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Re-set by yoshioka ko https://blog.goo.ne.jp/ysok923

乱れ飛ぶ情報過多の世界を生きていくには、何といっても自らを Re-set 。そこからもう一度見つめてみたい!

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2021/06/18

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  • やまと世から50年~私の沖縄復帰前史⑦~

    ▶沖縄基地の「現実」 沖縄を知るには、米軍基地の「姿」もカメラに収めておきたいと思った。 目に見える「基地」とはどんなものなのか?それを知らないと、沖縄に暮らす人たちの「基地感情」というものがどういうものなのかを実感できないのでは、と思ったからだった。 いうまでもなく、撮影は金網越しとなるのだが、現在と違って、復帰前のそのときは、常に緊張との闘いだった。 つまり、「その瞬間」を撮るには軍警察(MP)に見つからず、さらに長時間、身を隠す場所に潜み続けねばならなかったからだ。 下の写真は、いずれもそのような状況下で撮影したものだった。 SR-71(黒い怪鳥)と弾薬輸送 ▶「基地の中に沖縄はある」 SR-71・・・1960年、ソ連のミサイルで撃墜されたU-2偵察機事件のあと、ミサイル迎撃を回避するために、さらに高高度...やまと世から50年~私の沖縄復帰前史⑦~

  • やまと世から50年~私の沖縄復帰前史⑥~

    Bー52爆発炎上事故をきっかけに「基地撤去」の声はゼネスト要求にまで高まった ▶分水嶺となった「ゼネスト回避」 あの日、予定通り「ゼネスト」が行われていれば、歴史は変わっただろうか?その答えは、私は「わからない」。 ただ、ひとつだけ、その後現実に起きたことをもとに推論するとすれば、誕生したばかりの「即時無条件全面復帰」を求める屋良朝苗主席を「かばう」あまり、施政権者でもない日本政府と妥協してしまったことが、のちのち復帰に求める住民たちのコンセンサスに大きな影響を与えたのではないか、と思ったことだった。 ▶「クビ」を賭けた基地労働者 ともあれ、2.4ゼネストは、B52の墜落・爆発炎上という大事故をきっかけに作られた「命を守る県民共闘会議」主導でスタートした。 参加団体は復帰運動の中心的担い手だった教職員会を筆頭に...やまと世から50年~私の沖縄復帰前史⑥~

  • やまと世から50年~私の沖縄復帰前史⑤~

    ▶会場は恐怖と怒りで満ちていた 嘉手納村内で開かれた「B-52撤去」の集会(『アサヒグラフ』掲載写真から) こんなにも恐怖と怒りに満ちた集会やデモを見たのは初めてだった。 B52戦略爆撃機が墜落・爆発炎上した日の夜、嘉手納中学校の校庭に集まった多くの村民たちは、「逃げ場がない」ことにあらためて衝撃を受けたかのように表情は沈痛で、そしてまた基地との共存を余儀なくされることの意味を、あらためて実感しているかのように私には思えた。 その沈痛は、時間と共に次第に「B52即時撤去」「基地撤去」という怒りのエネルギーとなって、ふつふつと煮えたぎっていくのも感じられた。 機動隊に阻まれながらも口々に抗議の叫びを上げる村民 ▶事故後もヴェトナム空爆に飛び立つ「B-52」戦略爆撃機 事故から4日目には南ヴェトナム爆撃行に離陸した...やまと世から50年~私の沖縄復帰前史⑤~

  • やまと世から50年~私の沖縄復帰前史 ④~

    ▶また落ちたのか! 昨晩(6月2日)遅く、沖縄うるま市・津堅島の民家近くに米軍ヘリが不時着したというニュースに、「またか!」といまも変わらぬ危険との同居を余儀なくされている状況に怒りを感じながら、書く。 ▶53年前の「その瞬間」 「その瞬間、私はもはや報道人であることを忘れてしまった。気がついたときには、弾薬庫が燃えた、弾薬庫が燃えた、と大声をはりあげて走りまわっていた」 こう書いたのは『沖縄タイムス』嘉手納支局の玉城真幸支局長。 「その瞬間」とは、53年前の1968年11月9日午前4時15分。南ヴェトナム爆撃に発進しようとしていた弾薬満載の米戦略爆撃機B52が、嘉手納基地滑走路に墜落・爆発炎上したときのことを指す。 「その瞬間」の住民の姿を捉えた玉城記者撮影の写真(『アサヒグラフ』より) 私は、玉城真幸記者か...やまと世から50年~私の沖縄復帰前史④~

  • やまと世から50年~私の沖縄復帰前史 ③~

    ▶初の公選主席選挙に燃える沖縄 沖縄到着早々、危機一髪のところで逃れたとはいえ、フイルム没収という米軍支配の実態をいきなり味わった私だったが、この日からほぼ1ヶ月、『アサヒグラフ』の取材を兼ねながら、離島を含めて沖縄中を駆け回った。 実はこのとき、米統治下となって23年間、ずっと任命制だった行政主席を初めて住民が選ぶ選挙(公選主席選挙)が行われることになっていたからだ。 この選挙戦に密着すれば、沖縄の「民意」を実感できるに違いない・・・。私は、密かにそう期待していた。 候補者はふたり。 一人は日米政府が支援し「復帰をすればイモを喰い、ハダシで歩く生活に戻る」と警告する西銘順治候補。 一人は、復帰運動を主導してきた教職員会会長で「即時無条件全面復帰」を掲げた屋良朝苗候補。 保革一騎打ちの構図だった。 石垣島での選...やまと世から50年~私の沖縄復帰前史③~

  • やまと世から50年~私の沖縄復帰前史 ②~

    ▶危機一髪「フィルム没収」 「フィルムを没収する、と必ずいわれる。そのときは大人しく従った方がいい。抵抗すれば、基地の中に連行されるだけだから・・・」 基地ゲートを固めていた沖縄人警備員が私の脇に来て、小声でささやく。 那覇空港に降り立った私は、何はともあれ嘉手納基地を見ておきたいとタクシーに乗った。 1968年といえば、ヴェトナム反戦運動が盛んのときで、東京でも「ベ平連」が街や駅などでデモや「反戦フォーク集会」を開くなど、市民レベルでの運動が激化していたし、新聞には「ヴェトナムに出撃するB52」といった見出しと共に、嘉手納基地の名前が頻繁に登場していた。 沖縄は、タイやフィリピンと並び、ヴェトナム戦争最大の出撃基地だったのだ。「何はともあれ嘉手納基地」という思いは、そんな意識が大部分を占めていたせいだった。 ...やまと世から50年~私の沖縄復帰前史②~

  • やまと世から50年~私の沖縄復帰前史 ①~

    ▶日本行きには「日本渡航証明書」 『本証明書添付の写真及び✕✕に該当する知念〇〇は日本へ旅行する琉球住民であることを証明する琉球列島高等弁務官』  上の写真は1970年5月6日、つまり沖縄が復帰する前、那覇市にあった出入管理庁で撮影したものだ。 アメリカ施政権下の沖縄では、琉球列島高等弁務官が発行するこの『日本渡航証明書』がなければ、日本にも気軽には行けなかった。 高等弁務官(HighCommissioneroftheRyukyuIslands)とは、アメリカ大統領の承認の下で、国防長官が現役陸軍将官の中から任命する。 与えられた権限も行政、立法、司法と広範囲に及んだ。  あらためて『証明書』の内容を見てみると、日本国民でもなく、沖縄県民でもなく、「琉球住民」という言葉が、復帰前の沖縄を全て語っているようで、私...やまと世から50年~私の沖縄復帰前史①~

  • 香港メディアの「死」(後編)

    ▶「報道の自由は免罪符ではない」と中国政府『暴政の犠牲に』『中国化拒んだりんご日報』『報道の自由が終わりを告げる日』『最終版に長蛇の列』 日本の新聞やテレビも香港の新聞『りんご日報』の廃刊を大きく伝えた。いずれのニュースも中国共産党政権を批判する趣旨で貫かれている。 中国共産党政権は新聞経営者や編集主筆を拘束し、そればかりか会社資産の凍結、銀行融資の禁止と、なりふり構わぬ強硬手段を講じて言論機関を潰してしまった。 これに対して「報道の自由は免罪符ではない」と、中国外務省は国際社会から高まる批判には批判で答えているが、言い方を変えれば、「中国には中国の民主主義がある」といいたいのだ。 こういう「物言い」は独裁国家の常套句でもある。北朝鮮もそうだし、ロシアもそうだ。かつては韓国もそうだった。戦前の日本だってそうだっ...香港メディアの「死」(後編)

  • 香港メディアの「死」(前編)

    ▶『香港りんご日報廃刊』その見出しを目にしたとき、とうとう来たか、と一瞬その素早さに驚いた。 すぐさま、あの記者、このカメラマン、そして彼らが所属している新聞社の人たちを想った。24年前、TBS『報道特集』の取材で、私のインタビューに「圧力には屈しません!」と決然と答えた発行人や、「自由です!」とすかさず答えた写真記者たちのことだ。 トータルでいえば155年ぶりに中国に返還される香港の人々は、返還日となる1997年7月1日という日をどう迎えるのだろうか、と考えた私は、急激に部数を伸ばし始めていた『りんご日報』編集局に密着し、「その日」をドキュメントすることでそのことをみつめてみようと決めた。 番組上のタイトルは「香港メディアは生き残れるか」。 返還後も50年にわたって「1国2制度」「港人治港」と、それまで香港が...香港メディアの「死」(前編)

  • ■原発事故から1年7ヶ月

    現住所のあるところが「ホットスポット」だ、ということは以前に書いた。その住宅の理事会や町会で、今年は役員を仰せつかり、毎週のように土日は何らかの委員会の会合がある。会合のひとつに『放射線対策委員会』というのがある。しかし、委員長の体調が悪く、どういうわけか私がその代理となってしまっていた。今日は、朝9時から、その委員会による「ホットスポット」となってしまった町会の、およそ200カ所の地点での放射能値を測定する予定だった。だが、雨のために、明日に延期となった。そのことはいいのだが、実は、測定のために必要な線量計を15台、昨日、市から借りてきていた。そして、今日の測定のために、任意の3カ所で、線量計ひとつひとつが示す数値を測り、その「誤差」を記録した。同型同種の線量計でも、数値は必ずしも、というか、ほとんど一致しな...■原発事故から1年7ヶ月

  • ■合掌、大滝秀治さん

    俳優、大滝秀治さんが亡くなった。訃報がニュースになる直前の午後1時5分に、以前、プロデューサーとして関わった大滝さんのドキュメンタリー(NHKハイビジョン特集『全身“役者魂”大滝秀治~84歳執念の舞台』2009年1月23日放送)でお世話になったNさんからの電話で知った。あまりの驚きで声が出なかった。番組を担当したMディレクターも、一瞬声を詰まらせた。つい先日、高倉健のドキュメンタリーの中で、現在上映中の「あなたへ」という映画で共演していた大滝さんの大滝さんらしい演技を見たばかりだったので、余計、訃報が信じられなかった。去年、これもNHKのハイビジョン特集で、プロデューサーとして関わった『役者奈良岡朋子~舞台の上の60年~』(2011年12月6日放送)で、大滝さんのライバルでもあり戦友でもある奈良岡さんの舞台を見...■合掌、大滝秀治さん

  • ■福島(3)

    夕方、帰京した。福島2泊3日の旅は、九死に一生を得た人の話、避難生活故に積み重なった疲労による不注意から、人の命を奪ってしまった話など、人生の「淵」を垣間見るものだった。こんないい方は何の慰めにならないけれども、もし『原発事故』がなければ、こんな人生の「淵」を見なくても済んだかも知れない。■福島(3)

  • ■福島(2)

    今日、福島は一日中雨が降ったり止んだり。訪ねた先の公民館では、朝10時からお年寄りたちがカラオケに興じていた。その公民館の玄関脇の階段に腰を下ろしていた70歳だという男性は、「死んでも東電を恨んでやる、東電を切り刻まなければ収まらない」と右手で自身の胸を叩きながら、何度も繰り返した。原発事故から1年半。故郷を追われた人々の怒りはますます深まっているように思えた。■福島(2)

  • ■福島(1)

    某局のドキュメンタリー番組プロデューサーとして、若い担当ディレクターと福島の現場に来て、ほぼ一日、主人公やその周辺の人々に出会った。「311」だけではなく、それから1年半が経つなかで、想像できない出来事が起きていた。現場から戻り、ディレクターと遅い夕飯を食べながら、当然ながら、これまでと、これからについて、取材の軸をどう修正したり、深めたりするか、という話になった。いろいろ議論が積み重なったが、結局は、取材相手との信頼関係をいかに深めるか、そのために、自分には何ができるか、何をしなければならないか、というドキュメンタリー基本のテーマに立ち返った。有意義な議論だった。■福島(1)

  • ■プロセスを欠いた「結論」

    現在の日本が抱える三つの問題。ひとつは尖閣。ひとつは原発。そしてもうひとつがオスプレイ配備問題。いずれも国の「領土」「エネルギー」「安全保障」という基本に関わる問題だ。にも関わらず、尖閣国有化で沈静を目指したはずの思惑がはずれ、原発ではゼロを目指すといいながら閣議決定さえできない有様。そしてオスプレイは、機体の安全性に問題はなく、幾多の事故は人的ミス、とアメリカの言い分を了として沖縄に配備される。どう考えても、なぜこういう結論になるのか、の疑問だけが残る。何ともまどろっこしい夏の終わりに近づいた日本の景色だ。■プロセスを欠いた「結論」

  • ■ついに、中断

    この間の「尖閣」「918=歴史」衝突で、私たちが2ヶ月前から積み上げてきた日中合作某プロジェクトが中断となった。昨日、中国公安は、ようやく中国全土にデモ禁止令を出したが、それは、10月1日の国慶節、そして最大の指導部選挙を乗り切ることを目的としたものだ。問題は、新指導部が「尖閣」問題にどのような方針を示すか、だ。そして、それに対して日本の指導部が、自国の主張をいかに明確に主張する、かだ。それ次第で、〈火だね〉は消えるかも知れないし、燃えさかるかも知れない。その答えを考えながら、答えを出すとすれば、私たちの某プロジェクト再開は、かなり厳しい、と思う。とはいえ、私には、仮に、再開がなかったとしても、これからのドキュメンタリーを考えていく上で、いい仲間に会えたと思う。■ついに、中断

  • ■今日が、ターニングポイントか

    中国の反日行動はさらに拡大し、暴力化に向かう。一方、1000隻の漁船が尖閣諸島を目指す。愛国教育に染まった若者世代が街頭に繰り出し、火を放ち、略奪に奔る。デモ隊が掲げる肖像画は毛沢東だ。来月には新しい中国国家主席が誕生する運びになっているが、奇っ怪な情報も流れる。中南海では権力争いが起きている、というのだ。反日一色ではなく、一連の運動には、反政府色も色濃い、というのだ。ともあれ、今日18日は、最大の山場。日中国交回復40年の年に起きた今回の騒動。叡智こそが求められている。■今日が、ターニングポイントか

  • ■「9月18日」を前に

    9月18日を前に、中国の「反日運動」は勢いを増す。政府のコントロールが効かない、という報道もある。9月18日という日は、81年前のこの日、旧大日本帝国陸軍傘下の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した柳条湖事件が勃発した日だ。この事件に端を発し、日本は満州(現中国東北部)全土の占領、そして15年戦争に突入していく。中国にとっては、いわば「屈辱の日」。そこに尖閣問題が重なった。全く、この先が読めない。そんな中に、私たちが取り組んでいる日中合作という某プロジェクトがある。それは、かつての〈不幸な時代〉を乗り超えて、いわば普遍的なテーマでもある、人間はいかに生きるべきか、を問うものになるはずのものだ。しかし、現実は、人間のある種の〈欲望〉がことを起こし、拡大させ、そして滅亡に導いてきた。それが〈歴史〉でもあった。その〈愚〉...■「9月18日」を前に

  • ■「911テロ事件」から11年

    「911テロ事件」から11年。アメリカはすっかり終わった気分でいるが、戦場とされたイラクやアフガニスタンでは、連日、内戦のごとき状況が続いている。以下は2日前の9日のイラクでの惨状だ。〈バグダッド,キルクーク,アマラ,バスラ,ナーシリヤなど13都市で治安部隊やシーア派住民標的の自動車爆弾やIED攻撃などにより少なくとも109人死亡,360人以上負傷〉...これは氷山の一角だ。下記のURLを開いてみればその惨状が記録されているが、この9月9日だけでも死者は187人、負傷者は642人に上る。http://web.econ.keio.ac.jp/staff/nobu/iraq/chrono.htmなぜ、このような状態がいまも続くのか?その一端をまとめたのが拙著『虐待と微笑』でもある。少なくとも上記のような『状況』が生...■「911テロ事件」から11年

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