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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育] https://blog.goo.ne.jp/tsuguchan4497

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

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2020/12/12

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  • [Ⅲ145] 我がメメントモリ(12) / トイレッティング

    この4月23日の帰宅は、結局最後の外泊になってしまった。この外泊から病院に戻ってからは、病状はさらに進行の度を加えていった。腹部はさらに固くなって、スキルス(硬癌)の激しい侵襲を示すようになっていた。若菜の希望で、ボクや好子叔母が母の作ったお惣菜やデザートを持っていくと、とても喜んで食べるのだが、しばしばそれらは激しい嘔吐で、未消化のまま吐き出されてしまうのだった。嘔吐の後の悲しげな若菜の表情は痛ましかった。だが若菜の場合、癌性疼痛の訴えが少なかったことがせめてもの救いだった。この癌は一般的には痛みが強いものであることを知っていたので、ボクは担当の医師に確かめたことがあった。若菜が痛みを我慢し続けているのではないか‥それをボクたちに訴えないようにしているのではないか‥と考えたからである。しかし、医師の答えは明快...[Ⅲ145]我がメメントモリ(12)/ トイレッティング

  • [Ⅲ144] 我がメメントモリ(11) / ワカナ幸せだった!

    夕食後、ボクは敬一と静雄を風呂に入れ、母と好子叔母も風呂に入った。そして敬一と静雄を二階の寝室に寝かしつけた頃に、若菜は目覚めた。「敬一と静雄はもう寝たの?私が一緒にお風呂に入れて一緒に寝てあげようと思ったけれど、この具合じゃ無理ね。かわいそうね、二人とも私のことで小さな心を痛めているのに、何もしてあげられなくて、悔しい。もう、私、疲れてしまって・・、駄目になりそうなの。病気に負けてしまいそう・・。」そんな若菜の言葉に、母と好子叔母は一緒に嗚咽をもらし始めた。ボクも涙をこらえることはしなかった。母が言った。「敬一も静雄も優毅さんも私たちも、皆が若菜のことを思っている。桜子も、どんなにかあなたのそばにいてあげたいと思っているか、わかるでしょ。おじいちゃんと一緒になって、懸命にワカナの病気が治るように祈っているのが...[Ⅲ144]我がメメントモリ(11)/ ワカナ幸せだった!

  • [Ⅲ143] 我がメメントモリ(10) / 私はこの家の主婦

    玄関を入ると、顔をくしゃくしゃにして上気した表情の敬一が飛ぶようにして出迎えた。彼は全身でこの瞬間を待っていたのだ。敬!と言って、玄関で靴をはいたまま若菜はしっかりと敬一を抱きしめた。すぐに好子叔母が静雄を抱いて母と一緒に出てきた。静!お母さんが帰ってきたのよ、と若菜は言い、玄関先に座って静雄を抱きかかえて、しばらく頬ずりをしていた。若菜のこのやわらかな母親の表情も久しぶりのものだった。毎日毎日涙に沈んでいたボクたちの家は、ふたたび光が差し込んだように明るくなった。若菜は部屋を懐かしそうに歩き回った。二階のベランダにもボクが支えて上った。若菜の歩いたあとは、光の粉が振りまかれたように輝いた。『ここは私の家。私の家具。この家の匂い。天井のしみ。あの襖絵。旅行で買ってきた人形たち。子どもたちの沢山のおもちゃも生きて...[Ⅲ143]我がメメントモリ(10)/ 私はこの家の主婦

  • [Ⅲ142] 我がメメントモリ(9) / 懐かしい町・私の家・私の家族

    練馬の家は、それまで住んでいたさいたま市の家が狭くて通勤に不便だったので、敬一が3歳になった頃に転居した。さいたま市の家の売却代金を頭金にして銀行からの借入れで賄うにしても、当時の安月給では限度があったのだが、日曜日毎に敬一を連れて若菜と建売住宅の物件を探し回って見つけた家だった。若菜は、この家の玄関を入ったすぐ左にダイニングキッチンのあるところが気に入ったと言い、ボクはその一言でこの家を買うことにしたのだった。相変わらずの小さな家だったが、東京にしては周囲に自然も緑も多く、すぐ近くには公園もあり、彼女はとても気に入っていた。若菜はそのわが家が近づくと、太い欅の並木道の途中で、車をとめて欲しい、ここから歩きたいの、と言った。この道は、毎日敬一の幼稚園のバスの送り迎えで通っている道だった。そこで車を降りて、ボクは...[Ⅲ142]我がメメントモリ(9)/ 懐かしい町・私の家・私の家族

  • [Ⅲ141] 我がメメントモリ(8) / 最後の外泊 

    ボクの日記によると、若菜は3月に二度、4月には静雄の1歳の誕生日の12日と23日に家に帰ってきている。そしてこの23日の外泊が最後の帰宅になってしまった。担当医のO医師と、若菜が特に信頼していたK医師は、ある日ボクを呼んで言った。・・身体はこれから衰弱していく一方である、外泊を望むならもう最後になるだろうから、今のうちに家に帰ったほうがいい。ボクは外科治療が無理だとわかってから、できるだけ外泊をさせてあげようと考え、二週間に一度くらいを目安に外泊を計画していた。もっと頻繁にさせてあければよかったという悔いは残っている。しかし外泊の際の若菜の疲労は、ボクの予想以上に大きいことが次第にわかってきていた。期待に胸を一杯にしてはいても、往復のタクシーは1時間以上はかかり嘔気で辛そうだったし、ベッドの生活で体力は著しく落...[Ⅲ141]我がメメントモリ(8)/ 最後の外泊 

  • [Ⅲ140] 我がメメントモリ(7) / パニック 

    桜の咲きそろった4月の日曜日のことだった。休みの日には必ず敬一と静雄を連れて、母と叔母とで若菜を訪ねていた。この日もその予定でいたのだが、ボクの兄からその前日に電話があり、母も疲れているだろうから少し休むつもりで車で花見に行かないか、という誘いがあった。ボクは迷ったが、若菜のところには午後遅くなってもいいからと考えて、公園に皆で出かけてしまった。ところがこんなときに限って何か起こるものだ。若菜は何か頼みたいことがあったらしく、ボクらが出かけた後、家に電話を入れたのだった。ところが誰も電話には出ない。携帯電話なぞない時代のことである。・・何度も何度も電話する、コールだけで誰も出ない、ふと敬一か静雄か誰かに何か起こったのではないか、いてもたってもいられない、しかもいつも来るお昼の時間にもやってこない、いったいどうし...[Ⅲ140]我がメメントモリ(7)/ パニック 

  • [Ⅲ139] 我がメメントモリ(6) / 一縷の望みは絶たれた

    その冬の寒さはことさら厳しかったのに、春の訪れは早かった。若菜の病状は日一日と勢いを増していった。内科の医師と外科の医師たちとが毎日のようにカンファレンスを繰り返していた。ボクも時にその場に呼ばれた。真摯なカンファレンスであることはボクにはすぐわかった。時には激論が闘わされていた。しかし結局のところは、癌細胞を完全に取り除くことはできないこと、仮に大きな病巣を摘出したとしても、その後の生命の延長を十分に保証するものではないこと、これが到達した結論であった。そしてその後の不自由を採っても手術に賭けるのか、このままの病状に任せ可能な限りの治療法を選択していくのか、というギリギリの選択のところに来ていたのである。一旦は「手術」が日程に上ったことがあったが、最終的には内科と外科の教授同士の話で取りやめになったのだった。...[Ⅲ139]我がメメントモリ(6)/一縷の望みは絶たれた

  • [Ⅲ138] 我がメメントモリ(5) / 父への告知

    若菜が癌であるという事実を、しばらくはボク一人で抱えていた。家で子どもたちと留守を預かってくれている若菜の母にも言わなかった。ベテランの保健婦として生きてきた母には、ボクの表情や雰囲気でわかっていたのだろうと思う、下手な役者のことだから。しかしボクはまず若菜の父に話すべきだと考え、定年退職後の新しい職場で忙しくしている父に、一度上京してくれるように頼んだ。2月4日、この日は敬一が4年前青梅の病院を退院した第二の誕生日だったが、父は上京することになった。父は上野に着くとその足で病院に来ることになった。打ち合わせた上でボクは病院のある駅の改札口に父を出迎えた。駅前の喫茶店に入り、ボクは父に全ての事実を話した。若菜が癌であること、外科治療についてのカンファレンスが医師の間で何度ももたれていること、しかし癌は腹膜に播種...[Ⅲ138]我がメメントモリ(5)/父への告知

  • [Ⅲ137] 我がメメントモリ(4) / 入 院

    大学病院のベッドは、仕事で関係していた人間味のある婦長さんたちのお陰もあって、空きベッドの手配ができたという連絡が数日後に入った。2月1日、山形の母と叔母、そして敬一とまだ歩くこともできなかった静雄とに見送られて、ボクと若菜はタクシーで病院に向かった。病院はボクが仕事で出入りするときの表情とは全く違っていた。外来者の姿に混じってパジャマにガウンを羽織ったり寝巻姿のままの患者が目についてしかたなかった。これが病院という器の現実的な表情なのだ。人間は入院するとすぐに患者として振舞うことを強要されてしまうものなのだ。わが家の寝室でしか見せなかった姿を、背広姿が行き交う外来者の前でさらけ出しても平気になってしまう。それが病院という社会である。ボクが入院手続きをしている間、混雑する外来の椅子にちょこんと座って待っている若...[Ⅲ137]我がメメントモリ(4)/入院

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