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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 「破戒僧」・円載(上)

    遣唐使に選ばれた多くの僧たちが大陸へと渡ったが、その正確な人数はデータが残っていないので分からない。遣唐使を構成するメンバー数は、前期は200~250名ほど、後期は5~600名ほどであったが、そのうち僧は何名ほどいたのであろうか? 遣唐使に関する記録が最も残っているのは、第19回目である。なぜ残っているのかというと、この遣唐使には前々回の記事で紹介した、あの円仁が参加していたからだ。彼は「入唐求法巡礼行記」という、遣唐使についてのみならず、7世紀の中国に関する社会風俗についてなど、極めて優れた記録を残している。 この記録によると、第19回遣唐使の参加人数600名ほどのうち、留学僧ないしは請益僧…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

    さて空海が開いた「東密」の方は、その後どうなっていったのであろうか。 教義という点では、真言宗は大きな問題を抱えているわけではなかった。天台宗のように4つの宗派を統合する必要もなく、密教という単一の分野をただひたすらに深堀りしていけばよかったわけで、また空海は理論構築の天才でもあったから、彼の死後も教理上残された大きな課題というのは、そんなに残されているわけではなかったのである。 そして空海には、多くの優れた弟子たちがいた。その代表的な10人を十大弟子と称するが、中でも有名なのは一番弟子である真済、最澄から離れて空海の弟子となった泰範、そして皇族出身の真如こと、高丘親王であろう。 彼らは天台宗…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑩ 最澄の後継者たち その後の比叡山

    最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか? まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海の真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

    徳一の著した「仏性抄」は法相宗の立場、つまり前記事で紹介した「三乗説」を唱える立場で書かれた書物である。この書は現存していないので、その正確な内容は分からないのだが、どうもこの中で徳一は「一乗の教えを説く『法華経』を、文字通りに受け取ってはいけない」と述べたようである。 要するに、仏陀が法華経の教えを諭していた時、その場にいた多くの人は、前記事でいうところの「不定性」の人々であったため、彼らを仏陀への道へ誘導するために、分かりやすく「方便として」一乗の教えを説いた、というロジックを展開したのである。 これに激しく嚙みついたのが最澄であった。彼が反論するために著した書が「照権実鏡」であるが、この…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑧ 最澄vs徳一(上) 「三一権実争論」とは

    奈良から平安期にかけて栄えた南都六宗であるが、その中で最も権勢があったのは法相宗である。この法相宗の教えはユニークなものなので、その教義を少し紹介してみよう。 まず日本仏教を語るには、中国仏教なしには語れない。日本の仏教は、おしなべて中国経由で入ってきたものだからだ。日本ならではの宗派が独自に確立し、発展するのは鎌倉期に入ってからである。平安期までの仏教――南都六宗・密教・天台宗などはインドが源流ではあるが、すべて中国で発展・解釈され直したものなので、中華風に味付けされた仏教だといえる。 この中国仏教に最も影響を与えた名僧は、4世紀後半から5世紀にかけて活躍した鳩摩羅什(クマラージュ)である。…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑦ 密教・禅・戒律をミックスさせた、最澄の「シン・天台宗」

    密教を日本に持ち込み、更にその教義を発展させた空海。新興勢力であったにも関わらず、官寺である東寺まで賜り、これを密教の専修道場とするなど、日本において確固たる地位を築き上げたのであった。一方、日本仏教界のもう一方の新星であった、最澄はどうであったのだろうか? 日本において「天台宗」を開宗するため、天台の教えを学びに大陸に渡った最澄。帰国してから念願叶い、天台宗は南都六宗に肩を並べる存在になったわけだが、当時の皇室と貴族には、現世利益を叶えてくれる最新の教えであった「密教」のほうがウケが良かったのは、過去の記事で紹介した通り。そこで求められるまま灌頂や加持祈祷を行ったわけだが、己の密教に対する力…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑥ 他宗をもその内に取り込んだ、空海の先進性

    空海により日本にもたらされた密教の教え。空海はそれに独自の解釈を加え、更に発展させる。彼が打ち立てた真言の理論は、天才が収集・編纂した故に、それ以上の解釈や発展がなかなか進まなかった、と言われているほどである。彼の先進性を示す一端として、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の障りの部分だけ紹介してみよう。 正確には「秘密曼荼羅十住心論」というこの著作は、そもそもは淳和天皇が各宗派の第一人者に「それぞれの教義を記して提出せよ」と下した命に応え、空海自らが著して提出したものだ。 この著作で空海は、仏教における密教の立ち位置を素人でも分かるように定義している。その定義を表にしたのが、下記の画像である…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは

    密教はインドにおいて発生した、仏教の一派である。初期の密教は呪術的な要素が多く入っており、極めて土俗的な性格が強いものであった。こうした初期密教を「雑密」と呼ぶ。例えば、初期に成立した「孔雀王呪経」は毒蛇除けの護身呪であり、おまじないに近いものだった。 だがその後、インドでは後発のヒンズー教が急速に力をつけてくる。これに対抗する必要上、密教の理論化が進んだため、洗練された教義に生まれ変わった。これが中期密教である。 唐が西域まで進出したことにより、8世紀前半にインドから中国に入ってきたのが、この中期密教であった。伝えられたのは、主に「大日経」と「金剛頂経」の2つの経典であるが、この2つは中国に…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その④ 最澄と空海・平安期が生んだ2人の天才

    奈良期は日本の歴史上、仏教が最も権力と結びついた時代である。それがピークに達したのが、769年に発生した政治僧・道鏡による皇位簒奪の動きである。この企て自体は失敗したが、こうした動きに象徴されるような寺社勢力の強大化、そして僧侶の退廃ぶりも目立つようになってきた。 794年、桓武天皇による平安遷都が行われる。理由のひとつは政界からの寺院勢力の排除であった。「仏教都市」であった平城京には、数多くの巨大寺院が存在したが、新都である平安京には(当初は)東寺と西寺、この2つの官寺しか許されなかったのである。 桓武天皇は他にも、新規の造寺・寺院による土地購入・営利事業の禁止などを定め、寺社勢力の力を抑え…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その③ 神仏習合と、奈良期の「南都六宗」について

    そんなわけで、この時期本格的に国政に仏教が入ってきたのであるが、今まであった日本古来の神道はどうなったのか。他国においてはこういう場合、今まで信ぜられていた宗教は破棄、ないしは上書きされてしまう場合が多いのだが、日本においてはそうならなかった。 そもそも仏教が伝来した時から、日本の人々によって「神」と「仏」は、漠然と同じようなものとして信仰されていた。仏は「蕃神」つまり「外国の神」として捉えられていたのである。また仏教はヒンズー教が強かったインドで生まれ、発展していった宗教であったから、多神教的な味付けを加えられていたことも大きい。古代日本人の一般的な認識としては、あくまでも「外国の神ではある…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その② 「総合文化芸術」仏教に魅せられた古代の人々

    日本にやってきた、仏教という新しい教え。しかし日本古来よりある神道を奉じる、有力豪族・物部氏をはじめとした豪族たちの強い反発にあい、敏達天皇は否応なく仏教の排撃を余儀なくされる。これに対し、仏教導入派である蘇我氏が反撃、物部氏らを滅ぼすことに成功する。以降、日本において仏教が発展することになる――というのが、かつてブログ主が学んだ大まかな歴史の流れであった。 上記の説の根拠となっているのは「日本書紀」なわけだが、最近の説ではどうなっているのだろうか。物部氏の本拠地である河内国・渋川の地には、寺院の跡が残っていることから、物部氏はそこまで狂信的な廃仏派ではなかった、という説があるのだ。 薗田香融…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その① 古代日本にやってきた舶来宗教

    そもそもこのブログは、ブログ主の著作(といっても、現時点で2作しか出していないが)を紹介、というか宣伝するためのブログであった。1巻の舞台は1555年の京であるが、2巻で主人公はとある理由で紀州・根来寺に行き、そこで行人方子院「大楽院」の親方、つまりは僧兵集団の小ボスになる。 なのでこのブログ、最初は京都や根来寺に関する歴史ネタがメインであったのだが、いつの間にかそれ以外のことに話が広がってしまっている。ネタ筋はもちろん、ブログ主が興味のある分野の歴史に関することである。 だが実は根来寺に関する大きなネタで、まだ触れていないものがひとつある。それは根来寺において発展し、伝えられてきた仏教の教義…

  • 旅行記~その⑦ 長篠の戦い 丸山砦と馬場信春

    この戦いにおける武田方の戦死者は、1万とも数千とも言われていますが、甚大な被害を被ったことは間違いありません。これまで武田家を支えていた多くの重臣たち――馬場信春、山形昌県、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟らが軒並み戦死してしまいました。これら諸将の死は、武田家にとって相当な痛手だったわけですが、同じくらい痛かったのは、数字には表すことができない武田軍の質の低下でした。 先代・信玄公の元、何十年にも渡って練り上げてきた武田軍。一兵卒から物頭、そして先手の将に至るまで、こういう時にはどう動けばいいか、どう指揮をすればいいか、阿吽の呼吸で動ける軍隊に仕上がっていました。武田の強さを支えていた、…

  • 旅行記~その⑥ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(下)

    21日の日の出と共に、勝頼は攻撃命令を下します。武田方の主力は左翼にいた山県昌景・原昌胤・内藤昌秀・小山田信茂らが率いる精鋭部隊でした。徳川方は右翼に位置していたので、もろにその猛攻を受けます。 武田氏の戦闘スキルは、戦国最強といってもいいレベルのものでしたが、戦闘の様相は野戦とはかけ離れたものでした。野戦築城に対する攻城戦に近い戦いだったのです。対する徳川方は、野戦築城を最大限に生かした戦い方をしてきたのです。徳川方の大久保兄弟が、敵が攻めてきたら柵の後ろに退き、敵が退いたら追撃し、常に敵と一定の距離を保って戦っているのを見た信長が「よき膏薬の如し。敵について離れぬ膏薬侍なり(当時の薬は、布…

  • 旅行記~その⑤ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(上)

    陥落寸前の城を救うため、織田・徳川連合軍3万8000が長篠に急行します。5月18日には設楽郷に到着、信長は極楽寺山裏に本陣を構えました。家康が布陣したのはやや前方にある高松山(弾正山とも)です。翌19日から、有名な馬防柵の建設が始まっています。 指呼の距離にまで迫った織田・徳川連合軍に対して、勝頼は下した決断は「決戦あるのみ」でした。どうも設楽原における陣地構築の動きを「戦いを決断できない、連合軍の弱気」と判断してしまったようです。また信長は本陣を山の後ろに置いたので、勝頼は連合軍の総数を正確に把握できず、戦力を過小評価していた可能性があります。 しかし百戦錬磨の武田軍は、戦前の偵察・情報収集…

  • 旅行記~その④ 長篠の戦い 長篠城と鳥居強右衛門

    1575年4月から本格的にはじまった、今回の勝頼の遠征の目的は「クーデターに乗じて岡崎城を占領する」というものです。もし成功していたら、徳川家を滅ぼせたかもしれないレベルの大戦果でした。しかしそれが失敗した今、勝頼としては手ぶらで帰るわけには行けません。そこで攻撃目標を、吉田城攻略&家康の捕捉・殲滅に変更するも、これも失敗。勝頼は仕方なく、第三の目標として長篠城に目を付けたのでした。 さて当時の長篠城の城主は奥平信昌です。元々、この山深い奥三河の地を制していたのは、作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏の三氏で、彼らはひとくくりに「山家三方衆」と呼ばれていました。 徳川と武田の国境にい…

  • 旅行記~その③ 「長篠城址史跡保存館」を見学

    半年ほど前のことになりますが、息子と2人、長篠城と設楽原古戦場に行ってまいりました。今更ですが、その時の内容を紹介したいと思います。 その前に、「長篠の戦い」についての基礎知識を。武田氏に関しては近年、平山優氏をはじめ、黒田基樹氏、丸山和洋氏らによる優れた研究が成されています。「長篠の戦い」に至るまでの武田・徳川両家の動きを、平山優氏による著作「徳川家康と武田勝頼」から見てみましょう。 1574年頃より、武田勝頼による東美濃・遠江侵攻が始まりました。これにより、家康は領国の30%を失うという痛手を受けます。当時、単独では徳川家は武田家には勝てない、というのが彼我ともに共通する認識でした。 これ…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑮ 近世の鳥羽車借 その栄光と終わり

    室町期の往来物に「大津坂本馬借・鳥羽白河車借」と謡われた、中世の運送業者たち。江戸期に入って坂本馬借は衰退し、大津馬借は繁栄する。白河車借は既にない。最後のひとつ、鳥羽車借はどうなったのだろうか? 鳥羽車借の全盛期は、織豊期から江戸初期にかけてのようだ。1568年には、信長の命で御所修理のための木材数万石を運搬している。1578年には秀吉による播磨侵攻を受けて、大量の米を鳥羽より大物の浦戸へと運搬しており、その補給にひと役買っている。また家康の為にも木材・石の輸送を行っている。 さて大坂の陣が終わり、ようやく平和な世が到来する。京の人口は増大し、米の消費も急増する。鳥羽車借の御用の主力は、やは…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑭ 江戸期にたてられた「日本海~琵琶湖運河」開削計画

    前回に引き続き、記事の内容がなんだか「馬借・車借」というメインテーマからは、若干外れた内容になってしまっているような気がするが、ご容赦を・・・ さて河村瑞賢による「西廻り航路」開拓により、これまでより遥かに効率的かつ大々的に、米を運べることになった。これにより日本全国ほぼ全ての人が恩恵を受けたわけだが、その唯一の例外が、これまで琵琶湖経由ルートの利用により潤っていた人々である。 「若狭遠敷郡誌」には、西廻り航路以前に小浜から九里街道を通って、琵琶湖まで運ばれた荷は、年20万駄ほどであったが、それ以降は年1万7千駄にまで減ってしまった、とある。なんと92%の減である。 このように一気に衰退してし…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑬ 河村瑞賢の「西廻り航路」により、激変した米の流通ルート

    江戸初期の豪商に、河村瑞賢という人がいる――彼は凄い男なのである。南伊勢の、さほど豊かではない農家の長男に生まれるが、13歳で江戸に出ている(跡継ぎのはずなのだが、江戸に出てきた理由ははっきりしていない)。江戸では、まずは車力になったそうであるから、どこぞの車借組織に雇われていたのかもしれない。この時に知り合った、車持ちの娘を妻に迎えている。 その後、行商人になっている。この頃の逸話として、川岸にお盆の供え物の野菜が川に流されているのを見つけ、それを乞食に拾わせ樽に塩漬けにしたものを売って小金を稼いだ、という逸話が残っている。このように人をうまく使うのに天性の才があったのだろう、土木工事の人夫…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑫ 全盛期を迎える大津馬借、小遣い稼ぎをする坂本馬借

    前記事で述べたような理由で、大津馬借はそれなりの規模を持つ馬借集団として、江戸期も存続し続ける。彼らは京津街道の物流の担い手となるのだ。なおこのルートの物流の担い手として、他にも伏見の車借らがあげられる。1704年には京津街道を行き交う荷は、車借が40%・馬借が60%の比率で運ぶという取り決めができており、これは幕末まで続いたそうである。 歌川広重作「東海道五十三次・大津宿」。牛車の列が米俵を運んでいる。伏見の車借らであろうか。牛の背に架かっている帆のようなものは、直射日光を避けるための日よけである。京津街道の運送に牛車を本格的に使うようになったのは、近世に入ってからではないだろうか。京津街道…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑪ 牙を抜かれた馬借たち 発展する大津、廃れる坂本

    戦国が終わり、世の中は織豊政権による中央集権体制となる。天下が完全に鎮まるまでは、「関ヶ原」や「大阪の陣」など、まだ幾つかの大戦を経なければならなかったが、少なくともこれまで各地で多発していたような、小勢力同士の泥沼の小競り合いはなくなった。また流通の最大の障害であった、星の数ほどあった関所の数も激減したため、商品流通経済がより活発になったのである。 シリーズの始めで紹介したように、中世の馬借たちは地域の権力者――つまりは戦国大名らと結びついて、その地の物流を担っていた。近世に入っても、その構図自体は大きくは変わらないのだが、これまで持っていた商人的側面ははく奪されてしまう。かつて強い力を持っ…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~~その⑩ 鳥羽車借の京への運搬ルート

    京へ続く三大街道は、京津街道・竹田街道、そして鳥羽街道である。この三街道は、戦国期には日本最大の人口を抱える大都市・京へと続く、物流の大動脈であった。うち鳥羽街道は、巨椋池に荷揚げされる米などの運搬によく使用されていたのは、先の記事で見た通り。 拙著では「大路屋」の車借の列が、塩樽を上京に運ぶシーンを描いた。このシーンを元に、鳥羽の車借の列が京へと向かうルートを紹介してみよう――なお、本当に鳥羽車借がこのルートを使用したかどうかは分からない。あくまでもブログ主の想像である。 下鳥羽にある「大路屋」を出発した車借の列は、まず鳥羽街道を北上していく。街道の横には京より続く加茂川が流れているが、その…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑨ 車借の二大拠点・鳥羽と白河(下) 京の物流を支え続けた鳥羽車借

    早くに衰退してしまった白河車借に比して、鳥羽車借はなんと明治まで続いている。両者の違いは何であったのだろうか? 六勝寺と同じように、廃れてしまったのは鳥羽離宮も同じなのだが、鳥羽には大きな利点がひとつあった。灌漑によって埋められてしまって、今はもう見ることはできないが、中世の下鳥羽の南には巨椋池があったのである。 この巨椋池、琵琶湖から流れてくる宇治川や、桂川・木津川など3つの水系が流れ込む、池というよりは湖であった。ここで一旦貯めこまれた水は、淀川を通じて大阪湾へと流れていく。4つの川と通じているこの湖は水上交通の結節点であり、船で運ばれた荷が荷揚げされる「津」が複数存在した。 国土交通省H…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑧ 車借の二大拠点・鳥羽と白河(上) 白河車借の興隆と衰退

    車借の二大拠点といえば、鳥羽と白河である。細かく見ていけば、小規模な車借拠点は各地にあるのだが、ここまで大規模なのはこの2か所だけだ。鳥羽と白河において、なぜここまで車借が発展したのだろうか? そもそも効率的には、馬の背に乗せて物を運ぶよりも、車を使った方がいいに決まっている。馬の背に乗せる場合、運べる荷は1頭につきせいぜい米2俵だが、牛車を使えば米を8俵乗せられるのだ。にも関わらず小荷駄を使わざるを得なかったのは、日本は坂道が多かったからなのだが、好都合なことに鳥羽と白河から洛中へと至る両ルートは、平坦な道が続いていたのである。 そして何よりも「車借」にできて「馬借」にできないことがあった。…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑦ 牛車で米を運送した車借たち

    小荷駄で荷を運ぶ「馬借」に対して、牛に車を曳かせて運搬する業者のことを「車借」と呼んだ。有名なのが「白河車借」、そして拙著にも出てくる「鳥羽車借」である。 坂本の馬借の起源が「馬の衆」といわれる、日吉社の神人たちだったとすると、車借の起源は何なのだろう。牛に車を曳かせる、という点から考えると、真っ先に頭に浮かぶのは、平安期の貴族の乗り物・牛車である。 平安貴族たちは、牛車を誰に曳かせたのだろうか?この時代においては、「牛追い童」という職能民がこの役割を果たしていた。平安期は「職能」というものがようやく機能してきた時代である。平安初期の「牛追い童」には「官庁に属していた者」と「寺社や貴族の家に属…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑥ 土一揆に参加して暴れはするが、それはそれとして強訴の動員にも応じる馬借たち

    さて前記事で見たように、1428年9月18日の馬借蜂起を契機とし「正長の土一揆」が発生したわけだが、実はその1か月前の8月に近江国において、徳政(借銭棒引き)が行われていたことが複数の記録に残っている。 近江国におけるこのケースだが、そもそも誰が徳政を出したのか、徳政に至るまでの経緯、そして実際に暴動沙汰があったかどうかなど、記録が断片的で全体像がよく分かっていない。だが、どうもこの騒動も先の記事で紹介した「山門による麹の訴訟沙汰」に影響されて起こったものらしい。 叡山はこの麹訴訟を起こす際に「返事によっては、馬借蜂起も辞さず」と公言していたようだ。幕府に対して、強いプレッシャーをかけていたの…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑤ 「敵は北野社にあり」 土一揆のきっかけは、馬借たちによる「麹騒動」

    さて1428年に、日本史上初の大規模な土一揆・「正長の土一揆」が発生する。清水克行氏はその著作「室町社会の騒擾と秩序」において、そもそもこの土一揆が発生したきっかけは、叡山と北野社の勢力争いがあったのではないか、と推測している。 「天神さん」として京の人に親しまれている北野天満宮、つまり北野社は中世においては、叡山の勢力下にある末社であった。にもかかわらず両者の仲が悪くなったのは、4代目将軍である足利義持が北野社の法印・松梅院禅能という社僧を偏愛したことによる。義持はお気に入りの北野社に対して、「酒麹の独占権」という極めて大きな利権を付与したのであった。 麹は日本酒の醸造過程に欠かせない原料で…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その④ 「強訴の尖兵」馬借たち その行動原理

    叡山にしてみれば「強訴の尖兵」という暴力装置として、大変に利用価値があった馬借たちであったが、しかし彼らは必ずしも山門に絶対的な忠実な存在だったわけではない。「命令されたから暴れる」わけではなく、彼らなりの「暴れる理由」があり、その要求を通すためにも「馬借蜂起」したのであった。 今回の記事では、馬借たちの持つそうした「行動原理」がよく分かる事例を紹介したいと思う。 まず今更だが、比叡山延暦寺について。比叡山には「延暦寺」という名の寺院は存在しない。比叡山にある、多数の寺院の連合体を称して「延暦寺」と呼ぶのである。その最盛期には、境内である「三塔十六谷」の中に3000とも称される寺院が存在した。…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その③ 土一揆の主力を成した馬借たち

    1603年にイエズス会宣教師らが作成した、日本語をポルトガル語に訳した「日葡(にっぽ)辞書」というものがある。キリスト教を布教するためのツールとして、宣教師らが作成したものだ。 当時の日本には、もちろん「百科事典」といったものが存在しなかったから、本来ならば当時使用されていた言葉の発音や、正確な使用方法・意味などは、分からないことだらけだったはずなのである。しかしながら、この第一級の史料である「日葡辞書」があるおかげで、中世日本語の音韻体系をはじめ、個々の語の発音・意味・用法、各種名詞やよく使用された語句、生活風俗などを知ることができるのである。 この「日葡辞書」における「Baxacu(馬借)…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その② 坂本の馬借(上) その前身は「馬の衆」か

    馬借に関する直接的な史料が残っているのは、前記事で述べた「浦・山内馬借」に関するものであるが、「存在感の有無」という形で最も有名なのは、やはり「坂本の馬借」である。 坂本そして大津の町は琵琶湖畔にあり、湖運を通じて多くの物資がこの港町に集まってくる。ここから京に至るルートは、東からの物流の大動脈であったのであり、その陸運の主力を担っていたのが「坂本・大津の馬借」だったのである。 「坂本の馬借」は京に近く、また比叡山に属する存在であったために、各種の史料に横断してよく名前が出てくる――のだが、史料そのものは断片的で、量もそんなに多くはない。坂本の馬借に関する史料はもっと残っていてもおかしくないの…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その① 運送業から商人へ

    日本の陸上運送の主力は、江戸時代までは馬である。地形が険しく道の狭い日本においては、馬の背に荷物を括りつけて運ぶ、小荷駄が発達した。中世において、このように馬を使って荷を運ぶ運送業者のことを「馬借」という。 馬借・車借という職能の設立はそこまで古いものではなく、大体において鎌倉期の末頃だとみられている。彼らは地方にある荘園の余剰物資等を、運送する目的によって発達した職能民なのである。ただし一大消費都市であり、経済先進地帯であった京においては、早くも平安末期に馬借・車借の記載が見られる。 1057年頃に成立したと思われる「新猿楽記」という物語がある。これはフィクションではあるが、下級貴族の実態を…

  • 非人について~その⑮ 「非人に近い扱い」をされていた職能民たち

    このシリーズの始めのほうの記事で、非人には「狭義の非人と広義の非人」がいると紹介した。しかしこれまた時期と地域によるのだが、「非人に近い扱い」をされていた職能民というものが数多くいたようだ。 以前紹介した「狭義・広義」の非人の定義づけは、あくまでも1302年時点でのものである。それより前、例えば鎌倉期における「賤民」の定義はより広かったようで、漁師の子であった日蓮が、自らを「旃陀羅(せんだら)が子」と自称していたことも、前に紹介した。 また例えば、室町期に成立した「三十二番職人歌合」には「菜売り」「鳥売り」などが「いやしき者なり」として紹介されている。 「三十二番職人歌合せ」より。左が鳥売り、…

  • 非人について~その⑭ 京の声聞師たち・中世のカルト教団「彼の法(かのほう)」集団

    この「通夜参籠の術」のギミックは、拙著1巻でも使わせてもらっている。(以降ネタバレになるので、先を読む方は注意)。 主人公の義姉に対して、種付けをした声聞師らがいる。淀君に対して種付けを行った者らと、同じ党であるという設定である。その党の名を「陀天(だてん)党」とした。この陀天党は、これまた中世に実在したカルト教団をモデルにしてある。 その教団の名は伝わっていないが、現在の研究者の間では、便宜的に「彼の法(かのほう)」集団、或いは「内三部経流(ないさんぶきょうりゅう)」と呼ばれている。 この「彼の法」集団は13世紀前半に成立した教団で、密教本流から分派したというよりは、田舎の民間信仰をベースに…

  • 非人について~その⑬ 京の声聞師たち・通夜参籠(つやさんろう)の術(下) 淀君の暴走と秀吉の葛藤、そして秀次の死

    先の記事で少し触れたが、声聞師たちは秀吉によって弾圧を受けている。1594年、堺で10人、大阪で8人、そして京都で109人の声聞師たちが、尾張に強制移住させられているのだ。 この奇妙な事件を、これまでの史学会ではどう説明していたのか?声聞師たちは治水の技術を(呪術的なものを含む)持っていたらしく、それを尾張における灌漑のために役立てたかったのだ、というのが通説のようだ。しかし裏には次のような事情があったのではないか――というのが服部氏の論旨なのだ。 西洞院時慶が記した「時慶記」1593年10月19日の条には、このような旨の記載がある――「大阪城にいた声聞師が追放された。男女の問題で金塊を得たと…

  • 非人について~その⑫ 京の声聞師たち・通夜(つや)参籠(さんろう)の術(上)秀頼は誰の子か?

    話が唐突にそれるのだが、秀頼は秀吉の実子ではない・・・というのは「現代医学的には」間違いのないところらしい。幾つかのデータを現代医学の知見から見てみよう。 服部英雄氏の著作「河原ノ者・非人・秀吉」によると、好色な秀吉が生涯に愛した女性の数は、100人以上いたらしい。己の出自が卑しい、という強烈なコンプレックスがあったため、その多くが高貴な身分の女性であった。 その数を厳密に数えることはできないが、中には経産婦も多数いたことが分かっている。代表的な女性に、秀吉の最もお気に入りの側室であった京極龍子がいる。この龍子、秀吉の元に嫁す前に三人の子を産んでいるのだ。 にもかかわらず、秀吉との間には子ども…

  • 非人について~その⑪ 京の声聞師たち・秀吉による追放令――豊臣家の大スキャンダル

    先の記事で、戦乱の世を乗り越えられなかった声聞師集団として「小犬党」を紹介した。こうした党は他にもあって、室町期の記録にはあるが、戦国期の記録には出てこない党として「柳原党」「犬若党」「蝶阿党」などがある。 まず「柳原党」だが、これは比較的大きな集団であったようだ。相国寺に隷属し、その西方にあった柳原散所を本拠としていた。声聞師たちは、どうもこうした大きな党を母体として、更に小さな党を形成していた節がある。犬若党や蝶阿党などは、もしかしたらここに所属していた声聞師が別に結成した、小さな党だったかもしれない。或いは柳原散所を本拠として活動する幾つかの声聞師集団を、まとめて柳原党と呼んでいた可能性…

  • 非人について~その⑨ 京の声聞師たち・室町の世を一世風靡した芸能集団・「小犬党」

    先の記事で、応仁の乱を境に声聞師集団のパワーバランスが変化した可能性がある、と書いた。室町期に見られた幾つかの党が、戦国期の記録には見られなくなるのだ。 室町期に存在した有名な声聞師集団に「小犬党」がある。 相国寺の西、柳原に居住していたと思われる声聞師集団である。各種記録には「小犬党」の他、「唱門師小犬」「小犬太夫」「小犬座」などという名で登場している。この小犬党を率いていた者の名は、「小犬」である。これは個人名ではなく、小犬党を率いていたリーダーが、代々名乗っていた名前なのである。名を継ぐ、という点では、河原者の死刑執行人・天部又次郎と同じである。 この声聞師集団「小犬党」は、少なくとも1…

  • 非人について~その⑨ 京の声聞師たち・声聞師大黒党と大左義長

    京の声聞師集団は、正月の4日・5日の両日に禁裏、7日には将軍邸を訪れ、そこで中世のミュージカルである「曲舞(くせまい)」を披露して正月を祝った、と当時の記録にある。この行事を「千秋万歳(せんずまんさい)」と呼ぶ。 まず4日に行われる「千秋万歳」を行っていたのが、声聞師集団「大黒党」である。1570年の正月には、千秋万歳とは別にその名の由来となる「大黒舞」を正親町天皇の前で披露した、という記録が残っている。 この大黒党であるが、禁裏の近くの今出川町辺りに集住していたようだ。その起源は古く、13世紀に遡る。京の声聞師集団の中でもそれなりに力を持っていた、由緒ある党であったと思われる。 中世の加茂川…

  • 非人について~その⑦ 京の声聞師たち・彼らを仕切っていた組織

    大道芸で食っていた声聞師たちであるが、それぞれが勝手気ままに町中を徘徊し、芸を行っていたわけではない。混乱や争いを避けるために、彼らなりの仕来りがあり、縄張りもあるのだ。つまり彼らを仕切っていた組織があったのである。 こうした組織として、奈良にあった「五カ所」と「十座」が有名である。両組織を統括する立場にあった、興福寺・大乗院の史料が豊富に残されているから、詳細な研究が進んでいるのだ。 両者は大和における声聞師の指導者的立場にいた集団で、いわゆるひとつの「座」を形成していた。まず「十座」は、大和数十カ所に対する声聞師の座頭として、「七道に対する自専権」を持っていた。そして「五カ所」と呼ばれた声…

  • 非人について~その⑥ 京の声聞師たち・芸能の民

    拙著1巻「京の印地打ち」に登場する「大黒印地衆」は「声聞師(しょもじ)」たちから成る印地集団である。声聞師とは「広義の非人」の中に分類された職能のひとつで、民間で芸能ごとを行っていた人々である。安倍晴明で有名な陰陽師の系譜を引く、という触れ込みで活動していたが、嘘であろう。 世界的に見ても凡そ全ての芸能は、「祝い」という宗教的な行事がその源流にある。声聞師たちの携わっていた芸能もそうである。そして中世は現在よりも遥かに、こうした祝福芸能を大変に重視した社会なのである。なので、その種類も大変に多かった。 声聞師の代表的な芸をあげると、まず「陰陽」は卜占や加持祈祷、「金鼓」は鉦を打ちながら経文を唱…

  • 非人について~その⑥ 非人たちの既得権益「得分」とは

    当時の被差別民が携わっていた職能は多岐に渡っていたように見えるが、基本的には全てキヨメに関わるもの、ないしはそこから派生したものであった。過去の記事で「千本河原者」がキヨメの仕事に参入してきた「一本杉河原者」に対して、北野社に訴えを起こした話を紹介した。 このように職能の縄張りに関して、彼らはとても神経を尖らせていた。実はこうした仕事に従事するにあたって、彼らは必ずしもその都度、銭などの対価を貰っていたわけではない(中世後期からは、仕事によっては支払われる例も見られる)。 にも関わらず、彼らが己の職域に関して他者の参入を頑なに拒んだのは、実のところ己の職能に関わる分野においては、独占的な権益が…

  • 非人について~その⑤ 清水坂vs奈良坂 非人宿同士の三十年戦争(下) 清水坂の逆襲

    先の記事で紹介した騒動から10年ほどたった1224年、清水坂で大きな動きが起きる。奈良坂の後ろ盾で復権したAが、何とその支配からの脱却を狙ったのだ。奈良坂からの入り婿であった淡路法師をはじめとする、吉野・伊賀・越前法師ら、奈良坂派の長吏らを一斉追放したのである。 これに怒った奈良坂宿は、武闘派の播磨法師率いる手勢に清水坂宿を攻めさせる。同年3月25日に清水坂で行われたこの戦いで、敗れたAは殺されてしまうのであった。 このあと清水坂宿は、Aの息子が新たに後を継いだようだ(やはりその名が伝わっていないので、これをBとする)。しかしBは、父を殺された恨みを忘れてはいなかったのである。 奈良坂宿の下に…

  • 非人について~その④ 清水坂vs奈良坂 非人宿同士の三十年戦争(上) 清水坂を占領した奈良坂

    犬神人は清水坂宿に所属していた非人である。その清水坂宿は、近江から瀬戸内にかけて存在する、数多の非人宿を支配下に置く、いわゆる「本宿」であった。 だがこの清水坂宿と並ぶ、強力な対抗勢力がもうひとつあった。奈良は興福寺の近くにあった、奈良坂宿である。奈良坂宿もまた、大和・伊賀を中心とした多くの非人宿をその支配下に置く「本宿」であり、畿内にある非人宿は全て、この2つある「本宿」のどちらかに属していたと思われる。 この2つの勢力の間で、合戦に近い縄張り争いが発生したことが分かっている。清水坂宿は祇園社(=延暦寺)の管理下にあり、奈良坂宿は興福寺の管理下にあったから、実のところこれは、中世にあった2つ…

  • 旅行記~その② ドイツ・フルダの「18世紀への時間の旅」イベント(下)

    城の中庭にあるイベント会場に入ると、ご覧の通り天幕がズラリ。 広い敷地の中にざっと数えただけでも、50以上の天幕がありました。 これらの天幕は何なのかというと、このイベントにコスプレで参加している人たちのテントなのです。この時にあった説明によると、今回のイベントでコスプレで参加している人たちは、340人以上いたとのことです。天幕はそれぞれコスプレした国、或いは連隊ごとに分かれて張ってあり、ポールには国旗が掲げられています。ドイツのイベントらしく、みな18世紀の衣装コンセプトを厳格に守っており、雰囲気に逸脱した参加者たちはひとりもいませんでした。 以下、イベントで撮影した様々な写真を紹介します。…

  • 旅行記~その① ドイツ・フルダの「18世紀への時間の旅」イベント

    シリーズの途中に流れをぶった切る形になりますが・・・とある珍しいイベントを見学してきたので、そのご紹介を。 長い夏休みを取って、ドイツに行ってまいりました。ドイツでは親類の家に居候、ローカルな生活を楽しみました。フランクフルトから車で1~2時間の所にある、フルダという古都です。 親戚の家はフルダ郊外にありました。丘の上に教会があり、そこを中心に小さな町が出来ています。写真は家の近くの丘から撮ったもの。なんと美しい光景か。涼しいこともあって、日本とは別世界でした。 居候先は素晴らしく居心地がよく(向こうの家は広い!)、殆どの時間を近場で過ごしました。ベルリンに2日間ほど行った他は、あまり観光らし…

  • 非人について~その③ 祇園社の「犬神人」について

    これまでの記事で言及したように、「非人宿」を管理していたのは「長吏とその配下集団」である。畿内にあったこれら宿の総元締めのひとつが「清水坂宿」であった。そしてこの清水坂宿に住む配下集団は、「犬神人」とも呼ばれていた。(ただ清水宿にいたこの配下集団の、全員が犬神人と同一であったとは断言はできず、議論の分かれるところのようだ) 名に「神人」とあることから分かるように、彼らは寺社に属する存在であった。清水坂における犬神人らは祇園社に従属していたが、京以外の寺社にも犬神人はいた。おなじみ石清水八幡宮や、鎌倉の鶴岡八幡宮、越前の気比社、美濃の南宮社にも、犬神人と呼ばれる存在がいたことが分かっている。 な…

  • 非人について~その② 非人の数と、その分類

    前記事では典型的な「狭義の非人」と称される「宿非人」を取り上げた。では「広義の非人」とは何か。細川涼一氏による「中世非人に関する二、三の論点」という論文がよくまとまっているので、この内容を紹介してみようと思う。 まずは京における非人の数について。1302年のことになるが、後深草法皇の死去に伴い、各種法要が行われている。この法事の際に、京にいる非人に対して非人施行(1人10文ずつ)と温室(入浴療法)料が施された。そして当時の記録に、その数と集住地が残されているのである。下記がその内訳である。まずはAグループから。 ・清水坂―――1000人 ・蓮台野―――170人 ・東悲田院――150人 ・散在―…

  • 非人について~その① そもそも、非人とは何か

    少し前のシリーズで、河原者を取り上げた。今回取り上げるのは、非人である。そもそも非人、とはなんぞや。これは難題で非人の定義によるのだ。過去の記事で述べた通り「河原者は非人の一種である」と捉える研究者もいるわけだから、本当はこのシリーズを先にやるべきであったかもしれない。 さて中世の記録を見ていくと「宿非人(しゅくひにん)」という言葉が出てくる。これは「宿」に住む「非人」ということである。では「宿」とは何か。これは中世において、非人たちが集住していた村のことを指す。 各地にあったこれら「宿」だが、近畿にあったものに関していえば、2つの系統に分けられる。まず大和・伊賀・南山城にあったもの。これらは…

  • 雑記・ブログ開設1周年~その③ 当ブログ記事の分析

    このブログを始めた理由は2つあります。 ひとつは小説を書いた際に、たくさん勉強したわけですが、その全てを小説の中では紹介できず、どこにも表現できなかったことにストレスを感じていたこと。要するに蓄えた知見を、小説以外で発表する場が欲しかったのです。 もうひとつは、小説を書いては見たものの誰も読んでくれなかった、ということ。当たり前ですが、素人の書いた時代小説なぞ、誰も手に取ってくれません。Kindleで発売してはみたものの、1冊も売れない日々が続きます。そこで宣伝を兼ねて日本史のブログを始めてみた、ということになります。 ブログを始めてみたことで、ちょっとだけ売れました――本当に、ちょっとだけで…

  • 雑記・ブログ開設1周年~その② 戦国期の市井の人々を描くのが難しい理由

    時代を遡れば遡るほど、人々の価値観や行動原理は現代とは異なってくるので、戦国期辺りより前の時代の人々を描くのは難しい――室町や鎌倉、平安期の市井の人々の姿を描いた小説は、ファンタジーを除くと殆どないのがその理由のひとつです。 そしてもうひとつ、実際に書いてみて悩んだのが、当時の人々の社会的な立ち位置の不確かさです。例えば江戸期を舞台にした小説なら、「主人公の武士が町中で、通りすがりの町人に話しかけるシーン」を描くのは難しくありません。これが戦国期だとどうなるか。 拙著の主人公、次郎は京近郊にある鳥羽の車借の家の生まれ、という設定です。車借とは、牛車を使って米などの物資を京まで運ぶ運送業者です。…

  • 雑記・ブログ開設1周年~その① 戦国期の人々と、我々現代人との違い

    早いもので、ブログを立ち上げてから1年経ちました。1年であげた記事は100を超えているから、3.5日に1回のペースで記事をUPしたことになります。 (質はともかくとして)内容的にはそれなりに重いものにも関わらず、このペースでUPできているのは、ネタの蓄積があったからです。ブログの説明にもある通り、趣味で時代小説を書いてkindleで出版しています。1巻は戦国時代の京を舞台とした印地打ちを主人公にした話で、2巻は舞台を紀州・根来寺に移し、寺内における武力闘争を描きました。 初めて書いた時代小説ですが、主人公のバックグラウンドや当時の生活様式、考え方や行動原理を描く際には時代背景を知る必要があるの…

  • 河原者と天部について~その⑪ 千本河原者の赤(しゃく)について

    これまでの記事で紹介したように、京における河原者の村で最大のものは「天部」であった。天部は四条河原にあり、その名の通り彼らは河原に住んでいたわけであるが、河原に住んでいない河原者もいた。例えば千本河原者、或いは野口河原者とも呼ばれた者たちである。(両者は別物である可能性もあるが、この記事では同じ河原者集団として扱う) 千本という地名は、広義の意味では船岡山の西から南の地域にあたる。この辺りは蓮台野と呼ばれる古くからの葬送地であった。野地秀俊氏の研究によると、「洛中洛外地図屏風」において描かれた「千本閻魔堂」の門前にあたる場所に、「野口ノ大藪」という但し書きのついた藪があり、その中に数軒の家屋の…

  • 河原者と天部について~その⑩ 首斬り又次郎について(下)

    さて、秀次一族の三条河原の処刑について調べていたところ、ネットで気になる画像を見つけた。秀次の一生を漫画化したものらしいのだが、下記がその画像である。 「秀次の生涯」というタイトルの学習漫画だろうか。2コマ目では雨まで降っている。当日は雨であったという記録があるのだろうか。これも確認できなかった。情報求む。ちなみに2コマ目に出てくる駒姫とは、東北の雄・最上義光の愛娘で伊達政宗の従妹にもあたる人物である。その美貌から15歳にして秀次から側室として求められ、故郷から遥々京へとやってきて最上屋敷で体を休めていたところ、秀次の自害騒動が発生する。実質的に嫁入り前であったにも関わらず、騒動の巻き添えにな…

  • 河原者と天部について~その⑨ 首斬り又次郎について(上)

    次に紹介するのは「天部又次郎」である。庭師の又四郎と違って、これは個人の名前ではない。とある役職に就く河原者が、継承していく名前なのである。またの名を「首斬り又次郎」という。 河原者の仕事のひとつに刑務業務がある。幕府に命じられ、罪人の捕縛や家屋の破却業務に携わるなど、刑の執行役を担っていたのだ。そして当時、河原は死刑執行場所でもあった。死刑方法には釜炒り・磔などいろいろあるが、首斬りもそのひとつだ。 一例をあげると、1481年4月26日に足利義尚邸に侵入した賊が2人、六条河原で首を斬られている。一条から六条河原まで罪人の移送業務を担当し、死刑を執行したのは、この天部又次郎らであったと思われる…

  • 河原者と天部について~その⑧ 山水河原者・庭師の又四郎について

    河原者はどうやって食っていたのか。過去の記事で触れたように、彼らの職域は実に多岐に渡るのだ。藍の染物の他、土木、屠殺、皮はぎ、清掃、刑の執行者など。 必ずしも専業ではなく、複数の業務を掛け持ちしていたようである。ただ職種によって――というよりも人によっては、専業化が進んでいたものもあったようだ。例えば「山水河原者」、つまり庭師の仕事に就いていた者の中でも、名人と呼ばれる者などがそれである。彼らはやんごとない場所で、やんごとない人々に接する機会が多かったので、穢れの度合いが多い仕事には従事していなかった可能性がある。これについては後の記事で述べる。 さて多くの河原者が住んでいた四条河原は、古くか…

  • 河原者と天部について~その⑦ 堤に守られていた天部と蓮池

    四条河原にあった天部であるが、正確に言うと天部と賀茂川は、堤によって仕切られていたようだ。古代末から中世にかけて、賀茂川の西岸沿いには段丘が形成されつつあった。氾濫から身を守るための堤が、時間をかけて築かれていったのだろう。 この堤は後年、秀吉の京都改造時に「御土居」として増改築されることになる。そこを加味すると、天部と河原の位置関係は下のイメージ図のようになる。 下坂守氏の論文「中世『四条河原』再考」を基に、著者が作成したイメージ図。当時の「河原」を現代の感覚でイメージしてはならない。川の幅そのものが現在よりも広かったのは勿論だが、河原も今よりも遥かに広大だったのである。場所によっても異なる…

  • 河原者と天部について~その⑥ 天部と「四条の青屋」について

    さて拙著に出てくる、天部である。てんぶ、或いはあまへ、とも読む。天分村、また余部とも余部屋敷ともいう。天部は河原者たちが住まう村であった。この時代、天部は四条河原にあった堤の内側にあった。(秀吉の京都改造で、のち三条の鴨川加茂川東岸に移転。) その成立はいつなのだろうか。鎌倉時代の絵巻物「天狗草紙」の中で、その存在が既に示唆されている。しかし、源流はもっと昔まで遡ることができるようだ。実は中世における天部の範囲は、860年に藤原良相が居宅のない一族の子女のために設置した「崇親院」の所領の範囲と、ほぼ重なっていることが~~氏の研究により分かっているのだ。その範囲は今で言うと、南北は四条通りと仏光…

  • 河原者と天部について~その⑤ 非人と河原者の違い

    職能としての中世賤民の発生は、平安後期10~11世紀辺りである。だが「畏れ」よりも「汚穢」という面が強まってくるのは、14世紀辺りからのようだ。その少し前から、「職能の専門化」から「専門業者化」への動きが始まっている。商工民たちの源流を遡ってみると、寺社の神人・寄人や、朝廷の供御人、或いは有力家門に属していた雑人などから発展しているパターンが多い。 当初は隷属する先へ貢納するため、生産物を集積・管理していたのが、次第に利潤を目的としたものへと変わっていく。最終的には「座」を形成し、富の蓄積に成功する者が出てくる――商人の誕生である。 富があるものは強い。彼らは必然的に「汚穢」から逃れ、社会的階…

  • 河原者と天部について~その④ 聖なる存在でもあった、河原者

    さてここまでは前段であって、今回からようやく本題に入る。 河原者や非人といった中世被差別民であるが、彼らを社会的にどう位置付けるか、という研究は昔から続けられてきた。ざっとであるが、研究史の変遷を辿ってみよう。 戦前から戦後にかけては、「被差別民は、元々は異民族であった」という論が主流であった。有名なものに在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)がいる。全国の被差別部落700余りを踏査し、「東北の蝦夷の一部が俘囚(ふしゅう)として畿内や西日本に移住させられ、賎民にされた」という説を唱えたのである。だがこれらの異民族説は、現在からみるとどれも研究水準は怪しいものであった。 50~60年代になって…

  • 河原者と天部について~その③ 「肉食は穢れ」の禁忌(タブー)は、どこから来たのか

    イザナギ・イザナミの黄泉平坂(よもつひらさか)の神話からも分かるように、神道における「死の穢れ」を強く忌む風習は、古くからあったものだ。古代日本においては「陵戸」という墓守を職とする人たちがいたが、律令制下においては彼らは賤民の一種とされていた。昔はこの「陵戸」こそが、中世につながる被差別民の原型である、という説が主流だったのだが、現在では概ね否定されているようだ。 神道にはこの「死の穢れ」とは別に、「肉を食べること」への禁忌もあったから、延喜式においては「肉食」も穢れと規定されている。しかし、これは比較的新しい考え方であった。 神道はとても古く、その起源はおそらく縄文時代の精霊信仰(アニミズ…

  • 河原者と天部について~その② 宮中を震撼させた「穢れ」大騒動

    平安末期の1143年、9月23日。おりしも疫病が発生し、みやこのそこら中に行き倒れた死体が放置されていたときのことである。 蔵人の高階業隆が、死体があった陽明門の前を通って宮中に参内した。死体を跨いだわけではなく、その近くを通っただけ(そもそも通らないと参内できない)なのだが、これが大問題となった。みかどの元に、「穢れ」を持ち込んだというのだ。 こういう時の為に「明法家」という、穢れについて造詣の深い専門家がいる。摂政・藤原忠通は明法家の意見を求め、「穢れが内裏に及んだ可能性は低い」という回答を得た。だがこの答えに納得できなかった忠通は――どうも彼はことを大ごとにしたかったらしい――数人の公卿…

  • 河原者と天部について~その① 平安末期に成立した「触穢思想」とは

    新シリーズである。拙著1巻の主人公・次郎は印地打ちであり、その師匠として「鹿丸」という印地の達人を出した。彼は山水河原者である。 「河原者」とは何か。端的に言うと、彼らは河原に住み、賤視されていた被差別民である。なぜ彼らは賤民視されていたのだろうか?これを理解するためには、そもそも中世の日本において賤民視される人たちが、どのようにして不当な地位に貶められていったのか、を見ていく必要がある。 なお、同じく被差別民であった「非人」であるが、中世においては、非人と河原者はどうやら別種のものとして認識されていたようである。非人についてはまた別シリーズで述べるが、ただ賤民視されていたのは同じで、その理由…

  • 戦国時代の京都について~その⑬ 天文法華の乱・その後の京

    この「天文法華の乱」を以てして「日本における宗教戦争のひとつ」と論じる人いるが、どうだろうか。宗教戦争の定義にもよるが、確かにそういう面もあるだろう。開戦に至った契機は、教義上の争いである「松本問答」なのだから。 だが教義上の違いが問題になったというよりも、叡山にとっては論争に負けて面子を潰された、という体面の問題の方が大きかったように思われる。この時代、体面を潰されて黙っていることは、己の権益を保証している社会的な地位が下がることに直結したから、叡山としては絶対に見過ごすことのできない大問題だったのである。 また京という強大な権益を生み出す都を、日蓮宗の手から取り戻したい、という思惑もあった…

  • 戦国時代の京都について~その⑪ 天文法華の乱・京都炎上

    そして運命の日、1536年7月23日。その夜、みやこの人々は東にある叡山を遠望し、恐怖におののいたことだろう。山中に無数の篝火が焚かれ、蠢いている。そしてその火は、列となって一斉に山を下りてくるではないか。みやこを襲わんと、松明を手に下山する叡山の大軍勢である。 追い詰められた法華宗徒たちも、総力を結集する。何とかかき集めた軍勢は2万ほど。みやこの東側に陣を構え、山法師らを迎え討つ構えを見せた。翌24日から、御霊口辺りで小競り合いが始まる。この時に攻めてきたのは、主に叡山の僧兵どもだったようだ。25日にも東河原において合戦があり、京勢がよく防いだことが記録に残っている。 法華宗徒も必死なのだ。…

  • 戦国時代の京都について~その⑪ 天文法華の乱・比叡山延暦寺、兵を挙げる

    山科本願寺を壊滅させ、京のご政道を我が物とした京の町衆たち。これが実現したのが1532年のことである。ここから約2年間は町衆、というか法華宗徒たちの我が世の春が始まる。先の記事で見た通り、「衆会の衆」たちによる「洛中洛外のご政道」が行われるのだ。これは前代未聞の出来事であった。 これを苦々しい思いで見ていた者たちがいる。比叡山延暦寺である。 開山当初から霊的な意味で京を守ってきた彼らは、その地にまた絶大な権益をも有していた。元々、京にあった有力な土倉・要するに銭貸しは、軒並み叡山が経営するものであった。だが室町時代も後期に入ると、足利幕府による統制の影響もあって、山門による銭貸し業は大打撃を受…

  • 戦国時代の京都について~その⑩ 天文法華の乱・宗教的な自治組織「衆会(しゅうえ)の衆」

    洛中洛外における検断権、地子銭などの納税拒否、そして遂には京周辺の村落の代官請の要求など、未だかつてないほど高まった、町衆らによる京の自治権。だが注意しておきたいのは、日蓮宗(法華宗)を核としたこの「衆会の衆」を、地縁を元とした「京の町衆」とを同一視してよいのか、という問題である。 過去の記事で、共同体の例として、①「宗教」②「座」③「村落共同体」などがあると述べたが、こうした共同体は必ずしも単独の要素のみで存在するわけではない。複数の要素が錯綜して、入り組んだ関係となっているのが殆どである。 例えば商業都市である堺は、①は主に「日蓮宗」、②の商業的組織である「会合衆」と、③の村落共同体組織で…

  • 戦国時代の京都について~その⑨ 天文法華の乱・京の検断権を握った京人たち

    1年余り続いた、一向一揆との苦しい戦い。しかし1533年6月、一向一揆との和議が成り、ようやく京に平和が訪れた。将軍・足利義晴と新管領・細川晴元は、更にそれから1年たった1534年6月になって、ようやく入洛を果たしている。将軍・義晴は南禅寺を仮御所として政務を見たようだが、晴元は京には住まず、近くにある摂津芥川城へ入ったようだ。 いまだ戦いをやめない、一部の本願寺抗戦派と対峙する必要があったのも確かだ。だがそれよりも、機を見るに敏な晴元は、在京することで生じるであろう、法華宗徒たちとの政治的対決を避けた節がある。幕府による京の支配は、今までのようにはいかなかったのである。 一向一揆は実に手強か…

  • 戦国時代の京都について~その⑧ 天文法華の乱・一向一揆との死闘

    本願寺・第10世宗主である証如はこの時17歳で、教団の実権はその祖父であり後見人でもあった、蓮淳が握っていた。細川晴元と組んで、一揆の蜂起を決定したのもこの蓮淳であったが、今や暴走する一揆をなんとか制御下に置こうと、悪戦苦闘する始末。しかし一向一揆の暴走は収まらない。 一方、新たに幕府を統べる立場となった晴元にしてみれば、そもそも自分が蒔いたタネがこうした事態を引き起こしたわけで、一刻も早く事態を収拾する必要があった。 細川晴元は一向一揆を見限り、その殲滅を目論むことにする。その動きを知った蓮淳は激怒、一揆を鎮める方向から180度方針転換する。8月2日、今やはっきりと敵に回った晴元の本拠地であ…

  • 戦国時代の京都について~その⑦ 天正法華の乱 畿内を暴れまくった一向一揆

    先の記事で触れた通り、京の自治権がピークに達したのは、1530年代である。この頃何があったかというと、畿内においては一向宗が暴れまわっていた。なぜ一向一揆が暴れまわっていたかというと、幕府の混迷のせいなのである。 応仁の乱以降、幕府は弱体化し、将軍位の座は不安定なものとなっていた。更に1507年に発生した「永正の錯乱」による、管領・細川政元の死により、細川家まで分裂してしまう。この辺りの経緯は実に複雑怪奇であって、詳しく記すときりがないので端折ってしまうが、1530年の時点では、まず将軍位は足利義晴のものとなっていた。義晴のバックには管領・細川高国、そして近江守護の六角定頼らがいた。 これに対…

  • 戦国時代の京都について~その⑥ 町組はどのような組織で、どう機能していたのか?

    このように外敵には結束して、事に当たった町衆だが、町や町組同士でも争うことがあったようだ。時期は違うがやはり同じ日記に、二条室町と押小路三条坊門との間で、何百人もが参加した合戦に近い大喧嘩があり、双方100人ほどの怪我人が出たことが記されている。 そこで上京・下京を囲む総構とは別に、町組ごとに「町の囲い(ちょうのかこい)」があった。この囲いを出入りするには、釘貫門と呼ばれる木戸門を通らなければならない。つまりは総構の中にも、幾つもの土塀と門があった、ということになる。 上杉本「洛中洛外図」より。過去の記事でも紹介した「町の囲い」。上下京内にあったと思われるこの囲いであるが、どこからどこまで囲っ…

  • 戦国時代の京都について~その⑤ 京の自治組織・町組 vs 三好の足軽

    戦国期における京の、最も基本的な共同体の単位は「町(ちょう)」である。これは「同じ街筋の人々」からなる組織なのだが、構成が独特なのだ。「街路を挟んだ向かい側」に住む人々と、結成した共同体なのである。 京は他の町と違って、方形に区切られた区画を持っていた。これは平安京の名残なのであるが、面白いのは「町」はこの「区画ごと」に整理された共同体ではないのである。あくまでも「通りに面した向かい側」ごとに、共同体が組織されていたのだ。生活動線である通りこそが重要で、それが共同体の軸になっていることがわかる。 戦国期の京の、町(ちょう)ごとのイメージ図。単色が、それぞれが属していた町を表す。上記の図では、1…

  • 戦国時代の京都について~その④ 巨大な「環濠集落」、堺そして京

    そもそも堺は、遣明船貿易の拠点として細川氏が支配していた町であった。16世紀半ばには細川氏が没落し、三好氏がその後を取って代わる。だから堺には、三好氏の代官も滞在していたのである。だが、細川氏のように堺を直轄的な支配下におくことはしなかった――できなかった、というべきか。 イエズス会の報告には「この町では、敵対する勢力の者同士が、たまたま町中で出会ったとしても、互いに殺し合うことはしない」とある。戦国大名らの介入を許さなかった、この強力な自治権はどのようにして成立したのであろうか。 堺は「南荘」と「北荘」の、2つの自治組織から成り立っていたことが分かっている。そしてその上位に位置する機関として…

  • 戦国時代の京都について~その③ 「自力救済」から生まれた「環濠集落」

    古代から中世にかけてのトレンドは、中央集権から地方分権へ、というものだ。絶対的な権力者がいない、ということは逆に言えば、力のある者が自分の好き勝手にできる、ということでもある。事実、中世は「自力救済」、つまり「自分の身は、自分で守る」というのが基本ルールであった。 例えば「検非違使」は、平安期に京に置かれた治安維持のための組織だが、これは中世には既に存在しない、もしくは機能しなくなっている。代わりに京において軍事的な存在感を増したのが、「六波羅探題」である。ではこの六波羅探題が京の治安維持機能を担っていたかというと、そんなことはないのである。 彼らはあくまでも幕府から派遣された、「朝廷に対する…

  • 戦国時代の京都について~その② 総構で守られた城塞都市

    戦国期に入ると、京都はどう変わったのだろうか。 戦国の京は、時期によって大きく姿を変えている。「応仁の乱」以前と以後とでも大きく変わるのだが、一番変わったのは、戦国末期の1591年に秀吉が10万人を動員して行ったといわれている、京の大改造だ。 京の都は、秀吉の居城「聚楽第」を中心に再編成が行われる。殆どの寺院群は「寺町」ないし「寺の内」へと強制移転され、都市そのものは「御土居」と呼ばれる土塁と堀で囲まれたのである。聚楽第を中心とした、ひとつの城塞都市に生まれ変わったのだ。御土居はその後、京の拡大によって消えてしまうのだが、現代に通じる京の原型が整備されたのがこの時である。 さて拙著の1巻「京の…

  • 戦国時代の京都について~その① 都市計画に基づいて設計されたが、その通りには発展しなかった平安京

    新シリーズである――実はブログを開設した時からこの記事は用意していたのだが、根来衆関連のシリーズがひと段落ついたので、ようやく紹介できる運びとなった。「京の印地打ち」という小説を書く際に、戦国時代の京について色々調べたのだが、このシリーズではその際に得た知識を紹介してみようと思う。 まずは京の成り立ちについて。 平安期――桓武天皇の御代に、長岡京に代わる新しい都として「平安京」の建設が始まった。794年のことである。きちんとした都市計画に基づいて設計された都市で、モデルはお隣中国にあった大国、唐の首都・長安である。これを模して造られたまではよかったのだが、当時の日本の国力には大きすぎた。長安の…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑫ 織田家の場合・信長の革新性とその中央集権度

    シリーズの最後を飾るのは、みんな大好き織田信長である。彼の革新性については古くから定評があるのだが、最近ではそれを否定する方向で研究が進んでいるようだ。確かにこれまでの信長像は、「中世の破壊者」だとか「革命的な天才児」だとか、些か持ち上げすぎであった感は否めない。 最近の研究ではっきりと否定されているのは、まずは「楽市楽座の発明」。信長もやったのは間違いないが、既にその18年前の1549年に六角氏が「石寺新市」に対して楽市楽座令を出している。同じ文脈で語られるのが「座の否定」。これもかつて有名であったが、そこまで座を否定していなかったことも明らかになっている。実際、日本一の商業都市であった京で…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑪ 北条家の場合・「内政マニア」北条家

    さてこの記事では、北条家のまとめとして、その「家風」を見てみよう。 初代・宗瑞から三代目の氏康治世の前半までは、北条家は関東においては新興勢力であったから、やむなく博打を打つこともあった。例えば二代・氏綱の時の「国府台合戦」や、三代・氏康の時の「川越夜戦」(実際には夜戦ではなかったので、「砂窪合戦」と呼ぶ人もいる)がそうである。強大な敵に対し思い切った決断をし、大規模な会戦に勝利した結果、その勢力を大きく伸ばしている。 だが代が進み統治が安定してきた頃になると、北条氏には「王者の風格」が出てくる。大きな会戦を挑むような博打を打たなくなり、基本的には「大軍でもって少数の敵に当たる」という、真っ当…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑩ 北条家の場合・その堅実かつ緻密な領域支配

    さて氏綱であるが、彼は有名な「虎の印判状」を制定している。この虎の印判状がなければ、郡代・代官は支配下の郷村に公事・夫役の徴発などの命令を下すことができなかった。これまで一任されていたこうした行為が、以後は伊勢氏の同意なしには、勝手にできなくなったことを意味する。つまりローカル勢力は、中間搾取の入り口を閉ざされてしまったのだ。 次の氏康の代になってから、こうした動きは更に進む。領国内の郷村に対してこれまで地元勢力から取られていた雑多な公事(諸点役)を廃止する代わりに、北条家に貫高の6%を納めさせるという制度を導入しているのだ。また郷村がローカル勢力に不当な行為を受けた場合、その訴えを受け付ける…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑨ 北条家の場合・「他国の凶徒」ルサンチマンからの脱却

    伊勢宗瑞こと、北条早雲の国盗り物語があまりに面白くて、当初の予定よりも記事が長くなってしまった。著者の悪い癖である。このままだと北条家の歴史を追うだけで10記事くらいになってしまうので、細かいところは飛ばしてどんどん話を進めていきたいと思う。 さて・・・遂に扇谷上杉氏を敵に回した伊勢宗瑞。これは北条家のみならず、その後の関東の歴史の方向性を決めてしまうほど、大きな決断であった。以降、北条家は東進し、関東を制覇せんとする道を歩むのである。 だが扇谷上杉氏を敵に回すにあたって、問題がひとつあった。過去の記事で述べたように、関東において地縁も人縁もなかった宗瑞は、坂東武者たちにしてみれば「京から来た…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑧ 北条家の場合・京から来た「他国の凶徒」伊勢新九郎盛時(中)

    堀越公方の座を簒奪した茶々丸だが、彼はクーデターと同時に元服し、実名を名乗ったものと思われている。残念ながらその名が伝わっていないので、後世の人間からは常に幼名で記されてしまう運命にある茶々丸だが、関東管領・山内上杉氏と連携する道を取る。伊豆はかつて山内上杉氏の守護分国であった関係上、同家と所縁の深い国人らが多かったのだ。対する新九郎は扇谷上杉氏と連携する。そして新九郎の伊豆侵攻をきっかけに、小康状態であった両上杉氏の抗争も再燃するのである。 伊豆に侵攻するには、新九郎の手勢だけではとても足らないので、今川氏から兵を借りている。葛山氏を中心とする兵だったようだ(新九郎は後に、この葛山備中守の娘…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑦ 北条家の場合・京から来た「他国の凶徒」伊勢新九郎盛時(上)

    京から遠く広大な関東地方は、室町幕府より「鎌倉公方・足利家」、そしてそれを補佐する「関東管領・上杉家」によって統治を委任されていた。そういう意味では関東は「ミニ畿内」であったといえる。 しかし「応仁の乱」に先駆けて、1455年に関東では「享徳の乱」が発生、これを機に戦国時代に突入する。鎌倉公方は古河公方と堀越公方に分裂し、関東管領であった山内上杉氏は、分家の扇谷上杉氏と争い始め、更に内部で反乱が起きて合従連衡を繰り返す、という大混乱状態となる。(「応仁の乱」の訳の分からなさも大概だが、関東におけるこの「享徳の乱」も、相当なグダグダぶりである。)そんな魑魅魍魎渦巻く関東の地にやってきたのが、伊勢…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑥ 毛利氏の場合(下)・その緩やかな支配構造

    ローカルな独立勢力である、いわゆる「国衆」たち。その国にある守護や守護代などの強大な存在、もしくは国衆の中から一頭抜きんでた存在などが他を圧しはじめると、その大名の本拠地周辺の国衆たちは、次第にその大名の譜代家臣化してくる。 毛利氏でいうと、国司氏、児玉氏などがそうであり、早くから譜代化している。だが吉田荘周辺はともかく、安芸国内であっても少し離れた場所にいる国衆たちは、1557年時点においても、まだ譜代化していなかったのは、前記事で説明した通り。そういう意味では、1565年に出雲に攻め入れられた際に、多くの国衆に裏切られた尼子義久と「中央集権度」という点では、大きな差はなかったといえる。では…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑤ 毛利氏の場合(上)・国人から戦国大名へ 一代で成りあがった男

    滅ぶときは、あっけなかった尼子氏。ではその尼子氏を滅ぼした、毛利氏の組織はどのような体制だったのだろうか。 いち国人から、一代で成りあがった下剋上の典型ともいえる毛利元就。そういう意味では、因習やしがらみといったものに一切縛られなかった彼は自由に行動でき、その類い稀なるカリスマ性も相まって、己の元に絶大な権力を集めることに成功したのであった――と言いたいところであるが、そんなことは全くなかったのである。 安芸の国の特質として、国人衆らの一揆的結合が強かったことが挙げられる。これは遡ること1404年、安芸守護に補任された山名満氏が安芸の国衆に対して、自領根拠となる文書の提出を命じた騒動に端を発す…

  • 日本中世の構造~その④ 尼子氏の場合(下)・構造改革に悪戦苦闘する大名たち

    中央集権化を進めた尼子晴久。彼の改革はある程度は進んだのだが、戦国大名としての尼子家は、次の義久の代に一度滅んでしまうのだ。尼子家が滅んだ原因はどこにあったのだろうか? まず晴久がそこまで長生きできなかったのが、大きかった。晴久は1561年12月、47歳の時に急死してしまうのだ。次の当主・義久は祖父や父に比べると――いや比べなくても、遥かに凡庸な男であった。そして前記事の最後に示唆したように、隣には飛ぶ鳥を落とす勢いの毛利元就がいたのだ。代替わりの際の隙に乗じ、元就がすかさず動く。 元就は以前より、石見銀山を喉から手が出るほど欲していたのだが、晴久在命時には何度攻勢をかけても、これを奪うことは…

  • 日本中世の構造~その③ 構造改革に悪戦苦闘する大名たち・尼子氏の場合

    前記事で紹介したように、「加地子得分」を代表とする錯綜した権利関係を元に構成された、これまた錯綜した「リゾーム構造」を持つ日本の中世社会。こうした社会の中から、富と武力の蓄積に成功し、権力を持つ者が各地で台頭してくる。後に戦国大名となる者たちである。 土着の開発領主などでいうと、国人層がそれである。彼らはローカル色の強い地頭職などから力をつけてきた在郷武士で、その代表的な例に安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏などがある。また在京していた不在地主である守護から、その地の経営を任されていた守護代なども力を持つようになる。尾張織田氏、出雲尼子氏などがそうである。守護からそのまま、戦国大名に華麗なる転身を…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~番外編その② 中世社会のリゾーム構造を支えた「加地子得分」とは

    日本中世特有のリゾーム構造。では何故、日本の中世はこんなにも複雑な社会構造になってしまったのだろうか。それはこれまでの中央集権的な古代日本の国家体制が、地方分権的なものへと体質を変えていったから、ということになる。 ではなぜ、こうした体質になってしまったのだろうか?これには複合的な理由があり、歴史学者たちが昔から喧々諤々論じている問題でもある。筆者レベルの学識ではとても追いきれないので、ここでは深くは立ち入らないことにするが、ただひとつだけ、リゾーム構造を象徴する例として「加地子得分」を紹介してみようと思う。 加地子得分とは何か。実は過去の記事で、この言葉は散発的に出てきてはいる。 中世以前の…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~番外編その① 中世的リゾーム構造 vs 近世的ツリー構造

    なぜ根来寺は秀吉に負けたのだろうか?何とかして、体制を維持したまま生き延びる道はなかったのだろうか?このシリーズ番外編では、日本中世社会が持つ、独特の社会構造について考察してみたいと思う。 まず根来寺滅亡について、学侶僧らはどう考えていたのだろうか?根来寺に日誉という学侶僧がいた。20歳戦後で根来寺に入り、そこで修行を積んでいる。根来滅亡直前に高野山に避難し、命永らえた後は京都の智積院に行き、最終的には能化三世となった傑物である。中世根来寺滅亡後、新義真言宗の中興の祖とも称えられた、極めて学識のある人物であった。 彼は晩年に「根来破滅因縁」という書物を記している。その書物の中で彼は、根来寺の破…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑧ 紀州征伐後、それぞれのその後

    根来寺は炎に焼き尽くされた。太田城も陥落し、雑賀惣国も滅亡した。 根来寺の近くには粉河寺がある。根来ほど規模は大きくなかったが、同じように武装した僧兵たちによって運営されていた寺社勢力のひとつであった。この粉河寺も、根来寺が炎上したのとほぼ同じタイミングで秀吉に侵略され、同じように炎上している。 真言の総本山である高野山はどうなったか?根来寺と粉河寺が炎上したのが3月23日。高野山へ秀吉の使者が来たのが4月10日のことであった。「降伏しなければ、両寺と同じように焼き尽くす」という脅しに抵抗できるわけもなく、秀吉お気に入りの僧侶、木食応其を間に立て高野山は降伏した。 こうしてルイス・フロイスが記…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑦ 太田城陥落と中世の終わり

    1585年4月5日前後に堤防が完成、早速紀ノ川の支流・宮井川(大門川上流をこう呼ぶ)の水を引き入れ始める。秀吉側にとって都合のいいことに、堤完成後にちょうど雨が降り始めたこともあって、あっという間に一面の満水となったらしい。その様は大海に浮かぶ小舟のようであった、とある。別の記録には、堤防の内側にあった民家には浮いて水面を漂うものもあった、とある。 前記事でも触れたが、太田城の東側には南北に走る「横堤」という堤防があった。太田側の記録である「根来焼討太田責細記」には「この横堤は秀吉側の水攻めに備えて築いたもの」という旨の記述があるが、囲まれている最中に外に出て工事などできるわけもなく、やはり以…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑥ 太田城水攻め堤防

    さてこの太田城だが、現在の和歌山駅のすぐ西側にあった。城内と推定される場所からは、日用品として使われた土器などが出土しており、生活の場であったと考えられている。古くからある環濠集落から、城に発展した城市だったのだろう。瓦なども出土していることから、城内には寺院なども建っていたと思われる。フロイスの報告にも「この城郭は、まるでひとつの町のようであり~云々」という、それを裏付ける記述がある。 宮郷に秀吉軍が入ってきたのが3月23日で、前記事の戦闘が行われたのが25日あたりのようだ。戦闘の後、この太田城に対して秀吉は水攻めを行うことを決定するのだが、築堤作業開始が3月28日以降であると推定されている…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑤ 自壊する惣国

    根来寺を侵略した同じ日、1585年3月23日には秀吉軍の先手が雑賀にも入っている。翌24日には、秀吉本隊も紀ノ川の右岸を進んで、土橋氏の本拠地である雑賀庄の粟村を占領した。居館を守るべき雑賀の者たちは、前日の夜にことごとく逃げ去ってしまって、何の抵抗もなかったらしい。 実は秀吉軍の侵攻直前に、雑賀衆の間で深刻な内部抗争が起きていたのである。前日の22日に「雑賀の岡の衆が湊衆に鉄砲を撃ちかけ攻めた」という旨の記述が宇野主水の「貝塚御座所日記」にある。日記には続けて「雑賀も内輪散々に成りて、自滅之由風聞あり」とある。どうやら岡の衆は、以前より秀吉側にある程度内通していたらしく、前線崩壊の報を聞いて…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その④ 根来炎上

    近木川防衛ラインを、あっけなく突破されてしまった紀泉連合。そのまま軍を南に進めた秀吉軍は、23日には山を超えて根来寺に入った。おそらく風吹峠と桃坂峠、2つの峠を同時に越えて北から境内に侵入したのだろう。 この秀吉による根来寺侵攻の詳細を、隣の雑賀太田党の目線から記した、「根来焼討太田責細記」という記録がある。江戸前期に書かれたもので、これには秀吉軍と根来行人らによる、根来寺を舞台とした激しい戦いの記録が記されている。少し長くなるが、要旨を見てみよう―― 秀吉軍に対するは、泉識坊をはじめ、雲海坊・範如坊・蓮達坊、そして杉乃坊といった面々。これら荒法師ら総勢500騎を率いるは、津田監物こと杉乃坊算…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡 その③ 紀泉連合の敗北と、防衛ラインの崩壊

    千石堀城攻めとほぼ同じタイミング、もしくはそれよりやや早く、近木川ライン中央に位置する積繕寺城(しゃくぜんじじょう)も秀吉軍の攻撃にさらされている。籠城兵力はよく分かっていないが、戦略上最も重要なこの城に兵力を集中させたのは間違いないところだ。紀泉連合は近木川ラインの諸城塞に1万ほどの兵力を分散配置していたようだが、その半分近くはこの城に籠城していたのではないだろうか。この積善寺城に籠っていたのは、根来衆であった。 岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」に著者が加筆したもの。原図を90度、回転させてある。江戸後期に描かれた図なので、どこまで正確なのかは不明。積善寺城は近木川防衛ラインの中央に位置…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その② 千石堀城攻防戦

    堺を通過して、和泉国を南下する秀吉軍。岸和田城まで来たら、近木川防衛ラインはすぐ目と鼻の先だ。軍の主力は21日の15時頃には岸和田城に到着、16時には千石堀城の目前まで迫っている。 秀吉軍は到着するや否や、千石堀城にいきなり攻めかかった。攻め手は(諸説あるが)筒井順啓・堀秀政・長谷川秀一の軍勢が主だったようである。総指揮官は羽柴秀次。1万5000人ほどの軍勢だったようだ。対する千石堀城を守るは、根来衆のうち愛染院と福永院を主力とした1500人。守将は大谷左大仁と伝えられている。 岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」より千石堀城を回転拡大。右に流れているのが近木川である。南北2キロほどの丘の先端…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡 その① 近木川防衛ライン

    ※このシリーズでは「秀吉の紀州侵攻」、そして「中世根来寺の滅亡」を取り上げる。ここに至るまでの経緯は、下記リンク先「根来と雑賀」シリーズを参照のこと。 根来と雑賀 カテゴリーの記事一覧 - 根来戦記の世界 (hatenablog.com) 諸般の事情で延び延びになっていた、紀州征伐。だが秀吉は、1585年に遂に紀州に対する本格的な侵攻を決意する。これまで有利に進んでいた小牧の役で家康側と停戦してまで、紀州を攻めることを決めたのだ。 この戦役が始まる直前、85年3月上旬に秀吉側の使者として、高野山の客僧である木食応其(もくじきおうご)が根来寺に遣わされている。戦いの前に、一応は和平の条件を提示し…

  • 根来と雑賀~その⑦ 紀泉連合軍の大阪侵攻 岸和田合戦と小牧の役

    85年3月、信雄の秀吉派三家老粛清を機に、羽柴と織田&徳川の両陣営は臨戦態勢に入った。領地の大きさでは秀吉に比するべくもない織田&徳川は、紀泉連合との連携を試みる。 話は飛ぶが根来滅亡後、生き残った根来衆の一部は「根来組」として家康に召し抱えられることになる。そんな根来組が、自らの出自由来を記した「根来惣由緒書」という書物がある。書かれたのは江戸期も後半に入ってからの1811年なのであるが、この「由緒書」によると「小牧の役」の際、「秀吉より味方するよう使いが来たが返答せず、権現様(家康)からの使者(井上正就)より御書を下され、一山を頼られる思召しにつき、御請け致し、西国より攻め上がる秀吉の味方…

  • 根来と雑賀~その⑦ 土橋一族の逆襲、そして根来・雑賀連合結成へ

    本能寺にて信長、横死す――この報せは、あっと言う間に雑賀に伝わった。 先の政変で壊滅的な打撃を受けていた土橋派は、しかし未だ強い勢力を保持していたようで、この報せを受け即座に決起する。まず4か月前のクーデターで、土橋若太夫を裏切った土橋兵太夫・土橋子左衛門の両名を襲い、兵太夫を殺害する(小左衛門は逃亡)。 また信長派の頭目・雑賀孫一を誅殺すべく館に押しかけたが、流石は孫一、戦場で鍛えられた進退の勘所を遺憾なく発揮したようで、館は既にもぬけの殻だった。彼はいち早く織田方の勢力圏内であった、和泉国・岸和田城へと逃げ込んだのであった。 月岡芳年作「太魁題百撰相 謎解き浮世絵叢書」より。「銃弾に貫かれ…

  • 根来と雑賀~その⑥ 根来vs雑賀 ラウンド3 雑賀の内戦に参加した泉識坊快厳

    先の信長の雑賀攻めにて、侵入者を惣国内に引き入れた宮郷・中郷・南郷の三組。ところが思惑と異なり、信長は大した戦果のないまま兵を引き上げてしまう。梯子を外されてしまった格好のこの三組に対して、十ケ郷・雑賀庄の二組が巻き返しを狙う。 1557年3月、信長の「雑賀攻め」直後における根来・雑賀内の勢力イメージ図。青色が信長派、赤色が反信長派を表す(反信長派の構成員のうち、多数が本願寺門徒ではあったが、全てではないことに注意)。宮郷・南郷・中郷は全体としては信長派である。特に中郷には威徳院を有する湯橋家があり、またすぐ隣の小倉荘は杉乃坊の本拠地であったために、根来の影響が強かった。そんな中郷からですら、…

  • 根来と雑賀~その⑤ 根来vs雑賀 ラウンド2 信長による雑賀侵攻と、その先導に務めた杉乃坊(下)

    山手から攻め寄せる織田軍3万は、佐久間・羽柴・堀・荒木・別所らの諸軍で構成されていた。その先頭に立つのは杉乃坊、そして雑賀三郷の者どもだ。 この山手勢は雄ノ山峠を越え、田井ノ瀬で紀ノ川を渡河し、焼き討ちと略奪を重ねながら、2月24日頃には小雑賀川(和歌川)まで到達したようだ。この川を越えれば雑賀庄である。しかし雑賀衆はこの川沿いに複数の砦を築き、最終防衛ラインを敷いて待ち構えていた。 前記事の地図と同じものを再掲。江戸後期に編纂された地誌である「紀伊続風土記」には、紀州藩内の寺伝が幾つも収集されている。それらを分析すると、織田軍の進撃路から離れたところにある寺社が、数多く焼けているのが分かる。…

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 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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