どんな分野でも「好き」こそが長続きの秘訣であり、指導者の課題は、指導を受ける相手にも「好き」を感じてもらえる指導ができるか。そこには、やっている事そのものの内容だけでなく、互いの相性、人間関係、人柄までが影響を及ぼす。
太極拳愛好歴20年のヒヨッコ🐥です。 ~ 太極拳、その他中国武術、東洋思想、中医学などに興味があります ~
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七情【喜・怒・憂・思・悲・恐・驚】の7つの感情。この7つの感情は、人間が生きていれば、対人関係や仕事、普段の生活など様々な場面で自然に湧き起こるもの。ただ、これらの感情のどれかが、過度な状態で長く続いてしまったり、一時的に強く湧き起こるのはよくない。
運動を続ければ、筋肉が動く。筋肉が動けば、脳が活性化する。 脳が活性化すれば【脳の可塑性】が実現する。太極拳動作は、デュアルタスクに繋がる。つまり単調に動くだけでなく、左右非対称、体や顔の向きが変わり、筋肉を緩める意識も必要。
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どんな分野でも「好き」こそが長続きの秘訣であり、指導者の課題は、指導を受ける相手にも「好き」を感じてもらえる指導ができるか。そこには、やっている事そのものの内容だけでなく、互いの相性、人間関係、人柄までが影響を及ぼす。
「武術的な動きの要素を健康法として利用する」という説明が、私にはしっくりくる。稽古を続ける事で、しなやかな動きが可能となり、心肺機能が強化され、深部感覚も磨かれる。
稽古に関して、とにかく言えることは、その人ができるタイミングで稽古の場へ来て、継続できるのが一番。家族の事情でやむを得ず休会しても、また時間に余裕ができたら戻ってくればいい。
1つの流派の創始者は、昔、ある時点で、熱心に拳術などの技法の習得に取り組み始め、技を弟子に伝承していく中で、1つのグループが形作られていった。
恬憺虚無という言葉がある。落ちついていて、心に何のわだかまりも無く、平安な状態。他人や世間に振り回されること無く、そんな状態が継続できれば理想だろう。
鍛錬を積んだ人の円熟した動きは、基礎体力や腕力がある人をも凌駕するかもしれない。それは焦って身に付く技ではなく、じっくり時間をかけて醸成していくものだと思う。
社会の中で生きる一定のルールは要る。でも個人の趣向や楽しみに関しては、社会のルールに当てはまらないもの。実態がないようなモノに対し、苦労して、当てはめなくてもいい。ただ、生きやすい程度の常識があればいい。
終戦の日を前にして、初めて祖父のことを書く。冷たいと思われるかもしれないけれど、私は、戦死した祖父に対して愛着は無い。会った事がない人だから。遺影でしかその姿を見たことはないから。ただ、私自身が中年世代になった事で、人生について、より深く考えるようになった。祖父は当時どんな思いを抱えていただろうか。
老いていきながら自己鍛錬を重ね、重力を味方に付けながら、徐々に軽霊へ向かっていきたい。いつか生きている間に「どんな動きをしても、すごく軽やか!」、そんな境地へ行ってみたいものだ。
ちょうど去年のこと。テレビのニュースをみて驚いたことがあった。それは、冒険家の堀江謙一さんが、80代に突入しているのにヨットでの冒険を決行し、太平洋横断を見事に成し遂げたニュースだった。それをみたとき、自分が高校生だった頃の記憶が蘇った。
焦りの中に、敢えて静寂を持ち込めば、過剰な緊張は無くなり、筋肉と心の緊張も緩む。
当たり前だけど、常に心がけていること。投げやりにしない。初心を忘れない。学ぶほど謙虚になる。言葉遣いは丁寧に、冷静に他人の話を聞く…等。
「意」というのは、心=感情ではない。喜怒哀楽のような感情とは別のもの。短い表現であれば「脳で自分の体を感じる感覚」。長く言えば「無駄な力を用いず、無駄に意識をこじらせず、感情を捨て、感覚を研ぎ澄ます。その結果、ほどよい神経伝達と気血の巡りが促される状態」。
陰陽バランスは、狂言、太極拳など、いろんな世界に存在する。日本の古いもの、いろんな世界を紐解いていけば、何かしら中国古来の思想の影響を受けていて、面白いくらい共通点が見つかっていき、たくさんの繋がりを感じられそうだ。
慣れた人がスイスイ動いているのを見ると、何となく「自分にもできそう」と思ってしまう。しかし現実は、そんなに簡単ではない。どんな分野でも、努力の継続なしに結果は得られない。
要らないもの、過剰なものどんどん減らしていく。そんなふうに、長期に渡って延々と引き算を続けた結果、本当に必要な効率的な動きと感覚だけが最低限、意識の中に残る。この究極の引き算をした結果に至るまでには、事前に相当な期間の足し算、つまり知識や技術の習得を頑張る長い年月がある。
「たくさんの事を得た」と思えたとき、やっと初めて「では、本当に必要なものは何なのか?」の判断が付くようになる。「自分にとって本当に必要なもの」の判断がつけば、「何が無駄なのか」もおのずと明確になる。何年もかけて学び、たくさんの事を習得しなければ「無駄を捨てる準備段階」に入ることはない。
力の抜き方1つで、自分が感じる「自分の重さ」はまるで違う。太極拳では、立ったままで中心軸を保ちながら、床に自然に沈み込む感覚で立てるようにする。足裏が地面と一体化した状態になる。当たり前の空間に、当たり前に立っている自分を感じるのみ。
稽古を重ねていく年数を経るごとに、加算されていくのは、「経験」と「練習に費した時間」と「学んで得た知識」と「修練によって心身に染みわたっていく技術」である。逆に、時間を経れば経るほど、動作に直結する無駄は減って、ゼロ、つまり無に近づいていく。
どんな条件下でも興奮せず、動じず、平常心を保ち、静かに居られるレベルに行けたら良い。もし周りで音がしても、自分の体内の気血の巡り、呼吸、周囲を繊細に感じる感覚を養い、「雑音を雑念としない境地」に行ければ、それが一番と思う。
焦りの中に、敢えて静寂を持ち込めば、過剰な緊張は無くなり、筋肉と心の緊張も緩む。
当たり前だけど、常に心がけていること。投げやりにしない。初心を忘れない。学ぶほど謙虚になる。言葉遣いは丁寧に、冷静に他人の話を聞く…等。
「意」というのは、心=感情ではない。喜怒哀楽のような感情とは別のもの。短い表現であれば「脳で自分の体を感じる感覚」。長く言えば「無駄な力を用いず、無駄に意識をこじらせず、感情を捨て、感覚を研ぎ澄ます。その結果、ほどよい神経伝達と気血の巡りが促される状態」。
陰陽バランスは、狂言、太極拳など、いろんな世界に存在する。日本の古いもの、いろんな世界を紐解いていけば、何かしら中国古来の思想の影響を受けていて、面白いくらい共通点が見つかっていき、たくさんの繋がりを感じられそうだ。