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  • 歴史33 大正――人情大相撲⑥

    「ほんまに、人情味のある、優しい、兄貴あった・・・」そう言って春やんは鼻をすすり、ちびりと酒もすすった。オトンは何も言わなかった。私は、勇ましくも、なんとも悲しい話で聞かなければよかったと思った。「そやから、本来ならば『篠ヶ峰』と彫った墓石にするものやが、陸軍歩兵何某と書かれた立派な墓に入ってしまいよった」「兄弟の中にひとりぐらい賢いやつがおらんとあかん。わしが中学校までやってもらえたのも兄貴のお陰や」とも言った。気をとり直したのかオトンが言った。「ほんで、春やん、今日はなにしに来たんや?」「ああ、そやそや。喜志の宮さんのお札と祝い箸を配りにきたんあった」「もう、そんな時期か・・・」「はやいなあ。来年は戦争も災いもない良いとしでありますようにやなあ」そう言ってお札と祝い箸をテーブルの上に置き、「ごっつぉは...歴史33大正――人情大相撲⑥

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  • 歴史33 大正――人情大相撲⑤

    「ほんでどないなったんや?」「死によった」「なんでや?」内地で半年ほど訓練した後に満州に派遣された。一年ほどした後の昭和6年(1931)9月18日に満州事変が起こったんや。後に記録班あった戦友から聞いた話やが、奉天北大営の攻撃、紅頂山兵営の攻撃を戦い、12月15日の馬家要塞の戦闘に先乗り部隊の軽機関銃手として従軍した。夕暮れ時、敵が攻撃をかけてきた。小高い丘から、しかも夕陽を背にしてるのを利用した奇襲攻撃や!こっちは先乗り部隊の百数十名の兵で、五倍ほどの大敵を相手の戦いあったそうや。兄貴は小隊長のところへ詰めより、「ここは敵と四つに組んでは勝ち目はなし。左右に換わって敵の横腹を攻めるのが得策。その頃には後方部隊も到着し、三方から攻撃が可能です。それまで私が敵を食い止めます」18歳のときの八朔相撲のお返しや...歴史33大正――人情大相撲⑤

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  • 歴史33 大正――人情大相撲④

    大坂相撲は春夏秋冬10日ずつの本場所に、東京相撲との対抗戦を加えた五場所を中心に興行していた。今の本場所といっしょで、一日一番の取り組みや。兄貴は千田川親方の許しを得て篠ヶ峰の四股名で土俵に上がり、序ノ口、序二段、三段目、幕下、十両と勝ち進んだ。一年後の22歳の夏場所では幕下の前頭八枚目まで出世しよった。それからは前頭あたりを勝ったり負けたりして、23歳の5月場所の新番付では前頭三枚目まで上がってた。そのときや、事件が起きたんは。「そのときや、事件が起きたんは」と繰り返して、春やんはぐびりと酒を飲んだ。そして、アテがなくなったのか、私が食べていた、その年発売されたポッキーを一本取って、トッポジージョのようにかじった。そして、「乙な味やなあ」と言って、ポッキーをもう一本取った。春やん、あかんで、僕のや。困っ...歴史33大正――人情大相撲④

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  • 歴史33 大正――人情大相撲③

    大碇の部屋に入ったその翌年や。兄貴は二十歳になっとった。三月から始まった興行から勝ち進んで、9月の道明寺天満宮の八朔相撲の時あった。このときは東の張出横綱まで上がってた。東西の正横綱が二人、張出横綱が二人やから番付では三番目や。下から勝ち抜いてきた大関とが一番目や。これを下手で投げ倒し、二番目の西の張出横綱を掬(すく)い投げ、三番目は西の横綱を首投げして、いよいよ結びの大一番、東の横綱との一戦になった。この一番をみなければ、男と生まれた甲斐がない。見に行かなければ先祖の位牌に申し訳があい立たんと、押すな押すなの人の声。押すなと言うたら押すのじゃない!そんなに押したら背中の握り飯や潰れて、梅干しゃ裸で風邪をひくやないかい!大入り満員札止めの中、呼び出しが、どとんとんとんと駆け上がって、西と東と読み上げる。名...歴史33大正――人情大相撲③

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  • 歴史33 大正――人情大相撲②

    村相撲は野外でやるんで冬場の興業はない。八卦の又の親分さんとこの仕事を手伝い、あとはひたすら稽古の毎日や。三か月余りたった3月25日羽曳野誉田八万能まつりの宮相撲が兄貴の初土俵あった。村相撲とはいえ、大きな興行ともなると、頭取が15名、相撲取りが700名、行司45名、世話人(スポンサー)100名という大所帯や!勝負は5人抜きの勝ち抜き戦やから朝から晩まで取り組みが続いた。朝の早よから大勢の人がひっきりなしに集まって来た。昔は、村相撲が庶民の一番の娯楽あったんや。まどろむ暇もあらばこそ決戦告げる暁の、5丈3尺櫓の上でドドンと鳴りだす一番太鼓。一番太鼓で目を覚まし、二番太鼓で身支度をし、三番太鼓で場所入りや。強いとはいえ力の世界。兄貴は番付け序の口からの取り組みあった。初の土俵の一人目は、立ち上がるなり張り手...歴史33大正――人情大相撲②

  • 歴史33 大正――人情大相撲①

    昭和40年代(1965~)のジャイアンツ(巨人)は強かった。長嶋・王のON砲に加えて川上監督が就任し、昭和40年から48年にかけて日本シリーズ9連覇(V9)を成し遂げた。もう一つ(一人)強かったのが大鵬だ。昭和36年11月場所で横綱に昇進してから昭和46年5月場所で引退するまで、優勝32回(6連覇2回)、45連勝などを記録した。「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が流行るほど、とにかく強かった。その年も巨人・大鵬は強かった。巨人は、二位の中日に13ゲーム差をつけて優勝。三位阪神とは25ゲーム差だった。日本シリーズでも4勝2敗で南海を下してV2優勝した。大鵬は、初場所こそ柏戸に負けたものの、その後6連覇を果たしている。その年の九州場所の千秋楽、14勝0敗の大鵬と10勝4敗の横綱柏戸との結びの一番をテレビで見てい...歴史33大正――人情大相撲①

    地域タグ:大阪府

  • 歴史32 大正――創立50周年③

    日清戦争(明治27年1894)・日露戦争(明治37年1904)に勝利した後、明治天皇が崩御1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。大正時代になってすぐに第一次世界大戦が始まる。戦争は4年間にわたって続けられた。ロシア、フランス、イギリスなど連合国と、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟との戦争である。日本は日英同盟を理由に8月、ドイツに宣戦布告し、ドイツの植民地だった中国の青島に攻めこみ大国の仲間入りを果たす。主戦場から遠く離れた日本は、輸出が急増し空前の大戦景気(バブル)がおとずれる。大正時代を一口で言えば「甘く辛く、楽しく苦しい」が混在した時代だ。春やんがよく歌っていた『うめぼしのうた』である。♪二月三月花ざかり、うぐいす鳴いた春の日の楽しい時も夢のうち。五月六月実がなれば、枝からふるいお...歴史32大正――創立50周年③

    地域タグ:富田林市

  • 歴史32 大正――創立50周年②

    春やんが酒に酔ったとき、たまに歌うことがあった。♪国求(ま)ぎましし大国の神をまつりて幾千歳和邇の大池すめらぎの恵みたたえし喜志の古郷(さと)♪♪春北山に桜咲き秋石川に菊かおる茅原ひらけて稲の波中にそびゆる喜志の学びや♪忠と孝とは国の華つとめ励まんもろともに御祖(みおや)の勲(いさお)慕いつついざ起(た)ちゆかな学び子我ら爆弾の破片の入った目をしくしくさせて歌い終わると、破片の入った膝をさすりなから帰っていった。喜志村にある喜志小学校の戦前の歴史である。明治5年8月14日富田林村内の興正寺別院・妙慶寺の本堂で、富田林村・毛人谷村・新堂村・中野村・喜志村・新家村の6ヶ村連合により『河内国第27区郷学校(富田林郷学校)』が開校。※通学不便のため、新堂村は光盛寺・圓光寺に、喜志村は明尊寺(桜井)に富田林郷学校教...歴史32大正――創立50周年②

  • 歴史32 大正――創立50周年①

    ――日本の歴史を考えるときは〈神仏習合〉〈神仏分離〉〈神社合祀〉というのを頭に入れとかんとあかん――これもまた春やんがよく言っていた言葉である。明治という時代は神と仏の大転換期だった。古来の日本では、岩や海、大木、大岩など様々なところに宿る神(国津神・地祇)を信仰する自然崇拝があった。それと、大和朝廷が編纂した「古事記・日本書紀」の日本神話に出てくる神々(天津神・天神)を信仰する神道があった。そこに、中国から伝来した仏教が加わる。この時、仏像を巡り崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏)との争いはあったものの、しだいに、神道と仏教を同一と見なすようになる〈神仏習合〉。お寺の中に神社があり、神社に仏像を置きお経をあげても不思議でない生活が1000年も続いていた。ところが、明治政府は(神仏習合)を禁止し(明治3年)...歴史32大正――創立50周年①

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  • ちょっといっぷく40 幻の駅

    明治31年3月、柏原~古市間が河陽鉄道によって開業。翌年5月河南鉄道が事業を継承し古市から富田林、河内長野へと線路を延ばした。その河陽鉄道設立に際しての「河陽鉄道株式会社目論見書(明治26年)」なるものが国立公文書館に残っている。その中にある計画当初の路線図である。点線が鉄道。よく見ると現在のルートとは違う。東高野街道(一部は旧国道170号線)の東側を通っている。あるいは石川の堤防沿いに通す計画だったのかもしれない。だとすれば、川面の浜あたりに駅があったことになる。太子町や河南町、広瀬(羽曳野市)の人々の便もいいではないか。だのに・・・オジャン!そらそやなあ・・・洪水の時は危ないで!ちょっといっぷく40幻の駅

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  • 歴史31 明治――大深の一寸③

    明治時代の話や。明治という時代がきて日本は大きく変わった。江戸時代は、土地の持ち主は領主のお殿さんで、その下に広い土地を持つ庄屋はんがいて、それなりの土地を持つ本百姓。それと、庄屋の土地で働く水呑み百姓とに別れていた。それが明治になって地租改正というのがあって、お殿さんはが無くなった(廃藩置県)。土地はその土地の持ち主のものになったんや。ええこっちゃないかいと思うやろけど、広い土地を持つ庄屋はんが大地主になって、それなりの土地を持つ本百姓が自作農家。それと、庄屋の土地で働く水呑み百姓が小作農家と名前が変わっただけや。それどころか、米で払っていた年貢を税金、お金で払えということになったんや。米を作って年貢を払うて、残った米でしゃぶしゃぶのオカイさんすすってコーコかじって自給自足してたとこへ、税金を払えや。現...歴史31明治――大深の一寸③

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  • 歴史31 明治――大深の一寸②

    冬休みに入ったばかりのある日のことだった。野球をしようということになって、前の日から人数集めをして、朝の9時に墓の横にある田んぼに集合ということになっていた。川面には公園はなく、広い遊び場は田んぼしかなかった。墓の横の田んぼは稲の株を短く刈っていたし、真四角で野球するにはもってこいだった。友達ニ、三人で墓につづく細い道を歩いていると、焼き場の煙突から黄色い煙がうっすらと上がっている。「誰か死なはったんやな。見に行こか」ということになった。墓で走って転ぶと死ぬという言い伝えがあったので、ゆっくり歩いて阿弥陀堂に行き、裏の焼き場をのぞくと春やんと二人のオッチャンがいた。オンボ(隠亡)という一晩中、火の番をする役目で、年寄りが交代でやっていた。冷ましている途中だったのだろう。釜の火はほぼ消えていた。喪主からの接...歴史31明治――大深の一寸②

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  • 歴史31 明治――大深の一寸①

    ――歴史を考える時は当時の地形・地理を頭に入れておかんとあかん――春やんがよく言っていた言葉である。地形の変化は海や川・湖などの水の影響が大きい。鎌倉時代までの大阪がそうだ。上町大地の半島より東側は河内湖(後に河内潟)だった。それが淀川や大和川が運ぶ堆積物によってゆっくりと縮小していった。そして、江戸時代の大和川の付け替え工事(1703年)によってまた大きく変化する。川面の浜の剣先舟の水運が盛んになったのも大和川の付け替え工事のお陰だ。川面は東を流れる石川によって大きく変化する。江戸時代の石川は西の河岸段丘沿いに流れていた。明治の中頃に河南橋の上流に堤防が築かれ、石川は東寄りに流れを変えた。新田開発が行われ「裏脇」と呼ぶ田畑ができた。そして、石川に河南橋が架けられて新道(府道美原太子線)が出来たことで、石...歴史31明治――大深の一寸①

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  • 俄――浜の人情兄弟

    【登場人物】母・兄=直三・弟=兼松下手(右)から商人姿の兼松が登場。兼松久々に川面の浜に帰ってきたがな・・・、やっぱり故郷はええなあ。とはいえ、大阪に出て商売人になるんやと言うて、家飛び出してから十年。直三の兄貴も、オカンも怒ってるやろなあ・・・。上手(左)からオカンが登場。もうろくして気が付かない。母せがれ直三の船大工の腕も上がり、剣先船の注文がようさんくるようになった。ああ、けっこなこっちゃ、けっこなこっちゃ。言いながら兼松の前を行き過ぎる(左へ)。兼松も、も、もし。母は振り向いて兼松を見るが気が付かない。母はあー?兼松もしもし。母♪カメよ♪・・・あんた、カメさん!兼松ちゃうがな。わしや。母ワシかいな。兼松ちゃうがな。オレオレ、オレや。母(びっくりして)ワシやのうて詐欺(サギ)やがな!(しゃがみこんで...俄――浜の人情兄弟

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  • 俄――川面の渡し最後の日

    下手から佐助が登場。祭衣装。法被を前であわせにして紐で縛っている。佐助(くたびれた様子)ああ……今日も一日が終わった。明治になって世の中が変わったけど、わしの暮らしは相変わらずの貧乏やがな。神も仏もあるかいな。さあ、さあ、帰って屁ーこいて寝よ。舞台の下手で寝る。上手から神様が登場。白のシーツを頭からかぶり、腰で帯を結んでいる。神様おい、佐助。おい、佐助。佐助(眠そうに目をこすり、ハッと気づいて)なな、なんやお前!神様神さんや。佐助神さん?間男してるとこを丹那に見つかって逃げ出した男にしか見えん。神様あほ言うな。おまえが神も仏も無いと言うさかいに、出てきたったんや。佐助ほんまかいな。神様ほんまや。佐助、毎日精出して、正直に働いとるさかいに、ええ目、見さしたろ。佐助ええ目に……ほんまかいな。神様よう疑うやっち...俄――川面の渡し最後の日

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  • 歴史30 明治――川面の渡し②

    【補筆として】明治22年、川面の浜の上流に河南橋の元となる仮の橋が架けられた。同時に新道や河南橋東詰めから太子街道につながる道が開通する。仮の橋は幅1.8m、長さ200mで、途中に車のすれ違い用として幅3.6mの待避所が設けられていた。このことで川面の渡しは250年の歴史の幕を閉じることになる。渡し舟の運営は次のようなものだった。・舟の新設および修繕は川面住民の負担とし、喜志全村より多少の補助をする。・舟の使用および保管は、川面住民より、一定の期限を決め、舟仲間と称する四、五人に請け負わせる。・舟賃は舟仲間が、近隣各村の一戸につき「船米」と称して五合もしくは一升の米を徴収し、その中から舟仲間の受け負い料として一か年一石六斗を川面に納め、請負料とし、残りおよび臨時収入は舟仲間の所得とする。ただし喜志村から船...歴史30明治――川面の渡し②

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  • 歴史30 明治――川面の渡し①

    瓦当ての事件があってから三日ほど経った日。学校からの帰りに春やんの家の前を通ると、春やんが自転車のパンクを直していた。大工はもちろん機械や電気なども自分で修理する器用な人だった。「パンクしたんかいな」と言うと、「可難こっちゃ、ほれ見てみ!こんな釘が入とった」3センチほどの曲がり釘だった。修理は終わっていたのか、空気入れを押しながら、「ほんで、みな仲ようやってるか?」「そらそや、僕ら川面のわたしなんやから」「わたし(私)?私と違うて舟で川を渡る渡しやで!」「わかってるがな、戦艦大和ほどある船やろ!」「解ってるやないかい。可難奴っちゃなぁ」「そやそや、聞こ聞こ思てたんやけど、河南町にあったら河南橋でええねんけど、喜志にあるのに何んで河南橋というねん?」「そんなん、簡単なこっちゃ。ちょっと待っときや」と言って春...歴史30明治――川面の渡し①

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  • 歴史29 明治――川面の浜②

    この船溜まりに止まっていた舟というのは、長さ20m、幅2mほどの刀みたいに細長い舟あったから「剣先舟」というてた。その剣先船が20台ほどここに止まってた。この辺りはなあ「川面の浜」というて船着き場あったんや。太子(町)や大ヶ塚・森屋などの河南町。千早赤阪村。石川の上流の富田林・甲田・錦織などで採れた米・木綿・酒・油・材木なんかがこの川面の浜に集まってくる。それを剣先舟に積んで石川を下り、大和川に入って大阪の難波まで運んでた。帰りは、塩・肥料(干鰯)・荒物・大豆(千早の高野豆腐製造用)なんかを積んで石川を上って川面の浜で下ろされたんや。ほれ、そこ(北側)に工場があるやろ。あの辺りには「みやでん(宮殿)」と呼ばれた、国会議事堂ほどもある問屋さんがあったんや。(そらウソやろと思ったが、誰も何も言わない)道を挟ん...歴史29明治――川面の浜②

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  • 歴史29 明治――川面の浜①

    河南橋の近くにある建具屋さんの材木置き場の空き地で「瓦当て(かわらあて)」をしていた。10センチほどの割れた瓦を拾ってきて、地面に立てやすく、投げやすいようにコンクリートでこすって加工する。グッパーで二つのチームに分け、5、6メートルほど離れた二本の線を引き、攻撃側と守り側に別れる。守り側は線の上に瓦を立てる。攻撃側がそれを瓦で倒す。全部倒すことが出来れば次のフェーズ(段階)に移って攻撃が続けられるが、一つでも残れば攻守交替になるという遊びだ。フェーズは、足の甲から始まって、膝・股・腹・胸・肩・額・頭に瓦を乗せて当てるるという具合にグレードアップしていく。攻撃側が、片手をグーにして胸にひっつけ、その上に瓦を乗せて当てるフェーズになった。攻撃側のコウンチャンがトモヤンの瓦をねらって見事に倒した。「あかん。胸...歴史29明治――川面の浜①

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  • ちょっといっぷく39 あの日

    今ではどの家庭にも電気メーターがあるが、昭和前期にはよほど裕福な家庭にしかなかった。各家庭に電気はひかれていたが、当時の電気料金は「一戸一灯契約」という定額料金で、1世帯で1個の電球を使ってもいいですよという料金体系だったのだ。これに目をつけたのがパナソニック(松下電器)の松下幸之助。電球ソケットの横にもう一つソケットの付いた「二股ソケット」を開発して大ヒットする。このソケットのおかげで一家に一つだけソケット(コンセント)があることになる。これで充分。電化製品といえば扇風機と電気アイロン、ラジオしかなかった時代である。そんなある日の朝。ラジオの午前7時の時報のあと臨時ニュースが1分間放送された。「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、...ちょっといっぷく39あの日

  • 畑――冬眠

    そら豆を植えた。中国特産の絹が西方に運ばれた道=シルクロードを通って、ヨーロッパから中国にそら豆が伝来した。絹を作るカイコ(蚕)の繭(まゆ)に実が似ていることから中国名は蚕豆。この蚕豆が日本に伝わり、実が上向き、空に向かって付くことから空豆。ちょっとした料亭では、「空」を空っぽ・空しいと読むのを嫌って天豆と呼んでいる。どうせ食べるなら天豆を食べたい。そこで我が家では空豆とは言わず天豆と言っている。天豆の横のワラは防寒・霜除け。春先にワラの上にぱらっと肥料を蒔いて土寄せ。ワラも土で埋めて畑の肥料にする。それまでは、畑仕事は休職。冬眠に入る。畑――冬眠

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