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水野豊
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奈良県
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奈良県
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2021/04/30

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  • 深刻な悩み事も、コーヒー一杯で解決することがある。

    予定よりだいぶ早くに目覚めてしまうときがある。そんなとき、たいてい私は、自転車を走らせてマクドナルドまで行く。今日も目覚まし時計の鳴る時刻六時であるのに、三時半に目が覚めた。外はまだ暗夜で、窓を開けると、空気はむっとして湿っていた。夜空は、暑い雲に覆われて星ひとつなく、いまにも雨がふりそうだったが、天気予報は曇りとあった、降水確率も三十パーセント以下、私は外出の用意に取り掛かった。しかし、外に出ようという段になると、急にふさぎの虫がやって来て、私は自分の宿痾のようになっている「お悩みごと」に浸ってしまった。どんな悩みか、いつものやつだ。「私は書くべきか、書かずにいるべきか」前のブログでも書いた…

  • 先生の風景 【短い小説】

    川沿いの遊歩道で絵を描いているひとがいる。キャンプ用の小さい椅子に腰かけ、スケッチブックを覆い隠すように背中を丸めている。いつも派手な色のシャツを着て、そばを通ると、ぷんと汗の臭いがする。後ろ姿からは分からなかったのだけれど、ある日、買い物の帰りに、彼と二、三度目が合って、それが高校のときの世界史の原先生だと分かった。先生も私を見知ったようにじろじろと見た。でも、私はしばらくの間、声を掛けるのをためらった。先生は学校をどうしたのだろうか、定年にはまだまだ早いので、きっと何か事情があるのに違いないなかった。それからも、私は何度も彼の姿を川のそば見た。たいてい黄色いシャツで、赤いときもあった。そし…

  • 小説の書き出しの苦労。

    書き出しでつまずいて困るのは、エッセイよりも小説の方であることのほうが多い。エッセイも書き出しがうまく行かずに、後半の構成が乱れるということもあるが、そうなっても力技でごまかしてしまうこともできなくはない。ところが、小説はよりリズムが重要になって来るので、始めに仕損じると、無理して書いて行っても、文章がぎこちなくなり、人物の動きも、不自然になってしまう。いや、エッセイの方が難しいというひともいるだろう。エッセイもリズムは大事だ。しかし、多くの場合、エッセイよりも小説の方がイマジネーションを豊富に働かせねばならず、これをうまく稼働させるにはこちらの身体的なノリもそれにふさわしい状態になっていなけ…

  • 悩みが止まないときは、悩みを受け入れる。

    私は瞑想を自分の生活のなかに取り入れている。それによって健康に大きな変化があり、生き方もだいぶ楽になった。瞑想といってもたいそうなことはしない。そのときどきに行っている作業に集中したり、散歩の時間を多くとったりするくらいだ。ただそれだけで、考えることや空想することへの執着は減った。それらが減退すると自分自身への過剰な評価もなくなり、ひとに対しても上下で見るようなことはなくなって行った。自信を持つということは大切なことなのだけれど、空想によって必要以上に自分を誇大に評価してしまうと、現実感覚が見失われてしまう。周りは迷惑するし、自分もそれによって損をする。だから、ときどきでも瞑想をして自分を削ぎ…

  • 文章が上達するには。

    私はブログをエッセイとして書いているので、純粋に日記というわけではないのだけれど、分類で分けるとしたら日記ブログということになる。日記ブログにもいろいろあって、それこそ、日々の個人的な備忘録的なものから、日記ではあるが、ビジネスとして使っているひともいる。日記ブログはよくアフィリエイト系のブロガーさんから貶められるが、それはこの前者の備忘録的なブログのことだ。彼らは決まって同じことをいう。それこそコピペしたみたいだ。「あなたが有名人でない限り、日記ブログを書いても誰にも読まれません」。それはもっともなように聞こえるのだけれど、世の中はそれほど画一的にできているわけでもなくて、他人の日記を読みた…

  • ベーカリーにて。 【短い小説①】

    本通りに新しいベーカリーが出来た。カフェも併設されていて、買い物帰りにひと息つくこともできる。私もよく朝早く教会に行ったかえりに、立ち寄ることがある。朝食は家で済ましてくるのだけれど、早起きして普段のルーティーンと違うことをすると、すぐに小腹が空くのだ。クロワッサンとホットコーヒー、欲張ってサンドウィッチも食べることもある。席もたいてい決まっていて、通りを見渡せる窓側だった。陽はルーフに遮られて、まぶしくない程度に入り、文章を書く手元もほどよく明るい。私は、仕事としているエッセイとは別に、ほとんど趣味で詩も書くことがあって、たいては気晴らしに外で書いていた。ほんの短いメモ変わりのような詩なのだ…

  • 悪魔の存在。

    キリスト教では悪魔の存在を認めている。私もキリスト教徒であるので、そういうものは信じなければならないのだけれど、正直、信仰が未熟のためあまりピンとこない。何かに行き詰っても、何かに障害を感じても、私はどちらかというとそれを自分の体調のせいにするので、悪魔によって妨害されたとは考えない。例えば、私はしばらくのあいだ、ブログを書けないでいたのだけれど、それは自分の煩悶のために体の具合が悪くなったからだと判断した。小説やブログを書くことが罪深いように感じられて、やめようと努力し、その結果、ノイローゼになった。私はこれの原因をすべて自分の悩み体質にあるからだと思った。悩みさえなければ、体調不良も起こら…

  • 書くことへの執着。

    このブログは、書き始めたころ、文学をテーマに書いて行くはずだった。それがいまでは考え方や悩み方について持論を書くばかりになっていて、すっかり方向性が変わってしまっている。記事の数からしても、文学についての話など片手に収まるくらいだ。しかし、書くテーマが変わったからといって、私はむしろそれを歓迎したい気持ちだ。人間も世の中のあらゆるものも、刻々と変化しているのであるし、自分の始めに掲げたテーマがいかに素晴らしく、おもしろいものに思われても、自分のなかに変化の兆しがあるのなら、以前の自分の課題に固執するのは道理に反しているように思う。私は長年小説を書いてきたし、これから先も書いてゆくだろうが、それ…

  • 小説を書くには空想に頼らないこと。

    私は小説を書いているのだけれど、作品を最後まで仕上げるには、普段から想像力を鍛えておかなくてはならないと思っていた。そのため、散歩するときや、音楽を聴いているとき、好き勝手に空想を膨らませて、物語を作っていた。それはそれで楽しいものだったし、小説もすいすいと書けるようなときがあると、そうした普段の行いが実を結んだのだと思っていた。反対に、そうなると、想像することを少しでも怠ってしまえば、小説が書けなくなるのではないか、そんな疑問や不安というのもつきまとう原因にもなっていた。もっとも空想することは快感で、そんなに深刻には考える暇はなかったのだけれど。しかし、あるときから私はPodcastやYou…

  • 悩みの多い体質。

    悩み体質というのを聞いたことがある。もちろん、そういう言葉は常用的に使われているのではなくて、便宜的に誰かが造語したのだろうが、これも言い得て妙なところがあり、私なんかはこれにズバリ当てはまる。世の中には、信じられないことに、あまり悩まないひともいる。苦労がないというわけではないのだけれど、それについて思考を巡らせるということを必要としていないのだ。私は、こういうひとを羨ましいと思い、真似しようと思った。できるだけ社交的にしてみたり、酒を飲んだりしたこともあった。でも、やはり芝居の域はでず、もともと社交的でもない人間がみなの輪のなかにわいわい混じったところで疲れるばかりだ。かえって悩みが増える…

  • 太るのは悪いことか。

    最近、少し太って来た。明らかに間食が原因で、せんべいやチョコレートなどを小腹がすいたら食べてしまう。そういうものは、私が買うことはほとんどなくて、たまに会う母親がどこかに行った土産としてくれるのだ。私はもちろんそれに迷惑することはなくて、もらってうれしくないことはないのだけれど、やはり体は正直でカロリーを取ったぶんだけ反応する。しかし、気が向いたときにこの調子で食べていたのでは、太る一方であるので、どこかで抑制しなければならない。お菓子そのものが悪いのではなくて、食べる量に問題があるのだ。そこで数日前から、もらったせんべいは食前一枚に決めている。それなら、食事で食べているようなもので、一緒に消…

  • マジメなひとの人生観。

    人生は遊びだ、祭りだ、というようなひとがいるのだけれど、そのような感覚が私には分からない。もちろん、これは批判していっているのではなく、ただ正直に私には人生がそういう溌剌として楽しいものというような感想がどうしても持てなのだ。人生は遊びだ、そういうひとも実際には苦しんでいるのかもしれない。実は、病気をしていたり、愛するひとと離別していたり、失業していたり。そういった諸々を経験したうえでの人生は遊びだ、祭りだ、であるなら、そういう人生訓は聞いても考えさせられることもたくさんあろう。何かしらの人生に対する至言もみつかることだろう。しかし、単に生きることは退屈だと嘆いて、ただ文字通り酒を飲んだりして…

  • 執着は捨てようと必死で努力しても捨てられません。

    「キリストにならいて」というカトリックのお説教本と「愛と無」という神秘主義の思想家を解説した本をこの一か月ほど読み続けている。どちらも、読み方によっては、かなりストイックな印象をもってしまう。ストイックといえば、確かにその通りで、「すべての欲望、執着を捨て去らねばならない」というようなキツい文言が随所に出て来て、初めてこのタイプの本を読むひとなら、「俺には無理だわ」と最後まで読み通すのも辛いだろう。もちろん、どちらの本も文字通りに執着のすべて欲望のすべてを手放せと要求しているのではなく、とかく欲望に欲望を重ねるような無知な生き方はひとを幸福にしないと、いっているにすぎない。でも、その限りではな…

  • やけくそになりやすいひとは文章を書くと改善する。

    また失敗した。記事を書いては消し、書いては消しと繰り返して、それでも2000字くらいは書いていたのだけれど、やけくそになって全部消した。私はメンタルが弱いので、文章がちょっとでも滞るとその日一日のリズムさえも崩しかねない。前も、苦労して書いた記事が後で読み返して失敗作と分かったとき、もうブログをやめようかなとさえ思った。わずか一記事でそれまで積み上げてきた自分の仕事を全部削除してしまおうかと思ったのだ。そのときはしばらく寝込んだだけで、事なきを得たのだけれど、自分の破壊的な衝動というのがこの先まったくでないとも限らず、それを考えるとかなり恐ろしい。やけくそになるということはひとによっては切実な…

  • 三十代の体の変化。

    三十代になってから、体が変化し始めた、というようなことをある女性作家がいっていた。その変わりの激しさは、思春期にくらべてもけして劣らないということだった。私も三十を越えてから、とくにそのように感じることが多い。私は男なので、女性とはまた違った感じ方をしているのかもしれないが、体力の衰えというものではやはり共通していることも多いだろう。私には持病があって、それまで落ち着いていた症状が三十一歳のときにぶり返した。体力の衰えや、メンタル面でより虚弱になったことはひょっとしたら、この症状のぶり返し(再発病)にこそ原因があるのかもしれないが、それでも、一年二年前の比較的溌剌であったときにくらべると、やは…

  • パソコンの文章、手書きの文章。

    最近また、原稿用紙で小説を書き始めた。Kindleに発表しようかと考えているので、どのみちパソコンで書き直さなければならず、やはり手間だ。 しかし、それであっても原稿用紙で書くことの利点はあって、やってみてまったくの時間の浪費ということもない。村上春樹もいっていたけれど、パソコンで書く文章と、手書きとでは違いがあるのだ。手書きでしか、出せない文章の妙味というものがある。村上さんによれば、三島由紀夫も太宰治も中上健次も、手書きであったから彼らの個性があった、というふうに評していた。確かに、三島由紀夫の懐古的で美麗な文章が、利便性の代名詞であるようなパソコンからも生まれるとは考え難い。三島も太宰も…

  • 不眠症の体験。

    寝不足だ。昨日は疲れていて、八時には床に就いた。それから一時間後には寝入ったのだけれど、夜中に目が覚めた十二時くらいだったと思う。それから何時間も眠れずに、ようやく朝方になって、浅い睡眠を得ることができた。不眠はいってみれば私の宿痾のようなもので、改善しようといくらか努力はしているのだけれど、なかなか私を自由にはしてくれない。考えれば昨日も不眠によって疲弊していた。いや一昨日だったか。ともかく眠れないとなると、連続して、そんな日が続く。不眠は、日中のパフォーマンスを落とすので、これが辛い。二日、三日と続くと、やはり疲れは嫌増して来て、日数を重ねるほど、できることにも限界が見え始めて来る。私はま…

  • 直近の目標。ブログで収益が出たら。

    自分のブログも他人のブログもあまり見ないのだけれど、ときどき思い出したようにphaさんのブログは覗くことがある。私のブログとどこか傾向が似ているからかもしれない、読んでほっとすることがある。私の目指しているものが、あながち間違いでもないように思えたり、あるいはかえって自分が無駄に力みすぎているのではと反省することもある。良き友人というのは、仮に知り合うことがなくてもできるものだ、それが本であってもブログであっても。この記事を書く前にも、phaさんのブログを読んだ。もうだいぶ以前の記事で、どうやって私はこれを見つけたのだろうか。「一人で意味もなくビジネスホテルに泊まるのが好きだ」というタイトルも…

  • 働けなくなったとき、とことん落ちてしまう前に何か活動したほうが良いよ。

    わけあって私は働くことができないのだけれど、働けなくてもできることは他に無数にあって、例えば、身の回りのことは可能な限り自分でするとか、健康のために散歩するとか、あるいは特技があれば、それがたとえ趣味から出なくてもがんばってみるとか、そんなことは案外、探せばいくらでもあり、こつこつ実行を重ねて行くことで、状況が変わってくるということもある。私は、書くことが好きで、この十年くらいずっと何かしら書いて来たのだけれど、それがけっきょくは環境を良い方向へと変えさせるきっかけとなった。文章を書くというのは、孤独にそれこそ誰とも会わずともできてしまう作業であるので、ひどい場合、数年誰とも、会わなくても苦に…

  • 都会と田舎の時間の違い。

    週に一度、休日を作って大阪にでるようにしている。特に用事があるわけでもなくて、ただ都会の空気を吸いに行っているだけだ。私は奈良県香芝市の田舎に住んでいるので、ときたま大阪などのビルの多い風景を眺めるだけで、大きな刺激になって興奮する。車が走る、ひとはぞろぞろと途切れることはない、空は小さくビルの隙間からカゲロウのように霞んで見える、それも良い。都会に住もうとは思わないのだけれど、都会とはまったく縁を切ろうとも思わない。やはりほどよい刺激というのは心地よいもので、なかなか手放せないものだ。私は偶然、香芝市に住むことに決めたのだけれど、ひょっとしたら、大阪からそんなに遠くはないというのも、理由のひ…

  • 瞑想によって変わったこと。

    子供のころから物語を空想するのが好きで、暇さえあれば、アニメや映画の続きを自分なりにアレンジして作ったりしていた。十代になって色気づいてくると、自分を主人公にして恋愛話を作ったり、ヒロイズム的に自分の活躍を誇張したような学園物語なんかを空想していた。二十代になってもそれは続いて、映画を観に行くつもりで大阪まで出たのに、自分の空想の方が楽しくて、映画を観ずに、けっきょく映画の上映時間と同じくらいの時を空想で過ごしたりした。空想はいつもともにあり、私とってもっとも親しい友人だった。しかし、三十を越えたあたりから、急に気難しくなって、私は空想に多くの時間を費やしていることに、罪深いものを感じるように…

  • 考えることは孤独を奪う。

    ブログを書くようになってからエッセイをよく読むようになったのだけれど、たいてい気楽に読めるものは、友人同士とのじゃれあいであったり、ポジティブな生き方をうたったものであったり、ようするに読み手の暇つぶしを満たしてくれるもので、こちらの思考を刺激しないものだ。気楽な文章というのは、まあそういうものなのだけれど。深いところで感じ取ったり、考えたりすることを要求してくる文章というのは辛い。頭を動かすのは、仕事でもなんでも非常に労力のいることで、それは読書でも同じ。考える読書は時間も食うし、それだけ孤独になって、著者と向き合わなければならない、友人と話しているような誤魔化し合いもなく、著者が知的なら、…

  • 悪い夢。

    カフェインを断つ生活を始めてからも、ディカフェをのむことはあって、そんな日に限って睡眠の質が悪くなる。ディカフェには少量のカフェインが含まれているのでそれが影響しているのだろう。なまじカフェインが体から抜けているので、たとえわずかの摂取でもからだは敏感に反応するのだ。このあたりは酒にも似ている。私はまったく酒は飲まなくなったのだけれど、一年に一度くらいは機会があってアルコールを取ることがある。そんなときやはり翌日の体調不良といったら、それまでコンスタントに酒を飲んでいたときの二日酔いには比べものにならないくらい辛い。単に体が重いというよりメンタルが衰弱している感じだ。カフェインもその点、まった…

  • 失敗の対処法。

    ブログを書くといっても、私の場合、ほとんど自分自身のことを書いているだけなので、ネタにも困らず、構成にしたってほとんど考えることがなく、SEOなどを意識して書く記事なんかよりはいくらでも楽に早くできるはずなのに、なぜか言葉に詰まったら、ゆうに一記事あたりに二時間近くかかってしまう。文章が進まないというのはほんとうにもどかしいいもので、イライラしてパソコンを投げ飛ばしたくなる気持ちにもなってしまう。自分を嫌い、自分の才能に絶望して、このまま水も食料も取らずに、衰弱して死んでしまおうか、とも考えることがある。もちろんやけくそになっているだけで、実際そんなことは実行したりなどは一切ないのだけれど。一…

  • 良いエッセイは「他者」を描く。

    わけあって小説を書くことを自分に禁じていたことがあって、そんなとき私はエッセイばかり読んでいた。といって、大量に読んでいたわけではなく、吉田修一を少し、川上弘美を少し、井伏鱒二をもう少し、といった感じだった。作家のエッセイに限らず、noteというエッセイが主体のサイトをのぞいてみても、良いエッセイは、誰かとの出会いや、誰かとのふれあいを描いたものが多い。先にあげた三人の作家にしても、自分の考えをごねごねただ孤独に巡らしているものは皆無で、あくまで他者の存在に頼っている。他者がいてはじめてエッセイが成立しているかのようだ。もっとも私は、エッセイは常に誰かとの関りを書くべき、というような乱暴なこと…

  • 雨の日のよいところ。

    今日は雨だ。雨の日はメランコリックになりやすい。体の動きもにぶくなるし、何をするにもわざわざ気力を奮い立たせなければならない。今朝も目覚めて布団から起き上がるまでで、いろいろと頭の中で計画をめぐらせた。そうすることで、布団から身を起こす切っ掛けを探っていたのだ。雨降りの日に気持ちが落ち込む人間にとっては、布団から上がるだけでも、一大事業だ。まして、そのあと仕事をしなければならないとなると、これもまた別の準備がひつようになってくる。私は毎朝ブログを書いているのだけれど、頭がちゃんと働いているときはスイスイと四十分もあれば、ひとつの記事を完成させることができる。ところが、今日のように雨で、メランコ…

  • 結婚できない理由。

    ほんの立ち読み程度だったのだけれど、ある作家が「結婚したい」という気持ちがないというようなことを書いていた。単にキャリアがあるからというわけもなさそうだった。この作家は女性であるので、周りから結婚したくないのとか、よく訊かれるそうだ。あるいは、女性なので、結婚に執着がある、という見方はよくないのかもしれない。男でも結婚に執着がある人間はいるし、結婚をしたというだけで周りに自慢をするようなひともいる。傾向として、女性の方が結婚に思い入れがあるのだろうが、数十年してそれがひっくり返ることもないとはいえない。私はまだ結婚していない。これから先のことはまったくわからないが、おそらくその可能性も低いだろ…

  • 献身に生きるゴッホ。

    岩波文庫でゴッホの手紙が三巻本で出ている。数年前に図書館で借りて読んだ。そのとき私はひどく落ち込みやすくなっていたので、生きる指針のようなものを求めていた。まがりなりにもクリスチャンであるので、聖書にその範を求めればよいものを、そのころまだ私は信仰にそれほど熱心ではなかった。聖書より文学書をよく読んでいた。ゴッホの手紙を読み始めたのは、気まぐれからではなかった。そのころには、ゴッホの伝記も数冊読んで、映画もいくつか観ていた。れっきとしたゴッホファンになっていたのだけれど、どういうわけか、ゴッホの手紙に関しては、読みこぼしていた。おいしいものは後に、ということだろうか。一読して、それまで読んだ伝…

  • 「メンタルが弱い」も個性。

    ついさっき書いた記事が失敗したので、一時間ほどやけくそになっていた。別にものにあたったわけでもないし、誰かに愚痴をこぼしたわけでもない。気落ちして、床に横になっていていた。私は、メンタルが非常に弱くて、たいていのひとが何も感じないようなストレスにも耐えられないことが多く、そのため寝込んでしまうことがほんとうに頻繁にある。一時間前に書いた記事にしても、単に構成がうまくいかなかっただけで、失敗してもわずかに1300字ほどの分量で、また書き直せばすむだけの話だ。誰でもするような間違い、誰でも気にしないような失敗にもかかわらず、頭を殴られたようなショックを受け、死んだように動けなくなった。これほど脆い…

  • 季節感のある文章。

    私は、他人のブログはそれほど熱心には読まないのだけれど、それでも、いくつかのブログはたまにチェックするようにしている。だいたい日記ブログだ。坂爪圭吾さんのブログもお気に入りのひとつで、彼の人生観もさることながら、記事に貼ってある写真を見るのも好きだ。自分とは違う場所で、違う人生を送っているひとの生活をほとんどリアルタイムで知れるというのは、また別の人生を歩んでいるこちらの好奇心を否応なく刺激する。季節感があるのも良い。その住んでいる場所の感じも伝わる。私は長い間、小説を読んで来たけれど、季節感というのを、ないがしろにした作品を私は知らない。夏から急に冬に変わるなど、そこに意図もなく、いい加減に…

  • 考えない練習。

    考えるから思い悩み、不安になるのだから、考えないほうがいい。考えない練習。そんなことをここ数年、試してきた。結論からいうと、数年では答えはでない。確かに、持病の精神疾患は、この訓練によっていくらかは改善したし、ものの考え方も以前にくらべて平板で落ち着いたものになってきた、いやもっと大きなことを別の観点から眺められるようにはなった。この変化はダイナミックなものだった。三、四年まえの自分とは、まるで別人格の自分がいるようにさえ感じる。しかし、はっきりとこの訓練だけによる効果でそれだけの変化が得られたのかはまだ分からない。私は、三年前に持病の精神疾患が再発したので、薬が大幅に変わった。私の成長は単な…

  • カフェイン断ちはけっこうキツイよってこと。

    カフェインを摂取しない生活を始めて、二週間が経った。離脱症状は、だいたい二週間程度で治まると聞くので、ちょうど今がもっともしらふに近い状態だろう。始めの二、三日がもっともきつかった。体が怠く、眠気もすさまじく、抑うつ感も激しい。一日寝ていることしかできなかった。ブログを書くペースも減退してしまった。一週間経つと、体のつらさはいくらかマシになったが、それでも横になっている時間は多かった。変化が見え始めたのは、二週目も半ばに入ってからだろうか、先々のことに不安を感じなくなってきて、過去の嫌なできごとについても、意識的に振り返らないことで、対処することができるようになってきた。日々の活動に前よりも積…

  • 真面目なひとの文章。

    あまりに真面目なひとの文章はおもしろくないということを時々聞く。私もブログを書いているので、この点は気をつけるようにはしたいが、真面目である性格を急に変えることはできない。ひとからも、真面目だねえ、と言われ呆れられるほどなのだけれど、私自身は自分が真面目であるとかそうではないとか判断をすることができない、自分のどういう点が真面目であるのか、それも分からない、だから気をつけようもないのだ。しかし、文章とは便利なもので、一回書いたものを数日後に読むと、あたかも他人が書いたように読めてしまう。自分を顧みて、記憶をいくらさかのぼっても自分の性格というのはつかめないのに、自分の書いた文章を読むと、そのあ…

  • 本は買わない、図書館で借りる。

    図書館に行っても、本を借りない練習をしている。当然だが、図書館は本を限度数まで借りてもお金は一円もかからない。一冊借りても、八冊借りても、最悪返却期限を過ぎて返してもこちらは何も払わなく良い。その地域に住民票さえあれば、それだけのリソースが得られるのだ。そのため、本を読みもしないのに借り、家のテーブルに数日置いたきり手に取ることもなく、期限がきたらそのまま返却するというあきらかに無駄な行いをすることが多くなる。もちろん、借りるときには、その本に興味が向いて、家に帰ったら時間をゆっくり取って最後まで読み通そうと考えているのだが、家に帰るまでの途中でそんな考えを放棄してしまうことだってある。やっぱ…

  • 週に一度、街に出る。

    週に一回は、自分への褒美として遠出をすることにしている。遠出といっても、大阪に出るくらいで、私の住んでいる香芝市からは一時間程度で行くことができる。大阪で特に何か目的があるわけでもなく、ただ、街を眺めて歩き、あと本屋で立ち読みをすることはかかせない、私は大半の時間をジュンク堂で過ごす。これらのことが、私にはリハビリになっている。リハビリという意識はないけれど、結果的にそうなっている。精神障害を持つひとのなかには、ひととの係わりをさけて、自宅に引きこもってしまうひともいるが、一方で好奇心旺盛で、あちこちのひとの集まりにも参加し、痛い目にあうひともいる。ひとにもよるけれども、精神障害には何かしらの…

  • 自分を無にするために、毎日歩く。

    私には友人がひとりいるくらいで、彼ともコロナが流行してから会っておらず、この一年のほとんどの時間を誰とも会わずに過ごしている。 在宅で仕事をして、それも誰かと顔を合わせる必要のないものだから、ひきこもりのひとがよく感じるように、世の中にとって自分は価値がないんじゃないか、なんて深刻に悲観的に考えこんでしまうこともある。 しかも、私の仕事はすぐに成果の出るものではないので、こういう考えは憑きもののように、日常茶飯事になってしまった。 この問題を解決するには、ひとと会うのが一番良い。たまに母と会って食事をするのだけれど、それだけでかなり気分は違う。 なさけないことに、友人もおらず、仕事で付き合うひ…

  • コロナ禍の街

    雨が路地を、並木を濡らしているのが、窓から見える。 雨降りの日にわざわざ外に出る必要もないけれど、週一度の休日とあって大阪まで出て来た。 いま茶屋町のマクドナルドでこれを書いている。 緊急事態宣言下の大阪は意外にもひとが多い。 ほとんどがビジネスマンだけれど、ことマクドナルドに限ってみれば、ただ気晴らしに時間を潰しているようなひとも割合に多くいる。 かくいう私もそうで、不要不急の外出をしている不届き者のひとりということになるだろう。 しかし、部屋にすっこんでばかりいてはメンタルが荒廃してしまう、悲観的になり自暴自棄になってしまう。 私は在宅で仕事をしているので、図書館や買い物に行くほかほぼ外出…

  • 作家と専門性

    作家を志したひとなら、何を書くかと同じくらいに何を読んだら良いのかと、頭を悩ませたことが一度や二度はあるかもしれない。 乱読かそれとも、ひとりの作家に集中すべきか。 私は、昔から作家にも専門性が必要だと思っていた。 二十代のころ読んだ作家に、遠藤周作がいる。彼は生涯、フランソワ・モーリアックを追いかけた。 カトリック作家として彼は、方法論から生き方までその範を先輩に求めた。 ほかに私は村上春樹も熱心に読んだ時期があり、彼はフィッツジェラルドから長く知的教養の糧を得ている。 海外の作家では、私はレイモンド・カーヴァーをよく読み、カーヴァーもチェーホフを生涯の先生として生きた。 私が好んだ作家はた…

  • 小説を手書きするとゾーンに入りやすい。

    長い間、原稿用紙で小説を書いて来た。 手書きには、思い入れがあり、パソコンやスマホで文章を書くことにはじめだいぶ躊躇した。 パソコンは、便利であることはもちろん知っていたし、生産性が格段に高くなることは、それを使うまえから分かりきっていたことだった。 例えば、新人賞に小説を出す場合、手書きだと書き上げた原稿を清書しなければならない。 清書とはいってみれば、きれいな字で別の原稿用紙に書き写すだけなのだが、これが案外たいそうな作業で、場合によっては第一稿を書くのと変わらないくらいの時間を食う。 ところがパソコンで書いたなら清書はいらないので、労力が半減する。 つまり、パソコンなら、もうひと作品書け…

  • 小説を書くのに必要なのは、連想力。

    晴れた朝に、窓に映る陽の光が、生暖かいワイキキのビーチを思わせる。確かにいま東京にいるのに。 多少なりとも小説や詩に親しんだことがあるひとなら、こういうふうな錯覚をおぼえることがあるだろう。 美しいものを、日常のなかにとどめておきたくない。あるいは、ひどい汚いものを見ても、そこにノスタルジーを映してしまう。 梶井基次郎が「檸檬」で書いた、異郷への憧憬というのも、彼独特の感性というよりは、もっと一般的なものなのだろう。 僕が住んでいる地域には広大な公園があって、緑豊かで大きな池もいくつもある。 あるランニング中の女のひとが桃の木のたくさん植わった丘を見て「オーストラリアみたい」と言った。 またこ…

  • ブログは、読者目線が大事。でも、書き手のスタンスも大事。

    ブログを始めて、10記事以上は書いた。 そのすべてに私はSEOは考えていない。見返して、もう少し対策をこうじようかな、と思うときもあるが、そうしてしまうと始めに立てた私の計画が狂ってしまう。 私は、このブログをエッセイを目的に書いていて、アフィリエイトサイトにしようとははなから考えていない。 読者のマインドを取って、オンラインサロンに誘導するなんてこともしない。そんな能力もない。 あくまでエッセイブログ、私は愚直にそれをやって行く。 しかし、ブログであるのだから、ある程度は自分の欲望をおさえる必要はある。 書くひとの欲望とは書きたいことを書きたいように書く、ということで、読者を置いてきぼりにす…

  • 良い文章は、外に向かう。

    ブログにも当然、読まれるものがあり、読まれないものがある。 読まれるブログには共通しているものがある。外への意識だ。 自分のことを語っているようでも、実はそれで社会批判をしていたり、そうでなくても、自分ではない誰か、何かに繋がろうという努力が見える。 私は、最近、あるひとの日記ブログをたまたま見た。彼は日常の経験をただ記録しているに過ぎなかった。 それでいながら、日に何千ものアクセスがある。一見くだらない日常の記録の羅列がどうしてこうも支持されるのか、私には理解できなかった。 しかし、よく読むと彼は、ひとの興味をそそるような経験をやっぱりしているのだ。 恋愛をしようとしたり、長くニートを続けて…

  • 芸術家は、作品制作と宣伝活動を割り切って考えること。

    「およそ芸術家であるということは、計量したり数えたりしないことです」 リルケの言葉。彼は、行く年月について気にとめるほどのことはないといと言っている。 孤独のなかで育つ芸術家の生活は、けっして時間的なものさしでは測ることはできない、十年も無にひとしい。 しかし、この言葉は、他のいっさいの計算にも当てはまるんじゃないかと私は考える。 例えば、作家であるなら、自分の作品がいくら売れたか、というのはかなり大きな懸案で、売れなければ食うために別に仕事をしなければならない、そうなると次の作品に取り掛かる時間が大きくさかれてしまう。場合によっては一作書くのに何年も掛かってしまう。 だから、落ち着いて作業を…

  • 芸術は、自己実現ではない。自分を無くすことです。

    朝起きて、ご飯食べて、散歩に出かけ、帰って読書をし、夜になったらまた散歩に出かける。 体が元気であればたいていこういう日課だが、それで退屈だとか思ったことはまずない。 むしろ、まだまだ刺激が多くて、それらをどうやって減らして行ければ良いか頭を悩ませることの方が多い。 刺激は、ブログを書き始めて格段に増えてしまった。 私はこのブログを金儲けで始めたわけではなかったし(でも小遣いくらいはやっぱりほしい)、人気者になろうともつゆ考えなかったが、いろいろと情報を集めているうちに、やはり金が欲しくなったり、そのためにブログが人気にならなければと考えてしまったりした。 それが、私を落ち着かせない刺激の原因…

  • ブログでエッセイを読まれるコツは、キーワードと記事の統一感。

    ブログでエッセイを書くと、必ずはじめの段階で孤独になる。 ほかのビジネス目的のサイトよりもそれはずっと長引くだろう。 エッセイという形式は、そもそもがSEOには向いていないので、検索されにくいし、かりに何かの間違いで検索から閲覧されても、エッセイというだけで読まれないことも多い。 検索エンジンとは、ひとの問題を解決につなげるためのものなので、ただ漠然と感情に訴えかけるエッセイは検索するひとたちの意図にマッチしないのだ。 とはいえ、これは大ざっぱに見て、多くのひとがそうであるだけで、なかにはGoogleでエッセイを探しているひともいるし、評論を探すひと、小説を読みたいひともいる。 エッセイ記事が…

  • 系統立った読書は、知識よりも感性を育む。

    本屋のたなに並んだ本をどれでも良いから、手に取って読むというひとはまずいない。 興味がある作家であったり、本のデザイにひかれて、その本を選んだわけで、それほど意識しないでも理由はあるものだ。 私は、もの書きとしてはあるじきことかもしれないが、めったに本は買わない。数年前に買った、えらい文学者の全集をいまだにこりこり読んでいる。ほかに気が向いたものがあれば図書館で済ましている。 しかし、たまに自分への褒美として本は買う。そのときに、必ず買うべき本の基準というのがあって、それに沿うものがなければ、何も買わないようにしている。 作家を志すひとならば、分かると思うが、やみくもに乱読しても、自分の作家と…

  • 文字コンテンツは、オタク向けに作ること。

    電車のなかで、本を読んでいるひとは少数派だ。 最近になってからそうなったわけではもちろんない、私が高校生のころ、携帯電話が普及し始めたときに、もう若いひとは本を電車で読まなくなった。 携帯をいじるか、ほかにウォークマンで音楽を聴くか、そうでなければ寝ているしかない。学生で本を読むのは、ちょっとオタクっぽいひとに限られていた。 スマホが普及してから、この傾向はより顕著になった。スマホは、携帯電話とは比べものにならないくらい、コンテンツが充実している。 動画、音楽、ラジオ、小説、もはや街といって良いくらいエンターテイメントのすべてがそろっていて、いまさら分厚い本を持ち歩き、電車のなかで開いて読むな…

  • 芸術家になりたければ、スマホから離れよう。

    気が散ってものがよく書けないときは、リルケの手紙を読むことにしている。 彼が手紙で主張したいことははっきりとている。「孤独になれ。ほかに慰めを求めるな」 とくに芸術を志すならば、この困難な道を選ばなければならない。 誰かに認められたり、認められなかったり、報酬があったり、なかったり、そんなことは瑣末事でしかない。 すべて真実を書こうとするひとは、貧しく、かえりみられず、むしろ、迫害されているようにさえ感じるときでも、その境遇を喜ぶものだ。 リルケは、手紙の相手である若い詩人にそう諭し、自身もこの困難な道を歩んだ。 私がブログを始めたのは、正直に言うと、日記を書くことで、わずかでも収入が欲しいと…

  • 作家は、自己顕示欲だけでは書いて行けない。

    先日のブログにて私は、作家とは自己顕示欲の塊だ、というようなことを書いた。 それは、作家のある部分はそうであろう、ということであって、作家の活動の動機が自己顕示欲ですべて説明がつくとは、私も思っていない。 自己顕示欲というのは、確かに、創作するうえで不可欠ではあるし、作家は他の一般的な職業に就くひとにくらべ、その欲求は強いだろう。 しかし、文学をながい期間にわたって続けようとするなら、作品をたんに他人に見せびらかせようという欲望のみでは、目的は達成されない。 文学とは自分のみでは成り立っていない。自分が書きたいから、書くのであるが、その根本的な動機というのは、真理なり、美なり、そうした容易に説…

  • SEO対策ではなく、作家性を育てること。

    ブログを書き始めた理由は、創作活動の一環として、自分の名前をひとに知ってもらうためだ。はなからSEO対策などするつもりはない。お役立ちサイトのように、ひとの悩みを解決するということもない。あくまで、このブログはエッセイが主であるので、自分の感性を自分の視点でもって書いて行くだけだ。それ以外にない。このブログで膨大なアクセスを期待するのでもない。収益に期待するのでもない。情報発信という考え方も私にはない。ない、ない、ない、ないないだらけだ。 とはいえ、ひとに知ってもらいたいと思うのであるから、それ相当の読者には期待しているのだ。私は、インフルエンサーのように、自分の発言ひとつで、大きなお金を動か…

  • phaさんの「全てのことがめんどくさい」は、至言。

    phaというブロガーがいる。彼のTwitterのプロフィールに「全てのことがめんどくさい」と書かれてあった。そのコメントのとおりに、彼のTweetも脱力系の典型のようになっている。まじめに毎日働いているひとに対して挑戦的ともなりえるような内容でもあるのだが、いやむしろ、まじめがゆえに苦しんでいるひとに共感と希望とを与えないだろうか。まじめなひとは、まじめであるがゆえに、悩みを抱え込みがちで、息のつきかたも、なげやりなひとにくらべてはるかに下手くそだ。彼は、猛烈に働くこともできるが、深刻な病気にかかることもある。猛烈さは、たがが外れると、自分自身をきずつけてしまう。 まじめに働くひとは、「全てが…

  • 景色を求めてもっと遠くへ。その先に、答えはあるのか。

    あんまり歩きすぎると、体より先に、頭のほうが疲れてしまう。毎日、決められた作業のように、公園を一週しているのだが、ときどき欲張って、遠出を試みることがある。はじめのうち、見慣れない景色を楽しみ、空想にそれを重ね合わせたりして、ただ歩くだけで、他にかえがたい幸福感がある。しかし、それも数時間も過ぎると、景色も目に入らなくなって、いつの間にか仕事のことや、そのほか瑣末な悩み事で頭がいっぱいになってしまう。景色を楽しみにちょっとした旅行に出たはずが、頭はすでに日常へと帰ってしまっているのだ。 それと似たことは、やはり、自転車に乗っているときにも起こる。私は、奈良の香芝市に住んでいるのだが、ひまができ…

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