梅干しと梅ジュース用の梅が届いた。これらもロールパン同様、夫が作っている。
1件〜100件
トマトと言うと、高校生ぐらいの頃にテレビで見た、「トマトの値段」というアメリカの映画を思い出す。
私の住む村も雨が続き、真夏なのにずっとストーブを炊いていた。今年の米は不作だろうと村の専門家は言っている。
診察で、体重を増やすために筋肉をつけよ、自転車こぎはどうかと、アドバイスを受けエアロバイクを買った。
夫は、意外と言葉遣いが丁寧だったりする。まだ結婚する前、家に電話をかけてきて母が出ると……
太陽光発電について、夫の考えなどを書いてもらったが、固定価格買取制度(FIT)には問題があるようだ。
10年前から移住していた夫から、電気代は売電で儲かっていると聞いていたが、調べてみると驚愕の事実が……。
味噌っかす的な存在だったその子が、「おめえ、ナルトって食ったことあっか? うっめえぞ」と言った。
「三歩あるけば忘れる」と言われるニワトリは、あまり賢くない動物と思われているようだが、そうではなかった。
仕込みから1か月経過した梅干しと梅ジュースの様子をご報告。
心臓手術から半年後の診察で、質問したこと「体重が戻らない、前髪が伸びない、咳が止まらない」
夫に訴えると、夫のパソコンも繋がらないと。電話も光回線を使っているので、繋がらない。
私が住む村に、美容院というものを見かけない。移住者の先輩に聞いてみた。「うちは1,000円カットよ」とのこと。
田んぼの用水は湧水を使っているが、その水路に手作りの水門があり、それを開け閉めして水量の調整をしている。
梅干しと梅ジュース用の梅が届いた。これらもロールパン同様、夫が作っている。
諸般の事情により、しばらくの間、更新が1~3週間に1回程度になります。
20年ばかり前から、夫はパン作りを始めた。朝早くから、ドタンバタンと叩きつけて生地を作っていた。
30年近く前、日本に米がなくなったことがある。夫は自給自足を目指す以上、米作りは欠かせないと、こだわっている。
今はよくても、もっと歳をとったらどうなるんだろう。いろいろ不安なことが頭に浮かんだ。
法人内の評判は芳しくないことも感じており、定年でもって法人と縁を切ろうと決意、田舎暮らしを目指した。
田舎暮らしはまんざらでもないが、東京から完全に離れてしまうことには決心がつかない。
今いるのが4代目。1代目から3代目までは、卵を産まなくなったら潰して食べちゃったそう……
私たち夫婦が一緒に生活したのは、結婚して初めの5年ぐらい。いま、二度目のハネムーンというわけ。
敷地内は、田んぼや畑、夫が果樹園と称している場所、鶏のお庭、単なる草ボーボーの原っぱなどになっている。
受診予約の電話をすると、「県外からの患者さんには、まずPCR検査を受けていただきます」とのこと。
うちの庭、というより原野のような、だだっ広いところを歩くと、いろいろな草に混じって山菜が見つかります。
家を建てるとき、夫は断熱にこだわりました。「Z工法」を採用し、夏も冷房なしで過ごせます。
東京を離れ、とある山の中に引っ込みました。仕事を辞め、夫が10年前に移住した山村に引っ越しました。
当時、今で言うところの絶叫マシーンが、いち早く取り入れられたのが「後楽園ゆうえんち」である。
48歳のときには始めていたと思う白髪染め。30年近く続けたヘアマニキュアをやめて、5か月が経った。
学生の頃、劇団四季の「トロイ戦争は起こらないだろう」という芝居を観に行った。1965年だったと思う。
「戦後、強くなったのは、靴下と女」というフレーズがある。ナイロンストッキングという画期的な発明によるものだ。
昭和こぼれ話7「ひょっこりひょうたん島」と「夢であいましょう」
高校1年生だった私たちは、自習の時間に勉強せず、「上を向いて歩こう」を合唱していた。
あのとき娘に言ってしまったことを思い出し、娘の心を傷つけたことに胸が痛んだ。ほんとうにごめんなさい。
心臓の手術後は、切った肋骨を固定するため、胸にコルセットをしていた。1か月ほどで外したが、だんだん大胆になり・・・
「夏が来ました、ピケ帽子。僕も私もピケ帽子・・・」という歌がある。ピケとは、コーデュロイに似た、畝のある生地だ。
男性と旅行して一晩泊るなどということは、簡単にはできない時代。母には本当のことを伝えたが、父には友だちと行くと言った。
前回の「うたごえ喫茶」を読み返すと、ずいぶんとげとげしく、批判がましく書いており、不適切な表現だったと反省しきりです。
学生の頃、つきあっていた男子に誘われて、歌声喫茶に行ったことがある。新宿の「ともしび」だったと思う。
毎月楽しみだった「フイチンさん」、週刊少年マガジンでは「男おいどん」、ビッグコミックの「イアラ」・・・
5年生の時の課題曲は「わかいおじさん」という歌だった。「広い肩をした、わたしのおじさんがやってきた、熊が出るという山の話をした・・」
心臓の手術から3か月が経ちました。血圧・体調、食事、運動などについてご報告。
祖父は戦前、ジャワ(今のインドネシア)の領事をしていた。現地のオランダの会社に勤めていたBさんにまつわるお話。
「終戦っ子ノスタルジー」は、本日より、やや長期のお休みに入りたいと思います。
大学の部活の同期3人で卒業旅行。ユースホステルを使い、松江・萩・広島へ。宿泊料は700円程度だった。
大学の卒業試験の一部であるレポート作成に四苦八苦していた。オリベッティのタイプライターで打った。
退院後、もっと咳が出るようになり、少し困っている。話すと息が上がりやすく、咳が出てしまうので、電話は控えている。
入院に必要なものは病院から指示されるが、それ以外で、持って行ってよかったものと、入院費用について。
大動脈弁の手術後に振り返ると、あれは心臓が悪いというサインだったのかもしれない、と思う症状がいくつかある。
ICUは、うるさくて刺激の多い部屋だ。いろいろな機械音、ざわざわ、ガタガタする雰囲気、人声、光、ほんとに休まらない。
胃がんと大腸がんを患い、いろいろな検査をしたが、心臓手術に備えての検査は、以前のものに比べ、痛い、苦しいが大きかったと思う。
「ここが大動脈弁で、この開口部の大きさは、一般的には3~4㎝ですが、あなたのは7㎜です。これは重症です」とのことだった。
しばらくブログをお休みします。
みな、コネを利用したり、試験を受けたりしていたが、私は会社勤めをしたいという気持ちがなく、どうしようかなあと思っていた。
衝突した衝撃で内臓が揺れ、柔らかい肝臓が脊椎にぶつかって、三ヶ所が裂け、そこから出血していたそうだ。
反対方向から滑ってきた部員とぶつかりそうになるのを避けようとして、近くの立ち木に「バシーン!」と衝突した。
目的を達成するまでの苦労や努力、待つ時間というものが、とても少なくなってきている。サバイバル能力の低下が心配だ。
いいことだけではない、大学の部活動、スキー部のデメリット4つ。めんどくさい連れション、留年の危機ほか。
夜、この小さな温泉町を歩いていると、演歌が流れてくる。この町とぴったり合って、実にいい雰囲気だった。
初めのうちはいい歌だなあと思っていたものも、今になると、さほどじゃないなあと思ったりする。いま好きな曲をご紹介。
高校生の時「星の王子さま」がブームだったが、みんなが「いい」というものに対し、拒絶反応を起こしてしまい、読まなかった。
月山がきっかけで、山が好きになった。登った中で一番高いのは、乗鞍岳だ。なぜか富士山に登りたいとは思わなかった。
スキーは、道具や合宿にお金がかかる。親に出してもらってはいけない、と先輩から教えられ、アルバイトを始めた。
「部」に昇格するには、試合をし、実績を上げる必要があり、思ってもみなかった、競技スキーをさせられることになった。
大学のスキー部で、12月の初めに行う、シーズン最初の合宿を「初すべり」と言い、場所は谷川岳の天神平と決まっていた。
小学3年生の時から、夕飯の後の洗い物をしていた。高校生の頃から、日曜日の洗濯は一手に引き受けた。趣味で靴磨き。
大学生になってからは、早トレも含め、年中トレーニングをするようになり、授業中の居眠りは、ますますひどくなった。
一つは、赤十字が行っている「病院奉仕」というもので、もう一つは、バタヤ部落の子どもたちと遊ぶ、というものだった。
ミゼットというオート三輪車。子どもの目からは、なんか危なっかしい車だなあという印象だったが、とても働き者だったようだ。
大学の部活動、月山での初合宿。下山がキツイ、歩荷という仕事、修験者を見た、イワナが旨い。続けることを決意。
大学の部活動、月山での初合宿。山小屋の生活と雪渓(夏でも雪が残っている渓谷)スキー。アセチレンランプ、かまどごはん。
大学の部活動、スキー部で初めての合宿。25キロの荷物を背負い、岩根沢口から月山に登った。
大学の部活動。親に「買って」とは言いにくいので、新たに道具を買う必要のないスキー部に決めた。
1楽章だけだったと思うが、それでもレコードを何枚か取り換えた。SPレコードはほんの短い時間しか録音できなかった。
1964年10月10日、東京四谷駅の近くの土手に立ち、晴れ渡った秋空に、五輪のマークが描かれていくのを見ていた。
入学式の内容はほとんど忘れたが、強く印象に残ったことがある。スペイン人の神父が、「長崎の鐘」を歌ったことだ。
1963年11月22日(日本時間23日)日米間初の衛星中継で送られたのは、ケネディ大統領暗殺のニュースだった。
トランジスタラジオで毎晩聞いたのは、ラジオ関東(現ラジオ日本)11時20分から始まる「ポートジョッキー」。
小田実さんが、代ゼミで英語の長文読解の講座をもっていると聞き、ミーハー的好奇心で、その講座をとることにした。
初めて作ったと言って披露した歌と、メロディーラインがそっくりだったが、ラジオで聞いた歌の方が好きだなあと思っていた。
「『芽ばえ』っていう映画見たことある?」と聞かれた。「それに出てくる女の子に(私が)似てる」というのだ。
なにか楽しいことはないかなあと話している時、4人のうちの一人が、ゴルフ場に行かない?と提案した。
今までに代返を頼んだ記憶はない。しかし、それよりずっと罪が重そうな「代テスト」の経験がある。
宮本浩次さんが歌うのを今聞いて、涙が出るほど胸を打たれた。そして芋づる式に、若い頃に聞いた歌の数々を思い出した。
「ハロー、CQ,CQ・・」高校生になっても、いろいろな部のいいとこどりをして終わったらやめる、を繰り返していた。
4歳ぐらいの頃、50銭銅貨というものがあった。たしか飴玉は買えたと思う。50円玉は今のより大きくて、穴がなかった。
マクドナルドもスターバックスもない時代の初デート。高校2年だったから、かなり遅い方だと思う。
運動会には、家から体育の服装をして、男の子は帽子をかぶり、女の子は「はちまき」をして、地下足袋で登校した。
この旅行の本当の目玉は、湖で休憩したり、近くに宿泊したときに、男女でボートに乗ることだった。
新幹線も青函トンネルもない時代。高校の修学旅行は、上野発の夜行列車→青函連絡船で北海道へ行った。
バレンタインデーに女性から男性にチョコレートを贈るという習慣は、私たちが高校生の頃はなかった。
「王子と踊子」と聞いて、御伽噺なのかと思っていたのに全然違った。幼い目からは彼女が美人には見えなかった。
ビンディングは、カンダハーと呼ばれて、蝶番のようなものをガッチャンと前に押し倒す形式のものだ。
「私、あの人大嫌い。あの人むっつりすけべえなのよ」と言ったそうだ。むっつりすけべえ?私が?
V部分に胸当てがなかった。夏はいいが、冬になると、スースーして寒い。カーディガンは禁止された。
授業は興味が持てなかったので、勉強はあきらめようと思い、映画や軽音楽、異性への関心に気持ちを向けた。
フックが二つ付いている、長持ち洗濯ハンガー。かなり高いけど丈夫で安定感があり、お気に入り。難点もある。
3年生の時、新田次郎の「風の中の瞳」という小説が流行った。久しぶりに夢中になって読んだ小説だ。
忘れ物をしない日はほとんどなかった。学習に必要な道具、宿題、持っていくお金などなど。
好感を持っている男子が、どの女子を気にしているのかを気にしたりと、そっちのほうが忙しいものだ。
夏休みに植物採集の宿題が出た。「いやだなあ」めんどくさくて、やる気がしない。何段階もの作業があるものは大の苦手。
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梅干しと梅ジュース用の梅が届いた。これらもロールパン同様、夫が作っている。
諸般の事情により、しばらくの間、更新が1~3週間に1回程度になります。
20年ばかり前から、夫はパン作りを始めた。朝早くから、ドタンバタンと叩きつけて生地を作っていた。
30年近く前、日本に米がなくなったことがある。夫は自給自足を目指す以上、米作りは欠かせないと、こだわっている。
今はよくても、もっと歳をとったらどうなるんだろう。いろいろ不安なことが頭に浮かんだ。
法人内の評判は芳しくないことも感じており、定年でもって法人と縁を切ろうと決意、田舎暮らしを目指した。
田舎暮らしはまんざらでもないが、東京から完全に離れてしまうことには決心がつかない。
今いるのが4代目。1代目から3代目までは、卵を産まなくなったら潰して食べちゃったそう……
私たち夫婦が一緒に生活したのは、結婚して初めの5年ぐらい。いま、二度目のハネムーンというわけ。
敷地内は、田んぼや畑、夫が果樹園と称している場所、鶏のお庭、単なる草ボーボーの原っぱなどになっている。
受診予約の電話をすると、「県外からの患者さんには、まずPCR検査を受けていただきます」とのこと。
うちの庭、というより原野のような、だだっ広いところを歩くと、いろいろな草に混じって山菜が見つかります。
家を建てるとき、夫は断熱にこだわりました。「Z工法」を採用し、夏も冷房なしで過ごせます。
東京を離れ、とある山の中に引っ込みました。仕事を辞め、夫が10年前に移住した山村に引っ越しました。
当時、今で言うところの絶叫マシーンが、いち早く取り入れられたのが「後楽園ゆうえんち」である。
48歳のときには始めていたと思う白髪染め。30年近く続けたヘアマニキュアをやめて、5か月が経った。
学生の頃、劇団四季の「トロイ戦争は起こらないだろう」という芝居を観に行った。1965年だったと思う。
「戦後、強くなったのは、靴下と女」というフレーズがある。ナイロンストッキングという画期的な発明によるものだ。
高校1年生だった私たちは、自習の時間に勉強せず、「上を向いて歩こう」を合唱していた。
あのとき娘に言ってしまったことを思い出し、娘の心を傷つけたことに胸が痛んだ。ほんとうにごめんなさい。
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