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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩2-1-02/マコン#02

    https://www.youtube.com/watch?v=3PicMVU8r_Q 朝食を済ませて、しばらく部屋で過ごした後、チェックアウト。ボーヌ駅へ歩いた。距離としては1kmくらい。わりと離れている。道は直進で分かりやすい。フランスの鉄道は大抵町村から離れたところに有る。町なかにある例は少ない。大きな町だけだ。 だから鉄道を使う際には、徒歩は覚悟しなくてはならない。 結構悩ましいのは、500m~1kmだと、わざわざTAXIを呼ぶのが面倒なので歩くことになるのだが・・1km離れているとバゲッジを転がしながら歩くのは相当大変だ。まあ、フランス旅行の常として納得するしかないのだ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩2-1-01/マコン#01

    C'est l'heure de la minute gourmande ⏰😋 Et aujourd’hui ce n’est pas une, mais deux nouvelles recettes que nous vous... Posted by Maison Briottet - Liqueurs on Wednesday, April 20, 2022 Hotel Chez Les Fatien(17 Rue Sainte-Marguerite, 21200 Beaune)に戻ったの夕方7時を回っていた。約束より遅いチェックインだったが、連絡を入れておいた

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-13/ディジョン#13

    https://www.youtube.com/watch?v=bItL48XeoKU バルゼ広場Pl. du Bareuzaiあたりを散策していた。此処のRestaurant XII(26 Rue Musette, 21000 Dijon)は、よく朝食に訪ねるレストランだ。小さいカルーセルが人を集めていた。 「ボーヌ行きのバスは午後2時半の次は5時半よね」 「ん。そうだ5時40分だ」 「だったら市場の傍のレストランでお昼しない?まだやってると思うわ」 ➀Grill & Cow(2 Rue Claude Ramey, 21000 Dijon) http://www.res

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-12/ディジョン#12

    https://www.youtube.com/watch?v=29sqp--qdK4&t=539s プラルスPâtisserie Chocolaterie Pralus DijoN(78 Rue de la Liberté, 21000 Dijon)はブリオッシュが絶品!・・とのこと。小さなテーブルがあるので、ここで楽しめる。一緒に出るカフェオレもちゃんとしている。 http://www.chocolats-pralus.com/ リベルテ通りを真っ直ぐ駅の方へ歩くと、150m程度で着く。お昼は回っていたので意外に混んでいた。 「ここは、バケットも美味しいのよね。買って

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-11/ディジョン#11

    https://www.amazon.co.jp/Marie-Bourgogne-Ou-grand-h%C3%A9ritage/dp/2875931598 Marie de Bourgogne : Ou le grand héritage www.amazon.co.jp 7,870円 (2023年10月29日 05:06時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する マリー・ド・ブルゴーニュMarie de Bourgogne(1457-1482)は、ブルゴーニュ公シャルル豪胆王の一人娘だった。彼が

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-10/ディジョン#10

    https://www.youtube.com/watch?v=kth03_HUvig 美術館の前、リヴェラシオン広場でお茶した。 「ここはロワイアル広場ってた。いまはリヴェラシオン広場。ブルゴーニュ公のための騎馬隊が居たところだ。それこそフランス革命の時に徹底的に燃やされてね。名前もアルム広場に変えられた。真ん中にルイ 14世の巨大な銅像があったそうだ。見事に壊されている」 テントの付いたカフェで、エスプレッソが出た。なかなかよろしい。 「ここで1858年にディジョン主催で万国博覧会が開かれている。 リヴェラシオン広場って名前を変えたのは、ナチスの占領から解放されたことを

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-09/ディジョン#09

    https://www.youtube.com/watch?v=29NLBr2QiBM 朝はラモノア通りある本店のラウンジまで歩くことになる。煩わしくない。気持ちのいい朝の散歩だ。 朝食のクオリティもいい。僕らは遅い時間に朝食を合わせて、そのままレセプションでチェックアウトした。ラモノア通りをオペラ座に向かって歩いて、その横を右折。少し先にデジョン美術館Musée des Beaux-Arts de Dijon(1 Rue Rameau, 21000 Dijon)がある。 https://beaux-arts.dijon.fr/ 若い学生のグループが何組か見学していた。 「こ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-08/ディジョン#08

    https://www.youtube.com/watch?v=2jgO37kuVC0 大聖堂からミシュレ通りRue Micheletへ出た。2000年の酩酊感から飛び出た。 「疲れたわ。話が重かった・・お昼したい」 「ん。心休まるとこへ行こう。L’AbenFantどうだ?わりと近い」 「あ・・良いわね。おいしくて安心できる料理が良いわ」 ➀L’AbenFant(32 Rue Amiral Roussin, 21000 Dijon) https://restaurantlabenfant.fr/ ホームページをみるとL’AbenFantは「古フランス語で曾孫の子」という意味らしい

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-07/ディジョン#07

    https://www.youtube.com/watch?v=GOBdssEbFag サン=ベニーニュは、179年頃にディジョンで殉教したと云われてる。彼にガリアでの布教を託したのは、ヨハネの弟子の弟子だったポリカルプだった。初めオータンに入った彼は、ここで幾つかの奇跡を起こした。そして布教者としての地位を高め、ラングルへ向かい、最後はディジョンへ移った」 「史料はあるの?」 「実はラングル、ブザンソン、ヴァランス、オータンの司教区に、彼らの正当性を語る史料がある。しかし何れも900年代に作られた偽古文書だ。自分たちの正当性を証明するために、こんな史料が残されているという文書を

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-06/ディジョン#06

    https://www.youtube.com/watch?v=78cwo7RV_po&t=10s ディジョン考古学博物館Muséearchéologique de Dijonの二階と三階を散策した。三階は先史時代のコレクションも多数あった。 「先史時代からの町なのね、ディジョンって」嫁さんが言った。 「ああ、古くからヒトらが暮らした地だ。でも決して便利なところではない。ウシュ川l'Oucheとシュゾン川l'Suzonからも遠い。しかし泉が有った。原始林の中に佇む泉だ。ヒトはそこに集ったんだろうな。 そこにケルト人が入り、そしてローマからの移植が入った。紀元前200年ころ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-05/ディジョン#05

    https://www.youtube.com/watch?v=qZSoBDk5bPw Muséearchéologique de Dijon Dijonの二階への階段は18世紀の修道院の面影を残している。平日の朝だから・・だろうか、見学者は少ない。 「大きな修道僧の宿舎だったのね」と嫁さんが言った。 「二階に当時の大部屋がある。いまは展示室になっている。二階は教会建築のコレクションと各所から集められた収集品だ。何処も散逸がひどかったからな、相当苦労して集めたらしい。三階はロヴィング朝時代の宝石と武器とかエトールの遺跡から出土した遺物。サン ベニーニュ修道院の遺物が納められてい

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-04/ディジョン#04

    https://www.youtube.com/watch?v=H8P4sz8eSLY ホテルからからPorte Guillaume(13 Pl. Darcy, 21000 Dijon)に向かってリベルテ通りをRue de la Liberté歩いて、ディションの凱旋門(ホントは凱旋門ではない)にぶつかる手前を左に入るのがドクターマレ通り Rue Dr Maretである。200mほど歩くと右側に鋳鉄の大きな門が見える。ベネディクト公園Square des Bénédictinsの入口である。 「ここは聖ベニーニュ修道院Cathédrale Saint-Bénigne de Dij

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-03/ディジョン#03

    https://www.youtube.com/watch?v=EROpmQHQMCM 朝食はホテルのメイン・ラウンジへ行くことになる。ゆっくり起きた朝だった。まぁ、ンじゃメイン・ラウンジへ行くかと通りに出たが・・目の前にあるMadeleine Café(8 Rue Verrerie, 21000 Dijon)がオープンしていた。朝9時半からとのこと。 https://madeleinecafe.fr/ それを見たらメイン・ラウンジまで200m歩く気がしなくなった。・・入ってみると、グラノーラの朝だった。ん~なかなか宜しい。コーヒーも合格だった。 「いいわね。これも」と嫁さんが

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-02/デジョン#02

    https://www.youtube.com/watch?v=I_0vqHBHUa8 The Little Italy Shop-Dijonで夕食を済ませた。 Dijonでイタリーは嬉しい。街だからできる商いだ。客入りも良いから素敵だと思う。 「帰りにムッシュ・ムタードに寄るか?」 ムッシュ・ムタードMonsieur Moutarde(40 Rue des Forges, 21000 Dijon)はデジョンで一番お気に入りのBarだ。 http://www.monsieurmoutarde.com/ 「ちかいの?」 「ん。」予約を入れた。「のんびり歩くか」 ホテルMaison

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-6-01/デジョン#01

    https://www.youtube.com/watch?v=lxDVaqAkUhU D114をDIJON Wilson Carnotで降りた。 【06:35/07:35/08:45/09:40/10:50/11:55/13:50/14:45/15:50/16:55/17:55/18:50/19:45】 かなり草臥れた。 バスを降りて今来た方向へ向かって歩き、カルノ通りを越えて次のシャポシャルニー通りRue Chabot Charnyを500mを右折、そのまま500mほど歩いた。少し歩くと知っている道になる。歩いているうちにカルフール・エキスプレスを見つけた。嫁さんが喜んだ。

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-13/バスを使ってフィサンとマルサネー歩き#13

    https://www.youtube.com/watch?v=gbCiz8k1B0Q バスはFixisを出るとすぐに葡萄畑の中を走るようになった。 「このあたのがFixeyだ。コートドールの最後の畑になる。マルサネーあたりから次第に町らしくなってくんだ」 COUCHEY sとRoute des Gran Crusが見える辺りから家並みが始まった。右側は緩やかな下りで家影が広く散らばっている。少し行くと Marsannay Mairieのバス停があった。 「あ。もう村より町なのね、今まで見たバス停の中で一番整備されててモダンな感じだわ」 何人もの人がバスから降りた。 「ここじゃな

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-12/バスを使ってフィサンとマルサネー歩き#1

    https://www.youtube.com/watch?v=UaNVHIh_It0 ノワゾ通りをゆっくりと降りていくと縦T字路がある。これをみぎにまがって少し行くとÉglise Saint Martin de Fixin(4-10 Rue de l'Église, 21220 Fixin)がある。 堅牢な教会である。 「1175年建立だ。パリ革命の時、簒奪には遭ったが焼失はしなかった」 https://monumentum.fr/monument-historique/pa00112451/faverolles-les-lucey-eglise 「そうねぇ、これだけ頑丈に

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-11/バスを使ってフィサンとマルサネー歩き#11

    https://www.youtube.com/watch?v=FDwdjLvq-4k 翌朝、食事の時に嫁さんが言った。 「次はどこに泊るの?」 「デジョンにしよう。デジョンまではバスで行きたい。でもD974コートドール街道は使わないでボーヌ通りを走っているD122に乗り換えようと思うんだ。D122は村と村を繋ぐ生活用バスでね、畑の中じゃなくて村の中を繋いでいるんだよ」 「近くなの?」 「すぐ近くにサン=フィリベールSaint-PhilibertからDIJON Parc des Sportsがある。一時間に一本で村と村を繋いでいる」 「村と村・・と言うことは此処からバス停は近いの

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-10/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#10

    データを並べると‥ジュヴレ・シャンベルタンは24,77km2。古いワイン醸造地なのである意味玉石混合でワイナリーが多い。しかしグランクリュに指定されている南側の斜面は、浅い土砂の下に硬い石灰岩の岩盤が砕けて根を張っており、それに火山性の土壌が酸化鉄として絡んだ土地である。つまり普通の作物を作るには適さない地だが、これが葡萄となると俄然違ってくる。とくに土壌に敏感な種類であるピノノワールは、その硬いタンニン感とスパイシーな石灰質をはっきりと示してくれる。これがジュヴレ・シャンベルタンの特徴だ。 カナダのワイン評論家・カーミット・リンチKermit Lynchがこう書いている。 「鼻が立ち

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-09/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#09

    https://www.youtube.com/watch?v=Cb_-breVk8o ディナーはホテルで済ませた。 嫁さんのたってのお願いで白がでた。 Domaine Christian SerafinのBourgogne Chardonnayである。これは珍しい。 https://www.wine-searcher.com/find/serafin+pere+bourgogne+blanc+burgundy+france/1/france シャルドネだから嫁さんは気に入ったようだ 「新樽の魔術師という生産者だ。赤はボトリングするときに清澄と濾過をしない。荒々しくてパワフルなワ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-08/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#08

    https://www.youtube.com/watch?v=TTbMrDj6K9Y 朝食の後、観光センターの方へ出た。 全日に予約したPhilippe Leclerc(Rue des Halles, 21220 Gevrey-Chambertin) へ出かける予定。 http://www.philippe-leclerc.com/ ドメーヌの入口はすぐ見つかった。まとまった美しいドメーヌだった。 テスティングの時に出されたボトルのエチケットをみて嫁さんが「あら!ウチでよく見かけるワインね♪」と言った。「へえ、おなじみのワインの生産者を訪ねたんだぁ、すてきね」 ルクレールのワイ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-03/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#03

    https://www.youtube.com/watch?v=HUH8s0WuHuY&t=39s 休業中ということで、ジュヴレ・シャンベルタン城には入れなかった。 「今の持ち主はスタンレー・ホーStanley Ho何鴻燊(2020,5/26死去)だよ」 「スタンレー・ホーってマカオの!?」 「カジノ王だ。ロンダリングの帝王だ」 「どうして!そんな話、誰も知らないでしょ?」 「そんなことない。当時は大きなニュースになった。2012年だよ。細かく分解してマカオに持って帰って新しいカジノを作るのか?と僕は思ったね。まあ、それはなかった。ただ同時に買った2ヘクタールの葡萄畑はコ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-07/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#07・番外04

    「ローヌ川が地中海へ注いでいる地はマルセイユのすぐ傍だ。ローヌ川が錫のロジスティックルートと発見されるとマルセイユは俄然勢いづいたんだ」 「マルセイユはローマの一部だったの?」嫁さんが言った。 「いや、まだ属州にもなっていない。マルセイユがガリア・ナルボネンシスGallia Narbōnēnsisとしてローマに属州化するのは紀元前121年からだ。それでもイタリア半島と地中海で繋がっている街だから、早くからローマ化されていた。大プリニウスが『博物誌』の中でナルボネンシスの貴族や民衆は洗練されたローマ人として振舞っており「属州というよりはむしろイタリアである」と書いているくらいだ。 その傍

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-05/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#06・番外03

    「ローマは立農国家だった。・・比してガリアやゲルマンは半農半牧だった。 北東欧から西欧州へ流れた人々は、ほとんどが牧畜文化の人々だ。それでも半定住型の人々は半農半牧だった。しかしそれがローマのように高機能な灌漑設備に至るところはない。 ローマを産み出したラテン人は違った。彼らはアッシリアやメソポタミアの文化から継承された灌漑技術と治水技術をもって流れてきたんだ。おそらくだが・・その技術を生かせる地を求めて流浪した人々なのかもしれない」 「つまりラテン人はゲルマン人とはちがった民族だった・・ということ?」 「うん。おそらくな・立農式文明は、1万年くらい前に南西アジアの肥沃な三日月地帯で始

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-05/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#05・番外02

    https://www.youtube.com/watch?v=9hI9Tljw3kk 「ケルトは、ギリシア語のケルトイ(Keltoi)で異族という意味だ。、ヘロドトスが使っている例がのこっている。あるいはGalataとも言った。これがローマ人の使うガリアGallīに繋がってるんだろうな。僕は欧州各地に定住して生活しているケルト人には、基本的にガリア人と呼ぶことにしてる。ローマ風だ」 「なるほどね・・で青銅器でしょ?」 「ん。青銅とは錫と銅を混ぜた合金だ。銅は柔らかいが、これに錫を混ぜると俄然硬くなる。しかも融点が低いので溶けやすく加工しやすい。・・発明したのは5500年くらい前

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-04/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#04・番外01

    https://www.youtube.com/watch?v=KhawV3Nh_W4 「ヒト類はかなり早い時期から欧州全般に広がっていた」 「あら、とつぜんソモソモ話?」と嫁さんが言った。 夕食の時である。 「捕食の頂点に立っ前のヒトは狩る者ではなく狩られる者だった。そのためには、隠れる環境が必須だった。ラスコーへクロマニオンの痕跡を見に行ったとき、すごく納得しただろ?彼らは、そう簡単に捕食者たちが来ない場所に生活の拠点を置いたんだ。厳しい崖が有って、洞窟が有って、森に囲まれた場所だ。そして傍に泉か小川が有れば最高だ」 「あ~なるほどね。旧人や新人にとって欧州は最高の場所だった

  • 今一番もうかるビジネスは?

    なぜキシダ君は、云うがままにmade in USの武器を買うのか?なぜ製造ポテンシャルを持っている三菱や川重や日立/東芝をスポイルするのか? 戦争しちゃダメだから、よくないことだから日本で武器は作らない?ほんとにそうかい?中露の手先である共産党とそのシンパが言う"悪意の上に塗り込まれた綺麗ごと"・・それをそのまま信じるのかい? でも欲しいときはアメリカから買う?そんな理屈でいいのかい? では。アメリカで、いま一番儲かるビジネスは? America’s top 5 weapons contractors made $196B in 2022 Half of the wor

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-02/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#0

    https://www.youtube.com/watch?v=b87B7YDgEGM 昼食のあと、村へ出ようとしたらレセプションで「お部屋の用意ができてます」と言われた。いいね、ちゃんとしたホテルはこうした気遣いをきちんとしてくれる。 ➀Rôtisserie du Chambertin - Hôtel & Restaurant(6 Rue du Chambertin, 21220 Gevrey-Chambertin) https://www.rotisserie-chambertin.com/ 18世紀の貴族の邸宅だがリノベーションは完全にできていて素晴らしかった。 荷

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-5-01/バスを使ってジュヴレ・シャンベルタン歩き#01

    https://www.youtube.com/watch?v=hKmplUZbCqM D974グランクリュ街道のバス停Gevrey Croix Champsは上下する道を二つに分ける緩衝帯の手前に小さな看板だけである。ほんとに誰か降りる人があるのか?という素っ気なさだ。 さすがにこんな標識が幾つも続くバスルートだから嫁さんも慣れたみたいで何も言わない。降りると葡萄畑の真ん中だった。少し先に民家が見えた。嫁さんがそちらへ歩こうとした。 「ちがうちがう、反対側だ」 手前に右へ進む道がある。レストランのマークがついたCHEZ GUYという標識とRotisserie du Chamb

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-10/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#10

    リシュブール・ホテルⒶLe Richebourg Hotel(Rle du Pont, 21700 Vosne-Romanée)最後の夜のディナーは遅い時間にしてもらった。 http://www.hotel-lerichebourg.com/ 午前中のロマネ自転車散歩が屋持ったより時間かかって、昼の食事が遅かったからだ。 レセプションにソムリエが居てガルソンと共に歓待してくれた。 食事もワインも満足だった。 最初にリストに有ったFrançois LamarcheのClos de Vougeot Grand Cruをお願いした。 そのあと昨夜お願いしたJean-Pierre Guyonの

  • その殺人は誰が儲かるのか?

    300㎢しかないガザ地区居住者の2/3は1948年「ナクバNakba」から逃れた旧イスラエルに住んでいたパレスチナ避難民だ。「独立戦争」と称する米系ユダヤ人シオニストたちに土地を奪われた民だ。その怒りは70年経っても根深い。 しかし・・70年である。動的平衡は取れていた。10月7日まで。 それが唐突に壊れた。 利害は交差しているので実態は見えないが、それでも不思議なことは幾つかある。 以前紹介したように、今回のハマスからの攻撃はイスラエルへエジプトが再三警告をしていた。ネタニアフはそれを無視した。 そして(真珠湾)攻撃が始まると「知らなかった・ふいをつかれた」とメディアに叫びながら「正

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-9/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#09

    https://www.youtube.com/watch?v=mLmUPREbDXI&t=130s 午後遅くホテルへ帰った僕たちは、一度シャワーを浴びてから一介のテラスへランチに出た。 「くたびれたわ~」嫁さんが言った。 「ロマネ村で昼夜とも食事が出来るホテルなんて良いな。今後ホテルはここしか使えないな」 「そうねぇ~」食事の途中、昨夜、僕らにサービスしてくれたソムリエが顔を見せた。笑いながら白のグラスを出してくれた。 「如何でした?自転車散歩は?」 「楽しいけど・・へとへと」嫁さんが言った。 「少しお部屋でお休みになったほうが宜しいかもしれませんね。さて・・アメリカ風

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-8/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#08

    https://www.youtube.com/watch?v=nXXFd_IIkQg グランエシェゾーGrands Echézeaux(21640 Flagey-Echézeaux)とエシェゾーEchezeaux(21640 Flagey-Echézeaux)の間を走る道をまっすぐ見ると、右にクロ・デ・ヴージョ城Château du Clos de Vougeot(Rue de la Montagne, 21640 Vougeot)が見える。 http://www.closdevougeot.fr/ 迷いようもなく真っ直ぐな道だ。 「この辺からロマネ村じゃなくなる。ヴージョVo

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-7/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#07

    しばらく丘陵沿いに走ると、道が未舗装になった。 「え。大丈夫?間違えてない?」 「コレを抜けるとD109へぶつかる」 未舗装を渡りきるとD109の五差路へぶつかった。 「あ・ここ・・」 「ん。Cros Parantoux(21700 Vosne-Romanée)の前を通る道だ。アンリ・ジャイエの畑だ」 「入るの?」 「今日は入らない。ホントは自転車降りて見に行きたいが、置いとけないもんな。このままD109を下ろう」 ゆっくり300mくらい降りたところで、Cros Parantouxから下りてきた未舗装路にぶつかった。立ち止まって降りた。 「ここからだと見えるな」 「・・わかりにくい」

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-6/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#06

    翌朝、朝食のとき。嫁さんが昨日ディナーで出たピノノワールの話をしはじめた。 Domaine du Comte Liger-Belair(1 Rue du Château, 21700 Vosne-Romanée) http://www.liger-belair.fr/ 「コートドールに有った修道院って、みんなワインの畑を持ってるでしょ?それもみんな難しいピノ・ノワールを育ててるし・・」 「いま残っている畑は、彼らが分けた教区がベースになってる。クリマとか云うが・・その区分けは修道院が仕切った教区単位だ」 「でもどうしてそんなに教区ごとでワインの味が違うの?」 「味の格差は色々なファクタ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-5/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#05

    ホテルのディナーは充分、満足した。 https://www.hotel-lerichebourg.com/le-bar-le-restaurant/ シェフはRomulad Sikorskiさん。食事後にご挨拶を頂いたが、とても品の良い方だった。 予約するときにディナーのワインはロマネ村の白(!)DRC以外で・・という無理難題なリクエストをしたので、それにどう応えをだしてくれるのか楽しみだった。出されたのはDomaine Jean-Pierre GuyonのSavigny-lès-Beaune Blanc, Les Planchotsだった。すごいね、さすがに知ってる。はじめてトライし

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-4/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#04

    エグリーズという狭い広場にぶつかる。交差するのはタン・ベルデュ通りで、目の前に有るのが➀Domaine de la Romanée-Conti(1 Pl. de l'Église, 21700 Vosne-Romanée)になる。 http://www.romanee-conti.fr/ 不愛想に標識もない。場所を知らなければ辿り着くこともできない。 タン・ベルデュ通りRue du Temps Perduを左曲がると、すぐ見えるのがRomanee St. Vivantの畑だ。 「DRC/Domaine de la Romanée-Contiで出しているシリーズは全部で幾つ」 「9種類で

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-3/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#02

    https://www.youtube.com/watch?v=XA9_KAqINlk 食事の後、ホテルの前を通り過ぎてフォンテーヌ通りRue de la Fontaineを畑のほうへ歩いた。 「フォンテーヌって名前、泉があるの?」 「ん。さっき言ったVaonaだよ。Bornue川が繋がっている。ホテルのすぐ裏だ。でも此処も川と一緒に暗渠になってるから見えない。村の大事な水源だ」 「・・そう。見えないの。村の大事な水源なのね」 「ん。2000年ちかくな」 フォンテーヌ通りを歩くと右側にいくつかのドメーヌが並ぶ。 ①Domaine Leroy SCE(15 Rue de la Fo

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-2/バスを使ってヴォーヌ・ロマネ歩き#01

    VOSNE-ROMANÉEまでは車上20分弱。 「コンブロンシャン・・ね。大理石もその名前なのね」嫁さんが窓の外を見つめながら言った。F974からは石材所は見えない。でも割とショックだったようだ。 「由来のBLANCAはゲルマンの女性名だそうだ。CORは農民という意味。TAKAは地名にするときの接尾辞だよ。COR-BLANCA-TAKA。これが語源だそうだ。「Climats et lieux-dits des grands vignobles de Bourgogne: Atlas et Histoire des Noms de Lieux Relié(https://www.amaz

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-4-1/コンブランシャンの採石場

    停留所ALOXE-CORTONで、バスに乘ったのは12時21分。 「今日はVOSNE-ROMANÉEへ泊るんだけど、一度コンブランシャン・バルコンCOMPLANCHIEN Balconで降りる。見学したいところがあるんだ」嫁さんに言った。 「りょうかい」 バスは10分ほどでCOMPLANCHIEN Balconに到着した。 バスを降りて100mほど先にAuberge du Guidonというレストランがある。横長の青い看板が目印だ。店は小さくて目立たない。その三叉路を左に曲がった。D115Jである。ゆっくりと登り道になった。ワイン畑を挟んで左側に先ほど降りたバス停のところに有った建物が

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3-8/バスを使って完全走破・ALOXE-CORTON07

    朝食をすませて村へ出た。村歩きをしながら気が向いたらドメーヌを覗いてみようと思った。 村には7つのドメーヌがある。 ➀Chateau de Corton Andre Rue d'Aloxe Corton, 21420 Aloxe-Corton,+33380262879 ➁Domaine Follin-Arbelet(Imp. des Fournières, 21420 Aloxe-Corton) http://www.domaine-follin-arbelet.com/ ③Caveau d'Aloxe Corton(2 Rue des Corton, 21420 Aloxe-Cort

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3-7/バスを使って完全走破・ALOXE-CORTON06

    ホテルのカウンターへ自転車を返した後、部屋に戻った。そのままシャワーに入ってしばらく昼寝(夕寝)した。嫁さんはipadで撮った写真を整理していたが、僕はベッドへ。 「タクシーのピックアップは18時半よね」嫁さんが言った。 「ああ、レストランの予約は19時だ。それまで少し寝る。疲れた」 レストランへのタクシーは、ボーヌの村で何回か使用しているTaxi Dessertaine(9 Rte de Ruffey, 21200 Vignoles)で、荷物を預けてある村内のHotel Chez Les Fatien(17Rue Sainte-Marguerite, 21200 Beaune)が予約

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3-6/バスを使って完全走破・ALOXE-CORTON05

    もう少し走ると門構えのDOMAINE BONNEAUの看板が見えるが、それを越えるともう一つの"DOMAINE BONNEAU DU MARTRAY CORTON CHARLEMAGNE"がある。 「ここを入る」 「いいの?私有地じゃないの?」 「大丈夫だ。入る」 「それより、坂よ。走れるの?」 無視して走った。ははは、ありがたいなと思っても、こういうときは無視する。 道は300mほどの登り道。途中から未舗装になった。こりゃ帰りは通れないな・・と思った。昇りきるとT字で舗装路になった。 ふう・・溜息を付いて、休んだ。勾配ある斜面がコルトンの丘の方へ続いている。すべてワイン畑だ。見下ろす

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3-5/バスを使って完全走破・ALOXE-CORTON04

    ホテルで借りた自転車が電動だったから、内心安心した。 「でもラフはダメよ。歩道のないとこは避けてね」嫁さんに注意された。 ふん!といって無視。でも内心そうしよと思った。道はショーム通り、真っ直ぐである。道は細いがクルマの姿はなかった。これも内心安心した。 ショーム通りを50mも走ると村影は農道になった。村を出た。ゆっくりな登りだが、電動の威力である。 「シャルル大帝が台頭したとき、ブルゴーニュは完全にフランク王国のものになっていた。その体制を作ったのは祖父のカールマルテルだ。彼はクローヴィスの子らの宮宰だった。そして宮宰として外威と戦ったんだ。とくにサラセン軍に勝利したことで、かれは

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3-5/バスを使って完全走破・ALOXE-CORTON03

    https://www.youtube.com/watch?v=c4deRRN1rd4&t=23s Domaine Comte Senardのランチティスティングはグラン クリュ 6種(白2赤4)を選んだ。特別にお願いしてCorton-Charlemagne Grand Cru Blancを加えてもらった。無理ならボトルで買わせてもらって・・とも思ったが、追加料金だけで快諾してくれた。 嫁さんは大喜びだった。食事しながら言った。 「そういえば・・コルトン・シャルマーニュCorton-Charlemagneって・・シャルマーニュってカール大帝のことよね。フランス語がシャルマ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3-4/バスを使って完全走破・ALOXE-CORTON02

    食事のあと、ホテルへ戻った。チェックインは15:00だが、部屋には入れた。一階の奥まった部屋でテラスが付いていた。出てみると目の前に葡萄畑が大きく広がってみえた。向こうにコルトンの丘がある。 Villa Louise - Hôtel de charme en Bourgogne Villa Louise - Hôtel de charme en Bourgogne, Aloxe-Corton. 64 www.facebook.com 「見てごらん。あれがコルトンの丘だ」僕が言うと、荷物をおいた嫁さんもテラスへ出てきた。 「すごいわねぇ、ボーヌの村の中には絶対

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3-3/バスを使って完全走破・ALOXE-CORTON01

    Hotel Chez Les Fatien(17Rue Sainte-Marguerite, 21200 Beaune)にいた。ボーヌ村内である。 http://www.hotel-fatien-beaune.com/ 「明日から村を歩いてみたい。最初にコルトンの丘を見に行きたいと思う。ホテルはお奨めがあるか」とコンシェルジェに聞いた。「泊りがけですか?」と困った顔をされた。「とても田舎ですよ」と言われた。村には二つしかないそうだ。 ➀Hotel Villa Louise(9 Rue Franche, 21420 Aloxe-Corton) https://www.hotel-vill

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3-2/コート・ド・ドール、バスを使って完全走破

    コート・ド・ドールの真ん中を走るD974はRoute des Grands Crus(グラン・クリュ街道)と呼ばれている。今は整備されているが道としては古い。ガリアの時代からある道だ。ディジョンからサンテネイまで続き、コルドゥイユ村、ヌイユ村、ボーヌ村を抜けている。33の村を抜けている。距離は全長60km。幅は2kmが最長で300mもない所がある。 僕はこの道をバスTranscoで走破することを強くお勧めする。 LR113 BEAUNE NUITS-ST-GEORGES DIJON https://www.viamobigo.fr/ftp/document/mobigo-lr-113-

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3-1/コートドボーヌからニュイ、コートドドールをどう歩くか?

    「コート・ド・ニュイ(Côte de Nuits)とコート・ド・ボーヌ(Côte de Beaune)を合わせてコート・ドールだ。 コート ドールはディジョンからマランジュまで65km。幅は1~2 km程度。収穫後の秋は本当に黄金色に染まる。 此処をどう歩くか?選択肢は4択だろう。 ★ガイド付きツアー ➀Bourgogne Raisin dor https://yukoraisindor.wixsite.com/bourgogne-raisindor... ➁Along Burgundy: Accueil https://www.alongburgundy.com/ ③Authent

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-2-5/ブルゴーニュワインを見つめる

    「ところで格付けの話は終わり?」と嫁さんが言った。 「ん~、終わってない。格付けは畑単位で。4段階だ。Ⓐグラン・クリュⒷプルミエ・クリュⒸ コミュナルⒹレジョナルわりとブルゴーニュは判りやすい。ボルドーの二番煎じだから整然としてる。 まとめると・・ ➀グラン・クリュGrand Crus de Bourgogne(特級畑)は全生産量の1%くらいだ。コルトン シャルルマーニュ、モンラッシェ、シャブリ グラン クリュ、シャルム シャンベルタン、ロマネ コンティがそうだ。 ➁プルミエ・クリュLes appellations Premiers Crus(第1級畑)は全生産量の10%くらいだ。ポマ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-2-4/グランドオーセロア

    https://www.youtube.com/watch?v=7Be8A0IsD04 「あの時にボーヌ農業委員会が付けられた格付けは1936年まで生きていた。1937年から新しくなっている」 「いまもあるの?」 「ん。今は、格付けは畑単位で区分けされてる。4段階だ。Ⓐグラン・クリュⒷプルミエ・クリュⒸ コミュナルⒹレジョナル。ブルゴーニュのワインには必ずこれがエチケットに書かれている」 「えちけっと?」とK君 「ワインのラベルのこと。フランス語はエチケットというの」とは嫁さんの説明。 「地域は6つに分かれている。北からⒺシャブリ地区Ⓕ コート・ド・ニュイ地区Ⓖコート・ド・ボーヌ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-2-4/ブルゴーニュワインを見つめる

    https://www.youtube.com/watch?v=sfnYsMb_cXM 「同じ品種で、同じ区間で葡萄を植えて、ワインを作るブルゴーニュの生産者はどうやって他者と自分を差別化する?どう思う?何を以てして俺のワインをお前は買うべきなのか?どうクライアントに説明する?」食事しながら秘書のK君に聞いた。マーケティングの基本だ。 「わかりません。品質に何か特徴をつけるとか、価格的な差別化をするか・・自分がカリスマになるか」k君が応えた。 「ん。まずまずの応えだ。品質は同じ畑/同じ葡萄でも製法を換えれば変わる。ピノはキャラクターにパンチを付けるために採集時に茎を混ぜる。そのこ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-2-2/アンリ・ジャイエ02

    L'Hôtel de Beaune(5 Rue Samuel Legay, 21200 Beaune)に入ったのは夕方。K君が選んだホテルだ。 http://www.lhoteldebeaune.com/ ディナーはホテルで済ませた。 ワインは事前にオーダしておいたアンリ・ジャイエを出してもらった。 「フランスワインの絶対数からいうと、一番は間違いなくラングドックルションだ。おそらく全生産数の1/2くらいだろう。残りはボルドーだ。ブルゴーニュはその1/4位だ。少ない。でも生産者数は多い。1ヘクタールに満たない畑が一杯あるからだ。葡萄は赤はピノノワール/白はシャルドネ中心だ。ガメイとかア

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-2-1/アンリ・ジャイエ

    2006年の10月半ば。シンガポールからエアフランスでCDGに入った。同行は妻と秘書のK君。駅前でTAXIを拾ってGare de Lyonに出た。いつもならシャトル便で市内に向かうのだがその時はTAXIだった。Gare de LyonからDijonまではTGVで一時間半程度。到着は夕方近かった。そのまま駅前でTAXIを拾って パラントゥ畑Cros-Parantouxまで行った。30分程度。車を降りて畑を三人で見つめた。 「歩くぜ」 村道から横に入るあぜ道に入った。200m歩くとみちが無くなった。目の前に葡萄畑が広がっている。収穫が終わった後だ。 「小さい畑だよな」僕が言うと、並んでい

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-17/オスピス・ド・ボーヌとワイン博物館

    アール・バルタール・カフェの前に石畳みの歩道がある。ボーヌ市場を横に見て、少し歩くとオスピス・ド・ボーヌに着く。途中にVisiotrain(Rue de l'Hôtel Dieu, 21200 Beaune)がある。記者のデザインをしたオープン式のバスが停まっていた。 「あら、このツアー、乗ったわね」と嫁さんが言った。 「ああ、わりと面白かったな」 オスピス・ド・ボーヌは、コの字の形をした建物だ。木骨が美しく組まれている。2階建ての建物の中にはロランとその妻、大家族の人々の肖像画が幾つも飾られていた。保存状態はいい。病院時代の構造を今もそのまま継承して、棟は事務室/厨房/薬局に分か

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-16/オスピス・ド・ボーヌ

    アール・バルタール・カフェBistrot des Halles Baltard café(14 Pl. de la Halle, 21200 Beaune)はボーヌ市場の前にあるカフェで、ボーヌ滞在中の朝はわりとここへお邪魔する。 https://m.facebook.com/pages/Baltard-Caf%C3%A9/149070515129652 同じホテルへ長期滞在すると、いつも同じ料理に飽きてしまうので、天気が良いときはふらりと村へ出る。でもボーヌ村は観光向けというより生活の村なので、店々が始まるのは遅い。それと月曜日は日月と続けて休みの店も多い。あるていど目途をつけて置か

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-15/戦闘機とオートバイと農工作機02

    サヴィニー レ ボーヌ城Chateau de Savigny-les-Beaune(Rue Général Leclerc, 21420 Savigny-lès-Beaune)の玄関に着いた。オープンは9時からだそうだ。 Château de Savigny-lès-Beaune, ses vins et ses musées Chateau du 14e siècle, exploitation viticole et collections i www.chateau-savigny.com 博物館は9つに分かれている。 ➀航空博物館 大きな庭に100機

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-14/戦闘機とオートバイと農工作機

    https://www.youtube.com/watch?v=G_Mzvdou8AI 「今日はワインにも歴史にも関係ないモノを見に行く」 「ふうん、遠いの?」 「遠くはない。でもVTCを頼んだ。 ➀PRESTIGE VTC BEAUNE(8 Rue du Clos des Capucins, 21200 Beaune) https://www.facebook.com/beauneprestigevtc/ ボーヌはタクシー会社が多い。ホテルに頼むとすぐに用意してくれる。自分で頼むよりホテルを頼んだ方が確実で信頼できるドライバーが多いので、ぜひそうすることをお勧めしたい。 ➁Ta

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-13/デジョン・マスタード

    メゾンド・モーリス・アパートを出て右に5分ほどで城壁を出る。城壁を囲むD470を渡ってフォーブルグブルトニエール通りRue du Faubourg Bretonnièreへ直進すると右側にCafé de France Les Routiers(13 Rue du Faubourg Bretonnière, 21200 Beaune)+33380222544というカフェがある。ここで朝食を済ませた。ちょうど仕事へ出る時間だろうか。地元の人ばかりで観光客は僕らだけだった。 素敵なカフェオレとバケットを頂きながら昨夜の続きを始めた。 「僕らにとってコート・ド・ボーヌはワインの地だろ? でも史

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-12/憑依した民に破壊されたボーヌ

    フランス革命をまともに受けたボーヌ村は、現存している教会が少ない。➀Basilique Notre-Dame(Pl. du Général Leclerc, 21200 Beaune)も荒らされ尽くされた。しかし幸いに全焼までには至らなかった。 https://www.paroisse-beaune.org/la-basilique-notre-dame/ 七月王政下に入り1800年半ばになると、その憑依のような破壊をフランスは漸く修復し始める。Viollet-le-Ducらが中心になって、多くの建築物/教会が修復されるようになった。 「このステンドグラスは、その時に作られたの?」祭

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-11/ローマ教会とクローヴィスを繋いだもの

    ガリアに進出したゲルマン人の中で最初の成功者は、間違いなくブルグント人だった。彼らが支配したのがブルグンド王国Kingdom of the Burgundiansだ。西暦411年、ブルグンド王グンダハールGundaharがアラン王ゴアールGoarと手を組み、ヨヴィヌスJovinusを傀儡皇帝として立ちあげたものである。彼らはフランス東南部からスイスに及ぶ地域を支配していた。 その後を追ったのがフランク人だが・・当初彼らは頭角を伸ばせないままでいた。ガリア人と戦い、一方で他ゲルマン人とも戦うという状況に陥り、鳴かず飛ばずの状態だったのだ。 それを変えたのがクローヴィスだった。彼はローマ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-10/パクスローマナの終焉

    弱体化したローマの間隙を縫って、ゲルマン諸部族がライン川を超えてブルゴーニュへ流れ込んできた。 最初の大きな襲撃(256-259)はアレマン人からだった。 アレマン人はライン川上流地域を定住域としていたゲルマン人部族連合で、独自の言語と独自の文化を守り、牧畜を主体とした固定農業を営む部族である。彼らはその定住地域をエルザス(アルザス)/スイス/フォアアールベルクに広げていた。彼らは言語的にも文化的にもローマ/ケルトとは異質な人々で、先住民と共存せず徹底的な破壊行為で土地を奪う人々だった。したがって土地のガリア人とアレマン人の戦いは妥協点なく熾烈を極めた。 後にブルゴーニュへ侵出するブル

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-9/サンマルタンの野望02

    「時系列で比較してみると・・ブルゴーニュにサンマルタンの"宗教維新"が吹き荒れたのは370年代半ばごろ。実はその20年後395年、贅肉に喘いだローマは東西に分裂している。サンマルタンが教団を引き連れてやってきたとき、ローマはすでにローヌ川流域を自らの経済的大動脈として管理できなくなっていたんだ」 「商売は?」 「交易は動いていた。しかしその統制は腐敗し始めていた。『ローマの平和Pax Romana』は最爛熟期を越えて機能しなくなっていたんだよ。そこにサンマルタンの"宗教維新"が我らにも利益をと雪崩れ込んできたわけだ」 「え~だって、キリスト教の布教でしょ?」 「もちろんそうだ。しかしそ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-8/クリマ

    https://www.youtube.com/watch?v=ykCOHfsJeS4 ボーヌ観光案内所OFFICE DE TOURISME BEAUNE & PAYS BEAUNOIS(6 Bd Perpreuil, 21200 Beaune)で資料集めしたあと、隣のMaison des Climats(Porte Marie de Bourgogne, 21200 Beaune)へ寄った。 https://www.beaune-tourisme.fr/ https://www.climats-bourgogne.com/fr/maison-des-climats_64

  • トランプ下院議長?

    ほぼ誰でもなれる資格のある米下院議長、例外はトランプ前大統領 米共和党の中には、次期下院議長に議会のメンバーではないトランプ前大統領を推す声もある。 www.bloomberg.co.jp しかしそれでも10月4日朝。トロイ・ニールズ下院議員がマッカーシーの後にトランプを指名した。 Kevin McCarthy will NOT be running again as Speaker. I nominate Donald J. Trump for Speaker of the House. — Congressman Troy E. Nehls (@Re

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-7/サンマルタンの野望

    https://www.youtube.com/watch?v=lMUJ_2IezIQ La Table du Squareを出て、そのままボーヌ村の城壁に沿って歩いた。 「トゥールからサンマルタンが軍団を連れてブルゴーニュに入ったのは紀元372年から377年だった」 「どうしてサンマルタンはブルゴーニュに布教へでたの?」 「ん。その理由は大事だ。でもその話の前にサンマルタンの話をしよう。 おそらく・・サンマルタンはアグリッパ街道Lyon-Blougne線を利用してCavillonumに入った。資料はない。しかし間違いなくそのルートだと僕は思う。トゥールからブルゴーニュまでは40

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-6/ガリアの血・古代ボーヌ

    ブゼーズの泉の周囲をゆっくりと散歩した後、フォーブール・マルタント通りRue du Faubourg Saint-Martinへ出て、ボーヌの城壁へ戻った。そしてD974を左へ曲がった。 「ちょい先にテラス席が広いレストランがあるんだ。そこで昼飯しよう。 ➀La Table du Square(26 Bd Maréchal Foch, 21200 Beaune) La table du Square à Beaune, Bourgogne La Table du Square livre une cuisine d’instinct, généreuse et tabl

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-5/ガリアの血・古代ボーヌ

    【夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-5/サンマルタンの布教戦術】 「ボーヌBeauneの名前の由来になった水神「ベレンBelen」の泉、ブゼーズの泉跡Parc de la Bouzaiseを見に行く」 「遠いの?」 「近いよ」 「なにかあるの?」 「ない。公園と泉があるだけだ。でもそこがボーヌの始まりになった聖なる泉なんだ。むしろ飾り立てずそのまま憩いの場所として2000年残っていることのほうが凄いと思わないか?今は近所の子供たちの遊び場だ。老いた偉人が普通の老人として子供たちと遊んでいる・・そんなとこだ」 「ふうん。行ったことあるの?」 「ん。20年くらいまえにな。観光局のページ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-4/交易のハブとしてのボーヌ

    「ボーヌは殉教の嵐から逃れていた。この村にそのテの伝説はない。たしかにアグリッパ街道へ抜けるハブとして紀元前から存在はしてたが、中央から流れてきた洗礼者たちを魅了脛物は何もなかったのかもしれない。ガリア時代からの聖なる泉と荷役を休めるための場所。そして小さな葡萄畑があるだけだったからな。暮らしているのは土地のガリア人と、交易のために入って来たガロロマーナ(混血児)だけだったし・・彼らはローマの神々を信仰し、ガリアの神を敬い、そこになんの齟齬はなかったんだ」 「キリストも仏さまも神社も、みんな神様・・というわけね」 「ん。きっと七五三は神社に行って、結婚式は教会へ行って、葬式はお寺で挙げ

  • ぎんざものがたり1-8/アーニーパイル劇場08

    1946年2月25日。朝から不機嫌だったバーガー中尉は、顔を合わせる連中全員を怒鳴り散らしていた。しかし憤懣は納まらなかった。 黄色いサルの芝居に、あれほど喝采が上がるとは・・まさか思いましなかった。そのうえ、そのなかにUSOから回された男が甲斐甲斐しくあれこれ融通を付けていることが腹立たしくて、あいつのせいだ!と思い出すたびに歯ぎしりをした。しかしUSOに手は出せない。色恋の不祥事でもあれば追い出されるのだが・・なにか尻尾を掴めないのかと、その日は朝からそればかりを考えていた。 そのバーガー中尉の不機嫌が彼の注意を反らした。昼直前に訪ねてきた数名の訪問を誰も彼に伝えなかったのだ。その

  • ぎんざものがたり1-7/アーニーパイル劇場07

    ステージは翌日朝から練習が始まった。ステージの横にアップライトが置かれ、紙恭輔が座った。 全体のショーは数10のパーツに分かれ、伊藤道郎が全体とのつながりを説明しながら一つ一つ振付を付けた。 黙ってステージを見ていた紙恭輔が途中から音楽を挟んだ。曲は著名なブロードウェイソングだった。振付魔途中で曲が何度も替わった。振付と曲が少しずつじっくりと纏まっていった。衣装と大道具小道具は伊藤道郎が描いたラフスケッチから次々と試作されていった。これも途中で何度も作り直しが起きた。 小道具や衣装が東宝の持ち物で足りなくなると、JabberKolgが何処からか調達をした。スタッフの食事飲み物は完全にJ

  • ぎんざものがたり1-6/アーニーパイル劇場06

    米兵向けの舞台を作ってほしいと米八軍民政担当から依頼されたとき、伊藤道郎が一番最初に考えたのは、和式ではなく洋式のバンドが必須だ、ということだった。そして彼らから、開催は東京宝塚劇場で行ってもらいたいと重ねて言われたとき、彼は「出来るか?」と一瞬逡巡した。少女たちを「らしく」仕上げることは出来る。楽隊は東京宝塚の専属で作れる。足りなければ街ばに声かければ集まる。・・しかしアレンジャーはどうだろうか?東京宝塚の専属を使えるのか? 客は少女歌劇を求めてはいない。大人の女性の演技を求めているのだ。それに相応しい音楽監督がいる。少しの違和感もなく米兵たちにジャズを紡げる譜面の書ける男が要る。既

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-1-5/愛と慈悲

    パリ・リヨン駅06:52発のリヨン行きはデジョンまで1時間41分で到着する。到着時間は08:33。 ブルゴーニュは何年かに一度訪ねているが、宿泊するのはいつもボーヌ村だ。デジョンには何か目的がない限りは泊まらない。 ボーヌ村は小さい。"31Km"とモノの本には書いてある。村の大きさは6km四方。充分ハジからハジまで徒歩圏内でokなところだ。 村は中世のころに作られた城壁に囲まれており、胸壁/城壁/堀とも今でも良好な状態で残っている。村の中は迷路のように道が繋がっているが、サイズが小ぶりなので何回か迷っているうちに段々と状況がつかめてくる。そのときの指針が村の壁で、これを越えなければ、歩

  • ぎんざものがたり1-5/アーニーパイル劇場05

    日本のUSO(The United Service Organizations)米慰問協会オフィスは横須賀にあった。東京宝塚接収の話がでたとき、急遽日比谷の明治会館ビルに出張所が用意されたのは、演目施設が巨大で(3000名収容)現場での即応が必須だろうと考えたからだ。担当者はJabberKolg。おしゃべりコルグという。30半ばの北欧系で「姦しい」を絵に描いたような人物だった。悪い人物ではない。しかし、USOが宝塚で公演が決まった時、スタッフは全員一致で彼を推した。「いいチャンスだ。JabberKolgを島流しにしょう」と決めたのだ。JabberKolgは嫌々単身で明治会館勤務となった

  • 夫婦で歩くシャンパニュー歴史散歩: ランス/エペルネー/アイ/モンタニュー周辺

    夫婦で歩くシャンパニュー歴史散歩: ランス/エペルネー/アイ/モンタニュー周辺 www.amazon.co.jp 0円 (2023年10月03日 11:51時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する EPERNAY駅そばにあるGare Routièreからバス51R160でル・メニル=シュル=オジェLe Mesnil-sur-Oger行くことができる。しかし本数は少ないし発着は時間か定まっていない。到着駅はCENTREになる。時間は45分程度。D10を走るルートになる。詳細はFluo Grand Est-

  • ぎんざものがたり1-4/アーニーパイル劇場04

    1946年よりアーニーパイル劇場舞台総監督に就任した伊藤道郎は、高長身の目から鼻に抜けるような俊才だった。 彼は開戦までNYCオフブロードウェイで活動していたが、1943年に家族を残して日米交換船で帰国していた。このブロードウェイ時代に、彼を恩師としていた将校がいた。彼がThe United Service Organizationsを通してダイク准将に伊藤道郎を紹介したのだ。伊藤は即断して仕事を請けた。 就任初日、舞台にスタッフ全員を集めた彼は、こう言い放った。 「米兵でも分かる程度の演目をやる。」 スタッフは、戦前からの宝塚の社員だった。彼らは伊藤の放った言葉に茫然とした。 「米

  • 47万6千年前、誰が組み木細工の工作物を作ったのか?

    北アフリカ・ザンビアに、Kalambo Falls(C63Q+3R4, Sumbawanga, Tanzania, Tomo Sakalani)という滝が有ります。ここはとても面白くて、今まで何回か10万年位前に使用された木材が発見されています。 はい。樹木を切り出し加工して作った・・木材です。 9月20日のネーチャー誌が以下のようなnewsを発表しました。 Evidence for the earliest structural use of wood at least 476,000 years ago - Nature Wooden artefacts from w

  • ぎんざものがたり1.3/アーニーパイル劇場03

    現場の混乱は年明けも続いていた。米将兵とスタッフの間はかなり険悪な雰囲気になっていた。 結城支配人は何度もバーガー中尉に呼び出されていた。しかし一向に事態は進展しなかった。 1946年1月9日、連合国極東委員会が来日した日。第一生命にあったGHQ本部も、壮々たる委員一行を迎え入れる帝国ホテルも、朝から沢山の兵隊たちが緊張した面持ちで出入りをしていた。しかし隣に有った東京宝塚劇場は相変わらず開場の目途も付かず機能不全のまま硬直していたのだ。・・その日午後一番、いつものように結城は総支配人室に呼び出され、バーガー中尉の叱咤を受けていた。 その席にノックもなく兵士が飛び込んできた。「失礼し

  • ぎんざものがたり1-2/アーニーパイル劇場02

    日比谷東宝劇場がGHQに接収されたのは1945年12月24日だった。 その日の朝、唐突に終戦連絡事務局の人間がロバート・バーガー中尉Lieutenant Robert Bergerと数人の将士を伴って劇場総支配人結城雄次郎を訪ねた。そして接収通知を出した。 「本日をもって本劇場は第8軍の管理下に入る」という通告書だった。 結城は半ば覚悟していたので殆ど動じなかった。 「本劇場の総支配人は本日より、ここに居られるバーカー中尉が就かれる。結城さんは補助に回ってください。」終戦連絡事務局の人間が言った。 「本劇場は連合軍兵士の為の専用慰安施設として利用される。運営費はすべて戦争賠償金で賄わ

  • ぎんざものがたり1-1/アーニーパイル劇場01

    https://www.youtube.com/watch?v=VgNLMiesBPk 3月28日、出社初日。小美世は和装を勧めたが千鶴子は洋装を選んだ。RAAのダンサー寮からまだ荷物の引き上げはしていなかったので、普段着だった。 「初日なのにねぇ」小美世が名残り惜しそうに言った。 千鶴子は微笑みながら玄関に立つと、ゲンが台所から顔を出した。 「ダンサー寮の荷物、俺が今日運びだすよ。辞めて出てくとなりゃ、不心得な奴らもいるから。失せ物が出ないうちに片付ける」 「ありがと・・ごめんね。・・じゃ、行ってきます」 「俺、途中まで送る」 「大丈夫よ。昼間だから」 「でも、送る」 二人は並

  • ぎんざものがたり/Previously on Chizuko's way of life#02

    *これまでのお話から 拙書「小説特殊慰安施設協会」から引用。 小説特殊慰安施設協会: RAAその興亡の半年 www.amazon.co.jp 144円 (2023年10月02日 02:26時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する その夜、千鶴子は解雇された話をゲンと小美世にした。 「オレも辞める。」ゲンが言った。 「ダメ、お願い。それだけは止めて!」珍しく千鶴子が強く言った。 「・・でも」 「ダメ。もしゲンちゃんまで私のせいで辞めたら、私は申し訳なくて此処に居られなくなるわ。」 ゲンは

  • ぎんざものがたり/Previously on Chizuko's way of life#01

    *これまでのお話から 拙書「小説特殊慰安施設協会」から引用。 小説特殊慰安施設協会: RAAその興亡の半年 www.amazon.co.jp 144円 (2023年10月02日 02:26時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 1946年2月2日。GHQからの指令で正式な廃業命令が警察から通達されると、全国の米兵向け慰安施設は次々と閉鎖されていった。R.A.A.特殊慰安施設協会も準備を進めた。そして3月27日、R.A.A.は全ての慰安施設全店を閉鎖するという通達を全社に出した。その通達は、

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩/1-1-2 ワインのちゃんこ鍋

    「パストグランって、ブルゴーニュだけで作っているんでしょ?他の所のものは見たことないわ」 「原産地呼称法AOC(L'appellation d'origine contrôlée)で決められた名称だからな。シャンパンみたいなものだ。シャンパニュー地域で作ったものしかシャンパンと呼ばないだろ?アレと同じだ。ソーヌ エ ロワール県、ヨンヌ県、コートドール県、ローヌ県の中で、決められた製法内で作られているワインだけがパス・トゥ・グランPASSE-TOUT-GRAINSと名乗れる。AOC指定されたのは1937年、意外と古いんだ」 「決められた製法?」 「ガメイとピノ ノワールのブドウ品種をブレ

  • 夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩/1-1-1 古都ボーヌのパストグラン

    「ボーヌへ来ると、赤ワインはいつもパストグランPasse-tout-grainsね」ランチの時に、嫁さんが言った。「ブルゴーニュに来たらな。ムリにピノにしない。メゾンでパストグランはないが、普通に町で食事するなら、こっちの方がジャストフィットだ」 テーブルの上にはBourgogne Passe Tout Grains Les Chapitres de Jaffelinのボトルが乗っていた。 https://www.maisonjaffelin.com/ 昼をちょっと回ったところだった。➀Le Central Boutique-Hôtel(82 Rue Victor Millot, 2

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