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古代の日本語 https://blog.goo.ne.jp/kodai/

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。このことを明らかにするため、『神代文字と五十音図の真実』という本を出版しました。このブログでは、本の内容を補足しながら、古代の日本語の真実に迫ります。

山本
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2022/03/08

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  • 光線を意味する古語

    柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、飛鳥時代を代表する歌人で、三十六歌仙の一人としても有名です。また、『玉川児童百科大辞典21別巻世界人名辞典』(玉川大学出版部:編、誠文堂新光社:1968年刊)という本によると、彼は次のような功績を残したそうです。1.長歌(五七五七五七・・・五七七)を、序詞・枕詞などを自由に使いこなして、最高の形式的完成にみちびいた。2.それまで長歌に付属するものであった反歌(五七五七七)を長歌から独立させ、ひとつの詩としての完成にみちびいた。3.叙事性と叙情性を一身にそなえた「万葉集」最高の歌人として、日本文学史の上に一時代を画した。このため、紀貫之は柿本人麻呂を歌聖とたたえたそうです。そして、旧暦の三月十八日は彼の命日とされ、『柿本人麻呂と鴨山』(矢富熊一郎:著、益田郷土史矢富会:...光線を意味する古語

  • 月の名前の語源

    2月は、旧暦では正月にあたり、これを睦月(むつき)とよんでいましたが、この意味を漢字から類推して、「親戚が集まって仲むつまじくする月」などととする俗説が流布しているのは残念なことです。そこで、『新編日本古語辞典』(松岡静雄:著、刀江書院:1937年刊)という本を参考にして、月の名前の語源についてまとめてみました。月の名前読み語源睦月むつきメツキ(芽月)の転呼、発芽する季節を芽月とよんだ如月きさらぎキアラツキ(木新月)の約濁、草木更新の月を意味する如月と書くのは、『爾雅』という本に「二月爲如」(二月を如となす)とあるため弥生やよいイヤ(弥)オヒ(生)の転呼で、草木がいよいよ生い茂るという意味卯月うづきウツツキ(たがやす月)の約濁で、田ウツ月という意味であろう田植えのために田をウツのは旧暦4月頃であるから、十...月の名前の語源

  • 西暦601年の大革命

    前回、西暦601年を基準に、その1260年前、すなわち21回前の辛酉の年である紀元前660年が大革命の年と考えて、これを神武天皇即位の年としたことをお伝えしましたが、そうなると、西暦601年も大革命の年だったことになります。そこで、歴史を調べてみると、西暦589年に隋が中国を統一していて、その歴史書(隋書東夷伝)には西暦600年に倭国から遣隋使が派遣されていることが記録されていました。その全文を掲載すると煩雑になるので、ここでは古代の日本語に関係する部分だけを抜き出してご紹介します。【隋書東夷伝の倭国の記録】原文翻訳開皇二十年俀王西暦600年に倭王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌姓はアメ、字(あざな)はタラシヒコ、オホキミと号す遣使詣闕・・・が使いを遣わし宮城に詣で・・・(中略) 王妻號雞彌後宮有女六七百人王...西暦601年の大革命

  • 皇紀について

    前回、神武天皇が二世紀の初めに日本を統一したと書きましたが、戦前に使われていた皇紀では、神武天皇が即位した年を西暦の紀元前660年と定めていました。そのため、私の主張に対して違和感を感じる人がいるかもしれませんから、皇紀が定められた経緯をご説明したいと思います。『暦と占いの科学』(永田久:著、新潮社:1982年刊)という本によると、日本で初めて暦を採用したのは西暦604年で、中国の暦法を輸入したそうです。中国では、十干と十二支の組み合わせで年数を数えていたので、10と12の最小公倍数である60年で同じ干支が繰り返されることになります。(十干については本ブログの「あ行の「え」のまとめ」をご覧ください。)【十干と十二支の組み合わせによる年数の数え方】干支番号干支番号干支番号干支番号干支番号干支番号甲子1甲戌1...皇紀について

  • 君が代の起源

    前回は志賀島の金印をご紹介したので、今回は志賀島にまつわる逸話をご紹介したいと思います。まず、志賀島には志賀海神社という古い神社があり、ここに伝わる山誉め祭は、神功皇后に披露したことが起源とされていて、神功皇后は、この祭りを志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよと命じたそうです。このため、志賀海神社は神功皇后ゆかりの神社として有名ですが、実は、山誉め祭のなかで語られる言葉に「君が代」の歌詞が登場することでも有名です。【志賀海神社の山誉め祭】(画像はYouTube動画「志賀島志賀海神社山誉め祭」より)ちなみに、『国歌君が代講話』(小田切信夫:著、共益商社書店:1929年刊)という本によると、「君が代」は、明治維新の際に国家としての体裁を整える上で国歌が必要となり、当時親しまれていた「蓬莱山」という薩摩琵琶歌...君が代の起源

  • 志賀島の金印

    日本に漢字が伝来したことを示す最古の物的証拠は、福岡県の志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴国王」と書かれた金印だと思われます。これは、西暦57年に後漢の光武帝が倭奴国の使者に与えたとされるもので、古代の日本語と直接関係はありませんが、日本に関する非常に古い情報なので、このブログで取り上げてみることにしました。まず、『大日本全史上巻』(大森金五郎:著、冨山房:1921年刊)という本に掲載されている金印の図をご覧ください。【志賀島の金印】(『大日本全史上巻』より)この図の上部は、金印を横から見た図で、下部が印影になりますが、これを見ると、最後の「国王」は読めるものの、残りの部分は判読が困難です。この書体は「篆書」(てんしょ)とよばれるそうですが、『新撰篆書字典』(安本春湖:著、春湖書屋:1924刊)とい...志賀島の金印

  • 漢字の音訳に関する訂正

    本ブログの「漢字の音訳が意味するもの」という記事に一部誤りがありましたので訂正させていただきます。この記事では、水(sui)を「すゐ」(suwi)、類(rui)を「るゐ」(ruwi)などと音訳したとお伝えしましたが、『国語学辞典』(国語学会国語学辞典編集委員会:編、東京堂:1955年刊)という本には次のようなことが書かれています。1.字音の歴史的かなづかいは、江戸時代後期に理論的に定められたものであること。(本居宣長の『字音仮字用格』で定まり、白井寛蔭の『音韻仮字用例』で補正され、大成した。)2.しかし、その後の研究で、平安時代中期以前(「い」と「ゐ」の区別が保たれていた時代)の文献に、衰・瑞・墜・維・涙が「すい・ずい・つい・ゆい・るい」と記されていることが新たに判明した。したがって、水・類についても「す...漢字の音訳に関する訂正

  • 棒を意味する古語

    日本語は同音異義語が多い言語だそうですが、これは外来語である漢字の熟語だけでなく、純然たる大和言葉についても言えることで、例えば、「はな」には花と鼻、「かき」には柿と牡蠣の二種類の意味がそれぞれあります。同様に、「はし」にも、食事の際に使う箸と河川に掛けられた橋の二種類の意味があり、これらは形も大きさも異なるので、一見すると共通点はなさそうに思えます。これについて、ミクロネシアの言語や風俗に詳しい言語学者の松岡静雄氏は、『日本古語大辞典』に、ハシのハは椰子(やし)の葉柄(ようへい=葉と幹をつなぐ柄の部分)を意味するポナペ語パと同源で、シはサ(状)に通ずると書いています。つまり、椰子の葉柄のような細長い棒状のものが「はし」だったということです。確かに、箸は細長い2本の棒ですし、橋も昔は丸木橋だったはずですか...棒を意味する古語

  • あ行の「え」のまとめ

    前回、前々回と、あ行の「え」が存在しなかったということを述べてきましたが、この主張の締めくくりとして、『国語・国文第五巻第十号』(京都帝国大学国文学会:編、星野書店:1935年刊)という雑誌に掲載された「ア行のエの発生」(窪田寿子:著)という論文を簡単にご紹介します。それによると、「え」を含むあらゆる語について逐一研究した結果、あ行と思われていた衣・依も含めてすべてがや行に属するものであるということを証明することができたので、「純粋な工といふ母韻は国語にはなかった」と結論付けています。したがって、この論文は、本ブログの当初からの主張が正しかったことを証明してくれていると考えられます。それでは、あ行の「え」に関するこれまでの考察をまとめておきましょう。1.奈良時代の初頭には、あ行の「え」(母音の〔e〕)がな...あ行の「え」のまとめ

  • あめつちの詞

    前回は、あ行の「え」(母音の〔e〕)が誕生したのは江戸時代になってからだということを論じました。しかし、多くの国語学者は、あ行の「え」が古くから存在したと考えており、当然ながら、それには動かしがたい証拠がありました。それは、平安時代の初期には使われていたとされる手習い詞(ことば)、「あめつちの詞」です。これは、『国語学史』(三木幸信・福永静哉:共著、風間書房:1966年刊)という本によると、次のような48音の文字列で、音の重複がないとされています。【あめつちの詞】読み解釈あめつちほしそら天地星空やまかはみねたに山河峯谷くもきりむろこけ雲霧室苔ひといぬうへすゑ人犬上末ゆわさるおふせよ硫黄猿生ふせよえのえをなれゐて榎の枝を馴れ居てこれを見ると、最後の行に「え」が2つあり、先頭の「え」はあ行、末尾の「え」はや行...あめつちの詞

  • あ行の「え」は存在しなかった

    前回ご紹介した『国語学の諸問題』(小林好日:著、岩波書店:1941年刊)には、とても興味深いことが書かれています。それは、国学者として有名な本居宣長(もとおりのりなが)が、字余りの歌は句のなかに「あ、い、う、お」の音がある場合だけであり、「え」の音がないことを指摘していることです。これを具体的に説明するため、例として、平安時代の代表的な歌集である古今和歌集に収録された最初の歌をご紹介します。(参考文献:『古今和歌集』(藤村作:編、至文堂:1928年刊))●年の内に春はきにけりひとゝせをこぞとやいはむことしとやいはむ(在原元方)解釈読み句の長さ年の内にとしのうちに六春は来にけりはるはきにけり七一年をひととせを五去年とや言はむこぞとやいはむ七今年とや言はむことしとやいはむ八この歌は、『古今和歌集新古今和歌集』...あ行の「え」は存在しなかった

  • 音韻の変遷

    今回は、音韻の変遷について解説するわけですが、その前に音韻の定義について、『国語学の諸問題』(小林好日:著、岩波書店:1941年刊)という本に書かれている内容をご紹介します。まず、音声と音韻の違いですが、われわれが具体的に聞く音声は百人百様で、それに訛(なまり)とか気分とかさまざまな属性を含んでいますが、一方、音韻は人が繰返して経験したたくさんの音声から抽象され脳裡に構成されている概念なのだそうです。これを具体的に説明すると、「でんぽう」(電報)、「でんとう」(電燈)、「でんき」(電気)の三語における「ん」は、音声学では〔m〕、〔n〕、〔ŋ〕の三つのちがう音声ですが、音韻としては一つの平仮名の「ん」が表わすように、一個の音韻であるというわけです。(〔ŋ〕は鼻に抜ける音(鼻音)を表わす発音記号)そして、音韻...音韻の変遷

  • た行の発音

    儒学者として有名な荻生徂徠(おぎゅうそらい)の随筆『なるべし』(荻生徂徠:述、箕輪醇:増補纂評、小林新兵衛:1894年刊)という本に、「ふるき詞は多くは田舍に殘れる事いとありがたき事なり」と書かれていますが、これは古代の言葉が方言に残されていることを指しています。このことは発音についても同様で、『国語音韻論』(金田一京助:著、刀江書院:1932年刊)という本には、高知その他で現に「つ」を今なお〔tu〕に発音していると書かれていて、これは、高知県に古い日本語の発音が保存されていたためだと考えられるのです。さらに、『土佐方言の研究』(高知県女子師範学校郷土室:編、高知県女子師範学校:1936年刊)という本には、高知県ではジとヂ、ズとヅを明確に区別して発音していると書かれています。(発音記号を使って厳密に書くと...た行の発音

  • 磐之媛命

    仁徳天皇の皇后となった磐之媛命(いはのひめのみこと)は、非常に嫉妬(しっと)深かったとされ、例えば古事記には次のように書かれています。1.女官たちは宮中をのぞくこともできず、少しでも普段と異なる様子があれば、皇后はじだんだを踏んで嫉妬した。2.天皇が黒日売(くろひめ)という美女を吉備から呼び寄せたが、彼女も皇后の嫉妬を恐れて本国に逃げ帰った。3.その際、天皇が黒日売を慕う歌を詠んだことを聞いて、皇后は大いに怒り、人を遣わして黒日売を船から追い下ろし、歩いて帰ることを強要した。また、日本紀には、仁徳天皇が、玖賀媛(くがひめ)という宮中の女官を愛したいが、皇后の嫉妬が強くてそれができないと語る場面が出てきます。さらに、同じく日本紀には、天皇が矢田皇女(やたのひめみこ)という女性を皇居に住まわせることを皇后に提...磐之媛命

  • もう一人の内宿禰

    日本紀には、応神天皇の九年に、天皇が武内宿禰を殺そうとしたことが書かれています。それによると、応神天皇が武内宿禰を筑紫に派遣して庶民を視察させた際に、その留守を狙って弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇に、武内宿禰が謀反を企てていると讒言したのです。これがもう一人の内宿禰で、『大日本国語辞典』によると「うまし」には快いとか美しいといった意味がありますから、この人はイケメンだったのかもしれません。彼の言葉を信じた天皇は、武内宿禰を殺すよう命じたため、武内宿禰は絶体絶命の危機に陥りますが、これを伝え聞いた壹伎直(いきのあたへ)の祖、真根子(まねこ)という者が武内宿禰の身代わりとなって死に、武内宿禰は難を逃れて都に戻り、無実を訴えたのです。そこで、武内宿禰は甘美内宿禰と対決することになったのですが、議論で...もう一人の内宿禰

  • 武内宿禰

    『古語大辞典』によると、武内宿禰(たけうちのすくね)は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕えたとされる人物ですが、名前の下三文字(内宿禰)は称号で、「氏(うぢ)の宿禰=氏長」を意味し、内宿禰が二人いたため、武勇を意味する「たけ」を冠して区別したのだそうです。そして、古事記や日本紀によると、彼は忍熊王(おしくまのみこ)が反乱を起こした際に、神功皇后や応神天皇の命を守った英雄であり、日本の恩人と言っても過言ではない存在です。前回、武内宿禰が常識外れの長寿だったとお伝えしましたが、それでは彼がどのくらい生きたかというと、300歳を超えていたとする本が多数あり、世界の長寿者を列挙している『学説実験若返り健康法』(佐藤寿:著、日本書院:1921年刊)という本には280歳と書かれています。また、『国史大辞典...武内宿禰

  • 鷹を意味する古語

    日本紀には、仁徳天皇の四十三年に鷹狩の由来が書かれていて、そこに鷹を意味する古語(百済の言葉)が登場するので、その部分を抜き出してご紹介します。(参考:『日本紀標註』)原文読み下し文天皇召酒君天皇(すめらみこと)、酒君(さけのきみ)を召して示鳥曰是何鳥矣鳥をみせてのたまわく、これは何の鳥ぞ酒君對言此鳥類多在百濟酒君こたへてまうさく、この鳥のたぐいさはに百済にあり得馴而能從人馴づけ得てはよく人に従い亦捷飛之掠諸鳥またとく飛びて諸々の鳥をかすむ百濟俗號此鳥曰倶知百済の人この鳥の名を「くち」というそして、この直後に「是今時鷹也」(これ今の時の鷹なり)という注釈があり、続いて、酒君が鷹を飼い馴らして鷹狩を行なったことが書かれています。この「くち」という言葉は、平安時代後期の歌集である「永久百首」や「散木集」にも使...鷹を意味する古語

  • 時を意味する古語

    四季折々という言葉の折(をり)は時を意味しますが、これよりも古い言葉を『大日本国語辞典』で調べたところ、「しだ」、「しな」、「しば」、「しま」という言葉を見つけました。【時を意味する言葉】(『大日本国語辞典』より)このうち、「しな」は今でも関西地方などで「行きしな、帰りしな」という言い方をしますし、「しば」は「しばらく」という言葉に痕跡をとどめています。また、「しま」は、江戸時代後期に書かれた『浮世風呂』という本に「元日しまから・・・」、「正月しまから・・・」などと書かれているので、江戸時代までは普通に使われていたようです。そして、これらより古い言葉が「しだ」で、この古語を使った歌が万葉集にあるので、『万葉集論究第二輯』(松岡静雄:著、章華社:1934年刊)という本を参考にしてご紹介します。【万葉集第十四...時を意味する古語

  • 南風を意味する古語

    古事記の神話には、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)という有名な神が登場しますが、この神は誕生後、父親の伊耶那岐命(いざなぎのみこと)から命じられた仕事をせず、泣いてばかりだったため、青々とした山の木は枯れ、海河は乾き、以下のような状態になってしまったそうです。(『校訂古事記』(田中頼庸:編、神宮教院:1887年刊)より)原文読み是以惡神之音ここをもてあらぶるかみのおとなひ如狹蠅皆滿さばへなすみなみち萬物之妖悉發よろづのもののわざはひことごとくにおこりきこれを直訳すると、<このため荒ぶる神の音(声)「さばへ」の如きものが残らず満ち、万物の災いがことごとく起こった>となりますが、「さばへ」に狹蠅という漢字を当てたため、古来この部分は蠅の羽音だと解釈されていました。しかし、言語学者の松岡静雄氏は、蠅の...南風を意味する古語

  • 夢を意味する古語

    夢というものは不思議なもので、現代でも夢を解釈する本が多数出版されていますが、古代の人たちも夢にはとても関心があったようで、古事記や日本紀には夢で神の啓示を得た話などが書かれています。そして、こういった古典を読むと、古代の人は夢を「いめ」と発音していたことが分かりますが、『日本古語大辞典』によると、これは夢の古語が「よめ」だったからで、夜間すなわち就眠中物を見るという意味で「夜目」といい、これが転じて「いめ」または「ゆめ」となったのだそうです。したがって、「いめ」の「い」はや行の「い」だったことになりますが、これは本ブログの「かつて「い」はや行にあった」でご紹介した内容と整合するものです。なお、古事記や日本紀の歌謡には夢という言葉が登場する歌はありませんが、万葉集には、夢という漢字がそのまま使われている歌...夢を意味する古語

  • 土や石を意味する古語

    古代の日本の様子を知るための重要な手掛かりに、古墳の周囲に置かれた「はにわ」(埴輪)があります。次の写真は、『埴輪集成図鑑第1回』(帝室博物館:編、万葉閣:1931年刊)という本に載っている女性の埴輪で、上野国佐波郡赤堀村(現在の群馬県伊勢崎市)で発掘されたものです。【女性の埴輪】(『埴輪集成図鑑第1回』より)これを見ると、この人物は髪をきちんと結い、耳輪や首輪で着飾り、腰には五鈴鏡を下げていて、古代の女性はとてもおしゃれだったことが分かります。(五鈴鏡については、本ブログの「周辺諸国の名称3」を参考にしてください。)ところで、埴輪の埴(はに)は粘土のことですが、『日本古語大辞典』によると、これは壺を意味する「へ」(瓮)が「は」に転じ、土や石を意味する原語「に」と組み合わされてできた言葉だそうです。参考ま...土や石を意味する古語

  • 言語学者・松岡静雄氏の経歴

    前回は、松岡静雄氏の言語学者としての見識が突出していることをお伝えしたので、今回は、『ミクロネシア民族誌』(松岡静雄:著、岩波書店:1943年刊)という本の巻末に載っている彼の経歴をご紹介しましょう。なお、この本は、1927年に出版されたものを松岡氏の没後に再刻出版したものです。それによると、彼は、明治11年(西暦1878年)に松岡操氏の七男として兵庫県に誕生したのですが、松岡家は、代々医学と儒学を専門とする家系で、三男の井上通泰氏は眼科医にして歌人であり、しかも柔道七段の文武両道で、六男の柳田国男氏は文化勲章を受章した民俗学者、八男の松岡映丘氏は日本画家という、有名な秀才ぞろいの一家だったそうです。【松岡静雄氏の兄弟】静雄氏もやはり幼少期から聡明で、5歳にして史記(司馬遷が編纂した歴史書)を白文(オリジ...言語学者・松岡静雄氏の経歴

  • 下を意味する古語

    前回は、雄略天皇が、自分に向かって突進してくる猪を弓で射止め、足で踏み殺したというエピソードをご紹介したので、今回はその際に、荒れ狂う猪を恐れて木の上に逃げ上った舎人(とねり=従者)を斬り殺そうとした天皇に対して、舎人が詠んだとされる辞世の歌をご紹介しましょう。なお、漢字の表記と読みについては『日本紀標註』を、意味については『紀記論究外篇古代歌謡(下)』を参照しました。原文読み意味野須瀰斯志やすみしし(おほきみの枕詞)倭我飫裒枳瀰能わがおほきみの天皇の阿蘇磨斯志あそばしし射られた斯斯能ししのいのししの宇拖枳舸斯固瀰うたきかしこみうなり声を恐れ倭我尼㝵能裒利志わがにげのぼりし自分が逃げ上った阿理嗚能宇倍能ありをのうへの下方の丘の上の婆利我曳陀阿西嗚はりがえだあせを榛の枝はよここで、『紀記論究』の著者の松岡氏は、赤...下を意味する古語

  • 年代推定 安康天皇と雄略天皇

    『日本上代史の一研究』を参考にしながら倭の五王に関する年表を作成していて、今回は安康天皇と雄略天皇の時代です。なお、年表の★印は、著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。また、年表に登場する百済新撰は、日本紀のなかで引用されている、失われた百済の歴史書です。統治者干支西暦特記事項安康天皇辛丑461年安康天皇が即位(仮定)★百済の蓋鹵王が弟の昆支を倭に遣わす(百済新撰)壬寅462年★大明六年済死し、世子興遣使して貢献す(宋書倭国伝)癸卯463年安康天皇が暗殺される(安康紀3年)雄略天皇甲辰464年雄略天皇が即位(仮定)乙巳465年丙午466年丁未467年戊申468年己酉469年庚戌470年辛亥471年壬子472年癸丑473年甲寅474年乙卯475年★高句麗が百済を破り蓋鹵王を殺す(三国史記)丙辰476年★高...年代推定安康天皇と雄略天皇

  • 年代推定 反正天皇と允恭天皇

    前回までの考察によって、漢字が輸入された時代背景は明らかになったと思われますが、せっかくなので、残りの倭の五王についても年表を作成していきたいと思います。今回は、反正天皇と允恭天皇の時代です。なお、年表の★印は、『日本上代史の一研究』の著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。統治者干支西暦特記事項反正天皇丁丑437年反正天皇が即位(仮定)戊寅438年★元嘉十五年倭国王珍を安東将軍となす(宋書文帝紀)★讃死して弟珍立つ(宋書倭国伝)己卯439年庚辰440年辛巳441年反正天皇の没年允恭天皇壬子442年允恭天皇が即位(仮定)癸未443年★元嘉二十年倭国王済、遣使奉献す(宋書倭国伝)甲申444年乙酉445年丙戌446年丁亥447年戊子448年己丑449年庚寅450年辛卯451年★元嘉二十八年倭国王済の称号の変更...年代推定反正天皇と允恭天皇

  • 年代推定 仁徳天皇と履中天皇

    漢字が輸入された時代背景を考察するため、『日本上代史の一研究』を参考にしながら年表を作成していて、今回は仁徳天皇と履中天皇の時代です。この時代の朝鮮半島の資料は極めて乏しいのですが、中国の歴史書に倭の朝貢のことが書かれていて、そこに五人の王の名前が登場することから、これを倭の五王とよんでいます。この本では、歴史学者の那珂通世氏や歴史・地理学者の吉田東伍氏の説を紹介して、倭の五王を次のように比定しています。倭の五王該当する天皇讃仁徳天皇珍反正天皇済允恭天皇興安康天皇武雄略天皇つまり、仁徳天皇は倭王「讃」であり、次の履中天皇は倭の五王ではなかったようです。参考までに、この時代の天皇家の系図が本ブログの「漢字の音訳時期」にあるので、よかったらご覧ください。なお、年表の作成にあたり、当時の交通事情や、中国への使いが正月...年代推定仁徳天皇と履中天皇

  • 年代推定 応神天皇

    漢字が輸入された時代背景を考察するため、『日本上代史の一研究』を参考にしながら年表を作成していて、今回は応神天皇の時代です。なお、この年表に登場する阿華王は、三国史記には阿莘王と書かれていますが、日本紀には阿花王と書かれているので、莘は華の誤りなのだそうです。また、年表の★印は、著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。統治者干支西暦特記事項応神天皇庚寅390年応神天皇即位(応神紀元年)辛卯391年★倭の侵攻(広開土王の碑)高句麗の百済侵略(三国史記)壬辰392年★百済の阿華王が即位(三国史記、応神紀3年)癸巳393年★百済が高句麗と交戦(三国史記)甲午394年乙未395年★百済が高句麗と交戦(三国史記)丙申396年★高句麗の百済征伐(広開土王の碑)丁酉397年★百済が太子の腆支を倭国に人質に出す(三国史記...年代推定応神天皇

  • 年代推定 神功皇后

    今回からは、応神天皇から雄略天皇までの時代について、少し厳密に年代を推定し、漢字が輸入された時代背景を考察していきたいと思います。そこで今回は、応神天皇の幼少期、すなわち母親の神功皇后が摂政だった時代について、『日本上代史の一研究日鮮の交渉と日本書紀』(池内宏:著、近藤書店:1947年刊)という本を参考にしながら、年表を作成してみました。この本の著者の池内宏氏は、『文禄慶長の役』、『東洋史論叢』、『元寇の新研究』、『満鮮史研究』などの本を書いている歴史学者で、虚偽の記述が多い古代の記録を精査して、歴史的事実と認められる事項を抽出しているので、その部分には★印をつけてあります。なお、年代の決定方法ですが、神功紀には神功皇后の六十九年(没年)が己丑(つちのとうし)の年と書かれているので、この年を西暦389年と考えて...年代推定神功皇后

  • 古代歌謡の分析5

    前回までは、仁徳天皇の時代にも、于がわ行の「う」、伊がや行の「い」を表記する漢字だったということを論じました。そこで今回は、あ行の「う」が初めて使われたと思われる歌謡をご紹介しましょう。次の歌は、雄略天皇の十三年に、歯田根命(はたねのみこと)という人物が、山邊の小島子という采女(うねめ=天皇の御膳を給仕する官女)と密通したことが露見して、馬8頭、大刀8本で罪の祓いをした際に、歯田根命が詠んだとされるものです。(参考文献:『紀記論究外篇古代歌謡(下)』)原文読み意味耶麼能謎能やまのめの山邊の故思麼古喩衞爾こしまこゆゑに小島子ゆえに比登涅羅賦ひとてらふ人の誇りとする宇麼能耶都擬播うまのやつげは馬の八毛(8頭)は鳴思稽矩謀那欺をしけくもなし惜しいこともないここで注目すべきは宇麼(うま=馬)で、この言葉が日本紀の歌謡に...古代歌謡の分析5

  • 古代歌謡の分析4

    前回は、仁徳天皇の時代にも、于がわ行の「う」を表記する漢字だったということを論じました。そこで今回は、本ブログの「古代歌謡の分析1」で論じた、応神天皇の時代には伊がや行の「い」を表記する漢字であったという結論が、仁徳天皇の時代にも通用するのか調べてみました。次の歌は、仁徳天皇の四十年に、天皇が異母妹の雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を妃にするため、異母弟の隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を仲人として遣わしたところ、雌鳥皇女が隼別皇子と恋仲になり、皇子の舎人(とねり=従者)たちが詠んだとされるものです。なお、漢字の表記と読みについては『日本紀標註』を、意味については『紀記論究外篇古代歌謡(上)』を参照しました。原文読み意味破夜歩佐波はやぶさは隼は阿梅珥能朋利あめにのぼり天に昇り等弭箇慨梨とびかけり飛び翔けり伊菟岐餓宇倍...古代歌謡の分析4

  • 古代歌謡の分析3

    前回は、応神天皇の時代には、宇、于、紆、禹の4文字がわ行の「う」を表記する漢字だったということを論じました。そこで今回は、次の仁徳天皇の時代においても、于がわ行の「う」を表記する漢字だったかどうか検証してみました。次の歌は、仁徳天皇の二十二年に、天皇が、妃をもう一人皇居に住まわせるため、皇后の同意を求めて詠んだとされるものです。なお、漢字の表記と読みについては『日本紀標註』を、意味については『紀記論究外篇古代歌謡(上)』を参照しました。原文読み意味于磨臂苔能うまひとの長老の多菟屢虛等太氐たつることだて建言(によれば)于磋由豆流うさゆづる予備の弓弦(を必要とする)多由磨菟餓務珥たゆまつがむに途絶えた間を継ぐためには奈羅陪氐毛餓望ならべてもがも並べてみたいものであるここで、「うさゆづる」とは、弓の弦(つる)が切れた...古代歌謡の分析3

  • 古代歌謡の分析2

    前回は、応神天皇の時代には、「い」を表記する万葉仮名はすべてや行の「い」だったということを論じました。そこで今回は、「う」を表記する万葉仮名がわ行の「う」だったのか検証してみました。まず、『大日本国語辞典』によると、「う」を表記する万葉仮名は次の13文字でした。◆「う」の万葉仮名:宇、于、汙、紆、有、烏、禹、羽、雲、得、菟、兔、卯ただし、得、菟、兔、卯の4文字は訓読みであり、残る9文字のうち、わ行の「う」は于の1文字だけとされています。◆わ行の「う」:于ところで、古事記には、前回ご紹介した「みづたまる・・・」という応神天皇の十三年の歌とよく似た歌が収録されています。全文を掲載するのはわずらわしいので、注目すべき部分を日本紀と比較すると次のようになります。(参考文献:『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊)...古代歌謡の分析2

  • 古代歌謡の分析1

    本ブログの「漢字の音訳が意味するもの」という記事では、漢字が音訳された時代(五世紀前半か?)には、あ行の「い、う、え」が存在しなかったと論じました。そうであれば、「魏志倭人伝」に登場した伊都国の伊も、や行の「い」だったはずです。そこで、「い」を表記する万葉仮名について、現代中国音を調べてみました。まず、『大日本国語辞典』によると、「い」を表記する万葉仮名は次の14文字でした。◆「い」の万葉仮名:伊、意、怡、肄、壹、以、移、夷、易、已、異、射、五十、膽ただし、射、五十、膽は訓読みなので、ここでは除外します。この11文字のうち、や行の「い」を表記する漢字は次の6文字とされていました。◆や行の「い」:以、移、夷、易、已、異つまり、残った次の5文字があ行の「い」を表記する漢字となります。◆あ行の「い」:伊、意、怡、肄、...古代歌謡の分析1

  • その他の漢字音訳例

    前々回、漢字の音訳に古代の五十音図の痕跡が残っていたことをお伝えしました。そこで、他にも同様の痕跡が残っていないか『大日本国語辞典』を調べたところ、次のような音訳例がありました。1.「すゐ」と音訳された漢字前々回、「すゐ」と音訳された漢字として、水、推、錐、帥、錘、翠をご紹介しましたが、それ以外にも、睡、吹、炊、垂、酔、粋、遂などがありました。2.「ずゐ」と音訳された漢字「ずゐ」と音訳された漢字には、隋、瑞、髄、随などがありました。3.「つゐ」と音訳された漢字「つゐ」と音訳された漢字には、對(対の旧字体)、追、墜などがありました。これらは、漢字の音訳がなされた時代に、あ行の「い」が存在しなかった証拠になるのではないかと思われます。なお、前々回ご紹介した「るゐ」も含めて、これらがう列の言葉である理由は、う列の音は...その他の漢字音訳例

  • 漢字の音訳時期

    前回、漢字の音訳時期は応神天皇の時代だとお伝えしましたので、今回はその年代を明らかにしたいと思います。まず、第十五代応神天皇が即位した年は庚寅(かのえとら)と日本紀に書かれています。干支は60年周期で繰り返され、直近の庚寅の年は西暦2010年でしたが、四世紀なら西暦330年と西暦390年が、五世紀なら西暦450年が庚寅の年となります。次に、本ブログの「彌馬升=孝昭天皇説の検証」で、第十代崇神天皇が西暦300年頃に即位したと考えました。これは、古事記に崇神天皇の没年が戊寅(つちのえとら)と書かれていて、これが西暦318年と推定できるからです。また、本ブログの「雄略天皇の和名」でご紹介したように、稲荷山古墳から出土した鉄剣は西暦471年に制作されたと考えられており、これは第二十一代雄略天皇の時代に比定されています。...漢字の音訳時期

  • 漢字の音訳が意味するもの

    今回からは、漢字の音訳に関する考察です。古代の日本語について調査する過程で、『日本言語学』(松岡静雄:著、刀江書院:1926年刊)という本にとても興味深いことが書かれているのを発見しました。それによると、日本語の特質の一つとして、母音が連続しないことが挙げられるそうです。(本文では、「複母韻が存立し得なかった」という表現を用いています。)これをもう少し詳しく説明すると、古代の日本人が漢字を音訳する際には、次のような特徴があったそうです。1.水(sui)を「すゐ」(suwi)、類(rui)を「るゐ」(ruwi)などと音訳したこと。参考までに、『大日本国語辞典』の「すゐ」と「るゐ」の項目をご覧ください。【「すゐ」と音訳された漢字『大日本国語辞典』より】【「るゐ」と音訳された漢字『大日本国語辞典』より】2.拝(hai...漢字の音訳が意味するもの

  • 卑弥呼の読みと意味

    「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。今回は、いよいよ「魏志倭人伝」の最終回です。原文読み倭女王卑彌呼倭の女王「ひびを」與狗奴國男王卑彌弓呼素不和狗奴国の男王「ひびきをさ」と和せず遺倭載斯烏越等倭の「さしあを」らを遺わし詣郡說相攻擊狀郡に詣り、相攻撃するの状を説く(中略) 復立卑彌呼宗女壹與また卑弥呼の宗女「とよ」を立つ年十三爲王國中遂定年十三にして王となり、国中遂に定まるまず卑彌呼(新字体では卑弥呼)ですが、これを女性だから「ひみこ」である、などと考えることはできません。なぜなら、彦(ひこ)と姫(ひめ)、男(をとこ)と女(をとめ)、息子(むすこ)と息女(むすめ)などの対比から明らかなように、末尾の「こ」が男性を表わすのが日本語の古くからの習慣であり、これは小野妹子のような人名についても同...卑弥呼の読みと意味

  • 使者の名前

    「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。今回は、卑弥呼が魏に送った使者に関する記述について、私の解釈をご紹介します。原文読み帶方太守劉夏遣使帯方(郡)の太守劉夏、使いを遣わし送汝大夫難升米次使都市牛利・・・汝の大夫「なつめ」、次使「としごり」を送り・・・(中略) 其四年正始四年(西暦243年)倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人倭王また大夫「いせきややこ」ら八人を遣使すここでは、使者の名前として、難升米、都市牛利、伊聲耆掖邪狗の三名が登場します。このうち、難升米については、本ブログの「彌馬升は孝昭天皇か?」という記事でご紹介したように、升が斗の誤字である可能性があり、その場合は斗が「つ」と読めるので、『大日本国語辞典』に難が「な」の万葉仮名、米が「め」の万葉仮名であると書かれていることと合わせて...使者の名前

  • 狗奴国は東海地方にあった

    「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。前回までは、邪馬台国の周辺20か国についてご紹介しましたが、今回はその直後の部分について、私の解釈をご紹介します。原文読み次有奴國此女王境界所盡次に「ぬ」国有り、この女王の境界が尽きる所其南有狗奴國男子爲王その南に「くぬ」国有り、男子を王となす其官有狗古智卑狗不屬女王その官、「くくちひこ」有り、女王に属さずまず、奴国が再び登場しますが、「この女王の境界が尽きる所」と但し書きがあることから、これは九州北部の奴国とは別の国だと思われます。そこで、広く日本地図を見渡してみると、本州の最南端である熊野が目につくのですが、ここには熊野という国造が置かれていたので、ここが古くから人口の多い地域だったことは間違いないでしょう。また、熊野の古い読みは「くまぬ」であり、...狗奴国は東海地方にあった

  • 周辺諸国の名称3

    「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。前回、前々回の解読結果から、邪馬台国周辺の20か国のうち、解読できなかった国は、4:都支国、6:好古都国、7:不呼国、8:姐奴国、9:対蘇国、11:呼邑国、12:華奴蘇奴国、14:為吾国、16:邪馬国、17:躬臣国の10か国となりました。これらの国名については、『大日本読史地図』に該当しそうな国や縣が見当たらず、四世紀以降に名称が改変された可能性もありますから、これらを解読するには稲荷山古墳の鉄剣のような参考資料が新たに発見されるのを待つしかなさそうです。(都支国については、郡支国と書かれた写本もありますが、それでも解読はできませんでした。)なお、華奴蘇奴国に関しては、もしこれを「かなさな」国と読むことができるのであれば、埼玉県北部にある金鑚神社(かな...周辺諸国の名称3

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