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  • 生産性運動と動労 動労から見た生産性運動とは 第1話

    長らく間が開いてしまいましたが、今回から動労と生産性運動と言うことで、動労から見た生産性運動についてお話をしたいと思います。 今回参考とするのは動労三〇年史を参考に他の資料などを参照しながら書かせていただきます。 当然のことながら、動労視点での記述ですので、動労に都合のよいように解釈されている部分が多々あるかと思いますが、その辺は割り切ってご覧いただけますことを最初にお断りしておきます。 動労が語る生産性運動とは 動労からみた生産性運動の目的は以下のように記しています。 生産性運動は、政府・自民t脳・国鉄当局の合理化計画は本質的矛盾(国費で行うべき設備投資を国鉄だけに添加してきたことに起因する…

  • 生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第七回

    久々にアップさせていただきます。 今回は動労の三〇年史を参考に、アップさせていただきます。 動労は、ヨンサントウのダイヤ改正に向けて合理化反対闘争の観点から、当局が示した、5万人要員合理化案の撤回を求めて1968(昭和43)年6月10日、当局に合理化撤回を中心とした33項目の申し入れを行ったが、折悪しく6月27日に膳所駅で脱線事故が発生しました。 この事故の直接の原因は機関士・機関助士両名が運転中に居眠りしたためであり、その概要は弊サイト国鉄があった時代には以下のように記述されている。 東海道本線膳所駅構内で上り貨物列車が脱線転覆して本線と京阪電車を支障、機関士の居眠りが原因 6/27 0時2…

  • 生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第六回

    ほぼ5ヶ月ぶりに更新になります。 長らく開けてしまって申し訳ございません、動画の作成なども重なり中々時間がとれなかったと言い訳をしておきます。苦笑 動労の行った機関助士反対闘争は、それまでの機関助士の処遇をどうするのかという問題もあり、国労以上に動労には切実な問題でした。 弊blog 日本国有鉄道 労働運動史 国鉄労働組合史詳細解説 22-3 を参照しますと、最終的には動労は、夜行列車などにおける機関助士常務を認めさせたほか、廃止される機関助士にあっては、EL・DL乗務助士9,000人中、約3,500人の存置の確認、 廃止助士については、機関士検査係へ逐次登用させることで、一定の整理を図れたと…

  • 生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第五回

    ほぼ一ヶ月ぶりに、一人乗務反対闘争の記事をアップさせていただきます。 今回も、動労の資料、動力車乗務員史をベースに、当局側の視点、鉄労の視点などを絡めながらお話を進めさせていただきます。 今回引き続き、動労三〇年史から引用を行いながら、お話を進めたいと思います。 当時の合理化闘争、特にEL・DL機関助士廃止反対闘争に関しては、動労は絶対反対の立場、国労は条件闘争の為のきっかけ程度であり、その温度差は大きなものがあり、特に機関助士廃止反対闘争は、どちらかというと動労単独の闘争と言っても良く、この闘争では大幅に組合員を減少させることとなり、その失敗が国鉄分割民営化時の露骨とも言える掌返しに繋がるの…

  • 生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第四回

    いよいよ本題である、機関助士廃止反対闘争に入っていきたいと思います。 今回参照するのは、動労の年史 動労三〇年史を参考にしながら検討を進めていきたいと思います。 反対闘争のきっかけは、ヨンサントウとも深い関係が 国鉄では、動力近代化を進める中で蒸気機関車の廃止を積極的に推進することとして、昭和50年末には蒸気機関車を全廃する方向で進められることとなりましたが、電気機関車・デーゼル機関車の場合、蒸気機関車では必須であった機関助士はその業務が殆ど信号確認だけとなることから、検修の変更と相まって機関助士の廃止も大きな問題となってきました。 国鉄では積極的に合理化対策を打ち出す反面、動労はこうした動き…

  • 生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第三回

    長らく開けてしまいましたが、生産性運動前に行われたEL・DL一人乗務反対闘争のお話をさせていただきます。 此処で参考にしたのは、当局が編纂した国有鉄道と呼ばれる雑誌を参考に、一部国労・鉄労・動労の資料等を参照しながら記してみます。 当時の動労は、主流派と呼ばれるグループと反主流派が常に激しく対立しており、組合内でのその勢力は徐々に反主流派が力を付けていく、そんな時代でした。 今回は昭和40年の動労大会に関する様子を中心に、動労の様子を「国有鉄道」という冊子から引用してみたいと思います。 当時の動労は主流派と呼ばれた(機関車同志会)と呼ばれる穏健派と、反主流派(政研派)が争っていたようで、徐々に…

  • 生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)第二回

    2ヶ月ほど放置状態になっていました。 申し訳ありません、今回も国鉄の生産性運動前後の国労、動労の動きと言うことでお話をさせていただこうと思います。 動労の松崎委員長とは 動労と言う組合は、国鉄末期には革マル派という答えが返ってくるかも知れませんが、委員長の松崎明が、革マルの幹部であったことからとも言われました。 更には、鉄労と協調して労使協調宣言すり寄っていくイメージを持たれる方も多いかと思いますが。 動労が過激な方向に走り、革マル派が増えた背景には、当時の動労の委員長松崎明の存在が大きかったと言われています。 動労を過激な運動組織にしていった背景には松崎の存在が大きいと言えそうです。 「国鉄…

  • 生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に(EL・DL一人乗務反対闘争)

    動労と生産再運動と言うことを検討する前に、もう少し時代を遡って、動労による機関助士反対闘争についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。 動労の行った機関助士反対闘争とはどのようなものだったのか? 動労による機関助士反対闘争は、昭和42年3月に国鉄当局が5万人合理化の一環で打ち出したもので、 国鉄各組合に五万人の合理化案を発表 3/31 国鉄当局、三労組に対し第三次長期計画のための近代化・合理化案を提示。国労・動労、「合理化」案に対し断固撤回を求めると抗議声明 3/31 ということで、特に機関車乗務員を多く擁する動労では、EL及びDLにおける機関助士の反対運動を強く打ち出していました。 そ…

  • 生産性運動前後の国労の動き、動労の動きを中心に

    久々に更新させていただこうと思います。 生産性運動に対して有効打を打てないままの国労にあって、国労はこの後動労と一緒に反撃に出るわけですが、ここで少しだけ寄り道して、当時の組合を取り巻く事情を考慮してみたいと思います。 生産性運動への反対は青年による突き上げが大きかった 有効打を打てないままずるずると追い詰められていった国労ですが、ここで少しだけ当時の動労の様子も見ていきたいと思います。 この頃の国労も動労も生産性運動に対する有効な打開策は見つかっておらず、国鉄当局自身が生産星運動は経営哲学であるとして、ここまで進めた以上当局もおいそれと看板は下ろさないであろうと、その反面、国労も動労も理念だ…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二十九話 国労による生産性運動の反撃 国労権利闘争史から 第2回

    国労視点から見た、生産性運動 国労は当初は軽く見ていた生産性運動ですが、その動きは燎原の火のごとく広がりを見せ、毎月減少していく組合韻を目の当たりにして強い危機感を覚えるのですが、これといった有効打を打ち出せずにいました、そもそも国労では、生産性運動そのものについては、以下のように捉えていました。 国労から見た、生産性運動は 鉄労組合員の育成 ストライキを行わせない組織の構築 分会組織の分断、並びに弱体化 にあると考えていました。 実際、当時の鉄労では一〇万人加入を目標に行動しており、当時の職員数は四〇万人ほどいましたので、一〇万人を達成すればかなりの力を持つことになるわけで、鉄労としてもこれ…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二十八話 国労による生産性運動の反撃 国労権利闘争史から

    今回は、国労編纂のより、国鉄労働組合四〇年史を参照しながら、生産性運動に関しての国労の言い分を見ていきたいと思います。 生産性運動と深刻な国労離れ 生産性運動は、職員の意識改革を図るものということで、国労・動労から脱退して鉄労に加盟する組合員も増えていきました。 これに対して、つなぎ止めるための方策を練るわけですが、妙案は有りませんでした。 また、国労自身は、1970年の秋頃まではさほど重要視はしていなかったと自ら告白しています。 むしろ、国労本部には、「反合理化闘争」と「スト権奪還闘争」に主眼が置かれていたと言われています。 国鉄労働組合四〇年史では以下のように記されています。 運動の軸は、…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二十七話 国労による生産性運動の反撃 国労権利闘争史から

    はじめに 生産性運動は、赤字経営に陥った国鉄を改善するための方策として導入された再建計画の一環でありました。生産性を向上させることで、職員一人当たりの生産単価を引き上げることで財政を改善すると言うことは、至極当たり前と言えば当たり前のことなのですが。 昭和40年代頃から国労が取り入れた、職場の中に労働運動を、更には階級闘争と言う概念(管理者以上は資本家階級(ブルジョアジー)であり、組合員は労働者階級(プロレタリアート)であるという概念は、国鉄の大家族主義を分断するにための道具として機能してきたと言えます。 国鉄が導入した生産施運動は生産性本部が関わって教育を開始したときは十分な効果を発揮してい…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二十六話 支社制度の廃止と国鉄

    久々に更新させていただきます。 直接生産性運動とは直接関係が無いのですが、生産性運動前に廃止された支社制度についても触れておきたいと思います。 支社制度とは 支社制度とは、それまでの総支配人制度に代えて、昭和32年1月16日に発足した制度でした、それまでの総支配人制度は、北海道、東北、関東、中部、関西、四国、九州の7カ所に総支配人が置かれていましたが、総支配人には何の権限もなく、いわば中央の連絡役に過ぎませんでした。 当時の国鉄は、総裁と数人の常務理事で方針が決定されるというもので、特に本社ではスト対策等の労務管理に費やす時間が多かったことから、思い切って地域ごとに権限を委譲するというものでし…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二十五話 鉄労視点による生産性運動の意義

    鉄労からみた、生産性運動とは 今回は、国鉄民主化への道から見ていこうと思います。 鉄労による生産性運動 国鉄当局が生産性運動の導入を行う前から、鉄労では独自の生産性運動を組織拡大の一環として取り組んでいたそうです。 国鉄内の地域・職域労組の連合体であった、新国労は1968年10月20日に、単一組織化されて、鉄労に改称していますが。 その2年後、昭和44(1969)年春頃から積極的に組織拡大の一環として、生産性運動に取り組むこととし、各地で「国鉄を守る会」「国鉄を再建する会」「国鉄を明るくする会」などが設置され、組織の拡大に努めていました。 その辺を国鉄民主化への道から引用したいと思います。 当…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二十四話 国労による生産性運動に対する本格的反撃

    動労視点から見る、生産性運動の闘い 国鉄の生産性運動に関しては、決定打と言えるものが見つからず、国労も動労もじりじりと組合員を減らしていく、そんな状態でした。 特に動労は、一人乗務反対闘争などでも多くの解雇者を出しており、その救済資金などもあり、財政的にはかなり厳しい状態に追い込まれたとも言われています。 動労は、電気機関車・ディーゼル機関車の機関助士廃止を既得権益の剥奪であるとして、強力な運動を続けていましたが、最終的にはEB装置などの導入、ATSの整備などで対応できるとし、当局に押し切られる形となり、むしろその間の処分などで、当時の組合員全員から1.25ヶ月分の臨時徴収をする必要があるほど…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二十三話 国労による反マル生運動

    長らく間が開いてしまいましたが、本日も生産性運動導入から中止までということでお話を進めたいと思います。 今回は、国鉄労働組合40年史を参照しながら、国労から見た生産性運動という視点から見ていきたいと思います。 国労視点で見る生産性運動は不当労働行為 国労は、左傾化した昭和30年頃から職制の分断という視点から運動を進めていたこともあり、生産性運動のように、職制と一緒になって職場を盛り上げていくと言うことは受け入れられないという雰囲気がありました。 特に生産性運動がある程度浸透してきた1970年代の秋以降は、生産性運動の研修を終えた人たちから自発的に「国鉄を守る会」、「国鉄を明るくする会」などの親…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二十二話 国労による反マル生運動

    長らく更新でいてきていませんでしたが、改めて更新させていただきます。 昭和46年春闘に関しては、国鉄当局としては合理化の道筋を立てたいという思いから、わざとストライキに入らせようとした節もあったようで、公労協がスト回避のための調停案を出そうとしたにもかかわらず、当局は組合と交渉を続けており、公労協の合同調停委員会の委員を激怒させたと言った話も残っています。 仲裁裁定と国労 公労協が5月20日に24時間ストを計画していたのでそれを避けるべく、公労委の合同委員会【議長・峯村光郎 国鉄調停員長 金子美雄】両名は、19日夕刻から三公社五現業の賃金調停作業に入ることとなりましたが、肝心の国鉄労使が現れな…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二一話 国労による反マル生運動

    今回も、生産性運動に関するお話を、鉄労の「国鉄民主化への道」並びに、大野光基氏の「国鉄を売った官僚たち」を参考にしながら、他の資料なども参照して、お話を進めさせていただきます。 国労は、マスコミを利用して生産性運動に対抗することに 国労は、昭和45年後半から本格的な反撃に出るのですが、こうした場合、例えば国労の資料だけを見ると国労有利な記述になり、鉄労主体で見ると鉄労有利な記述となり、当然のことながら当局側視点に立つと当局有利となるのはやむを得ないところがあるのですが、どうも時期的な部分や、細かいところで見解が異なる記述があったりして、その整合性をどのように取るべきか少し頭を悩ませています。苦…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二〇話 国労による反マル生運動

    組合員の大量脱退で焦る国労本部 今回は、国労の反撃という点に絞って、何回かに分けてお話をしていこうと思います。 生産性運動は、燎原の火のごとくと表現されるほど、現場に浸透していきました。 国労は、当初は生産性運動に関しては熱心の取り組んでいませんでしたが、昭和45年11月から12月にかけて国労組合員が大量に脱退して、鉄労に鞍替えすると言う事態が発生しました。 これに関しては、国労40年史に下記のように記載されています。 少し引用してみたいと思います。 70年の11月から12月にかけて、国労本部にとっては、かなりショッキングな出来事が幾つかの地本で相次いでおこった。しかもそれは、全国規模で集中的…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一九話

    今回から、大幅に時間を戻して、再び昭和46年3月まで時間を巻き戻したいと思います。 今回も、鉄労編纂、「国鉄民主化の道」を参考に、関連する資料等があれば、それも併せてアップしていきます。 生産性運動はどのような経緯で導入されたのか? 国鉄が生産性運動を導入した背景にはどのような経緯があったのでしょうか。 この点を明らかにしないと、生産性運動だけが一人歩きしてしまいます。 生産性運動に関しては、国鉄当局としては、止むにやまれず導入した経緯があると言えそうです。 生産性運動=国鉄当局の不当労働行為だった・・・終わりでは、何故そうなったのかという部分が全く見えてきません。 国鉄が生産性運動導入に踏み…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一八話

    鉄労の運動史と、国労の資料などを参照しながら綴っていきたいと思います。 本日も主たる資料を、鉄労の、国鉄民主化の道を参照しながら随時、国労40年史を参照しながらアップさせていただこうと思います。 はじめに 今回は、直接マル生運動の話と言うよりもそれに関連する出来事、支社制度の廃止や、国鉄諮問委員会の答申など、昭和45年頃の国鉄の動きを中心にお話をしてみたいと思います。 ある意味、この時期は生産性運動がことのほか伸びて改革が進む反面、国鉄本社は、その権限を集中する権限強化などむしろ生産性運動とは真逆の方向に舵を切ったのが気になるところです。 なお、この支社制度導入を決定したのは、十河総裁ですが、…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一七話 鉄道労組のマル生運動への考え方

    久々に更新になります。 今回は、鉄労の生産性運動に関する考え方について書いてみたいと思います。 今回は、鉄労友愛会議編、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。 生産性運動と鉄労 鉄労は、元々労使協調路線でスタートした組合と言うことも有り、生産性運動は親和性の強いものと言えました。 昭和46年2月22日・23日に神奈川県湯河原で中央委員会が開催されています。これは、春闘のための会議でしたが、賃金問題よりも生産性運動に関する議論で占められたとしています。 その辺を、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。 鉄労は2月22、3の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一六話 鉄労組合員の増加と国労

    長らく間が空いてしまいましたが、久々に更新させていただこうと思います。 今回も、鉄労友愛会議編纂の、国鉄民主化への道と、国鉄労働組合40年史を参考に書かせていただこうと思います。 最初は意識もしていなかったマル生運動 国労としても当初は、マル生運動を、得体の知れない運動ではあるが、大きな影響を及ぼさないであろうと考えていたような節があります。 実際どの程度に考えていたのかは、もう少し複数の資料を探す必要があろうかと思いますが。国鉄労働組合四〇年史を参照しますと、下記のように、マル生運動開始初期には、さほど重要視はしていなかったと書かれています。 以下、国鉄労働組合四〇年史から引用したいと思いま…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一五話 全施労結成

    今回も、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道を参照しながら、適宜他の資料も参照しながら、お話を進めたいと思います。 国労は一貫して、マル生運動に対して対立姿勢 国労では、昭和45年4月11日から始まった生産性運動は、当初のは無視を決め込んでいた国労ですが、国労を脱退して、鉄労に移籍する組合員が増えてきたことなどから、国労としても危機感を抱くようになり、よく昭和46年1月12日には国労本部で、不当労働行為対策会議で組織破壊攻撃(マル生攻撃)への対応策を協議したほか、2月24・25日の拡大中央委員会では、マル生攻撃と戦う職場闘争の強化を決定するなど、組織的な対抗策を考えていきます。 この背景には、国労を…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一四話 国労のマスコミ操作と新組合の結成

    国鉄の生産性運動は、現場レベルで盛り上がりを見せており、以前から国労を脱退して、鉄労にと言う流れはありましたが、【動労も同様】生産性運動以降はその流れが顕著となりつつ有りました。 今回は、鉄労友愛会議の「国鉄民主化への道」を参考に書かせていただこうと思います。 生産性運動反対派の主流は「反戦青年同盟」 生産性運動が実施された昭和46年頃は、組合の中でも一つの世代交代の波が押し寄せた時期でした。 総評全体もそうですが、昭和21年~27年の第一次ベビーブームと呼ばれた赤ん坊が18歳から24歳くらいであり、こうした若者の中には、反戦青年委員会*1【昭和40年に総評・社会党を中心に結成されたグループ】…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一三話 盛上がる生産性運動

    生産性運動は確実に国鉄の職場で定着しつつあったが 国鉄当局の生産性運動は、順調に進み、生産性運動を受けた職員が職場に帰り、自ら実践し、そして周りの人を巻き込んでいくようになったとしています。 その辺は、昭和45年度の国鉄監査報告書に下記のとおり書かれています。 特に日本生産性本部が推進している生産性運動に関する教育が全社的に行なわれたこともあって、 職員の間に国鉄の現状についての理解が深まり、再建意欲は急速に向上しつつある。 これらの諸施策の実施にあたっては、 今後さらにその趣旨の徹底をはかり着実に推進する必要がある。 昭和45年度監査報告書 から引用 として、生産性運動が国鉄としても一定の成…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一二話

    幹部は、生産性運動に無関心 管理局の幹部も生産性運動は今ひとつ無関心でしたが、それ以上に無関心だったのは国鉄本社のキャリア組と呼ばれるグループでした。 国鉄の本社採用と言えば、いわゆる官僚コースであり、超スピード出世が約束されている存在で有り、何年間かを問題なく過ごせば栄転できるわけですから、わざわざ危ない橋を渡る必要も無いわけです。 以下は余談ですが、 郵政も同じようなもので、私も郵政局に勤務していましたので、キャリア組と呼ばれる人たちとの接触は、せいぜい部長クラスだけでしたが、ノンキャリアであれば50歳以上で到達する、部長ポスト【本省の課長クラス】に40前後で就任するわけですから。ノンキャ…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一一話

    ながらく間が空いてしまったのですが、本日も生産性運動の頃のお話を、「国鉄を売った官僚たち」、大野光基氏の本を参考に、当時の様子などを語っていこうと思います。 生産性運動は、国鉄のあり方を変える? 国鉄の生産性運動は、それこそ最初の頃は、少し首を出した亀のような感じでスタートしたわけですが、昭和46年には、国鉄の生産性運動教育は、日本生産性本部の委託教育から国鉄の経営との一体教育となりつつありました。 前述しましたが、良くも悪くも純粋な人が多い国鉄ですので、当然と言えば当然と言えましょう。 この頃の様子を、動労の松崎委員長は 国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一〇話

    引き続き、生産性運動運動時代のお話をさせていただこうと思います。生産性運動に関しては、改めて「国鉄を売った官僚たち」、並びに「国鉄民主化への道」から見ていこうと思います。 生産性運動は、現場管理者に十分理解されていたのか? この時期、国鉄本社としては生産性運動を国鉄の柱にしたいとして、本社各部局に生産性運動の推進を依頼していました。ただし、鉄労が指摘するように、一部現場管理者が生産性運動を正しく理解せず、誤った生産性運動を行っているという声も有ったことも事実であったと指摘しなくてはなりません。これが後に、国鉄当局の不当労働行為だと突っ込まれる余地を作ってしまったといえそうです。改めて、複数の視…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第九話

    > 実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。 現場で盛り上がる生産性運動の実践的活動 当時の生産性運動の実践的活動はどのようなものだったのでしょうか、生産性運動の実践活動は、国鉄の現場での自主的勉強会から始まっており、昭和45年11月5日には、田端機関区での勉強会の会員が100人を突破したとして記念大会を開催したり、日付は不明なるも、向日町運転所では、独自の生産性研修会の「修了証書」を発行するなどの動きもありました。 そして、こうした個々の活動状況は、昭和46年4月25日から、「生産性ニュース」という記事で紹介されることとなり…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第八話

    本日も、生産性運動導入から、中止までの第八話として。お話を進めさせていただこうと思います。 参照しているのは、「国鉄を売った官僚達たち」、鉄労編纂の「国鉄民主化への道」などを参照しながら。書かせてもらっていきます。 マル生運動の成果?スト破りする国労・動労組合員 生産性運動は、職員の意識改革が大きかったようで、国労・動労に所属したまま、スト破り(ストライキに参加しないこと)を行う組合員もいたそうで、生産性運動を受講して、自らの意識として、国労の運動について行けないと感じる組合員が一定数いたと言うことになります。実際、昭和46年5月20日には首都圏でストライキが行われ、旅客列車だけで2,624本…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第七話

    今回も、生産性運動に関して、今回も大野氏の本を底本として、私なりの解説などを加えさせていただこうと思います。 生産性運動は、現場の若手を中心に盛り上がりを見せ、鶯谷駅における朝ラッシュ時、鴬の声を流すのは、当時の駅員からのアイデァであるとされており、そのきっかけは、生産性運動であったことは、前回書かせていただきました。 生産性運動は、国鉄の中で浸透 そんな風に、国鉄の現場では、それこそ熱狂的とも言えそうです。 ① 自主的勉強会 ② 生産性掲示板や生産性大看板の掲出 ③ 生産性職場報の自主発行 ④ 生産性推進チームの結成 ⑤ 違法ストへの不参加・反対運動など ⑥ その他具体的な実践活動 等に分類…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第六話

    前回は、「管理局による温度差、さらには管理局の非協力な部分がネックとなるのですが。その辺はまた次回にお話をさせていただこうと思います。」 と言うことだったのですが、実際の生産性運動の実践効果はいかほどのものであったのか、再び「国鉄を売った官僚たち・大野光基著」から引用させていただきたいと思います。 生産性運動の実践効果として ① 自主勉強会 ② 生産性掲示板 ③ 生産性職場情報の発行 ④ そのほかの具体的実践活動 ⑤ 生産性推進チーム(国鉄再建会)の結成 ⑥ 違法スト反対・不参加行動 等に分類できます。 そして、生産性運動の中から、具体的な実践運動になった例の一つに鶯谷駅で、朝のラッシュ時にウ…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第五話

    >国鉄本社の幹部にもこうした生産性運動等には関心がない人も数多くいたことも事実でした。 しばし開けてしまいましたが、久々に投稿させていただきます。 今回も、「国鉄を売った官僚たち」大野光基氏の本を参照しながら当時の生産性運動を振り返ってみたいと思います 全国行脚を始めた、大野労働課長 生産性運動を導入した、能力開発課長の大野氏は、自らも昭和45年6月頃から中央鉄道学園で週3回程度講演していたそうで、「生産性運動を広めよう」というタイトルで繰り返していたそうです、さらに、7月からは全国に生産性運動の概念を知ってもらうために、全国行脚を始めたとそうです。 そこで、多くの現場の人に話をする訳ですが、…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第四話

    組合の分析も全く的外れとも言えないのですが、結果的には多くの職員が、国労・動労を離れ、鉄労に移籍することとなっていくことになるのですが、この辺は、次回に書かせていただきます。 と書かせていただきましたが、その前に生産性運動に関するエピソードの中から、幾つか興味をひくものをリストアップさせていただこうと思います。 生産性運動は当初は、実効性が何処まであるのかという思いもあったようですが、その成果は燎原の火の如く広がっていったようで、中央鉄道学園や、地方の鉄道学園でも指導者自らも積極的に生産性運動に参加しており、生産性運動は、成功するかのように見えました。 以下、中央鉄道学園長や地方の鉄道学園の事…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第三話

    昭和44年から試験的に始められた生産性運動は、順調に進められることとなり、昭和45年だけで約二万人が研修を受けることとなりました。 その反面、国労・動労も生産性運動を批判的に考えていました 生産性運動は現場では積極的に開催されることに 生産性教育講師の研修を受けた人たちは、現場に帰るやいなや、生産性教育を始めるところが有ったと書かれていますが、こうした状況に対して、国労・動労はよい顔をしませんでした。 さらに、現場での研修が開始されるに伴い、管理局の部長クラス研修が強く言われるようになり、昭和45年10月17日から4泊5日の行程で第一回部長研修を生産性本部に委託して行うことになったとされていま…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二話

    管理局への生産性運動の導入 生産性運動は、先にも記しましたように、昭和45年4月11日から始まるのですが、生産性運動の理念を理解した職員が現場に戻っても、肝心の管理局に生産性運動を理解していないと、元の木阿弥になってしまうことから、研修生の中からも管理局のバックアップを望む声が大きくなってきました。 国鉄を売った官僚たちから引用させていただこうと思います。 引用開始・・・・ ところが、現場だけが生産性教育をやっても、管理局に生産性運動の理解者がいなければ困る事態が方々で発生してきた。研修生の中からも管理局のバックアップを望む声が強くなった。そこで、5月8日から13日にかけて第一回生産性指導者研…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一話

    生産性運動が正式にスタートしたのは、昭和45年4月11日で、現場の意識改革と言うことで生産性本部の協力を得てスタートするのですが、概略を最初に述べさせていただきます。 生産性運動の開始から終焉までの概略 1) 生産性運動を行おうとした背景 そこには、昭和30年代から続く、過激な組合運動とその対策として、何らかの意識改革が必要であると考えられていました。 2) 現場長も学園も、本社も消極的でした 意識改革と呼ばれるものは何処もそうですが抵抗されるものであり、現場長による研修でしたが、受講後は意識が変わって行った〔これが後にマル生運動を崩壊させる根拠となった可能性もあります〕 3)生産性教育はボト…

  • 生産性運動導入前夜、民間で先行した生産性運動

    生産性運動は、昭和45年当時、民間では殆どの会社が参加していた 生産性運動の理念は、繰り返しになりますが、富の再配分であり、労働者からの搾取というものではないことは、すでに書きました。 そして、全繊同盟、新産別、全国自動車、鉄鋼労連など、春闘を今までリードしてきた組織も積極的に生産性運動に取り組むようになり、昭和45年時点で620万人達すると言われ、参加していないのは、官公労系を中心とした組合に限られるといった状況になっていました。 この頃から民間のストライキへ減少し、昭和30年代にみられた労働争議は、徐々に減っていきました。 まぁ、その中で国鉄と、郵政は派手な闘争、郵政省の場合は郵便に全逓組…

  • マル生運動は何時から始まったのか?

    生産性運動は、昭和45年3月国鉄本社内で議論され、3月24日に常務会で最終決定がなされ、3月25日に日本生産性本部に文書で3箇年計画書と共に送付されましたので、3月24日を国鉄生産性運動のスタートとみることが出来ます。 なお、生産性運動というと不当労働行為の象徴のように言われたり、国鉄の負の部分だとする意見も多いのですが、生産性運動の基本的な考え方はむしろ、労働者を守る事に主眼がおかれたものでした。 その辺は誤解が多い、というか「生産性運動=不当労働行為」から入る論調が多いためであり、「国鉄を売った官僚たち」 大野光基氏の著書を見ますと、元々の生産性運動の概念は、フィラデルフィア宣言をよりどこ…

  • マル生運動が導入された背景は?

    国鉄はどのような経緯でマル生運動を導入したのでしょうか。 マル生運動を理解するためには、何故マル生運動が必要になったのかと言うことで、昭和30年代までさかのぼる必要がありそうです。 国鉄の労使関係は、昭和40年だから一気に悪化したと言う印象を持たれている方も多いのですが、実際には昭和30年代から強力な闘争が行われていました。ただし、当時は当局側もしっかりしており、現場管理者をバックアップする体制が出来ており、さほど大きな問題にならなかったと言うことです。 昭和30年代の闘争というと、三井三池闘争等が目立っていますが、国鉄でも幾つかの大きな争議は行われており、今回は特に、「新潟闘争」と呼ばれる闘…

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国鉄の生産性運動に特化したblogです。

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