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2020/08/16

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  • ジョヴァンニ・デ・メディチ Giovanni de' Medici

    父ロレンツォ・イル・マニーフィコの才能を継いて子供の頃から英才ぶりを注目された次男ジョヴァンニ(Giovanni di Lorenzo de' Medici, 1475−1521)は、ポリツィアーノやベルナルド・ドヴィツィ(のちのビッビエーナ枢機卿)を家庭教師として恵まれた人文主...

  • ウルビーノ公ロレンツォ Lorenzo de' Medici duca di Urbino

    ジュリアーノの跡を継いでフィレンツェの統治者となったロレンツォ・イル・マニーフィコの孫ロレンツォ(Lorenzo di Piero de' Medici, 1492-1519)は、ジュリアーノとはあらゆる面で正反対の性格で権力欲が強く、父のピエロから尊大さと粗暴さを受け継いでいま...

  • ヌムール公ジュリアーノ Giuliano de' Medici duca di Nemours

    1512年9月1日、スペイン軍の脅威の前にソデリーニが亡命すると、同じ日に、スペイン軍に同行してきたロレンツォ・イル・マニーフィコの三男ジュリアーノ(Giuliano di Lorenzo de' Medici, 1479-1516)は私人としてフィレンツェに入りました。 ラルガ...

  • 《ハルピュイアの聖母》アンドレア・デル・サルト 《Madonna delle Arpie》Andrea del Sarto

    アンドレア・デル・サルトの代表作であるこの油彩の祭壇画は、1515年5月にフィレンツェのサン・フランチェスコ・デ・マッチ女子修道院が注文し、1517年に完成しました。 1515年5月14日の注文の契約によれば、板絵は2人の天使によって戴冠される聖母と幼子イエス、両側に福音書記者聖...

  • 《キリストの受肉と聖人たち》ピエロ・ディ・コジモ 《Incarnazione di Cristo e santi》Piero di Cosimo

    この祭壇画はピエロッツォ・テダルディがフィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会内の同家の礼拝堂用に依頼したものです。その後、1670年に枢機卿レオポルド・デ・メディチによって購入され、1804年には、現在のウッフィーツィ美術館に移動されました。 キリストの受肉を表した...

  • 《聖ベルナルドゥスの幻視》フラ・バルトロメオ 《Visione di San Bernardo》Fra Bartolomeo

    これは、ベルナルド・デル・ビアンコにより、フィレンツェのバディア・フィオレンティーナ教会内の彼の礼拝堂用のために依頼された作品で、心酔していた修道士サヴォナローラの死後、フラ・バルトロメオが初めて描いた作品です。 契約は、フラ・バルトロメオが下絵として用意した素描を見て注文主が合...

  • 盛期ルネサンス Alto Rinascimento

    ソデリーニ政権下のフィレンツェは、シャルル8世のあとフランス国王となったルイ12世が再びミラノとナポリに対する支配権を主張してイタリアに介入してくると、フランス側につきながら辛うじて中立を保持していました。 ローマでは、教皇アレクサンデル6世の後継者ピウス3世が在位期間わずか26...

  • 《マギ礼拝堂》ベノッツォ・ゴッツォリ 《Cappella dei Magi》Benozzo Gozzoli

    コジモ・デ・メディチの尽力によって、1439年の東西教会公会議は、フィレンツェで開催されました。感動的な公会議の歴史的舞台にフィレンツェが躍り上がった時の記憶を、そして、その晴れ舞台を誘致したメディチ家の存在を、コジモの息子ピエロは、壁画に描きとどめたいと思いました。 ピエロは、...

  • メディチ・リッカルディ宮殿 Palazzo Medici Riccardi

    1444年、コジモ・デ・メディチは、ラルガ通り(現在のカヴール通り)とゴーリ通りの角に新しいメディチ宮殿を建設することにしました。 あれだけの権勢を誇ったメディチ家にしては地味な印象の邸宅ですが、そこには、共和制を建前としたフィレンツェで、アルビッツィ家の陰謀(1433年)を経て...

  • オルサンミケーレ教会 Chiesa di Orsanmichele

    宗教権力の拠点であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とサン・ジョヴァンニ洗礼堂、そして政治権力の拠点であるヴェッキオ宮殿の広場のちょうど真ん中に位置する、一風変わった外観をもつ建物がオルサンミケーレ教会です。 この箱型の建物は、教会堂のようには見えず、ピエトラ・フォルテ(p...

  • ジローラモ・サヴォナローラ Girolamo Savonarola

    メディチ亡命直後の1494年12月、市民総会が招集され、メディチ体制下で設置されたすべての政府機関(百人評議会、七十人評議会、八人外務委員会、十二人内務委員会)が廃止されました。そして、新たに大評議会と八十人評議会が設置され、フィレンツェは1434年以前の共和国制に戻りました。 ...

  • ピエロ・イル・ファートゥオ Piero 'il Fatuo' de' Medici

    ロレンツォ・イル・マニーフィコが死去すると、20歳の若さで長男のピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Piero di Lorenzo de’ Medici, 1472-1503)がメディチ家の権力を継承しました。 父ロレンツォは常日頃、3人の息子のことを「一人は愚かで(ピエロ...

  • メディチ家礼拝堂 Cappelle medicee

    メディチ家礼拝堂は、位置としてはサン・ロレンツォ聖堂の主祭壇の後ろ側にあたりますが、博物館として独立した入口をもっているため、教会堂内からではなく、いったん外へ出て、チケットを買って入り直す必要があります。 メディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂の堂内には、あちこちにメディ...

  • ラウレンツィアーナ図書館 Biblioteca Medicea Laurenziana

    サン・ロレンツォ教会の正面ファサードに隣接した左側の扉をくぐると、美しい二階建ての連続アーチに囲まれた中庭に出ます。中庭の列柱回廊を左に折れたところから回廊の2階に上ると、貴重かつ豊富な蔵書で知られる、ミケランジェロが設計したメディチ家の図書館、ラウレンツィアーナ図書館があります...

  • 《ロレンツォ・デ・メディチの墓》 《Tomba di Lorenzo 'il Magnifico' de' Medici》

    1478年4月26日の「血の日曜日」に、大聖堂でのミサの最中、聖体を捧げる鐘を合図にパッツィ家を中心とする暗殺者がロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟を襲いました。しかし弟ジュリアーノは殺害したものの、ロレンツォには首に傷を負わせただけで、聖具室に逃げられてしまいました。計画で...

  • ロレンツォ・デ・メディチ Lorenzo 'il Magnifico' de' Medici

    ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449〜1492年)は、「痛風病みの」ピエロの長男で、フィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主です。 コジモが期待した孫のロレンツォが当主になったのは1469年。その時まだ20歳になったばかりでし...

  • ピエロ・イル・ゴットーゾ Piero 'il Gottoso' de' Medici

    ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(Piero di Cosimo de' Medici, 1416〜1429年)は、「祖国の父」コジモの長男で、「痛風病み ‘il Gottoso’」というあだ名のとおり若い頃から病弱でした。 コジモにはピエロとジョヴァンニという2人の嫡出の息子...

  • サン・マルコ修道院 Convento di San Marco

    サン・マルコ広場に面した教会の右隣にある入口には、「サン・マルコ博物館(Museo di San Marco)」と書いてあります。この博物館は、もともとは修道院で、現在はその一部を博物館として公開し、修道院に所縁の深い美術品を展示しています。 修道院の建設は12世紀に遡り、元来シ...

  • サン・ロレンツォ聖堂 Basilica di San Lorenzo

    サン・ロレンツォ聖堂は、聖ラウレンティウス(イタリア語名はロレンツォ Lorenzo)に捧げられた、フィレンツェで最も古い教会のひとつです。 393年にミラノ司教聖アンブロシウス(イタリア語名はアンブロージョ Ambrogio)によって献堂され、その後、フィレンツェ司教聖ザノービ...

  • 公現祭 Epifania

    公現祭(顕現祭, Epifania エピファニーア)は、Natale(クリスマス)の12日後、1月6日に祝われるキリスト教の祝日です。西方教会(ローマ・カトリック教会)においては、東方の三博士が星に導かれて幼子イエスを訪ね、礼拝したことを記念する日で、もっとも重要な祭典のひとつで...

  • トンボラ Tombola

    トンボラ(Tombola)は、ナポリ発祥のビンゴゲームに似たゲームで、クリスマスの伝統的なゲームのひとつです。 ビンゴでは縦5横5の合計25マスに数字が書かれたカードを使用しますが、トンボラは縦3横5の合計15マスのカードを使用します。 1から90までの数字が入った袋の中から進行...

  • プレゼピオ Presepio

    プレゼーピオ(Presepio)とは、イエス降誕の場面を再現した模型で、多くのカトリックの家庭で、ナターレ(Natale イタリア語で「クリスマス(降誕祭)」の意)に備えて、これを飾る習慣があります。 ちなみに、ナターレはイエスの誕生日だと思っている人も多いと思いますが、実は、イ...

  • パネットーネ Panettone

    パネットーネ(Panettone)は、ミラノ発祥のイタリアの伝統菓子で、ナターレ(Natale イタリア語で「クリスマス(降誕祭)」の意)の4週間前から始まる待降節の期間に、親戚や友人に配るために、各家庭で焼く習慣があります。 日本でもクリスマスシーズンを中心に、見かける機会が増...

  • 《コジモ・デ・メディチの墓碑》アンドレア・デル・ヴェロッキオ 《Tomba di Cosimo 'Il Vecchio' de' Medici》Andrea del Verrocchio

    コジモがフィレンツェに帰国した後、メディチ家の独裁時代が始まりましたが、法制的にも形式的にも、その前の時代と何も変わったところがありませんでした。帰国してから死ぬまでの約30年間にコジモが正義の旗手の地位に就いたのは断続して3期、計6ヶ月に過ぎません。生涯のほとんどを単なる一市民...

  • コジモ・デ・メディチ Cosimo 'Il Vecchio' de' Medici

    コジモ・デ・メディチ(Cosimo di Giovanni de' Medici, 1389〜1464年)、通称イル・ヴェッキオ(il Vecchio)は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの長男で、父の生前から銀行業務を任され、優れた経営手腕を発揮していましたが、深い古典的な教養の持ち...

  • ジョヴァンニ・デ・メディチ Giovanni di Bicci de' Medici

    ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici, 1360〜1429年)、通称ジョヴァンニ・ディ・ビッチは、フィレンツェの歴史に名を刻むメディチ家の当主で、一族の繁栄を築いた人物です。 ジョヴァンニは、親戚がローマで経営していた銀行を引き継ぎ...

  • 《対立教皇ヨハネス23世の墓碑》ドナテッロとミケロッツォ 《Tomba dell'antipapa Giovanni XXIII》Donatello e Michelozzo

    洗礼堂内には、ドナテッロとミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(ミケロッツォ・ミケロッツィ)が手がけた対立教皇ヨハネス23世(在位1410〜1415)の墓廟があります。 対立教皇ヨハネス23世は、対立教皇のなかで最も物議を醸しだした人物の一人で、もとは海賊だったとも言われています。本...

  • 《天国の扉》ロレンツォ・ギベルティ 《Porta del Paradiso》Lorenzo Ghiberti

    1424年に北側扉が完成すると、ギベルティは引き続き残るもう一枚の扉制作を同じ毛織物業者組合(Arte di Calimala)から委嘱されました。ギベルティは、息子のトンマーゾやヴィットーリオの手を借りながら、その制作に25年以上をかけ、1452年に完成させました。 すべてにわ...

  • 《イサクの犠牲》 《Sacrificio di Isacco》

    1401年の毛織物商組合(Arte di Calimala)主催のコンクールの参加作のうち、現存している二作品、現在は建築家としての方が有名なブルネッレスキのものと、最終的に残りの二つの扉の制作者として選ばれた彫刻家ギベルティのものを比べてみましょう。 《イサクの犠牲》フィリッポ...

  • 《イサクの犠牲》 《Sacrificio di Isacco》

    1401年、当時のフィレンツェでは最有力の同業者組合であった毛織物商組合(Arte di Calimala)が主催して、北側扉(第二扉)の制作者を決定するコンクールを開催しました。 美術史上初めてともいえるこのコンクールには、名だたる彫刻家たち(フィリッポ・ブルネッレスキ、ロレン...

  • 《サン・ジョヴァンニ洗礼堂 北側扉(第二扉)》ロレンツォ・ギベルティ 《Porta nord del battistero di San Giovanni》Lorenzo Ghiberti

    1401年、当時のフィレンツェでは最有力の同業者組合であった毛織物業者組合(カリマーラ組合 Arte di Calimala)が主催して、北側扉(第二扉)の制作者を決定するコンクールを開催しました。美術史上初めてともいえるこのコンクールには、名だたる新進彫刻家たちが参加し、その腕...

  • 《サン・ジョヴァンニ洗礼堂 南側扉(第一扉)》アンドレア・ピサーノ 《Porta sud del battistero di San Giovanni》Andrea Pisano

    集中式プランの八角堂であるサン・ジョヴァンニ洗礼堂を完成させるためには、東側、北側、南側の三方に青銅の扉を設置しなければなりませんでした。 洗礼堂の建設を推進していた毛織物業者組合(カリマーラ組合 Arte di Calimala)は、フィレンツェに先行して最先端の文化を開花させ...

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 Battistero di San Giovanni

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂の起源は4世紀から5世紀までさかのぼり、ローマ人たちが軍神マルスに捧げた神殿であったと思われます。 11世紀になると、そこにはフィレンツェの守護聖人である洗礼者聖ヨハネ(San Giovanni Battista)に捧げるべく、八角形プランの大聖堂(司教座...

  • オンニッサンティ教会 Chiesa di Ognissanti

    オンニッサンティ教会は、13世紀にロンバルディア地方からやってきた、ウミリアーティ会の修道士によって創設された教会ですが、16世紀には修道会が解散したため、メディチ家やヴェスプッチ家の保護を受けていたフランチェスコ会士たちに譲り渡されました。 1627年には堂内が全面的に改築され...

  • ストロッツィ宮殿 Palazzo Strozzi

    ストロッツィ宮殿は、その他の宮殿よりも遅れて着工されているだけに、建築様式としての完成度は高く、ルネサンス様式の宮殿建築の頂点といわれています。(イタリア語のPalazzo(パラッツォ)という言葉は通常「宮殿」と訳されますが、それは大きな公共建造物や個人の邸宅のことで王宮ではあり...

  • ルチェッライ宮殿 Palazzo Rucellai

    ジョヴァンニ・ルチェッライは、メディチ派でありながら、メディチ家と運命をともにするほど密着もせずに、巧みに15世紀を生き抜いた商人で、1466年にはコジモ・ディ・メディチの孫娘ルクレツィアを息子ベルナルドと結婚させ、姻戚関係を結びました。ルクレツィアは、ピエロ・ディ・メディチの娘...

  • 《ウルビーノ公夫妻の二連肖像画》ピエロ・デッラ・フランチェスカ 《Doppio ritratto dei duchi di Urbino》Piero della Francesca

    フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロはビエロ・デッラ・フランチェスカに、古代ローマのコインの伝統にならって、彼と妻を記念する二連肖像画を注文しました。 この二連肖像画はまさにメダルのように構成され、表側には肖像画、裏側には寓意画が描かれています。二つのパネルは、もともとは蝶番で結ば...

  • 《キリストの洗礼》アンドレア・デル・ヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチ 《Battesimo di Cristo》Andrea del Verrocchio e Leonardo da Vinci

    この作品の注文の経緯は不明ですが、フィレンツェのサン・サルヴィ教会付属のヴァッロンブローザ修道院のために、ヴェロッキオ工房によって制作されました。 この作品は10年近くヴェロッキオの工房に置かれていました。彼は成功した芸術家だったので、多数の共働者や弟子に制作を委託するのは普通の...

  • 《サン・ロマーノの戦い》パオロ・ウッチェッロ 《Battaglia di San Romano》Paolo Uccello

    この絵は、歴史的なエピソード、1432年6月2日にサン・ローマノで起きたフィレンツェとシエナの戦争を描いています。 2年前からニッコロ・ダ・トレンティーノとミケレット・ダ・コティニョーラに率いられたフィレンツェ軍と、フィレンツェの傭兵でしたが今では敵方についたベルナルディーノ・デ...

  • 《ヘラクレスとヒュドラ》アントニオ・デル・ポッライオーロ 《Ercole e l'idra》Antonio del Pollaiolo

    1460年頃、アントーニオ・デル・ポッライオーロは弟のピエロといっしょにメディチ邸のために3点の大型カンヴァス画を制作しました。1492年のメディチ家の遺産目録によると、これらの絵は高さ6ブラッチャ(19世紀まで用いられていた長さの単位で1ブラッチョ(braccio 腕)は約60...

  • 《ウルビーノのヴィーナス》ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《Venere di Urbino》Tiziano Vecellio

    ティツィアーノの作品のうち最も有名で、広く模倣された裸体画が、この《ウルビーノのヴィーナス》です。この作品は、後のウルビーノ公となるグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレによって注文され、1538年までに完成しました。 1534年、グイドバルドは政治的理由からわずか10歳の少女ジュ...

  • 《パンチャーティキの聖家族》アーニョロ・ブロンズィーノ 《Sacra Famiglia Panciatichi》Agnolo Bronzino

    アーニョロ・ブロンズィーノは、1540年頃、裕福な商人バルトロメオ・パンチャーティキとその妻ルクレティアのために、対幅肖像画を描きました。同時にまた、夫妻のため、この、聖ヨハネを伴う、聖母子と聖ヨセフ(聖家族)を描いた礼拝画を制作しました。洗礼者聖ヨハネの存在はおそらく注文主の要...

  • 《ヒワの聖母》ラッファエッロ・サンツィオ 《Madonna del Cardellino》Raffaello Sanzio

    この作品はフィレンツェでフランドル製の毛織物を扱う裕福な商人ロレンツォ・ナージが、富裕階級の娘サンドラ・ディ・マッテオ・ディ・ジョヴァンニ・カニジャーニとの結婚の祝いのためにラッファエッロに注文したものです。結婚式は1505年末から1506年初頭の間に執り行われました。 ヴァザー...

  • 《バッコス》ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジョ) 《Bacco》Michelangelo Merisi (Caravaggio)

    《バッコス》はデル・モンテ枢機卿がトスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチに寄贈した作品で、その制作年代はカラヴァッジョが枢機卿の保護下にあった1598年頃とされます。 1608年にフェルディナンドの息子、コジモ2世の結婚式を祝う際に、デル・モンテ枢機卿からフェルディナンド・...

  • 《エレオノーラ・ディ・トレドと息子ジョヴァンニの肖像》アーニョロ・ブロンズィーノ 《Ritratto di Eleonora di Toledo col figlio Giovanni》Agnolo Bronzino

    18歳の若さで権力掌握したメディチ家のコジモ1世は、フィレンツェに専制的統治を敷き、やがて1569年にはトスカーナ大公の称号を獲得しました。1539年6月29日、コジモは壮麗な祝祭の中、ナポリ副王ドン・ペドロの第二子、17歳のエレオノーラ・ディ・トレドと結婚しました。やがて夫妻は...

  • 《聖家族》ミケランジェロ・ブオナッローティ 《Tondo Doni》Michelangelo Buonarroti

    アーニョロ・ドーニが、1504年1月に行われたマッダレーナ・ストロッツィとの結婚式の際に注文したもので、ヴァザーリによれば、この作品に額縁を含めて140スクーディを支払い、金箔貼りの額縁にはストロッツィ家の紋章を示す3つの半月を彫り込ませるつもりだったといいます。 ミケランジェロ...

  • 《東方三博士の礼拝》レオナルド・ダ・ヴィンチ 《Adorazione dei Magi》Leonardo da Vinci

    1481年3月、フィレンツェ、スコペートのサン・ドナート教会のアウグスチノ会派参事会員たちは、レオナルドに《東方三博士の礼拝》を表す祭壇画を依頼しました。この注文はおそらく画家の父で、修道院の代理人だったセル・ピエロ・ダ・ヴィンチが手配したものでしょう。しかし、この仕事は未完のま...

  • 《受胎告知》レオナルド・ダ・ヴィンチ 《Annunciazione》Leonardo da Vinci

    この作品はフィレンツェ郊外のモンテ・オリヴェートにあるサン・バルトロメオ教会から来たものですが、しかし注文については、一切分かっていません。 この絵はさまざまな画家に帰されてきました。現在では、レオナルド説をとる学者が大多数ですが、否定する者もいます。それは、当時の工房の共同作業...

  • 《ヴィーナスの誕生》サンドロ・ボッティチェッリ 《Nascita di Venere》Sandro Botticelli

    サンドロ・ボッティチェッリのもっとも有名な作品のひとつは、キリスト教の伝説ではなく、古代神話を描いた、この《ヴィーナスの誕生》です。この作品は、《春》同様に、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチが所有していたカステッロの別荘を飾るために描かれた、と考えられています...

  • 《春》サンドロ・ボッティチェッリ 《Primavera》Sandro Botticelli

    『美術家列伝』でヴァザーリは、ボッティチェッリの《春》は《ヴィーナスの誕生》とともに、カステッロの別荘にあると伝えています。 しかし、この絵のもともとの設置場所は、ピエルフランチェスコの息子に当たるロレンツォとジョヴァンニの兄弟が1476年に購入した、ラルガ通りの(コジモ・イル・...

  • 《聖母子と二天使》フィリッポ・リッピ 《Lippina》Filippo Lippi

    この《聖母子と二天使》は、初期ルネサンスを代表するフィレンツェ派の画家フィリッポ・リッピが晩年に手がけた聖母子像の最高傑作であり、最も良く知られる作品のひとつです。 フィリッポの作品の中でも珍しく、彼の工房において製作されなかった絵画のひとつです。この作品は後世において、サンドロ...

  • 《聖母子と聖アンナ》マザッチョとマゾリーノ 《Sant'Anna Metterza》Masaccio e Masolino da Panicale

    この板絵は1424年から1425年にかけて作成したテンペラ画で、フィレンツェにあるサンタンブロージョ教会のベネディクト女子修道会の注文により制作されました。 マゾリーノとマザッチョの密接な協力関係のもとで制作され、老いた聖アンナはマゾリーノ、聖母子と、背景のダマスコ織の布地を広げ...

  • 《東方三博士の礼拝》ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ 《Adorazione dei Magi》Gentile da Fabriano

    この祭壇画は、1423年に織物商パッラ・ディ・ノフリ・ストロッツィによって、フィレンツェのサンタ・トリニタ聖堂内のストロッツィ家礼拝堂を飾るために注文されたものです。署名と年記が付されています。当時ジェンティーレはイタリアで最も有名な芸術家の一人で、各国のゴシック様式の代表的存在...

  • 《受胎告知三連祭壇画》シモーネ・マルティーニ 、リッポ・メンミ 《Trittico dell'Annunciazione》Simone Martini e Lippo Memmi

    この三連祭壇画は、シエナ大聖堂のサン・タンサーノ礼拝堂のために制作されたもので、受胎告知は中央パネルに描かれています。 (3枚目) 大天使ガブリエルがマリアの部屋に「着陸」したところで、神の子を宿したことを告げようとしています。大きな羽はまだ空に向けられ、首に結えためずらしい格子...

  • 《バディア多翼祭壇画》ジョット・ディ・ボンドーネ 《Polittico di Badia》Giotto di Bondone

    この多翼祭壇画は、ベネディクト会に属するフィレンツェのバディア大修道院の主祭壇のためにジョットによって描かれました。ゴシック的な三角形の頂部をもつ5枚のパネルからなり、聖母子と両脇に4人の聖人が描かれています。 この絵はあらゆるところが金色に輝き、光輪も簡単に輪郭が金地の上に示さ...

  • 《オンニッサンティの聖母》ジョット・ディ・ボンドーネ 《Madonna di Ognissanti》Giotto di Bondone

    この《荘厳の聖母》は、フィレンツェのオンニッサンティ教会の主祭壇のためにウミリアーティ会が注文したもので、《オンニッサンティの聖母》とも呼ばれている作品です。 金地背景という光に満ちた聖なる空間を象徴的に表した手法で全体が包まれているとはいえ、ここには明らかにジョットの天才的革新...

  • 《ルチェッライの聖母》ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ 《Madonna Rucellai》Duccio di Buoninsegna

    この玉座の聖母子は、フィレンツェのドメニコ会のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の祭壇のために、ラウデージ同信会がドゥッチョに注文したものです。ほどなくサン・グレゴリオ礼拝堂に移され、最後にルチェッライ家の礼拝堂に置かれたことからこの名で呼ばれています。有力な同信会がフィレンツェでも...

  • 《サンタ・トリニタのマエスタ》チマブーエ 《Maestà di Santa Trinita》Cimabue

    この大きな板絵は、おそらくヴァッロンブローサ修道会によってフィレンツェのサンタ・トリニタ教会の主祭壇のために注文されました。チマブーエの作としたのはヴァザーリが最初です。 この作品はトスカーナ絵画において引き続いて制作される《マエスタ》(Maestà 荘厳の聖母)のモデルとなり、...

  • 《祈る救世主と四聖人》メリオーレ・ディ・ヤコポ 《Redentore tra la Vergine e tre santi》Meliore di Jacopo

    ゴシック聖堂の建築空間との調和を考えてデザインされた、当時としては斬新な鋭角リズムのこの祭壇画(dossale)には、「メリオーレ 1271」と署名も年記もありますから、紛れもなく、これは近代的な産業都市国家フィレンツェの形成期に制作されてことがわかります。 キリストを中心にして...

  • ウッフィーツィ美術館 Gallerie degli Uffizi

    コジモ1世の命令で、1560年にヴァザーリによって建設が始められたウッフィーツィは、司法および行政のオフィスとして誕生しました。建物はヴェッキオ宮殿(市庁舎)からアルノ川岸までひろがり、ピエトラ・セレーナ(青みがかったきめの細かな砂岩)で区切られたまばゆい白壁が続きます。ウッフィ...

  • 《最後の晩餐》アンドレア・デル・サルト 《Ultima cena》Andrea del Sarto

    美術館として整備された修道院の入り口は、教会から少し離れたところにあります。外観からは美術館とは思えない館内に一歩足を踏み入れると、どうしてこんなに多くの作品がここに集められているのかと驚かされるでしょう。 両側に絵画の展示された長い廊下から右手の部屋に入ると、そこには思いがけな...

  • 《最後の晩餐》レオナルド・ダ・ヴィンチ 《Ultima Cena》Leonardo da Vinci

    しかし、残念ながら、作品は制作直後から徐々に傷み始めました。主な原因は、レオナルドが選んだ技法にあります。当時、一般的には壁画はフレスコ技法によって描かれていましたが、じっくりと時間をかけて描写を進めるタイプのレオナルドは、漆喰の乾く前に描写を終えなければならないフレスコ画を嫌い...

  • 《最後の晩餐》レオナルド・ダ・ヴィンチ 《Ultima Cena》Leonardo da Vinci

    ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に附属した旧修道院には、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な壁画《最後の晩餐》があります。レオナルドが描いたなかで最大のサイズを誇る作品であり、彼が完成させた数少ない作例のひとつで、そしてついに彼に画家としての栄誉をもたらした作品です...

  • 《最後の晩餐》ペルジーノ 《Ultima cena》Perugino

    ペルジーノの《最後の晩餐》は、サントノフリオ修道院の食堂に描かれたフレスコ画で、一般的に《フォリーニョの最後の晩餐(Cenacolo del Foligno)》と呼ばれています。円熟期のペルジーノによる代表作でもあり、フィレンツェに残るルネサンス期の《最後の晩餐》のアンソロジーで...

  • 《最後の晩餐》アンドレア・デル・カスターニョ 《Ultima cena》Andrea del Castagno

    サンタポッローニア修道院の食堂に、フィレンツェ・ルネサンスを代表する”CENACOLO”(最後の晩餐)の1つ、アンドレア・デル・カスターニョの《最後の晩餐》があります。歴史上、多くの画家によって描かれた《最後の晩餐》ですが、これはその初期の作品で、裏切り者であるユダのみが別の椅子...

  • 五百人広間 Salone dei Cinquecento

    ヴェッキオ宮殿の広い階段を2階に上がると「五百人広間」と呼ばれる圧巻の大広間があります。総勢500人で構成される大評議会を開催するために、サヴォナローラの時代、1495年に、シモーネ・デル・ポッライオーロ(通称、クロナカ)によって建設されました。 その後、コジモ1世の時代、156...

  • ヴェッキオ宮殿 Palazzo Vecchio

    ミケランジェロの《ダヴィデ》とバンディネッリの《ヘラクレスとカクス》に守られたヴェッキオ宮殿の正面入り口(2枚目)を入ると、そこには列柱回廊に囲まれた吹き抜けの第一中庭(Primo cortile)があります。 基本的な設計はメディチ家のリッカルディ宮殿の中庭(4枚目)とそっくり...

  • ヴェッキオ宮殿 Palazzo Vecchio

    シニョリーア広場に面して立つレンガ(硬質砂岩)作りの建物が、一般に「ヴェッキオ宮殿」と呼ばれる建物です。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計で1299年に着工し、1314年に完成しました。この建物の呼び方を「一般に」と書きましたが、建設当時はプリオーリ宮殿(Palazzo dei ...

  • 《マルゾッコ》ドナテッロ 《Marzocco》Donatello

    シニョリーア広場には多くの彫像が立ち並びますが、最初にこの広場に迎えられた作品は、フィレンツェ政府の百合の紋章(Giglio di Firenze)を掲げているライオン像です。ドナテッロ作《マルゾッコ》で、その名前は軍神マルスに由来しています。 この彫像は、ローマ教皇マルティヌス...

  • シニョリーア広場 Piazza della Signoria

    シニョリーア広場、ヴェッキオ宮殿前の彫刻群。 右から バッチョ・バンディネッリ《ヘラクレスとカクス》 Ercole e Caco, Baccio Bandinelli, 1530-34, Marmo bianco, 505 cm ミケランジェロ・ブオナッローティ《ダヴィデ》(コピ...

  • シニョリーア広場 Piazza della Signoria

    多くの彫像で飾られたシニョリーア広場は、古くからフィレンツェの政治の中心地で、多くの歴史を見つめてきました。正面にヴェッキオ宮殿の堂々たる建物と横に彫刻展示場ともいえるロッジャ(Loggia della Signoria dei Lanzi)、その奥にはウッフィーツィ美術館があり...

  • 《ユディトとホロフェルネス》ドナテッロ 《Giuditta e Oloferne》Donatello

    《ユディトとホロフェルネス》は、ドナテッロが1453年から1457年に制作したブロンズ製の彫刻です。 この彫像は、メディチ・リッカルディ宮殿の中庭にあった噴水彫刻でしたが、1494年にピエロ・ディ・メディチが追放された際に、市民たちが勝利の記念としてヴェッキオ宮殿玄関の左手に運ば...

  • 《ダヴィデ》アンドレア・デル・ヴェロッキオ 《David》Andrea del Verrocchio

    アンドレア・デル・ヴェロッキオのブロンズ製の《ダヴィデ》は、メディチ家の依頼によって1473年から1475年の間に制作されたと言われています。そして1476年には、ロレンツォと弟のジュリアーノによってフィレンツェ政庁に売却され、政庁館(ヴェッキオ宮殿)入り口の階段に飾られていまし...

  • 《ダヴィデ像》ドナテッロ 《David》Donatello

    このブロンズ製の《ダヴィデ》は、ルネサンス初期のイタリア人彫刻家ドナテッロが制作した彫刻です。 制作時期は1420年代から1460年代まで様々な説がありますが、そのなかでも主流となっているのは、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオが設計したメディチ・リッカルディ宮殿が建築された144...

  • 《ダヴィデ像》ミケランジェロ・ブオナッローティ 《David》Michelangelo Buonarroti

    ミケランジェロの傑作《ダヴィデ》のオリジナルが、現在アッカデミア美術館に展示されているのは周知の通りですが、美術館に移動する1873年までは4世紀近くも政庁舎(ヴェッキオ宮殿)前を飾っていました。 この巨像の設置について、ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチとの間で、一悶着あ...

  • 《ダヴィデ像》ミケランジェロ・ブオナッローティ 《David》Michelangelo Buonarroti

    ダヴィデは旧約聖書に登場するユダヤ王国2代目の王になる人物ですが、「勇気を持って自由を勝ち取る戦士」としてのダヴィデは、わずか13歳の少年です。イスラエル軍の前に立ちはだかるのはペリシテ人の大将で、身の丈は3メートル近いゴリアテという名の大男です。恐れをなすイスラエルの陣営に、ち...

  • アッカデミア美術館 Galleria dell'Accademia

    フィレンツェの街でウフィツィ美術館に並ぶ人気を誇るアッカデミア美術館には、毎日世界中からミケランジェロの傑作《ダヴィデ》を見に来る人たちで溢れています。7点という世界最多のミケランジェロ作品を所蔵するため「ミケランジェロ美術館」というイメージも定着しています。 5メートルを超える...

  • ミケランジェロ広場 Piazzale Michelangelo

    フィレンツェ市街の南東にある小高い丘の上に位置するミケランジェロ広場からは、フィレンツェの素晴らしい景色が一望できます。街のシンボルであるドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)やヴェッキオ宮殿、サンタ・クローチェ聖堂などの建物、アルノ川とヴェッキオ橋、遠くにはフィエー...

  • 《十字架上のキリスト》チマブーエ 《Cristo crocifisso》Cimabue

    サンタ・クローチェ聖堂にある《十字架上のキリスト》は、チマブーエの現存する最初期の作品です。キリストの磔刑を主題としたこの作品は、一般的に、1272年以前に制作されたと考えられています。 以前に制作されたサン・ドメニコ教会(アレッツォ)の彼の十字架像(3枚目)と比べると、柔らかさ...

  • 《ミケランジェロ・ブオナッローティ墓碑》ジョルジョ・ヴァザーリ 《Tomba di Michelangelo Buonarroti》Giorgio Vasari

    ミケランジェロ・ブオナッローティは1564年2月18日、88歳(89歳の誕生日の3週間前)でローマで死去しました。2月20日、彼の遺体はローマのサンティ・アポストリ教会に安置されましたが、フィレンツェを愛した彼の遺言どおりに、遺体は甥のレオナルドによって秘密裏にローマから運ばれ、...

  • サンタ・クローチェ聖堂 Basilica di Santa Croce

    サンタ・クローチェ聖堂は、同名の広場にある、フィレンツェにあるフランシスコ会の最も重要な教会のうちのひとつで、イタリアにおける代表的なゴシック建築のひとつです。 サンタ・クローチェ聖堂のはじまりは、アッシジの聖フランチェスコの死後、修道士たちがこの地に建てた小さな礼拝堂です。その...

  • ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ Bistecca alla fiorentina

    フィレンツェにはたくさんの郷土料理(トスカーナ料理)がありますが、その中で最も人気なのが「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ」です。 ビステッカに使われる牛肉は、キアニーナ牛というトスカーナで飼育されている品種で、その名前はキアーナ渓谷(Val di Chiana)に由来しま...

  • ブルネッレスキのクーポラ Cupola del Brunelleschi

    フィレンツェと聞いて思い浮かべるのが、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(ドーム)がある風景ではないでしょうか。フィレンツェの街は建物の高さが規制されているので、天にそびえ立つこの聖堂のクーポラはフィレンツェの街のどこからでも見ることができます。 しかし、直径約45...

  • ジョットの鐘楼 Campanile di Giotto

    ジョットの鐘楼は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の脇に建設されている高さ84.7メートル、大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で作られているゴシック様式の鐘楼です。 大聖堂の最初の建築監督であるアルノルフォ・ディ・カンビオが1302年に亡くなり、30年以上の中断を経て、有名な...

  • サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 Cattedrale di Santa Maria del Fiore

    フィレンツェの守護聖女レパラータに捧げられたサンタ・レパラータ聖堂ですが、聖堂の正面に向き合って建つサン・ジョヴァンニ洗礼堂が完成したことにより、「(急速な発展をとげた)フィレンツェにとっては小さすぎる」と判断され、1293年に「彫刻で飾られ、すべて大理石でつくられた」聖堂に再構...

  • サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂 Basilica di San Miniato al Monte

    サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂は、フィレンツェが一望できる人気の観光スポット、ミケランジェロ広場から10分ほど坂を上がったところにあります。 聖ミニアートはフィレンツェ最初の殉教聖人で、伝説によれば、アルメニア王家の血を引く人物だと言われています。彼は現在のミケランジェロ広場...

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 Battistero di San Giovanni

    サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属の正面玄関に向き合って立っているサン・ジョヴァンニ洗礼堂は、後にミケランジェロが「天国への門」と呼んで賞賛した東側の扉が有名ですが、内部の天井を覆うビザンチン様式の見事なモザイク画も見逃せません。外からは想像できないほどのきらびやかな世界...

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 Battistero di San Giovanni

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属の洗礼堂です。大聖堂の正面玄関に向き合って立っている八角形の建築物で、ロマネスク様式の最も重要な集中形式の教会建築のひとつです。サン・ジョヴァンニとは、フィレンツェの守護聖人、洗礼者聖ジョヴァンニ(洗礼者ヨハネ...

  • 《慈悲の聖母》ベルナルド・ダッディ工房 《Madonna della Misericordia》Bernardo Daddi

    ビガッロ美術館には、特別な意味をもつフレスコ画が残されています。これはその作品の一部で、そこには描かれた当時(1342年)のフィレンツェの景観図が描かれています。 そこには当時すでに有名なサン・ジョヴァンニ洗礼堂、パラッツォ・ヴェッキオ(パラッツォ・デッラ・シニョリーア)、そして...

  • 《慈悲の聖母》シモーネ・マルティーニ 《Madonna della Misericordia》Simone Martini

    これはシエナ派の画家、シモーネ・マルティーニが描いた《慈悲の聖母》という作品で、シエナ国立美術館が所蔵しています。 《慈愛の聖母》(または《守護のマントの聖母》)は、聖母マリアが腕のマントを拡げて、足元の人びとを包みこむ(守護する)姿を表現した図像のことで、マリアの慈愛や守護への...

  • カンポ広場 Piazza del Campo

    カンポ広場は、シエーナの中心部にある歴史的な広場で、中世の広場としてはヨーロッパで最大のもののひとつです。「世界で一番美しい広場」と呼ばれており、中世においても、この広場の美しさが当局や市民たちの関心の的でした。 広場を扇に見立てれば、全体は、外縁から扇の付け根に向かってゆくにつ...

  • シエーナ大聖堂 Duomo di Siena

    地味で控えめな建物が多いなかにあって、唯一白く輝いている華美な建物がシエーナ大聖堂(ドゥオーモ)です。大理石の横縞模様が印象的なこの建物は、シエーナ中心部のカステルヴェッキオの丘の上にあります。 大聖堂は、1220年代から建築が着工され、1264年には建物の大まかな工事を終えまし...

  • シエーナ Siena

    シエーナは、トスカーナ州中部にある都市です。人口約53,000人のコムーネで、シエーナ県の県都です。 中世には金融業で栄えた有力都市国家で、13世紀から14世紀にかけて最盛期を迎えました。トスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競い、またその経済力を背景として、ルネサンス期には芸術の...

  • サンタ・マリア・デリ・アンジェリ大聖堂 Basilica di Santa Maria degli Angeli

    サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ大聖堂は高い優雅なクーポラのある巨大な建物で、1568年から1679年にかけて、ガレアッツォ・アレッシの設計で建てられました。ファザード上部には金色に輝くマリア像もあり、見上げるほど巨大で圧巻です。 この聖堂の中に一歩入ると、とても不思議な光景が...

  • アッシジの聖フランチェスコ Francesco d'Assisi

    アッシジの聖フランチェスコ(Francesco d'Assisi、本名 ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Pietro di Bernardone、1182年 - 1226年10月3日) アッシジのフランチェスコは有名な聖人のひとりです。...

  • アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂 Basilica di San Francesco d'Assisi

    サン・フランチェスコ大聖堂は、アッシジで生まれ、死後に、聖人に列せられたフランチェスコの功績を称えるために教皇グレゴリウス9世によって建設されました。 聖堂は丘の斜面に建っているため、この斜面を利用するために上堂・下堂の二層構造を持つことになりました。1128年に教皇グレゴリウス...

  • アッシジ Assisi

    アッシジは、ウンブリア州ペルージャ県にある都市で、その周辺地域を含む人口約28000人のコムーネ(comune)です。 イタリアで最も古い都市のひとつで、紀元前10世紀から2世紀まで栄えたエストニア文明の遺跡も、ローマ文化のフォーロ・ロマーノの遺跡も残っています。 またフランチェ...

  • ガッラ・プラチディア霊廟 Mausoleo di Galla Placidia

    ガッラ・プラチディア霊廟は、イタリアのラヴェンナにあるローマ帝国末期(5世紀)に建設されました。ガッラ・プラチディアの埋葬所と伝えられており、3つの石棺が安置されてはいますが、最初から埋葬所として建設されたかは不明です。 サン・ヴィターレ聖堂に隣接する小さな石造りの建物がガッラ・...

  • サン・ヴィターレ聖堂 Basilica di San Vitale

    サン・ヴィターレ聖堂は、547年に建設された、ラヴェンナにあるビザンティン建築・初期キリスト教建築の代表的な聖堂で、八角形の集中式建築です。 聖堂の内部は、地味な外観からは想像もできないほどの美しさで装飾されています。大円蓋から二重構造のアーケードにいたるまで、旧約聖書を題材にし...

  • ラヴェンナ Ravenna

    ラヴェンナは、エミリア=ロマーニャ州にある人口約16万人のコムーネ(comune)で、ラヴェンナ県の県都です。 西ローマ帝国の末期にはここに宮廷があり、その帝国を滅したゴート族の王テオドリックもこの町を首都としてイタリアを支配し、反撃に出た東ローマ帝国のイタリアでの根拠地も、この...

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