華岡青洲(1760〈宝暦10〉年11月30日~1835〈天保6〉年11月21日、漢・蘭医学、日本) 米国で初めてエーテ
華岡青洲(1760〈宝暦10〉年11月30日~1835〈天保6〉年11月21日、漢・蘭医学、日本) 米国で初めてエーテ
浪費癖の医師も千円札に 貧農家から立志しアフリカで黄熱病に伏す
福島の貧農家に生まれた野口清作は、小さい頃に囲炉裏に落ちて、左手に大やけどを負い、手指もくっついてしまった。中学生の頃に周囲の善意で再建手術を受けて、自分も医師になろうと志した。その後、米国で医学研究者となり、アフリカで黄熱病の研究中に自分も感染し、亡くなった。
「知っておきたい 科学者100伝+(プラス)」がKindle電子書籍として発売されました
運営者のの 2022年8月2日 これまでの科学者100伝に加えて、世界最初に全身麻酔で乳がん手術を行った華岡青洲(はな
世界初の動脈硬化の病態図 比類なき観察力に「モナ・リザ」も微笑む
今から約500年前、イタリア・ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチは自転車や飛行機、ヘリコプター、パラシュートなどの実現を、科学的な確信をもって予測していた。壁画『最後の晩さん』や女性の肖像画『モナ・リザ』などの著名な美術作品がある一方、科学的に注目されるのが現存する十数編に分割された「手稿」だ。それは数学や幾何学、天文学、動物学、軍事技術、教会建築、力学、解剖学、地理学、光学など、多様な分野においてレオナルドが観察し考察したことを記したものだ。それによるとレオナルドは、知らぬ間に動脈硬化の病変を世界で初めて解剖図に描いていた。さらに、コペルニクスの以前に太陽中心説(地動説)にも気づき、ニュートン以前に運動力学を理解していたようだ。
二コラ・テスラはセルビア系の米国の電気技術者だ。オーストリアのグラーツ工科大学での授業で「グラム発電機」を見せられた。交流を直流化する「整流子」の接点で火花が出ているのを見て、テスラは電気エネルギーのロスが起きていることを指摘し、担当の教授と議論になった。この経験から、テスラは後に交流系での発電や変圧、送電・配電などの一連の電力システムを開発した。その実現のために渡米し、エジソンの会社に入ったが、1年足らずで辞めて、自分の会社を興した。学会での発表に、事業家ジョージ・ウェスティングハウスが関心を示し、テスラの交流系電力システムを1893年のシカゴ万博の会場設備で実現し世界に披露した。さらに同年から展開する「ナイアガラ滝での水力発電プロジェクト」にも、エジソン主導の直流系電力システムを排除して参加契約を結び、35㎞離れたバッファロー工業地帯への交流系電力システムを実現させた。それ以降、米国内では同システムを基本に広がった。テスラは他にラジオやリモコンの基本技術などを発明し、その業績を讃えて、電磁気学の磁束密度の単位(テスラ)に名前が残されているほか、米国の電気自動車メーカーの社名にもなっている。
提唱した「分子進化の中立説」 ‶自然淘汰”に有利でも不利でもない突然変異が偶然定着した!?
国立遺伝学研究所の元名誉教授、木村資生は1968年に「分子進化の中立説」を提唱した。生物の外観から展開したダーウィン進化論に対し、DNAやアミノ酸、タンパク質といった分子レベルでは「自然淘汰に有利でも不利でもない中立的な突然変異が起きていて、新しい遺伝子が偶然に子孫に伝わる。つまり、運のいいものが生き残る」とする、分子レベルでの進化論だ。この中立説によって新型コロナやエイズ、インフルエンザなどのウイルスの変化速度(進化速度)が速いことが説明できる。「分子生物学の進展に伴い、さらに中立説を支持するデータが出てきそうだ」と話していた木村だが、1994年の自分の誕生日(11月13日)に自宅の階段で転倒し亡くなってしまった。
世界初のウイルス分離・結晶化 未来の地球生命への影響を予見か
米国の化学者ウェンデル・スタンリーは1935年に、タバコモザイク病ウイルスを分離し、結晶化することに成功した。それによりウイルスはタンパク質と核酸から成ることが分かり、後に電子顕微鏡でその姿も捉えられるようになった。スタンリーは1946年のノーベル化学賞を受賞した。その後もウイルス学の研究やがん研究の発展にリーダーシップを発揮したが、1971年6月に腫瘍ウイルスの科学会議と大学講演のために訪れたスペインで、心臓発作のため亡くなった。「ウイルスは未来生命のあり様に関わる鍵を握っている」。そう予見しスタンリーは1956年に語っていた。
トウモロコシの「動く遺伝子」発見 ようやく30年後にノーベル賞
20代からトウモロコシの遺伝を研究していた米国のバーバラ・マクリントックは染色体上を「動く(転移する)遺伝子」(トランスポゾン)を発見し、1951年に発表した。それから30年がすぎた1983年にノーベル医学生理学賞を受賞した。発見当時は、遺伝子の本体がDNAであると分かりかけてきたころで、DNAの二重らせん構造が解明されたのもその2年後だった。
ダーウィン進化論に対抗 生存競争よりも平和な「棲み分け理論」
京都帝国大学(現京都大学)理学部講師の今西錦司は、賀茂川のヒラタカゲロウの幼虫の分布調査(1933年)で、種によって川底で互いに棲み分けていることを発見した。提唱したこの「棲み分け理論」は、生存競争の勝者が生き残るとしたダーウィンの進化論に対抗する「今西進化論」として受け止められ、国内外で大きな論争となった。今西の研究分野は動物社会学や霊長類学、人類学にも広がった。ニホンザルの研究では、1匹ずつに名前を付けてじっくりと観察する日本独特の手法を確立し、日本における霊長類研究の創始者ともなった。
ドイツの物理学者マックス・プランクは1900年12月、エネルギーを「量子」として考えた放射に関する公式を発表した。のちに「プランクの法則」と呼ばれる量子論の仮説で、20世紀に開花する量子力学の基礎となる理論だった。アインシュタインの相対性理論の紹介にも努めたプランクだったが、その一方で、相次ぐ世界大戦中に4人の子供たちを失うなど、大きな戦争の渦に巻き込まれてしまった。戦後、伝統あるドイツの研究機関カイザー・ヴィルヘルム(学術振興)協会は「マックス・プランク研究所」に改名し再建された。「量子論の父」とも称され尊敬されている。
高率270倍の自作顕微鏡で ヒトの精子、歯垢の微生物など発見
オランダの織物屋だったレーウェンフックは、仕事で拡大鏡として使っていた凸レンズを加工して約270倍という高倍率の単レンズ顕微鏡を発明し、身近な物を観察しスケッチした。その観察結果を手紙でロンドン王立協会のロバート・フックに送り、高い評価を得た。レーウェンフックはその後、湖水の微生物やヒトの精子、歯垢にいる微生物などを発見し、描画で示した。フックはそれらをラテン語訳にしてレーウェンフック全集「自然の秘密発見」を1695年に発行した。有名になったレーウェンフックのところには、英国の女王やロシアの皇帝らが顕微鏡を覗きに訪れたという。
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華岡青洲(1760〈宝暦10〉年11月30日~1835〈天保6〉年11月21日、漢・蘭医学、日本) 米国で初めてエーテ
福島の貧農家に生まれた野口清作は、小さい頃に囲炉裏に落ちて、左手に大やけどを負い、手指もくっついてしまった。中学生の頃に周囲の善意で再建手術を受けて、自分も医師になろうと志した。その後、米国で医学研究者となり、アフリカで黄熱病の研究中に自分も感染し、亡くなった。
運営者のの 2022年8月2日 これまでの科学者100伝に加えて、世界最初に全身麻酔で乳がん手術を行った華岡青洲(はな
今から約500年前、イタリア・ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチは自転車や飛行機、ヘリコプター、パラシュートなどの実現を、科学的な確信をもって予測していた。壁画『最後の晩さん』や女性の肖像画『モナ・リザ』などの著名な美術作品がある一方、科学的に注目されるのが現存する十数編に分割された「手稿」だ。それは数学や幾何学、天文学、動物学、軍事技術、教会建築、力学、解剖学、地理学、光学など、多様な分野においてレオナルドが観察し考察したことを記したものだ。それによるとレオナルドは、知らぬ間に動脈硬化の病変を世界で初めて解剖図に描いていた。さらに、コペルニクスの以前に太陽中心説(地動説)にも気づき、ニュートン以前に運動力学を理解していたようだ。
二コラ・テスラはセルビア系の米国の電気技術者だ。オーストリアのグラーツ工科大学での授業で「グラム発電機」を見せられた。交流を直流化する「整流子」の接点で火花が出ているのを見て、テスラは電気エネルギーのロスが起きていることを指摘し、担当の教授と議論になった。この経験から、テスラは後に交流系での発電や変圧、送電・配電などの一連の電力システムを開発した。その実現のために渡米し、エジソンの会社に入ったが、1年足らずで辞めて、自分の会社を興した。学会での発表に、事業家ジョージ・ウェスティングハウスが関心を示し、テスラの交流系電力システムを1893年のシカゴ万博の会場設備で実現し世界に披露した。さらに同年から展開する「ナイアガラ滝での水力発電プロジェクト」にも、エジソン主導の直流系電力システムを排除して参加契約を結び、35㎞離れたバッファロー工業地帯への交流系電力システムを実現させた。それ以降、米国内では同システムを基本に広がった。テスラは他にラジオやリモコンの基本技術などを発明し、その業績を讃えて、電磁気学の磁束密度の単位(テスラ)に名前が残されているほか、米国の電気自動車メーカーの社名にもなっている。
国立遺伝学研究所の元名誉教授、木村資生は1968年に「分子進化の中立説」を提唱した。生物の外観から展開したダーウィン進化論に対し、DNAやアミノ酸、タンパク質といった分子レベルでは「自然淘汰に有利でも不利でもない中立的な突然変異が起きていて、新しい遺伝子が偶然に子孫に伝わる。つまり、運のいいものが生き残る」とする、分子レベルでの進化論だ。この中立説によって新型コロナやエイズ、インフルエンザなどのウイルスの変化速度(進化速度)が速いことが説明できる。「分子生物学の進展に伴い、さらに中立説を支持するデータが出てきそうだ」と話していた木村だが、1994年の自分の誕生日(11月13日)に自宅の階段で転倒し亡くなってしまった。
米国の化学者ウェンデル・スタンリーは1935年に、タバコモザイク病ウイルスを分離し、結晶化することに成功した。それによりウイルスはタンパク質と核酸から成ることが分かり、後に電子顕微鏡でその姿も捉えられるようになった。スタンリーは1946年のノーベル化学賞を受賞した。その後もウイルス学の研究やがん研究の発展にリーダーシップを発揮したが、1971年6月に腫瘍ウイルスの科学会議と大学講演のために訪れたスペインで、心臓発作のため亡くなった。「ウイルスは未来生命のあり様に関わる鍵を握っている」。そう予見しスタンリーは1956年に語っていた。
20代からトウモロコシの遺伝を研究していた米国のバーバラ・マクリントックは染色体上を「動く(転移する)遺伝子」(トランスポゾン)を発見し、1951年に発表した。それから30年がすぎた1983年にノーベル医学生理学賞を受賞した。発見当時は、遺伝子の本体がDNAであると分かりかけてきたころで、DNAの二重らせん構造が解明されたのもその2年後だった。
京都帝国大学(現京都大学)理学部講師の今西錦司は、賀茂川のヒラタカゲロウの幼虫の分布調査(1933年)で、種によって川底で互いに棲み分けていることを発見した。提唱したこの「棲み分け理論」は、生存競争の勝者が生き残るとしたダーウィンの進化論に対抗する「今西進化論」として受け止められ、国内外で大きな論争となった。今西の研究分野は動物社会学や霊長類学、人類学にも広がった。ニホンザルの研究では、1匹ずつに名前を付けてじっくりと観察する日本独特の手法を確立し、日本における霊長類研究の創始者ともなった。
ドイツの物理学者マックス・プランクは1900年12月、エネルギーを「量子」として考えた放射に関する公式を発表した。のちに「プランクの法則」と呼ばれる量子論の仮説で、20世紀に開花する量子力学の基礎となる理論だった。アインシュタインの相対性理論の紹介にも努めたプランクだったが、その一方で、相次ぐ世界大戦中に4人の子供たちを失うなど、大きな戦争の渦に巻き込まれてしまった。戦後、伝統あるドイツの研究機関カイザー・ヴィルヘルム(学術振興)協会は「マックス・プランク研究所」に改名し再建された。「量子論の父」とも称され尊敬されている。
オランダの織物屋だったレーウェンフックは、仕事で拡大鏡として使っていた凸レンズを加工して約270倍という高倍率の単レンズ顕微鏡を発明し、身近な物を観察しスケッチした。その観察結果を手紙でロンドン王立協会のロバート・フックに送り、高い評価を得た。レーウェンフックはその後、湖水の微生物やヒトの精子、歯垢にいる微生物などを発見し、描画で示した。フックはそれらをラテン語訳にしてレーウェンフック全集「自然の秘密発見」を1695年に発行した。有名になったレーウェンフックのところには、英国の女王やロシアの皇帝らが顕微鏡を覗きに訪れたという。
東北帝国大学(現東北大学)工学部教授の八木秀次は1924年、卒業実験に取り組んでいた学生から、珍現象の報告を受けた。電磁波の来る中に単巻線コイルも何も置いてないのに、受信用の棒状アンテナに高周波電流が流れたという。学生の卒業後、講師の宇田新太郎とともに実験に取り組み「電磁波の来る中に短めの金属棒を置くと電磁波を強め、長めの金属棒を置くと逆に弱めること」、さらに「アンテナの前方に短めの金属棒を置き、後方に長めの金属棒を置くと、アンテナに流れる高周波電流が二重に増すこと」などをつかみ高感度・高指向性の短波アンテナを発明し、実証実験にも成功した。八木・宇田アンテナは世界の注目を集め、軍事にも利用された。その後、八木は大阪帝大理学部の教授となり、講師に量子力学の新鋭、湯川秀樹を京都帝大から迎えた。八木の叱咤激励を受けて論文にまとめたのが「中間子論」。それがきっかけで湯川が1949年にノーベル物理学賞を得た。「それが私の最大の業績だ」と八木は語ったという。
4年間のドイツ留学から帰国した本多光太郎は1911年2月に設立された東北帝大理科大の物理学科教授となった。1916年に学内に「臨時理化学研究所第二部」(後の鉄鋼研究所さらに金属材料研究所)が新設され、研究主任を兼務した本多が弟子の高木弘(ひろむ)とともに発明したのが「KS磁石鋼」だった。KS磁石鋼は、第一次世界大戦の影響でドイツからの輸入が途絶えたタングステン磁石鋼の代わりに、陸海軍の航空機関係筋から開発の要請があったものだが、余りに磁力が強かったため国内では使えず、欧米企業の電気機器で利用されたという。1931年には東京帝大の三島徳七によって、KS磁石鋼の2倍の保磁力をもつ「MK磁石鋼」(現在汎用されるアルニコ磁石)が開発され、それに負けじと本多らはさらに強力な「新KS磁石鋼」を1934年に作り上げた。こうした開発競争が日本の金属工学の研究技術水準を引き上げた。
弁護士から化学者に転身したアボガドロは、1811年に後に「アボガドロの法則」と呼ばれる重要な仮説をフランスの科学誌に発表した。ところが学界から注目されなかった。論文が法律文書のように難解なためだったとも言われる。アボガドロが再評価されたのは、1860年にドイツで開かれた国際会議で、イタリアの化学者が論文の写しを参加者に配りPRしたからだった。しかし、それはアボガドロの死後4年がすぎていた。
物理学の教師となったゲオルク・オームは、学校の実験室を使って電気の実験を行い、1827年の著書で「オームの法則」を発表した。ところが自国ドイツでは評価されず、1841年にロンドンの王立協会から科学界最高賞のコプリ・メダルが贈られた。オームは63歳のとき(1852年)にミュンヘン大学の正教授に迎えられたが、2年後に亡くなった。「オームの法則」は実はオームの発見よりも約45年前に、英国のキャベンディッシュがすでに発見していたが、彼はそれを発表しないでいた。オームの死後約25年たって、英国ケンブリッジ大学教授がキャベンディッシュの業績を整理して、そのことが明らかとなった。
ミュンヘン工科大学を首席で卒業したルドルフ・ディーゼルは、1892年に高い熱効率で強力な新型エンジン(ディーゼル・エンジン)を開発し、特許を取得した。その後、高圧縮比を実現する製造技術が確立されたことで、1897年にそのプロトタイプが製作された。たちまち世界の注目を集め、各国で新型エンジンが作られるようになった。ディーゼルは1913年9月29日にベルギーから英国に向かう蒸気船に乗船したきり、翌日行方不明となった。その後ディーゼルらしき遺体が北海で見つかったが、死体検分はされず、死因も不明のままだ。ディーゼルは英国でのディーゼル・エンジン工場の起工式と、英国海軍との潜水艦用エンジンの製作についての会議に出席する予定だった。当時は第一次世界大戦の前夜。ドイツ帝国には新型エンジンの英国への譲渡に反対する意見もあった。
王立研究所の化学講師ハンフリー・デービーは、容姿の良さと話の上手さから公開講演会でも女性たちに人気だ。自らの研究テーマとして取り組んだのが電気分解で、ナトリウムとカリウム、カルシウム、ストロンチウム、バリウム、マグネシウムを発見した。一人の科学者による6元素の発見は最多だ。炭鉱事故防止のために安全ランプ(デービー灯)も発明した。生涯で最大の発見は弟子のマイケル・ファラデーだとも言われた。
フランスの名門貴族の家に生まれたド・ブロイは、兄の影響で物理学に興味をもった。第一次世界大戦での兵役後、大学に復学して物理学を専攻し、博士号の学位論文で、物質のもつ波動性と粒子性の二面性についての仮説を提唱した。間もなく、外国の研究者らによる実験でそれが確認され、1929年にノーベル物理学賞を受賞した。その業績は、後の量子力学の発展にも寄与した。
貧しい家に生まれたジョージ・スチーブンソンは、小さい頃から父と同じ炭鉱で働いた。無学ながらも炭鉱の技術職人としての腕を磨き、一流の技師が直せなかった水揚げポンプを修理し、爆発事故のない坑内安全灯を発明した。レール上の石炭台車を引いて運ぶ「馬車鉄道」の代わりに、導入を考えたのが蒸気機関車だった。1804年には他の技術者が最初の蒸気機関車を作っていたが、実用化には至らなかった。スチーブンソンは機関車やレールなどのさまざまな技術的問題を解決して1814年に実用的な蒸気機関車を製作し、1825年に40㎞区間で営業運転を開始した。これにより世界中で本格的な鉄道輸送時代が到来することになった。
東京帝国大学(現東京大学)理学部の池田菊苗教授は、昆布から「うま味」成分のグルタミン酸ナトリウムを発見した。それが化学調味料「味の素」となり、今や世界中で市販されるまでになった。また助教授時代のドイツ・英国に留学し、ロンドンでの約2カ月間、文豪の夏目漱石と同じ下宿に滞在し、ともに親交を深めた。
華岡青洲(1760〈宝暦10〉年11月30日~1835〈天保6〉年11月21日、漢・蘭医学、日本) 米国で初めてエーテ