時弟へ書いたメールの写し)先日、母は初めて「○○」(リハビリもする、老健施設)に行きました。運転士は良い人でした、電話もちゃんとくれて、礼儀正しかったです。内容は40分間で短いと怒っていたけど、それが普通と思います。病院は、
そんなわけで、3回連続した記事(晩年の母にとっての初めての入院)の退院後は介護保険を使って、デイケアに行く事になりました。病院の相談員や、地域包括支援センターの人、ケアマネージャーの人は、皆良くて信頼できたので、頼りました。でも、うちの場合はお風呂や食事
前回、前々回の記事の病院の事です。整形外科とは、高齢者の疼痛を治さないところだと思い知りました。交通事故や不慮の事故、若い人(70歳くらいまで?)そんな人には手厚くもてなす姿勢が感じられました。高齢者の疼痛は、相手にされないのです。それでも、あの病院は、
母が(前回の記事の時に)入院した病棟の看護師たちと、私は、合いませんでした。ハッキリとは分からないけど、いろいろと辛く当られ、心が荒み、それからもずっと長くそのままだったら、うつ病を発症していたように思います。でも、私はその直前に気付いて、ずっとひかえて
母が他界する数年前、整形外科系の病院に入院しました。死因とは関係なく、1ヶ月半で退院しました。当時、毎日母の病院に通っていたのですが、とにかくアクセスが悪かったので、(自動車の人は良いのですよ、大きな道路に面していて)、私が思うのは、交通アクセス・・・公
2日(月)の会見は、質問する人の人間性が見えて不愉快な気持ちになりましたね。会社側の会見は、あれで良かったと思います。前も書きましたが、人間には24時間しかないのです。そして人間は、自分のこと以外は忘れることが多く、自分の事でも年月が経つとあやふやになる
この夏は、旅行は別にして日常生活内でペッサリーの取り忘れがものすごく多かったです。朝に着けようと思ったらないの!そう言えばずっと下半身ヘンでした(笑)。そんなことが何回も何回も・・・。暑すぎたですもんね、もう毎日ダラダラとイライラと、とにかくやるべきこと
まあ、すべてこれからですよね。いろいろと文句をいう人もいるけど人間には24時間しかないし、体力も限界があるし、今月上旬のあの会見の日までに(元・検事総長の指摘以降)何もかもを事細かに決められたはずないですもんね。だから、これからだと思うんです。あの会社だ
私はあの会社が悪いことをしているんだろうとは薄々知っていた昭和的な一般人ですがあの「元・検事総長」ってすごいですね!もう誰も何も言えない、冷静に、1つずつ解き明かして過去の事、今現在の事、今後の事、全て大声でもなく髪振り乱すでもなく、「調査する」というこ
前回書いた「お盆行事」の中心をなす檀家になっているお寺さんが来る「棚経参り」ですが今年は台風の都合でなくなるのでは?と心配していたのですが、連絡もなく・・・。早くからちゃんとスタンバイしていて良かった。予定時間より30分も早く到着!いつもは自転車なのに、
今年も先月、お盆行事が終わりました。地方によっても色々と違うようですが我が家のやり方を書かせていただきます。まず、8月13日に迎え火をして、それまでに用意したお供え(ナスの牛やキュウリの馬もします)などで、仏壇をいつもとは違う形にします。その時に仏壇の中
2泊3日でしたが、外しませんでした。面倒なのもあったけど、やはりそれどころではないというかいろいろと楽しむのに忙しかったからです。前は半年間入れっぱなしだったんだから、3日くらいと思うけど毎日外している今となってはなんとなく外さないのは不潔な気がしました
春のお花が終わって、夏のお花がまだ・・・の端境期でしたので、このくらいでしたが、青々とした樹木や快晴の空と瑠璃色の河川が心を癒してくれました。卯の花の一種 ニシキウツギオオダイコンソウミヤママタタビ?サワギク2枚※あまり旅行にはいかないけれども、今年は良
やっと見られたニッコウキスゲです!(5枚とも同じ場所です)
美しいカラマツソウです♪(4枚は同じ地域の違う場所です)
2012年に購入して、今はもう廃棄した携帯電話に残っていた、ネットから取り込んだお気に入りの言葉たち(面識のない名もなき人々の、ブログ等から)のうちのひとつです。201●年3月19日付け (自分が取り込んだ日付です)成功の秘訣は、建設的に考えること楽しい
昨年入りました。その時は知り合いの人に頼まれたような形でした。でも、子供たちと別居しているので前から興味はありました。昨年のうちからずっと「入って良かった」とは思っていました。それで、今年になってから、恐ろしい強盗事件(ルフィとかいう)があって、その加入
2012年に購入して、今はもう廃棄した携帯電話に残っていた、ネットから取り込んだお気に入りの言葉たち(面識のない名もなき人々の、ブログ等から)のうちのひとつです。201●年8月27日付け (自分が取り込んだ日付です)人生の一番の幸せは過去ではなく、輝かし
・・・結局、お腹を壊さない食べ物って糖質しかないんですよね、私には。なので、(数年前から)糖質制限とかいろんな考え方を学んでもお腹がすかなければ良いのだけどすくのでね・・・仕方ないんですよね・・・。家事とかいろいろとするからね、何もしなくても人間はお腹が
2012年に購入して、今はもう廃棄した携帯電話に残っていた、ネットから取り込んだお気に入りの言葉たち(面識のない名もなき人々の、ブログ等から)のうちのひとつです。201●年4月30日付け (自分が取り込んだ日付です)時間の使い方1:やらない勇気を持つ、や
数年前に見たあるフランス製作の映画で時代背景は1970年代初め、なので、今よりはずっと1945年に近い頃です。その映画の中でフランス人である主人公がアメリカのニューヨークで、あること(犯罪ではないが、良い事ではない)をする日を8月6日と決めて(実際には、
ちょっと聞きたいことがあって、従姉にショートメールしたら電話がかかってきて、質問の答えは簡単に納得できました。ここからなんですが、従姉は出先からの電話で、私があげた母の鞄(リュック)で外出したそうで、「とても使い勝手良く、高級品」と言ってくれました。高級
2012年に購入して、今はもう廃棄した携帯電話に残っていた、ネットから取り込んだお気に入りの言葉たち(面識のない名もなき人々の、ブログ等から)のうちのひとつです。201●年8月12日付け (自分が取り込んだ日付です)辛いことがあったときには落ち葉掃きだと
先月の月参りの前日、結構暑くて、まだ麦茶の用意が出来なくて熱いお茶を出すのもなあと考え、閃きました!!!実はうちから歩いて5~6秒のところに自販機があります。住んで四半世紀、一度も何も買ったことありません。ペットボトル飲料はスーパーでしか買いません。しか
宗教2世面前DⅤどちらもいろいろとありますが、私は両方とも、弟もね、この身で幼少時から、父親と別れるまで、大げさに言えば毎日毎日その中を生きてきました。でも、弟も私も、グレず、金持ちではないけど普通の暮らしをしています。そんなことは言い訳だと言いたい気持
〇んでせいせいした、って言ってはいけない言葉と今現在では思われがちな言葉ですが、私は言って良いと思っています。そう言いたいのは、〇んだ相手が「屑」だからです。良い人に向かって使う言葉ではありません。よほどの怨みや不愉快な思いがあるから使うのです。そしてこ
名前のない家事、って今言われていますが、それをするのが専業主婦なんですよね!専業主婦って絶滅危惧種なんですが、私が結婚した頃は、新婚時代は共働き・第1子妊娠中に長期休みまたは退職して、第2子が小学生になったら復帰またはパートという人が多かったです。そんな
数年前、母がまだ生きていて、元気がなく選挙に行けなかった年。私は一番に入りました。そして、投票箱がカラなのを確認できると思っていたのに2番目に来たオタク風のキモイ30代後半の男が私を押しのけて、全ての投票箱のカラを確認しました。あの時は本当にムカつきまし
明日は七夕・・・。子供たちが大きくなって、笹飾りに見向きもしなくなっても私は例の美人さんがいた商店街で毎年毎年そこの近くの小学校の子たちが書いて飾った笹飾りを見ます♪また、数年前のことですが義父が最期を過ごした大病院で時期的に笹飾りがありました。私も書き
中学2年生の頃のことです。両親(父の命令で家族全員)が、ある宗教に入っていたので「中学生の集まり」に、よく行きました。その日は25歳くらいの女性が私を連れて田舎の方の会館に行くのでした。メイン駅で待ち合わせて、時間になっても、その人はなかなか来ず、一度大
私の今のペッサリーの自己管理方法はこちらの記事などで書いたとおりですが最近は「入れ方」が少しだけ変わってきました。それは・・・朝から「佐清」式に足を高く上げるのが辛いことが増えてきたからなのですがあまり足を高く上げなくても、布団やクッションにもたれかかっ
少し前・・・半年くらいかな?・・・の話・・・もう、年金事務所に行く年齢になりました。朝1の予約で15分ほど早く着きましたが、もうすでに2人待っていました。おばさんと、おっさんです。私は3番目か・・と思いながら待っていると、もう一人おばさんが来ました。5分
バラ園に行った日のことです。急行に乗り換えると満席。仕方なく立っていたら、私を見る視線に気付いた。若い綺麗な女性が私を見ている「ここ」「ここ」と、指でさしている。席を譲ってくれそうだ!(子宮脱で、長時間経っているのは本当に辛いのです)ニコニコして行って、
犬や猫をお好きな方が多いです。ベビーカーのようなバギーに乗せてお出掛け。・地下鉄でお二人乗ってきて、赤ちゃんかと思ったら どちらもがお犬様で仰天!・小さな公園で子供さんを遊ばせている人たちの横で あれっ?お犬様を散歩させている、 またベビーカーみたいなや
ちょっと離れた場所ですが、有名な?商店街があります。時々、買い物に行きます。あるお店のおかみさん(同世代)が美人です。いや、今はもうお店に出ていないので「美人でした」という感じ。知り合いの人づてに夫が聞いてきたのですがその美人が認知症にかかったそうで、そ
断捨離と子宮脱は直接関係ありませんが実際の話、ちょっと関係あるかもしれません。とにかく、下半身に力が入らない・・・入りにくいので数年前の親たちの他界がきっかけとなって自分たちのモノもはじめてもちろんそれまでも 「やましたさん」 とかの番組を見て少しはしてい
数人知っていましたが、子宮内膜症って多いですね!それも全員、今よりずっと若い頃・・・30代後半から40代が多かったです。今現在のお付き合いはない人ばかりなのですが聞いていた当時は貧血が酷くて検査の結果分かった人ばかりでした。私の子供の知り合いにも子宮内膜
こちらの記事の後日談です。キーホルダーの品質についていろいろと調べたら、クリエーターズのアクリルキーホルダーでは「それが普通」と(私は低品質と思う)気付きました。他のものを買う時に本人に連絡してその品質について話し合えました。「憎む」とならなかったのは、
実は、私の弟の妻にも子宮頸がんがあります。もう長年・婦人科にはかかっているようですが詳しい事は知らないのですが多分、治る方の子宮がんなんでしょうね?通院も3ヶ月に一度程度らしいです。弟の妻の年齢は、私より10歳近く若くてもし今後変化があっても(悪化して手
夫の姉妹ですが、私たち夫婦がその話を聞いてから亡くなるまでは、1年もありませんでした。正確に言えば11ヶ月と少しくらい。発病時は正確には誰にもわからなかったので本人が変だと思ってからは1年と3ヶ月くらいだったようですが本人が病院に行ったのは私たちの知る直
それで姉妹は標準的治療はしなくて、「家で過ごしたい」と、在宅医療を受け思ったよりも早く逝きました。私も、もし自分が「治らない癌ですよ」と言われたら多分、標準的な治療は受けないと思いますがそれにしても早かったですね・・・数回検査や輸血やらのために入院したし
こちらの記事で書いた身内の子宮がんですが実は夫の姉妹でした。(子宮頸がんでした)もう亡くなって10年近く経ちます。今は面倒なので夫は一人っ子ということにしてありますが実は前には姉妹がいて、母も早く死に、姉妹も父より先に死に、数年前に父も死に弟が健在の私に
今年はニュースで「4年ぶり」ばっかり聞きましたね!ある子供の家族が発熱して(コロナではなかった)そこは全員来なかったけど、他は来ました。うちの場合は4年ぶりとはならなかったですね(笑)。2021年が一番どうしたら良いか分からなかったですね!2020年はと
最近多いですよね、国の事業も民間のも。どちらも「成功して当たり前」的なアナウンスが悲しいですよね?大昔と比べて今の若い日本人は(一部特殊な人を除いて)勉強が少ないですよね?小学校いやその前からかなあ?きっと他国に負けているし、大昔の日本人にも負けている。
私は今年初めて「推し」と思える人が出来て具体的には可愛いイラストが大好きになったんですが本人製作のネットショップで、まず紙のものを買って、ハガキとかシールとかで、とても良い品に満足したので次にキーホルダーを別のネットショップで買ったのですが袋から出して初
アレルギーは甘く見てはいけません。ほぼ終わったときに、ちょっと無理をしました。そして風邪のようになってしまいました。ゴールデンウイークには子供たちも帰ってくるので何とかしたいと思います。というか、この記事をアップするのはもうゴールデンウイークに入った頃で
私の外反母趾は、曲がり方がかなり酷いのでもうずっと前から「スリッパ」は履けません。もちろん、医院とか子供たちの家に言った時なんかは一時的だし、働くのでもないから履きますが、テーブルで椅子に座る時は分からないように脱いでいます。家では、冬場は室内履き、(三
もともと運動音痴でしたが、子供たちが幼児の頃には走って捕まえに行くとか・・・普通に遊ぶとかしました。あの頃・・・20~30歳代に、もし、子宮脱だったら他のお母さんと違って走れない母親だったら子供たちにも可哀想でしたし、そうでなくて良かったかな?いろいろな
昨年、あることで詐欺にあいかけました。詳細は書けないけど、家の設備についてで急に電話がかかってきて来訪を承諾したのです。でも直後に不安になり、公共機関に問い合わせたら「詐欺だと思うから断るのが良いのでは?」と知恵をいただき自分としては必死に電話して、断っ
最近の事ですが、ペッサリーを入れても、出ました・・・。いや、正確に書くと、出そうになりました。朝の忙しい時間に入れて、次の家事へ移ったのにあれれ?ありゃりゃ?変だぞ、変だぞ、出そうだぞ・・・あ、来ている?困った困った・・・。何回か立ったまま押し込んだけど
自分で自分について言う事ではないと思うんですけどね、ある人気ブロガーの方がご自身のことをそう書いていたので心底びっくりして、なんかもうガッカリで・・・。「私は意識が高いので、どうこう」ってハッキリと書いていました。読み間違えたかと思って、数回読み直したく
私が前に調べた時にはヒットしなかったんですが、調べ方が悪かったのでしょう。今は「婦人科の病気」という一覧に「子宮脱」はちゃんとあります!やったね、ってちょっとズレた感想ですが、病気ではないという扱いを、目線を感じるので、こうハッキリと書いてあると嬉しいで
今年の1月中旬から始めたこのブログは今まで女性病の闘病記日記のカテゴリーにしていました。とりあえず闘病記的なことで書きたいことは書き終わりました。今後も子宮脱と診断されたばかりの方のために・・・(そういう方のお目に留まると良いなと思って)今までの記事を大
アレルギーも生まれつきあって、父方の祖父からの隔世遺伝で、小児喘息が酷く、3歳の頃に死にかけたことも あったようです。自分で覚えているのは、幼稚園時代や小学生時代に喘息で辛い目をして、休んだり、体育を見学したことです。4年生のはじめには学校を長く休みました
私は生まれつき、片足のある指と隣の指がくっついていてそれを分ける手術を乳児の頃にしたそうです。もちろん覚えていないけどその部分は今でも・・・なんというか皮膚が引き攣れて、ミミズが這ったような感じです。また、生まれつき股関節脱臼をしていて母は色々と苦労した
へバーデン結節は、多くの方がご存じだと思います。私はつい昨年自分で気付き、内科を受診しました。ただ、両手のひとさし指が少しずつ曲がっているだけで痛みも少ししかないので今は放置です。(時々強く痛むけど、すぐに良くなります)レントゲンでもほんの少しずつ曲がっ
硬化性萎縮性苔癬こうかせい いしゅくせい たいせん と読みます。苔はこけ、癬は皮膚病によく使われる文字です。これは陰部の皮膚が白く抜ける症状でその後皮膚がんになる人が少しいるという話です。私はもう今から20年近く前にそれに気付き皮膚科を受診して、数年間通
私には既往症は多少あるけど、命に関わるものは、有難い事に、今のところありません。・・・子宮脱について2ヶ月以上書き続けるうちに他の細かいことも何もかも書いてスッキリとさせたいという気持ちになりました。今日は長年薬を飲んでいるコレステロール値について思うこ
このブログの3つ目の記事に書きましたが子宮脱は癌等ではないので命には関わりません。(実際それで母は何十年も放置というやり方が出来たのです)でも、私は、*命には関わらない*病気ではないと、軽く見られることに悲しさを感じています。生活や人生にどんな不便や想い
私は今60歳代前半です。母は40歳代で子宮脱になりましたが私は50歳代でなりました。65歳になると、我が国では前期高齢者と呼ばれ75歳になると、後期高齢者と呼ばれます。赤ちゃんの時からずっと、人間は同年齢でも個人差がありますが年を重ねれば重ねるほど、その
毎日自分で出し入れして、平凡に暮らします。2ヶ月に一度婦人科に通院します。2ヶ月ごとに膣の洗浄・消毒・問診・雑菌の検査をして、半年に一度ペッサリーの交換と超音波検査をして、自治体の推奨する年に子宮がん検診をします。年数が経ってきて、だんだんペッサリーをし
コロナ禍の時期があったので小さな手術や入院でも面会も制限され万一何かあっても家族にも会えないかもしれない・・・それを一番恐怖に感じました。渡辺淳一の小説で「麻酔」というのがありますが昔読んで恐ろしさだけ残っています。今後はアフターコロナで小さな入院手術の
第2子出産後に、それは突然始まりました。くしゃみをしたり、大きな咳をしたときに、初めての時は大ショックだったけど新聞やテレビで見聞きしたことがあるから仕方ないかと思いました。今思えば、その時からすぐに「骨盤底筋体操」をすればきっと良くなったのでしょう、若
ペッサリーごと子宮が落ちてくることがあります。歩いていて突然に感じます。歩幅を小さくして、トイレを探します。トイレで手を洗った後に今は大方ある消毒スプレーを使って個室に入り、なるべくグイっと押し込みます。完全に出てきたことはありませんが1回の外出で何回も
今の出すときのやり方お風呂・トイレ・洗面所などすぐに水を使える場所で、ちょっとだけ足を開いてそのあたりと思う場所に片手の指を入れてすっと引き抜きます。その時、尾骨の後ろあたりを片手でちょっと押すと良いです。ただし、時々、どうしても引っかからず放置すること
外すのは〇月25日にもう大丈夫と思えました。約3週間経っていました。入れるのがもう大丈夫と思えたのは〇月29日で外すのよりちょっと遅かったけど1ヶ月は経っていませんでした。もう大丈夫と思えてからも、日によっては外す方はなかなか出てこなくて、焦ってもどうし
ペッサリーを入れない日を自分で選べることです。酷い雨で一日中外出しなくてご飯も簡単なモノにできる日なんかはゆっくりできるので、入れない日にします。専業主婦なのでできる事ですが土日はかえって忙しく入れないことはないです。お勤めの方はお休みの日などにたまには
恥ずかしい話ですが、私は若い頃に(年とってからも)自〇行為をしたことがありませんでした。また、月経時にタンポンを使ったこともありませんでした。なので、自分の膣に自分で何かを入れるなんて出来なかったのです・・・。膣錠も夫が入れなければ、どうなっていたか・・
私がこのブログを立ち上げて、一番書きたかったのは今日の記事です。私の年代の人なら誰でも知っている映画(テレビドラマ)「犬神家の一族」佐清(の偽装をした青沼静馬)の死んで見つかった時のポーズ。あれですよ、あれ!(もちろん、足は空中ではなく、壁などに安定させ
初めて出し入れする前に、ネットで動画を探しました。女医さんの病気についての説明は詳しくて良かったけど出し入れする実際のところは分かりませんでした。看護師さんの動画は少しは分かったけど入れる時のやり方が、立ったままであれは、やったことのない人間しかしないポ
最初の1ヶ月くらいは日記風に記録したのでそれを見ながら書きますが、ほとんど覚えています。とにかく、入らなくて、泣けました。難しい!外す方も難しかったけど、入れることは、もう、全くできなくて・・・。外すのは最初はお風呂で足を開いて下を向いてそのあたりだろう
婦人科からもらった紙や、ネットで見たところによるとペッサリーを自分で出し入れするにあたって必要なものとして、紐とゼリーがありました。ゼリーは婦人科だけでなく内科等でも超音波検査等に使うあのぬるぬるとしたやつです。私はゼリーは今も毎日使っています。必須です
*半年に一度10日間入れていた膣錠を入れなくて良いこと*約7ヶ月に一度4週間はどこにも行けないことその2つがなくなることは歓迎でした。もちろん手術も含めて、私が選んだ道ならどの道でも尊重してくれたと思います。今現在は(後日アップするように毎日いろいろある
自分で毎朝ペッサリーを自分の膣に入れて自分で毎日夕方から夜にペッサリーを膣から出してよく洗ってよく拭いて保管する。今現在の私はそれを繰り返しています。それを決意したのは最初の婦人科の閉院からまだ1年も経っていない時期でした。目まぐるしい変化でした。でも、
・・・手術はどうしても嫌でした。母の頃とは時代が違う、40年もそれ以上も経っていて技術も、術後ケアも全然違うに違いない、それは分かっていました。でも、私の耳には母のあの言葉「おしっこが出なくて辛い」「おしっこが出ない」それがいつも聞こえてきて、絶対に嫌だ
基本的にペッサリーを抜かない生活の時期の事でした。それ以前の、ペッサリーを抜いていた4週間のあの辛さはありませんでした。 夕方には立っているのも難しく、 その4週間はいわゆるレジャーには行かず ただ家の中と食材の買い物だけの外出・・・。その生
*膣錠は受診日のみ医師が入れる*受診は2ヶ月に一度が基本(不安のある場合は都度受診可)*欧米や日本でも大病院ではもう子宮脱は 自分で毎日コントロールする病気とのこと*年齢的に手術を勧めます(母の話をして、その手術は今はしないとのこと)私の気持ちはうまく書
今まで数年間、初めて受診したその日から(もちろん飲み忘れはあったけど)ずっと何年間も毎日夕食後に一回女性ホルモンを服用しました。エストリオール1ミリグラムを1錠ずつです。しかし、今現在子宮脱の患者がそれを毎日服用することはない・良くないとのこと。半年に一
今まで長く、(昭和~平成のやり方)4週間に一度の受診で4週間×5回ペッサリーを24時間入れて生活して4週間×1回ペッサリーを外して暮らして次のサイクルの時に新しいペッサリーに交換することを繰り返しました。しかし、平成~令和のやり方ではABCのうちいずれか
新しく通うようになった婦人科でのやり方はそれまで数年間通っていた、あの「7ヶ月間のサイクル」とは全く違うやり方でした。初めて受診した日にそれを知り、驚愕のあまりまともな受け答えをしたかどうかも覚えていないほどでした。おじいちゃん先生のやり方は、昭和~平成
いくつかの候補の中からその婦人科に通うことにしました。今までがすごく近かったので、私にとっては遠いのですが一般的に言うと近い医院だと思います。先生は中年の穏やかな方です。近年建て替えられたと思う医院はキレイで設備も新しく落ち着いた感じです。ただ、そこに通
ある時、その婦人科は閉院しました。詳細を書くのは避けますが患者には多分できることを精一杯してくれたのだと思います。あんなにおじいちゃんの先生でこの日が来るのは分かっていたのに、永遠に来ないで欲しかった・・・。優しくて面白くて誰よりも上手な内診をする先生。
・・・今日で母の話は終わりです。「母の晩年:3」の続きです。母は子宮とは関係ないあれこれの病気の末最期は誤嚥性肺炎で他界しました。今も毎日母のことをあれこれ思うときに大昔の取る手術から、股間に挟んで生きた数十年間、そして他界までのあれこれ・・・子宮脱のこ
私の子宮脱を知っているのは、夫と亡き母だけです。友人で一人だけメール等でお互い別々の病気などについて話すことはありますが彼女は子宮が落ちる感覚が全くなく私も彼女の病気には何の関係もないのでお互い愚痴を言い合って聞き合うだけです。また、子供たちは遠方にいる
たった一度ですがペッサリーが出てきてしまったことがありました。私は便秘症ではないのですが、一年に数回は排便時にちょっと困る日もあります。その朝は普段しないくらい下腹部に力を入れてしまいました。ビックリしました!ペッサリーが飛び出てきたのです!ああ、もう、
その数年間でペッサリーが取れそうになったことは数回でしたが、ありました。一番焦ったのは、隣県に遊びに行ったときでした。本屋さんのお手洗いでギョッとしました。でも、深呼吸して、手をテイッシュペーパーでくるんで何とか押し込めました。それが最初で、それ以降数回
ふんどし・・・のようなモノまさかそれを自分がつける日が来るとは思いませんでした。ペッサリーを外す4週間の辛さは年数が経つにつれひどくなり何とかならないものかと考え(早めに入れるのは、どうしても避けたかった)ある時、楽天だかAmazonか忘れましたが良いモ
著名な医師についてネットや新聞広告などで見ることはありました。そういう医師の病院へ行ったら、何か変わるのかもしれないな?と思いながらも行くことも問い合わせすることもしませんでした。というか、やはり、できなかったんだと思います。母の事だけでなく、あれこれ忙
これは、ハッキリと書きますがもうすでに子宮が落ちていて、もともと筋肉が弱いたちの人には何の意味もないです。子宮脱など骨盤内臓器脱以外にも多くの婦人科や泌尿器科の疾患の「予防」や「現状維持」のために多くのメディアやネットでまるで信仰の対象のようにもてはやさ
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私が16歳になったばかりの頃、ハッキリと両親が「離婚のための別居」をしたのですが、(最終的なこの時には、一旦母親だけが家を出ましたが、 それは親戚たちと作戦を立てて、 私と弟が少しあとで母と一緒に暮らすためでした)そこに至るまで何回「家出」した事でしょう
ハッキリと自覚を持った時の事のは、はっきりと覚えている。小4の4月ひと月休んだときこのあたり、同時にいろんな記憶がつながり、鮮やかによみがえる。医者たち、先生たち、友達たち、両親、弟。そして、『自分が自分だと初めて自覚した』遅いかもしれないが、私の自我の
私の記憶、小学2年生の頃に、近所の同学年の男子に、「ここで〇〇しろ」と言われ、したことがあった。覗き込みはしなかったけど、じっと見ていた、今思うとただのエロ親爺と同じ(笑)。多分、今現在では「子供同士の性虐待」と大騒ぎになるような事だった。その子はいわゆ
私の人生は困難に満ち溢れた、穏やかな時間などほんのわずかで、一難去ってまた一難といったぐあい・・・。子供の頃の悩みは、「自分の身体の喘息の事」と「両親の不仲」。「喘息」は、急にやってきて、苦しい、苦しい、死んだほうがマシだと思いながら、即効性のアダプター
私が母のお腹に居たある日、父はこう宣言したそうです。「今日から○○に入るから」と。問答無用、その瞬間から、母も生まれる前の私も弟も、その新興宗教団体の会員になったのです。私は子供の時、気がついたら、その団体の子供会員になっていました。小学生の時は「少年部
両親の不仲は、物心付いた時からずっと・そういう状態だったので、それが普通でした。普通だったというか、それ以外知らない間は、パパがママを殴るのは普通の事?と思っていたのかも・・・。自分の家はおかしいと気付いたのは、いつ頃だったのかしらん?小学校に入って、友
両親の話を少しずつ・・・。私はけっこうな都会で生まれ育ちました。父はその都会の南の隣県の田舎、母はその都会の北の隣県の田舎で生まれ育ちました。その二人が都会で出会ったわけではなく、母の兄嫁がお節介で、二人をお見合いさせたのです。父は知りませんが、母は本当
私は長年専業主婦として生きていますが、そうなるまでの道のりを、両親の事も含めて備忘録に残したいと思います!幼児期から結婚するまでの時期時期で違う暮らし方がこのまま私が年老いて忘れ去ってゆくのが本当に惜しいから、書くことにしました!頻度は2週間に一度、毎週
朝起こして着替えの手伝い。三度の食事の前後に階段の付き添い。三度の食後の洗面台の椅子と歯磨きセットの用意。外出の付き添い。外出後の着替えの手伝い。お風呂の前に脱衣の手伝い。お風呂に入るのを見届けて10分後に迎えに行く。パジャマ着るまで見る。お風呂の中滅茶
(弟へのメールの写し))信じられないけど、要支援2でした病院のソーシャルワーカーのシュミレーションでは要介護1が出ていたのに…多分、あの医者、院長のボケナスが軽いことを書いたんだと思います本当にムカつくしかし、決まったものは仕方ない、今後は要支援の範囲で
シリーズ化している記事の続きです。(当時友人に書いたメールの写し)さっき郵便が来て、要支援2でした、ビックリしました。この市は年寄りが多いし、仕方ないかなとは思います。でも、入院していた病院の医師が悪いと思うんです、きっと軽く書いたと思うの。老健、金曜日
前回までの記事の続きです。(当時弟へ書いたメールの写し)先日、母は初めて「○○」(リハビリもする、老健施設)に行きました。運転士は良い人でした、電話もちゃんとくれて、礼儀正しかったです。内容は40分間で短いと怒っていたけど、それが普通と思います。病院は、
そんなわけで、3回連続した記事(晩年の母にとっての初めての入院)の退院後は介護保険を使って、デイケアに行く事になりました。病院の相談員や、地域包括支援センターの人、ケアマネージャーの人は、皆良くて信頼できたので、頼りました。でも、うちの場合はお風呂や食事
前回、前々回の記事の病院の事です。整形外科とは、高齢者の疼痛を治さないところだと思い知りました。交通事故や不慮の事故、若い人(70歳くらいまで?)そんな人には手厚くもてなす姿勢が感じられました。高齢者の疼痛は、相手にされないのです。それでも、あの病院は、
母が(前回の記事の時に)入院した病棟の看護師たちと、私は、合いませんでした。ハッキリとは分からないけど、いろいろと辛く当られ、心が荒み、それからもずっと長くそのままだったら、うつ病を発症していたように思います。でも、私はその直前に気付いて、ずっとひかえて
母が他界する数年前、整形外科系の病院に入院しました。死因とは関係なく、1ヶ月半で退院しました。当時、毎日母の病院に通っていたのですが、とにかくアクセスが悪かったので、(自動車の人は良いのですよ、大きな道路に面していて)、私が思うのは、交通アクセス・・・公
2日(月)の会見は、質問する人の人間性が見えて不愉快な気持ちになりましたね。会社側の会見は、あれで良かったと思います。前も書きましたが、人間には24時間しかないのです。そして人間は、自分のこと以外は忘れることが多く、自分の事でも年月が経つとあやふやになる
この夏は、旅行は別にして日常生活内でペッサリーの取り忘れがものすごく多かったです。朝に着けようと思ったらないの!そう言えばずっと下半身ヘンでした(笑)。そんなことが何回も何回も・・・。暑すぎたですもんね、もう毎日ダラダラとイライラと、とにかくやるべきこと
まあ、すべてこれからですよね。いろいろと文句をいう人もいるけど人間には24時間しかないし、体力も限界があるし、今月上旬のあの会見の日までに(元・検事総長の指摘以降)何もかもを事細かに決められたはずないですもんね。だから、これからだと思うんです。あの会社だ
私はあの会社が悪いことをしているんだろうとは薄々知っていた昭和的な一般人ですがあの「元・検事総長」ってすごいですね!もう誰も何も言えない、冷静に、1つずつ解き明かして過去の事、今現在の事、今後の事、全て大声でもなく髪振り乱すでもなく、「調査する」というこ
もともと運動音痴でしたが、子供たちが幼児の頃には走って捕まえに行くとか・・・普通に遊ぶとかしました。あの頃・・・20~30歳代に、もし、子宮脱だったら他のお母さんと違って走れない母親だったら子供たちにも可哀想でしたし、そうでなくて良かったかな?いろいろな
昨年、あることで詐欺にあいかけました。詳細は書けないけど、家の設備についてで急に電話がかかってきて来訪を承諾したのです。でも直後に不安になり、公共機関に問い合わせたら「詐欺だと思うから断るのが良いのでは?」と知恵をいただき自分としては必死に電話して、断っ
最近の事ですが、ペッサリーを入れても、出ました・・・。いや、正確に書くと、出そうになりました。朝の忙しい時間に入れて、次の家事へ移ったのにあれれ?ありゃりゃ?変だぞ、変だぞ、出そうだぞ・・・あ、来ている?困った困った・・・。何回か立ったまま押し込んだけど
自分で自分について言う事ではないと思うんですけどね、ある人気ブロガーの方がご自身のことをそう書いていたので心底びっくりして、なんかもうガッカリで・・・。「私は意識が高いので、どうこう」ってハッキリと書いていました。読み間違えたかと思って、数回読み直したく
私が前に調べた時にはヒットしなかったんですが、調べ方が悪かったのでしょう。今は「婦人科の病気」という一覧に「子宮脱」はちゃんとあります!やったね、ってちょっとズレた感想ですが、病気ではないという扱いを、目線を感じるので、こうハッキリと書いてあると嬉しいで
今年の1月中旬から始めたこのブログは今まで女性病の闘病記日記のカテゴリーにしていました。とりあえず闘病記的なことで書きたいことは書き終わりました。今後も子宮脱と診断されたばかりの方のために・・・(そういう方のお目に留まると良いなと思って)今までの記事を大
アレルギーも生まれつきあって、父方の祖父からの隔世遺伝で、小児喘息が酷く、3歳の頃に死にかけたことも あったようです。自分で覚えているのは、幼稚園時代や小学生時代に喘息で辛い目をして、休んだり、体育を見学したことです。4年生のはじめには学校を長く休みました
私は生まれつき、片足のある指と隣の指がくっついていてそれを分ける手術を乳児の頃にしたそうです。もちろん覚えていないけどその部分は今でも・・・なんというか皮膚が引き攣れて、ミミズが這ったような感じです。また、生まれつき股関節脱臼をしていて母は色々と苦労した
へバーデン結節は、多くの方がご存じだと思います。私はつい昨年自分で気付き、内科を受診しました。ただ、両手のひとさし指が少しずつ曲がっているだけで痛みも少ししかないので今は放置です。(時々強く痛むけど、すぐに良くなります)レントゲンでもほんの少しずつ曲がっ
硬化性萎縮性苔癬こうかせい いしゅくせい たいせん と読みます。苔はこけ、癬は皮膚病によく使われる文字です。これは陰部の皮膚が白く抜ける症状でその後皮膚がんになる人が少しいるという話です。私はもう今から20年近く前にそれに気付き皮膚科を受診して、数年間通
私には既往症は多少あるけど、命に関わるものは、有難い事に、今のところありません。・・・子宮脱について2ヶ月以上書き続けるうちに他の細かいことも何もかも書いてスッキリとさせたいという気持ちになりました。今日は長年薬を飲んでいるコレステロール値について思うこ
このブログの3つ目の記事に書きましたが子宮脱は癌等ではないので命には関わりません。(実際それで母は何十年も放置というやり方が出来たのです)でも、私は、*命には関わらない*病気ではないと、軽く見られることに悲しさを感じています。生活や人生にどんな不便や想い
私は今60歳代前半です。母は40歳代で子宮脱になりましたが私は50歳代でなりました。65歳になると、我が国では前期高齢者と呼ばれ75歳になると、後期高齢者と呼ばれます。赤ちゃんの時からずっと、人間は同年齢でも個人差がありますが年を重ねれば重ねるほど、その
毎日自分で出し入れして、平凡に暮らします。2ヶ月に一度婦人科に通院します。2ヶ月ごとに膣の洗浄・消毒・問診・雑菌の検査をして、半年に一度ペッサリーの交換と超音波検査をして、自治体の推奨する年に子宮がん検診をします。年数が経ってきて、だんだんペッサリーをし
コロナ禍の時期があったので小さな手術や入院でも面会も制限され万一何かあっても家族にも会えないかもしれない・・・それを一番恐怖に感じました。渡辺淳一の小説で「麻酔」というのがありますが昔読んで恐ろしさだけ残っています。今後はアフターコロナで小さな入院手術の
第2子出産後に、それは突然始まりました。くしゃみをしたり、大きな咳をしたときに、初めての時は大ショックだったけど新聞やテレビで見聞きしたことがあるから仕方ないかと思いました。今思えば、その時からすぐに「骨盤底筋体操」をすればきっと良くなったのでしょう、若
ペッサリーごと子宮が落ちてくることがあります。歩いていて突然に感じます。歩幅を小さくして、トイレを探します。トイレで手を洗った後に今は大方ある消毒スプレーを使って個室に入り、なるべくグイっと押し込みます。完全に出てきたことはありませんが1回の外出で何回も
今の出すときのやり方お風呂・トイレ・洗面所などすぐに水を使える場所で、ちょっとだけ足を開いてそのあたりと思う場所に片手の指を入れてすっと引き抜きます。その時、尾骨の後ろあたりを片手でちょっと押すと良いです。ただし、時々、どうしても引っかからず放置すること
外すのは〇月25日にもう大丈夫と思えました。約3週間経っていました。入れるのがもう大丈夫と思えたのは〇月29日で外すのよりちょっと遅かったけど1ヶ月は経っていませんでした。もう大丈夫と思えてからも、日によっては外す方はなかなか出てこなくて、焦ってもどうし
ペッサリーを入れない日を自分で選べることです。酷い雨で一日中外出しなくてご飯も簡単なモノにできる日なんかはゆっくりできるので、入れない日にします。専業主婦なのでできる事ですが土日はかえって忙しく入れないことはないです。お勤めの方はお休みの日などにたまには