chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • ウソだ〜!?(笑)

    来年の大河ドラマの主人公徳川家康しかみ像この絵は、家康が武田信玄に三方原の戦いで大敗し、命拾いして逃げ帰った後、絵師に描かせ、以来戒めとして持ち歩いた姿とされています。それが…来年、家康役を演じる松本潤くんがしかみ像を再現すると…!!?ウソだ〜〜〜!!イケメン過ぎる〜(笑)今年1年ありがとうございました。よいお年のお迎え下さいませ。葵北風ウソだ〜!?(笑)

  • 名城紀行 18 要害山城 武田信玄公誕生地

    武田信玄公誕生の地要害山城跡~遠景山梨県甲府市上積翠寺町要害山案内碑要害山要害山城は、1520年永正17年に信玄の父、武田信虎が築いた山城です。居館と政庁を兼ねた武田氏館(躑躅ヶ崎館~現在の武田神社)に対し、緊急時に避難し、いざとなると、籠城するための詰の城としての役割を担っていました。1521年大永元年、武田信虎が今川氏の軍勢に追い詰められた際は、身籠っていた正妻の大井夫人をこの要害山に避難させ、出産に備えました。要害山城山麓堅堀跡不動曲輪、武田不動尊要害山城は、山麓から竪堀で守りを固め、山腹から主郭に至る通路に沿って虎口竪堀、土塁を構築し、さらに要所に門を配置して厳重な防御を固めていました。山頂主郭要害山城山頂の主郭には、建物、庭園か存在したと推定されています。1521年大永元年9月、信玄公生母大井夫...名城紀行18要害山城武田信玄公誕生地

  • 歴史紀行 特別編 24 大河ドラマ どうする家康 出演者ガイド 3

    どうする家康メインポスター服部半蔵〜山田孝之テレビ、舞台、映画で活躍中テレビ〜闇金ウシジマくんシリーズ、勇者ヨシヒコシリーズなど。CM缶コーヒージョージア、エメラルドマウンテンシリーズ。女大鼠〜松本まりかテレビドラマで数々のゲスト役で出演、大河ドラマ〜葵徳川三代で千姫役を演じる。今川義元〜野村萬斎狂言師として多数の舞台に上がる映画〜陰陽師シリーズで安倍晴明を好演。映画〜のぼうの城で豊臣軍を翻弄する成田長親を好演。大河ドラマ〜花の乱で主人公細川勝元を好演。今川氏真〜溝端淳平テレビ、映画で出演作多数ドラマ新参者シリーズ、映画麒麟の翼〜新参者でレギュラー出演など。織田信長〜岡田准一アイドルグループV6のメンバー映画SPエスピー、永遠の0、関ヶ原、燃えよ剣で主演。大河ドラマ〜軍師官兵衛で黒田官兵衛を演じ主演。お市...歴史紀行特別編24大河ドラマどうする家康出演者ガイド3

  • 歴史紀行 特別編 24 大河ドラマ どうする家康 出演者ガイド 2

    大河ドラマどうする家康メインポスターどうする家康出演者2平岩親吉〜岡部大お笑いトリオ【ハナコ】メンバードラマ〜私の家政婦ナギサさん、アトムの童など。大久保忠世〜小手伸也主に舞台を主戦場にした舞台俳優大河ドラマ〜真田丸で塙団右衛門を演じて注目される。石川数正〜松重豊テレビ〜孤独のグルメでお馴染み主な出演作、ブラッティマンディ、カムカムエヴリバディ、大河ドラマ〜八重の桜、いだてん夏目広次〜甲本雅裕舞台、ドラマと幅広いジャンルで活躍するバイプレーヤー。大河ドラマは今作が4作目の出演。渡辺守綱〜木村昴アニメ〜ドラえもんでジャイアンの声優に抜擢されて注目される。大河ドラマ〜鎌倉殿の13人、以仁王役に次いで2年連続出演。本多忠真〜波岡一喜映画〜パッチギで注目され、大河ドラマ〜平清盛で悪源太義平を好演、青天を衝けでは、...歴史紀行特別編24大河ドラマどうする家康出演者ガイド2

  • 歴史紀行 特別編 24 大河ドラマ どうする家康 出演者ガイド 1

    大河ドラマどうする家康メインポスター2023年のNHK大河ドラマどうする家康前半の主な出演者リストが決まりました。徳川家康(松平元康)〜松本潤言わずと知れた国民的アイドルユニット嵐のメンバードラマごくせん第1期の主要生徒役を好演最近では映画99.9刑事専門弁護士に主演瀬名(築山殿)〜有村架純数々のテレビ、映画で活躍する若手女優最有力映画〜ビリギャル、花束みたいな恋をしたで主演、朝ドラ〜ひよっこ〜では主演を務める。於大(伝通院〜家康の母)〜松嶋菜々子大河ドラマ〜利家とまつ〜加賀百万石物語で唐沢寿明とダブル主演救命救急24時シリーズ〜ダブル主演代表作〜家政婦のミタの狂気に満ちた演技が話題に。酒井忠次〜大森南朋大河ドラマ〜龍馬伝〜で龍馬に多大な影響を与えた武市半平太の壮絶な生き様を好演数多くのドラマで助演役を好...歴史紀行特別編24大河ドラマどうする家康出演者ガイド1

  • 葵 夜話 27 文春砲

    OLに扮した与田ちゃんがプラモ作りにハマる!という異色のプラモドラマ〜量産型リコ〜やっと来た正月休みに堪能しようと思ってましたが…彼女にも来ましたね〜文春砲が…。なんだかもう…観る気も失せました。明日からは図書館と本屋で歴史を掘り起こすことに軌道修正です。葵夜話27文春砲

  • 現代語釈 徳川実紀 43 桶狭間の戦い〜三鹿の渡し 1

    三鹿の渡し元康君を大高城から安全に逃がすべく、平八郎は与七郎(石川数正)らと先駆け隊となり、三河へ駆ける。大高城の様子を伺っていた野盗の類いは、大手門が開門され、雪崩れ込もうと色めき立った。その刹那、〜どけどけ!主命である!邪魔だ!〜〜ぎゃ〜っ!、ひぃ〜っ!〜平八郎は馬上で槍を振るって進路を塞ぐ格好になった野盗らを血祭りに挙げると、そのまま走り去った。平八郎に続いた馬上の与七郎もこれには唖然となった。残った野盗らは、凄まじい形相で仲間を斬り殺して行った三河武士の恐ろしさを肌で感じて、慌てて大高城から去っていった。この様子を本丸から眺めていた元康君は、〜ほほう、これは頼もしき侍大将になるのう〜元康君は、元服間もない平八郎が野盗らをも臆することなく蹴散らして、主命を果たそうと駆け去った後で、烏帽子親として誇ら...現代語釈徳川実紀43桶狭間の戦い〜三鹿の渡し1

  • NEXT HISTORY PLACE 現代語釈 徳川実紀 43 三鹿の渡し

    矢作川大高城からの退去を探る元康。若き主君のため、平八郎と馬上の先発隊は、三河への安全な道があるか、命懸けの進路を見つけるべく奔走します。今夜、掲載致します。NEXTHISTORYPLACE現代語釈徳川実紀43三鹿の渡し

  • 歴史 今日の出来事 治承4年12月28日(1181年1月15日) 平家、南都焼き討ち

    治承4年12月28日(1181年1月15日)〜平家南都焼き討ち〜平重衡の軍勢が東大寺・興福寺を焼き払う東大寺盧舎那仏坐像奈良県奈良市雑司町国宝にして世界遺産に登録された東大寺の大仏さまです。正しくは、銅造盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)といいます。盧舎那仏は、知恵と慈悲の光明をあまねく照らす仏の意味を表します。東大寺大仏殿の本尊として743年天平15年、聖武天皇の詔(みことのり)により造立が決まり、鋳師(いもじ)が3年をかけて仏体を整え、像の高さは14.73メートル、使われた銅は500トンにも及び、完成となる開眼供養の儀式が行われたのは詔から10年目の752年天平勝宝4年のことで、大仏の開眼供養の後に大仏殿を始めとした伽藍が整備されました。大仏は、平安時代末期の源氏と平家の戦いか激化した1180年治承4...歴史今日の出来事治承4年12月28日(1181年1月15日)平家、南都焼き討ち

  • 名城紀行 17 長篠城

    長篠城本丸跡愛知県新城市長篠市場長篠城設楽ヶ原古戦場愛知県新城市大宮清水長篠設楽ヶ原の戦いは、徳川家康が武田信玄存命の時に奪われた長篠城を、信玄病没後に国衆でもある城主奥平貞昌に娘亀姫を嫁がせて調略して帰属させ、それに激怒した武田勝頼による長篠城包囲戦から始まりました。長篠城本丸跡武田勝頼は一万五千の軍勢で長篠城を包囲し、籠城の長篠城兵はわずか500..決死の脱出を謀った奥平の家臣鳥居強右衛門が岡崎城の徳川家康に救援を依頼したことから家康は直ちに軍勢を進発。宇連川と寒狭川に挟まれた天然の要害でした。現在は、本丸を分断して飯田線が走っています。二の丸堀また家康の意を受けた織田信長も大軍勢を岐阜から動員しました。鳥居強右衛門上陸地家康と信長は鉄砲の軍勢を多数動員して東三河の設楽ヶ原に布陣して長大な馬防柵を構築...名城紀行17長篠城

  • 歴史紀行 動物編 1 ‐ 6 南極観測隊 樺太犬 タロ、ジロ 6

    元南極観測船宗谷東京都品川区東八潮樺太犬タロ、ジロの像名古屋市港区ガーデン埠頭昭和基地昭和32年1月10日、東京、晴海埠頭を出港して以来ふた月あまり、宗谷は南アフリカ、ケープタウン港を出て、南極圏へ入ります。船体が62度も傾く暴風域にも耐え、南極大陸をとり囲むバックアイス群(日本で例えるとすれば、冬のオホーツク海を占める流氷といったところでしょうか)に到達しました。ここで、宗谷の随伴艦〜海鷹丸が最後の補給を宗谷に届けて南極圏を離れます。単独で南極大陸を目指すことになった宗谷の船長は厚い蒼氷群(そうひょうぐん)を爆破や体当たりでなんとか破砕しながら進む中、1月24日になり、ビクともしない蒼氷により、これ以上前進することは不可能と判断します。宗谷は南緯69度東経39度の海上に接岸を完了し、観測隊の永田武隊長は...歴史紀行動物編1‐6南極観測隊樺太犬タロ、ジロ6

  • NEXT HISTORY PLACE 歴史紀行 動物編 1 - 6 南極観測隊樺太犬タロ、ジロ 6

    南極観測船宗谷非常に困難な航海の果てに南極圏へ入った宗谷。大陸への上陸に頼りとされたのは、樺太犬たちでした。今夜掲載の予定です。NEXTHISTORYPLACE歴史紀行動物編1-6南極観測隊樺太犬タロ、ジロ6

  • 歴史 今日の出来事 天文11年(1543年)12月26日 徳川家康公 誕生

    徳川家康公像1543年天文11年12月26日(1543年1月31日)徳川家康公生誕の日戦国時代も熾烈を極めていた天文11年(1543年)に三河国(現在の愛知県東部)の岡崎で、徳川家康公がこの世に生を受けました。(幼名松平竹千代)幼少期に母と生き別れ、少年時代には人質の身柄から尾張織田氏に売られ、更に人質交換で駿河今川氏へと送られ、多感な青年時代を忍従の日々で送り、今川義元の討死を契機に独立し、自立の道を歩みます。織田信長と同盟、武田信玄と幾度も苦戦を経験し、信長の死後、破竹の勢いで駆け上がる秀吉には、局地戦で勝利して苦手意識を植え付けました。秀吉の死後、遂に立ち上がり、関ヶ原の戦いで勝利して反対勢力を一掃して事実上の天下人となります。1603年慶長8年2月12日、武家の頂点、征夷大将軍となりました。歴史今日の出来事天文11年(1543年)12月26日徳川家康公誕生

  • 歴史紀行 特別編 23 ゼレンスキー、ウクライナ大統領 米国連邦議会スピーチ全文

    ゼレンスキーウクライナ大統領12月21日(アメリカ)、12月22日(日本時間)、ロシアにより軍事侵攻を受けているウクライナのゼレンスキー大統領は、侵攻後、初めて母国を出てアメリカに降り立ちました。ゼレンスキー大統領は、アメリカ連邦議会で上下両院の議員が観守る中壇上に立ち、本格的な厳しい冬を迎えた今も、ロシアの暴虐な侵攻は続いてることから、改めて世界からの支援を呼びかけました。ウクライナ共和国ゼレンスキー大統領のスピーチ全文です。アメリカの連邦議会でこうして皆さんにお話しでき、大変光栄です。あらゆる見通しや悲観的なシナリオに反して、ウクライナは陥落しませんでした。ウクライナは健在です。そして、私たちの初めての勝利を分かちあう、十分な理由があります。私たちは、世界の心をつかむ戦いでロシアを打ち負かしました。私...歴史紀行特別編23ゼレンスキー、ウクライナ大統領米国連邦議会スピーチ全文

  • 名城紀行 16 勝幡城〜織田信長誕生地

    勝幡城跡愛知県稲沢市平和町六輪城之内三英傑という言葉があります。歴史好きには定着した言葉となのですが、下剋上の只中にあった戦国時代に生まれ、それぞれ個性的で、様々な才覚と武力で近隣の強豪武家を倒し、屈服させ、やがて戦国の世を終わらせた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人を指す、主に名古屋で使われる言葉ですが、今では三英傑と言えば、3人の尊称とわかるでしょうか。3人の出生地が信長、秀吉が尾張、家康が三河。いずれも現在の愛知県の生まれ。勝幡城に生まれ、那古野(名古屋)城主となり、清洲城主時代に桶狭間の戦いで武勇を知らしめた織田信長。信長の死に乗じて素早く立ち回り、かつての信長の家臣を倒し、また臣下として使い、全国統一を果たした豊臣秀吉。秀吉亡き後、関ヶ原で勝利し、江戸に幕府を開いて泰平の世を築いて戦国時代を完全...名城紀行16勝幡城〜織田信長誕生地

  • 現代語釈 徳川実紀 42 桶狭間の戦い〜平八郎の夢

    平八郎の夢駿河の太守、今川義元殿が桶狭間で討ち死にしたという凶報がもたらされ、織田領に入り込んだ大高城で義元殿を待っていた元康君であるが、翌朝には勝ちに乗じた織田方が攻め込んでくることが考えられることから、闇に紛れて退去する決意を固められた。元康君は、昨夜から夜通し戦い抜いた家臣らの疲れを思い、退去までのわずかばかりの時間ではあるが、休息をとらせた。元康君の側を離れずにいた平八郎も束の間の眠りについた。気負っていた心の鎧を解くと、忘れていた疲れから一気に睡魔が襲った。夢の中で、平八郎は馬で駆けていた。蹴散らしても蹴散らしても敵兵が襲いくるのをかいくぐり、死中を脱すべくひたすら走った。やがて大河が行く手を阻む。故郷、三河の大河矢作川であろう。川は雨の日の影響があったらしく、水量も多く、とても渡れそうもない。...現代語釈徳川実紀42桶狭間の戦い〜平八郎の夢

  • NEXT HISTORY PLACE 現代語釈 徳川実紀 42 桶狭間の戦い〜平八郎の夢

    駿河の太守、今川義元が討ち死にしたという凶報がもたらされ、元康は大高城からの脱出を試みることになります。今夜、掲載致します。NEXTHISTORYPLACE現代語釈徳川実紀42桶狭間の戦い〜平八郎の夢

  • 歴史紀行 57 近江 鏡ノ宿 源義経 宿泊館跡

    近江源義経宿泊館跡滋賀県蒲生郡竜王町鏡1174年、承安4年(1174年)3月3日の早朝、20頭あまりの馬に、織物や陶器、綺羅びやかな装飾品など、京で買いつけた品々を馬の背に乗せた金売吉次は、遮那王(源義経)を伴い、屋敷を発ち、瀬田の唐橋を渡り、近江国に入りました。現在の鏡ノ宿〜滋賀県蒲生郡竜王町夜になり、一行は近江の鏡ノ宿(現在の滋賀県蒲生郡竜王町)に入り、宿場一の長者「沢弥傳」(さわやでん)の屋敷を宿とします。長者は駅長(うまやのおさ)とも呼ばれ、弥傳屋敷は宿名を「白木屋」(しらきや)と称しました。義経の旅は、初日から波乱に満ちたものとなります。白木屋におびただしい財宝を持った金売吉次という商人一行が泊まっているらしい。噂を聞きつけた盗賊の大群が白木屋を襲います。大太刀の山賊〜由利太郎と越後の大薙刀の藤...歴史紀行57近江鏡ノ宿源義経宿泊館跡

  • NEXT HISTORY PLACE 近江 鏡ノ宿 源 義経 宿泊館跡

    歴史紀行57近江鏡ノ宿源義経宿泊館跡奥州平泉へ旅立つ源義経、鏡ノ宿で大立ち回りします。順調なら今夜アップ致します。NEXTHISTORYPLACE近江鏡ノ宿源義経宿泊館跡

  • 名城紀行 15 興国寺城

    興国寺城跡静岡県沼津市根古屋字古白駿河今川氏の後継者争いで、嫡子今川氏親を支持。当主代理の座に居座り続けた小鹿範満を討伐して氏親から富士郡下方12郷の所領を拝領した伊勢新九郎盛時。興国寺城跡遠景駿河の東、富士の地域に所領を得た盛時は、愛鷹山の山裾に広がる篠山の尾根に土塁と堀切を巡らした山城を築き上げます。土塁本丸の石垣この地で力を蓄えた盛時は、やがて足利将軍家と血縁ながら内紛の絶えない堀越公方の支配地域伊豆に狙いを定めます。本丸跡本丸跡からの眺め初代城主北条早雲碑戦国時代後期、今川氏が弱体化すると、武田、北条氏が争い、江戸時代になると、徳川家臣の天野康景が入り、興国寺藩となりますが、藩領に入って竹林を伐採して盗み出した幕府天領の農民らを殺傷した行動に過度があるとして家康側近の本多正純に咎められると、激怒し...名城紀行15興国寺城

  • 名城紀行 14 丸子(まりこ)城

    丸子(まりこ)城跡静岡市駿河区丸子1476年文明8年、横地、勝間田両氏を討ち破り、東遠州地方を征した今川義忠。しかし、凱旋の帰路、横地、勝間田の残党に襲撃され、還らぬ人となりました。突然の当主の死に、今川家中は幼少の嫡子、竜王丸を推す家臣と、一門の重鎮である当主の叔父、小鹿範満を推す家臣との後継者争いが勃発しました。嫡子竜王丸と母、北川殿は、家臣長谷川正宣の小川城で保護され、兄(弟)の伊勢新九郎盛時(北条早雲)に事態の仲介を依頼します。盛時は小鹿範満と会談して和解案を提示、竜王丸が元服するまでの間、当主代理として範満が今川の家政を取り仕切ることで合意します。この結果、小鹿範満は今川家当主の居館、駿府館に入り、竜王丸と母、北川殿は盛時と長谷川正宣の計らいで平城である小川城から、山城の丸子城に移ります。万一、...名城紀行14丸子(まりこ)城

  • 名城紀行 12 小川城 2

    小川城跡静岡県焼津市西小川5丁目1476年文明8年、後継者争いが激化して家中を二分にした今川家。先代今川義忠の嫡子竜王丸こそ、今川家を継ぐべきと考えた小川城の長谷川正宣は、対立する小鹿範満が縁者にあたる関東管領の扇谷上杉正憲の家宰、太田道灌を呼び寄せて威嚇、竜王丸と母北川殿の身を案じ、小川城に匿います。北川殿は、京で幕府に仕える父の下で働く伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)に窮状を訴えました。盛時は、8代将軍足利義政に、竜王丸を今川氏の次期当主として認める御内書を認めてもらいます。足利一門に連なる今川家の内紛は、関東に封じた堀越公方の動きを駿河で留めておきたい幕府に役の無いことと認識した義政は御内書を盛時に託し、盛時は義政のお墨付きを携えて駿河に下向します。駿河に到着した盛時は、数百騎の軍勢で威嚇し、太田道灌...名城紀行12小川城2

  • 名城紀行 12 小川城

    小川城跡石碑と案内板駿河小川(こがわ)城跡静岡県焼津市西小川5丁目名城と聞くと、人は誰しも立派な天守を擁する城郭を想像しますが、ぼくは武田信玄公の言葉にもあるように、人は城、人は石垣…の言葉を思い起こします。この城跡は、歴史の波に埋もれ、跡形もありませんが、その城には、後に偉人を輩出した城主がおりました。戦国時代の先駆けを走ったのは北条早雲ですが、早雲が飛躍する過程の中で、今川の当主に御曹司、対立する東遠の豪族横地、勝間田と様々な家の人々が関わってきました。今川家の当主、今川義忠が凱旋の帰途、横地、勝間田の残党に襲撃され、還らぬ人となりました。これにより今川家中は義忠の遺児竜王丸と義忠の伯父にあたる小鹿範満を後継者に推す派閥が家臣団の間に争いとなって起こります。小鹿範満の母方の縁者は相模国守護扇谷上杉家で...名城紀行12小川城

  • 名城紀行 12 石脇城

    石脇城跡静岡県焼津市石脇下1476年文明8年2月、横地城、勝間田城を落とし、遠江守護斯波義廉に組する横地氏、勝間田氏を滅ぼした駿河の守護、今川義忠でしたが、凱旋の帰路、両者の残党の襲撃に遇い、馬上で矢を受け戦死しました。これにより今川家中は混乱し、義忠の遺児である竜王丸は僅か6歳と幼く、義忠の叔父小鹿範満を推す一派と嫡子竜王丸を推す一派とで内紛が発生し、竜王丸の身を案じた母の北川殿は、兄(弟)で、幕府の要職に就くことが確定的の伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)に仲介を依頼しました。石脇城跡案内板駿河に下向した盛時は、今川家から高草山に連なる役30メートルの丘陵地を与えられ、盛時は山城を築城し、石脇城と名付けました。盛時の仲介案は、嫡子竜王丸こそが今川の家督継承者である。という将軍足利義政による正規のお墨付きを...名城紀行12石脇城

  • 現代語釈 徳川実紀 41 桶狭間の戦い〜大高評定 2

    大高評定2義元殿が討たれたらしいという話しが城中の使い番から出だした。戦の模様を見物していた百姓らが騒ぎ立てているのを大手門の番卒が目撃していた。元康君は義元様が間もなく見えるだろうから、城の警護を厳重にせよと命じられる一方で、昨夜から一睡もせずに砦を落とし、兵糧入れも成功させた兵の疲れも出るだろうと心を砕き、交代で休みをとらせた。陽が陰ると、元康君の御母方の兄上、伯父上にあたられる水野下野守信元の重臣、浅井六之助道忠と名乗る者が城下に現れた。元康君の伯父上といっても、今は織田方にある御身じゃないか。【一刻を争う直ちに元康様にお目通りを。】六之助道忠がそう訴えかけているものの、元康君の厳命だからと頑なになっている大手門の番卒らの問答を聞いた石川数正が制して六之助道忠を招き入れた。元康君は、数正が六之助道忠...現代語釈徳川実紀41桶狭間の戦い〜大高評定2

  • NEXT HISTORY PLACE 現代語釈 徳川実紀 41 桶狭間の戦い〜大高評定2

    大高城に現れた水野下野守の使者とは?この後、投稿します。NEXTHISTORYPLACE現代語釈徳川実紀41桶狭間の戦い〜大高評定2

  • 安倍晋三 寄稿 12 希望の同盟へ〜安倍総理 アメリカ連邦議会上下両院合同会議 スピーチ

    希望の同盟へ2015年、戦後70年の節目を迎えたこの年、日本は継続的に中国、北朝鮮の脅威に晒され続けました。日米同盟をより強固な同盟にしようと、当時の安倍総理は、国賓待遇で招待されたアメリカ連邦議会上下両院合同会議の壇上で日本の総理大臣として初めてスピーチしました。希望の同盟へこの言葉で締めくくった安倍総理の英語によるスピーチは約45分にも及び、スピーチ終了後は上下両院議員からのスタンディングオベーションも鳴り響きました。また、壇上では、安倍総理の後ろには、現在のバイデン大統領(当時、副大統領)の姿もありました。2015年4月29日安倍晋三総理(当時)によるアメリカ連邦議会上下両院合同会議でのスピーチ全文はじめに議長、副大統領、上院議員、下院議員の皆様、ゲストと、すべての皆様。1957年6月、日本の総理大...安倍晋三寄稿12希望の同盟へ〜安倍総理アメリカ連邦議会上下両院合同会議スピーチ

  • NEXT HISTORY PLACE 希望の同盟へ〜安倍晋三 寄稿 12

    2015年、戦後70年を迎えたこの年。日米同盟をより強固にしようと、安倍晋三総理(当時)はアメリカ連邦議会上下両院合同会議の壇上で演説しました。この後、全文を公開します。NEXTHISTORYPLACE希望の同盟へ〜安倍晋三寄稿12

  • 歴史紀行 56 源 義経 奥州出立之地〜首途八幡宮

    源義経奥州出立之地〜首途(かどで)八幡宮京都市上京区智恵光院通今出川上る桜井町首途と書いて、〜かどで〜と読みます。とても読み辛く、めずらしい名前です。かつて、この地は謎の商人、金売り吉次の屋敷があったと伝わります。吉次の素性ははっきりしない謎の部分が多く、吉次は奥州からは砂金と馬を、京からは雅な綺羅びやかな品々を持ち寄り行き来する大福長者(大金持ち)の商人とされ、ある日、鞍馬山参詣に訪れた吉次。吉次は参詣の折り、交流ある鞍馬寺の僧と語らう中で、頑なに出家を拒んでいる沙那王(元服前の義経)という稚児に困っているという話が気になり、沙那王に近づくと…〜我を奥州の藤原殿の元へ連れ出してくれ、知己の者から褒美を貰って与えよう〜と持ち掛けられました。秘かに申し出を了承した吉次は、自分の屋敷であるこの地で沙那王と合流...歴史紀行56源義経奥州出立之地〜首途八幡宮

  • NEXT HISTORY PLACE 源 義経 奥州出立之地

    師走の繁忙期でなかなか時間が取れませんが、現在編集中です。NEXTHISTORYPLACE源義経奥州出立之地

  • 名城紀行 11 勝間田城

    勝間田城跡静岡県牧之原市勝田勝間田城は、在地豪族の勝間田氏が築城した山城で、勝間田氏は、平安時代後期に前九年の役で奥州の蝦夷討伐へと向かう八幡太郎源義家が長雨で、遠江に長期滞在を余儀なくされ、その滞在の日々で、土地の長者、相良惟頼の娘との間に生まれた庶子が横地太郎家永で、家永は現在の牧之原台地の西側の丘陵に山城を築いて土着し、横地氏を名乗りました。横地氏2代頼兼は、長男に横地氏を継がせ、次男を台地の東向こうに住まわせ、元服した次男は勝間田氏初代成長となりました。勝間田城三の丸曲輪勝間田氏の名が歴史に正式に登場するのは1156年保元の乱で、勝間田成長は官軍となった平清盛、源義朝らに味方し、以降は源氏と共に戦う豪族として存在感を増します。平治の乱では源氏が敗れ、勝間田氏も雌伏の時を余儀なくされますが、源頼朝の...名城紀行11勝間田城

  • 名城紀行 10 小田原城 2

    小田原城天守閣遠景小田原城神奈川県小田原市城内北条早雲が城主大森藤頼から小田原城を奪ったのは1495年明応4年から1501年明応10年頃とされ、当時の小田原城は、今に伝わる櫓や城壁に守られた大城郭の作りではありませんでした。北条氏が本格的に関東へ進出し始めたのは、2代氏綱の代からで、小田原城を手中にした早雲ですが、自らは伊豆の韮山城で領地を治めました。御用米曲輪天守閣の西側の御用米曲輪は、戦国時代の北条氏の一族と重臣の居館跡とされ、付近からは蒸風呂や井戸もありました。常盤木門江戸時代の本丸正面に位置する常盤木門は、本丸を守る堅固な作りです。常盤木は常緑樹のことで、松の木に代表される常に緑の葉をつけ生育する意味合いから名付けられました。銅門(あかがねもん)二の丸を守る枡形の銅門で、ここを抜けると本丸と天守へ...名城紀行10小田原城2

  • 名城紀行 10 小田原城

    小田原城天守閣小田原城神奈川県小田原市城内戦国時代、下剋上の逸話を語る上で、現在放送中の大河ドラマ~麒麟がくる~で重要なキャラクターである斎藤道三と共に、名前が挙がるのが北条早雲と言えます。室町幕府の一役人に過ぎなかった早雲ですが、駿河今川氏の後継者争いに介入したことから出世の糸口を掴みました。凱旋の帰路、急死した当主今川義忠の正妻である妹(姉)の子、龍王丸を後継者に推し、政敵である当主代理を討ち、今川氏の後継者問題を終わらせて駿河興国寺城と11郡もの所領を得て今川家での地位を盤石にしたものの、その地位にこだわらず、早雲は独自の力で領土拡大と独立して大名への道を歩みました。1493年明応2年、早雲は、後継者争いから身内の殺し合いに発展した伊豆の堀越公方足利茶々丸を攻め、茶々丸は自害(逃亡とも)、主だった抵...名城紀行10小田原城

  • 名城紀行 9 横地城 2

    横地城跡案内板三光寺跡縁者でもある勝間田氏が時宗と深い繋がりがあることから、こちらも時宗の寺院跡と想像されます。横地氏一族の墓1476年文明8年今川義忠による陣頭指揮の軍勢は五百騎で、一週間にわたり猛攻をかけ、焼き討ちされ、敗れた横地氏当主横地秀国は壮絶な討死をとげました。落城後に当主今川義忠が凱旋の帰路、横地の残党に襲われ、流れ矢に当たり不慮の死を遂げた怒りもあったでしょうか。無念の死を慰めるように作られた横地一族の墓は、戦後この地を支配に乗り出した今川の軍勢に蹂躙され、一族と同じように四散しました。その後、周辺から無数の宝篋印塔や墓石が出土し、集められました。横地氏一族の墓藤丸館の跡討死した横地秀国には3人の男児が居りました。藤丸は討死した横地秀国の遺児で、落城時に落ち延び、その後、密かに先祖代々のこ...名城紀行9横地城2

  • 名城紀行 9 横地城

    横地城跡静岡県菊川市東横地横地城は、平安時代から応仁の乱の時代までの約400年以上、東遠地方(東遠江)一帯を支配した横地氏が牧之原台地の西麓の標高約100メートルの丘陵の頂上のある本丸が東の城、中の城、西の城、千畳敷と、大きく四つの区画で分かれています。作市坂石碑中の城、二の丸、本丸に続く坂中城跡二の丸横地神社二の丸横地神社本殿珍名で知られる堀切金玉落としの谷横地氏の発祥1051年永承6年、前九年の役で奥州に出陣する源氏の御曹司、八幡太郎義家が遠江見附で、長雨により長期の逗留を余儀なくされていた時に、土地の長者相良太郎光頼の娘を寵愛し、翌年に生まれたのが太郎左衛門家永でした。横地太郎家永の墓源義家は、太郎左衛門家永を庶子として認め、東遠地方に広大な所領を与え報いました。以来、横地氏は代々東遠の名属として続...名城紀行9横地城

  • 名城紀行 8 岡崎城

    大手門岡崎城愛知県岡崎市康生町岡崎公園岡崎城は徳川家康公生誕の地で、家康公の父、松平広忠、祖父の清康と、二代に渡り家臣の刃の手にかかって非業の死を遂げた不運もあり、滅亡の危機にありましたが、駿河今川義元の庇護により家康公は人質の身なれど立派に成長し、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討死すると独立し、様々な苦難の末に江戸に幕府を開いて征夷大将軍となりました。龍城神社本多忠勝公像徳川家康公像松平元康(徳川家康)騎馬像東照公(家康公)産湯井戸竹千代君像家康公しかみ像三河武士の館家康館(リニューアル前休館)年明けから大河ドラマ館として約一年間営業。岡崎城天守名城紀行8岡崎城

  • 歴史紀行 56 五条天神社

    五条天神社京都市下京区松原通西洞院西入天神前五条天神社は、古来より農耕、医薬、それに禁厭(まじない)の神として崇められ、奈良時代に大和国(現在の奈良県北東部)宇陀地方で創建された五条天神宮が京の平安遷都の際に移されたとされ、後に後鳥羽天皇が五条天神社と改められたと伝わります。〜京の五条の箸の上大の男の弁慶は長い薙刀ふりあげて牛若めがけて斬りかかる〜〜牛若丸は飛び退いて持った扇を投げつけて来い来い来いと欄干の上へあがって手を叩く〜〜前やうしろや右左ここと思えばまたあちら燕のような早業に鬼の弁慶あやまった〜〜牛若丸〜作詞、作曲者不詳ながら、この歌は1911年、明治44年に文部省唱歌として世に誕生しました。この唱歌は全国の尋常小学校や高等小学校といった公立の学生に広く示したことで、源義経と武蔵坊弁慶の出会いの場...歴史紀行56五条天神社

  • 岡崎巡り 3

    岡崎市を北から南へ巡る日帰り旅も終わりです。JR岡崎駅前の松平元康像〜厭離穢土欣求浄土〜〜おんりえどごんぐじょうど〜家康の旗印。大樹寺の御朱印を授かり藤田屋の大あんまき我慢できず食しました。岡崎巡り3

  • 岡崎巡り 2

    岡崎城のある岡崎公園威風堂々の本多忠勝公像岡崎城来年の大河ドラマ〜どうする家康〜の放送に合わせてリニューアル工事中三河武士の舘家康舘は一年間、大河ドラマ館にリニューアルします。家康公も待ってます。岡崎巡り2

  • 岡崎巡り

    岡崎市内を流れる大河〜矢作川大樹寺総門瓦には葵紋が刻まれてます。徳川将軍家の位牌を安置する大樹寺歴代将軍家の位牌を拝見して来ましたが、撮影は厳禁。岡崎巡り

  • 岡崎探索

    徳川家康公像名鉄東岡崎駅前おはようございます。始発電車に乗って岡崎市にやって来ました。岡崎市は、徳川家康公の生誕の地。昔は愛知県民だったこともあり、岡崎は馴染み深い街です。それに来年の大河ドラマ〜どうする家康〜の放送も控え、新しい見どころも増えてきたこともあり、探索を楽しみたいと思います。名鉄東岡崎駅前の徳川家康公像ぼくの知る限り、一番新しい家康公像。といっても2年程経過してますが。大河ドラマ〜どうする家康〜主演は松潤こと松本潤さん。イケメン過ぎの家康公ですね。ポスター欲しい…。駅ナカ朝食は駅ナカの昔からあるロッテリア昼は味噌煮込みうどん〜希望。岡崎探索

  • 歴史紀行 55 - 2 源義経公 武蔵坊弁慶公 之像 2

    源義経公武蔵坊弁慶公之像神奈川県藤沢市藤沢2丁目白旗神社源義経と武蔵坊弁慶の出会いは、1179年治承三年六月で、播磨で焼いてしまった寺の御堂の弁済のために釘代を捻出すべく千本の太刀を集めることを誓い、京の町で太刀を強奪しながら過ごしていた弁慶。奪い取ってきた太刀の数はすでに999本、今日こそ太刀を奪い取って成就させようと京の五条天神で参拝を終えて辺りを闊歩していると、白い装束に、えんじ色の袴裾にまで届きそうな衣を被って顔を隠し、右手には紙扇、腰には太刀を下げた一見、貴族にも見える童子とすれ違いました。これは簡単に奪い取れるとみた弁慶でしたが、かつて鞍馬山で修行した義経に散々翻弄された挙げ句、厚い胸板を蹴られて倒されて取り逃がし、翌日は清水寺の祭礼。あやつは必ず祭礼に現れるはずと大薙刀を手に待ち構えていると...歴史紀行55-2源義経公武蔵坊弁慶公之像2

  • 歴史 今日の出来事 1159年 平治元年12月9日 平治の乱勃発

    平安京一本御書所跡(現在の山中油店)義朝らが天皇、上皇を幽閉した平安京一本御書所跡平治の乱平安京一本御書所跡山中油店京都府京都市上京区下丸屋町下立売通智恵光院西入508源義朝と藤原信頼は、保元の乱以降、朝廷内で絶大な権力を手に改革を進める信西に対し、互いの出世を阻む共通の敵であると手を結び、信西の排除を密かに狙い機会を伺います。1159年平治元年12月4日、平清盛が一門を引き連れて紀伊の熊野詣でに出かけます。12月9日、義朝は後白河上皇の御所、三条殿を襲撃して連行し、その足で二条天皇も連行して一本書御所に幽閉します。朝廷の異変を察知した信西は寸前で内裏を脱出するも、京の山中で進退を窮まり、首を斬って自害します。義朝らのクーデターは一応の成功をみますが、政治的な駆け引きに長けた平清盛は、熊野から帰京すると信...歴史今日の出来事1159年平治元年12月9日平治の乱勃発

  • 歴史紀行 特別編 22 零戦 帝国海軍零式艦上戦闘機

    零戦~海軍零式艦上戦闘機52型東京都千代田区九段北靖国神社遊就館日本海軍の傑作機零式艦上戦闘機零戦零戦は、日中戦争で初めて実戦投入されてソ連製の中国軍戦闘機を相手に圧倒的な戦果を挙げ、次いで第2次世界大戦~太平洋戦争でもアメリカ、イギリスを相手に活躍した日本海軍の戦闘機です。大戦初期に高性能な機体として敵に恐れられた零戦21型は、昭和18年代になると、アメリカのヘルキャットやムスタング、イギリスの投入してきたスピットファイアといった新鋭戦闘機に対し速度や武装で劣るようになってきて、苦戦するようになってきました。そこで32型、22型に続いて開発されたのが52型です。速度を向上させるために主翼の幅を11mに切り詰めつて円形に整形し、カウリング(エンジンをおおったカバーを再設計して推力単排気管(エンジンの排気を...歴史紀行特別編22零戦帝国海軍零式艦上戦闘機

  • 歴史紀行 特別編 21 昭和天皇 太平洋戦争宣戦の詔書〜全文

    皇居〜二重橋から望む今から81年も昔のこの日、1941年12月8日。太平洋戦争が開戦となりました。最初に、日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、日本時間午前2時15分(現地時間午前1時30分)に上陸し、海岸線で英印軍と交戦、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれました。続いて帝国海軍航空隊が日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)にアメリカ領ハワイ州オワフ島真珠湾(パールハーバー)へ向けて発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始されました。この攻撃に先立ってイギリスとアメリカ側に通告されるはずだった対英、対米覚書は、大使自ら英文に訳するのに手間取り、マレー攻撃、真珠湾攻撃後にな...歴史紀行特別編21昭和天皇太平洋戦争宣戦の詔書〜全文

  • 歴史 今日の出来事 1941年 昭和16年12月8日 真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦の日

    歴史今日の出来事12月8日靖国神社遊就館に常設展示されている海軍零式艦上戦闘機【零戦52型】本日は12月8日、真珠湾攻撃の日、太平洋戦争開戦の日になります。1941年昭和16年12月8日、アメリカハワイ州オアフ島の真珠湾(パールハーバー、現地時間12月7日午前3時25分)この急襲により、3年8ヶ月あまり続く太平洋戦争が始まりました。この急襲により、真珠湾に停泊していた戦艦アリゾナを中心とした米海軍に被害を与え、作戦は一応の成功をおさめましたが、エンタープライズ等の航空戦力を有した航空母艦は外洋に出ていたため攻撃を免れ、このことが後にミッドウェー海戦で禍根を残します。歴史今日の出来事1941年昭和16年12月8日真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦の日

  • 葵 夜話 26 前日を省みる(かえりみる)

    今日は幸運にも定時上がり。(これが幸運?)帰りに図書館へ寄りました。行くのは歴史書コーナー(毎度のこと)借りた本はこの1冊【昭和天皇実録〜第八巻】昭和15年から昭和17年の泥沼化した日中戦争から太平洋戦争開戦に至る経緯、ミッドウェー海戦と、昭和天皇の行動、発言についてまとめられた1冊です。明日12月8日は太平洋戦争開戦の日になります。戦後生まれの身ながら、あの時代を省みて、記事にまとめることにします。葵夜話26前日を省みる(かえりみる)

  • 歴史 今日の出来事 文政10年12月7日(1828年1月23日) 維新の元勲 西郷隆盛 誕生

    西郷隆盛像東京都台東区上野上野公園薩長同盟、王政復古の大号令を成功させ、徳川幕府を倒幕に傾けさせ、江戸城無血開城を実現し、坂本龍馬、桂小五郎らと共に、明治維新の原動力となった西郷隆盛が文政10年12月7日に生まれました。薩摩藩の最下級の武士の家に生まれた西郷隆盛は、自らが提出した農政意見書を読んだ藩主島津斉彬により引き立てられ、斉彬、江戸参勤の折りに同行、江戸の薩摩藩邸において、庭方を命じられました。藩主斉彬により世に出た西郷隆盛は、主君斉彬の命により、次期徳川将軍家の跡目候補に水戸徳川家の一橋慶喜を推す活動を展開し、主君斉彬の病没後、時代が徳川幕府を倒す倒幕へと向かう中で、薩長同盟、幕府を挑発する御用盗の指揮、王政復古の大号令と成功させ、1868年1月3日、ついに新政府軍と幕府軍が激突、鳥羽伏見の戦いに...歴史今日の出来事文政10年12月7日(1828年1月23日)維新の元勲西郷隆盛誕生

  • 歴史 今日の出来事 持統天皇8年12月6日(694年12月27日) 持統天皇 藤原京遷都

    藤原宮跡奈良県橿原市694年12月27日(持統天皇8年12月6日)持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都しました。歴史今日の出来事持統天皇8年12月6日(694年12月27日)持統天皇藤原京遷都

  • 歴史紀行 動物編 1 - 5 南極観測隊 樺太犬タロ、ジロ 5

    樺太犬タロ、ジロの像名古屋市港区ガーデン埠頭旧南極観測船宗谷東京都品川区東八潮青梅北埠頭現在、南極観測船しらせ〜が南極へ向けて航海中です。観測隊の皆さんの安全な航海と、無事な南極昭和基地への到着を願っています。1956年昭和31年11月8日、約1万もの見送りを受けて南極観測船宗谷は東京、晴海埠頭を出航しました。まだ子犬であるタロ、ジロを含めた22頭の樺太犬を乗せての航海です。宗谷はソ連(現在のロシア)から耐氷輸送船として受注、生産されたものの、太平洋戦争の戦局に伴い契約は破棄されて日本海軍に接収され、測量艦兼輸送艦として運用されました。海軍に接収されたものの、戦闘に向かない航行速度の遅い宗谷ですが、それが幸いしたものなのか、艦隊の艦船が次々と沈む運命をたどった中で、宗谷だけは生き残って終戦を迎えました。終...歴史紀行動物編1-5南極観測隊樺太犬タロ、ジロ5

  • 過ぎ去りし秋

    街外れの紅葉の名所に来ました。が…時すでに遅し。すっかり落葉の後でした。過ぎ去りし秋冬の到来です。過ぎ去りし秋

  • 歴史 今日の出来事 1610年 12月3日(慶長15年10月18日) 本多平八郎忠勝 逝去

    本多平八郎忠勝像(愛知県岡崎市岡崎公園)1610年12月3日(慶長15年10月18日)戦国武将最強と謳われた猛将が亡くなりました。本多平八郎忠勝戦国最強の武将の呼び声もあり、大小57回の戦に出陣し、かすり傷ひとつ負わなかった本多忠勝。負け知らずの武勇で戦場を駆け、徳川家康の天下取りに大きく貢献した本多平八郎忠勝は、松平譜代の家臣、本多忠高の子として1548年天文17年に岡崎の北に位置する西蔵前城で生まれました。徳川家康(当時~松平元康)が烏帽子親となって13歳で元服した忠勝は、今川氏の人質だった徳川家康が出陣した桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城の救援で初陣を飾ります。この戦いの後、今川義元が織田信長に敗れて戦死すると、家康は義元の弔いに動かない今川の後継者、氏真を見限り、故郷の岡崎で独立に動き出します。さ...歴史今日の出来事1610年12月3日(慶長15年10月18日)本多平八郎忠勝逝去

  • 思い出フォト 16 いよいよ運命の一戦 日本ースペイン

    ワールドカップサッカーいよいよ運命の戦い日本VSスペインが行われます。思い出フォト16いよいよ運命の一戦日本ースペイン

  • 歴史 今日の出来事 1521年 12月1日(大永元年11月3日) 武田信玄 公 誕生

    武田信玄公像山梨県甲府市甲府駅前1521年12月1日(大永元年11月3日)戦国大名最強とも謳われた甲斐の国主武田信玄が誕生しました。去年は信玄公の生誕500周年でした。武田信玄公像。甲府駅南口に出ると、右手に軍配。左手に数珠を握って床几に座した眼光鋭い姿に圧倒されます。織田信長は、あるいは信玄公に様々な品々を贈って慰撫し、またあるいは養女を四男で武田家の後継者勝頼の婚約者とさせて和睦を取り付け、養女が勝頼の嫡男を産んで間も無く没すると、今度は自身の嫡男信忠に信玄公の娘、松姫を娶らせる婚約を願い入れ、確約させるという、意地らしいほどに信玄公との戦いを避けました。徳川家康は、領土拡大の中で度々信玄公に煮え湯を飲まされます。奥三河、北遠江の領国を接した地域は蹂躙され、家康の新天地浜松も西上作戦で侵入され、三方原...歴史今日の出来事1521年12月1日(大永元年11月3日)武田信玄公誕生

  • 祝 敬宮愛子内親王 御生誕日

    本日12月1日、天皇陛下の御息女、敬宮愛子内親王殿下が21歳のお誕生日を迎えられました。心よりお喜び申し上げます。祝敬宮愛子内親王御生誕日

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、aoikitakaze4390031さんをフォローしませんか?

ハンドル名
aoikitakaze4390031さん
ブログタイトル
日本歴史紀行
フォロー
日本歴史紀行

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用