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2021/07/05

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  • 東海古城研究会の機関紙「城」 第235号が刊行されました

    東海古城研究会の機関紙「城」の第235号が刊行され、会員に郵送で届きました。「信康事件の周辺に関するノート」は前号に続いて信康事件の論考で、松平家忠日記に登場する「新城」普請との関連などをとりあげて検討しています。「石樋丁場跡と周辺の残石」は、石丁場と刻印などを丹念に調査した結果を連載の形で報告しています。「岡崎公園内の発掘調査」はこれまでに数多く行われてきた岡崎城の発掘調査の結果をわかりやすくまとめて報告しています。「土岐市の城ケ根砦について」「月原本城山城登城路と特異な遺構を探査」は山城の探索と考察となっています。「城」の入手については東海古城研究会の公式「X」(旧Twitter)→こちらのDM又はGoogleフォームで問合せ、申し込みが可能です。東海古城研究会の機関紙「城」第235号が刊行されました

  • 油日城 近江 遺構がよく残るが後世の道路で城の向きが紛らわしい甲賀の城郭

    油日城は滋賀県甲賀市甲賀町油日にあります。有名な油日神社が北東約300mにあり、この地域の中心的な城郭だったとされ、北側に杣川、南側に心教田川が流れる尾根上に築かれています。付近には多数の城郭が点在し、西からの侵入に対して油日城を守る体制がとられているようにみえました。今回の参考資料は「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010などです。油日城近江から伊賀へ抜ける主要な街道の結節点にある近江から伊賀へ抜ける道は後世のJR草津線や車の道の開発によって旧街道は目立たなくなりましたが、今もほぼ残されているようでした。油日城後世の道路街道イ旧街道ア杣川の旧河道ウなどを考慮して遺構を見る油日城は城址の西側を通る道路イを抑える役割があったように一見思われますが、明治期の地図などで確認すると道路イは後世に敷...油日城近江遺構がよく残るが後世の道路で城の向きが紛らわしい甲賀の城郭

  • 中上城 伊勢 集落から離れた村の城 占地に関連して想像を膨らませる

    中上城は三重県員弁郡東員町中上にあります。花戸城、花扉城とも呼ばれ、築城は明応年間(1492~1501)坂太郎左衛門によって行われたとされ、時期は不明ですが敵に敗れて廃城になったと伝ええられています。その後、阪氏は蓮如上人に帰依し中上集落に遍崇寺を建立したとされます。今回の参考資料は(1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008などです。中上城付近の集落にもそれぞれ村の城が築かれていた中上城の周辺には北山城、長深城、志知城など村の城が築かれていたようです。中上城城の占地が集落から離れていた特別な理由があったかA辺りが普通?村の城は集落に隣接している場合が多いと思いますが、中上城は集落の西端部から≒400m、中心部から≒800mの離れた場所に築かれていました...中上城伊勢集落から離れた村の城占地に関連して想像を膨らませる

  • 箕輪城 信濃 天竜川の河岸段丘上に築かれた箕輪氏の城塞群の中心城郭で遺構の残りが良い

    箕輪城は長野県上伊那郡箕輪町にあります。城主は箕輪左衛門重時と伝わり、天竜川対岸の福与城などと連携して当地区を支配していたされます。その後武田氏の南下によって伊那谷が支配されましたが、後に徳川氏によって付近に木下陣屋が置かれ箕輪城は廃城になったようです。天竜川の第二河岸段丘上に築かれた城塞群の中心が、今見る箕輪城だったとされます。今回の参考資料は「信濃の山城と館5」宮坂武男著2013などです。※宮武武男先生による箕輪城の鳥観図は長野県立歴史館HPの「宮坂武男城郭鳥観図」からご覧いただけます→こちら箕輪城河岸段丘上の南北に城砦群が築かれていた資料によると、箕輪城の城塞群は今見る箕輪城の北側に北城、中心部を南城(しろ山)、その南側にカネチョウ山があり、さに段丘南端部には砦が設けられていたとされ、天竜川対岸の福...箕輪城信濃天竜川の河岸段丘上に築かれた箕輪氏の城塞群の中心城郭で遺構の残りが良い

  • 仲明城 遠江 敷地川に突き出した支尾根に築かれ背後の尾根を厳重に遮断した城郭

    仲明(なかみょう)城は静岡県磐田市敷地字仲明にあります。附近を領していた敷地氏の居城と伝わりますが詳細は不明のようです。二重堀切などの遺構の特徴から、今見る姿は武田氏によって改修が行われたと考えられそうです。資料によっては付近の家田城と一体の城郭であったとされますが、遺構の状況などから別の城郭とも考えられています。今回の参考資料は(1)「静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022と(2)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会1978などです。仲明城遠州に侵入した武田軍は付近に布陣した武田信玄の二俣城攻めの時には、合代島の亀井戸城に本陣が置かれた可能性があり、周辺が宿陣地となったとされ、仲明城もその範囲に入っていたと思われます。その際には社山城も二重堀切などの存在などから武田氏の配下となって...仲明城遠江敷地川に突き出した支尾根に築かれ背後の尾根を厳重に遮断した城郭

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