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2021/08/05

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  • 日野市ごみ処理施設の道路建設問題について

    東京都日野市のごみ処理施設の専用道路の建設が都市計画法などに違反しているという住民訴訟が、5年前に提起された。今年9月9日に、最高裁判所は住民側の訴えを認めて、日野市長に建設費用の全額2億5000万円を賠償する判決が確定した。 www3.nhk.or.jp 大坪冬彦日野市長は、判決を受け、自らの判断に問題があったことを原告側に謝罪した。そして、原告側も問題の解決に歩み寄りを示したことなどを受けて、10月28日の日野市議会において、全会一致で大坪市長に対する債権放棄案を可決した。大坪市長と、萩原副市長が、この責任を取る形で給料の自主返納を発表したのであった。 news.yahoo.co.jp 市…

  • 日野2・2・6号線

    ファナックそばの「平山通り」沿いに、新たにコンビニエンスストアができるそうである。この「平山通り」は、町田から八王子を結ぶ全長約16キロの都道で、現在は都道155号線と呼ばれている。中央線をまたぐ「豊田陸橋」が、昭和50年前後に完成する前は、豊田駅から石川入口を結ぶ道であり、行政上の呼び名は「日野2・2・6号線」であった。明治期の地図には、この道路とほぼ同じであろうと思われる道が既に存在しており、古道である。そして、この道の横には、八王子競馬場と富士電機日野工場が作られていったのである。 昭和30年以前は、多摩平は相変わらず開発前であり、「日野2・2・6号線」の北側にはほとんど道らしき道はなか…

  • UR集合住宅歴史館に行ってきました

    年末に、北八王子にあるUR集合住宅歴史館を訪れました。 この展示館では、昭和30年代に相次いで建てられた公団住宅の蓮根団地・晴海高層アパート・多摩平団地のほか、建築史的に価値の高い同潤会アパートの住戸等を移築復元し、集合住宅技術の変遷をたどる展示を行っています。 年代を追って見学するので、初めに見るのは、昭和2年に竣工された同潤会代官山アパートです。独身用住戸、世帯用住戸ともに、個人の荷物の多い現代人には手狭な間取りですが、家賃は決して安くはなく、それなりの所得がないと入居できないようです。また、冷蔵庫がないのが特に印象的でした。 続いて見たのが、昭和32年に竣工した東京都板橋区に建てられた中…

  • AIとツイッター

    昨日は、町の本屋が消えていく話題について考えました。社会は常に変化しているので、現在の仕事や活動も、やがて将来は姿形を変えていくでしょう。 今後、仕事や活動が変わっていく大きな要素はAIの発達です。2010年ごろから、AIにはディープラーニング機能が加わり、コンピュータ自身による深層学習が可能になりました。新型コロナウイルスのワクチン開発が驚くべきスピードで進んだのは、AIの進化によるところが大きいことは、周知の事実です。 news.tv-asahi.co.jp さらに、人工知能の性能は2045年ごろに人類の知能を超える、と予測されています。人工知能を進化させるのは、人間ではなく人工知能自身と…

  • 啓文堂書店・豊田店の閉店

    久々のブログ更新となります。 先日、ついに啓文堂書店・豊田店の閉店が発表されました。店の歴史は、ほぼファミーユ京王の歴史でもあるので、昭和55年(1980年)10月から、約40年にわたり営業を続けたことになります。 鉄生堂、三成堂などが消えた中、豊田駅北口の書店は、イオンモールの未来屋書店のみになります。実にさみしい限りではありますが、書籍離れ、パソコンやスマホの普及などの社会の変化に、書店業がついていけなくなっている以上、何ともしようがないというところであります。 ファミーユ京王も啓文堂もともに京王グループの企業なので、書店事業に家賃の負担はあまりなかったものといえます。だからこそ、たとえ赤…

  • 日野市立南平小学校の「君が代伴奏許否事件」

    東京パラリンピックが後半戦に入ってきました。日本勢の結果は思った以上に好調で、メダル授与のときには、国家「君が代」が流れる場面をよく目にします。先日終わった東京オリンピックでも、MISIAが歌った「君が代」が話題になりました。 一方で、国家「君が代」には、天皇崇拝の戦前の軍国主義教育を助長したとして、嫌悪感を持つ人がいます。 かつての日野市立南平小学校の音楽教諭は、「君が代」を認めぬ思想信条を持っており、勤務先の卒業式で伴奏することを拒否し、校長の職務上の命令に従わなかったことを理由に戒告処分を受けました。そこで、この教諭はこの命令は憲法19条に違反し,処分は違法であるなどとして,上記処分の取…

  • 多摩平の古本屋を思い出しました

    日野市では図書館のおかげで、私たちは本を買わずして読むことができ、今から思うと大変ありがたいものでした。それでも、著名な本、手元に置いておきたい本は買いたくなるものです。高名な作家や学者が、あふれんばかりの蔵書のある書斎で研究や執筆活動をしている様子を見ると、真似をして、無性に本が欲しくなることもありました。 かつて、豊田駅周辺には、あまり古本屋はありませんでした。平成初期に、多摩平名店街にあった「ラ・マンチャ」という喫茶店が、古本屋に業態を変換しました。本屋に変わったあとでも、落ち着いた空間でした。お気に入りの店でしたが、写真などの記録がなく、昔の記憶を思い出すだけでした。 先日、その「ラ・…

  • 多摩平の古本屋を思い出しました

    日野市では図書館のおかげで、私たちは本を買わずして読むことができ、今から思うと大変ありがたいものでした。それでも、著名な本、手元に置いておきたい本は買いたくなるものです。高名な作家や学者が、あふれんばかりの蔵書のある書斎で研究や執筆活動をしている様子を見ると、真似をして、無性に本が欲しくなることもありました。 かつて、豊田駅周辺には、あまり古本屋はありませんでした。平成初期に、多摩平名店街にあった「ラ・マンチャ」という喫茶店が、古本屋に業態を変換しました。本屋に変わったあとでも、落ち着いた空間でした。お気に入りの店でしたが、写真などの記録がなく、昔の記憶を思い返すだけでした。 先日、その「ラ・…

  • 再掲・豊田駅前のお墓の話

    「自分が住んでいるところ、行き来しているところが昔は何だったのか」ということには、常に関心があります。ちなみに、このブログを書いているのも、歴史的な事件の犯人らの最期となった場所です。近くの慰霊碑には、今も献花や焼香がささげられています。 前に、本ブログで豊田周辺のお墓の話をしましたが、「ここが昔は墓場だったのか!」と驚くことも多いので、改めて書き留めてみたいと思います。 <豊田駅北口周辺は、一帯が墓場だったのです> 豊田駅周辺の町村名は、以下のように変わりました。 明治22年(1889年) 豊田村から桑田村に変更 明治34年(1901年) 桑田村から日野町に変更、豊田駅開業 明治22年から3…

  • 駅から離れた巧妙な位置にあった戸田書店

    オリンピック、高校野球、コロナ禍と仕事が多忙となるイベントが相次いだため、ブログを書く時間がありませんでした。もっとも、日野市の話題や思い出に特化しているので、そうそう書くネタもありません(笑) 本屋の思い出を語ってきましたので、今回は旭が丘にあった戸田書店について取り上げます。 戸田書店は、静岡県を拠点とした書店で、全国に店舗を展開していました。その中で、駅から離れた日野市旭が丘に店を開きました。 todabooks.co.jp 本屋の向かい角には、セブンイレブンがありました。現在は、戸田書店の位置にこのセブンイレブンが移動しました。また、斜向かいには童謡「たき火」の作詞者・巽聖歌さんの自宅…

  • 常盤平団地で昔を懐かしむ

    千葉県松戸市の常盤平団地は、多摩平団地と同時期に建てられました。団地の雰囲気も似ていることから、両者は比較の対象になっていました。建物が老朽化したことから、多摩平は建て替え、常盤平は存続を選択しました。現存する常盤平団地によって、日野市多摩平の在りし日の風景に接することができます。 常盤平団地が存続となった理由は、住民の多くが高齢者で、環境になじんでしまったことや、建て替えのストレスや費用負担のおそれなどによるものでした。 昭和30年代以降に大勢の働き盛りの人が、この団地にやってきました。常盤平は、一気ににぎやかになりました。その当時の様子が、記録映画にも残っています。 www.youtube…

  • わが理想の本屋「かしわや」

    「かしわや」書店は多摩平名店街の中にありました。もともとは、布団屋でしたが、途中で業態を変えました。小さな本屋でしたので、鉄生堂や三成堂ほどの売り上げはなかったと思いますが、利用者の側からすると実に都合のいい本屋でした。これまでに行ったことのある中で、利用しやすい理想的な本屋でした。 好きな理由をあげていきたいと思います。■理由1 出入口がよく見える「鰻の寝床」であった 店舗は長方形で、出入口は1か所です。店内の通路から常に出入口の様子がうかがえます。つまり、立ち読み中でも横を気にしていれば、誰かが入ってきてもすぐに分かります。人の気配を感じたら、サッと読むのを止めることが可能です。■理由2 …

  • 後出しでも健闘していた三成堂書店

    豊田駅前の書店の思い出を振り返っていますが、2回目は三成堂書店を取り上げます。三成堂は、戦後八王子で開業した老舗の本屋です。神田発祥の「三省堂書店」と間違える人も少なからずいたことと思います。 かつては、八王子や国分寺に書店を展開していましたが、現在は閉店しています。豊田駅前店は、現在の三菱UFJ銀行のあたりにありました。三成堂は、鉄生堂よりも後の昭和50年ごろに営業を始めました。鰻の寝床のように奥行きが長い店舗で、2階建てでした。1階には雑誌や文芸書、2階には学習参考書、漫画、児童書などがありました。 本屋は、「鰻の寝床」状であると、予期せぬところから他の客が近寄る可能性が少ないため、立ち読…

  • 鉄生堂について記憶を掘り起こしてみた

    前回、くまざわ書店について取り上げましたが、日野市内とりわけ豊田駅周辺においては、先行して出店した鉄生堂が地盤固めをしていたため、新規進出ができなかったと申し上げました。 鉄生堂は、豊田駅前と日野二中のそばに2つの店舗を構えて、多摩平地域をカバーしていました。地元住民には、もっとも馴染みのあった本屋でした。しかし、出版不況やバブル経済崩壊の悪しき流れには打ち勝てず、平成初期にともに閉店となってしまいました。 今となっては、当時の写真や記録が手元にはなく、もっぱら記憶だけしかありませんが、思い出をいくつか語ってみたいと思います。 ■豊田駅前店 現在のマツモトキヨシの場所に、昭和40年代から平成初…

  • なぜ、日野市にはくまざわ書店がないのか

    くまざわ書店は、言わずと知れた八王子を本拠地とする全国規模の書店です。創立は、明治29年です。グループ全体で「くまざわ書店」「いけだ書店」「ACADEMIA(アカデミア)」「球陽堂書房」「田園書房」などの店舗ブランドを持っています。2018年11月時点では北海道から沖縄県まで226店を出店しており、店舗数では日本全国で第3位です。 大型書店のくまざわ書店ですが、なぜか日野市にはなじみませんでした。 先日まで日野駅前にあった店は、2012年に開店した後、7年間の営業で幕を閉じてしまいました。それまでこの地では、長らく「ブックス伊藤」が営業していました。 豊田駅前においては、くまざわ書店は一度も進…

  • 帝人中央研究所爆破事件

    帝人中央研究所爆破事件は、昭和49年(1974)年11月25日に東京都日野市で発生した、東アジア反日武装戦線による爆弾テロ事件です。 三菱重工爆破事件 連続企業爆破事件の一つで、「狼」「大地の牙」「さそり」の3つの実行グループによって行われました。全9件の中、帝人事件は「狼」が引き起こした3番目の爆破事件です。 帝人中央研究所爆破事件、死傷者なしのため扱いが小さい ■引き起こした9つの事件一覧 昭和49(1974)年8月30日 三菱重工爆破事件「狼」班。8名が死亡、385人が重軽傷。 10月14日 三井物産爆破事件「大地の牙」班。17人が重軽傷。 11月25日 帝人中央研究所爆破事件「狼」班。…

  • 人生フルーツと多摩平団地 建築家・津端修一

    4年前の2016年、映画「人生フルーツ」が公開されました。多摩平団地を建築した津端修一夫妻を描いた内容です。 life-is-fruity.com 映画のあらすじは、かつて日本住宅公団のエースだった津端修一は、阿佐ヶ谷住宅や多摩平団地などの都市計画に携わってきました。1960年代、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したニュータウンを計画しました。しかし、経済優先の時代はそれを許さず、結局完成したのは、理想とはほど遠い無機質な大規模団地でした。修一は、それまでの仕事から距離を置き、自ら手がけた高蔵寺ニュータウンに土地を買い、家を建て、雑木林を育てはじめましたーー。それから50年、ふ…

  • 日野の図書館(4) 公共図書館の本尊・日野市立中央図書館の完成

    昭和40年から分館を次々と建設する中、本館の中央図書館完成には、約8年の歳月を要しました。先進的な日野市の図書館サービスを象徴する本尊として、建設当時より全国的な注目を集めていました。 前川館長は、「中央図書館設計の基本方針」として、次の5つを掲げました。 あたらしい公共図書館建築の道標となる図書館 親しみやすく入りやすい図書館 利用しやすく、働きやすい図書館 図書館の発展、利用の変化に対応できる図書館 歳月を経るごと美しくなる図書館 設計を担当したのは、当時東京経済大学図書館の設計などによって評価を高めていた鬼頭梓でした。鬼頭は、落ち着いた雰囲気の建物となるよう、外観はレンガ作りで北欧的なた…

  • 日野の図書館(3)分館の原点・日野市立多摩平児童図書館

    日野市立図書館の分館の1つ、多摩平児童図書館は、昭和41(1966)年に始まりました。 日野市の図書館は、本館と分館で構成することになっています。時系列上、先に分館ができました。多摩平児童図書館は、分館第1号となります。 本館 中央図書館(昭和48(1973)年) 分館 ①多摩平児童図書館、②高幡図書館(昭和41(1966)年)、③福祉センター図書館(昭和42(1967)年)、④社会教育センター図書館(昭和44(1969)年)、⑤平山児童図書館(昭和46(1971)年)、⑥百草台児童図書館(昭和47(1972)年)、⑦市政図書室(昭和52(1977)年) なお、詳細の歴史は、日野市立図書館HP…

  • 日野の図書館(2) 進撃の巨人たる日野市立図書館

    有山・前川のコンビによって、日野市立図書館は「ひまわり号」のみならず、日本の図書館関係者が驚くほどのサービスを展開していきます。 有山が日野市長になる前後の主な出来事について、時系列に並べてみます。 昭和40年6月20日 図書館設置条例を公布 昭和40年7月 前川が図書館長に就任 日野市立図書館例規集等|日野市立図書館 (hino.lg.jp) 昭和40年の条例及び運営規則の主な骨子は、以下のとおりです。 日野市立図書館は、本、分館によって構成される サービス水準は、図書館法の施行規則を下回らない 図書館長は経験豊かな専門職であるべき 個人への貸出に徹する レファレンスサービスを進める(利用者…

  • 日野の図書館(1)上司有山・部下前川

    日野市の図書館事業は、前川恒雄の尽力により発展したといわれています。前川が昨年亡くなった際、生前の業績が報道されました。 www.tokyo-np.co.jp この「ひまわり号」の事業は、当時日野市教育委員会の議長を務めていた有山崧(たかし)が、前川を日野市に招き、始めたことでした。 有山と前川は、そもそも日本図書館協会での上司と部下にあたる関係でした。 昭和25年に、戦後日本の図書館の発展を目的とした「図書館法」が制定されましたが、日本の公共図書館のサービスは思う通りには発展してはいきませんでした。 日本図書館協会は、その現状を打開するために、文部省の補助を得て、委員会を設けて調査研究を行う…

  • 八王子競馬(6)八王子牧場と東京オリンピック

    昭和27年1月1日、八王子牧場がスタートしました。主な施設は1600メートル走路、 100メートル練習馬場、厩舎7棟などで、職員は25名でした。 そして、昭和29年11月に、牧場内に騎手教養所、昭和37年9月には騎手学校が開設されました。 これらの施設は、昭和39年11月に栃木県塩原町に移転していきました。 また、八王子牧場も、東京都新都市建設公社の宅地造成地となることが決まっていたため、千葉県印旛郡の小林牧場へ移転することになりました。八王子牧場は、このようにして使命を終えることとなったのでした。 八王子牧場がこの時点まで存続できたのは、東京オリンピックにおける馬の飼育の必要があったためでし…

  • 八王子競馬(5) 新競馬場の建設と予想屋

    第一回東京競馬が開催される前の昭和22(1947)年秋、東京都は新競馬場建設の基本構想を取りまとめていました。東京都議会でも同時に議論を重ねていました。その結果、大井、月島、羽田、玉川、駒沢、三軒茶屋の6か所が候補地となり、この中から最終的に大井が移転先に決まりました。新競馬場の建設を東京都が直接行うか、または施設管理会社を設立して行うかで議論が分かれましたが、結局後者に落ち着きました。そして昭和24(1949)年に、東京都競馬株式会社が設立され、大井競馬場の建設が進められたのです。 大井競馬場は昭和25年5月2日に開幕しました。1日の入場人員が11,000人、売上高は14,000,000円、…

  • 八王子競馬(4) 衰退の理由

    昭和23(1948)年11月4日、新競馬法の公布のもと、東京都営の主催による八王子競馬が初めて行われました。 しかし、当初の勢いは続かず、八王子競馬は入場人員、売上高ともに減少していきました。その衰退の理由は、一にも二にも「利便性の悪さ」でした。 都心から八王子競馬に来るには、中央線で立川乗り換えで豊田駅までやってきて、そこから徒歩30分かかります。メインスタンドは、八高線の北八王子駅が最寄り駅ですが、列車の本数が少なく、利用はかなり困難でした。競馬場に遊びに来ることは、一日仕事でした。 メインスタンド。現在の高倉小学校付近。 当時の八王子競馬には、「雨でもやります明るい競馬」というキャッチフ…

  • 八王子競馬(3)ヤミ競馬の発展そして終焉へ

    戦後のヤミ競馬時代に、八王子競馬場は日本初のフォーカス馬券を発売しました。競馬は6枠制で行われていました。この枠順の決定は、何ともいかがわしいものでした。まず、主催者側が強いと思われる馬を初めに5頭選びます。それらを1枠から5枠に割り当てるのです。そして、残りの全ての出走馬は、たとえ何頭いようとも、すべて6枠に指定されるのです。 このやり方で枠番連勝単式の馬券を発売すると、組み合わせは、全部で31通りになります。1から5の組み合わせならば堅い配当となりますが、低人気の6枠が絡めば一気に超高配当となります。戦後の混乱期には馬が少なく、どの競馬場も出走馬を集めることが大変でした。6頭立ての競馬で単…

  • 八王子競馬(2)高倉町時代

    横山上町の競馬場の移転先候補には、横山村船田、元八王子村横川、小宮村北大谷、小宮村西中野字甲の原の4か所が挙がりました。この中から、元の競馬場に近い甲の原にいったん移転先が決まりました。ところが、地元の農地の小作人から反対運動が起こり、補償金をめぐって紛糾しました。反対運動は収まることはなく、結局、新たな候補地を探すこととなり、最終的に小宮村粟須(現在の八王子市高倉町)に落ち着きました。敷地は、八王子と日野にまたがり、正門から観覧席は八王子側、コースの大半は日野側になりました。昭和9(1934)年に完成した新競馬場は、総面積約80,000坪、1周1600メートル、コース幅30メートルという、現…

  • 八王子競馬(1)中野上町時代

    八王子競馬は、競馬場の跡に住む人たちには、あまりなじみがない存在です。 昭和の初期において、八王子には以下の2か所に競馬場がありました。 ■八王子市中野上町(八王子二中周辺) ■八王子市高倉町・日野市旭が丘(首都大、八王子東高、日野四中周辺) 競馬場があったのが昭和初期から昭和30年の頃なので、その当時は競馬場の近隣に住む者が少なく、記憶がある人のほとんどが亡くなっています。また、多摩平地区のように、競馬場の廃止後と入れ替わる形で都市開発が始まった地域については、住民には競馬場の記憶があまりありません。 さらに、八王子競馬の運営にもさまざまな問題があったせいか、日野市や八王子市は競馬場の存在や…

  • 50年前の日野市都市計画マスタープランを読んでみた

    昭和42(1967)年に、有山崧(たかし)日野市長が出した日野市の都市計画マスタープランがあったので、今更ながら読んでみました。原稿用紙20枚近くの分量ですが、なかなかの文章ですので、時間があればご一読おすすめします。この記事の末尾に書き起こしてあります。 まず、全体的な印象として、戦後民主主義の影響を受けた住民目線の優しいメッセージであると思います。 一方、「質の悪い団地」の建設排除を繰り返し述べています。この文章を読んだ際、直感的に建築物よりも住民の問題を暗に批判しているように受け止めました。当時、有山市長は多摩平団地自治会の対応に苦慮していたころなので、暗に先鋭化した住民運動に対しては何…

  • 中央線特別快速と豊田電車区について

    中央線の特別快速は、昭和42(1967)年7月3日から運行が始まりました。このとき、国電の運転区間が、高尾まで伸びました。 中央線には、オレンジ色の最新の101系電車が投入され、首都圏の国電の中でも最重点の扱いで整備が進んでいきました。10両編成による運転も、中央線が最初でした。 特別快速の運行前、昼間の上り電車は立川どまりで、乗り換えを強いられていましたが、東京まで直通1本で行けるようになりました。また、所要時間も日野市内から新宿駅まで約30分、東京駅まで約50分で到着できるようになりました。従来から20分の短縮となりました。都心との往復する上で、画期的なことでした。 当初は、高尾発 9:3…

  • 多摩格差とは何なのだろうか

    先日、昔の朝日新聞の記事で「多摩格差」という言葉を目にしました。美濃部都知事時代に初めて出てきた言葉ですが、現在でも小池都知事が都知事選挙の争点に「多摩格差」を取り上げています。多摩は、都心部から電車で1時間の距離があり、同じ東京都にいるにも関わらず「東京に行く」とかつい口走ってしまいますし、多摩川を越えると田舎に来たと感じることもあります。一方、通勤時間はかかりますが、都心部よりも安く広い家に住むことができます。場所によっては、豊かな自然に囲まれています。立川駅前は、都心に負けない都会の街並みに変貌しました。大型ショッピングセンターなども増えて、生活に不自由を感じることも少なくなりました。そ…

  • 日野市旭が丘の漬物博士のとっておき秘伝

    かつて、日野市旭が丘1丁目に小川敏男さんという漬物博士がおりました。私はご本人との接点などはありませんが、家の玄関に「漬物研究所」の看板が掛けられていました。東京都農業試験場に勤務後、この「漬物研究所」を創設して、執筆、テレビ・ラジオへの出演、講演活動などをなさっていたようです。また、漬物の浸透圧の研究で博士号を取得されたそうです。 小川さんは数年前に他界されております。 そんな小川さんの数々の著作から「漬物博士の秘伝」で紹介されている話を、いくつか取り上げたいと思います。 www.amazon.co.jp ■日本人が生野菜にこだわる理由 日本では、戦後の食糧難時代の困難の記憶から、生野菜を食…

  • 日野市の財政危機について

    先日、日野市は財政非常事態宣言に入った責任として、市長、副市長、および教育長の給料を減額すると発表しました。市長は15%減、副市長は10%減、教育長は5%減としました。 日野市長等の給料月額の減額について(令和3年6月8日プレスリリース)|日野市公式ホームページ 一方、その他一般の職員の給料も下がっているかと思いきや、年収については下記データでは全国14位でした。 toyokeizai.net また、賞与の支給額は、全国で5位とトップクラスです。 www.nenshuu.net 「財政危機なのだから、もっと職員の給料を減らすべきだ」という人もいるかもしれませんが、全体の歳出に占める人件費の割合…

  • 多摩平団地と多摩平自治会の話

    子どもの頃、多摩平団地内で「多摩平自治会ニュース」なるビラを時折目にしました。そもそも自治会というものは、近隣との地縁協力や親交が目的ですが、改めて思うと、多摩平自治会は政治運動結社でした。 そもそも、多摩平自治会の発足のきっかけは、下水道使用料の負担についてでした。団地の住民が支払う共益費に下水道料金が含まれていると解した住民側と、下水道料金は共益費とは別に支払うとする日野市側で対立したのです。 そして、下水道料金問題にとどまらず、市立幼稚園の設置要求、牛乳値上げ反対、家賃値上げ反対、国鉄運賃値上げ反対などを自治会活動として要求し続けました。幼稚園建設問題では、当時の古屋市長がやり玉にあげら…

  • 日野市の学校開放プールについて

    梅雨入り後、蒸し暑い日々が続くと、プールが恋しくなります。 学校プールの授業も、本来ならば今ごろから始まるのでしょうが、コロナ禍でプール中止となり、がっかりしている子どもが多いことでしょう。一方で、水泳が苦手な子どもは、プールの授業がなくなって一安心しているかと思います。 また、日野市民プールは今年も引き続き休業が決まったそうです。先日、懐かしき市民プールを施設の外側から眺めてきたばかりでした。 www.city.hino.lg.jp 学校開放プールは、昔は先生が持ち回りで登板していたと思いますが、今はPTAから委託された運営委員会方式でやっていると聞いています。管理員1名、アルバイトの監視員…

  • 多摩平団地の開発方針

    戦後、東京の人口が増加していく中で、住宅の供給が喫緊の課題となりました。その中において、昭和30(1950)年に日本住宅公団が設立されました。その最初の事業として、多摩平団地の開発が始まりました。以下に住宅公団が作成した「富士が見える 多摩ニュータウン」のパンフレットの概要を紹介します。未開の荒野が、住宅公団の巧みな計画によって至便な土地に変わりました。今更ながら、読み返してみると、多摩平団地がなき後も、都市整備の基礎は今もしっかりと息づいていることが分かると思います。 パンフレットの前書き 多摩平団地は、住宅公団が都下に建設中のニュータウン第一号です。こんなに大規模な都市建設事業は、わが国で…

  • 多摩平の開拓者・作家伊藤整(2)

    戦後の物資難で、住宅資材はどこにもありませんでしたが、その点を見越した伊藤整は、北海道で住宅用の木材を手ぬかりなく調達していました。そして、国鉄関係者とのコネを使って、北海道発八王子行きの木材運搬専用貨物列車を設えたのです。こうして、日野の家の資材は、問題なく集まったのでした。 一方、戦後まもなく重機などはないため、土地の開墾は自力で行う必要がありました。伊藤整は、息子の滋・礼とともに、中央線に乗って豊田まで向かうのでした。中野から国立までは普通の電車でしたが、国立以西は貨物車に乗り換えとなりました。30分おきに電車がやってくるという乗り継ぎの悪さでしま。電車の雰囲気だけとっても、田舎に向かう…

  • 多摩平の開拓者・作家伊藤整(1)

    戦前、未開の荒野だった多摩平地域に果敢に入植したのは、日本文学界の大御所作家の伊藤整でした。伊藤整は、小樽出身の小説家ですが、憲法を学ぶと必ず教わる「チャタレイ裁判」の被告としても有名でした。このチャタレイ裁判の間、伊藤整は、豊田の自宅と東京地方裁判所との間を頻繁に行き来していたのです。 チャタレイ裁判について https://bunshun.jp/articles/-/1716?page=1&_gl=1*iqhc8n*_ga*YW1wLTg3RUwwNmFkd01ZT2piaURSVVhTLXJCVi1vbVZiSS1CV20wMVdRM1BQZWtZMjdhSTVmem45cENQU2hy…

  • 元は戦争疎開で作られた富士電機東京工場

    豊田駅周辺の発展の歴史を順にたどると、豊田駅→安田善衛の別荘→火葬場ですが、次にできたのが、昭和18(1943)年の富士電機東京(日野)工場であります。富士電機は、大正11(1921)年に川崎で創業しました。富士電機の社名は、まず会社の母体となった「古河電工」の「ふ」と「シーメンス」の「シ」を合わせて「ふし」としたうえで、日本を代表する「富士山」と掛け合わせて決めたという経緯があるそうです。そして、創業日が大正12(1923)年9月1日、まさに関東大震災当日という不遇ぶりで、いきなり川崎工場が大きなダメージを受ける波乱の始まりでした。しかし、その後は満州事変などの戦争特需のおかげで事業を順調に…

  • 日野市営火葬場の話

    明治期後半に豊田駅ができて、町発展の礎ができたのですが、多摩平は依然ほとんど人が住まない荒野でありました。この地に次にできたのが火葬場でした。 日野の火葬場は、大正 11 (1922) 年7月 3日に設置許可がされました。大正時代は、チフスやコレラなどの伝染病が流行し、遺体から感染を引き起こす事例も多く、衛生上火葬場の整備が求められる状況でした。もともと日本では、遺体を焼く行為が敬遠されていましたが、石炭による高火力での設備が整い始めると、人里離れた地域に火葬場の建設が徐々に許容されていきました。日野の火葬場の建設当時、近くにあった集落は、甲州街道沿いの粟須新田(現在の高倉町)あたりだけでした…

  • 多摩平にいた大富豪・安田善衛(やすだよしえ)について

    大正時代の初期に、立正佼成会豊田教会の地に別荘を建てて移り住んだ安田善衛は、安田銀行、京都銀行、第三銀行などの取締役を務めるなど、安田財閥の一翼を担いました。全国所得番付でも上位に名を連ねた指折りの大金持ちでした。 この豊田教会の地のほか、平山橋の近くにも別荘を持っていました。安田善衛は趣味の人で、豊田の別荘には能舞台まで作っていたそうです。また篆刻も趣味であり、豊田駅改札口に飾られた木の看板は、善衛が寄贈したものです。この篆刻の「駅」の文字が旧字で、また右から左に読むものなので、今の人は「拝田豊」と読んでしまうそうです… まさに悠々自適、大正時代の貴族のようなお方だったようです。教育活動にも…

  • すべては「豊田駅」から始まった

    多摩平およびその周辺地域の発展の基礎は、何といっても「豊田駅」の存在であります。明治22(1889)年に甲武鉄道(今の中央線)の立川~八王子間が開設され、その後明治34(1901)年2月22日に、豊田駅は開業しました。それまでは、駅の南側の豊田村を中心に約400人ほどしかいない場所でした。日野宿がある日野駅の開業が、明治23(1890)年1月6日なので、豊田駅はそれから約10年後になります。駅の誘致には、さまざまな政治力学が及びました。中でも誘致に積極的だったのが、豊田村の豪農・山口平太夫でした。山口平太夫は、現在石川酒造によって復興されたTOYODAビールの創業者であります。豊田駅は、山口ら…

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