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知っておきたい 世界の科学者100伝 https://kikaku-nono.com

世界の科学者100人の業績や面白いエピソードを、イラスト付きで紹介するコラム記事。またフロント面には「マイ動画ニュース30s」コーナーを設け、身近な話題を取材編集した30秒間のビデオ動画を、AI合成のナレーション付きで配信している。

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2021/05/16

1件〜100件

  • 「知っておきたい 科学者100伝+(プラス)」がKindle電子書籍として発売されました

    運営者のの 2022年8月2日  これまでの科学者100伝に加えて、世界最初に全身麻酔で乳がん手術を行った華岡青洲(はな

  • 世界初の動脈硬化の病態図 比類なき観察力に「モナ・リザ」も微笑む

    今から約500年前、イタリア・ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチは自転車や飛行機、ヘリコプター、パラシュートなどの実現を、科学的な確信をもって予測していた。壁画『最後の晩さん』や女性の肖像画『モナ・リザ』などの著名な美術作品がある一方、科学的に注目されるのが現存する十数編に分割された「手稿」だ。それは数学や幾何学、天文学、動物学、軍事技術、教会建築、力学、解剖学、地理学、光学など、多様な分野においてレオナルドが観察し考察したことを記したものだ。それによるとレオナルドは、知らぬ間に動脈硬化の病変を世界で初めて解剖図に描いていた。さらに、コペルニクスの以前に太陽中心説(地動説)にも気づき、ニュートン以前に運動力学を理解していたようだ。

  • 交流系電力システムを独自開発 エジソン退け世界主流に

    二コラ・テスラはセルビア系の米国の電気技術者だ。オーストリアのグラーツ工科大学での授業で「グラム発電機」を見せられた。交流を直流化する「整流子」の接点で火花が出ているのを見て、テスラは電気エネルギーのロスが起きていることを指摘し、担当の教授と議論になった。この経験から、テスラは後に交流系での発電や変圧、送電・配電などの一連の電力システムを開発した。その実現のために渡米し、エジソンの会社に入ったが、1年足らずで辞めて、自分の会社を興した。学会での発表に、事業家ジョージ・ウェスティングハウスが関心を示し、テスラの交流系電力システムを1893年のシカゴ万博の会場設備で実現し世界に披露した。さらに同年から展開する「ナイアガラ滝での水力発電プロジェクト」にも、エジソン主導の直流系電力システムを排除して参加契約を結び、35㎞離れたバッファロー工業地帯への交流系電力システムを実現させた。それ以降、米国内では同システムを基本に広がった。テスラは他にラジオやリモコンの基本技術などを発明し、その業績を讃えて、電磁気学の磁束密度の単位(テスラ)に名前が残されているほか、米国の電気自動車メーカーの社名にもなっている。

  • 提唱した「分子進化の中立説」 ‶自然淘汰”に有利でも不利でもない突然変異が偶然定着した!? 

    国立遺伝学研究所の元名誉教授、木村資生は1968年に「分子進化の中立説」を提唱した。生物の外観から展開したダーウィン進化論に対し、DNAやアミノ酸、タンパク質といった分子レベルでは「自然淘汰に有利でも不利でもない中立的な突然変異が起きていて、新しい遺伝子が偶然に子孫に伝わる。つまり、運のいいものが生き残る」とする、分子レベルでの進化論だ。この中立説によって新型コロナやエイズ、インフルエンザなどのウイルスの変化速度(進化速度)が速いことが説明できる。「分子生物学の進展に伴い、さらに中立説を支持するデータが出てきそうだ」と話していた木村だが、1994年の自分の誕生日(11月13日)に自宅の階段で転倒し亡くなってしまった。

  • 世界初のウイルス分離・結晶化 未来の地球生命への影響を予見か

    米国の化学者ウェンデル・スタンリーは1935年に、タバコモザイク病ウイルスを分離し、結晶化することに成功した。それによりウイルスはタンパク質と核酸から成ることが分かり、後に電子顕微鏡でその姿も捉えられるようになった。スタンリーは1946年のノーベル化学賞を受賞した。その後もウイルス学の研究やがん研究の発展にリーダーシップを発揮したが、1971年6月に腫瘍ウイルスの科学会議と大学講演のために訪れたスペインで、心臓発作のため亡くなった。「ウイルスは未来生命のあり様に関わる鍵を握っている」。そう予見しスタンリーは1956年に語っていた。

  • トウモロコシの「動く遺伝子」発見 ようやく30年後にノーベル賞

    20代からトウモロコシの遺伝を研究していた米国のバーバラ・マクリントックは染色体上を「動く(転移する)遺伝子」(トランスポゾン)を発見し、1951年に発表した。それから30年がすぎた1983年にノーベル医学生理学賞を受賞した。発見当時は、遺伝子の本体がDNAであると分かりかけてきたころで、DNAの二重らせん構造が解明されたのもその2年後だった。

  • ダーウィン進化論に対抗 生存競争よりも平和な「棲み分け理論」

    京都帝国大学(現京都大学)理学部講師の今西錦司は、賀茂川のヒラタカゲロウの幼虫の分布調査(1933年)で、種によって川底で互いに棲み分けていることを発見した。提唱したこの「棲み分け理論」は、生存競争の勝者が生き残るとしたダーウィンの進化論に対抗する「今西進化論」として受け止められ、国内外で大きな論争となった。今西の研究分野は動物社会学や霊長類学、人類学にも広がった。ニホンザルの研究では、1匹ずつに名前を付けてじっくりと観察する日本独特の手法を確立し、日本における霊長類研究の創始者ともなった。

  • エネルギー放射の新法則 量子力学の基礎理論に

    ドイツの物理学者マックス・プランクは1900年12月、エネルギーを「量子」として考えた放射に関する公式を発表した。のちに「プランクの法則」と呼ばれる量子論の仮説で、20世紀に開花する量子力学の基礎となる理論だった。アインシュタインの相対性理論の紹介にも努めたプランクだったが、その一方で、相次ぐ世界大戦中に4人の子供たちを失うなど、大きな戦争の渦に巻き込まれてしまった。戦後、伝統あるドイツの研究機関カイザー・ヴィルヘルム(学術振興)協会は「マックス・プランク研究所」に改名し再建された。「量子論の父」とも称され尊敬されている。

  • 高率270倍の自作顕微鏡で ヒトの精子、歯垢の微生物など発見

    オランダの織物屋だったレーウェンフックは、仕事で拡大鏡として使っていた凸レンズを加工して約270倍という高倍率の単レンズ顕微鏡を発明し、身近な物を観察しスケッチした。その観察結果を手紙でロンドン王立協会のロバート・フックに送り、高い評価を得た。レーウェンフックはその後、湖水の微生物やヒトの精子、歯垢にいる微生物などを発見し、描画で示した。フックはそれらをラテン語訳にしてレーウェンフック全集「自然の秘密発見」を1695年に発行した。有名になったレーウェンフックのところには、英国の女王やロシアの皇帝らが顕微鏡を覗きに訪れたという。

  • 学生の卒論実験きっかけに 世界普及の高感度アンテナ発明

    東北帝国大学(現東北大学)工学部教授の八木秀次は1924年、卒業実験に取り組んでいた学生から、珍現象の報告を受けた。電磁波の来る中に単巻線コイルも何も置いてないのに、受信用の棒状アンテナに高周波電流が流れたという。学生の卒業後、講師の宇田新太郎とともに実験に取り組み「電磁波の来る中に短めの金属棒を置くと電磁波を強め、長めの金属棒を置くと逆に弱めること」、さらに「アンテナの前方に短めの金属棒を置き、後方に長めの金属棒を置くと、アンテナに流れる高周波電流が二重に増すこと」などをつかみ高感度・高指向性の短波アンテナを発明し、実証実験にも成功した。八木・宇田アンテナは世界の注目を集め、軍事にも利用された。その後、八木は大阪帝大理学部の教授となり、講師に量子力学の新鋭、湯川秀樹を京都帝大から迎えた。八木の叱咤激励を受けて論文にまとめたのが「中間子論」。それがきっかけで湯川が1949年にノーベル物理学賞を得た。「それが私の最大の業績だ」と八木は語ったという。

  • 当時最強「KS磁石鋼」発明し 日本の金属工学けん引

    4年間のドイツ留学から帰国した本多光太郎は1911年2月に設立された東北帝大理科大の物理学科教授となった。1916年に学内に「臨時理化学研究所第二部」(後の鉄鋼研究所さらに金属材料研究所)が新設され、研究主任を兼務した本多が弟子の高木弘(ひろむ)とともに発明したのが「KS磁石鋼」だった。KS磁石鋼は、第一次世界大戦の影響でドイツからの輸入が途絶えたタングステン磁石鋼の代わりに、陸海軍の航空機関係筋から開発の要請があったものだが、余りに磁力が強かったため国内では使えず、欧米企業の電気機器で利用されたという。1931年には東京帝大の三島徳七によって、KS磁石鋼の2倍の保磁力をもつ「MK磁石鋼」(現在汎用されるアルニコ磁石)が開発され、それに負けじと本多らはさらに強力な「新KS磁石鋼」を1934年に作り上げた。こうした開発競争が日本の金属工学の研究技術水準を引き上げた。

  • 弁護士から化学者に 法則発見も論文が難解だった!?

    弁護士から化学者に転身したアボガドロは、1811年に後に「アボガドロの法則」と呼ばれる重要な仮説をフランスの科学誌に発表した。ところが学界から注目されなかった。論文が法律文書のように難解なためだったとも言われる。アボガドロが再評価されたのは、1860年にドイツで開かれた国際会議で、イタリアの化学者が論文の写しを参加者に配りPRしたからだった。しかし、それはアボガドロの死後4年がすぎていた。

  • 学校の実験室で「電流・電圧・抵抗の法則」発見 自国より他国で先に評価

    物理学の教師となったゲオルク・オームは、学校の実験室を使って電気の実験を行い、1827年の著書で「オームの法則」を発表した。ところが自国ドイツでは評価されず、1841年にロンドンの王立協会から科学界最高賞のコプリ・メダルが贈られた。オームは63歳のとき(1852年)にミュンヘン大学の正教授に迎えられたが、2年後に亡くなった。「オームの法則」は実はオームの発見よりも約45年前に、英国のキャベンディッシュがすでに発見していたが、彼はそれを発表しないでいた。オームの死後約25年たって、英国ケンブリッジ大学教授がキャベンディッシュの業績を整理して、そのことが明らかとなった。

  • 画期的な高効率エンジン発明も 英国へ渡航途中に不慮死

    ミュンヘン工科大学を首席で卒業したルドルフ・ディーゼルは、1892年に高い熱効率で強力な新型エンジン(ディーゼル・エンジン)を開発し、特許を取得した。その後、高圧縮比を実現する製造技術が確立されたことで、1897年にそのプロトタイプが製作された。たちまち世界の注目を集め、各国で新型エンジンが作られるようになった。ディーゼルは1913年9月29日にベルギーから英国に向かう蒸気船に乗船したきり、翌日行方不明となった。その後ディーゼルらしき遺体が北海で見つかったが、死体検分はされず、死因も不明のままだ。ディーゼルは英国でのディーゼル・エンジン工場の起工式と、英国海軍との潜水艦用エンジンの製作についての会議に出席する予定だった。当時は第一次世界大戦の前夜。ドイツ帝国には新型エンジンの英国への譲渡に反対する意見もあった。

  • 見つけた最多の6元素 貢献一番はファラデーの発見

    王立研究所の化学講師ハンフリー・デービーは、容姿の良さと話の上手さから公開講演会でも女性たちに人気だ。自らの研究テーマとして取り組んだのが電気分解で、ナトリウムとカリウム、カルシウム、ストロンチウム、バリウム、マグネシウムを発見した。一人の科学者による6元素の発見は最多だ。炭鉱事故防止のために安全ランプ(デービー灯)も発明した。生涯で最大の発見は弟子のマイケル・ファラデーだとも言われた。

  • 物質の「波と粒子」の二面性 大胆仮説にアインシュタインは高評価

    フランスの名門貴族の家に生まれたド・ブロイは、兄の影響で物理学に興味をもった。第一次世界大戦での兵役後、大学に復学して物理学を専攻し、博士号の学位論文で、物質のもつ波動性と粒子性の二面性についての仮説を提唱した。間もなく、外国の研究者らによる実験でそれが確認され、1929年にノーベル物理学賞を受賞した。その業績は、後の量子力学の発展にも寄与した。

  • 実用的なSL製作 世界に招いた鉄道時代

    貧しい家に生まれたジョージ・スチーブンソンは、小さい頃から父と同じ炭鉱で働いた。無学ながらも炭鉱の技術職人としての腕を磨き、一流の技師が直せなかった水揚げポンプを修理し、爆発事故のない坑内安全灯を発明した。レール上の石炭台車を引いて運ぶ「馬車鉄道」の代わりに、導入を考えたのが蒸気機関車だった。1804年には他の技術者が最初の蒸気機関車を作っていたが、実用化には至らなかった。スチーブンソンは機関車やレールなどのさまざまな技術的問題を解決して1814年に実用的な蒸気機関車を製作し、1825年に40㎞区間で営業運転を開始した。これにより世界中で本格的な鉄道輸送時代が到来することになった。

  • 昆布から「うま味の素」発見 ヒト味増えて5味覚に

    東京帝国大学(現東京大学)理学部の池田菊苗教授は、昆布から「うま味」成分のグルタミン酸ナトリウムを発見した。それが化学調味料「味の素」となり、今や世界中で市販されるまでになった。また助教授時代のドイツ・英国に留学し、ロンドンでの約2カ月間、文豪の夏目漱石と同じ下宿に滞在し、ともに親交を深めた。 

  • 水銀柱の実験で「真空」出現 気圧計の発明者に

    吸引ポンプでは、深さが約10m以上の井戸から、水をくみ上げることはできない。庭園に造った噴水の水が出ないことで、イタリアのトスカーナ大公はガリレオ・ガリレイに調査を依頼した。ガリレイも答えを出せずに亡くなったが、その弟子のトリチェリが1664年に水銀柱の実験を行い、空気の1気圧が高さ76㎝の水銀柱の重さと釣り合っていることが分かった。これは、比重が水銀の14分の1と軽い水では、高さ約10mまで吸い上げることはできるが、それ以上は無理なことを説明するものだ。また水銀柱の実験では、一端を閉じたガラス管に人類初となる真空を作り「トリチェリの真空」とも呼ばれている。このほか実験では、日によって水銀柱の高さ(気圧)が変動することも分かり、トリチェリが水銀気圧計の発明者となった。実験後トリチェリは大公付きの数学者となったが、間もなく腸チフスのため39歳で亡くなった。

  • テニス後に見えた「緯度変化の周期性」 画期的「Z項」の発見に

    地軸の極運動を調べるための国際共同緯度観測事業に取り組む「水沢臨時緯度観測所」の木村栄(ひさし)所長は、観測開始から1年あまり過ぎた1901年初め、世界6地点の観測データを集め解析しているドイツ中央局から「データに誤差があり観測がずさんだ」との批判を受けた。観測方法や手順、器具などを点検したが、原因は不明だ。スポーツ後のスッキリした頭脳でデータを見直してみて、ある鉛直方向の周期的な変化に気づいた。それを「Z項」として緯度変異を求める計算式に付け加えることで、観測精度が高まり、データのバラつきも修正された。1902年に論文で「Z項」を提案し、それが認められたことで木村や水沢観測所の評価は高まった。第一次世界大戦後はドイツの代わりに水沢が1922年から1935年まで中央局を担当し、木村が局長を務めた。しかし「Z項」の起源については不明で、木村は地盤や地震、大気や気象などの新たな観測を開始して解明に乗り出したが、謎のまま木村は生涯を閉じた。「Z項」が解明されたのは1970年、観測所後輩の若生康二郎による地球内部の流体モデルによってだった。

  • 窒素を酸素・水素に人類初の人工変換 中性子の存在も予測

    ニュージーランド出身のアーネスト・ラザフォードは1895年に、英国の奨学金派遣制度を利用して渡英し、キャベンディッシュ研究所に留学した。j.j.トムソンの指導を受けて実験に取り組み1898年にウランから2種類の放射線(α線、β線)が出ているのを発見した。1902年には放射性元素はα、β線を出して別の元素に変換することを発表した。これらの業績で1908年にノーベル化学賞を受賞した。さらに彼は原子核の周囲を電子が回る太陽系型の原子モデルを提唱し、中性子の存在も予想するなど、原子物理学の発展に大きく寄与した。

  • 逃した「酸素の発見者」の栄誉 何でも舐める癖で早世か 

    スウェーデンの化学者シェーレは、14歳のころから薬屋で働き、化学実験の技術や知識を身に着け、多くの化合物や元素などを発見した。酸素についても1771、2年ごろの実験で、濃硫酸と二酸化マンガンの反応で発生させて発見していたが、論文の出版発表は1777年と遅れた。その一方、英国のプリーストリーが1774年の実験で酸素を発見し、すぐに王立協会に実験結果を報告し、1776年に論文を発表した。このためシェーレは「酸素の発見者」としての栄誉を逃してしまった。大学教授としての招へいを断り、小さな町の薬屋店主にとどまりながらシェーレは実に多くの化学物質や元素を発見したが、43歳余りで早死した。毒性のある薬品でも、何でも自分でなめてみたので、体を悪くしたためではないかとも言われる。

  • 破傷風菌「カメの子シャーレ」で培養成功 血清療法の確立も

    「近代日本医学の父」「日本の細菌学の父」と称される北里柴三郎は、ベルリン大学に国費留学し、ロベルト・コッホに師事していた1889~90年に破傷風菌の純粋培養に成功し、そのための血清療法を確立した。帰国後は就職口がなかったため、福沢諭吉の資金支援でつくられた私立伝染病研究所の初代所長となった。1894年6月に明治政府から調査派遣された香港でペスト菌を世界で初めて発見した。その後、私立伝染病研究所は内務省所管の国立の研究所となったが、さらに文部省所管に移管され東京大学付属となる方針が発表されために北里が猛反発し、私費を投じて「北里研究所」を設立した。

  • U字ガラス管で法則発見 温度一定・体積バイなら圧力半分

    アイルランドの大地主の家に生まれたロバート・ボイルは、一生を科学の実験や研究に取り組んでいくことにした。ドイツのゲーリケの半球の実験を知り、ロバート・フックを助手にして真空ポンプを製作した。それを使ってさまざまな実験を行い「気体の温度が一定のとき、体積と圧力は反比例する」という「ボイルの法則」を1662年に発見した。ボイルは王立協会の設立にも関わり、12人の創設者フェローの1人にも選ばれた。ニュートンとも錬金術について文通し情報交換していた。

  • ウサギの耳にコールタールで人工がん作成 発がん原因の「刺激説」裏付ける

    東大医学部の山極勝三郎博士は、同じ研究室の市川厚一・研究生の手伝いを得て、ウサギの耳にコールタールを毎日塗擦して人工がんを発生させる実験を1913年から行い、ウサギ32匹のうち3匹の耳にがん組織が発生しているのを確認した。化学物質による人工がんの発生に初めて成功したもので、がんの原因の外的刺激説を支持するものだった。ところが1926年のノーベル医学生理学賞は、がんの発生は「寄生虫によるものだ」とするデンマークの研究者に贈られた。後に、この寄生虫説は誤りだと分かり、「山極博士こそが日本人最初のノーベル賞だった」と惜しまれた。

  • 音速を超えて アインシュタインにも衝撃波

    オーストリアの物理学者マッハは、音波を超えた時の現象について研究し、衝撃波の様子を写真で撮影することにも成功した。その業績を讃え「マッハ数」として名前が残されている。マッハの研究は科学史や心理学、生理学、音楽学などの分野にも及び、それぞれに業績を上げた。科学史ではニュートン力学の空間と時間についての考え方を批判し、アインシュタインに強い影響を与えた。ロシア革命を指導したレーニンとも唯物論をめぐり論争したという。

  • ‟宇宙膨張”の法則発見 銀河の「赤方偏移」観測で

    米国の天文学者ハッブルは、これまでの「星雲」にわれわれの「天の川銀河」とは別の銀河があることを発見した。宇宙には1000億個もの銀河あると推計した。また銀河の距離とスペクトルの観測から、宇宙の膨張モデルにつながる「ハッブルの法則」を発見し、その後の観測も踏まえて、宇宙年齢は約140億年と推定されている。

  • 多芸多才なマルチ科学者 光の波動性や弾性体の実験、色覚や音律の研究で業績も

    英国の医師で物理学者のトーマス・ヤングは多芸多才のマルチ人間だった。医学の分野では目のレンズ厚を調節する毛様体筋を発見し、乱視の研究によって、三色の光を感じる視神経の存在を示した。物理学では光の波動性を干渉実験で示し、物体の弾性に関わるヤング率を考案した。また古代エジプト文字の石碑「ロゼッタ・ストーン」の解読に貢献したほか、音楽の調律法における「ヤング音律」を考案。今日の意味での「エネルギー」の言葉も初めて用いた。

  • 「原子論」で化学の法則発見 気象・医学にも名を残す

    英国の化学・物理学者ジョン・ドルトンは、今でこそ常識となっている「原子」を最初に考え出し、さらに化学での「倍数比例の法則」を発見した。彼が提唱した原子論は、ラボアジェの「質量保存の法則」、プリーストの「定比例の法則」をも説明するもので、その後の科学の発展に大きな影響を及ぼした。ドルトンは気象学、医学の分野でも貢献し、名前を残した。

  • 太陽光スペクトルから紫外線発見 前年の赤外線ヒントに

    ドイツの化学・物理学者、ヨハン・ウィルヘルム・リッターは、「塩化銀」の白い化合物が、太陽光によって黒くなる現象を研究していた。英国の天文学者ウイリアム・ハーシェルが太陽光のスペクトルで「赤外線」を発見したのを知り、自分でも改めてスペクトルの実験を行った。塩化銀の溶液を浸した紙を、紫色の外側に置くと黒化するスピードが最も速いことが分かり、その部分に強く作用する電磁波「紫外線」を1801年に発見した。

  • リンゴの落下で「万有引力の法則」着想 20年後に結実した「プリンキピア」

    英国の物理学者ニュートンは、万有引力の法則の発見、分光プリズム実験による光学の研究、数学の微積分法の確立で知られる天才科学者だ。そのニュートンの三大業績は、ロンドンでペストが大流行したため、故郷の田舎町に帰っていた23、4歳のころ(1965-67年)にヒントを得ていたという。このうち数学や光学についての研究成果は論文で発表していたが、万有引力の法則などの力学については40歳を過ぎても発表していなかった。そうしたニュートンに研究論文の執筆と発表を勧めたのが天文学者ハレーだった。そして1687年に発刊したのが、後に近代科学の最も重要な著作の一つとなる「『自然哲学における数学的諸原理(プリンキピア)』だった。大学の教授職や学究職を辞したニュートンは造幣局長と王立協会長を84歳で死ぬまで続けた。その一方で錬金術や聖書の科学的な解明にも取り組んだという。

  • 音楽家から転身 天王星の発見で天文学者に

    ハーシェル,フレデリック・ウイリアム(1738~1822年、天文学、ドイツ)  音楽家から世界的な天文学者になった人がい

  • ABO式・Rh式血液型を発見 安全輸血の実現に貢献 

    ウイーンの病理解剖研究所の助手を務めていたラントシュタイナーは、英国研究者の「別々の肺炎患者の血球と血清を混ぜていた際に凝集があった」との報告を知り、肺炎診断に役立つのではと思い、研究所の同僚らの協力を得て追試してみた。ところが健康人同士でも凝集反応は起こるので肺炎診断には使えないが、混ぜ合わせる相手によって凝集反応が起きたり、起きなかったりすることに気づいた、調べた22人が3グループに分類できることが分かり、それをA型、B型、C型として1901年に論文発表した。その後ドイツの2人の研究者が当時混乱していた血液型理論を整理し、1910年に4グループの血液型を「A型」「B型」と「AB型」、さらに「C型」を変更して「O型」と呼ぶことを提唱した。この呼称は1928年の国際連盟の血清標準委員会で正式に採用され、国際的にも使われることになった。こうしたABO式血液型による輸血の安全性の向上と医学の進歩への貢献により、ラントシュタイナーは1930年のノーベル医学生理学賞を受賞した。

  • 「知」を愛した古代ギリシアの哲人 まずは自然の観察から

    古代ギリシアの3哲人の一人アリストテレスは、師プラトンから学問を学び、マケドニア国のアレクサンドロス大王の少年期の家庭教師を務めた。その後自らの学校で多くの弟子たちを育てた。彼は人間の本質は「知を愛すること」(フィロソフィア)と考え、自然に対しても「現象を観察し、原因を考えること」を学問姿勢とした。

  • 原子の構造・放射モデルでノーベル賞 量子力学の確立へ

    ボーア,ニールス(1885~1962年、理論物理学、デンマーク)  高度約420㎞に浮かぶ国際宇宙ステーション(ISS)

  • 小学校中退ながら東大講師、博士号も 妻に感謝したスエコザサ

    植物好きの牧野富太郎は、小学校中退ながらも東京大学理学部の助手から講師となり、博士号も取得した。94歳の生涯で採集した植物の標本は40万点、日本の1500種以上の植物に学名を付けて「日本の植物学の父」と称される。ところが富太郎は根っからの金銭感覚ゼロの人で、その陰には貧乏生活に耐えて13人の子供たちを育てた妻、寿衛子さんの支えがあった。

  • 効率・馬力アップの蒸気機関を開発 産業革命の動力源と原動力に

    計測機器の製造技術を習得したワットは、グラスゴー大学専属の職人となった。手がけたのが蒸気機関「ニューコメン機関」改良で、シリンダーとは別に蒸気の分離凝縮室を設けて、シリンダーの温度を下げないままピストン運動が連続するより効率的な蒸気機関を1765年に開発した。その後、資金の協力者を得たほか、蒸気機関のピストン運動を回転運動に変える新技術を開発するなどして、ワットの蒸気機関の用途は研磨や紡績、製粉などに広がり、世界の産業に影響を及ぼした。

  • 科学好きの人間嫌い 重要な研究成果を発表せず

    大金持ちの家に生まれたキャベンディッシュは、寡黙で人嫌いの性格だった。大学を中退後は自宅に引きこもり好きな実験に明け暮れた。その一方でロンドン王立協会の会員となり、水素の発見や、ニュートンの万有引力の法則にも関連する地球の密度の測定実験など、生涯18編の研究論文を発表した。そのほかにも、他の科学者に先んじて重要な実験結果を得ながら、未発表のまま埋もれてしまった研究も多々ある。そうした彼の遺稿を後に整理し、業績を発掘したのがマクスウェルだった。

  • 人類初発見の放射能 パリの曇り日に出現した黒い影 

    パリの科学博物館教授のベクレルは、蛍光物質を研究していた。注目したのは前年ドイツのレントゲンが発見したX線について、実験では蛍光物質を通して発生したことだ。「蛍光に「x線が含まれているのでは」と考えたベクレルは、晴れた日に、蛍光物質(ウラン塩)に太陽光を当て、発生するはずのx線で写真乾板(フィルム)が感光するかどうかを実験で確かめようと準備をしたが、なかなか晴れない。仕方ないのでアルミ箱に黒い紙で包んだ蛍光物質を入れ、写真乾板と一緒に机の引き出しに入れて置いた。そのうち「では太陽光に当てない場合の状態を確かめておこう」と、引き出しの乾板を現像してみた。驚いたことに、太陽光を当ててないのに蛍光物質が重なった乾板の部分が感光していたのだ。蛍光物質そのものからx線とは違う感光作用のある放射線が出ていたのだ。これをさらに研究したのがキュリー夫妻だ。夫妻は放射性物質としてウラン以外にポロニウム、ラジウムも発見した。これらの業績でキュリー夫妻とベクレルは1903年にノーベル物理学賞を受賞した。

  • 方程式で電磁波の存在を予言 相対性理論の支柱にも

    マクスウェルはニュートン、アインシュタインと並ぶ物理学界の3大巨匠の一人だ。最大の業績が電磁気学における「マクスウェルの方程式」を作ったこと。それまでのクーロンの法則、ファラデーの法則、アンペールの法則、ガウスの法則を一つにまとめたもので、電磁波の存在を予言した。彼の死後、ドイツのヘルツが実験でその存在を確認し、無線電信の発展の基礎となった。

  • 惑星運行の3法則を発見 だ円軌道に示された太陽中心説の確証性

    ケプラーは聖職者を目指して大学に入学し、天文学に興味を引かれた。とくに新鮮な刺激を受けたのが、コペルニクスの太陽中心説だった。卒業後は教師となりその一方で、天文学の研究をしていたが、突然失職してしまった。ちょうどプラハ天文台に著名な天文学者ティコ・ブラーエが赴任したことから、弟子となった。ところが1年後にブラーエが亡くなったことから、彼の約20年間の膨大な天体観測データをケプラーが整理することになり、発見したのが後に「ケプラーの法則」と呼ばれる惑星運行の3法則だった。またケプラーは精度の高い天文表「ルドルフ表」も作成し、太陽中心説の優位性を示した。

  • 豪州天文台で知った関東大地震 予想しても予知できず

    地震学の大森房吉東大教授は1923年9月1日、国際学術会議に出席するために豪州を訪れ、とある天文台を見学していた。すると、とたんに地震計の針が大きく振れ出した。データを調べると、震源は日本の関東付近、関東大地震だった。大森は関東での大地震の発生を危惧していたが、それを公に表することは避けていた。18年前には同じ講座の助教授が大地震の可能性を雑誌に発表して、社会的な騒動になったことがある。それを激しく否定したのも大森だっだ。科学的な地震予知とは「いつ、どこで、どれほどの(規模の)地震」が起きるのか、これら3要素が確定しているのが条件だ。が、いまだに地震予知は実現していない。  大森は関東大地震の発生後、直ちに帰国の途に就いたが、抱えていた脳腫瘍が悪化し、帰国して1カ月後に死去した。

  • 極低温下でヘリウム液化に成功 超電導現象の発見も

    オランダのライデン大学教授オンネスは、ヘリウムの液体化に成功した。その実験中、1911年に発見したのが、極低温になると電気抵抗が突然にゼロになる現象。いわゆる「超電導現象」だ。この発見と、低温物理学の基礎を築いた業績でオンネスは1913年のノーベル物理学賞に輝いた。 

  • 近代地質学の父 解説本のおかげで理解さる

    自然の景観や地質。鉱物などに興味を持っていたハットンは、長じて事業に成功して故郷に戻ると、地質調査によくでかけた。海食崖で発見したのが地質学の「斉一説」や「火成論」のヒントになる「ハットンの不整合」だ。重要な発見を基に近代地質学の理論を築いたハットンだったが、自著は難解でほどんと理解されなかった。友人の地質学者がその解説本を出し、徐々に周囲に理解されるようになった。

  • ブドウ糖やタンパク質合成 有機合成化学の先駆者に

    フィッシャーは研究に情熱的な化学者ケクレの影響で有機化学に興味をもち、カフェインなどのプリン体の合成や、ブドウ糖や果糖などの合成により1902年のノーベル化学賞を受賞した。その後も18個のアミノ酸からなるタンパク質(ペプチド)の合成にも成功するなど、有機合成化学の先駆者となった。ベルリン大学に留学し、後にビタミンB1を発見した鈴木梅太郎も指導した。

  • 30年がかりで『昆虫記』出版 文豪からノーベル文学賞に推挙も 

    フランスの昆虫学者ファーブルは、小さなころから田舎で生活し、自然に親しんだ。働きながら本を読んで勉強し、首席で師範学校を卒業するなどして、小中学校の教師となった。さらに独学して博士号まで取得した。一編の研究論文がコンクールで評価されたことがきっかけで、さまざまな昆虫の研究観察を始めた。その長年の昆虫研究の集大成として1873年から1907年まで全10巻に及ぶ『昆虫記』を出版した。科学論文とは異なる柔らかな語り口が好評となり、当時の文豪からノーベル文学賞に推挙する声も挙がった。

  • 76年周期のすい星回帰を予言 気象や年金政策でも活躍の天文台長

    英国の天文学者エドモンド・ハレーは、1682年に出現したすい星の軌道をニュートンの公式によって計算し、約76年周期で太陽を回っていることを知った。次回は1758年に回帰することを予言し、その通りにやって来たことから「ハレーすい星」と名付けられた。ハレーはほかに太陽黒点に関する研究や南半球で見える星図の作製、地球と太陽との距離(天文単位)の精密な測定法などを発表した。さらに貿易風とモンスーンに関する研究や、統計学の手法を用いた終身年金に関する研究など、天文以外の分野でも活躍した。64歳から86歳で亡くなるまでグリニッジ天文台長を務めた。

  • 実験大好き‼ 仕事・熱量・電力量に名を残す

    醸造業を家業とするアマチュア研究者のジュールは、幼いころから学校に行かず、家庭教師に付いて科学を学んだ。自分でも実験室をもち、電流と熱量、仕事(運動)量との関係などについて研究実験をした。そして確立したのが「ジュールの法則」や「エネルギー保存の法則(熱力学第一法則)」などだった。新婚旅行にも温度計を持参し、妻を助手に、滝の上と下での温度差を測定するほどの「熱量のある人」だった。

  • ビーグル号に乗った進化論 「起源」はガラパゴスにあった

    ダーウィンはイギリス海軍の調査船「ビーグル号」に乗船し、5年がかりで世界一周の航海を果たした。その時に立ち寄った東太平洋のガラパゴス諸島での観察をヒントに、1859年11月に著書『種の起源』を出版した。その中で「人類はサルと共通の祖先から進化した」とする自然選択による進化論を提唱した。「神がすべての生物を創造し、その姿は不変だ」としてきた宗教界からの反発を招いたが、ダーウィンの進化論への支持は世界に広がった。

  • 生物科目の点数が最悪も エンドウマメの実験で遺伝の法則発見 

    修道士のメンデルは生物科目の点数が最悪で、教員試験に落ちたという。ウイーン大学に2年間の留学後、修道院の庭で始めたのがエンドウマメを使った交配実験で、発見したのが遺伝学の「優性・分離・独立の法則」だった。1866年に論文誌が発行されたが、その後、35年間も見向きもされなかった。1900年に突然変異説のド・フリースら3人の遺伝学者らに再発見され「メンデルの法則」として知られるようになった。。

  • 最初に見たものが‟母親”に 動物の「刷り込み」研究でノーベル賞

    オーストリアの動物行動学者コンラート・ローレンツは、 生まれて初めて見た動くものを母親と思う「刷り込み」現象を、ハイイロガンの飼育・観察によって発見した。動物行動学の研究に貢献した他の2人の研究者とともに、1978年のノーベル医学生理学賞を受賞した。

  • 高度の真空条件で実験 陰極線は「電子」ビームだった

    気体の放電現象を研究していた英国の物理学者J・J・トムソンは、1895年11月のレントゲンによるX線の発見を知り、陰極線の実験に取り組んだ。ガラス管内の真空度を高めると、マイナス極から出る陰極線のビームに電圧をかけると、ビームの進行が容易に変わった。ビームが荷電粒子の束であることが分かり、その粒子が電子であることを確定させた。

  • 「細胞」を観察・命名 ニュートンと「万有引力の先取権」引き合う

    ロバート・フックは顕微鏡でコルクの「cell(細胞)」を初めて観察した。ばねの研究では「フックの法則」も発見し、気圧と気温を円筒の側面に自動記録する「気象計」なども発明した。気体の法則を発見したロバート・ボイルの実験助手も務めた。  また「万有引力の法則」発見の先取権についてはニュートンと争い、結局は数学的に法則の証明ができずに敗れた。ほかに1666年のロンドン大火の後の都市づくり構想にも積極的に参加し、フックの人物評価も含めて見直されている。

  • 円周率πを自著で採用 18世紀の数学界の巨匠

    円周率をギリシア文字のπ(パイ)で最初に表したのは英国の数学者ウィリアム・ジョーンズで、1706年出版の自著の中で記した。その約30年後に、数学界の巨匠レオンハルト・オイラーが1737年出版の著書で採用し、一般に広がることとなった。オイラーは天文学にも興味をもち31歳の頃に太陽の観測で右目を失明し、64歳の頃には白内障で左目も失った。しかし口述筆記で最期の日までおう盛に研究し、生涯で886編もの論文を残したという。19世紀の天才数学者ガウスと並ぶ、18世紀の数学界の巨匠だ。

  • 独学で実験科学者に 電磁誘導や電気分解の法則発見

    英国の科学者ファラデーは「天才的な実験科学者」とも称される。貧しい家に生まれたため、ほとんど小学校に通わずに製本屋で働きながら、科学の本を読み勉強した。王立研究所の化学助手となったファラデーは多くの実験に取り組み「電磁誘導」や「電気分解」の現象・法則などについての多くの発見をした。

  • ガスバーナーの炎色で新元素発見 分光分析法の基礎築く

    ドイツの化学者ブンゼンは、現在のガスコンロなどの原型となるガスバーナーを発明した。その、いわゆるブンゼンバーナーを用いて、彼はさまざまな物質を燃やし、その炎光スペクトルからセシウムやルビジウムなどの新元素を発見するなど、分光分析法の基礎を築いた。

  • 気圧の存在示した「マクデブルクの半球」 世界最初の真空ポンプも発明

    ドイツのマクデブルク市長を35年間も務めたオットー・フォン・ゲーリケは元々が物理学者だ。彼は「マクデブルクの半球」と呼ばれる科学史に残る公開実験を1657年に同市で行った。銅製の半球2つを貼り合わせ、真空ポンプを使って中の空気を抜いて真空にすると、半球は左右から8頭ずつの馬に引かせてもなかなか離れなかった。大気の重さ(圧力)を示したもので、その真空ポンプも世界で最初に自分で作ったものだった。彼は真空についてのいろいろな実験も行い、気圧計を作って気圧の変化で天気を予想できることを示した。また世界最初の静電発電機も作るなど、「ドイツの実験科学の確立者」とも称される。

  • 西洋の正確な解剖書に驚嘆 共訳『解体新書』出版

    解剖学は医学の基礎だ。古代エジプトや古代ギリシャで人体の解剖が行われたが、その後しばらく西洋では禁止されていた。再び医学的に解剖が注目されたのはルネサンス期で、1304年にイタリアのボローニャ大学で公開解剖が行われ、その後、体系的な解剖学の研究が他国の大学でも始められた。日本でも人体解剖は長く禁止されていたが、江戸中期の1754年に天皇の侍医をしていた山脇東洋が日本で初めて死刑遺体を対象に行った。そして杉田玄白と前野良沢らが、ドイツの医学者ヨハン・アダム・クルムスが1722年に出版した解剖学書『解剖学図表』のオランダ語1734年版『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、1774年に『解体新書』として出版。日本の医学の進歩に貢献した。

  • 分類学に隔てなし ヒトはみな‟ホモ・サピエンス”

    スウェーデンの医師で分類学者リンネは「二名法」という学名の命名・表記法を考案し、世界の動植物を分類・整理した。われわれ現代の人間も「ホモ属サピエンス種」として、高等サル類と同じ「霊長目」に分類した。これには反発もあったが、今では常識化している。また日本など世界から集めた植物にも学名を自ら付けて分類した。

  • 革命に生命絶たれつ 化学に遺した‟質量保存の法則”

    裕福な家庭に育ったラボアジェは、大学を卒業し弁護士となり一時期、政府の徴税請負人となった。その一方、化学に興味を持ち、燃焼に関するさまざまな化学実験をした。発見したのが化学反応の基本となる「質量保存の法則」だ。さらに「酸素」の名前も付け、化学の教科書も仲間らと著するなど「近代化学の父」と称された。しかしフランス革命が起き、かつて徴税請負人を務めていたことから革命裁判所で有罪宣告を受け、ギロチン刑に処されてしまった。「彼と同じ頭脳は今後100年は出ない」と言われた。

  • 太陽中心説(地動説) 天文常識を180度の大転回  

    若きコペルニクスは国内やイタリアの大学で天文学を学び、自分でも天体を観測するなどして太陽中心説(地動説)を唱えた。弟子に著書の出版を勧められ、ようやくコペルニクスも集大成に取り掛かった。しかし脳卒中に倒れ、校正刷りが出てきたのは死の直前だった。著書『天球の回転について』は出版されたが、教会の反対もあって地動説はなかなか認められなかった。再び注目されたのはガリレオ・ガリレイの宗教裁判によってだった。

  • 世界最初の電池「ボルタ電池」 ″乾電池”の発明は日本人

    皮をはいだカエルの足にナイフとホークを当てたら、足の筋肉が突然けいれんした。これについてイタリアの解剖学者ガルヴァーニは、筋肉にたくわえられていた「動物電気」によるものだと推論。これに対してアレッサンドロ・ボルタは2種類の金属を当てたことによる「金属電池」だと考えた。そして1800年に発明したのが食塩水に銅と亜鉛の電極を浸し、電線で結び通電させた「ボルタの電池」だった。これが世界最初の(液体式)電池だった。

  • 日本への船旅中にノーベル賞の知らせ しかし当時「相対性理論」は評価されていなかった!?

    宇宙論や原子物理学などに影響を与えた「特殊・一般相対性理論」の発表で、アインシュタインは「20世紀最高の物理学者」とも言われる。幼いころから数学が得意で、科学にも興味を持ったが、軍国主義的な規則づくめの学校になじめず、勉強に身が入らなかった。ようやく工科大学にも入学したが、授業には出ず自分で好きな物理学の論文ばかりを読んでいた。卒業後は友人の口利きで特許庁職員となり、ここでも空いた時間を利用して物理学の理論研究に浸った。1905年に発表したのが「特殊相対性理論」だった。物理学界に認められた彼は母校の大学教授となりが、さらに1915、6年には「一般相対性理論」の一連の論文を発表した。その理論で予測された「重力レンズ効果」が日食観測で確かめられ、一躍彼は世界の評判となった。1921年のノーベル物理学賞を受賞したが、対象は「相対性理論」ではなく彼が1905年に発表した「光電効果」の研究に対してだった。その受賞の知らせを日本に訪問する船上で受けた。日本中が歓迎ムードに湧いたという。

  • 元素をカードに周期表 未知の元素も存在予測

    ロシアの化学者メンデレーエフは元素の構造や性質などから分類した元素の周期表を1869年に発表した。現在までに確認されている118種類の元素のうち、当時は63種類だけの元素の一覧表だったが、彼は「存在すべき元素」を予測し空欄としていた。その後、空欄に当てはまる新しい元素が次々と発見され、周期表の正しさが評価されるようになった。

  • 「酸素」などの気体を発見した化学者牧師 炭酸水を発明し植物の光合成も発見

    英国の牧師プリーストリーは科学にも興味を持ち、自分でも様々な実験を行った。1774年8月のある日、酸化水銀を加熱したら、ある気体が発生した。この気体をためた容器の中では、ロウソクの火は激しく燃えるし、マウスも長く生存した。本人は酸素とは気がつかなかったが、フランスの化学者ラボアジェは自分でも実験を重ねて、この気体が新元素と気づき「酸素」と名づけた。 プリーストリーは最初に炭酸水を作った人であり、植物の光合成を最初に観察した人でもあった。

  • ‟宇宙旅行の父” 考案していた多段式・液体燃料ロケット

    ソ連(ロシア)が世界最初に打ち上げた人工衛星「スプートニク1号」は「宇宙旅行の父」と称されるツィオルコフスキーの生誕100周年を記念したものだった。独学でロケット工学の知識を醸成した彼は、宇宙空間の飛行のために、液体燃料による多段式ロケットの有利性と必要性をいち早く示し、宇宙技術の開発に大きな影響を与えた。

  • 油圧システムの基となる圧力原理を発見 ‟人間は考える葦だ”とも

    早熟の天才パスカルは数学が得意だったが、長じて物理学にも興味を持ち、現在の各種機器の油圧系システムに応用されている「パスカルの原理」を発見した。そのきっかけがイタリアのトリチェリの実験だった。山の高低による気圧の変化も確かめた。宗教や哲学的な思考も深め早逝したパスカルは「人間は考える葦だ」などの言葉も残した。

  • すい臓のインスリン 世紀の大発見の裏にヒト物語

    カナダの医師バンティングは1921年のある夜、論文を読んでいて、すい臓細胞からの抽出液が糖尿病を治療する可能性のヒントを得た。実験させてもらおうと母校のトロント大学教授に願い、実験室と10頭の犬の使用許可と、助手として医学生ベストの紹介を得た。翌年5月から始めた実験がようやく7月末に成功し、抽出液による血糖値の低下効果を教授も確認。すい臓からの分泌物質をインスリンと名付けた。その後、教授は研究チームをつくってインスリンの精製抽出に取り組んだ。翌1922年には病院での治療に成功し患者の命を救った。この業績で教授とバンティングは1923年のノーベル医学生理学賞を受賞するが、一緒にベストが受賞しなかったことに反発し、受賞式にも出席せず、賞金をベストと折半した。教授も他の研究者と賞金を分けた。

  • 青カビからペニシリン 世界初の抗生物質を偶然発見

    世界初の抗生物質「ペニシリン」は、フレミングがアオカビから発見した。黄色ブドウ球菌の培養に使ったシャーレを洗わずに置いていたらアオカビが繁殖していたもので、アオカビの周囲だけ黄色ブドウ球菌がはえずに消えていることに気付いたのがきっかけだ。フレミングは殺菌作用のあるその物質を「ペニシリン」と名付けて発表したが、当時は精製技術がなかった。約10年後に2人の研究者がフレミングの論文を読み、共同でペニシリンの大量生産技術を開発した。第二次世界大戦中に多くの戦傷病者の命を救い、戦後は民間人にも広まった。フレミングら3人は1945年のノーベル医学生理学賞を受賞した。

  • ダーウィン進化論に対抗し突然変異説 ‟メンデルの法則”も再発見

    ド・フリースは、自然選択説のダーウィンの進化論に対して、オオマツヨイグサの観察から突然変異説を提唱した。さらに過去の文献を調べ、35年前に発表になっていた「メンデルの法則」を再発見した。

  • くりこみ理論でノーベル賞 落語好きで気さくな人柄

    1995年のノーベル平和賞は科学者たちが核廃絶を訴えてきた「パグウォッシュ会議」に送られた。第一回目から出席していたのが日本人ノーベル賞受賞者の湯川秀樹と朝永振一郎の両博士。その朝永博士は、落語好きの気さくな人柄で、楽しいエピソードも多々ある。しかしノーベル賞の授賞式には、一カ月前に自宅のふろ場で転倒してろっ骨を折ってしまい、出席できなかった。そんな朝永博士のために、当日はスウェーデン大使館でメダルが伝達された。

  • 初の本格的な電気機関車 開発のダイナモと電気モーターで 

    本格的な電気機関車を走らせたのはヴェルナー・フォン・ジーメンスだ。彼は実用的なダイナモと電気モーターを開発し、1879年のベルリン工業博覧会で走らせ、大評判だったという。

  • 日本人初のノーベル賞 アインシュタインらと核廃絶・平和を目指す

    湯川秀樹(1907~1981年、原子物理学、日本)  日本人で最初にノーベル賞(物理学賞)を受賞したのは湯川秀樹博士だ。

  • 元・米国海軍士官 期せずして「光速度不変の原理」発見

    米海軍兵学校卒のマイケルソンは光に興味を持ち、大学教授となってマイケルソン干渉計を発明した。その装置で期せずして発見したのが「光速度不変の原理」。アインシュタインの特殊相対性理論の基礎にもなったといわれ、干渉計の原理は現在も重力波の検出装置などに応用されている。

  • 人類英知のダイナマイトで平和の建設を ノーベルの願い

    ダイナマイトを発明して大富豪となったノーベルは、遺言でノーベル賞を設けた。ダイナマイトは、イタリアの化学者ソブレロが作り出したニトログリセリンを安全に利用できるようにノーベルが改良したものだ。一瞬の爆発力を示すダイナマイトだったが、ノーベルは戦争に用いられるのが嫌だった。ノーベル賞に平和賞が加えられたのも、それが理由だった。

  • 妻が贈った顕微鏡 ミクロの世界の探検家に

    ドイツの細菌学者ロベルト・コッホは、炭疽菌や結核菌、コレラ菌などを発見し純粋培養に成功した。破傷風の病原菌や治療法を発見した北里柴三郎など、世界的な多くの弟子も育てた。しかし若い時は探検家になるのが夢で、慰めるために妻がプレゼントした顕微鏡がきっかけで、炭疽菌を発見したという。

  • 原子核の周囲を電子が回る ‟土星型„モデルを提唱

    東京帝国大学の長岡半太郎教授は1904年、原子の構造として土星型原子モデルを提唱した。英国の物理学者トムソンも別なモデルを発表し有名になったが、その弟子のラザフォードらが7年後の実験などを踏まえて、長岡博士と同様な土星型原子モデルを提唱し、長岡博士の先見性を証明した。

  • 1週間の実験で電磁気学の重要法則を発見

    フランスの物理学者アンペールは、電流の周囲に発生する磁場を研究し、アンペールの法則を発見した。電流の単位アンペアは彼の名前にちなむ。

  • 無謀なたこ揚げ実験で「雷は電気」と証明 避雷針の発明も

    米100ドル紙幣にも描かれているフランクリンは、事業や行政、科学などに多くの業績をもつ尊敬させる人物だった。科学分野では雷が電気であることを実験で確かめ、避雷針も発明した。また十分な気象観測網がない時代に、米国での暴風雨が南西方向から移動することを明らかにし、火山噴火が地球気候に影響することも世界で初めて述べた。

  • 食品の加熱殺菌びん詰法の開発に ナポレオンも大感激⁉

    アペール,ニコラ(1749~1841年、食品工学、フランス)  暑い夏の季節は、食物が腐りやすい。冷蔵庫やアイスボックス

  • ヘビの夢見て 炭素原子の「カメの甲」構造を発見

    大学教授の化学者ケクレは、ヘビが回っている夢を見て、有機化合物のベンゼン構造を発見した。

  • 床屋外科医から国王の侍医に 新しい治療・手術を施した「近代外科の父」

    元々が身分の低い「床屋外科医」のパレは、次々と新しい手術法や治療法を考案。さらにフランス語で本を出すなどして世界に広め「近代外科の父」と称される。

  • 北極ギツネと旅ネズミの関係に着目 「食物連鎖」を提唱した動物生態学者

    英国の動物生態学者エルトンは、ホッキョクギツネとタビネズミの増減関係から、食物連鎖の考え方を世界で初めて提唱した。

  • 数学者ガウス 言葉を覚える前に計算ができた‼

    数学者ガウスは、幼少のころから天才ぶりを発揮した。3歳の頃、父の給与計算の間違いを指摘した。数々の数学上の発見だけでなく、行方不明の小惑星の軌道の計算法を考案し、予測通りに発見した。また電磁気分野でも大きな貢献をした。

  • 4種類の型紙モデルを組み合わせ DNAの二重らせん構造を解明

    遺伝子の本体DNAは、どんな分子構造をしているのか。この問題にワトソンとクリックの2人が、ボール紙で作った分子モデルをパズルを解くようにいろいろと組み合わせて取り組み、二重らせん構造を明らかにした。

  • 「白鳥の首型フラスコ」で 生物の自然発生説を見事に否定

    フランスの微生物学者、ルイ・パスツールが独自の「白鳥の首型フラスコ」を使った実験で、それまで信じられていた「生物の自然発生説」が誤りだったことを示した。さらに、ぶどう酒や牛乳などの低温殺菌法を開発し、手術の消毒の普及にもつながった。

  • 世界最初に「ビタミン」発見 脚気に効果の米ぬか研究で

    帝国陸海軍の兵士や比較的上流層の人々に多かった脚気について研究した農芸化学者の鈴木梅太郎が、米ぬかから有効成分を発見し、オリザニンと名付けた。しかし当初は成分結晶の純粋抽出ができず、医学界からも注目されなかった。オリザニンは今でいうビタミンB1のこと。世界最初の病気治療に効果のあるビタミンの発見だったが、ノーベル賞候補にもならなかった。

  • 白旗や銃声合図に電波試験 20世紀に到来した無線電信時代

    白旗や銃声を受信の合図に、マルコーニは屋外での無線実験に成功した。英国政府が特許を認め、20世紀までに世界に無線電信の技術が広まった。

  • 天体望遠鏡で人類初観測 知らぬ間に発見していた海王星 

    太陽系第8惑星「海王星」はフランスの天文学者ルヴェリエの予測した位置で1846年に発見されたが、その230年余り前にガリレオ・ガリレイが自作の天体望遠鏡で観測し、記録していた。

  • パブロフのイヌ 音を聞いただけでよだれが…

    ロシア帝国の生理学者、パブロフはイヌを使って実験を重ね、唾液腺の働き方を調べていた。そのうちにイヌは、えさやりの係員の足音を聞くだけで、よだれを流すことに気がついた。えさやろのたびにメトロノームの音を聞かせると、その音だけでよだれを流すようになった。この条件反射の実験研究で、パブロフはロシア人初のノーベル賞に輝いた。

  • 特許競争に勝利し 実用電話の発明者に

    特許が一足早く、ベルが電話機の発明者になった。生涯の目的はろうあ者の教育と研究が目的だった。

  • なぞのX線 思わぬ所の蛍光紙が光って発見

    ドイツの大学教授レントゲンが真空管の放電の実験中、思わぬ場所の蛍光紙が光ることでX線を発見した。世界中で大反響となり、第1回ノーベル物理学賞を受賞した。

  • 血液の体内循環説 医学の古い常識くつがえす

    17世紀初めごろ、英国の医師ウイリアム・ハーベイは、解剖や観察、実験を通して「血液循環説」を唱え、それまでの医学的な常識をくつがえした。発生学も研究したハーベイは「動物すべては卵から」とも言った。

  • 日本最初の実測地図を完成 子午線1度も高精度に

    伊能忠敬(1745~1818年、測地学、日本)  初めて実測をして日本の全地図を作ったのは、江戸時代末期に千葉県に生まれ

  • 合わさる南米・アフリカの海岸線 それがヒントに「大陸移動説」

    地図を見て南米、アフリカの海岸線がうまく合わさることをヒントに発展させて、ドイツの気象学者ウェゲナーは「大陸移動説」を提唱した。その没後20年を過ぎて、地磁気学や海洋地質学の研究成果から大陸移動説が見直され、今日のプレート理論など新たな地球科学の分野が発展した。

  • 放射能の研究で 夫婦そろってノーベル賞

    マリ・キュリーと夫のピエール・キュリーの夫婦が、500フラン紙幣になった。ポーランド人のマリは貧乏で、苦学して大学を出て、ピエールと夫婦になり、二人三脚で放射性元素を研究しそろってノーベル物理学賞を受賞した。夫の死後、マリはさらにラジウムの発見抽出などの業績でノーベル化学賞を受賞した。

  • お風呂で発見 浮力の原理

    古代ギリシアの学者アルキメデスは、風呂に入っていて浮力と体積の原理(アルキメデスの原理)を発見したという。てこの原理を応用した投石器を作り、その兵器でローマ軍に対抗。最期は、そのローマ兵に殺されたという。

  • ジェンナー,エドワード(1749~1823年、医学、英国)

    英国の開業医だったジェンナーは、田舎の乳しぼりの女性は天然痘にかからないと聞いた。女性から牛痘の液を採取し、少年に接種したら、やはりに天然痘にかからなかった。免疫ができたことを論文で発表すると、その方法「種痘」は世界に広まり、ついにWHOも1980年に根絶宣言をに至るなど、人類に貢献した。現在、世界で感染拡大が続く新型コロナウイルスにもワクチンが開発され、日本でも接種が開始されている。 

  • フェルマー,ピエール(1607~1665年、数学、フランス)

    本の隅のちょっとしたイタズラフェルマーの最終定理を、米国の大学教授が証明した。解決の糸口になったのが、2人の日本人の数学モデルだった。 

  • ピカール,オーギュスト(1884~1962年、物理学、スイス)

    スイスの物理、気象学者で冒険家のピカール、人類初の最高高度、最深の深海に到達した。さらに息子、孫も冒険家だ。

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