世界史から現代史に至るまでをまとめました。試験・入試対策として活用できるようストーリーを中心に解説。記事を体系化して目次も作成しました。
百年戦争が続く中、ブレティニー条約でフランスの一部領土をイングランドに譲渡、捕虜となっていたジャン2世は身代金を支払うことでフランスに復帰する。長期にわたって続いていたブルターニュ継承戦争も終結し、百年戦争は一旦小休止する。その中で、教皇がローマとアヴィニョンに並び立ち、教会大分裂が発生する。
カペー朝が断絶して、王位に選出されたのがヴァロワ家のフィリップ6世であった。イギリスは経済発展を遂げ、急速に台頭するなか、フィリップ6世の治世でフランスを舞台とした百年戦争が起きる。相次ぐ戦争の中、ペストが流行し、ブルジョワは貴族と対立、農民は搾取され農民によるジャックリーの乱が起こるのだ。 ヴァロワ朝の歴代王フィリッ
【フランス王国の歴史】アヴィニョン捕囚とテンプル騎士団の消滅
フランスは、十字軍への情熱が薄れていく中、フィリップ4世(端麗王)のもとで近世化していく。その一方で、フランス王国の財政は次第に厳しくなっていき、お金を捻出するためローマ教皇と対立、教皇庁をアヴィニョンに移動させた。さらに、フィリップ4世は、テンプル騎士団が保有する莫大な財産に目を付けるのである。
【フランス王国の歴史】アルビジョワ十字軍とシチリアの晩祷(ばんとう)
1096年より開始された十字軍は、回を重ねるたびにその情熱は薄れていきます。今回は、アルビジョワ十字軍、第5~8回までの十字軍とシャルル・ダンジューの両シチリア王国で起きたシチリアの晩祷(ばんとう)を時系列で流れを追っていきます。
十字軍によりフランスとローマ教皇の関係は親密となり、フランス国王の力は増していきます。前回に引き続き十字軍、そしてフランス、イングランド、アンジュー家の盛衰を絡めながら追っていきます。 フランス王国カペー朝の歴代王ユーグ・カペー(987年ー996年)ロベール2世(996年ー1031年)敬虔王アンリ1世(1031年ー10
【フランス王国の歴史】カペー朝成立から第1回十字軍までの流れ
今回は、フランス王国の流れを追っていきます。教会の堕落をグレゴリウス7世による改革で権威を取り戻すと、十字軍が発足した。そして王権が弱かったフランスは十字軍をきっかけにして権威を取り戻すことになる。その一方でノルマン人は、イギリス、南イタリア、アンティオキアまで勢力を拡大した。
アレクサンドロス大王は、東方遠征を開始した。小アジアに上陸した直後、グラニコス川でペルシア軍と激突する。そこで勝利を収めると快進撃が続く。イッソスの戦いではペルシア王ダレイオスを逃亡に追い込むのだ。そこからペルシア帝国の衰退が一気に加速していくのである。
アレクサンドロス大王(序章) マケドニア・ギリシア・ペルシアの因縁
アレクサンドロス大王の話しに入る前に、マケドニアとギリシアおよびペルシアの関係を過去にさかのぼって見ていく。 ギリシア 王は存在せず、複数のポリスを形成しそれぞれが独自の自治を行っていた。ポリス間の争いが絶い。 マケドニア ギリシア人が建てた王国。ポリスを形成せず王を頂点とした支配体制を築いていた。ギリシア語を使用し、
今回のテーマはフューダリズム(封建制)です。フューダリズムは農奴あっての制度です。フューダリズム(封建制)を構成する要素である、荘園、農奴、臣下を順を追って見ていきます。インムニテートにより、貴族の保有領土に対し国への納税義務が免除され、王国役人の立ち入りを拒否できるようになりました。保護された領土を荘園といいます。
今回は、フランク王国の分裂前後から大きな動きがあったノルマン人をフォーカスしていきます。ノルマン人は、北方系ゲルマン民族の一派で、古代からスカンディナヴィア半島で生活をしていました。彼らは、漁業を中心にして生活していたことから、高い造船技術と航海技術を持っており、彼らの移動手段は主に船でした。古代ローマの時代では、スカ
回は、メルセン条約でフランク王国が分裂した後の動きを追っていきます。東フランク王国はザクセン朝が開かれ、ドイツ王国へ。そしてベーメン王国・イタリア王国を併合し、神聖ローマ帝国へと変遷します。西フランク王国はカペー朝が開かれフランス王国となります。周辺では現在のヨーロッパを形成する元祖となる王国が次々と建国されます。
ピピンの寄進後、フランク王国の領土はさらに拡大します。そして、ピピンの子カールは、カールの戴冠により西ローマ皇帝となり、東のビザンツ帝国と対をなす西ヨーロッパ世界の基礎を作り上げていきます。 今回は、フランク王国にフォーカスしてピピンの寄進後からフランク王国の分裂までの流れを追っていきます。 フランク王国の領土拡大
西のローマ=カトリック教会と東のコンスタンティノープル教会の対立が深まり、ローマ=カトリック教会は孤立化していきます。その中で、ローマ=カトリック教会は、フランク王国との協力関係を作り、東に対抗します。このように、キリスト教会の東西対立は鮮明化し、後に分裂へと繋がっていきます。ここまでの背景
今回も引き続きゲルマン人国家と東ローマ帝国の動きを追っていきます。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世が、ローマ帝国復興をかけてゲルマン人から領土を奪い返しました。その後のお話をしていきたいと思います。要点は以下の3点。東ローマ帝国の領土縮小 西ゴート族の滅亡 イスラム帝国の強大化
375年に始まったゲルマン人の大移動は、ゲルマン人国家の成立と西ローマ帝国の滅亡へと繋がりました。 そしてゲルマン人国家は、ローマ帝国で異端とされたアリウス派を受け入れていきます。ユスティニアヌス1世がゲルマン人国家を次々と滅ぼす中で、フランク王国は勢力を拡大し、クローヴィスの改宗が行われます。
今回のテーマはゲルマン人の大移動と西ローマ帝国の滅亡です。その前に、この大移動が起こる以前のゲルマン人のお話をしておきます。ゲルマン人はローマ帝国の北方に住んでいる民族ですが、かなり前から安定した職を求め、ローマ帝国に少しずつ移住して来ていました。ローマ帝国はそのころから敵であるゲルマン人を傭兵として大量に雇い、軍隊の
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