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僕は君を守れるか https://note.com/slow_jin/magazines

4歳で小児がんを患った娘の父親です。兄妹間の骨髄移植で白血病を克服するも、15年後、再び訪れた生命の危機に(晩期生涯)僕は娘を守れるか?! 当時の記録を元に、[note]で文系コンテンツを配信しています。

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2022/02/07

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  • 8月_持ってる父[フライフィッシング歳時記]

    母が逝ってからというもの、父はすっかり元気を無くしてしまっていた。お盆に集まった姉夫婦と孫たちが帰ってしまうと、いっそう肩を落とした。 気晴らしになればと思い、渓流釣りに父を誘った。 そう言えば幼い頃、夏休みに父と二人でフナ釣りに出かけた事があった。 森林公園とゴルフ場の間の辺りの池だったと思う。長竿でウキを垂らしてアタリを待つ、、、その繰り返し。 夜勤明けだった父は僕にひとしきり竿の扱いをレクチャーすると、とうとう寝てしまった。 一人ウキを見ていた。 すると、不自然にウキが走り、僕は慌てて父を起こした。 父は日除けにしていた新聞を投げ捨てると、慌てて竿をあおった。 が、びくと

  • 7月_兄と弟の夏休み[フライフィッシング歳時記]

    僕には5才年上の兄がいる。あまり一緒に遊んだ記憶が無いが、とある一件だけは脳裏に在る。 兄は子供の頃から生き物に興味が強く、夏休みには昆虫採取の見本を作る様な人だった。 カブトムシやクワガタ採りの名人だった。 僕が小学校の低学年の頃、虫取りに連れて行って欲しいと頼んだ。 鬱陶しがる兄に見かねた母が口沿いをしたので、渋々僕を連れて行く事になった。 兄が採取場所にしていたタカヤマの森は大人の足でも1時間かかる距離。 おそらく兄はその頃既に自転車だったと思うが、僕は未だ乗れてなかったので徒歩で行く事になったとのだと思う。 朝寝坊の上に徒歩1時間半、着いた頃には既に陽は高く、虫の取れる時

  • 6月_ 梅雨の合間の深山の気配[フライフィッシング歳時記]

    兄から「お前、フライフィッシングをやってみたら」と勧められたて始めたこの趣味。しばらくしてたまたま会社の後輩のK君が釣りキチだと知った。 彼は海釣りがメインだったが、半ば強引に渓流に誘い込んだ。 彼は餌釣り、僕はフライ。互いの釣法に向いたポイント(狙いどころ)を攻めながらあちこちの渓流をさまよった。 しかし彼とて川は素人。二人合わせてもつ抜けできない(一桁の意味)釣行だった。 そんな釣れない僕たちの事は職場でも知られる所となり、そのおかげでとんでもない渓流釣りのエキスパートを紹介された。 その人はスポーツ紙の釣り欄に毎週名前が載る様な人で、渓流の中でも人里離れた源流域を専門とする猛者

  • 5月_鯉は渓では外道なのです [フライフィッシング歳時記]

    5月は連休で始まる。 最近は不景気のせいもあって、家族サービスを近場で済ますお父さんが多いそうだ。 例にもれず我が家もそうした。 渋滞の時間をさけて、開園前に到着したのは山間部のファミリーパーク。 ここは広大な敷地の中に、各種遊具施設、巨大なジャングルジム砦、池などが在る。 公営なので料金が安く、子育て世代では言わずと知れた存在だ。 だから混む。 ゴーカートに乗るにも30分待たされる。 並ばされるのに疲れたところで、池のほとりにやって来た。 こう言う施設の池に必ず在るのが鯉のエサやり場。 ここには順番待ちがない。 早々に我が家もエサのペレットを3袋買った。すでに湾度には沢山のペレッ

  • 4月_オオクママダラカゲロウ [フライフィッシング歳時記]

    かなり昔の事だけど、会社勤めしていた時 職場の同僚達としたお花見で、エライ騒ぎに巻き込まれた事がある。 いや、正しくは、巻き込まれたのでは無く、巻き込んだ?のだ。 事の張本人は僕。どうもアルコールが入ると気が大きくなってしまうフシがある。 大いに盛り上がってほろ酔い気分。夜間照明が落ちて、どこの宴会もお開き。僕たちも帰り支度を始めた頃、茂みの向こうで数人のグループのケンカが始まった。 初めは皆んな無視していたが、多勢に無勢の余りに一方的な状態がかなり深刻な事態に思えて、 「お前ら、えー加減にせんと警察呼ぶぞー」と、ややそっち系のイントネーションで声を上げてしまった。 するとその内の

  • 3月_解禁 [フライフィッシング 歳時記]

    六年前の春、僕は母を亡くした。 その前の年、僕は勤めていた会社を辞め、独立して事業を始めていた。夏には長男も生まれ、慌ただしく、そして何かに焦っていた。 大好きな釣りにも行けない、いや行かなかった年だった。 年がかわって正月、実家に兄弟達が集まった時、母は身体の不調を訴えてあまり動こうとはしなかった。 ほどなくして父から、母が入院すると言う知らせを受けた。 膵臓癌と診断された母の身体には、その時すでに親指大程の腫瘍が在った。 末っ子の僕はおそらく一番手の掛かった子供だっただろう。 兄弟の中ではいちばん実家に近いこともあって、仕事の合間をみては母を見舞った。 しだいに弛んでくる季

  • [闘病記] 僕は君を守れるか 第3章(後編) 生体肺移植

    9月14日、我が家は再び京都に向かって家を出た。 美月(娘)はあの後、人工心肺に繋がれ、駆けつけた循環器内科の先生方の応援もあって、弱っていた心臓も持ち直し、容態は安定した。 翌々日には、京都大学病院から移植コーディネーターの I さんと呼吸器外科のC先生が名古屋医療センターを訪れ、移植を行う事の再確認と、それに向けての転院搬送などの具体的な検討がなされた。 そしてその二日後の9月14日に美月は搬送される事になったのだ。 その日の朝、美月に先行すること4時間前、僕たたは京都に向けて家を出た。 美月の搬送はドクターヘリではなく、救急車による搬送だったが、T先生は言葉通り、救急車に同乗

  • [闘病記] 僕は君を守れるか 第3章(前編) 白血病克服から13年後晩期障害

    仰々しい酸素ボンベが狭い玄関に運ばれた。そこから伸びるシリコンのチューブは二階 娘の室まで伸びている。美月(娘)は今日から24時間の在宅酸素療法となった。 4歳4ヶ月に悪性リンパ腫を発症。 化学療法で完全寛解を保つも、4年後に骨髄から再発。 病名も急性リンパ性白血病となって、再びの闘病生活。 それでも、兄妹間の同種骨髄移植が功を奏し、ついに白血病を克服。 3年、5年と、時が過ぎ、成長障害には悩みながらも、再発の危惧は過去の記憶となっていた。 しかし、美月の体には、いわゆる晩期障害として、元疾患と引き換えに、大きな代償が刻み込まれていたのだ。 美月は今年、成人の日を迎えた。 中学

  • いつかは、槍(槍ヶ岳)の穂先に立ってみたい

    「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」 と、信長さんが踊ったかどうかは知らないけれど、 そんな歳になると、皆、あれやこれやと思うところがあるらしい。 同窓会で『山登りの会』に誘われた。 登山がかなり清々しく、肉体・精神、共に宜し、と言う事は、 「お前に言われなくても知ってるよ!」と、 無下にその誘いを断ったていた僕。 なぜなら、自分にはフライフィッシングと言う 同じ様な自然と戯れる趣味があり、 これ以上の散財許さず! と、妻からの強いカネシバリがあったんだ。 なので、愛妻家、モトイ、恐妻家の僕は、友人たちのたまに届く便りを眺めては、見て見ぬ振りをしていたのさ。

  • それぞれの思い/ドナーリンパ球輸注

    奇跡が起きた。 退院後のフォローアップ検査で、美月(娘)の血液はドナー(兄)由来の完全キメラに移行していったのだ。 その後も、H先生が危惧していた、入退院を繰り返す様な状態とはならなかった。 さて、 この文章は、当時の記録や記憶をもとに、15年後の僕が書いているんだけれど、 これを読んだ妻が、クレームをつけてきた。 「なんかお父さん、良い感じに”俺の手柄”みたいに書いてるけど、美月は退院前に、お兄ちゃんのドナーリンパ球輸注(後書き参照)をしてるからね!」 「そうでしょう、そうでしょう、そんな日光浴なんかで癌が消えた!なんて、非化学的な話は馬鹿げてる」 そんな医師の声が聞こえて来

  • いざ、おとぎの国へ/日光浴と免疫力

    そして美月(娘)は退院しした。 4年前の化学療法の時を上回る、10ヶ月の入院生活だった。 H先生の「退院ししてもまた直ぐ入退院をく繰り返すことになるかも」と言う言葉が重くのしかかり、 妻も僕も、4年前の時の様に、手放しでは喜べなかった。 それでも美月には、闘病生活に耐えたご褒美が必要だ。 そこで、我が家は、学校が始まる前に、 ディズニーランドへの家族旅行を計画した。 そして僕には、あるたくらみがあったんだ。 僕の父親は戦災孤児で、ろくな教育も受けていなくて、子育ても母親に任せきりだったけど、健康については一つだけ持論を持っていた。 それは、「おひさまに当たれば病気は治る!」と言う

  • 爪痕を残したかったと思うんだ/復学

    兄妹間の骨髄移植を終えてもなお、 「いま退院しても、直ぐに入退院を繰り返す事になってしまう・・・」 と言う、主治医の言葉にすべてを悟ってしまう僕たち夫婦。 「それでも、とにかく一度、退院させて欲しい」 「そして、もう一度学校に通わせてやりた」と願う妻。 その願いは受け入れられ、美月(娘)は3月末に退院することとなった。 再発入院から、既に10ヶ月が経過していた。もうすっかり小児病棟のヌシだ。 退院が決まっても、晴れない妻の表情に、周囲も気遣いする状況だった。 事情を知る看護師さんたちは、給湯室で肩を落として洗い物をする妻を見つけると、声をかけて励ましてくれた。 妻は妻で、復学の事

  • カオス(混沌)/キメリズム

    2003年の年が明けた。 骨髄移植後、順調に白血球数が回復してもなお、H先生の表情は冴えなかった。 理由は2つ。 一つは、回復する白血球とは裏腹に、血小板の数が上がってこなかったこと。 もう一つは、キメリズム(*文末参照)の結果、2ヶ月が経過してもなお、混合キメラの状態だったからだ。 この二つの結果から導かれる今の状況は? 白血病細胞が残存している可能性が高いと言うことだ。 ただ、それは、あれから15年が経過した今の僕が言えることで 当時、H先生からそれについての説明はなかったんだ。 H先生は、ただ首を傾げ、血小板の輸血を繰り返すだけ。 骨髄移植が終われば退院できる。 もと

  • 兄から妹に/同種造血幹細胞移植

    移植では、当日をDay0とし、それより前の日をマイナスで、移植後の日をプラスで表記する。 Day-3 つまり移植日の3日前、娘は無菌室に移った。 そして、 Day-2. Day-1の二日間、午前と午後の計4回、放射線の全身照射がなされた。 11/20、Day0 いよいよ骨髄移植の日。 午前11:00お兄ちゃんの腸骨から採取されたと骨髄液が 午後1:30、妹の点滴に込められた。完了まで7時間を要した。最後は生理食塩水ですすぐ様に、一滴の無駄も無く流された。 Day+1〜10 白血球数は0〜300の範囲を上下。 この間、娘は嘔吐と下痢の連続だった。 その様子を僕達はガラス越しにしか見

  • ならば、どうする/インフォームドコンセント

    主治医に、「どうしてもとミニ移植を希望するなら、転院してもらうしか無い」 と言われたその日、僕たち(夫婦)は消灯時間になるまで話し合ったんだ。 妻は僕の意見にある程度の理解を示してくれたものの、 転院と言う重大な結論に至るにはあまりに遠すぎた。 当時、成人の白血病も含めて、ミニ移植をしている施設は全国でもほんのわずか。 当然、県外に移転しなければならなかった。 自宅から車でわずか20分の恵まれた地理的環境。 そして、娘にとっても、 3年前の元疾患発症から今日までに築いた、H先生や看護士さんとの信頼関係。 それらを考えると、転院はあまりに非現実的だった。 僕にしても、可能な限り移植

  • 疑問をぶつけた/フル移植とミニ移植

    僕が抱いた疑問 つまり、骨髄移植において もし、本当にGVL効果が作用しているのなら、 患者の身体を苦しめる強い抗がん剤とか、放射線の全身照射などの移植前処置は必要無いんじゃないかと。 実際、当時すでにその様な移植方法を取る医療機関もわずかにだけど在ったんだ。 ただ、それはあくまでも 高齢者や、内臓疾患などのある、強力な前処置に耐えられない患者に対して、やむを得ず行うもので、 小児においては、フル移植ありきが本流だった。 H先生の治療方針も同じだった。 僕にはそれが歯痒く、 生存率ありきの、医療のエゴイズムの様に思えた。 そして、 骨髄移植のインフォームドコンセントが行われた日に

  • ネタバレと言う題のプロフィール記事

    ↑のネタバレと言うのは、この[note]で僕が書いている「僕は君を守れるか」と言うタイトルの三部作(マガジン)のネタバレと言う意味です。 この「僕は君を守れるか」は、今から20年以上も前の、 当時4歳4ヶ月で小児がんを発症した娘の入院生活 〜「序章_元疾患編」 その4年後に再発した白血病を兄妹間の骨髄移植で切り抜け 〜「破章_骨髄移植編 」 にもかかわらず、その17年後に三たびおとずれた生命の危機を乗り越えた 〜「急章_生体肺移植編」(執筆中) 家族の物語です。 あっ、先に断っておきますと、 「ネタ」と言うのは 娘の生存のことではありません。 娘は今も生きてます。(笑) では、何

  • そもそも骨髄移植って?/GVHDとGVL/晩期障害

    骨髄移植に向けて、僕はますます知識を集めていた。 インターネットだけでは飽き足らず、医療系の専門誌まで買った。 そして、一つの疑問が湧いて来たんだ。 そもそも骨髄移植とは、 ドナー(提供者)から採取した造血幹細胞(全ての血液の元となる細胞)を、レシピエント(患者)に移植(と言っても外科的にではなく輸血と同じ方法)して、患者の失われた造血機能を回復させる医療。 つまり、 がん細胞に侵されてしまった骨髄の中を、強い抗がん剤や放射線を用いて焼け野原状態とし、そこに新たな血液の元を植え込むと言う治療方法なんだ。 ただ、それには他の臓器移植と大きく異なる事がある。 通常の臓器移植の場合

  • 現実は甘くなかった/CRP

    「来るなら来い!」と勝手に気負っていた僕の思惑とは裏腹に、娘の現実は厳しかった。 骨髄移植を行うためにも、先ず、病状を安定させなければならないからだ。 H先生の話では、白血病細胞(=癌細胞)を叩くために、以前よりも強力な化学療法を2・3クール行う必要があるのだが、それさえ行えないのが当時の状況だった。 おそらくは、既に骨髄の中が白血病細胞に侵されていて、正常な白血球が作られていなかったんだね。 その免疫力の低下した状況で、何らかの菌やウイルスに常時さらされての発熱やら下痢っだったんだ。 前にも書いたように、抗がん剤は悪い細胞を叩くと同時に、正常な細胞の生産も阻害する。 なので、免

  • 不幸中の幸い/HLA

    僕が再発と聞いても動揺しなかったのには一つの理由があったんだ。 美月(娘)の急性リンパ性白血病細胞ににおいて 再発した場合、次の治療法は骨髄移植になるのだけど、 そこにはドナー確保と言う壁がある。 そのドナーが美月には担保されていたから。 遡る事、3年前、 当時僕は、小児がんや血液がんの知識や情報の拠り所として、ルークトーク(白血病談話室)と言う名のメーリングリスト)に参加していた。 僕はそこで知り合ったHLA研究所のN先生の元で、既に家族4人のHLAを調べていた。 そして、美月の唯一の兄妹、正弘が完全一致と言う結果を得ていたんだ。 仮にもし再発したとしても、ウチにはおおにい兄ちゃ

  • 骨髄移植に向けて/HLA

    再発と聞いても僕が動揺しなかったのには一つの理由があった。 美月(娘)の急性リンパ性白血病ににおいて 再発した場合、次の治療法は骨髄移植になるのだけど、 そこにはドナー確保と言う大きな壁がある。 そのドナーが娘には担保されていたからなんだ。 遡る事、3年前、 当時、小児がんや血液がんの知識や情報の拠り所にしていたルークトーク(「白血病談話室」と言う名のメーリングリスト)で知り合ったHLA研究所のN先生の元で、 僕ら家族は既に4人のHLA(ヒト白血球型抗原)を調べていた。 そして、美月の唯一の兄妹、正弘が完全一致と言う結果を得ていたんだ。 仮にもし、美月が再発したとしても、ウチには

  • 再発

    赤血球、白血球、血小板、人体にはいったいどれほの数の血液細胞があるのだろう? 「万にひとつ、、、」と言う表現は、「めったに起こらないこと」のたとえだが、たかだか10のマイナス4乗。 それは大いにあり得ることだ。 娘は4歳4ヶ月で悪性リンパ腫を発症。その後、約半年の化学療法を終えて退院した。 退院後は月に一度の定期検診でフォローされていた。 3年が経過したその年の夏頃、微熱が続き、ついに白血球数の異常を認め、マルク(骨髄穿刺)の結果、再発と診断された。 骨髄から再発したことで、病名も悪性リンパ腫から急性リンパ性白血病に改められた。 白血病に限らず、おそらく全ての癌において、完全寛解

  • 退院

    この大学病院で娘は癌と戦い、半年の月日が経っていた。 前年12月、病室の窓から見えた景色は何もかもがグレーで、ただただぼんやりと、どこまでも続いていた。 それが今は、力強く新緑の木々は煌めき、花壇の花々が色彩を誇っていた。 そしてついに、退院の日を迎えた。 荷物をまとめ終えて空になったベッドサイドデスクが、今日が外泊ではなく、紛れもない退院の日である事を物語っていた。 娘も今日の日が待ちに待ったゴールであり、いよいよその瞬間が訪れる喜びに興奮していた。 病室を出るとき、同室のお母さん方から祝福の声をかけてくれた。 これまで見送る立場だったが僕らが、今日は見送られる立場となった。

  • 謎の微笑み/父親の社会活動

    何度目かの外泊。連休が絡んだ3泊4日だったと思う。けれど、最終日はどうしても抜けられない仕事があった。 病院には夜までに戻れば良い事になっていたので、仕事を終えて帰ってから向かうつもりでいた。 ところが、朝から美月(娘)の具合が変だった。抽象的な表現なんだけど、とにかく「変」だったんだ。 呼びかけても起きているのか寝ぼけているのか?もしかしたら麻痺があるのかとも思えるのだけど、そうでも無さそう。 発熱とか嘔吐とかの具体的な症状は一切なし。 とにかく「何かあったら電話して」と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで僕は仕事に出た。そして、10時ごろ携帯が鳴った。 「やっぱり変だよ なんか

  • あの日揺れなかったランドセル/父親失格

    新年度を迎えて、美月(娘)の兄(正広)は小学2年生となった。 美月の入院中は、正広を妻の実家に預けていた。と言っても自宅のアパートから妻の実家までは歩いても5.、6分の距離。僕も朝晩の食事は妻の実家で取った。 朝食の後は正広をグループ登校の集合場所まで送り、その足で僕も仕事に向かった。 グループ登校では幼なじみが二人居たので、いつも、集合場所の手前から駆け出して行った。 真新しいランドセルが左右に揺れて行く姿に、自分の子供の頃と同じだと感じて安堵した。 ある日の朝、食事中に行儀の悪い息子をぼくは強く叱責した。 息子も娘も自分の子供の頃と比べれば随分と聞き分けの良い方なので怒ったりする

  • 初めての外泊/寛解

    抗がん剤治療の第一クール(寛解導入療法)が終わって、マルク(骨髄穿刺)が行われた。 先生の口から無事に寛解に至った事が告げられた。最初の治療の結果(応答性)が予後に大きく関わると聞いていたので、僕達は素直に喜んだ。 寛解というのは骨髄の状態が正常の範囲にある状態のことで、必ずしも悪性細胞が0になった事を意味しない。一万個の細胞の中にたったひとつでも潜んでいたら、その一つが増殖を繰り返し、やがてまた骨髄は悪性細胞に占拠されてしまう。なので、治療は正常な血液の回復を待って、再び抗がん剤の投与が繰り返されるのだ。 第二クールが終わって、初めて外泊許可が出た。 外泊のことは他の親御さ

  • 小児病棟の夜/患児の母親の想い

    小児病棟の夜 抗がん剤の他にも種々の飲み薬を渡された。 四歳の娘にとっては、むしろこっちの方が大変。錠剤などは飲み込めるワケもなく、看護師さんや同室のお母さん方からのアドバイスで工夫して飲ませた。 中でもファンギゾンシロップと言うオレンジ色のシロップは強烈に不味いらしい。 気丈な娘ではあるけどやっぱり抗がん剤治療が始まると次第に癇癪を起こす事も少なくなかった。これは付き添う親にとっても辛い。 4人部屋、同室の他の方々に申し訳無いと言うのもあるが、上手に子供をあやせない自分が嫌になる。 ある時シンクで食器を洗っていると、同室のお母さんが声をかけてくれた。 「そんな事いちいち気にしてた

  • それしか僕には出来なかった/ネット時代の闘病法

    当時の僕は小さなインテリアデザイン事務所をやっていて、パソコン(マック)に向かうことも多く、小規模オフィスとしては比較的早期にインターネットにアクセスできる環境だった。もっとも、未だLINEもFaicebookもウィキペディアさえもない黎明期。医療関係の情報は各地の国立大学医学部のホームページを見て回った。 見て回ったと言っても、医学用語はチンプンカンプン。アクセスしてはその中の語句を拾ってまた検索。拾っては検索、、、拾っては検索。 インフォームドコンセント、セカンドオピニオン、カンファレンス エビデンス、プロトコル 腫瘍マーカー CD4+ cd16+ 寛解 微少残存病変&

  • 分厚いガラス扉が隔てる兄と妹/患児と家族

    小児病棟は免疫力が低下した感染症に対して無防備な子供たちばかりなので、お見舞いにも制限があった。 面会は必ず談話室兼食堂。当然、子供の体調のいい時に限られる。 また、たとえ兄弟であっても、子供は病棟の中に入ることは禁じられている。(子供は感染症キャリアの可能性が高い) 付き添いは1人。病院によっては完全看護で、まるっきり子供を預けてしまう所もある様だけれど、N大学病院ではお父さんかお母さんのどちらかが付き添ってほしいと言われていた。 なのでウチは土曜日の昼までを妻が見て、土曜日の夜は僕が泊まり、日曜の夜に交代と言うサイクルだった。 他の家族もそう言うパターンが多いから、日曜日はお

  • 脱毛前に写真を撮ったんだ/化学療法

    治療開始 治療開始前の検査として生検の他に行われたのが骨髄穿刺(マルク)。 針の太い注射器の逆バージョンを腰骨辺りに刺して骨髄液を採取し、造血の場である骨髄の状態を調べるのだそうだ。 大人の自分が聞いてもゾッとする検査、わずか4歳半の娘がそれに耐えられるのか心配した。 実際には局所麻酔をかけてから(大人は麻酔なしらしい)行うので、穿刺の痛みは感じないらしいけど、検査の後のグッタリした様子が痛々しかった。 もう一つは中心静脈カテーテル(CVC)。これは検査ではなくて、点滴ルートのこと。普通、点滴と言うと左右どちらかの手に針を刺して固定されるものだけど、今後の治療では頻繁に血液

  • わずかな望みは呆気なく打ち砕かれた/小児慢性特定疾病

    翌日、生検の為に娘はストレッチャーで運び出された。 少し怯えた表情の娘を、若い外科医の先生があやしてくれた。 そのおかげもあってか、切除は直ぐに終わり、娘は明るい表情で病室に戻ってきた。 腫れがほぼ無くなり喜ぶ娘の横で、H先生から後日改めて検査結果や今後についての話があると告げられた。 そして週末、僕と妻は看護師さんの案内で病棟の一画にある六畳くらいの狭い部屋に通された。 中にはH先生と看護師のNさんが待っていた。 テーブルの上には種々の印刷物が置かれていた。H先生が話しはじめた。 やはり、娘の腫瘍は悪性のもので、病名は悪性リンパ腫。先生が話す横で、Hさんが印刷物のページをめくった

  • 総合病院、そして大学病院へ

    月曜になって、僕達はM総合病院へ向かった。 受診した医師の話では、リンパの腫れをもたらす病気はいくつかあって、それを突き止めるにはしばらく入院して検査が必要との事だった。 診察室を出た僕達は、看護師さんに促されるままに入院の手続きをした。緊張していたのか、書類に上手くサインできなかった。 病室は二人部屋で、奥のベッドには、娘と同じ年頃の女の子が居た。 ウイルス性の胃腸炎との事で、入院当初は大変だったらしいが、今はだいぶ落ち着いた様子だった。感染症なので、一緒に遊ぶことはかなわかったけれど、カーテンの向こう、自分と同じ年頃の子がいる事を娘はどんな風に感じていただろうか。 事態の展開

  • 始まりは

    もう20年も前の事だから全てを覚えているわけじゃないんだ。でも、さすがにあの日の事は覚えている。 あの日、四歳と四ヶ月になる風呂上がりの娘の体を拭きながら、妻が僕を呼んだ。 「ねえ、お父さん、美月(娘)の首のところ、ほらここ、なんか硬くなってる」 娘の首、僕から見て右側が少し盛り上がって見えた。 触ってみると固く、ゴツゴツしていた。 「痛い?」と聞いてみたけれど、娘は首を振った。 「リンパ節のある所だね」そう言いながら、僕は何度もその辺りを撫でたり押したりした。 それと言うのも、僕自身リンパ節が腫れる体質で、子供の頃から何度もそれが原因で高熱を出していたから。同じ体質の人なら

  • たしかなこと

    朝目覚めた時、それが夢なのか現実に有った記憶なのか、しばし判別のつかない事がある。 今朝見た夢は、幼少の頃に過ごした実家近くの路地裏で僕は学校帰りの君と出会う。 手を擦り合わせて頼み込む僕に、Yesとも Noとも答えず、ただ悪戯ぽく微笑む君。 現実の君は今も続く反抗期。 冷静に考えればそんな事などあり得ることは無く 「ダウト!」と僕は今みた夢に言ってやった。 そうだ、まだ判別のつくうちに、これまであった事。 確かにあった事を書き残しておこう。 今から書くことは、本当にあった、娘との事、家族との事。

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