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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • シャンパニュ歴史紀行7-1-8~おわり/シャンパニュ古代都市トロアヘの旅

    遅めの朝食のあと、チェックアウトした。予約したVTCでMontgueuxへ向かった。市内を出てからD660サン道路を西進する道だが、ドライバーさんにお願いしてホテルの北側を走っているセーヌ川沿いを走ってもらうことにした。アンリ・バルビュッス通りBd Henri Barbusseである。車の通りが少ない爽やかな道だった。 D661は旧市街地を抜けても町並みが続いた。大抵のフランスの道は市街地を出るとすぐに畑になってしまうのだが、トロアは旧い街だからなのか、長く長く町並みが続いた。ようやく郊外という風になったのはD660を交差してD141に入ったあたりからだった。しばらく走ると水平線近くに

  • シャンパニュ歴史紀行7-1-7/シャンパニュ古代都市トロアヘの旅

    https://www.youtube.com/watch?v=cJV9vfuND08 「パリを囲む城塞跡を歩いたとき、近郊の農家はその外壁で生産物を売った・・という話をしたよね?リヨンでもその話をした」 「ええ。市民税でしょ?外壁で商いをすると税金がかからないから。リヨンは食堂も居酒屋も外壁に有って、夕方になると市民は壁を越えて買い物したり食事をしたという話。リヨンにワインを売りに行った農夫たちの話でしょ?」 「うん。そのことでリヨンは外壁を跨いで大きな町になっていった。 この"通行"税と言う奴な。これが広範囲で行われる交易の大きな阻害要素だったんだ。 シャンパニュー公はこれを

  • シャンパニュ歴史紀行7-1-6/シャンパニュ古代都市トロアヘの旅

    https://www.youtube.com/watch?v=6EhE240Pzsg 一時間ほど道具と職人博物館を見学した後、再度トリニティ通りへ出て、すぐ前のグルニエ路地Rue des Greniersを抜けてテュレンヌ通りRue Turenneを挟んで、もうひとつ路地マルシェ・オー・ノアRue du Marché aux Noixを抜けた。 「なんか1mもない迷路の中を歩いてばかりね。中世の中に飲み込まれそうな感じ」嫁さんが言った。 「ん。これがトロアの醍醐味だ」 「あんまりいらない醍醐味だけど・・」 「出たところにヴォールイザン美術館Musée de Vauluisant

  • シャンパニュ歴史紀行7-1-5/シャンパニュ古代都市トロアヘの旅

    ホテルで朝食を済ませてから、トロア大聖堂まで歩いて左折、シテ通りを旧市街に向かって歩いた。そのままトロア運河を渡ると目的地になる。そのまま5分ほど歩くと公園にぶつかる。公園の横を歩くと最初の目的地であるトロア観光案内センター➀Troyes Champagne Tourism(16 Rue Aristide Briand, 10000 Troyes) https://www.troyeslachampagne.com/ 公園を過ぎると、突然大きな道路になるので、観光案内センターを探すのに一瞬戸惑うかもしれない。公園から見て前面右側にある建物でⓘというマークが目印。MAISON TOURI

  • シャンパニュ歴史紀行7-1-4/シャンパニュ古代都市トロアヘの旅

    https://www.youtube.com/watch?v=bIqYVIR0a5Q ディナーは出かけずにホテルのレストランを予約した。客は僕らを入れて3組。壮年の方ばかりだった。料理のクオリティは高い。ワインはグラスでシャンパンとモンラッシェの白。そして赤はピノのCOTEAUX CHAMPENOISにした。JACQUES LASSAIGNEである。 「JACQUES LASSAIGNEは通年ではないが、COTEAUX CHAMPENOISを作る生産者なんだ。モンギューMontgueuxにある」 「モンギューって聞いたことない。」 「この近くだ。トロワから西へ10kmくらい行っ

  • シャンパニュ歴史紀行7-1-3/シャンパニュ古代都市トロアヘの旅

    https://www.youtube.com/watch?v=if2C2DXbYdY 『Le Dropkick Bar Troyes』を出てシテ通りRue de la Citéを旧市街の方へ歩いた。 「あら、いくつもストランがあるのね」 「ん。大聖堂へ向かう道だからな、旧い門前町だよ。少し先にトロア運河があるらしい。行ってみよう」 シテ通りは、どちらかというと寂れた通りだ。門前町の華やかさはない。 10分ほど歩いて運河にぶつかった。 「トロア運河はセーヌ川にもっと右の奥の方で繋がっている。この辺にトロアの城壁が建ち並んでいたようだ。当初はアウグスボナ トリカシウムAugusto

  • シャンパニュ歴史紀行7-1-2/シャンパニュ古代都市トロアヘの旅

    https://www.youtube.com/watch?v=6Rcdd8kw-3k 「ところで・・人々が各々の生産物を持って集まるのは、キリスト教国家では修道院/教会の囲壁にだった」 「え?何??大聖堂の前でハンバーガー食べてるからする話題なの?」 「いや、なんでパリへ戻る前にトロアに寄ったか?という話さ」 「あぁそう。そもそもから始まるわけね、そのそもそも、ハンバーガーが食べ終わるまでに終わりそ?」 「そうした集まりが自然発生的に出来るのは、修道院/教会に人が集まるときだった。祭日Feriaeだよ。だから市場はFairって呼ばれていたんだ。Fairはそのままラテン語のFor

  • シャンパニュ歴史紀行7-1-1/古代都市トロアヘの旅

    https://www.youtube.com/watch?v=bQlo24iZLtE 朝早く起きてチェックアウトを済ませてReimの駅からChâlons En Champagne駅を目指した。TERで30分程度。ここからTroyesまでは1時間20分くらい。乗り継ぎはいい。 目指すはトロアGare De Troyesの駅である。 シャンパニューの首都は長い間、トロアだった。フランスを作った男、クローヴィスは此処を拠点にしていたからだ。 たしかに歴史として見るならば、ローマ街道が交差するランスの方が経済的にも政治的にも強かったが、クローヴィスの幕舎があったこと。そし

  • 米国のグローバリゼーションビジネスは停まった

    http://charleshughsmith.blogspot.com/2023/09/six-reasons-why-corporate-profits-will.html 米国のグローバリゼーション・ビジネスは停まった。 1990年からの2008年までの急進はない。とくに2001年に中国がWTOに加盟したところから始まった急成長はリーマンを挟んで完全に水平状態になっている。 そしてもうひとつ大きいのは、グローバリゼーションによって得られるものがチープになっていることだ。原価を徹底的に抑えたファストビジネスになっている。つまりデザインは良いが長持ちしないものばかりになった。それで

  • シャンパニュ歴史紀行6-1-2/サロンのある村ル・メニル=シュル=オジェを訪ねる

    「ウジェーヌ・エメ・サロンは毛皮商だった。資産家だった。彼がメニル・シュル・オジェ村に自分の畑を1ha分買ったのが1900年ごろで、最初はプライベート用として生産していた」 「自分用だったの?」 「違うね。知り合いの金持ち連中に振舞ったんだ。ワイン仲間で一番言われる悪口がこれさ。金に余してワイナリーを買って、それを知り合いに配り始める。で?どうだった?どうだった?と聞きまわる。こんな迷惑な話はない。ワインコレクションは友だちを増やすが、ワイナリーの経営は友だちを失う」 「サロンさんは失ったの?} 「いや大評判になった」 「あらま」 「それなんで1920年にメゾンとして販売するようになっ

  • シャンパニュ歴史紀行6-1-1/サロンのある村ル・メニル=シュル=オジェを訪ねる

    EPERNAY駅そばにあるGare Routièreからバス51R160でル・メニル=シュル=オジェLe Mesnil-sur-Oger行くことができる。しかし本数は少ないし発着は時間か定まっていない。到着駅はCENTREになる。時間は45分程度。D10を走るルートになる。 詳細はFluo Grand Est-33 9 70 80 90 10に問い合わせると可能だが、利用は至難だ。お勧めできない。 訪ねるのはVTCが良いだろう。 VTCだとD3シャンパニュー街道をOyrに向かって右折D9を進むコースだ。時間は20分余り。 もちろん➀Champagne Delamotteも➁Champa

  • オートファジーの仕組みについて

    オートファジーの仕組みについて オートファジー-ノーベル賞を受賞した大隅栄誉教授の研究とは ノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅栄誉教授の研究「オートファジー」の概要、研究への想いや研究室の様子をご紹介します。20 www.titech.ac.jp 大隅先生の話を聞こう

  • オートファジー制御ネットワーク

    大阪大学大学院生命機能研究科の大学院生 塩田達也さん(細胞内膜動態研究室)、吉森保教授(生命機能研究科細胞内膜動態研究室/医学系研究科遺伝学)、奈良県立医科大学医学部医学科 生化学講座の中村修平教授らの研究グループは、モデル生物線虫を用いて、寿命延長に必須な神経系を起点としたオートファジー制御ネットワークを世界で初めて明らかにしました。 神経系を起点とするオートファジー・寿命制御ネットワークを解明 大阪大学大学院生命機能研究科の大学院生 塩田達也さん(細胞内膜動態研究室)、吉森保教授(生命機能研究科細胞内膜動態研究室/ resou.osaka-u.ac.jp

  • シャンパニュ歴史紀行5-2-9/ドン・ペリニオンから見えるもの・シャンパニュービジネスについて#07

    夫婦だけでフレンチレストランへ出かけるとき、我が家はその店のチョイスしたペアリングにすることが多い。以前は泡・白とグラスで頼んでボトルで赤と言うチョイスが多かったのだが・・年取ったからね。最後にボトル一本がきつくなった。 ワインリストから何を選ぶかはその時の料理のメニューを見てから決めるが、嫁さんとの食事はピノ・ノワールが多い。コート・ドールのものが多い。 逆に接待で顧客や知り合いと出かけるときは、逆にピノは選ばないことが多い。相手の好みに合わせる。ワインの喜びは思い出を共有する喜びだ。共に愉しんだワインは何年も何年も経ったとしても話題として残るのだ。したがって同じ人物と(それが接待で

  • シャンパニュ歴史紀行5-2-8/ドン・ペリニオンが視たもの・泡入りワインの夢#06

    オーヴィレール修道院の右前にある緩やかな細い階段を降りるとキュミエール通りにぶつかる。この辺りはモエシャンドンの持ち物だ。階段の左側に比較的小ぶりの家が並び、右側はそのまま白亜の壁が続く。キュミエール通りに続く白亜の壁の向こうに小さなドアがある。ここがモエのオーヴィレーにあるドンペリニオンのための展示室だ。要予約である。+33326519321(226 Rue de Cumières, 51160 Hautvillers)階段からキュミエール通りを左に歩くともすぐにMarion Bosser(1 Rue de la Croix de Fer, 51160 Hautvillers)がある

  • シャンパニュ歴史紀行5-2-7/ドン・ペリニオンが視たもの・泡入りワインの夢#05

    「ブルボン朝を倒した七月王政は、1830年7月29日からだ。七月王政は1848年2月24日に2月革命で倒れるがな。時代の趨勢は1800年代初めから資本家たちが握っていた。七月王政は王族と教会による支配のフィナーレだったんだよ」 「共和制になったの?王様はいなくなったの?」 「そうはいかない。傀儡だったオルレアン家のルイ=フィリップが国王を継いだ。政治体制は立憲君主政とした。もっともここで組成された議会の構成員は有資産者だけだ。ブルジョアにしか発言権はない議会だった。・・この18年間そして月革命以降のナポレオン三世時代を通して、時代は「資産家のもの」として着実に地固めされた。シャンパニュ

  • シャンパニュ歴史紀行5-2-6/ドン・ペリニオンが視たもの・泡入りワインの夢#04

    「シャンパニューの大市は縮小化していたが健在だった。そこで発泡性ワインが売れた。買ったのは英国人だ。英国の貴族たちがこれを希少品として飲んだ。ここに全く誰も思いつかなかったマーケットが発生したんだ。もちろんその前から発泡性ワインを生産していた地域もあった。ラングドックリュションだ。しかし普及はしなかった。マーケットが狭かったためだ。 シャンパニューの大市は違う。マーケットは世界へ開けている。・・そこに新しいワイン/そこにボン!と発酵したガスが溶けたワインが登場したんだ。マーケットがあれば革新性の高い商品は受け入れられる。売れるんだよ」 「それが1700年代の初め?」 「そうだ。・・これ

  • 【シャンパニュ歴史紀行5-2-5/ドン・ペリニオンが視たもの・泡入りワインの夢#03】

    「でも・・そんなに神格化されるほど偉い人だったんでしょ?でもなぜ博物館が博物館みたいなものを作ってないの?僧侶だったから?」 「彼の仕事場みたいなものは残っている。公開はされていない。すべてモエ・シャンドン社の私的所有物だからな。特別に招待された人たちだけが見られるんだ。でも、ついこの間、特別限定で一般公開されたが・・常設はされていない」 「なぜ行かなかったの?わかってて行かなかったの?」 「まあそれは言うな。伝手を辿っても無理やり行きたいとは思わなかった・・で、やめとく」 「あぁそう・・肖像画もないし、彼を実際に感じるものはないの?」 ゜ある。あるけど公開はされていない。モエは彼を神

  • シャンパニュ歴史紀行5-2-4/ドン・ペリニオンが視たもの・泡入りワインの夢#02

    https://www.youtube.com/watch?v=ty6IDYEpAfs ドン・ピエール・ペリニオンが亡くなったのは1715年。彼は修道院長専用として確保されていた墓地の一区画に埋葬された。修道院の中は公開されていないので隣接している教会を訪ねた。祭壇に向かう道に黒いモニュメントが埋め込まれている。一つはドンペリニオンのものであり、もう一つはドン・ティエリー ルイナールのものだ。 「ルイナールも此処で亡くなったの?」嫁さんが言った。 「いや違う。ルイナールは研究のための旅行中に発病し亡くなった。52歳だ。1709年 9月 27日だ」 「ドン・ペリニオンより先に亡く

  • シャンパニュ歴史紀行5-2-3/ドン・ペリニオンが視たもの・泡入りワインの夢

    https://www.youtube.com/watch?v=ty6IDYEpAfs Royal Champagne Hotel & Spaで早い朝食を進ませてtaxiでオーヴィエ村Hautvillersへ向かった。 「ベニスで話した黒死病の話を憶えているかい?」 「ペストでしょ?」 「ん。中東から持ち込まれた絨毯に付着していたものだ。1346年から始まって1350年代を中心に欧州全土を覆った伝染病だ。欧州人の1/3が亡くなった。・・実はその直前、北部欧州は大飢饉に襲われている。1310年から 1330年にかけてだ。インドネシア中部リンジャニ山が1257年に大爆発を起こ

  • 日本人の平均年間給与は?423万円

    1 平均給与|国税庁 www.nta.go.jp 日本人の平均年間給与は?423万円。 ウソだ。200万~300万円が中核だ。平均以下が61.6%いる。

  • シャンパニュ歴史紀行5-2-2/オーヴィエ村を1泊で観る・サンプル

    一泊で何れかの町を散策するとき、僕は一番早い方法でその町に入り、翌日一番遅い方法でその町を出る。 オーヴィエ村歩きも、そのスタンスでいたいと思う。したがってスケジュールはかなりヘビーになる。 まずスタートは前章と同じで、先ずはエペルネーからTAXI/VTCで出発になる。 もしエペルネーに概にいるのではなく、パリから出発だとⒶ8:35にTERエペルネー直行がある。(TER839916)これに乘ると10:00には到着する。 あるいはⒷ8:28のTGVでランス。(TGV INOUI2709)ここで乗り換えてエペルネーというルートもある。(TER839916)これでも到着は10:00だ。 ラン

  • シャンパニュ歴史紀行5-2-1/オーヴィエ村の一日でどう観て歩くか

    Hautvillerはオーヴィレール村か、オーヴィエ村かというと・・発音に近ければオーヴィエだね。オーヴィレールという訳語なのは最初に翻訳した人がそう書いちゃったから・・なだけ。ただ公式な日本語はオーヴィレールなってるので、修道院にだけはオーヴィレールという訳語を使った。あとは、オーヴィエ。 さて、このオーヴィエ村Hautvillersをどう見て歩くかは、一泊する否かで大きく変わってしまう。 オーヴィエ村へ行く主目的がオーヴィレール修道院Église abbatiale Saint-Sindulphe d'Hautvillersの訪問ならば、日帰りで十分だ。なのでまず、日帰りの話から

  • シャンパニュ歴史紀行5-1-1/オーヴィエ村へどうやって行ってどこに泊るのか

    https://www.youtube.com/watch?v=MHDsYqdn_Fs&t=101s オーヴィエ村Hautvillersへの向かう公共機関はない。 エペルネーからTAXI/VTCだと15分くらい。D951からD301に入りしD386オーヴィエ通りを直進するコースだ。 エペルネーには二つのVTC会社がある ➀GROOM EPERNAY VTC https://www.groomepernay-vtc.com/ ➁The Bubble Shuttle https://www.thebubbleshuttle.fr/ メールでスケジュールの提示すれば予約は簡単に

  • スティーブルコインが見せる近未来

    https://jp.reuters.com/markets/currencies/DDS7HXRAOVM7RO5A5CZPKHBNVM-2023-09-11/ 三菱UFJ信託などが共同検討、24年にも国産ステーブルコイン発行 三菱UFJ信託銀行は11日、世界的に流通可能な国産ステーブルコインの発行に向けた共同検討を開始したと発表した。共同検討に参 jp.reuters.com ゆっくりと目立たないまま日銀発行紙幣から政府紙幣化へ動き始めています。政府発行紙幣はデジタル通貨です。 発行された通貨は全て政府のマザーコンピュータで管理され、何処に誰が所有し、どう

  • シャンパニュ歴史紀行4-2-3/アイAÿ村を2泊で観る・サンプル03

    https://www.youtube.com/watch?v=NOQsY0v3ehM アイAÿ村を2泊3日のモデルコースとして 一日目/TAXIでホテルにチェックイン。午後からChampagne AYALAを見学。徒歩でホテルへ戻る途中に幾つかのメゾンへ予約なしで入る。夕食は帰途にLE19CENTで。 2日目/Champagne BollingersとGossetを見学同じく徒歩でホテルへ戻る途中に幾つかのメゾンへ予約なしで入る。夕食は帰途にLa Table du 18で。 夕食後ホテルに戻り、荷物をpickup。TAXIを呼んでもらってホテルはManoir Henri Gir

  • シャンパニュ歴史紀行4-2-2/アイAÿ村を2泊で観る・サンプル02

    https://www.youtube.com/watch?v=jjRJV_BN_0Y TERの駅Ay-Champagneはアイの村からは1kmくらい離れている。村までの間にはメゾンに関連する業者の倉庫や建物が並んでいるだけだ。フランスの地方駅は何処も繁華街の中に駅を置かない。そのスタイルを踏襲しているわけだ。 駅を出てヴィクトルユーゴー通りVictor Hugoを直進するとマルヌ川に出合う。これを越えた先に交差しているのがシャルルドゴール通り。すぐ右側にバス10番線Ay Centreの停留所がある。エペルネーからバスで来ると降りるのがここだ。ここらへんから少しずつ村らしくなって

  • シャンパニュ歴史紀行4-2-1/アイAÿ村を2泊で観る・サンプル01

    https://www.youtube.com/watch?v=ZwM9XhwjIcY アイAÿ村は、最低で2泊見てもらいたい。お勧めコースは午前中にホテルへ入る・・という方法である。 ここではエペルネーからTAXIでホテルにインというモデルを置いてみたい。 お薦めは➀CHAMPAGNE SACRETと➁Le Clos Corbierだが・・ここではCHAMPAGNE SACRETにしたい。 しかし此処は朝食は出るがレストランはない。 アイで困るのは・・このレストランという問題だ。 レストランそのものが極端に少ない。地元のベーカリーはあるがイートインはないところばかりだ。それでも

  • シャンパニュ歴史紀行4-1-1/アイAÿ村へどうやって行ってどこに泊るのか

    https://www.youtube.com/watch?v=1QPsALbImJc アイ村への向かう公共機関は、エペルネーの駅前からでいるバス10番線かTERの2択である。 ひとつは、TERはランスとエペルネーを繋いでいるSNCF地方線を利用する。この方法だと、エペルネーからは5分程度、ランスからは30分程度でアイAÿの駅へ到着する。これが一番簡単だ。 もう一つは、エペルネーの駅からバス10番線を利用する。この場合は30分以上かかる。しかしアイの村を横断しているので、下調べに村の雰囲気を掴むのには最適のコースだと僕は思う。お気に入りはこのバス路線である。 始発はエペルネー駅に

  • シャンパニュ歴史紀行3-3-3/ランス旧市街散歩でガロロマンを見つつ戦争について考える

    https://www.youtube.com/watch?v=dbL3YdFt1co 「モスレム教団が北アフリカからイベリア半島へ流れ込んだのは711年だ」 「え?なんでスペインの話になっちゃうの?」 「イベリア半島を我が物にするに、モスレムは20年かからなかった。彼らは西ゴトー王国を滅ぼし、そのままピレネー半島へ雪崩込み中央フランスを目指したんだ。そしてランスだ」 「あ~なるほどね。そして、ランスなわけね。ランスはゲルマン人に征服された後も、今度は違う外圧に晒さられたのね」 「ん。クロヴィス死後3分裂した王国は憎悪し合っていたが、この時ばかりは手を組んでモスレムと戦ったんだ。

  • シャンパニュ歴史紀行3-3-2/ランス旧市街散歩でガロロマンを見つつ戦争について考える

    「フランク族の長・クロ-ヴィスに、中央フランスでの勢力拡大のやり方として『侵攻ではなく聖戦にする』というアイデアを誰が吹き込んだのか・・判らない。僕はその原型のアイデアを出したのは聖レミかではないかと思う。ガリアの地で、キリスト教がローマやゲルマンの侵攻とは関係なく、広く深く力を持っていることを熟知していたのは神父たちただったからね。『あなたが神の僕となり、既に世に広く伝わって、遍く民に幸せを持たらせている信仰を守ればいい。さすればすべての民はあなたに与するだろう』とね・・」 「まるで、見てきたような話ね。Netfilixのドラマみたい」 「東からの異族侵攻は、キリスト教が数百年かけて

  • シャンパニュ歴史紀行3-1-4/ランス旧市街散歩でガロロマンを見つつ戦争について考える

    https://www.youtube.com/watch?v=JCktpBo1MzQ ●Musée Saint-Remi de Reims 53 Rue Simon, 51100 Reims, http://www.musees-reims.fr/ サンレミ博物館へ行くにはバス06がいい。駅名はそのままSt.Remi。サン=レミ旧大修道院の傍らにある。ここには何度も通う必要ない。一度いけば十分だが、サンレミ博物館のほうは極めて面白い。イルドフランス(中央フランス)を核にして、先史時代からルネサンスまでの人類史を豊富に扱っているのだ。展示物は、先史時代/ガリア時代/ガロ・ロー

  • シャンパニュ歴史紀行3-2-1/ランスの森を走る鈍行列車TER

    「ランスの森」モンタニューランスを縦断している列車がある。TERだ。09Reims Champagne-Ardenne TGV Épernayがランスとエペルネーを繋いている。日毎9本程度が走っている。ランス・エペルネー間は約35分。 僕らがエペルネーへ行くときは、いつもこれを利用する。 停車駅はReims/2分/Franchet-d’Espèrey/1分/Trois-Puits/1分/Montbré/5分/Rilly-la-Montagne/4分/Germaine/14分/Avenay/4分/Aÿ/4分/Epernayの9駅。時間によっては停まらない駅もある。 全駅停まるのは6

  • シャンパニュ歴史紀行3-1-4/ランス旧市街散歩でガロロマンを見つめる#04

    カエサルはレミ族について「ガリア戦記」の中でこう書く。 The Remi, the Belgic tribe nearest to Gaul, sent as deputies to him Iccius and Andecumborius, the first men of the community, to tell him that they surrendered themselves and all their stuff to the protection and power of Rome; that they had neither taken part with th

  • シャンパニュ歴史紀行3-1-3/ランス旧市街散歩でガロロマンを見つめる#02

    「ふうん。Cryptoportiqueはレミ族の城塞都市だったわけね」 「ん。それから始まった。紀元前450年からのようだ。 学者たちは「ラ・テーヌ文化」という。ハルシュタット文化を継いで、いまのフランス東部からライン川中流域、ドイツ南部に広がった文化だ。この辺りのコアパーソンは北から降りてきたレミ族だ。 レミ族は商いの相手として大西洋岸に沿って北上してきたローマ商人と、早い時期から商いをしていたんだ。その意味では文化として開けていたのかもしれない。おそらくローマとの混血も有ったかもしれない。その意味では、レミ族はローマの何んたるかを知悉していたわけだ。 そのローマがローヌ川を北上し陸

  • シャンパニュ歴史紀行3-1-2/ランス旧市街散歩でガロロマンを見つめる

    https://www.youtube.com/watch?v=jw126xBDFAY Cryptoportiqueへ寄った帰りにLe Cryptoへ寄った。 6 Pl. du Forum, 51100 Reims, フランス https://www.reims-tourisme.com/activite/cryptoportique/ Le Cryptoはフェリウム広場にある。Cryptoportiqueの周辺には幾つも秀逸なレストランがあるが、個人的には此処がおなじみだ。 14 Pl. du Forum, 51100 Reims, フランス +33326252781 食事をエ

  • シャンパニュ歴史紀行3-1-1/ランス旧市街散歩

    ランスの旧市街を何も目的がないままウロウロと歩くのが楽しい。そんな時にこそ、おや!と思うような気付きに出会うもんだ。今回の街歩きは、前述したランスの僕のお気に入りホテルContinental Hotelから始めよう。 93 Pl. Drouet d'Erlon, 51100 Reims, https://www.continental-hotel.fr/fr/ その前を走っているドルエ・デルロン通りPl. Drouet d'Erlonを右へ歩いて、僕らは街へ出ることが多い。実はこの並びにお手が寝なレストランが幾つもある。 ホテルをのんびりと出た後は、ここらでブランチ兼休憩というのもアリ

  • シャンパニュ歴史紀行2-2-4/エペルネー中心部を3泊で観る・サンプル03-3

    さて。ヴィネVinayとサン=マルタン=ダブロワSaint-Martin-d'Abloisのメゾンを訪ねる。サン=マルタン=ダブロワにある多くのメゾンはD51沿いに並んでいる。だからわかりやすい。ヴィネは横道をウロウロと歩くが・・ ムーシーから近いメゾンから見ると①Coopérative Vinicole Champenoise Rue de Champagne, 51530 Vinay, +33326599009 つづいて4つが点在して並んでいる。 ➁Ouy-Mary Patrick 25 Rue de Champagne, 51530 Vinay, +33638702256 ③Ch

  • シャンパニュ歴史紀行2-2-4/エペルネー中心部を3泊で観る・サンプル03-2

    最後はマルヌ川に繋がるキュプリー川はヴィネVinayそしてサン=マルタン=ダブロワSaint-Martin-d'Abloisを縦断して流れている。川が重要な指針だ。 ヴィネVinayのホテルを出た後は、最初は①Château de la Marquetterieを訪ねるといい。 Rue de la Marquetterie, 51530 Pierry, https://www.taittinger.com/ テタンジェのお屋敷である。1734年に建てられた。 1時間ほどの見学でマルケトゥリー通りを走って村へ戻るのだか、村に入ったすぐの所に ➁CHAMPAGNE LAGACHEがある。ち

  • 現米国政府のインテリジェンスの凋落

    相変わらず不思議に思うのは・・プーチンがウクライナ侵攻を始めた時、彼は米国からの経済制裁がWIFTからの締め出しに及ぶと意図していたでしょうか?判らない。 バイデンとその周辺を固めている秀才たちがなぜそれまでにSWIFTの威力を信じていたのか?判らない。 あのとき、バイデンは「経済的核兵器を使用する」と言った。彼らの狙いはロシアの金融機関が麻痺して、その責でプーチンが放逐される・・という絵図でした。そして海外(米圏にある)ロシアの外貨準備用3000億ドルを差し押さえてしまいました。・・つまりこれでプーチンは失脚すると考えたわけです。 僕はここに現米国政府のインテリジェンスの凋落を見る。

  • シャンパニュ歴史紀行2-2-3/エペルネー中心部を3泊で観る・サンプル03-1

    エペルネー村の西を走る国道D951を南下するとRue du Général de Gaulleの交差点へぶつかる。D951はここから東へほぼ直角へ曲がるが、直進すると道の名前はドゴール将軍通りRue du Général de Gaulleになる。3つ目のエペルネー・シャンパニュー歩きはこの道をひたすら歩く旅である。少し進むと、暫らく並行して流れていたキュプリー川がすぐそばに寄ってくる。この川に並んで進む街道は何回も名前を替えるが、道はほぼ真っすぐ・・幾つかの村を繋いでいる。 今回は3か所を中心にして街歩きをしたい。 一つはピエリーPierry、もう一つはヴィネVinay。そしてサン=

  • シャンパニュ歴史紀行2-2-2/エペルネー中心部を3泊で観る・サンプル02

    二日目はシュイイCôte des Blancsを中心に歩く。かなり田舎道なので要覚悟。 泊る所は①La Halletteくらいしかない。 3 Rue Saint-Martin, 51530 Chouilly, airB&Bで予約が出来る。 あとは➁le studioだが、いずれも若者なら・・という感じだ。 10 bis, Rue de la Noue Coutard, 51530 Chouilly, 泊まる場所はもう少しエペルネーにちかいPlace de Champagne辺りで探す方が無難だろう。。 この辺りならホテルは3択だ。 ラ ヴィラ ウジェーヌ③La Villa Eu

  • シャンパニュ歴史紀行2-2-1/エペルネー中心部を3泊で観る・サンプル01

    おそらくエペルネーに着くのは午後乃至夕方でしょう。ホテルはぜひ村の近くを僕はお薦めしたい。 前述した三つがいい。 ➀The Postern - Guest house in Epernay 14 Rue de la Poterne, 51200 Épernay, https://www.lapoterne.com/ 小さなメゾンが経営しているB&Bだ。満足度はとても高い。もし予約が取れればここが良いと思う。駅からは充分徒歩圏内である。 もっとホテルらしいところ・・というチョイスなら ➁Hotel Jean Moëtをお勧めしたい。 7 Rue Jean Moët, 51200

  • シャンパニュ歴史紀行2-1-2/エペルネー村へ、どうやって行くのか?02

    観光客がランスの森・南、エペルネーepernayへ直接向かうには、大きく二つのルートがある。 ひとつは「パリ発」もう一つは「シャルルドゴール空港発」である。 もう一つはランス観光のときに行く・・という方法だ。 ランスへ行くことについて書いたように、パリ東駅La gare de Paris-Estから出るTGVはランス直行が日毎で数本。あとはシャンパーニュ・アルデンヌChampagne-ArdenneでTERに乗り換えになる。いずれもエペルネーに行くには此処からTERに乗り換えとなる。 https://www.raileurope.com/ もうひとつ。ランスまでなら高速バスという手もあ

  • シャンパニュ歴史紀行2-1-1/エペルネー村へ、どうやって行くのか?01

    https://www.youtube.com/watch?v=j-sisxxK1iY エペルネーepernayはランスの森・南に有る。マルヌ県である。パリ盆地東部のマルヌ川左岸にある。ランスからは南南西約 30km。・・村として史書に名前が出るのは5世紀くらいから。クローヴィスがランス大司教だったレミギウスRemigiusに与えたことからである。 レミギウスは、クローヴィスがガリア人・ソワソン司教の娘セリナに産ませた子であるとも言われている。ソワソン司教は、北のセルニー・アン・ラオノワCerny-en-Laonnoisにあった小さな教会の司教だ。その孫であるレミギウスは、クロー

  • シャンパニュ歴史紀行1-8-4/発砲しないシャンパンワインについて04

    https://www.youtube.com/watch?v=yORqFqoIsls 発砲しないシャンパニューワイン「コトー・シャンプノワ」をつくる生産者とそのワインを12ピックアップしてみた。 (1)は前の章で紹介したもの (1)ジャン ヴェセル rouge Jean Vesselle https://www.champagnejeanvesselle.com/fr/ Champagne Jean Vessell、4 rue Victor Hugo、51150 Bouzy (2)ルージュ「レ・ドゥヴォワ」Coteaux Champenois Rouge« Les D

  • シャンパニュ歴史紀行1-8-3/発砲しないシャンパンワインについて03

    https://www.youtube.com/watch?v=QZvDeVLqBUI 「フランク族が制覇したパリ盆地は西はナント辺りから東はストラスブール辺り。北はリール、ダンケルクまで広がる。セーヌは中心・北を横に走り、パリはセーヌ川面して少し北にある。シャンパニューはパリ盆地の東側。パリに隣接しているので歴史の洗礼を否応なく浴びてきた地区だ」 「戦争?支配者の変遷?」 「ん。まさにそれだ。シャンパンなる発泡酒が成立し、隆盛を遂げられたのは、パリが近い・・ということが大きな要因だ。それは、発泡酒に商いの軒先全てを奪われる前のシャンパニューでも、そうだったんだよ。シャンパニュー

  • シャンパニュ歴史紀行1-10-2/発砲しないシャンパンワインについて02

    【「そうよね、シャンパンが生まれて300年くらいだから。シャンパニューにはもっともっと長いワインの歴史が有ったはずよね。シャンパンの勢いに負けて、そんなときのことをきれいに忘れていたわ」 「たしかに・・目の前の大きなパワーが有れば、それがすべてだと思っちまうもんだ。でもこうやって発砲していないシャンパニューワインを手にすると、目線は一転するだろ?」 「そうね、ほんとにそうね。でも・・買いにくい?わけでしょ?} 「ん・・たしかに。でも面白いだろ?」 「でもなぜピノノワールとピノムニエばかりなの?」 「昔はそんなことなかった。ブルゴーニュがピノ・ノワールになったのはブルゴーニュ公国初代公王

  • シャンパニュ歴史紀行1-10-1/発砲しないシャンパニューワインについて01

    https://www.youtube.com/watch?v=4sT1zPQJFOE 前の章でランス駅前のContinental Hotel-Reimsを紹介した。https://www.continental-hotel.fr/ 19世紀に作られた私邸宅を1880年に改装したホテルだ。 その傍にLe Fochというレストランがある。 37 Bd Foch, 51100 Reims, https://www.lefoch.com/ 気のいい叔父さんがシェフしてる僕のFB友だちだ。 https://www.facebook.com/lefochrestaurant/ 何日かラン

  • シャンパニュ歴史紀行1-9-5/シャンパンボトルの地を訪ねてアルゴンヌの森へ05

    アルゴンヌ博物館まではガラス美術館から30分程度北上。意外に近い。ドンジー村Donzyの外れにある。 でもその前に昼食を・・と思っていたので村の中央、エール川のそばにあるLE GRAND MONARQUEのレストランを予約しておいた。 https://legrandmonarque-donzy.fr/en/home/ ここのランチは秀逸だ。 「ドンジー村は有名なんだよ」 「どうして?」 「フランス革命の時、逃避したルイ16世が捕まった場所だと言われてるところだ。ヴァレンヌ事件La Nuit à Varennesと言うんだがな、そのモニュメントを訪ねて、訪ねる人が多い。日本人観光客

  • シャンパニュ歴史紀行1-9-4/シャンパンボトルの地を訪ねてアルゴンヌの森へ04

    アルゴンヌ ガラス美術館は2時間くらいで十分と思ったので、ここからは昨日のVTC(ハイヤー)にpickupしてもらった。 Brabant-en-Argonne https://www.service-vtc.com/page.php?rewriteLien=societe-de-vtc&ville_rewrite=brabant-en-argonne ムーズTGVでパリ行きに乘るのは遅い時間を選んだので、もう一軒、アルゴンヌ博物館へ寄ってもらうつもりだった。 Musée de l'Argonne 2 Rue Louis XVI, 55270 Varennes-en-Argonn

  • シャンパニュ歴史紀行1-9-3/シャンパンボトルの地を訪ねてアルゴンヌの森へ03

    「アルゴンヌの森の陶工たちについて史的な資料は殆どない。それでも工房がラヴォアとアヴォクールに有ったことは知られていた。とくにエール渓谷にあったラヴォワの工房は19世紀から知られていた。アヴォクールは1960年代になってから発掘だった。ラヴォワ、アヴォクール、レ・アリュー、ヴォー・ミュラール、クロワ・デ・プレシュールが工房の中心地だったんだ。 何れも石灰岩の基質上の粘土と砂の浅い土壌な地帯でね。農作物には向いていない。地域特有のゲイズと呼ばれる細かい砂岩の土地を覆っている」 「農業には転用できない土地だったのね」 「ん。しかしゲイズは加工が比較的容易な砂岩だったんで、建築石材として採掘

  • シャンパニュ歴史紀行1-9-2/シャンパンボトルの地を訪ねてアルゴンヌの森へ

    朝食の後。ホテルからVerdunの街へ出た。マルス川を渡ってまっすぐショセ通りへ入る。街を散策しながらバス停Gare de Verdun駅でTER33080に乘って小一時間あまりLes Islettes Centre駅につく。アルゴンヌ ガラス美術館はすぐ近くだ。 アルゴンヌ ガラス美術館 Musée du Verre d'Argonne 64 rue J​​ules Bancelin 55120 LES ISLETTES http://verre-argonne.org/ アルゴンヌの森周辺に拠点を構える焼き物職人たちは、ガロ・ロマン気に入ると、ローマ人たちが原料を地中海からイ

  • シャンパニュ歴史紀行1-9-1/シャンパンボトルの地を訪ねてアルゴンヌの森へ

    「なぜシャンパニュー地方は、泡を閉じ込めたワインを・・シャンパンを作れたんだろう?」 パリ東駅発ルクセンブルグ終点のTGVの車上である。 「なぜって・・ドン・ペリニオンという修道僧が思いついたからでしょ?」と嫁さんが言った。 「最初に思い付いたのは彼じゃない。ピレネー山塊の東の外れ、リムーの修道院でも作っていた。彼より200年近く前からだ。でも本格化しなかった。なぜだと思う?」 「わからないわ・・どうして?」 「ワインは樽で醸造する。でも樽では発砲したワインを液内に閉じ込めるのは難しい。微泡程度しかできない。もちろん今でもシャンパンでも樽醸造はする。しかし本格的に泡が閉じ込められるのは

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