この世界は、「心」によって作られていると言えます。「心」を通してしか世界を見ることができないので、そうなります。(・ω・)しかし「心」はなぜかいつも欠乏感でいっぱいで、それを埋めようとしています。そして、何かテキトーなものでそれを埋めます。でもそれは、「
うん、最近、書くことが思いつかない(・∀・)私たちニンゲンは、いつも「こころ」や「あたま」の中を操作しようとしていることに気づいてください。あせっているときは、落ち着かせようとするし、落ち込んでいるときは、元気をだそうとするし、混乱しているときは、整理し
ちょっと、お遊びをしてみましょう(´∀`)ノまず、あなたは「神様」です。自分は実は「神様」だと思ってください。正確には「神様だった」かな。そう思ってみてください。どんな「神様」でもいいです。「仏様」でもいいです。ヤーヴェでもアラーでも、阿弥陀仏でも大日如来で
私ウリエルには、みなさんが、「本来の自分」に戻ったとき、何が見え、何を知るのかはわかりません。みなさんには、みなさんひとりひとり、それぞれの『真実』があり、それは他の人と比べたりすることができません。「オリジナリティ」と言ってしまえば、そうなるのですが、
とても簡単なことです。これは、まだ「本来の自分」がよくわからない人でも、ちゃんと知っていることです。(・∀・)この世界には本当にたくさんのニンゲンがいるけれど、「不安や悩みがない人なんていない」ということです。こんなこと、実はとっくに知っていたでしょう?
「すべて大丈夫」(・∀・) このメッセージは、24時間休むことなく発信されています。たったこの『いま』も。「なーんも問題ない」「万事良好。うまく行っている」どこから発信されているのかは不明。それを見つけたり、何か理由付けをすることは出来ません。それを言葉で
スピリチュアルではよく、「人生に意味はない」って言いますよね。「この世界に意味はない」ってのも、よく言います。(´∀`)「ああ、そうなんだ。意味なんてないのか。あるとばかり思っていた。本当はないんだ……」(´・ω・`)と、そこで止まってしまうんですよね。「ある
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この世界は、「心」によって作られていると言えます。「心」を通してしか世界を見ることができないので、そうなります。(・ω・)しかし「心」はなぜかいつも欠乏感でいっぱいで、それを埋めようとしています。そして、何かテキトーなものでそれを埋めます。でもそれは、「
「見てるだけー」(・∀・)を、続けていると、やがて、見ている主体と見られている対象がなくなっていることに気づきます。本当に「見ている」しかない(・ω・)これを言葉でどう言えばいいのかわからないのですが、ただ「気づいている」としか言いようがないです。「気づ
「苦」を経験せず、「快」だけ経験することは、できません(・∀・)このことを受け入れるだけで、「苦」と「快」の両方から離れることができます。すると、すべての可能性が開かれます。どういうことでしょうか?(・ω・)個人の「私」として生きていると、うまくいかない
人生を変えるとか、自分らしく生きるとか。書店にふらっと立ち寄ると、そんな本がズラーっと並んでます。いったいどれを読んだらよいのでしょう?(・ω・)「自分らしく生きるために読む本の選び方」という本が欲しいくらいです(`-ω-´)本を手に取るとき、何らかの「意図」が
おはようございます。「朝」(・∀・)つです。私ウリエルは「朝」を、とても大事にしております。一日の始まり。まだ何も起こってない。この時間にこうして記事も書きます。大体、昔から「早起きは三文のトク」とか、「朝日を浴びるといい」とか言いますので、朝にはなんかある
「ひとりじゃない」というフレーズ、ときどき出会います。昨日、テレビ見てたら出会いました。(・ω・)誰にでも仲間や味方がいるよとか、みんなと繋がっているよというような意味で言っているのでしょうか。だとしたら、ずいぶんとテキトーで無責任な感じがします。そのフレー
誰もが不安を感じて生きています。「誰もが」です。(・ω・)このことを忘れてはいけません。そして、人格を持った「個人」でいる限り、不安がなくなることは、ありません。(´-ω-`)これを受け入れてください。受け入れると言っても、「人って、そういう運命なんだ……」(´-
ものごとはひとりでに起こり、成就します。(^ω^)これは思考ではわかりません。思考はどうしてそうなるか理由がないと、理解できないからです。しかし、「ものごとはひとりでに起こる」に、理由なんてもんはありません。ただ、そうなんです。「ものごとはひとりでに起こ
何かを「する」とか「しない」とか(・∀・)ノこの「する」とか「しない」から解放されたとき、私たちは「自由」になります(´∀`)私たちは自分の意思で「する」とか「しない」をするという病気にかかっていると言ってもいいです。「する」「しない」病(・∀・)です。もの
誰もが自分は「正しい」と思っているわけです。(・∀・)ノけれど、この世界にあるものや起こること、「事実」には正しいも間違いもありません。ただ「事実」です。「正しい」は、「心」が勝手に作り出した判断基準です。「心」というのは、いろんな判断基準を勝手に作って、
自分がいるからこそこの世界がある(・ω・)ノ「気づき」、「目覚め」とは、こういう見方になるだけです。なんとなくそう感じた経験がある人も多いんじゃないかな。私ウリエルは子供の頃、「なんかそうなんじゃないか」と、よく思いました。「自分がいるから、世界がある」こ
人には「承認欲求」てなもんがあります。(・∀・)ノ人から認められたいという欲求です。こいつがあるから、人に嫌われるのが怖かったり、孤独や居場所のなさを感じたり、他人と衝突したり、劣等感を抱いたりと、いろんな「苦」が生じるわけです。しかし、ものの本などには、
「受け入れる」(・∀・)スピリチュアルで常に語られていることです。なぜなら、私たちは常に何かを受け入れていないからです。でも、「だから受け入れなさい」とか、「受け入れましょう」と言うのは、ちがいます( ̄ー ̄)ここで、もういちど「受け入れていない」を、よく見
「人生を変えたい」「自分を変えたい」そう思うことが人にはあります。だからこそ、スピリチュアルなんてものに首を突っ込んだのかもしれません。んで、( ・Д・)そのスピリチュアルの教えで、実際に変わったという人はいるのでしょうか? (´・ω・`)ひとつの大原則がありま
「身体と心は自分ではない」(・∀・)この静かな「気づき」だけが実存しています。身体と心が自分でないのなら、自分は何者なんだろうと知る必要はありません。というか、知ることもできません。ただ、「身体と心は自分ではない」(・∀・)と、気づいているだけなのです。
「自由」(・∀・)「自由」って何でしょう?(´・ω・`)何かに誰かに拘束されたり、強制されたり、支配されたりしないで、自分が思うように生きること。まあ、こんな感じに考えている人がほとんどだと思います。でも、これはいわゆる、人の世の「自由」であって、「心」にと
唯一、この『意識』だけが実存しています。(^ω^)この『意識』以外のものは、すべて『意識』の中に現れているものであって、実存はしていません。つまり、知覚できるものはすべて『意識』の中に現れた「まぼろし」(・∀・)なのです。インドではこのまぼろし、幻想を「
「観察者」になって「心」をただ見てるだけー。(・∀・)やることはこれだけなんです。ハイ。なんでこれだけでいいのかは、私ウリエルにもわかりません(´∀`)ただこれだけでいいと、ただわかったので仕方ありません。そこに理由や理屈がまったく存在しません。不思議です
「心」を自分だと思うのは、間違った思い込みにすぎません。そもそも、「私の心」とか「自分の心」と、誰もがフツーに言っています。「心」は私とか自分の所有物だと言っているわけです。つまり、「心」は私でも自分でもないと、みんな大っぴらに言っているわけです。さては
「幸福」(・∀・)「幸福」を「心」の状態だと考えていると、エネルギーを防御に使い続けることになります。「幸福」というのは「心」の状態ではありません。真の「幸福」は「心」とは無関係にあり続けるものです。(・∀・)そして「心」だけでなく、他のあらゆる観察でき
「気づき」、「目覚め」というのは、自発的に起こるものです。(・∀・)「自発的」なわけで、何か努力して獲得するものではありません。また、徐々に段階を踏みながら深まっていくもので、一度や二度の「気づき」ですべてが開放されるものでもないです。そして、その深みに
「本来の自分」(・∀・)身体は「本来の自分」、すなわち自分ではありません。んで、思考もこの身体に属しています。身体がなくなっちまうと、考えることもできなくなります。なので、頭でいろいろ考えることも、自分ではないのです。このような態度でいてください(・∀・
よくなかった体の調子も、いくぶん回復してきた。記事でも書こう。(・∀・)ノしかし、年齢でしょうかね。だんだん無理がきかなくなって、体調も崩しやすくなってきたなー。これも、そういう流れなので、これでいいんでしょう。さて、まず言っておきますが、今回の記事はとて
ごきげんよう(・ω・)ノ記事を書くことを休憩しておりました。というのも、私ウリエルが何か大きな「移行期」のようなものに差し掛かっているようで、今はまったく何も「わからない」のです。まったく「わからない」、未知の世界に進んで行っているようです。(・∀・)少年か
さてさて、私ウリエルの日常も少し平静さをとりもどし、WBCもオータニさんの独壇場で、最高の結果で終わりましたので、また、ぼちぼち記事を書いていきましょうかと。それにしても、まるでオータニさんのために大会をしたみたいでしたね。(^ω^)人生は野球のように「
ちょっと今、いろんなことが一斉に起こってバタバタしているせいか、記事を書くことが思いつきません。( ̄ー ̄)いつもなら、なんかテキトーに思いついて、テキトーにパパっと書いて行くんですけどね。勝手に手が動いていく感じで。まあ、こんなときもあるんでしょう。という
人は欲深い生き物です。(`-ω-´)常に何かが欠けている、何かが足りないと感じています。本当は何も欠けてなんかいなく、常に満たされた「豊かさ」の中にいるのに、なかなかそれを認めることができません。(`-ω-´)だからといって、欲深さを否定し、それを消してしまおう
私たちの生活の中には、刺激がいっぱいあります。(・ω・)でも、いっぱいありすぎて、それが刺激ということにさえ気づかなくなっています。初めて携帯電話を手にして、初めて誰かに電話したときのことを覚えているでしょうか?私ウリエルの世代の人なら、そのときのビックリや
人生というのは、放っておけばいいのです。ハイ。「なんとかなる」のです(´∀`)計画や策略を練る必要はありません。「起こること」を受け入れるだけです。最初から目的もないので、何も期待もしていません。それでいいのです。流れに任す運命に従う手放し、サレンダー(降
ちょいと私事ですが(・∀・)先日、父が入院したときに、父の肝臓にガンが見つかりました。検査をいろいろして、結果的に手術とか外科的なものは無理。抗がん剤治療しかないのですが、高齢で糖尿病なので、それに耐えうる体力が果たしてあるか……( ̄ー ̄)よーするに、「治
あなたには無限のお金があります(´∀`)ノ突然ですが、これは真実です。ハイ。「あ! 本当だ!」( ゚∀゚)!と、なった人は幸いです。うん、ありますよね。(^ω^)感覚というか、思考を超えたところの理解です。なので、思考では理解できません。まあ、無理やり言葉にする
とても言葉では言い表せない感覚になってます。( ̄ー ̄)私ウリエルが生きている世界は、たぶん、みなさんも同じだと思いますが、原因が先で、結果が後こうなっていると思います。何か原因があって、その結果こうなった。今こうなっているのは、その前にこういう原因があった
誰にでも気分がすぐれないときがあります。……( ̄ー ̄)なんとなく憂鬱とか、なんだかヤル気が起きないとか、何も考えたくないとか。なんかモヤモヤする。なんか気分がよどんで落ち込んでいる。……( ̄ー ̄)そんなとき、「ちょっと気分転換したほうがいいかな」と、楽しいこ
感謝するとか、感謝しようとか、感謝しなさいとか、そういう言い方に、ウリエルはずっと違和感を感じていました。(´・ω・`)そもそも、「感謝する」って、なんやねん?感謝って、「する」ものか?……(´・ω・`)?感謝って、自然に湧き起こってくるもので、わざわざ「する」
誰もが、エネルギーというか、振動、波動というか、そういったものを発しています。それが粗い人もいれば、細やかで繊細な人もいます。「レベル」という言葉は、あまりつかいたくはないのですが、細やかで繊細であればあるほど、意識レベルが「本来の自分」に近づきます。俗
この世界にはいろんな人がいて、いろんなものがあり、いろんなことが起こります。つい、私たちはそんないろんな人や物事や出来事が、自分の人生に影響を与えているように思いがちですが、実は、どんな人、もの、出来事も、人生に干渉したり、影響を及ぼすなんてことは、あり
「本来の自分」というのは無限に広がる意識です。(・∀・)私たちは、最初からこの無限に広がる意識なのです。その中に枠を作って「私」という個人を演じているような感じです。また、無限に広がる意識の中で、小さなカタマリのようになって、縮こまって「私」になっている
誰にでも、「目を逸らしていること」があります。(`-ω-´)意識的に目を逸らしている場合もあれば、気づかぬうちに無意識に、という場合もあります。考えることを避けていること、大丈夫だと言い聞かせていること、などがそれです。他にもいろんな形で現れています。(´・ω・
入院している父や病院から、良い知らせも、悪い知らせも届きます。(・ω・)良いと悪いがコロコロと入れ替わるように届くので、まさに一喜一憂です。良い知らせがやってくると、もちろん、よかったと思います。逆に悪い知らせがやってくると、心配したり不安になったりします。
「私」って、おもしろいと感じませんか?(・∀・)様々な側面を見せてくれて、まるで百面相です。「私」はこの世界を体験するのに、必要不可欠な道具です。「私」というのは、この肉体であり心です。「私」ウリエルはそんなふうに見ています。(^ω^)この「私」は、人生