2021年3月から全93回続いたイタリア留学思い出ブログも、前回でとうとう最終回を迎えることができました。これまでお読みいただいた皆様には感謝しかありません。 「忘れてしまわないうちに、大切な思い出を書き残しておかねば!」 と、自己欲求を満たすためにスタートしたブログでしたが、気付けば徐々に読んでくださる方が増え、それが励みになり、こんなに(どんなに?)飽きっぽい私が最後まで書き終えることができました。
舞台は1994年~1996年のイタリア/ミラノ。かなりおっちょこちょいで頼りない当時27歳の筆者が2年半の留学で体験した、個性的な仲間たちとの日常・珍事件・旅を綴った連載的体験記です。
「そろそろ文章に残しておかなければあの宝物のような思い出が薄れて行ってしまう!」そんな危機感からブログを書き始めました。不思議なことに、つい先日のことのように次から次へと思い出が蘇ります。
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2021年3月から全93回続いたイタリア留学思い出ブログも、前回でとうとう最終回を迎えることができました。これまでお読みいただいた皆様には感謝しかありません。 「忘れてしまわないうちに、大切な思い出を書き残しておかねば!」 と、自己欲求を満たすためにスタートしたブログでしたが、気付けば徐々に読んでくださる方が増え、それが励みになり、こんなに(どんなに?)飽きっぽい私が最後まで書き終えることができました。
トスカーナの旅から帰った私は大忙しだった。なにせたった3日間で、ミラノで暮らした2年分の全てを片付け、4日目には日本からやって来る友人と約2カ月間、“西ヨーロッパ一周バックパッカーの旅”に出ることになっていたからだ。 その後ミラノのアパートメントに帰り、その2日後には日本に帰国するという超過密スケジュールなのである。
【あの頃イタリアで その92 トスカーナ卒業旅行⑩ 旅の終わりの犬】
マルコからの突然の提案で(その91参照)、今夜が旅の最後の夜になってしまった。私たちは何となく感慨深げにテントを組み立て始めた。作業する傍らで、どこからともなくやって来たブチ柄の痩せた野良犬が尻尾をぶんぶん振り回しながらはしゃいでいる。
【あの頃イタリアで その91 トスカーナ卒業旅行⑨ そして旅は突然終わる】
「あのさ、少し早いけど、明日ミラノに帰らないか?」 マルコからのいきなりの提案に、私とオスカルは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたに違いない。(そんな鳩、見たことも無いが) 今日は旅が始まってから7日目。マルコの旅の計画では10日間の予定だから、あと3日残っている。 「なんで?なんで?!まだ3日もあるのに!」と反論したいところだが、オスカルも私も予想以上に身体的疲労が溜まっていることに気付いていた。それに加え、旅の一番の目的地であった“古都シエナ到達”を果たしてから、3人とも言い知れぬ脱力感に襲われていたのである。 マルコは旅程を切り上げるその理由をはっきりと言わなかったが、私は知っている。
【あの頃イタリアで その91 トスカーナ卒業旅行⑨ そして旅は突然終わる】
「あのさ、少し早いけど、明日ミラノに帰らないか?」 マルコからのいきなりの提案に、私とオスカルは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたに違いない。(そんな鳩、見たことも無いが) 今日は旅が始まってから7日目。マルコの旅の計画では10日間の予定だから、あと3日残っている。 「なんで?なんで?!まだ3日もあるのに!」と反論したいところだが、オスカルも私も予想以上に身体的疲労が溜まっていることに気付いていた。それに加え、旅の一番の目的地であった“古都シエナ到達”を果たしてから、3人とも言い知れぬ脱力感に襲われていたのである。 マルコは旅程を切り上げるその理由をはっきりと言わなかったが、私は知っている。
【あの頃イタリアで その90 トスカーナ卒業旅行⑧ 古都シエナにやって来た!】
今日は1996年7月9日、トスカーナ自転車旅行7日目の朝が来た。 昨夜は設備が整ったキャンプ場のシャワールームで、2日分の汚れをきれいさっぱり洗い流したので今朝は気分爽快である。しかも今夜もここに宿泊するので、今までのように朝早くテントを畳んで慌ただしく旅立たないで済む。 この旅始まって以来ののんびりした朝だ。 昨日の雨の名残りか、プールサイドから見上げる空にはまだ雲が多いが、合間から刺す日差しは夏そのもの。 旅が始まってから今日まで、私たちは古都シエナを目指して必死に自転車を漕いできた。そのシエナがとうとう目と鼻の先(ここから30分行ったところ)にある!確実に手が届く!
【あの頃イタリアで その89 トスカーナ卒業旅行⑦ カッパの恨みは怖いのだ】
古城で迎えるトスカーナの夜明け・・・と書くと物凄くかっこいいが、正しくは、古城がある公園に張ったテントで迎える5日目の朝(笑) 私とマルコとオスカルは早起きをして、この旅最大の目的地である古都シエナを目指して出発した。もう迷子になるわけがない。だって目の前にあるのは獣道ではなく、確実にシエナに向かうと太鼓判を押された”ちゃんとした道”(地図に記載がある道路)なのだから。
【あの頃イタリアで その88 トスカーナ卒業旅行⑥ エンドレス・スタンドバイミー】
「マズいことになってしまったかも・・・いや、そうに違いない。」 1996年7月7日。私たち三人はそれぞれがそう思いながらも口に出せず、無言のままペダルを漕ぎ続けていた。 農家の優しいご夫婦に別れを告げてから約2時間、シエナ方面に向かう一本道をひたすら進んで来たのだが、その道が・・・
【あの頃イタリアで その87 トスカーナ卒業旅行⑤ 亀と卵とワッハッハ!】
「おーい!おまえたちー!早く起きろー!カメが!カメが卵産んでるぞー!」 “は?カメ・・・それって亀?” 手探りで掴んだ枕元の腕時計はまだ5時を過ぎたばかり。 “ここはどこ?ナゼに亀?そして・・・マルコでもオスカルでもないこの声の主は一体誰?” 頭の中も髪の毛もグチャグチャなまま、取りあえずテントのファスナーを開けて外を覗いてみる・・・が、やはり全く状況が呑み込めない。 「ほら!カメラ持って早くこっちにおいで!」 見知らぬおじさんが私に向かって一生懸命に手招きをしている。
【あの頃イタリアで その86 トスカーナ卒業旅行④ 小さな宝石箱ピエンツァ】
3日目の朝が来た。アグリツーリズモを営む農家の庭先に設置した大小のテントが二つ。その小さいほうから這い出した私の視界一杯に、朝のまばゆい光に照らされた緑の絶景が飛び込んできた。 “そうだ・・ここはトスカーナだった!” と、毎朝驚く私。 そしてここはモンテプルチャーノを見上げる広大な畑の中に建つ一軒家・・の庭先。昨夜到着した時は既に日が暮れていたので、遠くにポツポツと灯る灯りしか見えなかったが、今は澄んだ空気の中にそびえ立つ丘の上のモンテプルチャーノがはっきりと見える。
【あの頃イタリアで その85 トスカーナ卒業旅行③ 近いのか?遠いのか?モンテプルチャーノ】
2日目の朝早く、テントを張った謎の空地を後にした私たち三人は、第一目的地であるモンテプルチャーノの手前の、名も知れぬ小さな村でようやく食事にありついた。バール(カフェバー的なお店)はここ一件しかないのではないかと思われるほど辺鄙な村の小さなバール。そこでピザかサンドウィッチでも食べたのだろうか?とにかく自転車を漕ぐので精一杯だったので、残念ながらこの旅での食事の記憶は全般的に薄い。
【あの頃イタリアで その84 トスカーナ卒業旅行② ベトベト大福の洗礼】
1996年7月4日。私たちは一つ目の目的地であるモンテプルチャーノを目指して自転車を漕いでいた。 出発地点の“トッリータ・ディ・シエナ”からは直線距離で約12㎞。スタートしたのは昼過ぎであったが、夕方前には余裕で到着すると思っていた・・・が、されどここはトスカーナ・・・そんなに甘くは無い。私たちは1日目にしてトスカーナの厳しい洗礼を受けることになる。
【あの頃イタリアで その83 トスカーナ卒業旅行① 出発の朝】
出発の朝が来た。 荷物は最低限にしたのだが、用意したサイドバック(自転車の荷台の横に下げるバック)はパンパンだ。それに寝袋とテントを入れると全部で20㎏くらいになるだろうか。 「あなたホントに大丈夫?こんなに荷物積んで自転車漕げるの?しかもトスカーナの丘陵地帯でしょ?」 同居人の良美さんが心配そうに見つめるも、今更どうにもならない。
【あの頃イタリアで その82 卒業と別れは嫌でもやって来るのだ】
その日は晴天だった。学校側の粋な計らいの下、卒業式は太陽が降り注ぐ校舎の中庭で行われることになった。狭い庭内に建築からグラフィック、ファッション、インダストリアルetc…全てのコースの卒業生と教師が集まるのだから結構なすし詰め状態だ。
卒業設計の結果発表の翌日、私たちは約半年間続いた苦行(?)の打上げと称し、料理上手なシェフ(その75参照)がいるダニエラの家で、しこたま食べてしこたま飲んでお互いの健闘を称え合った。この楽しい時が永遠に続いて欲しいと、そこにいるみんなが願っていたと思う。その日はうっすらと空が明るくなるまで誰一人帰ろうとしなかった。
【あの頃イタリアで その80 卒業設計は静かに幕を下ろすのだ】
卒業設計が大詰めを迎えていた1996年6月の始め、私は半年間お世話になった設計事務所でのアルバイトを辞めた。ここで働かせてもらったお陰で生活が安定し、何とか無事に卒業できそうである。どこの馬の骨とも分からない私を迎え入れてくれたピエラとダッグには感謝しかない。
“訳”あって、(前回参照) 卒業旅行の日程をズラしてもらってから一週間後のことである。 卒業設計のグループ作業をしている教室に、マルコが珍しく遅れて入って来た。いつも穏やかな丸い目が心なしか横に潰れた楕円形に見える。 明らかにいつもと比べて口数が少ないマルコ。しかしそのことには触れないまま黙々と作業をすること数時間。
卒業旅行計画が発表された翌日の土曜。私たち4人は早速マルコの車で郊外の大型ホームセンターへテントと寝袋を物色しに出掛けた。まだ2カ月以上先のことではあるが、私たちの意識は既に卒論を軽く飛び越え、新緑きらめくトスカーナの地にあった。 しかしそんな中、私は一人、ある問題を抱えて悶々と悩んでいたのである。
【あの頃イタリアで その77 スタンドバイミー的卒業旅行の全貌】
ミラノに来て2度目のミラノサローネが終わり、世界中のビジネスマン&ウーマンが帰国すると街は何事もなかったかのように日常を取り戻した。 前回、“1996年の4月はとにかく忙しかった”と書いた。されどここはイタリア。どんなに忙しくても週末にはきっちりしっかり遊んでいたのである。
【あの頃イタリアで その76 おいしいアルバイトには訳がある】
1996年の4月は、とにかく忙しかった。卒業設計に追われながらも、相変わらず貧困状態にあったので設計事務所でのアルバイトを辞めるわけにはいかず、この頃は若さに任せてよく徹夜をしていた。(今は徹夜どころか、11時前に寝てしまうけど。笑)
午後の教室は春先の柔らかい光と食後の気だるさで満たされていた。卒業設計のグループ作業の前日は、割り振られた課題を完了するため、徹夜作業になることが多い。私はその日も明け方に仮眠をとっただけだったので、ついさっきマルコと食べたピアディーナが胃の中で膨れて来るにつれ、耐えきれない眠気に襲われていた。
ミラノにいつも通りの朝が来た。今日は午前中にナビリオ沿いのピエラの設計事務所でアルバイト。午後からは学校で卒業設計のグループ作業をする予定である。 “例の模型作りの一件”以来、いまだ首にならずにアルバイトを続けていられるのは、ピエラが同居人の良美さんの友人だか
【あの頃イタリアで その73 歩いて行くのだポルトフィーノ!〜リグーリアの旅・完結編】
いよいよ今日はポルトフィーノ散策の日。天気は快晴。絶好のお散歩日和である。 マルコお墨付きのバールで、カスタードクリーム入りコルネット(クロワッサン)をたらふく食べた私たち4人は、いったんマルコのマンションに戻って身支度をしてから出発した。 サンタマルゲリータからポルトフィーノまでは約5キロの道のり。交通手段としては通常、船やバスが利用されるのだが、「歩いて行った方が絶対楽しいから!」とマルコが言うので、全員素直に従うことにする。
【あの頃イタリアで その72 イタリアで太ったのには訳がある〜リグーリアの旅②】
こんにちは!先日、近所の幼稚園の園庭で梅の花が咲いているのを見かサンタマルゲリータに到着したその夜はマンションの近くで見つけたアットホームなトラットリア(イタリアの食堂)でパスタやらなにやらをお腹いっぱい食べた。残念ながら、メニューは忘れてしまったが、とにかく4人とも無口になってしまうほど満腹になった。 「さ~て、じゃあ帰ってシャワーして寝るか!」マルコはウェイターにお会計を告げ、カバンから例の共有財布を取り出して支払いをしている。・・・そのときである。その様子をジッと見ていた私は、ふと思ってしまった。“え?これって不公平じゃない?”
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【あの頃イタリアで その71 卒業設計からの逃避行〜リグーリアの旅】
「これで運転してるのがマルコじゃなかったら最高なんだけどな~!」信号待ちの合間に憎まれ口を叩くも、今日のマルコはベスパのバックミラー越しに寛大に笑っている。 ここで余談ですが・・ ここまで書くと読者の中には「とかなんとか言って実はマルコと付き合ってるんじゃないの~?」と思う方もいらっしゃるかと思うので、念のため解説します。 マルコにはエマというとても可愛い彼女いるのです。
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マルコと子供のようなケンカ別れをしてから数日後、何度目かのチームミーティングの朝が来た。今度こそ絶対文句は言わせまいと、昨夜は遅くまで根を詰めて作業をしていたせいか、今朝は格別に眠い。 思い身体を引きずりながら身支度をしていると、キッチンにあるFAX機能付きの電話が鳴った。数秒後、キッチンにいた良美さんが私を呼ぶ。 「お~い!マルコから電話だよ~!」
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【あの頃イタリアで その69 大人顔の子供たちはたまにケンカするのである】
ミラノ市内の病院に行った日から寝込むこと3日間。そして4日目の朝が明けた・・・。「完全復活!」と言いたいところだが、今回の風邪はそう甘くはないようで、咳と喉の痛みがしぶとく残っている。しかし今日は何としてでも卒業設計に取り掛からねば、次のミーティングに間に合わない。 喉を除けば体調はだいぶ良くなった気がするので、取りあえず起き上がってブランデー無しのホットミルクにたっぷりのお砂糖を入れて飲んでみた。荒れた喉の粘膜に痛いほど染み渡る。アルバイト先である設計事務所には良美さんが保護者の如く「しばらく欠勤」の連絡をしてくれていたので、なんとか集中して卒業設計のプラン作りに集中することができた。
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1996年2月、とある昼下がりの教室。この日も卒業設計チームの4人は腕組みをして図面とにらめっこをしていた。 課題として与えられたその建物は5階建。まずは大まかなデザインコンセプトを決めて、各フロアの用途を決める必要があるのだが、これがなかなか決まらない。どうやら今日もこのまま日が暮れてしまいそうである。そして夕方、案の定その日も何も決まらず、結局それぞれで考えて1週間後にプランを持ち寄ることになった。
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【あの頃イタリアで その67 卒業設計は嫌でも幕を開けるのだ】
生活費の足しにと、設計事務所でのアルバイトに精を出していた私だが、その間学校に通っていなかったわけではない。授業がある日以外は朝9時半から夕方4時までアルバイトをし、それから学校へ行って卒業設計の作業に取り掛かるという慌ただしい毎日を送っていた。 卒業設計は3、4人で1グループを作り、1つの課題に取り組むことになっていた。課題の選択肢は二つ。まず初めにインテリアデザインか建築デザインのどちらかを選ばねばならない。
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二度目の電熱線切断という衝撃・・・。深く考えれば考えるほどダッグと向き合う勇気は消え失せて行くので、一度頭を空っぽにしてオフィスに向かう。そしてドアをノックする前に思い切って外から大声で叫んでみた。 「ごめんないさい!また切れた!」 無言でドアを開けたダッグが笑顔であるはずがない。 「また?」それだけ言うとツカツカと作業室に向かい黙って電熱線を張り直す。
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あっという間に就業時間の午後6時。 結局その日は図面に書かれている等高線を発泡スチロールに書き写す作業で終わってしまった。(もちろんこの時代に3Dレーザーカッターなるものは無い。) 「時間なのでそろそろ帰っていいですか?」廊下からそう呼びかけると、すぐにダッグがオフィスから顔を出した。 「で、どこまでできた?」眉間に皺を寄せてそう尋ねる彼に等高線を書き写した発泡スチロールを差し出す。
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【あの頃イタリアで その64 ”ちゃんとした”アルバイトなのですが】
面接の翌日、私は午前の授業を終えるとクラスメートのマルコとミレーナからのランチの誘いを体よく断り、真っすぐにアルバイトに向かった。なんてったって今日からミラノの設計事務所で働くのである。かなり緊張するが、ちょっとだけ誇ら
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【あの頃イタリアで その63 今度こそ”ちゃんとした”アルバイト】
良美さんから紹介してもらった設計事務所の面接の日、私はミラノの運河沿いにあるとあるビルの前の歩道から4階の窓を見上げていた。住居とオフィスが混在しているらしいそのビルは、良美さんと暮らすアパートメントから徒歩で約15分、週末になるとマーケットが開かれる運河脇の明るい小道に面していて日当たりも良い。半年前に恐る恐るドアを開けた怪しいアルバイト先とは雲泥の差である。
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【あの頃イタリアで その62 いろいろな意味でのカウントダウン】
良美さんが無事にスウェーデンから帰国し、私が猫たちとの初めてのお留守番任務を終えた頃、ミラノは新年へのカウントダウンムード一色に包まれていた。去年は日本へ帰国したので、今回がミラノで迎える初めての新年である。 良美さんと二人きり(と二匹)で過ごす大晦日ではあるが、その日は朝から大忙しであった。まずは食材の買い出しをしに二人で近所のマーケットに向かう。
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【あの頃イタリアで その61 猫と分かりあうまでの1週間③】
2匹と1人の同居生活2日目。今日は1995年12月24日、聖なる夜。海外からやって来たクラスメートはみんな家族と過ごすためにそれぞれの国に帰ってしまった。ミラノ残留組の私はなんの予定も無い。今日も淡々と良美さんに言われた通り、朝晩2回サンボとマルにご飯をあげる。晩ご飯は昨晩同様、キャットフードの他に魚の切身を蒸し焼きにしてほぐしたもの。自分のご飯もまともに作れない私にとっては大仕事である。
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【あの頃イタリアで その60 猫と分かりあうまでの1週間②】
クリスマスを目前に控えた1995年12月23日、良美さんは本当にスウェーデンに旅立ってしまった。私と2匹の愛猫を残して・・・。 「あ~あ、君たちのお母さん本当にスウェーデンに行っちゃったね~」 その夜、足元でジッと私を見上げる2匹に向かって呟いてみた。いつもは2匹揃って私のそばに寄ってくることなんてないのに、やっぱり猫なりに寂しいのかな~と思う。
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【あの頃イタリアで その59 猫と分かりあうまでの1週間①】
私と良美さんが暮らすミラノのナビリオ地区にあるアパートメントには2匹の猫がいた。というよりも、私が良美さんのところに転がり込むずっと前から、良美さんは猫を飼っていたのである。 小柄なグレーのトラ柄猫「マル 」(推定5歳のメス猫)といかつい黒猫の「サンボ 」(推定4歳のオス猫)。私の薄い記憶によると友人が保護した捨て猫を止む無く引き取ったとのことだったが、良美さんはこの2匹の猫たちを我が子のように可愛がっていた。
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私はその授業が嫌いであった。別にパソコンが嫌いだったわけではないが、その授業を担当していた教師がとにかく嫌なやつだったのである。年の頃40代前半くらいのイタリア人、パソコンよりも格闘技が似合いそうな無骨な感じの男性。その髭面の教師の本名はあの当時も今も不明であるが、なぜかみんなにピッツィと呼ばれていた。 この教師、人種差別的思考があるのかどうか、イタリア人には優しいのだがなぜか他国からやって来た学生には辛く当たるのである。私もよくそのイライラの標的にされ、授業中に理不尽なことで怒鳴られたものだ。
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【あの頃イタリアで その57 だからストーリーなんて覚えていない】
私がミラノで暮らした1994年から1996年の約3年間で、映画を観に行ったのはたったの3回。別に映画に興味が無いわけではなくむしろ好きなのだが、どうしても言葉の壁が私を映画館から遠ざけてしまっていた。 その当時、イタリアで上映されていた映画は潔いほど字幕無しのイタリア語吹替え版のみであった。トム・クルーズだってハリソン・フォードだって、ペラペラのイタリア語なのである。俳優の地声を聞くことができないのはかなり残念であるが、英語もイタリア語も分からない私にとって、言ってることが理解できないという状況に変わりはない。
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【あの頃イタリアで その56 バースデーPARTYで地蔵と化す】
こんにちは!あっという間に6月になりました。6月といえば私の誕生月。う~れは1995年のちょうど今頃、その日の授業が終わり、さて帰ろうかなと思っていた私のもとに当時仲良くしていたアンニュイなミラネーゼ、クラスメートのミレーナがやって来た。ブロンズ色のロングヘアに愛嬌のある小顔が相変わらず可愛い。 「ねえねえ、エリコの誕生日って6月だよね?」 「うん、そうだけど。」どこで仕入れたのか私の誕生日を知っているようである。 「実はね、私も6月生まれなの!」 「へ~、そうなんだ~」と言いつつ、そっかじゃあミレーナと私はきっかり7歳違うんだなと思う。 「それでね!一緒にバースデーパーティーしない?!」
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【あの頃イタリアで その55 イタリア版・番町皿屋敷の恐怖 -その2-】
2軒お隣に住むおばあちゃんから晩ご飯のご招待を受けた私は、手土産用のワインを冷やして準備万端、どんな美味しいイタリア料理にあり付けるのかとワクワクが止まらない。そのとき、玄関のインターホンが鳴った。 「は~い!」ドアを開けるとおばあちゃんが優しそうな笑顔で立っている。あれ?わざわざ私を迎えに来てくれたのかな?・・ハテナ顔で突っ立っている私におばあちゃんは言う。 「では早速 お皿"を持って来てもいいかい?」
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【あの頃イタリアで その54 イタリア版・番町皿屋敷の恐怖 -その1-】
私がミラノに戻ったのは11月の初めのこと。9月中旬にミラノを発ってから、実に1カ月半もの間日本でのんびりしてしまった。 イタリアを初めヨーロッパではほとんどの学校が10月に新学期を迎えるが、私が通うデザインスクールが始まったのは11月8日。私立とはいえかなりのんびりしたスタートである。そのくせ12月になると鬼のように授業を詰め込むのだから生徒はたまったものじゃない。きっとまた課題に追われて寝不足の毎日がやって来るに違いないのだ。
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【あの頃イタリアで その53 キツネ目女から赤目女への変貌】
ウスティカの太陽がジリジリと肌を焼いていることすら気に留める余裕も無く、私はしばらく無言のまま甲板に寝転がっていた。海底でパニックになり、体力を消耗してしまったため船に上がるのに手こずり、しばらく海面に浮いていたので波酔いをしてしまったのだ。 遠足気分で浮かれ過ぎ、空気が読めないヌッチョは相変わらず大はしゃぎで、目を閉じたまま横になっている私にちょっかいを出しては笑っている。怒る気力もなく放っておいたのだが、それを見かねたドイツ人夫婦の妻がヌッチョを叱ってくれた。
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【あの頃イタリアで その52 シチリア海底にキツネ目の女現る その2】
シチリアの海底で、突如マスクが吸盤のように顔に貼り付いてしまった私はパニック寸前!何とか冷静になろうと、ギリギリのところであがいていた。 スキューバダイビング経験がある方は既にお分かりかと思うが、ダイビング経験が浅い上に一年振りに海に潜ることになった私は、耳抜き(鼓膜の内側と外側の圧力を調整するため、鼻を摘み、口を閉じた状態で、鼻から空気をはき出すようにして耳へ空気を送る方法)ばかり気に掛けてマスクの上から鼻を摘まみっぱなしで潜行してしまったためマスク内の気圧の調整ができず、その結果、マスク内の気圧が下がり、大きな吸盤のように顔に貼り付いてしまったのである。
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【あの頃イタリアで その51 シチリア海底にキツネ目の女現る】
9月初旬のウスティカ島はその日も朝から快晴。絶好のスキューバダイビング日和であった。 島の高台にある宿で軽い昼食を済ませ、私は妹と弟と別れた。今日の午後はフリータイムである。妹弟は海水浴へ、私はスキューバダイビングをするべく迎えに来てくれたヌッチョと島で知り合ったドイツ人夫婦と共に、エンツォ(その28参照)の船が停泊している港に向かった。一年前と変わらず、自家製エスプレッソ入の水筒をぶら下げてズンズン先を行くヌッチョの後ろ姿が微笑ましい。(その30参照)
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1995年の夏は、怪しアルバイトに励みつつも全力で遊んでいるうちにあっという間に過ぎてしまったと、前(その48参照)に書いた。クラスメートたちと遊びまわる以外にも、友人が日本から遊びに来たり、良美さんの友人が所有するコモ湖の別荘に連れて行ってもらったりと忙しかったが、何と言ってもその夏のトリを飾ったのは姉妹弟3人でのイタリアほぼほぼ一周旅行であった。
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【あの頃イタリアで その49 オペラ座のマエストロも男ですから】
1995年7月のとある月曜日、私はミラノの移民局(クエストゥーラ)の待合室にいた。 外国人が3ヵ月以上イタリアに滞在するために必要な滞在許可証は1年ごとに更新手続きが必要であるため、イタリアに来てからほぼ1年目のこの日、私は窓口の側のベンチで日本から持ってきた文庫本を読みながら、手続きの順番を待っていたのである。
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1995年の夏は、謎のアルバイトで始まってアルバイトで終わったが、そんな日々の中にも休日はある。平日は授業とアルバイト漬けだったので、休日になるとその分を挽回するべくとにかく全力で遊んだ。 あの頃の手帳を見ると、クラスメート4、5人でミラノの西側、ベローナの近くにある遊園地“Gardaland(ガルダランド)”へ遊びに行ったとか、カヌーで激流下りをしたとか、クラスメートのミレーナとマルコと三人でベネツィア観光へ行ったなどと書いてある。
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【あの頃イタリアで その47 マジックミラーの裏で蠢く怪しい面々③】
ミラノの片隅にある日本人観光客向けの謎のお土産物屋”マドラ”。マフィアが経営しているという噂は由美子さんのみならず他の従業員たちからも聞いた。これはもう、限りなく事実に近い噂なのか?しかし、みんな口を揃えてこう言う。 「だけどね~従業員には優しいし、働いた分のお金はきちんと払ってくれるから大丈夫よ!」
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【あの頃イタリアで その46 マジックミラーの裏で蠢く怪しい面々②】
1995年7月。忙しかった年度末テストが終わり、クラスのみんながホッと一息ついていたであろうあの頃、私は生活費を稼ぐべく、怪しいお店で店員として働いていた。当時の手帳には細かく時給計算をした痕跡が痛々しく残っている。 さて話を前回に戻します・・ 怪しいアルバイト初日の朝に水道水入りペットボトルの洗礼(前回参照)を受けた私は、そのショックも冷めやらぬまま由美子さんと一緒に1Fの売場へ行き、ショーケースの中の商品を整える作業に取り掛かった。
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【あの頃イタリアで その45 マジックミラーの裏で蠢く怪しい面々①】
人気のない通りに佇む全窓ミラー張のお店。もちろん中の様子は全く見えない。何度も住所と名前を確認してみる。間違いであって欲しいという願いも虚しく、どうやらここが目的地であるらしかった。 ”辿り着けなかったことにしてこのまま帰ろうか” という考えが一瞬脳裏をよぎる。しかしそれを打ち消すように「もう仕送りができないんだよ~」と母の声が聞こえる。 “どうしよう・・どうする?・・・え~い、押してしまえ!!” 私は意を決して呼び鈴を押した。
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ミラノの一大行事の一つであるミラノサローネが終わり、外国人で賑やかだった町が落ち着きを取り戻した頃、それを待っていたかのように学校の授業が忙しくなって来た。 日本と違ってイタリアの学校の年度末は6月なので、5月に入ると、いつも遊び回っているクラスのみんな(私を含む)も、6月の期末テストや作品提出期限に向けて真面目に取り組みだした。課題を全てクリアしないと4年生に進学できないからだ。
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【あの頃イタリアで その43 いきなりサッカーブーム・・しかもやる方】
ベッド完成から遡ること約2カ月。ベッドデザインコンペに優勝し、メーカーがせっせと私がデザインしたベッドを作り込んでいた頃(その40-42参照)、クラスの男子の中で草サッカー(?)が一時的に流行ったことがある。言い出しっぺはいつもの箱入りマルコだ。「なあなあ!今度の週末みんなでサッカーやろうぜ!俺の友達も連れて来るからチーム作って試合しようよ!」ある日の放課後、彼は唐突にこう切り出した。・・・気のせいか私に向かって言っている。そのまま気付かないふりをしていたら、案の定しっかりメンバーに入れられていた。
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思えば、メールでやり取りができなかったあの時代はかなり不便だったなーと思う。今だったらスマホで撮影してメールで画像を送れば一目で確認ができることであっても、あの頃はそうはいかない。 電話で“あーしたい、こーしたい”と説明しても上手く相手に伝わらず、スケッチを書いてFAXを送る。それでも伝えられないとなると、実物を前に話をするべく現地に赴くしかない。そして結局、ベッドが完成するまで3回ほど、マルコの車で工場へ通うことになった。
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校内ベッドデザインコンペで優勝したその日の夕方。授業が終わると同時に課外授業担当の現役インテリアデザイナー、アントニオに別室に呼び出された。入学して以来、注意警告以外で先生に呼び出されるのは初めてのことだ。 「エリコ、おめでとう!これからのことを説明するからそこに座って。」言われたままアントニオの向かい側に座る。 「さあ、これから忙しくなるよ!」アントニオは私の目を真正面から見つめながら楽しそうに微笑んだ。
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995年の年明けから、課外授業で取り組んでいた校内ベッドデザインコンペ。2月に入りその作品提出期限が近づいていたにも関わらず、私は学校の試験や提出物にも追い込まれ四面楚歌になりながら、なすすべもなく四角形の中心でクルクルと回っていた。相変わらず模型の屑にまみれたままだ。
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私が良美さんと暮らす新居の近所には“SMA”というスーパーマーケットがあった。良くあるチェーン店で、日本で言う“サミット”や“ピーコック”的な存在であったと思う。 貧困留学生活のため外食なんてめったにできなかったので、もっぱら自炊(・・と呼ぶほどの大したものは作れない)のために普段はスーパーで買い物をしていたのだが、売場に並ぶ鶏肉の値段の高さに衝撃を受けていた。
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【あの頃イタリアで その38 あの素晴らしい日々をもう一度】
そんな私たちの最大の共通点はワインが(=お酒を飲むのが)大好きなことであった。二人でダイニングテーブルに付いているときは必ずワイングラスを握っていたと言っても過言ではない。約二年間の同居生活で飲んだワインの量は果たしてどれくらいになるのだろうか。考えただけで恐ろしい。(注:アル中ではありません) とある週一回の空き瓶回収の日、二人でせっせとワインの空き瓶を運んでいると、隣に住む世話好きパッラディーニおばさん”が近寄って来てこう言った。向かっていると
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【あの頃イタリアで その37 それとも日本食の食べ過ぎが原因か?】
初めて迎えるイタリア、ミラノでのクリスマス・・・のはずが、日本食の誘惑に負けた私は“学校の課題の資料集めをしなければいけないのだ!”とかなんとか理由を付け、親からお金を借りて日本へ帰った。なんて意思が弱いのか・・・。留学中にたった二回しか迎えることのできないミラノでの貴重なクリスマス体験、その一回を棒に振ってしまったのだ。今でも悔やまれて仕方がない。
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三度目の引っ越しが完了した1994年11月の終わり。 ひと月前に始まったばかりのデザインスクールであるが、この頃になるとクラスのみんなが互いに打ち解け、かつての語学講座でそうだったように(その17 参照)、フェスタ(ホームパーティー)熱が再燃し始めた。
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【あの頃イタリアで その35 過去を塗り潰して前進あるのみ?】
新居が決まってから引っ越しをするまでの2週間はとにかく忙しなかった。私と良美さんは空いている時間を見つけては、とにかくペンキを塗りまくった。 現在住んでいるアパートの大家さんと交渉し、何とか退去日を一週間延ばしてもらった私たちであったが、それでも準備時間が少ない。
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それは突然のことであった。 「あのね、実は・・このアパートを引き払わなければならなくなったの。」 「え?」 「引っ越しをしなければならないんだけど、あなたも一緒に来る?」 「え?ええ~?!」一緒に来るも何も、それしか選択肢が無いように思える。しかし・・ついこの間だよね?私がここに引っ越して来たの。(その9参照) シチリア一人旅から帰ってすぐ、良美さんから聞かされた突然の引っ越し計画。
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【あの頃イタリアで その33 くせ者揃いの各国代表、ここに集結!】
「おはよ~・・」ちょっと緊張気味に挨拶をして、おずおずと教室へ入ったその途端、 「お~!エリコ!早くシチリアの話を聞かせろよ!」げげ!ミハイルめ、まだ諦めてなかったのか!それどころか、 「なあなあ!こいつ凄いんだぜ!1人でシチリアを旅して来たんだよ!」と紙芝居の呼び込みの如く大声を出すものだから、周りにいた数人がどやどやと集まって来た。眼光鋭くミハイルを見据えつつも、え?シチリアってそんなに危険なところだったの?と今更ながら怖気づく。
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ミラノに戻ってから一週間後の10月24日、インテリアデザイン学科の教師陣と生徒たちとの顔合わせを兼ねた説明会が行われることになっていた。夕方5時集合というのだから随分とのんびりしたものである。 約一ヵ月振りの登校日。お調子者のギリシャ人、ミハイル(その20参照)を除いては全員初対面と言うこともあり、やや緊張気味に家を出た・・・はずだったが、久しぶりに乗るトラムの時間を間違えてしまった!遅刻だ~!
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【あの頃イタリアで その31 さよならウスティカ!絶対にまた来ると誓う!】
「エリコ~!エリコ~!早くこっちへ来~い!結婚式だ~!」 ん?!結婚式?!慌てて残りのカプチーノを流し込み、ヌッチョが手招きする方へ小走りで向かってみると・・・ なんと、そこにはいつか見た”ゴッドファーザー”のワンシーンを彷彿させる光景が!
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【あの頃イタリアで その30 シチリアの海底に沈むものたち】
ウスティカ島の町長とヌッチョに連れられ、プロダイバーのエンツォに出会った(その28参照)その翌日、ヌッチョにお昼ご飯をご馳走になった私は一旦ホテルに戻り、ミラノから持参したウェットスーツに着替え、マイゴーグルとフィンを片手にエンツォの待つ港に向かった。なぜかヌッチョも一緒である。運動会の応援に行く父兄さながら、エスプレッソの入った水筒を片手にぶら下げて私より楽しそうなのだ。
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【あの頃イタリアで その29 シチリア風ゴルゴンゾーラスパゲッティのレシピとは?】
翌日、やっと居場所を見つけた安心感からか、朝ごはんも食べずに眠り続けた。2階にある部屋のカーテンの隙間からは10月とは思えないほど眩しい光が差し込んでいる。枕元の時計はもうとっくに11時を回っているし、いくら何でもそろそろ起きないと1日がもったいないな~でも眠いな~とベッドの上でゴロゴロしていると、何やら窓の外で声がする。動きを止めて良く耳を澄ますと、どうもその声の主はヌッチョらしい。
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2021年3月から全93回続いたイタリア留学思い出ブログも、前回でとうとう最終回を迎えることができました。これまでお読みいただいた皆様には感謝しかありません。 「忘れてしまわないうちに、大切な思い出を書き残しておかねば!」 と、自己欲求を満たすためにスタートしたブログでしたが、気付けば徐々に読んでくださる方が増え、それが励みになり、こんなに(どんなに?)飽きっぽい私が最後まで書き終えることができました。
トスカーナの旅から帰った私は大忙しだった。なにせたった3日間で、ミラノで暮らした2年分の全てを片付け、4日目には日本からやって来る友人と約2カ月間、“西ヨーロッパ一周バックパッカーの旅”に出ることになっていたからだ。 その後ミラノのアパートメントに帰り、その2日後には日本に帰国するという超過密スケジュールなのである。
マルコからの突然の提案で(その91参照)、今夜が旅の最後の夜になってしまった。私たちは何となく感慨深げにテントを組み立て始めた。作業する傍らで、どこからともなくやって来たブチ柄の痩せた野良犬が尻尾をぶんぶん振り回しながらはしゃいでいる。
「あのさ、少し早いけど、明日ミラノに帰らないか?」 マルコからのいきなりの提案に、私とオスカルは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたに違いない。(そんな鳩、見たことも無いが) 今日は旅が始まってから7日目。マルコの旅の計画では10日間の予定だから、あと3日残っている。 「なんで?なんで?!まだ3日もあるのに!」と反論したいところだが、オスカルも私も予想以上に身体的疲労が溜まっていることに気付いていた。それに加え、旅の一番の目的地であった“古都シエナ到達”を果たしてから、3人とも言い知れぬ脱力感に襲われていたのである。 マルコは旅程を切り上げるその理由をはっきりと言わなかったが、私は知っている。
「あのさ、少し早いけど、明日ミラノに帰らないか?」 マルコからのいきなりの提案に、私とオスカルは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたに違いない。(そんな鳩、見たことも無いが) 今日は旅が始まってから7日目。マルコの旅の計画では10日間の予定だから、あと3日残っている。 「なんで?なんで?!まだ3日もあるのに!」と反論したいところだが、オスカルも私も予想以上に身体的疲労が溜まっていることに気付いていた。それに加え、旅の一番の目的地であった“古都シエナ到達”を果たしてから、3人とも言い知れぬ脱力感に襲われていたのである。 マルコは旅程を切り上げるその理由をはっきりと言わなかったが、私は知っている。
今日は1996年7月9日、トスカーナ自転車旅行7日目の朝が来た。 昨夜は設備が整ったキャンプ場のシャワールームで、2日分の汚れをきれいさっぱり洗い流したので今朝は気分爽快である。しかも今夜もここに宿泊するので、今までのように朝早くテントを畳んで慌ただしく旅立たないで済む。 この旅始まって以来ののんびりした朝だ。 昨日の雨の名残りか、プールサイドから見上げる空にはまだ雲が多いが、合間から刺す日差しは夏そのもの。 旅が始まってから今日まで、私たちは古都シエナを目指して必死に自転車を漕いできた。そのシエナがとうとう目と鼻の先(ここから30分行ったところ)にある!確実に手が届く!
古城で迎えるトスカーナの夜明け・・・と書くと物凄くかっこいいが、正しくは、古城がある公園に張ったテントで迎える5日目の朝(笑) 私とマルコとオスカルは早起きをして、この旅最大の目的地である古都シエナを目指して出発した。もう迷子になるわけがない。だって目の前にあるのは獣道ではなく、確実にシエナに向かうと太鼓判を押された”ちゃんとした道”(地図に記載がある道路)なのだから。
「マズいことになってしまったかも・・・いや、そうに違いない。」 1996年7月7日。私たち三人はそれぞれがそう思いながらも口に出せず、無言のままペダルを漕ぎ続けていた。 農家の優しいご夫婦に別れを告げてから約2時間、シエナ方面に向かう一本道をひたすら進んで来たのだが、その道が・・・
「おーい!おまえたちー!早く起きろー!カメが!カメが卵産んでるぞー!」 “は?カメ・・・それって亀?” 手探りで掴んだ枕元の腕時計はまだ5時を過ぎたばかり。 “ここはどこ?ナゼに亀?そして・・・マルコでもオスカルでもないこの声の主は一体誰?” 頭の中も髪の毛もグチャグチャなまま、取りあえずテントのファスナーを開けて外を覗いてみる・・・が、やはり全く状況が呑み込めない。 「ほら!カメラ持って早くこっちにおいで!」 見知らぬおじさんが私に向かって一生懸命に手招きをしている。
3日目の朝が来た。アグリツーリズモを営む農家の庭先に設置した大小のテントが二つ。その小さいほうから這い出した私の視界一杯に、朝のまばゆい光に照らされた緑の絶景が飛び込んできた。 “そうだ・・ここはトスカーナだった!” と、毎朝驚く私。 そしてここはモンテプルチャーノを見上げる広大な畑の中に建つ一軒家・・の庭先。昨夜到着した時は既に日が暮れていたので、遠くにポツポツと灯る灯りしか見えなかったが、今は澄んだ空気の中にそびえ立つ丘の上のモンテプルチャーノがはっきりと見える。
2日目の朝早く、テントを張った謎の空地を後にした私たち三人は、第一目的地であるモンテプルチャーノの手前の、名も知れぬ小さな村でようやく食事にありついた。バール(カフェバー的なお店)はここ一件しかないのではないかと思われるほど辺鄙な村の小さなバール。そこでピザかサンドウィッチでも食べたのだろうか?とにかく自転車を漕ぐので精一杯だったので、残念ながらこの旅での食事の記憶は全般的に薄い。
1996年7月4日。私たちは一つ目の目的地であるモンテプルチャーノを目指して自転車を漕いでいた。 出発地点の“トッリータ・ディ・シエナ”からは直線距離で約12㎞。スタートしたのは昼過ぎであったが、夕方前には余裕で到着すると思っていた・・・が、されどここはトスカーナ・・・そんなに甘くは無い。私たちは1日目にしてトスカーナの厳しい洗礼を受けることになる。
出発の朝が来た。 荷物は最低限にしたのだが、用意したサイドバック(自転車の荷台の横に下げるバック)はパンパンだ。それに寝袋とテントを入れると全部で20㎏くらいになるだろうか。 「あなたホントに大丈夫?こんなに荷物積んで自転車漕げるの?しかもトスカーナの丘陵地帯でしょ?」 同居人の良美さんが心配そうに見つめるも、今更どうにもならない。
その日は晴天だった。学校側の粋な計らいの下、卒業式は太陽が降り注ぐ校舎の中庭で行われることになった。狭い庭内に建築からグラフィック、ファッション、インダストリアルetc…全てのコースの卒業生と教師が集まるのだから結構なすし詰め状態だ。
卒業設計の結果発表の翌日、私たちは約半年間続いた苦行(?)の打上げと称し、料理上手なシェフ(その75参照)がいるダニエラの家で、しこたま食べてしこたま飲んでお互いの健闘を称え合った。この楽しい時が永遠に続いて欲しいと、そこにいるみんなが願っていたと思う。その日はうっすらと空が明るくなるまで誰一人帰ろうとしなかった。
卒業設計が大詰めを迎えていた1996年6月の始め、私は半年間お世話になった設計事務所でのアルバイトを辞めた。ここで働かせてもらったお陰で生活が安定し、何とか無事に卒業できそうである。どこの馬の骨とも分からない私を迎え入れてくれたピエラとダッグには感謝しかない。
“訳”あって、(前回参照) 卒業旅行の日程をズラしてもらってから一週間後のことである。 卒業設計のグループ作業をしている教室に、マルコが珍しく遅れて入って来た。いつも穏やかな丸い目が心なしか横に潰れた楕円形に見える。 明らかにいつもと比べて口数が少ないマルコ。しかしそのことには触れないまま黙々と作業をすること数時間。
卒業旅行計画が発表された翌日の土曜。私たち4人は早速マルコの車で郊外の大型ホームセンターへテントと寝袋を物色しに出掛けた。まだ2カ月以上先のことではあるが、私たちの意識は既に卒論を軽く飛び越え、新緑きらめくトスカーナの地にあった。 しかしそんな中、私は一人、ある問題を抱えて悶々と悩んでいたのである。
ミラノに来て2度目のミラノサローネが終わり、世界中のビジネスマン&ウーマンが帰国すると街は何事もなかったかのように日常を取り戻した。 前回、“1996年の4月はとにかく忙しかった”と書いた。されどここはイタリア。どんなに忙しくても週末にはきっちりしっかり遊んでいたのである。
1996年の4月は、とにかく忙しかった。卒業設計に追われながらも、相変わらず貧困状態にあったので設計事務所でのアルバイトを辞めるわけにはいかず、この頃は若さに任せてよく徹夜をしていた。(今は徹夜どころか、11時前に寝てしまうけど。笑)
午後の教室は春先の柔らかい光と食後の気だるさで満たされていた。卒業設計のグループ作業の前日は、割り振られた課題を完了するため、徹夜作業になることが多い。私はその日も明け方に仮眠をとっただけだったので、ついさっきマルコと食べたピアディーナが胃の中で膨れて来るにつれ、耐えきれない眠気に襲われていた。
ミラノにいつも通りの朝が来た。今日は午前中にナビリオ沿いのピエラの設計事務所でアルバイト。午後からは学校で卒業設計のグループ作業をする予定である。 “例の模型作りの一件”以来、いまだ首にならずにアルバイトを続けていられるのは、ピエラが同居人の良美さんの友人だか
いよいよ今日はポルトフィーノ散策の日。天気は快晴。絶好のお散歩日和である。 マルコお墨付きのバールで、カスタードクリーム入りコルネット(クロワッサン)をたらふく食べた私たち4人は、いったんマルコのマンションに戻って身支度をしてから出発した。 サンタマルゲリータからポルトフィーノまでは約5キロの道のり。交通手段としては通常、船やバスが利用されるのだが、「歩いて行った方が絶対楽しいから!」とマルコが言うので、全員素直に従うことにする。
こんにちは!先日、近所の幼稚園の園庭で梅の花が咲いているのを見かサンタマルゲリータに到着したその夜はマンションの近くで見つけたアットホームなトラットリア(イタリアの食堂)でパスタやらなにやらをお腹いっぱい食べた。残念ながら、メニューは忘れてしまったが、とにかく4人とも無口になってしまうほど満腹になった。 「さ~て、じゃあ帰ってシャワーして寝るか!」マルコはウェイターにお会計を告げ、カバンから例の共有財布を取り出して支払いをしている。・・・そのときである。その様子をジッと見ていた私は、ふと思ってしまった。“え?これって不公平じゃない?”
「これで運転してるのがマルコじゃなかったら最高なんだけどな~!」信号待ちの合間に憎まれ口を叩くも、今日のマルコはベスパのバックミラー越しに寛大に笑っている。 ここで余談ですが・・ ここまで書くと読者の中には「とかなんとか言って実はマルコと付き合ってるんじゃないの~?」と思う方もいらっしゃるかと思うので、念のため解説します。 マルコにはエマというとても可愛い彼女いるのです。
マルコと子供のようなケンカ別れをしてから数日後、何度目かのチームミーティングの朝が来た。今度こそ絶対文句は言わせまいと、昨夜は遅くまで根を詰めて作業をしていたせいか、今朝は格別に眠い。 思い身体を引きずりながら身支度をしていると、キッチンにあるFAX機能付きの電話が鳴った。数秒後、キッチンにいた良美さんが私を呼ぶ。 「お~い!マルコから電話だよ~!」
ミラノ市内の病院に行った日から寝込むこと3日間。そして4日目の朝が明けた・・・。「完全復活!」と言いたいところだが、今回の風邪はそう甘くはないようで、咳と喉の痛みがしぶとく残っている。しかし今日は何としてでも卒業設計に取り掛からねば、次のミーティングに間に合わない。 喉を除けば体調はだいぶ良くなった気がするので、取りあえず起き上がってブランデー無しのホットミルクにたっぷりのお砂糖を入れて飲んでみた。荒れた喉の粘膜に痛いほど染み渡る。アルバイト先である設計事務所には良美さんが保護者の如く「しばらく欠勤」の連絡をしてくれていたので、なんとか集中して卒業設計のプラン作りに集中することができた。
1996年2月、とある昼下がりの教室。この日も卒業設計チームの4人は腕組みをして図面とにらめっこをしていた。 課題として与えられたその建物は5階建。まずは大まかなデザインコンセプトを決めて、各フロアの用途を決める必要があるのだが、これがなかなか決まらない。どうやら今日もこのまま日が暮れてしまいそうである。そして夕方、案の定その日も何も決まらず、結局それぞれで考えて1週間後にプランを持ち寄ることになった。
生活費の足しにと、設計事務所でのアルバイトに精を出していた私だが、その間学校に通っていなかったわけではない。授業がある日以外は朝9時半から夕方4時までアルバイトをし、それから学校へ行って卒業設計の作業に取り掛かるという慌ただしい毎日を送っていた。 卒業設計は3、4人で1グループを作り、1つの課題に取り組むことになっていた。課題の選択肢は二つ。まず初めにインテリアデザインか建築デザインのどちらかを選ばねばならない。