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2021/06/16

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  • ードイツ近世史に見る膨張主義と日本ー

    日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。「日独伊三国同盟」締結の暴挙ー 先ずは、ドイツの近世史を見てみよう。 1814年(文化11年)ー1870年(明治3年)の「ウィーン体制」である。 ナポレオン・ボナパルトの敗北の後、ゥィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成された。これによって、ドイツではオーストリアを盟主とするドイツ連邦が結成されたのである。ウィーン体制下で保守的な政治体制が続くなか、ドイツでも産業革命が急速に進展、ブルジョアが経済活動の拡大を望み、他方、知識人達によって、ドイツ人の一体化が求められるようになっていくのである。そうして、1848年(嘉永…

  • ー米軍の本格反攻開始、ガダルカナル戦で大敗ー

    日本から6,000㌔の距離にある南太平洋・ソロモン諸島の激戦の地「ガダルカナル島」である。 久しぶりに太平洋戦争画集を眺めていた。 昭和17年(1942年)9月15日のことである。ヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗した、川口支隊の兵士達の遺体が無残な姿をみせている。 身に纏う装備の詳細は知れないが、一人は腰に大きなスコップを差している。 昭和16年(1941年)12月8日、マレー半島コタバル上陸、その1時間50分後のハワイ・オアフ島真珠湾攻撃とによって、太平洋戦争が始まるのである。 その後の日本軍は、グアム、フィリッピン、香港、シンガポール、ラングーンと快進撃を続け、南方を制圧してゆくのである。こ…

  • ー二大「戦跡」に見る太平洋戦争ー

    伊江島は東洋一と言われた飛行場が建設されたため、米軍の主要な攻撃目標とされたのである。 沖縄伊江島である。昭和20年(1945年)4月16日、米軍が上陸、すぐさま飛行場は占領されたのである。この伊江島の戦い(~21日)では、一般住民およそ1,500人を含むおよそ3,500人が犠牲になったと言われている。多くの住民が、「斬り込み隊」など組織だった戦闘にかり出されたほか、「集団自決」に追い込まれた人達もいたのである。 米軍の攻撃を受けて、伊江村(いえそん)の建物はことごとく焼き払われたのだが、惨状の中、かろうじて原形をとどめたのが「伊江村公益質屋(跡)」である。 この施設は、昭和4年(1929年)…

  • ー二大「戦跡」に見る太平洋戦争ー

    昭和19年(1944年)7月のサイパン陥落の後、本土爆撃と本土決戦が、いよいよ現実味をおびてくる。 ことは、「政府中枢機能移転」の問題である。そもそも太平洋戦争の以前から、広大な関東平野の端に位置し、海からも近い首都「東京」は著しく防衛機能が脆弱であると指摘されていたのである。ここに、本土決戦を想定して、海岸から離れた場所への中枢機能の移転計画が進められるのである。 移転先は、長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中である。 ①象山 ②舞鶴山 ③皆神山 の3ヶ所である。ここに地下坑道が掘られたのである。 これが「松代大本営地下壕」である。このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一…

  • ー敵を知らず、己を知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、それがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今次大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落の歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連盟…

  • 原点回帰ー日清戦争、満州国、盧溝橋そして日中全面戦争へー

    近代の日本は、「日中15年戦争」と呼ばれるように、常に中国大陸とともにあった。 まさにその中国との関係を原因として、昭和16年(1941年)太平洋戦争に突入するのである。かくして、陸軍は中国大陸、海軍は太平洋戦争という構図になるのである。双方は国家予算を取り合い、それぞれの軍人の誇り(?)を競い合ったのであろうか。いずにしろ、軍人はひたすらに戦うための存在であったのである。 日中戦争は昭和12年(1937年)7月7日以来の8年間だという人もいるそうだが。この説は、中華民国北京(当時は北平=ほくへい)の、その日の盧溝橋事件に端を発するのである。対中国国民党軍との衝突事件である。 この歴史の前段は…

  • ー日露戦争から大正政変へー

    歴史は、遡ることによって、あるべき現在と未来とを示唆してくれるものである。 日露戦争の前段には、日清戦争があったのである。明治27年(1894年)7月25日から明治28年(1895年)4月17日にわたった日本と清国との朝鮮半島をめぐる戦いである。 この戦争に勝利した日本は、朝鮮を数百年にわたって属国扱いしてきた清国に、朝鮮から手を引かせ、朝鮮を独立国とし、日本はその清に勝ったことで、清国から”アジアの大国”の座を奪ったのである。 当時の清国は、欧米列強からはアジアで最も力のある国と映っていた。 とりわけ、アヘン戦争以来、清国を脅かしていたイギリス、それに東アジアに北方から圧力をかけていたロシア…

  • ー日本と台湾の五十年ー

    日清戦争終了のあと、下関条約に基づいて、清朝(当時の中国)から「台湾」が日本に割譲された。 明治28年(1895年)4月17日のことであった。爾来、日本のアジア・太平洋戦争の敗戦によって終焉を向かえる昭和20年(1945年)10月25日までの50年間、台湾は日本の統治下にあったのである。 この台湾を統治するために台北市に設置されたのが、日本の出先官庁である「台湾総督府」であった。 代表的な総督を列ねてみる。 初代 樺山資紀 海軍大将 明治28年(1895年)5月10日~1年1ヶ月 2代 桂 太郎 陸軍中将 明治29年(1896年)6月2日~4ヶ月 3代 乃木希典 陸軍中将 明治29年(1896…

  • ー仏領インドシナへの日本軍進駐ー

    第二次世界大戦下、日本軍によって、昭和15年(1940年)北部仏印進駐と翌昭和16年(1941年)の南部仏印進駐が行われた。 フランス領インドシナへの日本軍の進駐のことである。とりわけ南部仏印進駐によって、日米関係に抜き差しならぬ決裂をもたらし、これによって、太平洋戦争が不可避となったのである。 昭和15年(1940年)9月、6月フランスがドイツに降伏したことを受けて、大本営政府連絡会議において「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」が決定され、米、英、仏などによる中国援助ルート、いわゆる”援蒋ルート”の遮断と東南アジア侵略のための前線基地の獲得を目指して開始されたのが、日本軍による「北部仏印進駐…

  • ー第二次上海事変、そして支那事変へー

    日本軍の北平(北京)攻撃開始が、1937年(昭和12年)7月下旬のことである。 29日には、日本軍が北平を占領、10月12日、北平を北京と改名、12月14日には中華民国臨時政府が誕生する。1945年(昭和20年)8月15日の日本敗戦まで占領は継続する。そして10月10日、故宮太和殿において、日本北支方面軍司令官根本博中将が、降書と軍刀を提示して日本の占領時代が終了する。 この間、1937年(昭和12年)8月13日からの中華民国軍の「日本租界」への攻撃に端を発する第二次上海事変が起こり、この事変の勃発によって北支事変は支那事変へと拡大、日中全面戦争に発展してゆく。 日本租界は、中国(清朝)がアヘ…

  • ービルマのインパール、マリアナのサイパン島ー

    昭和19年(1944年)、3月に大東亜戦争のビルマ戦線において、帝国陸軍の「インパール作戦」が開始された。 インパール駐留の英軍による中国・蒋介石軍を支援するいわゆる”援蒋ルート”遮断を目的として、7月初旬まで続けられた。後年、その無謀な戦いぶりで悪名高い戦いである。移動路に多くの戦死者が横たわり「白骨街道」と呼ばれた悲惨な作戦であった。 その同じころ、6月には、マリアナ諸島・サイパン島に米軍が上陸、マリアナ沖海戦もあって太平洋上に激しい戦いが繰り広げられていたのである。 日本軍は当初目論んだ太平洋戦争の短期決着に失敗して、すでに多くの戦力を失っていたのだがー 日中戦争ー大東亜戦争ー太平洋戦争…

  • ー満州開拓民の悲哀ー

    昭和20年(1945年)ごろの満州国には、およそ155万人の日本人が暮らしていたという。 おおかたは、鉄道沿線の都市部で行政機関の関係者や商売をしている人達で、近代的な生活をしていたそうである。しかし、その一方では北部の奥地に移り住んだ「開拓民」と呼ばれた人達およそ27万人がいたという。 農地の圧倒的不足から、その当時の日本国内が貧しい農村を救うには、過剰な人口を国外に送り出すことが必要だと考えられたのである。そうして満州への大量の移民が国策として実施されたのである。 かれら開拓民にあてがわれた土地は、先住民から強制的に奪われたり、安く買いたたかれた農耕地であったという。 ところで、これら開拓…

  • ーそもそも「満州」とはー

    そもそも満州国があった中国の東北部は、古くから、支配民族の交代が頻繁に行われ、一支配が長期に渡ることがなかったという。 やがて満州人による清王朝がここに軍政を敷いて、東部を満州人、西部をモンゴル人、南部を漢人の居住区と定めて移住を禁止した。ところがこの状態が19世紀末に弱体化、ロシアがこの地域に鉄道の敷設権を獲得する。この鉄道の完成が、沿線農産物の大量販売をもたらし、南部から多くの漢人が流入して人口の大半を占めるようになるのである。 そうして昭和6年(1931年)の満州事変を経て、翌昭和7年(1932年)3月、満州国建国に至るのである。 爾来、清王朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が満州国のトップに就…

  • ー満州の国づくり、「五族協和」「王道楽土」ー

    昭和10年(1035年)当時の満州国には、3500万人弱の人々が住んでいたらしい。 その人口内訳は、漢人が7割強、満州人が16%強、朝鮮人が2%強、日本人は0.4%程度のようである。モンゴル人は不明のようである。その満州で国づくりの理想とされたのが、「五族協和」「王道楽土」であった。五族はすなわち、漢人、満州人、モンゴル人、朝鮮人、日本人であり、国民として仲良くとのこと、一方、「王道楽土」とは、古代の王が人徳で治めた安楽の地という意味であるらしい。 されば実態はどうであったか。満州国の第一国語は日本語、「国民訓」の中では天照大神への崇敬を義務づけるなど、日本色に染めたのである。 この地には、明…

  • ー一般の人達を見捨てた「関東軍」ー

    アジア・太平洋戦争末期、関東軍は、満州国にいた日系成人男性15万人を根こそぎ戦場にかりたてた。 そうして、女性や子ども、老人だけになったところにソ連軍が突如侵攻、長く抑圧されていた漢人の怒りも爆発して、日本人は略奪や暴行の餌食となって、あまりの絶望から集団自決が頻発したという。くわえて、栄養失調や発疹(はっしん)チフス、酷寒などにも見舞われて、軍人も含めた日本人は、この地で24万5400人が命を落としたという。 終戦の翌年には、軍民あわせておよそ127万人が帰国したが、一方では、中国残留孤児や残留婦人となった人達、そしてソ連軍の捕虜となった多くの男性はシベリアに抑留されたのである。 満州国政府…

  • ー敵を知らず、おのれを知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今次大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連…

  • ー敵を知らず、おのれを知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連…

  • ー敵を知らず、おのれを知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連…

  • ー敵を知らず、おのれを知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連…

  • ー蜂の巣になった本土ー

    島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋上の島から、本土爆撃のための往来が容易になったからである。 おもな大空襲の跡を見てみよう。 【大空襲】 ①東京大空襲 ー昭和20年(1945年)3月10日 ②大阪大空襲 ー昭和20年(1945年)3月13日 ③名古屋大空襲ー昭和20年(1945年)3月19日 ④橫浜大空襲 ー昭和20年(1945年)5月29日 ⑤神戸大空襲 ー昭和20年(1945年)6月5…

  • ー蜂の巣になった本土ー

    島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋上の島から、本土爆撃のための往来が容易になったからである。 おもな大空襲の跡を見てみよう。 【大空襲】 ①東京大空襲 ー昭和20年(1945年)3月10日 ②大阪大空襲 ー昭和20年(1945年)3月13日 ③名古屋大空襲ー昭和20年(1945年)3月19日 ④橫浜大空襲 ー昭和20年(1945年)5月29日 ⑤神戸大空襲 ー昭和20年(1945年)6月5…

  • ー蜂の巣になった本土ー

    島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋上の島から、本土爆撃のための往来が容易になったからである。 おもな大空襲の跡を見てみよう。 【大空襲】 ①東京大空襲 ー昭和20年(1945年)3月10日 ②大阪大空襲 ー昭和20年(1945年)3月13日 ③名古屋大空襲ー昭和20年(1945年)3月19日 ④橫浜大空襲 ー昭和20年(1945年)5月29日 ⑤神戸大空襲 ー昭和20年(1945年)6月5…

  • ー見抜けなかった「ドイツの凋落」

    日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。 昭和15年(1940年)の夏、ドイツはイギリス本土へ連日爆撃を加えて、屈服させようとしていた。 残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。秋口には、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたと言うのである。 この9月始めには、現地へ派遣された調査団の報告から、米ルーズベルト政権は、このドイツの凋落の始まりをすでに認識し…

  • ーヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗ー

    久しぶりに太平洋戦争の画集を眺めている。 日本から6,000キロの距離にある南太平洋・ソロモン諸島の激戦の地「ガダルカナル島」である。 昭和17年(1942年)9月15日のことである。ヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗した、川口支隊の兵士達の遺体が無残な姿をみせている。 身に纏う装備の詳細は知れないが、一人は腰に大きなスコップを差している。 昭和16年(1941年)12月8日、マレー半島コタバル上陸、その1時間50分後の、ハワイ・オアフ島真珠湾攻撃とによって、太平洋戦争が始まるのである。 その後の日本軍は、グアム、フィリッピン、香港、シンガポール、ラングーンと快進撃を続け、南方を制圧していくのであ…

  • ■ - 戦史ブログ「飢餓の戦場」

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