chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
lastfirst
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2021/10/31

arrow_drop_down
  • メフィボシェテの恵み

    <恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。(Ⅱサム9:7)>イスラエル全土をおおよそ制圧したダビデは(Ⅱサム8:15)、気持ちに余裕ができたからか、ヨナタンとの契約(Ⅰサム20:15)を思い起こし、サウルの家の者を祝福したいと考えた。<恵みを施したい>と、この章で実に三度も繰り返して言う(1、3、7節)。サウル家は、ダビデを散々苦しめたのにも関わらずである。すると、サウル家唯一の生き残りではないが、サウルの子、ヨナタンの子、メフィボシェテが見つかった。サウル王の孫でありながら、今では、ロ・デバル(牧場がない、の意)の地にひっそりと住んでいて、しかも足なえであ…

  • 罪を背負うアビガイル

    <ご主人さま。あの罪は私にあるのです。(Ⅰサム25:24)>。サウルから命を狙われ荒野を逃亡中のダビデは、食うに困ったからか、<何かあなたの手もとにある物を与えてください。(8節)>と、昔世話をしたナバルを頼ろうとする。以前、親切にしたのだから、その見返りを求めてもよいと考えたのだろう。ところが、その名の通り、愚か者で恩知らずのナバルは、このダビデの願いを無下にも退けた(10、11節)。怒ったダビデは、<あの男は善に代えて悪を返した。(21節)>と言って、ナバル一族を小わっぱ一人残さず殺そうと彼の元に向かう(22節)。そのおおよそを伝え聞いた(14~17節)ナバルの妻アビガイルは、当然彼女も殺…

  • エレミヤの十字架

    <そこで彼らはエレミヤを捕え、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。(エレ38:6)>正しい預言を取り次いだエレミヤ(38:2、3)をユダヤの首長たちは、迫害する。確かに、常識的理性的に考えて、カルデヤ人の手に下ることが救いであるという預言には違和感を覚えるが、神の知恵は、人間の知恵に優る。首長たちはこれを悟ることができなかった。悪人が善人を迫害するのは、今も昔も変わらない。モーセは民衆から、ダビデはサウルから、イエス様は同胞ユダヤ人から、パウロも同じくユダヤ人から迫害された。ここでは、正しいエレミヤが迫害される。具体的には、すでにゼデキヤ王によって監視の庭に閉じ込められていたエレミヤが…

  • 救わない救い主

    <~あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。~(ルカ23:39)>日本のプロテスタントは悔い改めが弱い、とある先生から聞いたことがある。これを聞いたとき、プロテスタント全体がどうかはよくわからないが、少なくとも私については全くその通りである、と感じたことをよく覚えている。おかしな言い方だが、キリスト教プロテスタントの教祖はマルチンルターである。そのルターは三つのことを強調した。万人祭司、聖書のみ、そして信仰義認である。だから、プロテスタントのクリスチャンは、良くも悪くも、信仰による救いをもの凄く強調する団体のように思える。それゆえ、悔い改めと聞くと違和感を覚え、例えば福音書で言えば、<…

  • 恵みに生きるということ

    イエス様に出会って、30年余りの月日が流れた。その後、随分逆らったが、ようやく信じる決意をし、正式に受洗して17年程経った。振り返ると、洗礼を受けたての頃は、良きにつけ悪きにつけ燃えていたように思う。それは、私の霊が燃えていたのか、私の肉が燃えていたのか定かではない。とにかく熱心に礼拝を守り、教会奉仕をしていたものだった。やがて完全献身を決意し、神学校に通い、卒業し、ある教会に寝泊りをしながら完全奉仕をしていた時期もあった。ところが、この辺りで限界を感じ、燃え尽きはじめてしまい、その教会を去り、やがて礼拝をも休むようになってしまった。今では、普通に社会人をしており、クリスチャンとしては、特別証…

  • ごはんがお腹一杯食べられる国

    随分前のことになるが、テレビで前大阪府知事の橋本徹氏と木村太郎氏の対談を見た。木村氏と言えば数々の報道番組でキャスターを務めた方である。そこで木村さんが興味深いことを仰っていた。「私の幼少期は、戦争で国中に食べ物がなくて本当に苦労した。どれ程、御飯がお腹一杯食べられたらと思ったことだろう。だからなんとしてでも日本を御飯がお腹一杯食べられる国にしたかった。そして我々世代は戦後一生懸命働いて、それを実現した。今では日本で食べ物に困ることはない。だから、僕はもう満足だ。ゆえに、これから日本をどういう国にしたいのかはあなたがた若い世代が自分で考え自分で作り上げていきなさい。」確かこんな内容だったと思う…

  • 悪霊追い出しは簡単?

    <そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。(マル5:10)>ここは説明の必要のないほどに有名な聖書箇所である。イエスが多数の悪霊であるレギオンを追い出すところである。ここに、案外、悪霊追い出しというのは簡単なのかもしれないと思わせる描写がある。上記の聖書箇所である。ここでレギオンは、<この地方から追い出さないでください。>とイエスに懇願しているのである。この男から追い出さないでくださいではなく、この地方からというのである。そうして自ら豚の中に追いやってくださいと、イエスに願い出た(5:12)。ここから、悪霊は人間の中に居座ることよりも、ある特定の地方に居座ることに重きを…

  • エデンの園に表れた十字架

    <神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創3:21)>。ここに皮の衣を着せて下さったとある。アダムとエバは、自分たちでこしらえたいちじくの葉では神に受け入れられなかった。神の用意した皮の衣によって受け入れられたのである。皮の衣を「作った」ということは、罪のない動物が屠られ、血が流されたことを意味している。(無から新しく創ったのであれば、「創った」になるだろうから。)おそらく羊が屠られたのだろう。やはり罪の赦しには犠牲が伴なうことを聖書は伝えている。アダムエバは、神の用意した動物の皮で全身を覆って、初めて神に受け入れられ、また、自分を受け入れることができた…

  • ダビデの自己回復

    <主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか(詩13:1)。>詩編でのイエス様、天の父、聖霊様、すなわち三位一体の神は、さながらカウンセラーが行う「傾聴」の態度で臨んでおられる印象を受ける。ダビデを始めとする聖徒たちの苦悩にほとんど口を挟まず、黙って聞いてくださるのだ。ダビデの思いを、受け入れるでもなく、拒むでもなく、アドバイスを送るのでもなく、慰めるのでもない。ただただ、黙って聞いてくださるのだ。やがてダビデの心は、少しづつ自己回復していく。1、2節ではただつぶやいているだけであるが、3節に入って、積極的に願いを言い表すようになった。<私の神、主よ。私の目を輝かせてください…

  • 聖霊体験2(賛美集会)

    あるとき、教会から車の運転を任されたことがあった。いつものように主日礼拝を守り、さあ、そろそろ家に帰ろうかとなったとき、ある教会員に呼び止められた。なんでも、夕方から姉妹教会で青年特別賛美集会が開かれるが、運転手の都合が悪くなったので、代わりに、その現場まで中高生の教会員を送り届けてくれないかというものだった。快諾したのだが、一つだけ問題があった。ワゴン車で大人数乗せて走るのだが、その車にはカーナビがなかったのである。私は大の方向音痴で、ナビがないと必ずといっていいほど道に迷う者である。以前、仕事で社用車を使っての外回りを経験したが、その車にはナビが積んであったのでどれほど助けられたかわからな…

  • ヨセフの信仰と忍耐

    <~その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタ1:20、21)>。イエスの肉の父ヨセフは、イエスがまだマリヤの胎の中にいたときに受けた上記の預言を信じた。<正しい人>であったとあるので決して常識知らずの人ではなかったことが分かる。常識を踏まえる人物でありながら、マリヤが聖霊によって身ごもったという非常識的なことを信じたのである。信仰は非常識的なことを信じるように求めることがある。これは常識的、理性的な人ほど困難を覚えるものである。しかし、ヨセフは信じたのである。上記の預言の二つ…

  • 聖霊体験(東日本大震災)

    私は、過去に、強い聖霊体験をしたことが数えるほどしかない。もちろん、日々、聖霊様が私に働きかけて下さっていると信じているが、体感として聖霊の強い臨在を実感したことが数えるほどしかないのだ。あるいは、もしかすると毎日、聖霊様は強く働きかけてくださっているのかもしれないが、あくまで私が、五感に訴える聖霊の働きを求めているから、私がそれに気付いていないだけかもしれない。いずれにしても、もし、聖霊体験に乏しいとすれば、恥ずかしい限りである。東日本大震災の後すぐに、教会として被災地に奉仕の働きをすることとなった。具体的には、津波で泥まみれになった民家の掃除をするというものだった。午前、午後にそれぞれ一軒…

  • ウザ打ち

    <すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ(Ⅱサム6:7)。>。いわゆる「ウザ打ち」と言われている聖書箇所である。ダビデは、サウルよりも信仰心に厚く、神の箱のことを思い起こした。この時、神の箱は、アビナダブの家に長く安置されており、それを自分の町へ運び出そうとしたのである。ところが、その道中、神の箱が、牛が引っ張っている台車から落ちそうになったため、神の箱の傍にいたウザが、それを支えようと、反射的に手を伸ばし箱を押さえた。契約の箱は、決して手に触れてはいけないものだったので、神の怒りがウザの上に下り、…

  • エチオピアの宦官

    <~すると、そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた(使徒8:27、28)>。なんという飢え乾きだろうか。この宦官は、一国の財務大臣という高い地位にありながら、他国の神を拝みにイスラエルまで遠路はるばるやってきたのである。エチオピアからエルサレムまで、その距離はおよそ三千八百キロメートル。これは、沖縄から北海道までの距離に相当する。当時の旅行というのは、片道半年から一年をかけて移動するということがあったようだから、この宦官も長い年月をかけ…

  • 医療保険のCM

    ある先生が言っていた。自分が何か契約を結んだときは、その契約書で自分にとって有利な条項を、目を皿のようにして探さないだろうか。一度それを見つけたら、それを心の支えにしないだろうか、と。まったくその通りだと思う。例えば、就職の際は、会社と雇用契約を結ぶが、自分の待遇面を目を皿のようにして眺め、給料はいくらだとか、賞与はいくらだとかを見るだろう。そうしてその待遇を心の支えにして、日々歩んでいくだろう。では、解雇に関する条項についてはどうだろうか。これは、明らかに自分にとって不都合な条項ではあるが、これについても必ず確認しないだろうか。どういった場合に解雇されてしまうのか確認をして、その条項に触れな…

  • クリスチャンに与えられたセルフイメージ

    クリスチャンに与えられたセルフイメージとはどんなだろうか。聖書が伝えるセルフイメージを示すと以下のようになるだろうか。キリスト者は、法律的には、神から<価なしに義と認められ(ローマ3:24)>て正しい者とされた義人であり、経済的には、神の<全財産の持ち主(ガラ4:1)>である相続人であり、軍事的には、肉と世と悪魔とその軍勢と戦う<キリスト・イエスの立派な兵士(Ⅱテモ2:3)>であり、また、それに勝利した<圧倒的な勝利者(ロマ8:37)>であり、家柄的には神の家に属する<神の子ども(ガラ3:26)>であり(それゆえ、例えば、名門ハプスブルグ家の御曹司どころのはなしではない)、内面的には、汚れをき…

  • 我を押し通したヤコブ

    <私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ(創32:26)。>。ヤコブは、ヤボクの渡しで徹夜祈祷会を開く。双子の兄エソウに再会するに当たり、どうしても神の守りを必要としたからだ。彼は、過去に一度ならず二度までもエソウを騙し、長子の権利と祝福を奪って逃げたことがある(創27:36)。だから、対面する際の身の危険を感じており、なんとしてでも神の加護を再確認したかったのだろう。ヤボクの渡しで、夜通し祈りの格闘をするのである。しかし、夜明けまで祈っても、神の祝福を確認できなかった。とうとう、神の御使い(受肉前のイエスキリストという人がいる)は、ヤコブの元を去ろうとするのであるが、ヤコブは…

  • ナボテとアハブ王

    アハブ王は、イズレエル人ナボテのぶどう園を欲しがる(Ⅰ列王21:1)。ただ単に、王の宮殿のそばにあるという地理的魅力と、野菜畑が欲しいという勝手な理由でである。確かに、イスラエルで土地の売買は可能ではあるが、土地は、買戻しの権利を放棄して譲ってはならないとあるように(レビ25:23)、王様といえど、ナボテの土地を永久に所有することは、叶わぬことである。仮に、一時的に所有するつもりであっても、ナボテにしてみれば、自分自身、経済的に困窮しているわけでもないし(文脈から判断すると)、神から預かった大切な土地を、王のそのような理由で軽々しく売るわけにはいかない。おそらく、アハブもそのことは承知だったの…

  • イエスキリストを体験したときのこと

    駅前で路傍伝道をしていたときのことである。私たちは、駅前のロータリーで数人で散らばって、トラクト配りをしていた。そのとき、片手にワンカップの日本酒を持った初老の方が私に話しかけてきた。身なりからすると、土木系の日雇い労働者といった感じだったが、お酒が入って上機嫌になったのか、私に話しかけてきたのである。おそらく、駅前のベンチでお酒を飲みながらくつろいでいて、私たちが何をしているのか興味を持ったのだろう。私は、伝道も含めてしばらくとりとめのない話をしていたが、遠くで見ていた、同じく伝道していたある姉妹が、私たちに近づいてきた。私が長く話しているものだから、救いの見込みのある方と判断して、フォロー…

  • 神の臨在を体験したときのこと

    教会でホームレス伝道をしていた時の話である。私たちは、ある河川敷沿いに居を構える複数のホームレスの方に伝道していた。そこで、数名の方と親しくなったのだが、ある時、その中のお一方が行方不明になった。その方は、上下紺色の作業着をよく着ていて、川の上流に住んでおられる方だった。私たちが尋ねる度、いつも具合が悪そうだったので、病院に行きましょうと、繰り返しお願いしていた方でもあった。はじめは、私たちがあまりにしつこくお願いするものだから、煙たくなって別のところに引っ越したのだろう、などと話していたが、行方不明になって数週間が過ぎたころ、あろうことか、ホームレスの方々からの情報で、その方の住まいの近くで…

  • 悪霊追い出しの思い出

    ある年末、恒例のクリスマスコンサートが行われる際、運営スタッフとして関わることとなった。市民ホールを貸し切って行うのだが、設営等の準備スタッフが必要だったのである。本番は夕方から始まるが、スタッフは午前中から集まって準備に取り掛かっていた。午前中の準備が一段落してお昼休憩となったとき、昼食を済ませたあともまだ時間があったので、市民ホールの周囲を散策することにした。そのとき、何となくホールをきよめようと思い立ち、市民ホールをグルっと周って、悪霊追い出しをすることにした。本当に何となく、ふと思ったのである。そうして、「イエスの御名によって命ずる。この市民ホールに取りついている悪霊よ、出ていけ。」と…

  • 恥ずかしい思い出

    以前、原因不明のめまいに襲われたことがあった。落ちた物を拾おうとしてかがむと、そのまま前のめりに倒れてしまいそうになるレベルのめまいであり、重度の貧血のような症状であった。当時、勤めていた会社は、社用車を使っての外回りの仕事だったので、その状態で運転するのは危ないため、病院に行くように命じられ、地元の内科、耳鼻科と見てもらったが、原因はわからないままであった。そのため、MRIの撮れる大学病院で見てもらうことになった。クリスチャンとしては、当時、洗礼を受けて日が浅かったが、悪霊追い出しの知識が多少あったので、病院を回るかたわら、思いつく限りの方法で追い出しを試みてもいた。「イエスの御名によって命…

  • ユニークな証

    ある先生のユニークな証を聞いたことがある。その先生は、初めて聖書を読んだとき、五分も読んでいられなかったというのである。五分もしないうちに聖書をバタンと閉じて、何をしたかというと、普段はやったことのない風呂掃除を一心不乱にしたというのである。またあるとき、再び聖書を開いて読んでみると、またもや五分と読めずに聖書を閉じ、何をしたかというと、普段やったことのない奥さんの買い物の手伝いをしたというのだ。聖書を読むと、最初は中々長く読めないけれど、そのうち長く読めるようになるよ、と、確かそのような話だったと記憶している。わたしはこれを聞いたとき、これがどういうことなのか、なんとなくわかった気がした。お…

  • 親譲りの信仰と独立信仰

    ~「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人人は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」(ルカ9:18~20)私が信仰に入ったのは多分に母からの影響が強い。母の熱心な伝道により、私もイエス様を信じるようになったのである。母はいつも、「何か困ったことがあったら、イエス様にお願いしなさい。」と繰り返し私に言っていた。母は、探し物をするときにもイエス様に祈りながら探…

  • ヨブ記概観

    ヨブ記は、最初と最後は散文で書かれているゆえ読みやすいが、3~41章までは、詩文、韻文で書かれているゆえ、難解でわかりづらい。そのため、繰り返し繰り返し読んで理解を深めなければならないが(これは聖書のすべての部分に言えることだが)、一旦、仮の概観としてまとめると以下のようになった。今後、加筆、修正の可能性は十分にありえる。きよく正しく生きていたヨブに、突然、身に覚えのない強烈な災難がふりかかる(全財産を失い、10人の子どもを失い、自身は全身皮膚病となる)。それを聞いた4人の友人は、心配してヨブの元に駆けつけるが、ヨブを慰めるどころか、なんと、ヨブを非難し始めた。4人の友人に共通して言えることは…

  • 無理なダイエット

    <しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう(出エジ23:29、30)。>。無理なダイエットの話をよく聞く。一気に痩せようとして、極端な断食をしたり、過激な方法を取ることを言うそうである。しかし、大概うまくいかずリバウンドし、以前よりもかえって太ってしまうという。上記の聖句は、ある意味、無理なダイエットは危険だと言っているのではないだろうか。それは以下の原理である。ダイエット以前は、たくさん食べるこ…

  • 青草の上にすわらせる

    ヨハネの福音書では、5千人の給食を過越の食事と同一視しているように思える。<さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。(ヨハ6:4)>。この聖句は、五千人の給食が、過越の時期に行われたことを伝えている。<~「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。~(ヨハ6:10)>。マルコの福音書では、<青草の上にすわ(6:39)>らせたとなっている。草の上に座らせるとは、苦菜を添えて、ということではないだろうか。四千人の給食では、過越の時期ではなかったので、<地面にすわるように(マル8:6)>仰っている。以上から、5千人の給食は、過越の食事としての意味合いもあるように思える。そうすると、…

  • ウォーレンバフェット

    アメリカの資産家でウォーレンバフェットという人がいる。御年91才の超がつくお金持ちである。総資産はおよそ10兆円で世界長者番付では6位に位置している。驚くべき金額であるが、もっと驚くべきはこの方のお金に対する態度である。この方はほとんど贅沢をせず、自分の稼ぎの多くをチャリティ活動に捧げている。今でも、50年程前に300万円程で購入した家に住み続け(客人用の豪邸を所有しているが、そこには住んでいない)、朝食は300円前後のマクドナルドのセットを食するのがルーティーンになっているとのこと。携帯電話も同じものを使い続け、最近ようやくガラケーからアイフォンに変え、車に関しても同じものを乗り続けていたが…

  • パウロの受難(週)

    <大勢の群衆が「彼を除け。」と叫びながら、~(使徒21:36)>上記の聖句は、パウロが、ルカたちが引き留めたにも関わらず(21:12)、エルサレムに上り、案の定、群衆たちに見つかり、群衆から罵倒された箇所である。この後、捕縛され弁明を繰り返すこととなる。使徒行伝21章からの流れをパウロの受難と言う人がいる。受難週のイエス様と展開が似ているからである。イエス様の場合は、エルサレムに上り、捕えられ、ユダヤの議会にかけられ、ローマ総督の裁判を受け、<この人を除け。(ルカ23:18)>と群衆から罵られた。また、イエスに興味を持っていたヘロデ(ヘロデ大王の息子)と会ってもいる。パウロの場合は、イエス様と…

  • エフタの娘

    <エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出てくる、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」(士師11:30、31)。>エフタの説得(15~27節)を聞き入れないアモン人といよいよ戦いを交えることになったエフタは、その戦の直前に、上記の聖句により誓願の祈りをし、勝利を神に願った。願いは神に聞かれ、戦に勝利したが、代わりに、迎えに出てきた自分の娘を捧げなくてはならなくなった。読んでいて辛くなる聖書箇所である。エフタが軽率に祈ったがゆえに、自…

  • イエスキリストは観音菩薩ではない

    <イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら(マル3:5)><イエスはかわいそうに思って、~(マタ20:34)><イエスは、聖霊によって喜びにあふれて(ルカ10:21)><イエスは深く恐れもだえ始められた(マル14:33)>このように、イエス様は喜怒哀楽がはっきりしているお方であることがわかる。いつ仰ぎ見てもにっこり笑っているお方ではない。いつでもにっこり穏やかなら、それは観音菩薩である。私たちが罪を犯したとき、イエス様を仰ぎ見たら、イエス様は微笑んでいるだろうか。怒ったり、憂えたり、悲しんだりなさるのではないだろうか。また、<イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ、…

  • ちりあくた

    <私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのへブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリ3:5、6)>これは、いくつかあるパウロの自己紹介の中の一つである。しかし、いわゆる上記の宗教的身分についてこのように続ける。<~私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリ3:8)>すなわち、自分の宗教的身分を含めた一切を、<ちりあくた>と表現している。このちりあくたは、やわらかい訳語で、原語に忠実に訳すと「排泄物」になるという。パウロは、…

  • 救われたのに苦しい ②

    では、苦しい荒野を通り抜けた後の、待望のカナンの地は平和の地なのか。そうではない。ある意味、戦いは熾烈を極めている。荒野では、私の調べによると、シホンとオグを含む九人の王と戦い、勝利しているが、カナンの地においては三十一人の王と戦い、勝利を収めている(ヨシュア12章)。もちろん、数字だけで単純比較は出来ないのかもしれないが、戦いの数は三倍以上に膨れ上がるのである。<~天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタ11:12)>。<小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ~(申命8:8)>は戦いに勝利して得られるものなのである。私の内に残っている私の肉と…

  • 救われたのに苦しい ①

    以前、信仰の先輩である母に聞いたことがある。母はいつも明るく歌を歌っている人だから、ついうらやましくて聞いたのである。「やっぱりクリスチャンになったから、そんなに明るくなれたの?」母は答えて言った。「そんなことはなかったわ。洗礼を受けて始めの十年は、苦しくて仕方なかったわ。」それを聞いて不思議と納得したことを記憶している。私自身、その頃、苦しくて仕方なかったからである。洗礼を受けて解放されるどころか、依然、苦しいままだったのである。しばらくして、あることに気づいた。イスラエルの民は、エジプトから救われて、荒野に放り出されたという聖書である。そこは、食べ物はマナばかりで、民は何かにつけてモーセに…

  • 良い子、悪い子、普通の子

    昔、あるお笑い番組で、「良い子、悪い子、普通の子。」というコーナーがあった。良い子、悪い子、普通の子を演じる役者が、それぞれ舞台に登場し、面白いセリフを言っては司会者がその言葉に一言添える、笑点の大喜利のようなコーナーであった。聖書にしばしば登場する「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という聖句であるが、これは、ある意味、「良い子、悪い子、普通の子の神」と言っているのではないだろうか。神は、アブラハムのような信仰の偉人も、イサクのような平凡な人も、ヤコブのような悪知恵の働く者も、皆を愛する神である、と言っているようである。だから、もし私たちが、私はずる賢い者だとか、何の取柄もない平凡な者だと嘆い…

  • フルーツパフェと煮干し

    幼い頃、フルーツパフェなどの甘い物が大好きだった。もちろん、今でも好きではあるが、大人になるにつれ、段々と苦い食べ物も好きになっていった。例えば、和食の根菜系の料理だとか、魚料理とかである。目に見える食べ物がそうなら、目に見えない食べ物もそのように思う。少なくとも私にとってはそうで、目に見えない食べ物、すなわち、言葉においても、幼い頃は甘い言葉が大好きだったが、成長するにつれ、苦い言葉も食べられるようになった。洗礼を受け、クリスチャンになり、新生したての頃は、霊的赤子であり幼子である。この頃の私は、甘い甘い言葉ばかりを味わっていた。もちろん、開き直って言うなら、幼子は、ある程度それで良いのであ…

  • 福音派と聖霊派 ②

    これは、前回の「福音派と聖霊派」の続きである。実際、私が体験したことであるが、あるとき、兄弟が病に苦しんでいた。福音派の先生は、「この病が癒されなくても、この兄弟が信仰を失うことのないように。」と祈られた。別の教会で、同じような病で苦しむ兄弟に、聖霊派の先生は、その人に手を当て、「病よ。イエスの御名によって命ずる。その人から出ていけ。」と祈られた。つまり、その福音派の先生は、「もちろん病は癒されてほしいが、もし癒しが叶わぬなら、苦しみの中にあってこそ信仰が試され品性が練られるとも言えるから、できれば、信仰を失わず、心が強められるように。」と思われたのである。(すべての福音派の先生がそうだとは思…

  • 福音派と聖霊派

    完全に私の主観だが、福音派は、より内側に働く聖霊を追い求め、聖霊派は、より外側に働く聖霊を追い求めている印象である。福音派はイエスキリストの心を求めている。すなわち、ガラテヤ書に記されている御霊の実である、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラ5:24)を求め、これを自らの心に実現することを重視しているように思える。言い換えるなら、イエスキリストの品性を人の心に実現しようと熱心な人たちである。一方、聖霊派はイエスキリストの業を追い求めている。すなわち、第一コリントに記されている御霊の賜物である、いやしの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力(Ⅰコリ12:9、10)などを重視…

  • 救われていますか?

    クリスチャンが「あなたは救われていますか?」と尋ねられたとき、なんと答えるのが正解だろう。「はい、救われました。」ではやや足りないように思う。模範解答は以下のようではないか。「はい、すでに救われましたし、今も、救われていますし、まだ救われていません、これから救われるのです。」もう少し言うと、「過去の罪の咎(め)から救われました。今現在、罪の力から救われています。将来、天の御国に入り、罪の存在から救われるでしょう。」である。罪の咎から救われた。罪の力から救われている。罪の存在から救われるだろう。この三つが四六時中、クリスチャンに成立している。感謝なことである。

  • いのちの木

    ヨハネの福音書は、イエスの葬られた墓とエデンの園の一致をほのめかせている。<すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。(ヨハ20:12)>御使いが二人とはっきり伝えているのは、ルカの福音書とヨハネの福音書である。さらには、ヨハネのみが、イエスの墓が<園(ヨハ19:41)>にあると伝えている。墓石を転がしたとは、すべての福音書で伝えられている。これはエデンの園を暗示してはいないか。エデンの園 = 園ケルビム = 二人の御使い輪を描いて回る炎の剣 = 転がされた墓石アダムとエバの罪ゆえに閉ざされ…

  • ユダはどのように死んだのか

    イエスを裏切ったユダは、自らいのちを絶ったと聖書は伝えている。しかし、福音書と使徒行伝では異なった死に方を伝えている。<それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。(マタ27:5)><ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。(使徒1:18)>このように、マタイでは首をつったとあるし、使徒行伝では転落死のように伝えている。最初、この二つの聖書箇所を読んだとき、矛盾しているように思えた。しかし、あるとき、納得できる解釈を専門書の中に見つけ、腑に落ちた。「ユダは崖…

  • アメとムチ

    キリスト教の大きな特徴は、神が父親だということである。キリスト教に限らず、神が父であるという神学は見られるが、キリスト教は特にこのことを強調するように思う。イエス様が神のことを「アバ父」と呼んでよい、と仰っており、イエス様御自身もしばしば、神を父と呼んでいるからである。神は父で、私たちは子、すなわち親子関係にある、と言うのだ。「アバ」とは、英語では、ファーザーでもダディでもなくパパなのだそうだ。最も親しく呼んでよいとのこと。だから、肉の両親との関係が良好でないと、神との関係にもそれが反映され、アバ父とは呼びづらくなる。多分に、肉の親子関係を神との関係に投影するものだから。無謀は承知で、神の愛を…

  • ダビデVSゴリアテ

    <イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。(Ⅰサム17:52)>おそらく、聖書で最も有名な物語の一つであろう。ダビデとゴリアテの対決である。Ⅰサムエル記で、イスラエルの最大の敵はペリシテ人と言っていいと思うが、その戦いの頂点にあるのが、このゴリアテとの一戦である。身長2メートル90センチ弱の大男。この大男との一対一の戦いをペリシテ陣営は願い出るのだが、イスラエル陣営は恐怖心から、これに応じる者はいない。そこに一介の羊飼いに過ぎないダビデが現れ、味方…

  • モーセの墓

    <主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。(申命34:6)>モーセは120才で地上生涯を閉じている。約束の地、カナンを目の前にして、生涯を終えるのである。モーセが<イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し(申命32:51)>たためである。すなわち、岩に命じれば水が出るとの仰せに対し、岩を叩いて水を出したメリバの水(民数20章)の件についての不信罪に問われてしまったのである。正直、厳しい裁きの印象を受ける。旧約において、モーセほど、神と民の間で、板挟みに苦しんだ人物は見当たらない。言い方はあれだが、中間管理職の悲哀をこの上なく味わ…

  • ヒゼキヤに優るイエスキリスト

    <~「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリアの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。」(イザ38:5、6)>病気で死の淵にあるヒゼキヤ王は、<あなたは死ぬ。直らない。(イザ38:1)>という神の言葉を聞き、<大声で泣い(イザ38:3)>て治癒を祈った。すると、このヒゼキヤの必死の祈りが聞かれ、冒頭で神が仰られたように、15年の延命が許された。さらに驚くべきは、神が、<あなたとこの町を救い出>すと仰ったことだ。ヒゼキヤは、重い病気ゆえ、無理もないが、自分しか見えておらず、祈りも自分の救いのみを願っているが…

  • 承認欲求

    以前、教会で説教の御用をさせていただいたとき、このように言われたことがある。「すごい説教だったね。感動したよ!」これを聞いて私の承認欲求は満たされ、私の肉が大喜びしたのをよく憶えている。反面、私の霊は悲しんでいたように思う。このような話がある。「伝道熱心な女性がいるのだが、実は家庭内に問題を抱えていて、ご主人とはトラブルが絶えず、お子さんともうまくいっていない。その劣等感を解消するために、信仰の場で熱心に活動しているように思う。本当にイエスキリストの素晴らしさを伝えようとは感じられない。彼女がやっていることは、正当な場で正当な評価を得られないことを、信仰の場で得ようとする代償機制に基づくもので…

  • やもめとエリヤ

    <~かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅰ列王17:16)>サレプタのやもめは、餓死寸前に、預言者エリヤに出会う。やもめは、自分と息子のために最後の食事を作ろうとするが、エリヤは驚くべきことに、そのやもめの事情を知りながら、<まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。(Ⅰ列王17:13)>と言う。言い方は悪いが、餓死寸前のやもめの食料を奪い、エリヤにパンを作れというのだ。しかし、さらに驚くべきことは、やもめは<行って、エリヤのことばのとおりにした(Ⅰ列王17:15)>のである。すなわち、自宅のかめの中の一握りの粉と壺の少量の油でパン菓子を作り、エリヤに…

  • 献酌官長に優るイエスキリスト

    <あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロにはなしてください。この家から私が出られるようにしてください。(創40:14)>冤罪で牢屋に監禁されているヨセフは、後に収監されたエジプト王(パロ)の献酌官長と調理官長の付き人となり、彼らの夢の解き明かしを行った。その際、ヨセフは、冒頭の言葉により、釈放を願い出る。やがて献酌官長は釈放されたが、夢の解き明かしの恩と、<この家から出られるようにしてください。>というヨセフの願いをすっかり忘れてしまう。二年の後、ようやくヨセフの願いを思い出し、王に訴え、ヨセフを釈放した。一方、献酌官長に優るイ…

  • 渥美清の遺言

    ユーチューブで「渥美清の伝言」と検索すると、ある動画が出てくる。めったにインタビューを受けない役者の渥美清さんが、NHKの番組を引き受けたものだ。渥美さんと言えば、映画「男はつらいよ」シリーズで車寅次郎を演じた国民的大スターである。ご存知の方も多いであろう。この番組は、自らの死期が近いことを悟った渥美さんが、遺言代わりに引き受けたのではないかと、監督の山田洋次さんが仰っている。その中で渥美さんは以下のように吐露している。(私なりの意訳ですが。)「スーパーマンを演じた役者が、撮影中、子供たちから『空を飛べ、飛べ』と言われるけれど、実際は飛べないよね。あれは針金で吊ってるんだから。同じように、寅さ…

  • 体欲はなくならない

    <さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。(ルカ4:1、2)>40日40夜断食すると神経が研ぎ澄まされ、目がはっきり見え、不純物が取り除かれ、イエスの体が光輝いたというのではない。聖霊に満ちているのだから、何か神秘的な現象を期待してしまうが、(確かに、イエス様が光り輝いたというのは、のちに実際出てくるのであるが、)ここではそういう神としての顕現はない。当然といえば当然であるが、断食したら腹が減ったというのである。神の霊に満たされた神ご自身でさえ、40日も断食すれば腹は…

  • コーヒーカップ

    ある映画のセリフ。「私は、両親を交通事故で亡くしたあと、遊園地に行って、一日中コーヒーカップに乗って遊んだわ。とても耐えられそうになかったから。あれから色々経験して、年数も経て大人になったけれど、実は、私はまだコーヒーカップから降りていないように思う。」確か、このようなセリフだったと記憶している。幼い時に両親を亡くした女性は、大人になって当時を振り返り、冒頭のようにつぶやくのである。コーヒーカップは楽しいものである。目が回り、自然と笑い声が出てくる。遊園地は現実を忘れる息抜きの場所である。コーヒーカップは目が回って、それこそ現実を見つめなくてすむ。四六時中、現実と向き合うと、緊張感が消えず、張…

  • フロイドメイウェザーVS那須川天心

    御覧になった方も多いのではないか。2018年大晦日のビッグイベントである。50戦無敗のまま引退した伝説的ボクサーのメイウェザーと、日本のキックボクサーで無敗の若きカリスマ那須川天心君のエキシビションマッチである。私も大変楽しみにしていて、リアルタイムで拝見させていただいた。結果はというと、天心君の敗退であった。残念だったのと、やはりメイウェザー強しといった感じだった。私は格闘技についてはまるで素人なのだが、海外の方が大変興味深いことを言っていたので、それについて私見を述べたくなってしまった。何分素人考えゆえ、これから申し上げることは、その点ご理解いただけると感謝です。さて、その海外の方が言って…

  • らくだが針の穴を通る

    <~まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それではだれが救われることができるのでしょう」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」(マタ19:24、25、26)>以下のような解釈がある。当時のエルサレムには、針の門という名の門があった。これは、らくだが背中の荷物をすべて降ろし、膝をかがめてようやくくぐれる狭い門であった。私たちも同じである。すなわち、このらくだのように、金銭に伴う悪い思い(見栄のためにあれを…

  • ノアに優るイエスキリスト

    ノアについて。<ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。(創6:22)><ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。(創7:5)><~神はノアに告げて仰せられた。~「~箱舟からでなさい。~」(創8:15、16)><そこで、ノアは、~外に出た。(創8:18)>このように、ノアは、神の命令に一言もつぶやかず逆らわず従っている。結果、大洪水から救われることとなった。しかし、残念なのは洪水後のノアの信仰である。<~神はノアと、その息子たちを祝福して、(創9:1)><緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(創9:3)><~もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない(創9:…

  • 崖の上を歩くクリスチャン

    <動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。~すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。(レビ11:3、4)>これは以前に書いた「豚肉を食べない人たち」の続きである。では、ひづめが分かれていない動物が汚れているとはどういうことだろうか。これもらくだと同様、私たちに向かって語られていると思われる。なんでもひづめが分かれている動物というのは、足元が滑りにくいのだそうだ。私は動物学者ではないのでその原理はわからないが、とにかく滑りにくいのだそうだ。山羊の親子が崖を飛び跳ねながら降…

  • サラの忍耐

    <サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。(創23:1、2)>クリスチャンであればご存知の方も多いであろう。サラはアブラハムの妻である。美しい女性だったと聖書は伝えている。そして、大変苦労した女性でもある。アブラハムは信仰の偉大な人と言われるが、問題のある人でもあった。イスラエルを飢饉が襲ったとき、やむをえずエジプトに下るのであるが、その時、1度ならず2度までも、自分が助かるために敵に妻を差し出すという愚行に及んでいる。<「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知ってい…

  • カインの妻は誰か

    カインの妻は誰かという問題がある。創生の始め、人類はアダムとエバの二人しか存在していなかった。そのアダムとエバが二人の子供を産む。カインとアベルである。カインは嫉妬心から弟アベルの命を取ってしまったので、この時点で人類は3人しか存在していないことになる。ではカインの妻は誰か。結論から言うとカインの妹ということになる。そうでなければ人類は増えようがない。アダムとエバはカインとアベルを産んだあとにセツという息子をもうけている。その後もたくさんの子供を作った。<アダムはセツを産んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。(創5:4)>カインはこの妹の誰かと結婚したと思われる。創生当時からしばらくは、遺…

  • 豚肉を食べない人たち

    <動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。(レビ11:3)~それに豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。(レビ11:7)>キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は旧約聖書を正典としている。それゆえ、旧約でけがれたものとされた豚肉を食べないものと思われる。イスラム教では、もう一つの正典、コーランでもコーランでも禁じているそうだ。キリスト教徒は食べることが許されている。新約聖書で、汚れた動物をすべてきよめたという記事があるからだ。(使徒10章)そもそも、なぜ聖書…

  • 聖書で一番長生きした人

    皆さんは聖書で一番長生きした人をご存知だろうか。これはメトシェラという人物で実に969才である。創生当時の人間はみな長命でその多くが900年以上生きている。これは聖書科学的には、ノアの大洪水前は上空にある巨大な水蒸気層が有害な紫外線等を遮断していたから、人間はその害から守られていたからであろうとされている。しかし、大洪水後はその水蒸気層がなくなり有害な放射線等が地上に増したため、人間の寿命は少しづづ短くなり、今では神が定めた通り、120年となっている。(創6:3)もちろん、これだけが理由で短命になっていったわけではないだろうが、とにかく、創生当時はみな長命であった。このメトシェラはエノクの息子…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、lastfirstさんをフォローしませんか?

ハンドル名
lastfirstさん
ブログタイトル
聖書ブログ
フォロー
聖書ブログ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用