今日は企業訪問。多くの方のお世話になります。人様のお時間をいただくことは実にありがたいことです。だから私も誰かのために時間を使いたいと思います。与え合わなければ良き価値創造はできないのだと思います。感謝。与える
2022年が終わります。明日から2023年です。一度しかない一年。一度しかない一日。一度しかない人生。天に授けていただいたこの二度と無い人生を、喜びに充ちたものにしたい。そのためには、志高くあらねばと思います。それが、愚痴や批判などから自分の心を遠ざける、唯一の道だと思います。低く狭い視野では、低く狭い世界の問題にしか反応しないからです。それにしても還暦を過ぎると、一年との別れが惜しくなります。遺された時間がそう多くはないからですし、それ故に一年を丁寧に生きたからだと思います。来年も、今年以上に一日一日を、丁寧に力強く生きていこうと思います。感謝の気持ちを大切にして。さようなら2022年
「子曰く君子もとより窮(きゅう)す。小人は窮すれば、ここに濫(みだ)る。」《論語・衛霊公篇》孔子とその門人が各地をめぐる間、孔子一行が戦乱に巻き込まれ、全く身動きがとれず、食物も尽きて七日間飲まず食わずの窮地に陥ります。弟子の子路がたまらず、「君子も窮することがあるのですか」と孔子に言葉をぶつけます。学問をして世の中のために尽くそうとしている孔子がなぜこのような目に遭わなければならないのか。立派な人間(君子)になろうと己を磨き続けても、この有様じゃないか。そう思うのもわかります。それに対して、孔子は先の言葉を述べます。「君子といえども窮することはあるのだ。しかし、君子は窮しても平静な自分を守る。小人は窮すれば心が乱れ、自暴自棄となってしまう。」こう諭します。立派な人間だから苦難に遭わないようになるわけでは...君子もとより窮す
自分で考え行動せぬ者は、あらゆることは強要されるものであり、他人は色々なことを自分に強要しようと手ぐすね引いている存在だと誤解しているかのようです。自分の志を立てることも、その実現のために自己研鑽を怠らぬ事も、決して強要されるべき事ではありません。すべては自分がどうしたいか、どうなりたいかであり、どう判断し、何をするか、どのように生きるかでしかありません。強要されない人間は、常に自由ですから、24時間、365日仕事をしたところで、やらされることはありません。だから、過重労働だ何だと他人に文句を言うこともありません。楽しくわくわくしながら仕事をするだけです。それが人々の喜びに繋がるのならなおさらです。結局は、価値観の違いであり、人生に於いて学んで来たことの違いなのだと思います。どちらが善い悪いと言うつもりは...楽しく生きる
本当に心から私を支えて下さる方々がいらっしゃいます。そうではない方々もいらっしゃいます。自分や自分の家族の得になるかどうかしか見ていない人と、そうでない人は、実によくわかるものです。何が違うのかを考えたときに、結局は、「日本の教育の未来、日本の未来を、より良きものにしたい」という願いが、あるかないかのように感じます。偉そうに言っているわけではありません。やはり地域や国の未来を考える視点が欠けていれば、私利私欲という損得の視点でしか物事を見ることは出来ないと言うことです。そうした人たちにとっては、教育に対して無私の心で向き合うなど、愚の骨頂でしか在りません。しかし、私は、私が死んだ後の、子々孫々のためにも、良き教育を遺していきたいと思います。福沢諭吉も言った、「自分たちの今日があるのは先人の辛苦の賜物であっ...国家観なき個人
私がよかったなぁと思うことは、皮肉や嫌みを言うこと、心に思うことが、ほとんどないことです。思ったとしても、それは面白半分というか、相手にわかるようにというか、裏表のない気持ちでしかありません。皮肉や嫌みを言う人は、相手もそういう思いで言っていると思うから、相手の真意を理解できずに、ミスコミュニケーションが多くなります。また、この人は皮肉や嫌みを言う人なのだと思われてしまうと、次からも、あぁ、これはきっと皮肉や嫌みでまた言っているのだろうなと、相手に読まれてしまうことになりますから、その人と心から関わろうという気は失せてしまいます。かくして私は誤解の中に生きていくことになりますが、それもまた修業であろうと思っています。心は裏表無く、真っ直ぐな方が良いと思います。皮肉や嫌み
「思無邪」(おもいよこしまなし)という言葉があります。これは、四書五経の一つ『詩経』の詩全体を最も良く表す言葉として、孔子が語ったものです。精選版日本語国語大辞典によれば、次のように書かれています。『「詩経‐魯頌・駉」に見え、「詩経」の詩全体の性格を最もよく表わす一句として、孔子が「論語ー為政」で言った「詩三百、一言以蔽レ之、曰、思無レ邪」から)私心なく、公平である。思うことをそのまま言い表わして偽ったり飾ったりしない。』という意味です。吉田松蔭の「至誠通天」(しせいてんにつうず)と相通ずる思いを感じる言葉でもあります。『至誠通天』とは、元は孟子の言葉で、「まごころを尽くして行動すれば、いつかは必ず天に通じ、道は拓けるものだ」という意味です。現実には、誤解され、曲解されることが多いし、期待とは違った反応が...「思無邪」
私は大したことはまだできていません。しかし、あと10年で、少しは他人様のお役に立てるようなことを成し遂げていこうと思っています。元を正せば、人間は、何も持たずにこの世に生まれてきています。人生という時間をどのように使い、何を遺せるのかは、心がけ一つ、努力次第だと感じます。しかし、目標がなければ、努力の方向は定まりません。だから志が大切なのです。志を立てるかどうかは、全て自分にかかっています。日々、何をどう選択していくのか。それだけなのです。人は、どのような自分にするのかは、自分で決めるしかないのです。そして、人は自分の考えた通りの人間になっていくだけなのです。しかし、そう思わない人にとっては、生まれや、育ちや、運などによって決まるとしか思えないもののようです。私もかつてはそう思っていたのだと思います。しか...価値観
ICTの普及が教育現場でも推進されています。基本的には歓迎すべき事だと思います。しかし、ICTとは、「InformationandCommunicationTechnology」(インフォメーション・アンド・コミュニケーション・テクノロジー)の略で、所詮は「情報通信技術」でしかないということです。ICTは、デジタル化された情報の通信技術であり、インターネットなどを経由して人と人とをつなぐ役割を果たしています。しかし、ここで問題なのは、人間にとっての「Communication」とは何かが深く考えられていないことです。「人と人とがつながる」ことをコミュニケーションと考えるとして、未熟な人間が技術を使って繋がれば、当然、未熟なコミュニケーションの中で、誤解や諍いが起こると思います。ICTの普及だけでは、いじめ...ICTの普及に思う
危機感の無さが問題なのだろうと思います。もう日本という国の足下は崩れかけているというのに、自分が何をすべきかを、自分で情報収集し、自分の頭で考えないから、相変わらずのお気楽な批判・評論の意識です。働き方改革といっても、何をどう改革するのか、何のための改革なのかわからぬままやるから、結局、上からの指示を待つ受け身の姿勢は基本的に変わらぬままのようです。受け身の姿勢は、「やらされている」という意識と、「してやっている」という意識を生み出しますから、非生産的な批判と非難を生み出し続けます。今ほど、自分の頭で考えることが求められる時代はないと思うのですが、勉強とは、「暗記することと問題を解くこと」だと学校で習っているので、自分の頭で考えることが何かも、自分という人間を磨くということもよくわからぬまま大人になるしか...危機感の無さ
バッカーズ寺子屋・第18期生の募集を開始致します。来期は久しぶりに20名の定員に戻していきたいと思っています。まずは入塾説明会にご参加下さい。お申込を心よりお待ち申し上げております。バッカーズ寺子屋18期生・募集開始
「パーパス経営」という言葉の意味の深さ、「経営理念」の重要性が全員に共有される時代が来なければ、あらゆる日本の改革は進まないだろうと思います。学校教育で、授業を真面目に聞き、先生の言うとおりきちんと宿題もやった。予習も復習もした。点数もきちんと取れた。それが努力であり、正しいことであり、評価の対象でもありました。急にそれだけではダメだと言われても、子どもたちは言われている意味がわからないかもしれません。不信感も生まれてくるでしょう。ちゃんとやってるのに・・・と。しかし、これからの世の中は、組織の目的をどれだけ深く理解し、自分で考え行動し、どれだけチームとして結果を出し、社会に貢献できたかが問われていく時代だと思います。リーダーは発信していくことが大切になります。一方、チームメンバーは、読む・聴く・書く・話...視野の深さと広さは、理解の深さと広さ
私の意識の中には、常に教育に全力を尽くすということしかありません。子どもたちの成長は、日本の財産であり、教育改革とは、日々、全力でより良き教育実践を生み出すこと以外にはありません。日本の未来が大変なことになりそうな時に、自分の評価などに構ってはいられないのです。自分が納得することが出来るように全力を尽くすだけです。それでも自分の努力に納得が出来る日は来そうにありません。1人でも多く、共に日本の教育改革に力を尽くせる人と出会いたいと思います。そして、人を相手にせず、天を相手にすべしと、大西郷が仰ったことを肝に銘じたいと思います。常に全力を尽くす
本日バッカーズ九州寺子屋支援者の会の中間報告会が終わりました。いよいよ来期生募集がスタートします!10歳から15歳の小中学生が対象です。一年間かけて、「個としての確立」を目指し、人間的な成長を促します。本当に見違えるほどの成長を遂げていきます。興味のある方は、まずは入塾説明会へご参加下さい。皆様のお申込を心からお待ちしています。バッカーズ九州寺子屋・第15期生・募集開始のお知らせ
昨日は、小郡寺子屋「志学舎」の今年最後の講座でした。また、小郡寺子屋「志学舎」の保護者会も開催しました。第一期がスタートして約半年、塾生たちは本当によく頑張っています。保護者の皆様とも意見交換させていただいて、有意義な時間を過ごすことが出来ました。本当にありがとうございました。貴い時間でした。この学び舎にかかわってく下さっている全ての方に、心からの感謝を申し上げます。また、今日は、バッカーズ九州寺子屋の今年最後の講座でした。14期生の皆さんの成長の手応えを感じました。叱ることもあります。成長できていないことを残念に思うこともあります。しかし、それでも私は、みんなが成長することを確信しています。そのためには、こちらが本気であり、真剣であり、必ず道が開けるという信念と、子どもたちのことを信じる力を持っていなけ...今年の最終講義
信念があることの大切さを思います。そして信念を鍛えていくことの大切さを思います。私の今日があるのは、少なからず信念を揺るがせにしなかったからだと感じています。だからこそ信念のある人たちはそれを感じ取って下さり、助けていただくことができました。感謝しかありません。そして、自分の信念を鍛えていくのは自分にしかできないことです。誰のせいでもありません。全ては自分の心・意志・考え方・習慣・行動が生み出したものです。本を読み、先人たちを友として、学び続けます。信念
日本がひどい国に成り果てていることを感じます。コロナへの対応、税金の問題、国防の問題、議員定数の問題、マスコミの在り方、etc.実にひどいものです。様々な言論人が指摘されるとおりです。ただ、私は教育を通して、社会を変革していくだけです。批判、評論だけして、行動しない人間にはなりたくありません。私は教育を通じて、より良い社会の実現を目指します。実践あるのみです。それでもひたすらに。
結局、大切なことは、「誇りを持つこと」「負けじ魂を持つこと」。それだけなのかもしれません。それさえあれば、人間は自分の尊厳を守るために歯を食いしばって頑張ることが出来ます。しかし、それらがなければ、家畜の自由に甘んじて生きる日々を過ごすことになります。そんな姿は恥ずかしくて先人たちには見せられないと思うのか、別に、いいじゃん。平和で、ゲームでもしながら、そこそこ楽しく生きられたらと思うのか。歴史から何を学ぶかによって、どのように学ぶかによって、道は分かれます。残念ながら、頭だけの知識の教育からは、誇りも情愛も生まれません。心で学ぶことで、人間は人間としての誇りや尊厳を学ぶのだと思います。教育に大切なこと
私のような能力の無い者に、良い教育などできるはずがありません。だから必死で、良い教育をするための努力をしています。決して、妥協することなく、一つ一つを積み上げていくだけです。。もうこれぐらいで良いやと思うのは、傲慢さや、小狡さの証でしかありません。その程度の努力で、お前は満足なのか?人を大切にすると言うが、お前の大切にするというレベルはその程度のものなのか?いつからお前はそんなに偉くなったのか?常にその問いから逃げないようにと思います。「日々新た」でなければと思います。そのこだわりは、どうやら私だけのもののようですから、色々な思いは自分の胸の内にしまって、燃えるように熱く駆け抜けていこうと思います。飽くなき向上心
先週の土曜日、熊本でプロジェクターを使っていて、ふと思いました。「もう何年一緒にやってくれてるかなぁ。お疲れ様。全国に連れて行って酷使しているから衝撃もあるだろうなぁ。光源の耐用年数は何千時間だったっけ。」と。翌、日曜日、東京で使って、福岡に戻り、今日は、鹿児島で、さぁ使おうという時に、全く起動しません。電気が来ていることを示すランプはついているのですが、ウンともスンとも言いません。ついにご臨終の時を迎えたようです。それにしても、初めて、ふっと、このプロジェクター大丈夫かなぁと思った、次の使用のタイミングで死んでしまうとは・・・。何となく予感がしたのでしょう。機械とも心通じることがあるんだと思いました。本当にお疲れ様でした。本当に一緒によく頑張ってくれました。誰よりも私の側で、私と共に頑張ってくれました。...予感
講座の準備は、いくらやってもこれで十分とは思えません。従って、本番直前のギリギリまで、精一杯の準備をすることとなります。当然、身体に大きな負荷はかかります。しかし、能力の無い馬鹿だから、努力と根性で補うしかありません。寝る時間など無くて仕方ありません。一人で粛々とやるしかありません。でも、結果は大したことがありません。笑だから、明日こそはと思い、歯を食いしばって努力を続ける日々です。準備
三日前から、右手の人差し指に違和感が出て来ました。知人が、「右手の指がしびれると思っていたら、脳梗塞だった。」と仰っていたことを思い出し、今日、病院に行ってみました。お医者さんはさすがで、「全然大丈夫!だと思うけど、念のため検査をしておきますか?」と聴かれたので、「是非!」と、MRI検査をやってみました。検査の結果は、次の通りでした。Dr.「まず、脳ですが・・・、ううん、完璧にきれいですねぇ!」Dr.「次に、脳を走る4本の血管の映像ですが・・・、ううん、全てきれいですねぇ!」Dr.「何の問題もありません。きれいです!指の違和感とは、まったく関係ありません。(キッパリ)」ですと。してみると人差し指は、20㎏を超えるキャリーバックと10㎏の布袋の荷物を、福岡から東京に持って行って、ガラガラ引きずり回していたせ...MRI
人の心はコントロールできませんので私の知るところではありません。ただ、同じ志を持ち、共に価値観を共有しながら、良き仕事を生み出し、多くの人たちと共に楽しく過ごして行けたら幸せだろうとは思っています。しかし、私が良いと思うことを、人も良いと思うかどうかはわかりません。それは私の知るところではありません。私は私が正しいとは思っていませんから、そんなとき、私は淡々と自分のやるべき事をやりぬくだけです。人も自分が正しいと思うことをやっていけば良いのだと思います。価値観が違うこともありますから、それはそれで仕方の無いこと。何が正しいかは、時と共に天が証明して下さると私は思っています。天を相手に
コミュニケーションが不足すれば、それぞれが勝手な思い込みに陥ります。コミュニケーションが不足する原因は、家族のことであったり、仕事のことであったり、健康のことであったり、お金のことであったり、人それぞれ、様々なことに意識を引っ張って行かれることによります。私も長期的ビジョンを考えたり、講座内容や研修内容を考え抜いていると、自然と会話は減っていきます。また、人の表情を見ていて、色々心配しながら、当面は、できるだけそっとしておこうと思うこともあります。その時に、自分が自分に対してネガティブな評価をする人であれば、他人が、ネガティブに自分を見ていると思い込むことになるでしょうし、自分が自分に対してポジティブな評価であれば、あまり気にもならないか、気になれば気軽に質問でもしてみようということになるだろうと思います...最後は自分
何をするにしても大切なのは「活力」だと思います。飲み会が減ったことを歓迎する人もいると思いますが、やはり、人と語らい、心の壁を取り去って話し合ってこそ、新たなもの、新たな発想が生み出されると思います。コロナ禍で一番恐いことは、社会全体から活力が失われていくことだと思います。高齢化も同じです。活力があれば新しい道は拓けます。自分で飲み会を主催する人は、リーダーシップを発揮する人でもあり、裏方の苦労や準備の大切さを知る人でもあります。チームワークを作るための、沢山の心遣いができる人でもあります。自分ひとりのことしか考えない人も、それはそれで良いのですが、人を束ねたり、束ねる苦労を知ったり、色々な気遣いができるということは難しいだろうと思います。私も今年亡くなられた稲盛和夫氏の、「稲盛流コンパ」に大いに賛同する...活力
何が正しいのか、私も懸命に学んでいるつもりですが、まだまだわからないことだらけです。学ぶほどに、他人との齟齬も生まれてきます。私自身、色々なことに気づくまでに、多くの時間を要してきました。ということは、善い悪いの問題ではなく、わかり合えるということは、永遠にないのかもしれません。しかし、それでも共鳴してくれる人を求め続けていきます。そして、より一層、深く学び続けていきます。学び続ける
サッカーワールドカップの日本の活躍には感慨深いものがあります。Jリーグが発足したのは、平成5年(1993)のことです。J2ができて二部リーグになったのが、平成11年(1999)。J3ができて3部になったのが、平成26年(2014)Jリーグが出来て、ようやく30年になろうとしているところです。選手、ファンの努力はもとより、経済的に支援して下さったスポンサー企業のご苦労を思うと本当に頭が下がります。また、長期的にビジョンを思い描き、実現してきたリーダーたちにも大いなる敬意を表したいと思います。財界人たちの苦労はもっと称えられても良いと思います。この30年間、経営が良い時も悪い時もあったと思います。選手たちが結果を出せなかったり、選手やサポーターの不祥事が起きたり、色々あったと思います。それでも支援し続けていら...頑張る力
色々な写真を見ていて、特に、教育界に、子どものような顔をした60歳前後の大人が増えたように思いました。おそらくは、知識とスキルはあるのでしょうが、人としての成熟を感じない、精神の重みを感じない、子どもじみた顔つきです。哲学的苦難を経ることなどなかったのであろう、つるんとした顔つきです。字も成熟した大人の字を書いている人は少なくなったように感じます。私が歳を取ったからそう思うのであり、杞憂に過ぎないと信じたいと思います。いずれにせよ、私は、人間が成熟することの意味と方法とを、問い続けていこうと思います。成熟した大人の顔つき
私は私に出来る最善を尽くすしかありません。後のことは、憂えても仕方が無いのだと思います。私の作ってきたものを惜しいと世間様が思うのであれば、あるいは天がそう思われるのであれば、誰かが引き継いでくださるのでしょうし、そうでなければ、それだけのものでしかなかったと言うことです。自分の作ってきたものに対しての自負はありますが、それは自分が思っていることに過ぎません。全ては天が決めて下さることと思えば、後は気楽なものです。ただ、人事は尽くそうと思います。人事を尽くして天命を待つ
まだ、人生を振り返るには早いのですが、色々なところで教育という名の種蒔きはできていたのではないかと、ふっと思うことがあります。それは自負心が強すぎるぞと思われるのは当然ですが、それでも、人の発した色々な言葉の端々に、私が語ってきた言葉の欠片を感じる時に、ふと、そんな気がするのです。勿論、私の言葉とて、多くの人たちからいただいてきたものですから、「私が語ってきた」というのもおこがましいのですが、それでも自分の発した言葉の欠片を微妙に感じることがあります。久しぶりに、偶然、ばったりと昔の自分と再会したような、そんな不思議な感覚です。教育というのはそんなものなのかもしれません。誰が語ったのかも、もうとっくに忘れ去っているけれど、確かに心の奥底に宿っている言葉がある。それは、誰かが遠い昔に与えてくれた言葉。その人...不退転の決意
熊本でのエクスプレッションアカデミー第4講座が終了しました。色々な方のお力添えで、やり抜くことが出来ました。本当に感謝致します。受講してくださった、バッカーズ九州の卒塾生たちにも感謝を致します。若者たちにとっても必要な教育だと改めて感じさせられました。何の基盤もない熊本の地で、手探りのスタートでした。でも、福岡のアカデミーも10年前は同じでした。少しずつ、少しずつ、共に学んでくださる方の輪が広がってきました。時間はかかりましたが、不羈独立の精神でやり抜いてきたが故に、色々な影響を受けることは全くありませんでした。教育には、それが大切なのだと思います。足して二で割るようなことは絶対にしてはならないと思います。ただ、そうして歩んでいくには時間がかかりますし、信念が問われます。それでも本道を歩くことが大切なのだ...エクスプレッションアカデミーin熊本
人は易きに流れるものです。去年まではこうだったから。「ふつう」はこうだから。理想を掲げ、常に改善を志向する人間にとっては、戯言にしか聞こえません。しかし、それも仕方の無いこと。多くの人は、易きに流れたくて仕方が無いのです。そして、あっという間に、人生は終わっていきます。他人のことはさておき、自分だけでも易きに流れないと決めてかかるしかありません。方法は、新しく考え出していくだけです。ひとりぼっちでやるのもありです。教育の道は、事ほど左様に理解されにくく、孤独なものだと思います。しかし、それを笑って楽しんでいる自分がいるのもまた事実です。易きに流れない
本来あるべき姿、美しき姿を知らないから、人は気づけないのかもしれないと思いました。本当の意味で知らなければ、改善への意志も行動も生まれません。改善への意志や行動が生まれないということは、気づけていないということですし、気づけていないということは、あるべき姿を知らないと言うことです。知行合一という言葉の奥深さに、改めて、はっとさせられます。知行合一
結局、人生を豊かに生きる鍵は、私心を去る努力を続けられるか否かにあるのだと思います。見返りを求める心、妬み(ねたみ)、嫉み(そねみ)、驕慢(きょうまん)、etc.人間関係を悪くするのは、この私心ゆえだと思います。しかし、私心を去ることは本当に難しいことです。こころの真っ直ぐさが問われるところです。純粋さを失わない心の強さが必要です。「こんなことを何であんな人にしてあげなければならないのか」そう思うのも私心ゆえのことだと思います。誰に対しても大切にする心を持てば良いと思います。自分がしてもらったら嬉しいことを人に対してしたら良いと思います。一瞬のためらいもなく。勿論、限界はあります。それは、お金と時間が有限であるからです。でも、心の在り方は無限の広がりを持つものだと思います。また、人によっては、好むこと好ま...私心を去る
人間がヤワになってしまったのにつける薬はないのかもしれません。自由や権利の要求が声高にできる人は多くなりました。いつの間にか、自分の損得でしか物事の判断ができなくなってきた人も多いと感じます。戦後の焼け野原から立ち上がった人たちの苦労を知ろうとする人はなくなり、幕末の苦難を乗り越えようと果敢に生きた人たちの生き様を学ぼうとする人たちも少なくなりました。私の子どもの頃(昭和40年代)は、もっともっと貧しかったけれど、家族で苦労を分かち合い、頑張ってきた日本人の姿がありました。電気も停電が多く、カラーテレビがやっと出始め、瞬間湯沸かし器で台所にお湯が使えるようになり、炊飯器や洗濯機が少しずつ自動化されてきた時代のことです。かつての日本は食事とて、もっともっと貧しかったのです。今は、本当に素晴らしい商品がたくさ...思うこと色々
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今日は企業訪問。多くの方のお世話になります。人様のお時間をいただくことは実にありがたいことです。だから私も誰かのために時間を使いたいと思います。与え合わなければ良き価値創造はできないのだと思います。感謝。与える
バッカーズ九州寺子屋のホームカミングデイが終わりました。先週、東京でのホームカミングデイを終えていますので、二つの寺子屋のホームカミングデイが終わりました。みんな、それぞれに成長を遂げていたことを嬉しく思いました。成長のスピードは千差万別のものです。だから、早いことを誇る必要もなければ、遅いことを嘆く必要もないのです。それぞれの時があります。タイミングとしての時もあれば、命の長さとしての時もあります。それぞれに自分らしい時を過ごしてほしいと思います。私も私らしく。また、真意はなかなか伝わらないもの。それでも、伝わらないことを嘆くのではなく、伝える力のないことを嘆きたいと思います。また、来年、お目にかかります。ホームカミングデイ
教育は人間を相手とする仕事です。しかし、人間を自分の思ったようにすることなどできません。だから、「こうあれかし」と願う心と、そうはならないという現実との狭間に苦悶することとなります。ここで、「こうあれかし」と願うのは、祈りでなくてはならないということです。決して強制すべきものではありませんし、また、強制したところで身につくものではありません。それから、その祈りは、本当に良きことなのかを常に自問自答することが求められると思います。自分と世の中への視野の深さと広さが問われているのだと思います。また、祈ることしかできないむなしさを噛みしめつつ、それでも祈り続け、実践し続ける強靱な意志が求められるのだと思います。教育とは
エクスプレッションアカデミーを大分県日田市の大山町で今年は開催しています。学びに対する、受講者の皆様の集中力と反応が素晴らしいと思いました。とにかく共に日本の教育をより良いものにしたいという思いのある方がいらっしゃるところであれば、私は全国どこにでもうかがいます。これからの展開が楽しみです。エクスプレッションアカデミーIN大山町
「私は一夜にして成功を収めたと思われているが、その一夜というのは三十年だ。思えば長い長い夜だった。」このレイ・クロック(マクドナルドを世界的なチェーンに育て上げた人物)の言葉は、実に励まされる言葉です。私はビジネスの成功とは無縁の者だと思いますが、教育に置き換えて、思うところ大です。バッカーズ寺子屋は19年目、私の教育事業の会社は18年目です。まだまだ、初心を大切に、努力を重ねていこうと思います。様々な名言・格言は、自分の人生を支えていく杖となってくれます。人としての深み、人生哲学的な趣のあるのは、東洋の格言の中に多い気がします。一方で、ビジネスの支えとなるのは、西洋の言葉が多い気がします。私の読書歴による感覚的なものですから、偏りもあるでしょうし、不正確なものではありますが、そんな気がしています。日本の...言葉の力
バッカーズ寺子屋(東京)、バッカーズ九州寺子屋の入塾説明会を下記日程で行います。対象は10歳から15歳の子どもたち。7月に入塾して、来年6月に卒塾します。月二回の講座と年三回の合宿などを開催いたします。講座内容や身につく力など、わかりにくいことが多いので、まずは入塾説明会にご参加下さい。詳細は、それぞれそのホームページをご覧下さい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・バッカーズ寺子屋(東京)入塾説明会<label>・第2回入塾説明会2024年3月16日(土)15:00~16:00</label><label>・第3回入塾説</label><label>明会2024年4月20日(土)11:00~12:00</label><label>・第4回入塾説明会2024年4月20日(土)16:00~...バッカーズ寺子屋&バッカーズ九州寺子屋入塾説明会
人生は時間です。自分の命を次の世代の若者たちに分け与えてもいいという覚悟で生きるということは、子どもたち、若者たちと、共に時間を過ごすということです。そして、その時間が子どもたち、若者たちにとって、無為なものとならぬようにするためには、自分自身が学び続け、自分という人間を磨き続けるということにならざるを得ないと思います。人生は時間
教職を離れて、教育行政や、政治家や、教職員組合など、あらゆるものと無関係になって、私はより深く教育と向き合えるようになりました。色々な組織にいれば、その立場で、関係機関に対して、様々な要望をしていくこととなります。それはそれで大切なことだと思います。しかし、自分の会社で(と言っても個人事務所のような会社で)、一人、自分の責任で教育実践を続けていくと、何も他に対して要求することはできません。己の教育力が全てなのです。誰かや何かのせいにすることができなくなりました。とても大変ですが、清々しい道です。このような人生に導いてくださった、全ての方々に深く感謝しています。教育の道
本当に読むべきと言える本は、決して多くはないと思います。ましてや繰り返し読まなければと思える本に至っては数えるほどです。四書五経は除いての話です。忙しい日々ではありますが、繰り返し読むべき本は、繰り返し読もうと思います。『修身教授録』をもう一度読み返さねばと思っています。読書
相手が変わらないことに目を向けて、教育は困難だと思う人は多い。しかし、自分が変わらないことに目を向けて、教育は困難だと思う人はあまりいない。教育の困難さ
教育に長年関わってきて思うことは、教育の成果とは、結局は、一人の人間が自立し、幸せな人生を歩むことができるかどうかだということです。グローバル化し、IT化する世界の中では、新しい知識も必要ですし、スキルも必要です。しかし、人間として自分をいかに磨いていくかが、本当は大切なことなのだと思います。ただ、そうした学びが必要だと思う人は多くはありません。人として自分はできていると思っているからです。あるいは、そのような効果測定ができないことなどに時間とお金をかけることは、正しいことではないし、無駄だと思われてしまうからです。だから、私は本当にささやかな一歩を大切に踏み出し続けるしかありません。そんな世界から離れて、世の中の流れに乗ってしまえば、もっと楽なのかもしれませんが、私は私の大切だと信ずる価値を追求していこ...教育について思うこと
若い頃には少しも気にならなかった、日本の未来や、次の世代の幸福が気になるようになりました。歳をとった証拠なのかも知れません。しかし、子々孫々のこと、日本の未来のことを、先人たちはしっかりと考えてくださっていたのだということが、学べばいくらでも見えてきます。見ようとしなかったから見えなかっただけだと、ようやくこの歳になってわかってきました。それが見えてくると自分が恥ずかしく思えてきます。ただ、私の教育は、所詮は自己満足のためです。自分が納得のいくような仕事を楽しんでいるに過ぎないのです。未来の子どもたちに後ろ指指されたくない、という思いで必死に教育実践をしてはいますが、それもまた、所詮は自己満足に過ぎないのだと、わかっていてやっています。そして、それが何か?と呟いている自分を嘲笑する私がいます。自己満足
命を削って、全身全霊をかけて、伝えようとしたものは、必ず伝わるし、後世に残る。・・・のであれば、いいなぁ。と思います。実際には、そうでもないか。とも思います。(笑)しかし、「愚公、山を移す」ということを信じようとする愚かな自分がいます。「愚公、山を移す」という言葉は、次のようなお話からできた言葉です。「愚公という老人が、交通の便をよくするために一族で自宅の前にある山を崩しはじめた。これを見た人が、その愚かさを笑ったのに対し、愚公は、子々孫々続ければいつかは成功すると答えた。その志に感じた天帝が一夜で山を移させたという。」「涓滴岩をも穿つ」という言葉に近いかとも思います。一滴のしずくは大したことないようだが、ぽとぽと落ち続けていると、やがて岩に穴をも空ける。というのです。つまり、努力を続ければ、困難なことで...愚公、山を移す
バッカーズ九州寺子屋16期生募集の入塾説明会を開催致します。入塾を希望される方は、必ずいずれかの回にご参加をお願い申し上げます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。第1回2024年2月18日(金)17:00~18:00第2回2024年3月10日(日)17:00~18:00第3回2023年3月20日(水)17:00~18:00第4回2023年4月13日(土)18:00~19:00会場:〒814-0001福岡市早良区百道浜2-4-27AIビル9階麻生キャリア研修センター※資料等の準備がございますので、事前にFaxまたはメールにて、事務局宛、お申込のご連絡をお願い致します。バッカーズ九州寺子屋入塾説明会
先日、2月11日、NHKで「驚異の庭園~美を追い求める庭師たちの四季~」が放送されました。2002年から、足立美術館は、アメリカの日本庭園専門誌『数寄屋リビングマガジン/ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング(SukiyaLivingMagazine:TheJournalofJapaneseGardening)』に、庭園日本一に選ばれ、2022年、20年連続日本一を達成しています。バッカーズ寺子屋ができたのが2005年。一期生から、毎年、10歳から15歳の子どもたちを連れていき、コロナで休止した年も含めて20年間、日本の文化・芸術に親しむ機会を作り続けてきました。もう300人を越える子どもたちと、足立美術館を訪れたことになります。もちろん、足立美術館だけでなく、出雲や松江も訪れます。出雲に残る日本文...足立美術館とバッカーズ寺子屋
父として、母として、子育てが終われば、祖父として、祖母としての、孫育てが待っています。子どもが居なくても、おじさんとして、おばさんとして、子どもに関わっていくことはでてくると思います。だから、誰もが人として、学び続けることが大切になると思います。バッカーズ寺子屋やバッカーズ九州寺子屋や志学舎で、保護者会をやり続けているのはそうした意味があります。私が教えるのではありません。互いに学び合うのです。保護者同士、異なる仕事や子育ての価値観に触れることで、教育観・人生観を深く広やかなものにしていくことが可能になります。また、子どもの成長を共に温かく見守りながら、私たちも共に楽しく成長していけば、社会もより良いものになるのではないかと思うのです。夢
粛々と今日の一歩を大事に踏み出し続けます。私にはそれしかできることはありませんから・・・。他人への非難をしたりする必要も感じませんし、自己顕示欲を充たすようなことも私は好きではありません。ただ、今日の一歩を、力強く踏み出し続けていきたいと思います。と言いつつ、メルマガ配信は、今月は13日の予定です。少し遅めでごめんなさい。徒然なるままに
【Mr.サンデー】天才・三國シェフ物語“人生突破術”【リアルストーリー】(youtube.com)を見ました。『三流シェフ』という本に書かれていることの映像版です。こだわりを持つことの大切さ。プライドを持ち続けることの大切さ。負けん気の強さの大切さ。細やかな視点を持つことの大切さ。全ての仕事に通ずるものだと思います。そういう教育を私も目指したいと思います。目指す教育
教育はとにかく全身全霊を懸けてやるしかないものだと思います。しかしながら、直ぐに成果が出るようなことは、人間教育においてはありえないのだと思います。自分自身のことを考えてみても、直ぐに劇的な変化が起きないことはわかります。その人の生活習慣や心の習慣が変わり、その人の言葉と行動に少しずつ変化が起きて、だいぶ時が経って、ふと気がつくと大きな成長を遂げていたことが感じられた。そんなものだと思います。私は人の促成栽培には興味はありません。どっしりと根を張った人間となって、揺るぎない人生を生きて欲しいと願うばかりです。教育について思うこと
教育の成果は、その人の目の輝きによって測られるべきものだと思います。偏差値が低かろうと、点数が取れていなかろうと、時に過ち、失敗してしまおうと、二度と無い自分の人生を、目を輝かせて生きているかどうか。それが大切だと思います。なぜなら、その輝きの裏には、たくましく生き抜いていこうという意志や、与えられた生への喜びが、必ず存在しているからです。子どもたちの偏差値が低いことを嘆くより、子どもたちの目の輝きが失われていること、生きる活力が失われていることを、嘆くのが当たり前にならなくてはダメだと思います。目の輝きが失われていることに気づき、そして、それを心から嘆く大人たちが増えていくことでしか、あるいはまた、目の輝きを取り戻す教育を考えられる大人たちが増えていくことでしか、日本の教育が正気を取り戻すことはないのだ...教育の成果
読みたい本が沢山あります。読み直したい本が沢山あります。後者にはゆったりとした時間が必要です。目先のことにばかり追われていれば、なかなかその時間をとることは出来ません。大切なことをじっくり反復して学び直すことも大切だと思います。それでしか深く学ぶことは出来ないからです。本
すべての仕事がそうですが、教育も一つ一つの精度を上げていかなければなりません。自分の言葉一つ、自分の振るまい一つ、生活の一つ一つ、生き方の一つ一つが、教育として滲み出てくるものである以上、自分の生活と仕事へのこだわりと、やることの一つ一つの精度を上げていくしかありません。何となくやっていないか。鈍くなっていないか。無精になってはいないか。自分にもっと厳しくあらねばと思います。なぜなら、その人間の甘さは必ず伝わるものだからです。コピーの取り方一つ、ホチキスの止め方一つ、その人の心構えがわかりますから、私も精度を上げ続けなければなりません。目に見えないからといって手を抜くようでは、生ぬるい仕事しかしていないと思われて当然です。精度を上げる
今、寺子屋でやっている教育は、6・3・3の12年間と大学受験のための学びではなく、50年近い社会人生活で活かすことの出来る学びだと自負しています。しかし、学校教育で刷り込まれてしまった固定観念との闘いは、所詮は多勢に無勢、ごまめの歯ぎしりみたいなものでしかありません。しかし、それでも私はもっと激しくやり続けます。それが大切だとわかった以上は、身を殺して仁を為す覚悟が必要だと思います。大げさに聞こえると思いますが、そうでもないかもしれません。必敗の闘い
AIが発達していき、人間の代わりとなることが増えれば増えるほど、人は何のために生きるのか、人は何のために学ぶのか、人にとって何が幸せなのか、といった哲学的な問いと、「志」という社会貢献への思いを持つ目的意識が、大切になるのだろうと思います。また、「豊かに生きる」ということは、結局は人との関わりの中でしか実現しないと思います。だから、ますます人としての在り方が問われていくのだろうと思います。だから、結局、教育は、「志の教育」という、教育の原点に回帰していくことになるのではないかと私は思っています。「志の教育」への回帰
私の中で、謝るとは、「ごめんなさい」と心から言うことだし、感謝するとは、「ありがとう」と心から言うことだと思います。「申し訳なく思っています。」という言い方は、どこか他人事のようで、責任を感じているとは思えないし、「感謝しています」という言い方も、あまり心が伝わらないと感じます。「○○と思っている」「○○している」という言い方は、「○○」の部分は色々と主語をすげ替えて使える言葉です。「私は○○と思っている」「彼女は○○と思っている」「私は○○している」「彼は○○している」一方で、「ごめんなさい」「ありがとう」は、主語を置けない言葉です。「私がごめんなさい」「私がありがとう」とは使えません。つまり、自分自身の感情であることが大前提であり、他人に思いを伝えるための、ストレートな言葉だと思います。言質を取られな...謝ること
言葉が消費され、力を失った時代に、私には何が語れるのだろうと思います。とにかく誠実に真摯に、行動を背景とした信念と共にある言葉を紡ぎ出すしかありません。それしかできないし、人生も教育も、結局は、言葉と行動の総体でしか在りません。私如きのやることは、たいしたことにならないのはわかっています。しかし、それでも一歩一歩踏み出し続けるしかないと思っています。言葉が力を失った時代に
昨日はバッカーズ九州寺子屋のホームカミングデイでした。久しぶりに再会できたこと、卒塾生の皆さんが、それぞれに頑張っていることを大変嬉しく感じました。昨日は、父の命日でもありましたが、教育者であった父は、私が墓参りに行くよりも、子どもたち若者たちと共にあることを、きっと喜んでくれているだろうと勝手に思っている自分がいました。コロナで少し絆が弱くなったところも感じましたので、改めて新しいスタートをと誓ったところでした。昨日
他人のために見返りを求めることなく、嬉々として動く人がいます。一方で、他人のために自分が何かすることは、自分の時間が失われることであり、損をすることだと思う人がいます。そうした心根の違いはちょっとしたところに表れます。人としての未熟は隠しようがないのです。与える人たちは、互いに与え合いながら、感謝の心と共に楽しく生きていく人たちです。与えない人たちの多くは、与えられることも少なく、感謝を本当の意味で理解することもなく、奪われる不安におびえながら、日々、生きていくことになる人たちのようです。私は幸せな世の中になるように、少しでも何かを与えることが出来るようなそんな人になりたいと思っています。私は何も持っていませんが、誰かのために時間を使うこと、身体を使って汗を流して働くこと、ささやかですが、できることをしよ...与えること
少子化対策が色々と取り沙汰されています。人口が減少すれば、日本という国はいずれ消滅するしかありません。だから少子化対策は大切だと思います。しかし、お金だけの問題ではないように私は感じています。貧しさが原因なら、戦後、日本が焼け野原になったときに、子どもが増えることはなかったはずです。私が感じていることは、未来に希望が持てない、志がない人が多くなったこと。今の自分の豊かさを手放したくないという利己心が強くなったこと。子どもを宝と思い大切にする心が失われたこと。そうしたことのように感じるのです。万葉歌人の一人でもある山上憶良は、次のような歌を歌っています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【長歌】瓜食(は)めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲(しぬ)はゆいづくより来りしものそ目交(まなかひ)にもと...子宝
結局、自分を偽り、自分を飾る者は、人としての成長が出来ずに人生の時を過ごしてしまいます。出来ないことだらけでも良いし、能力が無くても良いから、愚直に、正直に、誠実に向き合っていくこと。それだけが人を伸ばしていく唯一の道であったと思います。成長できない人は、成長できない者同志で、愚痴をこぼしたり、陰で文句を言ったり、それに共感してみたり、そうした傷のなめ合いに時を過ごしていくことになります。でも、それも仕方のないことだと思います。自分と向き合わないことを前提にしていれば、そうしなければ、はけ口がなく辛いのもよくわかります。しかし、そうした人たちと、貴重な人生の時間を共に過ごしたくはないと思います。愚直に、誠実に、正直に
「忠義」と言うと、封建時代の危険な思想だと思われることが多いようである。しかし、自分の一身を擲つことで、その人が生きることが、自分が生きること以上に、世の中の未来の役に立つのであれば、それは自分も生きることになり、未来の子どもたちをも生かすことになっていく。忠義とは、社会的生物である人間がたどり着いた、極めて利己的な思想なのかもしれない。だから、忠義の何が悪かろうと思う。ただ、気をつけたいのは、他人に感謝を求めることで、感謝の本質がそこなわれていくのと同様に、他人に忠義を求めることで、忠義の本質はそこなわれていく。私も自分が忠義の人でありたいと思うが、他人にそれを求めるつもりはない。忠義
評価というものは、他人がするものゆえ、自分ではどうにもならぬもののように思う人も多いようだが、とんでもない勘違いである。自分の言動が、他人の評価となって返ってきただけである。だから他人の評価は自分の責任だとも言える。しかし、人は誤解することも多いものである。真意が伝わらぬ事も多い。価値観が違えば当然のことである。だから、すぐにわかってもらおうなどと思わぬことが大切である。時が必要であり、自己の信念と、自己を磨き続けることが大切である。ひょっとしたら、自分が死んだ後に、何十年という時間が経って、真意が伝わることもあると思う。所詮はそんなものであるから、自分の言動を磨くこと、つまりは、その源である、自分の考え方を磨くことが肝要である。評価
やっぱり、人間が夢中になる姿を見るのはいいなぁと思います。全力を尽くすこと、勝利への執念を燃やすことは、本当に尊いことです。人々がコロナで忘れかけていた、リアルの熱量を、強烈に呼びさましてくれたように思います。試合を見る時間も無く、終わった後で、ちょこちょこNEWSを見る程度の私で申し訳ないのですが、それでも素晴らしいなぁと心揺さぶられます。そして、自分も教育という世界で、負けないような気迫を持って頑張ろうと思います。選手の皆さんの、試合までの日々の努力の積み重ねを思う時、私も負けないだけの日々の努力を重ねていこうと思います。WBC
私が良かったと思うことは、教育についての師がいないことだと思います。素人の教員崩れが、本気で教育をやろうと思うと、本気で勉強しなければなりません。その時に、大学の教授だの、学閥だの、学習指導要領だのに、一切影響されない道を歩いてきたことが、本当に幸いなことだったと思います。なぜなら、色々な固定観念や常識から、私は自由でいられたからです。そして、教育の本質を追究し続けることができたからです。また、上役の顔色をうかがったり、出る杭は打たれるから、打たれないようにしたりということが、私には一切ありませんでした。肩書きも、地位も、権威も、お金もないかわりに、私はいつも自由でいられたのです。まだまだ、道半ばというより、始まったばかりですが、ひたすらに自分の道を探求していこうと思います。自由な教育者
人間はそう簡単に立派な存在にはなれないもののようです。紀元前の孔子やブッダやキリストの教えさえ、まだ体現することは出来ないのですから。一体、古いものは遅れているという思想はどこから生まれてくるのだろうかと思います。新しかろうが、古かろうが、人間の真実に迫る教えは、尊く、そして、変わるものではないと私は思います。古き教え
私は特定の宗教を信じる人間ではありませんが、神道も仏教もキリスト教も大切だと思い、敬意を表しています。また、神様に守られているなぁと思うことしばしばです。(仏様かもしれませんし、天かもしれませんが…。)危険を避けてくれたり、また、そのことで、危険を知らせてくれているようにも感じます。根拠はなくとも、私にも何かしらの天命があるのだろうと思っています。だから感謝をしています。神様にも仏様にもご先祖様にも天にも。「至誠天に通ず」とは、吉田松陰の大切にした言葉であり、孟子の言葉であります。至誠を胸に抱き、日々、全力で世の中のために生きる。そうすれば、その思いは天に届き、天のご加護を受けることが出来る。慢心する余裕などどこにもありませんが、謙虚に、虚心に、真心を尽くして一日を大切に生きていこうと思います。至誠天に通ず
おそらく忠誠心についてのコメントは、色々と誤解を受けるであろうと思います。私はただ、日本人的感覚からすれば、人情酷薄と思える海外のグローバル企業と、日本に続く100年企業との対比を思っただけです。個々人の働き方や、境遇、考え方、価値観はそれぞれであろうと思います。とにかく働くことが人生の大きなウェイトを占めている中で、何が幸せと言えるのだろうかと改めて考えてみたいと思うのです。おそらく
会社から会社を転々とすることが、キャリアアップになるという考えが主流を占めていて、終身雇用という形態は終わったかのような印象を受けることも多々あります。しかし、いくつかの会社を渡り歩いてキャリアアップしていくことも良いとは思いますが、一つの会社に忠誠を誓って、その仕事と共に人生を生きていくことにも大きな価値があると思います。創業者の思いと共に生きるということは、そういうことだと思います。無論、変化の時代ですから、変化への対応力はなければなりません。しかし、転々とするだけで、忠誠心も義理人情もない人と、共に人生を賭けて仕事をしていこうという気持ちには、少なくとも私はならないだろうと思います。忠誠心
私は幸いにして、固定観念から脱した教育を形にすることが出来るようになりました。それには多くの人たちの支えがありましたし、一方で、多くの逆境がありました。どちらに対しても、感謝しかありません。困難なこともありましたが、それでも安易な道を選ばず、自己顕示欲を満足させるような道を選ばず、偽りの発展を望まず、本物とは何のことかを考え、粛々と自分の道を歩いてきました。あとは、たくさんしていただいたことを、いかにして後の世代に手渡していくかだけです。まだ、私の歩いてきた道に価値があるなどとは思われてもいません。社会に知られることのない、ささやかな成果でしかないのです。しかし、私はこの価値の大きさを信じます。自分のやっていることの価値を自分が信じなくて誰が信じるでしょう。それを押しつけることなく、喧伝することなく、粛々...ただ粛々と
誠実であることと誠実を装うことは違います。冷静に、言行が一致しているのか、そうでないのかを見定めていけば、両者の違いはすぐにわかることです。嘘偽りのない人とは、共に過ごしていて居心地が良いものです。私は真っ直ぐである方を選びたいと思います。誠実さ