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2022/07/27

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  • 愛の評価値

    80才ともなると、さすがに長く私を見てきた人の私自身への評価と、私の自己評価とは近いように思います。妻を愛する夫であるかどうかの評価を高評価を5として五段階評価すると、3と4の間あたりとするのが当を得ているようです。ところが、私がブログで認知症の妻との生活を発信すると、返ってくるコメントの評価は4以上時には5を超えるかのように評価されます。嫌々妻の介護をしていても、文字を通して伝わるのは介護した実績であることが多いからだと思います。誤解されないように、嫌々ながら介護しているのだと書いても、行った実績を評価されることが多いようです。けれども、私の愛の自己評価は、心から喜んで行わない介護は他人を評価する場合は3以下で、自分を評価する場合は0となります。妻を在宅介護していた頃の私の愛を自己評価すると良い時で3、...愛の評価値

  • ぼくを忘れていくきみと

    今年(2022年)1月より、月刊誌『百万人の福音』に、『ぼくを忘れていくきみと~アルツハイマー病の妻と生きる幸せ~』とのタイトルで、認知症と向き合って共に生きてきた夫婦の16年間を回顧して投稿しています。1年間の約束で、すでに編集部には10月号までの原稿を送ってあり、校正も終えています。残り11月号、12月号の二回分の原稿の内容も決めてありますので、「責任を果たせて良かった」との思いと「もう少し書き続けたい」との思いが交錯していました。すると、編集部から連絡があり「連載が好評なので、あと1年間続けていただくことが出来るでしょうか?」との打診がありました。喜んでO.K.の返事をしましたが、その後すぐに、毎回の原稿を書くのに苦しんできたこれまでを思い出して、不安がやってきました。月刊誌では出版部数の上位に入る...ぼくを忘れていくきみと

  • ぼくを忘れていくきみと

    今年(2022年)1月より、月刊誌『百万人の福音』に、『ぼくを忘れていくきみと~アルツハイマー病の妻と生きる幸せ~』とのタイトルで、認知症と向き合って共に生きてきた夫婦の16年間を回顧して投稿しています。1年間の約束で、すでに編集部には10月号までの原稿を送ってあり、校正も終えています。残り11月号、12月号の二回分の原稿の内容も決めてありますので、「責任を果たせて良かった」との思いと「もう少し書き続けたい」との思いが交錯していました。すると、編集部から連絡があり「連載が好評なので、あと1年間続けていただくことが出来るでしょうか?」との打診がありました。喜んでO.K.の返事をしましたが、その後すぐに、毎回の原稿を書くのに苦しんできたこれまでを思い出して、不安がやってきました。月刊誌では出版部数の上位に入る...ぼくを忘れていくきみと

  • 妻が私を忘れていても。

    妻が若年性アルツハイマー型認知症と診断を受けたのは2006年の4月でした。在宅で過ごした後2015年6月から大阪市立の認知症専門の特別養護老人ホーム『あんず苑』に入所しました。その時、私も妻を足しげく訪ねて多くの時間を持ちたいと思い、『あんず苑』の近くに引っ越しました。それ以来、五年近くほとんど毎日妻を訪問し、数時間を妻と過ごして来ました。進行性の病ですが、緩やかな進行でしたので、入所時には手助けがあればまだ自分でできる事がたくさんありました。散歩することと、夫婦のコミュニケーションをできるだけ多くとることを心がけていました。「私は私として生きてゆきたい」と妻自身が認知症と告知された初期の時代に語っていた言葉を私はもっとも大切なこととして心に留めて妻に接してきました。それは、認知機能の低下が進行しても、『...妻が私を忘れていても。

  • ≪イスラム国による人質殺害予告に心が痛む私の想い≫

    イスラム国による人質殺害予告に心を痛めています。私が心の痛みは、皆さまの痛みとあるいは少しちがっているかも知れません。イスラム国のテロ行為と、人の命をもって主張を通そうとし、身の代金をとろうとする、やり方は卑劣ですから、「テロ行為には断じて屈しない」というのも間違いでないと思います。イスラム国の人道に反する暴力的な行為に、私の心が痛み、映像が事実であるなら、その犠牲となっておられると思えるお二人を想い、そのご家族や親しい方々のお心を思って心が痛みます。速やかな解放を願って祈っています。けれどもたとえ卑劣な相手であっても、この問題を解決する方法が、武力によったり国際世論を背景に抑え込もうとするやり方が、私の心が痛む一つのことです。むしろ解決を遅らせ、さらに多くの人命だ失われるような、泥沼化を招くように思えて...≪イスラム国による人質殺害予告に心が痛む私の想い≫

  • 小旅行でも良いから・・・

    阪和道を堺市から貝塚市まで走行し、一般道を通って帰るという、小さな旅行を計画しました。白雲の浮かんだ青空、山並が見え、木々が美しければ、妻と二人車の中で十分に楽しめます。岸和田のサービスエリアが二人のちょっとしたお気に入りです。ちょうど紅葉が美しく、小さな日本庭園が眺められ、店員さんも明るい、レストランで昼食をとりました。食後、庭園を散策しながら、水辺に映る竹と泳いでいる金魚の群れを見て喜び、SAに作ってある小さな岸和田城を紅葉越しに眺めては、「ここから見るのがいいわ!」と言う妻に合槌を打ちながら、写真を撮っていました。時を過ごしていました。二人にはちょうど良い外出でした。定年になって時間に余裕が出来たら妻と旅行を、と考えていましたが、妻の認知症が進行するにつれて、二人で行動できる範囲は次第に狭くなってし...小旅行でも良いから・・・

  • 日本庭園の菊花展

    私の落ち度で東京で徘徊させてしまった妻に申し訳ないことをしたとの思いがあって、喜ばせたいと思って、堺市の大仙公園へ行きました。折しも菊花展が開催されていました。まだ足の痛みがある妻のために、散策はやめて、菊花展だけを見て帰りました。日本庭園の菊花展

  • チャペルの活け花

    教会堂の活け花は私の妻の担当でした。認知症が進行しても、7年間も続けることが出来たのは幸いなことでした。私も妻を手伝ううちに、次第に観賞する目が養われたように思います。昨年はからついに妻はほとんど出来なくなったので、若い活け花の先生にバトンタッチしました。妻が辞める前の一年ほどは、ほとんど私が活けていましたが、皆さんは、認知症の妻が活けたものとばかり思っておられて、「綺麗ですね!」「いつもありがとうございます。」などと、妻に声をかけて下さっていました。妻も、自分が活けていると思っていましたから、「うれしいわ!」「良かった!」「ありがとう!」などと言っていました。今朝、私はチャペルの花を活けて下さった女性に、花の名前を尋ねながら、ねぎらいの言葉をかけていました。カーネーション、アスターなど色とりどりの花に混...チャペルの活け花

  • <家に帰ります>

    はやいもので、このブログに妻のことを書いてから、一年が経過しています。妻の病状は認知症に関しては一年で相当進みました。介護するのに、相当な知恵が必要になってきました。今夜も、私が夫であることも、自分の家にいることもわからなくなって、他人の家にいるように思い「私嫌われているのでしょう?」家に帰らせていただきます!」と言いだして、私がいくら説明しても聞く耳を持ちません。とにかく眠らせて一安心して、私も眠りました。けれども、玄関の戸が閉まる音に、はっとし、妻がいないのに気がついて、急いで外を見ましたが、姿が見えません。これまでも、何度かありましたが、以前に住んでいた所に向かっていましたので、すぐに見つけることが出来ました。しかし、今日は、その道には向かっていないので慌ててしまいました。夜のことなので、徘徊するこ...<家に帰ります>

  • 私、もう子ども産めないかしら

    多美子との会話は根気がいるけれど、楽しいことも多い。生来、明るく、まじめで、面白い人だったのだと、最近になって気付いた私です。自分に与えられた使命に真剣で、私のように肩の力を抜いて、楽しみながら働くといった芸当など出来ない人で、ユーモアの解せない人だと私は思っていました。50年近くの付き合いになるのに、彼女の楽しい一面を私がほとんど見ることの出来なかったのはなぜだったのでしょう。夫としての私に原因があったようにも思い当たる所もあります。私は人々からは、ほっとすると言われることがしばしばありました。けれども、多美子にとっては、私は緊張感を与える夫であったのかもしれない。あるいは、多美子に与えられた働きが、彼女の成し得る容量を超えていたにもかかわらず、真面目さのゆえに、その働きを忠実に成し遂げようと頑張って来...私、もう子ども産めないかしら

  • 手をつないで

    古希を過ぎ、共に白髪になった私たちもう手をつないで散歩をしても誰も後ろ指もささないでしょう爽やかな秋の風を楽しみましょうあなたの肩を抱きながら讃美歌を歌って歩いていてもとがめる人もいないでしょう無邪気な幼いこどもになって秋の夕陽の野菊のみち歩きましょうもうスキップはできないけれど手をつないで

  • 薔薇の唄を歌って聞かせてくれた母

    私の母は、今年95歳です。山奥で育った私の子供時代の、多くの知識は母から得たものでした。母が歌う歌が私は好きで、今も口をつく歌のいくつかには、母との懐かしい思い出があります。その一つに、”薔薇の唄”があります。リパブリック賛歌のメロディで歌われた、大正時代の女学生の間で大流行した歌だと、検索の結果知りました女学生だった母も良く歌った歌なのでしょう。”小さき鉢の花薔薇はあなたの愛の露受けて薄紅の花の色きの初めて笑ってよ””固き蕾に口当てて小雨降るよな夢心地あなたは何を語ったの花はあなたを待っててよ”8節まである歌詞には、薔薇に託した乙女の恋心が、巧みに歌いこまれています。母は、幼い私が聞いて覚え、いつまでも歌い続けるなどと思いましないで歌っていたでしょう。私が聞いていたのは、母の人生のとても辛い時期だったよ...薔薇の唄を歌って聞かせてくれた母

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