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0歳から104歳まで、さまざまな人生の送り方を近くでみてきました。 その貴重な体験を綴って行きます。

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2022/06/12

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  • ゆうこさんのお話14

    家に1人でいるより、施設にいたほうが私らしく生活することができました。もちろん、食べ物や行動には制限があります。でも、人と話すことができて、1日のうちにやるべきことがあって、他者との交流があって・・家にいたころはそのすべてが私にはありません

  • ゆうこさんのお話13

    腰の骨を折り、しばらく入院することになりました。入院中もベッドから抜け出したり、点滴を勝手に抜いてしまたったりとたくさん看護師さんたちを困らせたようです。その間に足が弱り、歩けなくなってしまいました。退院後は自宅に帰れると思っていました。し

  • ゆうこさんのお話12

    外に出ると自分の家がわからなくなり、パトカーに乗せられて帰宅したことがあります。それを機に、散歩に出かけることも禁止されました。でも、1日経てば禁止されていたことを忘れ、散歩に出かけたり、家事をやろうとして失敗したり。息子夫婦はそんな私に疲

  • ゆうこさんのお話11

    どうやら私は認知症になってしまったようです。薬を飲み始めましたが、それを忘れることも多々ありました。日増しにできることが減り、1人では生活できなくなっていました。毎日お嫁さんがうちにご飯を運んでくれるようになりました。せめて食べたものを片付

  • ゆうこさんのお話10

    家族に日付や曜日、食事をとったかを聞いただけなのに変な顔をされるようになりました。洋服の着方がわからなくなり、手伝ってもらうことが多くなりました。料理を作っても、美味しくなくて、すごく塩っ辛くなったりして味噌汁の作り方がわからなくなり、何度

  • ゆうこさんのお話9

    それからも、私は1人で家事をやり暮らしていました。時折息子やお嫁さんが買い物や食事に連れて行ってくれるので、とても助かっていました。そんなある日、息子と買い物に出かけた帰り、息子が車の後ろのハッチを閉める時、私にぶつかり転んでしまいました。

  • ゆうこさんのお話8

    趣味のお茶や琴の練習を習いにいったり、パン作り教室にも通ったことがあります。孫が小学生になる頃、長男が会社を継ぐために戻ってきました。敷地内同居を始めましたが、お嫁さんも良い子で、何の気苦労もなく過ごすことができました。息子に会社をゆずり、

  • ゆうこさんのお話7

    戦後の高度経済成長もあり、夫の会社の経営もうまくいっていました。子供達も大きくなり、それぞれ大学に通う為下宿するようになります。たくさん持っていた畑も、会社の工場を建てることになり、畑仕事もやらなくなりました。会社の経理・事務を行い、家に帰

  • ゆうこさんのお話6

    子供が小学生になる頃、お舅さんが亡くなり夫が後を継ぎました。今までお姑さんがやっていた事務や経理などを私がやるようになりました。畑仕事に加えて、そろばんを弾いて書類を作るようになります。夫の兄妹も結婚し、家を出ていたので家事はだいぶ楽になり

  • ゆうこさんのお話5

    本当に毎日辛くて、何度も家に帰りたいと思い、泣いたこともあります。離婚して、実家に帰るのは今ほど簡単ではなく、帰省するのもお盆と正月のみです。一度家から出た手前、帰ることは許されません。今の人は、自由でいいなと思います。その時代によって、苦

  • ゆうこさんのお話4

    私が18歳になるころ、嫁ぐことになります。父の同僚の知り合いで、工場を経営している方の息子さんです。結婚式の日が、その方と初めて会う日でした。恥かしさと、緊張と、少し怖かったのを覚えています。その日の夜も、緊張と恐怖で眠れませんでした。でも

  • ゆうこさんのお話3

    思い出したのですが、近所にご主人が戦死し、1人で住んでいるおばさんがいました。私はその庭先にいるニワトリと遊ぶのが好きで、よく通っていました。そこに、時折男の人がふらっときて、おばさんの家に入っていくのです。時間がたつと、男の人が出てくる。

  • ゆうこさんのお話2

    兄がお嫁さんをもらい、うちで一緒に住むことになりました。お姉さんが増えたようで、とても喜びました。その後姉も、父が決めた人と結婚します。姉は広島に嫁ぎました。嫁いで数年後、広島に原爆が落とされました。姉の家は中心地から離れていたため、無事で

  • ゆうこさんのお話1

    私は、九州で生まれました。父と母、10歳上の兄、4歳上の姉、私の三兄弟です。本当は兄の上や下にも兄妹がいたらしいのですが、病気で1歳になる前に亡くなったと聞いています。当時、日本は戦争中でした。物もなければ、いつ家に焼夷弾が落ちてきてもおか

  • えいじさんのお話15

    境遇がよく似ていた俺たちは、毎朝一緒にコーヒーを飲むようになった。一緒にテレビを見たり、新聞を見て意見を言ったり。友達でもない、恋人でもない、夫婦でもない、不思議な関係だった。彼女と過ごすのはとても心地よくて、温かい気持ちになった。気持ちを

  • えいじさんのお話14

    施設では何不自由なく過ごせている。毎朝さきこの写真をみて、挨拶をして、昼はテレビを見たり体操をしたり。息子たちも面会に来てくれる。ただ、さきこがいないと、寂しい。何でもない話を、季節の移り変わりを、子供や孫の成長を、一緒に分かち合える人がい

  • えいじさんのお話13

    きこがいなくなって、俺の体はどんどん弱くなっていった。今までは、さきこが一緒に散歩に連れて行ってくれた。さきこがいなくなってからは、家から出ることが無くなり、体力がどんどん落ちていった。さきこの葬儀から2ヶ月ほど経った日、風呂場で足が滑り転

  • えいじさんのお話12

    病名を告げられてから、さきこはみるみる痩せていった。食事がとれなくなり、ベッドで横になっていることが多くなった。1人ではお見舞いに行けないので、息子たちが行く時に連れていってもらった。あんなにも元気で、明るくて、強かったさきこが、どんどん弱

  • えいじさんのお話11

    精密検査を受けて、また家族が病院に呼ばれた。部屋に入って先生の顔を見た瞬間、よくない話だとすぐにわかった。さきこも同席した。進行が速い膵臓がん。もってあと数ヶ月の命だと告げられた。こういう時に、さきこを抱きしめてあげたり、肩を抱きよせてさき

  • えいじさんのお話10

    腰のレントゲンやCTを撮ってすぐ、家族が病院に呼ばれた。お腹に腫瘍があり、かなり大きい。今から精密検査をするから、しばらく入院期間が伸びると言われた。股関節の痛みを和らげるために、強い痛み止めを飲んでいたため背中や内臓の痛みは気がつかなかっ

  • えいじさんのお話9

    診断結果は同じ、変形性股関節症。手術をして金属の関節をいれることを勧められた。さきこは、孫が成人するまでは元気でいたいと昔から行っていた。そのために、手術を受けるという。全身麻酔で、何時間もかかるものらしいが、さきこは怖がったりせず、これで

  • えいじさんのお話8

    そのうちに、さきこは杖を使わなければ歩く事ができなくなった。痛みでうまく足に体重がかけられず、引きずる上半身が左右に揺れて足を引きずるようになった。リハビリを続けても、湿布をしても、ストレッチや筋トレをしても状態は変わらなかった。俺は、不安

  • えいじさんのお話7

    薬を飲んでも、湿布を貼っても足の付け根の痛みは取れなかった。痛いとは言わなかったが、家の中でも歩く時も歩きづらそうにしていた。違う整形外科に受診したが、結果は同じだった。リハビリに通うことになったが、自分の足では歩いていけない。息子の嫁さん

  • えいじさんのお話6

    さきこと昼間は2人で過ごす日が続いた。ある日、右足の付け根が痛いと言い出した。痛くて、まともに歩くことができない、と。日に日に痛みが強くなり、近くの整形外科にいくことになる。さきこは、今まで病気一つしたことがなく、風邪をひくことも少なかった

  • えいじさんのお話5

    退院すると同時に、さきこは仕事を辞めた。俺を一人で家に置いておくのは心配だったらしい。家の中では、杖なしで歩く事ができたし、トイレも一人でいけた。お風呂だけ、湯につかる時にさきこにみててもらう事もあったが、概ね自分のことは一人で行えていた。

  • えいじさんのお話4

    そんな平凡な毎日の楽しみは、昔の友達とモーニングにいくことだった。週に3回、近くの喫茶店で待ち合わせて、モーニングを食べてだらだらと喋る。家族以外の人と喋る機会がほとんどない中、この時間がとても大切なものになっていた。3月に入ったばかりのま

  • えいじさんのお話3

    息子が結婚して、同居することになった。さきこのおかげで、息子夫婦ともうまくやってこれたと思う。孫が生まれる頃、俺は工務店をたたむことになった。息子は後を継がなかった。あまり儲かる仕事ではなかったし、息子は俺に似ず、勉強がよくできたため仕方が

  • えいじさんのお話2

    子供は、息子が2人生まれた。同じ頃、小さな工務店を立ち上げる。従業員は俺一人。事務作業はさきこにまかせきりだった。当時は、今のように父親が家事や育児をやることは少なかった。俺も、協力的ではなかったと思う。手のかかる息子2人を抱えて、仕事も家

  • えいじさんのお話1

    俺は、ごく普通の家庭に産まれた。戦後であったため、物は少なく裕福ではなかったが、働きものの両親と、兄妹5人に囲まれながら元気にのびのびと成長した。中学を出て、工務店に就職。親の紹介で知り合ったさきこと結婚した。美人ではなかったが、明るくて、

  • はなこちゃんのお話14

    わずか26年。はなこの病気がわかってから、どこかで覚悟はしていました。それでも、辛いものですね。枯れることを知らないほど、たくさん泣きました。家に帰ってきてからも、訪問看護師の方やリハビリの方、往診の先生や薬剤師さん、ヘルパーさんなど様々な

  • はなこちゃんのお話13

    はなこが26歳、秋になり少し肌寒くなってきたころ。痰の量が増え始めました。吸引しても、次から次へと出てきて、苦しそうにしています。しばらく家で様子を見ていましたが、改善することなく、夜中に救急搬送されることになりました。入院中は私も病院に泊

  • はなこちゃんのお話12

    気管切開後、容態が安定し、無事退院することができました。しかし、痰がよく絡むのか、数時間おき、調子が悪い時は数十分に1回痰を吸引しなければなりません。夜、私はますます眠れなくなりました。酸素の数値が下がると、アラームが鳴るようにしています。

  • はなこちゃんのお話11

    結婚式が終わった年の冬、はなこはひどい肺炎になりました。痰が出続け、自力で呼吸をすることが難しくなりました。呼吸が楽に行えるように、気管切開を行ったほうがよいと医師から言われました。気管切開をすると、はなこは声が出せなくなります。はなこの声

  • はなこちゃんのお話10

    はなこは、20歳になりました。成人式は行けませんでしたが、うちに出入りしている看護師さんや往診の先生がお祝いの言葉を述べてくださいました。背格好は小学校高学年ほどでしたが、はなこに少しだけお化粧もしてあげました。身体の状態は変わりなく、座る

  • はなこちゃんのお話9

    はなこの世話は育児から介護に変わりました。3時間おきに体の向きを変えないと、床ずれができてしまいます。はなこが産まれてから、朝までぐっすれ眠ることは数少なかったのですが、床ずれができるようになってからはタイマーをかけて眠い身体を引きずりなが

  • はなこちゃんのお話8

    その頃には、食事を自分でとることもできなくなっていました。ご飯を飲み込む力も弱っていきます。はじめは食べれていたご飯が食べられなくなり、お粥にしたり、おかずを細かく刻んだり。はなこは果物が大好きでした。買い物にいくと、必ずはなこのために旬の

  • はなこちゃんのお話7

    中学生になると、はなこは日に日に身体が動かなくなり、笑うことが少なくなり、できることが少なくなってきました。できていたことができなくなる。それが怖くて私は夜を迎えることが憂鬱でした。言葉は話せなくても、はなこの目を見れば考えていることはわか

  • はなこちゃんのお話6

    小学校高学年になっても、はなこの身長は幼稚園児と間違われるほどでした。風邪をひきやすく、入院をすることは何度もありました。それでも、無事に小学校を卒業することができました。この頃は車椅子で移動することの方が多かったです。中学校は制服を着て通

  • はなこちゃんのお話5

    絶望の淵にいても、生活を送っていかなければなりません。息子の世話もあります。日々の忙しさが、少しづつ私の心をすくいあげてくれました。はなこは、相変わらずニコニコとよく笑う子でした。はなこの病気は、体だけでなく知的な面でも成長に影響があります

  • はなこちゃんのお話4

    幼稚園に入る頃になっても、はなこは言葉を話しませんでした。それに加え、周りの子ができていたジャンプやかけっこなどもできません。はなこは施設が整った子供病院で検査を受けることになります。結果は、先天性の疾患でした。国から難病指定を受けており、

  • はなこちゃんのお話3

    寝返りも、1人座りもはなこはなかなかできるようになりませんでした。この頃の母子手帳を見返すと、私の不安な気持ちが書き綴ってあります。乳児検診で要観察扱いになりました。それでも、はなこは日々成長し、2歳になる頃やっと歩けるようになりました。し

  • はなこちゃんのお話2

    はなこはよく眠る子でした。息子の時は、3時間たたずに夜中泣き声で起こされ授乳やオムツのお世話をしていました。しかしはなこは、一度寝たらこちらが起こすまで眠り続けます。お腹が空くだろう、と3時間おきにはなこを起こしてはミルクをあげていました。

  • はなこちゃんのお話1

    娘が生まれたのは、雪が降る12月、大晦日の1日前のことです。私はごく一般的な家庭に生まれ、なに不自由なく育ち、入社した会社の先輩である夫と知り合い結婚しました。結婚してすぐに、息子が産まれます。甘えん坊で恥ずかしがりやな子でした。その3年後

  • まさきさんのお話15(終)

    病気になってから20年。家の中で俺はいないものとして扱われ続けている。それは今も変わらない。転んで骨折して、再び入院したこともあった。その時もやはり誰も見舞いにはこなかった。最近は、離婚されないだけましだと思うようになっている。今離婚を切り

  • まさきさんのお話14

    ある日、風呂に入っていた時。足が滑って転んでしまったことがある。足に強い痛みが走り、立てなくなってしまった。家には誰もおらず、這って移動し携帯までたどりついた。妻に電話すると、仕事だから帰れない。自分で救急車を呼べば。と言われたこともあった

  • まさきさんのお話13

    家に帰ると、妻は仕事にでていていなかった。寝室は二階にあったのだか、階段を登ることができないため、今まで物置だった一階の和室が俺の部屋になっていた。家中の俺の荷物は全部その一部屋に詰め込まれていた。スーツや革靴、パソコンや趣味のゴルフやスキ

  • まさきさんのお話12

    半年ほどで退院することができた。妻は、退院後は俺のことを施設へ入れるつもりだったようだ。一緒に住むことはできないと断られた。プライドを捨てて頭を下げた。家に帰らしてくれ、と必死で懇願した。一人で何でもできるなら帰ってきてもよいと妻は言った。

  • まさきさんのお話11

    入院中、妻は一度も来なかった。必要最低限のことをやりに病院にはきていたようだが、病室に入ることなく帰っていった。子供たちもこなかった。唯一きてくれたのは、弟夫婦と同僚だけ。病室に入らない妻をみて、看護師たちはいろいろと噂をしていたと思う。惨

  • まさきさんのお話10

    会話がなく、目も合わせない日が続いた。不思議と離婚という話にはならなかった。俺はまた女性関係が派手になっていった。外に出れば女の方から俺を求めてくる、満たしてくれる。そして50歳になった夏の日。営業先で車を運転していた俺は意識を無くした。覚

  • まさきさんのお話9

    子供達が大学生になり、下宿を始めた。妻と2人だけの生活が再び始まった。だが、妻は会社が忙しいといつも帰りが遅かった。俺も仕事で昇進して、子供たちが下宿しているとはいえ十分やっていける給料はもらっていた。妻は俺と顔をあわせるのが嫌だったようだ

  • まさきさんのお話8

    歳を重ねるにつれ、酒の量が増えていった。血圧が高くなり、健康診断では複数の項目で引っかかるようになった。それでも、精密検査は受けなかった。仕事が忙しくて受ける気になれないと言い訳をし、ごまかしていた。子供達が高校にあがるころ、妻は突然会社を

  • まさきさんのお話8

    子供は健康に順調に大きくなっていく。2人とも、俺に似ずに子供らしく、のびのびと素直で良い子に育ってくれた。40歳になるころ、父が亡くなった。肝臓がんだった。その後、あとを追うように母も亡くなる。結局母は、父を責めることは一度もなかった。俺は

  • まさきさんのお話6

    地元に戻り2年がたったころ、2人目の子供が産まれる。また女の子だった。妻は育児に専念すると言って退職した。当時は、今と違い妊娠したら退職するのが一般的だった。妻は仕事が好きだったのだと思う。やりがいがあり、仕事をしている妻が俺は好きだった。

  • まさきさんのお話5

    結婚してからも、女遊びは続いていた。妻はもちろん気づいていたと思う。だか、なぜだかわからないが、俺を問い詰めることはしなかった。結婚してしばらくすると、最初の子供が生まれる。かわいい女の子だ。子供が産まれても、俺の生活が変わることはない。む

  • まさきさんのお話4

    仕事もそこそこうまくやっていた。上司にも気に入られ、責任がある仕事も任せてもらえるようになった。仕事は好きだった。社会人になっても、俺はモテていた。こちらから声をかけなくても、寄ってくる女はたくさんいた。決まった相手は作らずに、気ままに関係

  • まさきさんのお話3

    高校3年生、受験間近となった俺は必死になって勉強した。成績が上がると、親父は何も言わなくなった。その間に、彼女ができたことも何度かあった。自分で言うのも何だが、小学生のころから俺は女からは人気があった。女が何をすれば喜ぶか、これもまた手に取

  • まさきさんのお話2

    望んだものは何でも与えてくれた。おもちゃだって、ゲームだって何でも買ってもらえた。小学生の時から家庭教師をつけてもらい、同級生の誰よりも勉強はできた。毎年長期休みには親父が持っている別荘にいき、スキーに出かけた。夏休みは、海外旅行にもいった

  • まさきさんのお話

    自分で言うのも何だが、俺は裕福な家庭で育った。親父は、祖父の代から続いている建設業の社長と、こちらも祖父の代から続いている市議会議員を、何期にもわたって当選し、かけもちしていた。母は、優しい人だった。いわゆるお嬢様育ちで、悪く言えば世間知ら

  • あやこさんのお話15

    籍をいれて2週間たったころ、夫はしゃべることができなくなり、さらに2週間後、夫は亡くなりました。入院中は家に帰ることは許されず、夫と私の新婚生活は病室のみでした。それでも、最初の結婚よりも何倍も幸せで満ち足りた日々だったと感じています。その

  • あやこさんのお話14

    井上さんからの申し出に、すごく驚きました。長年一緒に暮らしてきて、井上さんは籍をいれる気はないと思っていたからです。戸惑う私に、井上さんの姉弟たちも結婚を薦めてくれました。あやこさんには本当にお世話になった。あの子が床に臥せってからもそばに

  • あやこさんのお話13

    井上さんの癌は、身体中に広まっていました。残された時間は、数ヶ月。お弁当屋の仕事は夕方で上がれるようにしてもらい、なるべく井上さんのそばにいる時間を増やしました。井上さんは積極的な治療はしたくない、と入院はしませんでした。日増しに動かなくな

  • あやこさんのお話12

    アパートに一人で住み始めて、数年。自然と、私と井上さんが過ごす時間は多くなっていきます。井上さんからの提案で、一緒に住まないかと言われました。しかし、結婚という話にはなりませんでした。結婚には苦い経験があるので、籍は入れずに一緒に住むことを

  • あやこさんのお話11

    長女と孫2人の4人暮らしになっても、私の生活は変わりませんでした。昼はお弁当屋、朝方は新聞配達をしていました。ある冬の日、前日に降った雪が残り地面は凍っていました。そういったことは何度もあったのですが、歳を重ねたからでしょうか。それとも慣れ

  • あやこさんのお話⑩

    三女は、看護師になりという夢がありました。勉強熱心な三女は猛勉強の末、国立の看護学校に合格します。同じころ、長女は2人目の子供を出産しました。かわいい男の子でした。私は、長女夫婦はてっきりうまくいっていると思っていました。若い2人にはまだ身

  • あやこさんのお話⑨

    男性(今後は井上さんと呼びます)は、私よりも10歳上の方でした。その方は、奥さんがいたこともなくずっと独り身でした。お酒を飲んでも、性格が変わることなく、井上さんは温厚な方です。お酒を飲む男性とは、あまり深い仲にはなりたくないと思っていまし

  • あやこさんのお話⑧

    長女が中学3年になったとき。担任の先生から、このままではいける高校は私立しかないと言われました。お弁当屋と新聞配達は続けていましたが、育ち盛りの子供3人を食べさせていくのには精一杯のお給料です。とても私立高校にはいかせることはできません。そ

  • あやこさんのお話⑦

    長女は数か月前から、無断で学校を遅刻したり休むことが増えていたようです。 恥ずかしながら私は、先生からの電話があるまでそのことに気が付きませんでした。 ゲームセンターにいったり、友達の家にいったりしていたそうです。私は長女を叱りました。しか

  • あやこさんのお話⑥

    離婚後は、実家に帰ることも考えました。しかし、弟が結婚しお嫁さんと子供が私の両親と一緒に住んでいたため、帰ることはできません。実家の近くの小さな借家で私と子供達3人で暮らすことになりました。昼間子供達が学校に行っている間は、お弁当屋さんで働

  • あやこさんのお話⑤

    0歳から104歳ませ、さまざまな人生を綴ります。

  • あやこさんのお話④

    0歳から104歳まで、さまざまな人生を綴ります。

  • あやこさんのお話③

    0歳から104歳まで、さまざまな人生を綴ります。

  • あやこさんのお話②

    0歳から104歳まで、さまざまな人生綴ります。

  • あやこさんのお話①

    0歳から104歳までのさまざまな人生を綴ります

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