今日は企業訪問。多くの方のお世話になります。人様のお時間をいただくことは実にありがたいことです。だから私も誰かのために時間を使いたいと思います。与え合わなければ良き価値創造はできないのだと思います。感謝。与える
「人を相手とせず、天を相手とせよ。天を相手として己を尽くし、人をとがめず、わが誠の足らざることをたずぬべし」西郷隆盛の言葉です。天こそが、わが命を授け、その使命を与えて下さっています。だから、一度の人生、天命を悟り、天命に向かって一心に命を燃やすことが大切だと思います。そう思うことができれば、人の世の煩わしさは、たとえ一瞬であれ、ちっぽけなものとして捉えられるようになります。眼前の悩みは、自分の大きな使命にとって、いったい如何程の意味があるのか。本当に大切なことは何か。常に自らに問いかけながら、大きな視野を持ち、日本の教育改革に邁進していきたいと思います。そこには一人でもやり抜く覚悟と意志の力が必要だと思います。天を相手とす
私の言っている「志の教育」は、残念ながらHowtoで広げていけるようなものではありません。とにかく、自分自身が志を立て、社会の中で、一定の役割を果たしていけるように、脇目も振らず、一心に仕事をし続けていくことで精一杯ですし、そのための学びで精一杯なのです。当面、死に物狂いで生きることしか私に出来ることはないのです。「教育はできない」というのが私の基本的なスタンスであり、申し訳ないけれども、今の私では、他に誇れるようなものは何もありません。必然的に「志の教育」などというのも私にはできないのです。ただ、自分自身が、自らの志を求め、苦闘し続けてきた痕跡を多少なりともお示しすることはできるのかもしれません。それだけのことです。だから、他に自慢できるようなことは何一つないのです。私は教育に全力は尽くしますが、何を手に入れ...志の教育
人間として人格を磨こうと向上心を持ち続けることはとても大切なことです。しかし、その大切さと重みとは、人生の終盤になって気づくものなのかもしれません。人間としての向上を求め、何十年と磨かれてきた人格と、私は私だと成長を求めることを意識しなかった人格とでは、知らぬ間に大きな差が生まれてしまいます。しかし、それに気がつくのも、結局は、人格の向上を求め続けた人だけです。向上を求めぬ人は、そもそも、向上したか否かに目を向けていないので、自身の人格が少しも向上して居らぬ事に、気づくことすら出来ないということになります。ただ、それも本人にとっては幸せなことなのかもしれません。それもまたよし。そう思います。少しの哀しみと共にそう思います。人格を磨く
2日間の企業研修が終わりました。最後の時間に行った、受講生の皆様のスピーチは本当に素晴らしかったです。そんな時間に立ち会えて、本当に良かったです。今、充足感と心地よい疲労感に包まれています。が、明日からも、入塾説明会や講座が待っています。人生は時間です。昨日、今日の2日間もまた、私の人生の一部であり、人生における、「人」との素晴らしい出会いの時間でした。私にとっての教育とは、共に学ばせていただく中で、一つでも多くの気づきを生み出すことに他なりません。私が教えているわけではないのです。私もまた、共に学ぶ一人に過ぎません。私の人生の炎が燃え尽きる前に、出会うことの出来た色々な人の心に、ささやかであっても火を灯せたら素敵なことだと思います。火を灯せたら
イーロン・マスク氏が、いずれ日本は滅びるだろうといったことがニュースになっていました。「当たり前のことだけど、出生率が死亡率を上回るような変化がない限り、日本はいずれ存在しなくなるだろう。これは世界にとって大きな損失になる」統計的に見れば、当たり前の話でしかないと思います。それより私は、「日本が滅びることが世界にとって大きな損失になる」という言葉の真意の方が気になりました。日本人の考え方や生き方が価値あるものであり、それが失われることが損失だという意味なら嬉しいのですが、さて、どうなのでしょう。それはさておき、少子化対策の施策としては、お金の話しか出てきていないように思えてなりません。勿論、お金は必要で大切なものです。しかし、子育てを金銭的価値に換算してみる考え方が、少子化を招いてるようにも私には思えます。日本...日本は滅びるか。
結局のところ、教育の成果というものは、その人がいかに信頼される人物となり、自立して自分の人生をしっかりと歩み、その歩みが自ずから人々のため、後世のためになり得たかということで、はかられるしかないものだと思います。それは、子どもではなく、自分自身が、まず、そのような人物たり得ているかが問われるものです。そして、教育者の感化力によって子どもは育っていきます。「そのためにはどのような教育が大切なのか」それを見いだすことが、教育者の大切な役割なのだと思います。教育者の役割
「今、無名の指屈して信(の)びざるあり。指の人に若(し)かざるは則ち之を悪(にく)むを知り、心の人に若かざるは則ち悪むを知らず。此れ之を類を知らずと謂(い)ふなり。」(告子上十二章)「(人は薬指が曲がってしまうと、生活に支障はなくても治してもらおうとするように)わずか一本の指でさえ人並みでないと、恥じることを知っている。それなのに、(肝心の)心が人並みでなくても恥じることを知らない。これこそ物事の軽重を知らないと言うことである。」『孟子』の言葉です。(『孟子一日一言』より)教育というのは、結局、人間の心を磨き、その人が、より良い生き方ができるように手助けをすることだと思います。しかし、自分の精神の在り方については、『孟子』の一節にあるとおりで、あまりにも無頓着な人が多いのかもしれません。「其の小を養う者は小人と...教育雑感
日々のスケジュールが慌ただしくなっていますが、どうも慌ただしいと、自分と向き合い、深く思考することが希薄になっていくように感じます。そしてそれは、文章を書く時間の減少という形で、現れてくるもののようです。書くことは考えること。考えることは書くこと。書いていないということは、思考を放棄しているということだと感じます。また、読むことも大切です。古今東西の聖賢の言葉に触れつつ、それを味わうような時間を確保しようと思います。それが、教育力の目に見えない土台であると思うからです。心落ち着けて
ゴールデンウィークが終わりました。私はこのゴールデンウィーク期間に、2回、「萩往還を歩く」研修を引率していました。ほぼ、福岡には居らず、今日、ようやく東京から舞い戻ってきました。来月から小郡寺子屋「志学舎」もスタートします。これまで形にしてきた教育をどのような形で残していくか。今年から5年間ぐらいで、全力でやり遂げていこうと思います。やりたいことよりやるべきこと
私は運動もしていませんし、体力があるとは思えません。ただ、次の3つのことぐらいは心がけています。1.全国どこに行くとしても、また、日常においても、常に重い荷物を持つこと。決して楽をしようとしないこと。2.空港では、できるだけ階段を使うこと。(重いキャリーバックを持っている時は除く)3.三度の食事は、できる限り、きちんとしたものを食べること。手間暇を厭わないこと。これぐらいです。そして、4.いつ倒れても良いと思って無理をし続けること。この覚悟が存外大切なことのように思います。死ぬ気でやるから死なないのだろうと思います。笑。体力
久しぶりに、バッカーズ九州寺子屋の塾生と萩往還を歩いてきました。私は、楽に30㎞を歩いていると思われているようですが、決してそうではありません。また、この道を歩き始めた30代の頃は、足が激痛で死にそうになっていました。それ以前も、すぐに風邪を引いて寝込んだり、熱を出したりと、とにかく身体の弱い人間でした。巨大扁桃腺を30代後半に切除してから少しましになったような気がします。今、60歳にさしかかろうとしていますが、元気に萩往還を歩けています。また、自分の人生を走り続けています。それは、やはり自分の志が確立したからです。そして、その使命感と責任感を持って、常に走り続けているからだと思います。志が無ければ、身体もきつくなるし、その反対に、志が確立されれば、どんどんタフになっていくということは、志が確立された人でないと...萩往還を歩く
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今日は企業訪問。多くの方のお世話になります。人様のお時間をいただくことは実にありがたいことです。だから私も誰かのために時間を使いたいと思います。与え合わなければ良き価値創造はできないのだと思います。感謝。与える
バッカーズ九州寺子屋のホームカミングデイが終わりました。先週、東京でのホームカミングデイを終えていますので、二つの寺子屋のホームカミングデイが終わりました。みんな、それぞれに成長を遂げていたことを嬉しく思いました。成長のスピードは千差万別のものです。だから、早いことを誇る必要もなければ、遅いことを嘆く必要もないのです。それぞれの時があります。タイミングとしての時もあれば、命の長さとしての時もあります。それぞれに自分らしい時を過ごしてほしいと思います。私も私らしく。また、真意はなかなか伝わらないもの。それでも、伝わらないことを嘆くのではなく、伝える力のないことを嘆きたいと思います。また、来年、お目にかかります。ホームカミングデイ
教育は人間を相手とする仕事です。しかし、人間を自分の思ったようにすることなどできません。だから、「こうあれかし」と願う心と、そうはならないという現実との狭間に苦悶することとなります。ここで、「こうあれかし」と願うのは、祈りでなくてはならないということです。決して強制すべきものではありませんし、また、強制したところで身につくものではありません。それから、その祈りは、本当に良きことなのかを常に自問自答することが求められると思います。自分と世の中への視野の深さと広さが問われているのだと思います。また、祈ることしかできないむなしさを噛みしめつつ、それでも祈り続け、実践し続ける強靱な意志が求められるのだと思います。教育とは
エクスプレッションアカデミーを大分県日田市の大山町で今年は開催しています。学びに対する、受講者の皆様の集中力と反応が素晴らしいと思いました。とにかく共に日本の教育をより良いものにしたいという思いのある方がいらっしゃるところであれば、私は全国どこにでもうかがいます。これからの展開が楽しみです。エクスプレッションアカデミーIN大山町
「私は一夜にして成功を収めたと思われているが、その一夜というのは三十年だ。思えば長い長い夜だった。」このレイ・クロック(マクドナルドを世界的なチェーンに育て上げた人物)の言葉は、実に励まされる言葉です。私はビジネスの成功とは無縁の者だと思いますが、教育に置き換えて、思うところ大です。バッカーズ寺子屋は19年目、私の教育事業の会社は18年目です。まだまだ、初心を大切に、努力を重ねていこうと思います。様々な名言・格言は、自分の人生を支えていく杖となってくれます。人としての深み、人生哲学的な趣のあるのは、東洋の格言の中に多い気がします。一方で、ビジネスの支えとなるのは、西洋の言葉が多い気がします。私の読書歴による感覚的なものですから、偏りもあるでしょうし、不正確なものではありますが、そんな気がしています。日本の...言葉の力
バッカーズ寺子屋(東京)、バッカーズ九州寺子屋の入塾説明会を下記日程で行います。対象は10歳から15歳の子どもたち。7月に入塾して、来年6月に卒塾します。月二回の講座と年三回の合宿などを開催いたします。講座内容や身につく力など、わかりにくいことが多いので、まずは入塾説明会にご参加下さい。詳細は、それぞれそのホームページをご覧下さい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・バッカーズ寺子屋(東京)入塾説明会<label>・第2回入塾説明会2024年3月16日(土)15:00~16:00</label><label>・第3回入塾説</label><label>明会2024年4月20日(土)11:00~12:00</label><label>・第4回入塾説明会2024年4月20日(土)16:00~...バッカーズ寺子屋&バッカーズ九州寺子屋入塾説明会
人生は時間です。自分の命を次の世代の若者たちに分け与えてもいいという覚悟で生きるということは、子どもたち、若者たちと、共に時間を過ごすということです。そして、その時間が子どもたち、若者たちにとって、無為なものとならぬようにするためには、自分自身が学び続け、自分という人間を磨き続けるということにならざるを得ないと思います。人生は時間
教職を離れて、教育行政や、政治家や、教職員組合など、あらゆるものと無関係になって、私はより深く教育と向き合えるようになりました。色々な組織にいれば、その立場で、関係機関に対して、様々な要望をしていくこととなります。それはそれで大切なことだと思います。しかし、自分の会社で(と言っても個人事務所のような会社で)、一人、自分の責任で教育実践を続けていくと、何も他に対して要求することはできません。己の教育力が全てなのです。誰かや何かのせいにすることができなくなりました。とても大変ですが、清々しい道です。このような人生に導いてくださった、全ての方々に深く感謝しています。教育の道
本当に読むべきと言える本は、決して多くはないと思います。ましてや繰り返し読まなければと思える本に至っては数えるほどです。四書五経は除いての話です。忙しい日々ではありますが、繰り返し読むべき本は、繰り返し読もうと思います。『修身教授録』をもう一度読み返さねばと思っています。読書
相手が変わらないことに目を向けて、教育は困難だと思う人は多い。しかし、自分が変わらないことに目を向けて、教育は困難だと思う人はあまりいない。教育の困難さ
教育に長年関わってきて思うことは、教育の成果とは、結局は、一人の人間が自立し、幸せな人生を歩むことができるかどうかだということです。グローバル化し、IT化する世界の中では、新しい知識も必要ですし、スキルも必要です。しかし、人間として自分をいかに磨いていくかが、本当は大切なことなのだと思います。ただ、そうした学びが必要だと思う人は多くはありません。人として自分はできていると思っているからです。あるいは、そのような効果測定ができないことなどに時間とお金をかけることは、正しいことではないし、無駄だと思われてしまうからです。だから、私は本当にささやかな一歩を大切に踏み出し続けるしかありません。そんな世界から離れて、世の中の流れに乗ってしまえば、もっと楽なのかもしれませんが、私は私の大切だと信ずる価値を追求していこ...教育について思うこと
若い頃には少しも気にならなかった、日本の未来や、次の世代の幸福が気になるようになりました。歳をとった証拠なのかも知れません。しかし、子々孫々のこと、日本の未来のことを、先人たちはしっかりと考えてくださっていたのだということが、学べばいくらでも見えてきます。見ようとしなかったから見えなかっただけだと、ようやくこの歳になってわかってきました。それが見えてくると自分が恥ずかしく思えてきます。ただ、私の教育は、所詮は自己満足のためです。自分が納得のいくような仕事を楽しんでいるに過ぎないのです。未来の子どもたちに後ろ指指されたくない、という思いで必死に教育実践をしてはいますが、それもまた、所詮は自己満足に過ぎないのだと、わかっていてやっています。そして、それが何か?と呟いている自分を嘲笑する私がいます。自己満足
命を削って、全身全霊をかけて、伝えようとしたものは、必ず伝わるし、後世に残る。・・・のであれば、いいなぁ。と思います。実際には、そうでもないか。とも思います。(笑)しかし、「愚公、山を移す」ということを信じようとする愚かな自分がいます。「愚公、山を移す」という言葉は、次のようなお話からできた言葉です。「愚公という老人が、交通の便をよくするために一族で自宅の前にある山を崩しはじめた。これを見た人が、その愚かさを笑ったのに対し、愚公は、子々孫々続ければいつかは成功すると答えた。その志に感じた天帝が一夜で山を移させたという。」「涓滴岩をも穿つ」という言葉に近いかとも思います。一滴のしずくは大したことないようだが、ぽとぽと落ち続けていると、やがて岩に穴をも空ける。というのです。つまり、努力を続ければ、困難なことで...愚公、山を移す
バッカーズ九州寺子屋16期生募集の入塾説明会を開催致します。入塾を希望される方は、必ずいずれかの回にご参加をお願い申し上げます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。第1回2024年2月18日(金)17:00~18:00第2回2024年3月10日(日)17:00~18:00第3回2023年3月20日(水)17:00~18:00第4回2023年4月13日(土)18:00~19:00会場:〒814-0001福岡市早良区百道浜2-4-27AIビル9階麻生キャリア研修センター※資料等の準備がございますので、事前にFaxまたはメールにて、事務局宛、お申込のご連絡をお願い致します。バッカーズ九州寺子屋入塾説明会
先日、2月11日、NHKで「驚異の庭園~美を追い求める庭師たちの四季~」が放送されました。2002年から、足立美術館は、アメリカの日本庭園専門誌『数寄屋リビングマガジン/ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング(SukiyaLivingMagazine:TheJournalofJapaneseGardening)』に、庭園日本一に選ばれ、2022年、20年連続日本一を達成しています。バッカーズ寺子屋ができたのが2005年。一期生から、毎年、10歳から15歳の子どもたちを連れていき、コロナで休止した年も含めて20年間、日本の文化・芸術に親しむ機会を作り続けてきました。もう300人を越える子どもたちと、足立美術館を訪れたことになります。もちろん、足立美術館だけでなく、出雲や松江も訪れます。出雲に残る日本文...足立美術館とバッカーズ寺子屋
父として、母として、子育てが終われば、祖父として、祖母としての、孫育てが待っています。子どもが居なくても、おじさんとして、おばさんとして、子どもに関わっていくことはでてくると思います。だから、誰もが人として、学び続けることが大切になると思います。バッカーズ寺子屋やバッカーズ九州寺子屋や志学舎で、保護者会をやり続けているのはそうした意味があります。私が教えるのではありません。互いに学び合うのです。保護者同士、異なる仕事や子育ての価値観に触れることで、教育観・人生観を深く広やかなものにしていくことが可能になります。また、子どもの成長を共に温かく見守りながら、私たちも共に楽しく成長していけば、社会もより良いものになるのではないかと思うのです。夢
粛々と今日の一歩を大事に踏み出し続けます。私にはそれしかできることはありませんから・・・。他人への非難をしたりする必要も感じませんし、自己顕示欲を充たすようなことも私は好きではありません。ただ、今日の一歩を、力強く踏み出し続けていきたいと思います。と言いつつ、メルマガ配信は、今月は13日の予定です。少し遅めでごめんなさい。徒然なるままに
【Mr.サンデー】天才・三國シェフ物語“人生突破術”【リアルストーリー】(youtube.com)を見ました。『三流シェフ』という本に書かれていることの映像版です。こだわりを持つことの大切さ。プライドを持ち続けることの大切さ。負けん気の強さの大切さ。細やかな視点を持つことの大切さ。全ての仕事に通ずるものだと思います。そういう教育を私も目指したいと思います。目指す教育
教育はとにかく全身全霊を懸けてやるしかないものだと思います。しかしながら、直ぐに成果が出るようなことは、人間教育においてはありえないのだと思います。自分自身のことを考えてみても、直ぐに劇的な変化が起きないことはわかります。その人の生活習慣や心の習慣が変わり、その人の言葉と行動に少しずつ変化が起きて、だいぶ時が経って、ふと気がつくと大きな成長を遂げていたことが感じられた。そんなものだと思います。私は人の促成栽培には興味はありません。どっしりと根を張った人間となって、揺るぎない人生を生きて欲しいと願うばかりです。教育について思うこと
教育の成果は、その人の目の輝きによって測られるべきものだと思います。偏差値が低かろうと、点数が取れていなかろうと、時に過ち、失敗してしまおうと、二度と無い自分の人生を、目を輝かせて生きているかどうか。それが大切だと思います。なぜなら、その輝きの裏には、たくましく生き抜いていこうという意志や、与えられた生への喜びが、必ず存在しているからです。子どもたちの偏差値が低いことを嘆くより、子どもたちの目の輝きが失われていること、生きる活力が失われていることを、嘆くのが当たり前にならなくてはダメだと思います。目の輝きが失われていることに気づき、そして、それを心から嘆く大人たちが増えていくことでしか、あるいはまた、目の輝きを取り戻す教育を考えられる大人たちが増えていくことでしか、日本の教育が正気を取り戻すことはないのだ...教育の成果
すべての仕事がそうですが、教育も一つ一つの精度を上げていかなければなりません。自分の言葉一つ、自分の振るまい一つ、生活の一つ一つ、生き方の一つ一つが、教育として滲み出てくるものである以上、自分の生活と仕事へのこだわりと、やることの一つ一つの精度を上げていくしかありません。何となくやっていないか。鈍くなっていないか。無精になってはいないか。自分にもっと厳しくあらねばと思います。なぜなら、その人間の甘さは必ず伝わるものだからです。コピーの取り方一つ、ホチキスの止め方一つ、その人の心構えがわかりますから、私も精度を上げ続けなければなりません。目に見えないからといって手を抜くようでは、生ぬるい仕事しかしていないと思われて当然です。精度を上げる
今、寺子屋でやっている教育は、6・3・3の12年間と大学受験のための学びではなく、50年近い社会人生活で活かすことの出来る学びだと自負しています。しかし、学校教育で刷り込まれてしまった固定観念との闘いは、所詮は多勢に無勢、ごまめの歯ぎしりみたいなものでしかありません。しかし、それでも私はもっと激しくやり続けます。それが大切だとわかった以上は、身を殺して仁を為す覚悟が必要だと思います。大げさに聞こえると思いますが、そうでもないかもしれません。必敗の闘い
AIが発達していき、人間の代わりとなることが増えれば増えるほど、人は何のために生きるのか、人は何のために学ぶのか、人にとって何が幸せなのか、といった哲学的な問いと、「志」という社会貢献への思いを持つ目的意識が、大切になるのだろうと思います。また、「豊かに生きる」ということは、結局は人との関わりの中でしか実現しないと思います。だから、ますます人としての在り方が問われていくのだろうと思います。だから、結局、教育は、「志の教育」という、教育の原点に回帰していくことになるのではないかと私は思っています。「志の教育」への回帰
私の中で、謝るとは、「ごめんなさい」と心から言うことだし、感謝するとは、「ありがとう」と心から言うことだと思います。「申し訳なく思っています。」という言い方は、どこか他人事のようで、責任を感じているとは思えないし、「感謝しています」という言い方も、あまり心が伝わらないと感じます。「○○と思っている」「○○している」という言い方は、「○○」の部分は色々と主語をすげ替えて使える言葉です。「私は○○と思っている」「彼女は○○と思っている」「私は○○している」「彼は○○している」一方で、「ごめんなさい」「ありがとう」は、主語を置けない言葉です。「私がごめんなさい」「私がありがとう」とは使えません。つまり、自分自身の感情であることが大前提であり、他人に思いを伝えるための、ストレートな言葉だと思います。言質を取られな...謝ること
言葉が消費され、力を失った時代に、私には何が語れるのだろうと思います。とにかく誠実に真摯に、行動を背景とした信念と共にある言葉を紡ぎ出すしかありません。それしかできないし、人生も教育も、結局は、言葉と行動の総体でしか在りません。私如きのやることは、たいしたことにならないのはわかっています。しかし、それでも一歩一歩踏み出し続けるしかないと思っています。言葉が力を失った時代に
昨日はバッカーズ九州寺子屋のホームカミングデイでした。久しぶりに再会できたこと、卒塾生の皆さんが、それぞれに頑張っていることを大変嬉しく感じました。昨日は、父の命日でもありましたが、教育者であった父は、私が墓参りに行くよりも、子どもたち若者たちと共にあることを、きっと喜んでくれているだろうと勝手に思っている自分がいました。コロナで少し絆が弱くなったところも感じましたので、改めて新しいスタートをと誓ったところでした。昨日
他人のために見返りを求めることなく、嬉々として動く人がいます。一方で、他人のために自分が何かすることは、自分の時間が失われることであり、損をすることだと思う人がいます。そうした心根の違いはちょっとしたところに表れます。人としての未熟は隠しようがないのです。与える人たちは、互いに与え合いながら、感謝の心と共に楽しく生きていく人たちです。与えない人たちの多くは、与えられることも少なく、感謝を本当の意味で理解することもなく、奪われる不安におびえながら、日々、生きていくことになる人たちのようです。私は幸せな世の中になるように、少しでも何かを与えることが出来るようなそんな人になりたいと思っています。私は何も持っていませんが、誰かのために時間を使うこと、身体を使って汗を流して働くこと、ささやかですが、できることをしよ...与えること
少子化対策が色々と取り沙汰されています。人口が減少すれば、日本という国はいずれ消滅するしかありません。だから少子化対策は大切だと思います。しかし、お金だけの問題ではないように私は感じています。貧しさが原因なら、戦後、日本が焼け野原になったときに、子どもが増えることはなかったはずです。私が感じていることは、未来に希望が持てない、志がない人が多くなったこと。今の自分の豊かさを手放したくないという利己心が強くなったこと。子どもを宝と思い大切にする心が失われたこと。そうしたことのように感じるのです。万葉歌人の一人でもある山上憶良は、次のような歌を歌っています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【長歌】瓜食(は)めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲(しぬ)はゆいづくより来りしものそ目交(まなかひ)にもと...子宝
結局、自分を偽り、自分を飾る者は、人としての成長が出来ずに人生の時を過ごしてしまいます。出来ないことだらけでも良いし、能力が無くても良いから、愚直に、正直に、誠実に向き合っていくこと。それだけが人を伸ばしていく唯一の道であったと思います。成長できない人は、成長できない者同志で、愚痴をこぼしたり、陰で文句を言ったり、それに共感してみたり、そうした傷のなめ合いに時を過ごしていくことになります。でも、それも仕方のないことだと思います。自分と向き合わないことを前提にしていれば、そうしなければ、はけ口がなく辛いのもよくわかります。しかし、そうした人たちと、貴重な人生の時間を共に過ごしたくはないと思います。愚直に、誠実に、正直に
「忠義」と言うと、封建時代の危険な思想だと思われることが多いようである。しかし、自分の一身を擲つことで、その人が生きることが、自分が生きること以上に、世の中の未来の役に立つのであれば、それは自分も生きることになり、未来の子どもたちをも生かすことになっていく。忠義とは、社会的生物である人間がたどり着いた、極めて利己的な思想なのかもしれない。だから、忠義の何が悪かろうと思う。ただ、気をつけたいのは、他人に感謝を求めることで、感謝の本質がそこなわれていくのと同様に、他人に忠義を求めることで、忠義の本質はそこなわれていく。私も自分が忠義の人でありたいと思うが、他人にそれを求めるつもりはない。忠義
評価というものは、他人がするものゆえ、自分ではどうにもならぬもののように思う人も多いようだが、とんでもない勘違いである。自分の言動が、他人の評価となって返ってきただけである。だから他人の評価は自分の責任だとも言える。しかし、人は誤解することも多いものである。真意が伝わらぬ事も多い。価値観が違えば当然のことである。だから、すぐにわかってもらおうなどと思わぬことが大切である。時が必要であり、自己の信念と、自己を磨き続けることが大切である。ひょっとしたら、自分が死んだ後に、何十年という時間が経って、真意が伝わることもあると思う。所詮はそんなものであるから、自分の言動を磨くこと、つまりは、その源である、自分の考え方を磨くことが肝要である。評価
やっぱり、人間が夢中になる姿を見るのはいいなぁと思います。全力を尽くすこと、勝利への執念を燃やすことは、本当に尊いことです。人々がコロナで忘れかけていた、リアルの熱量を、強烈に呼びさましてくれたように思います。試合を見る時間も無く、終わった後で、ちょこちょこNEWSを見る程度の私で申し訳ないのですが、それでも素晴らしいなぁと心揺さぶられます。そして、自分も教育という世界で、負けないような気迫を持って頑張ろうと思います。選手の皆さんの、試合までの日々の努力の積み重ねを思う時、私も負けないだけの日々の努力を重ねていこうと思います。WBC
私が良かったと思うことは、教育についての師がいないことだと思います。素人の教員崩れが、本気で教育をやろうと思うと、本気で勉強しなければなりません。その時に、大学の教授だの、学閥だの、学習指導要領だのに、一切影響されない道を歩いてきたことが、本当に幸いなことだったと思います。なぜなら、色々な固定観念や常識から、私は自由でいられたからです。そして、教育の本質を追究し続けることができたからです。また、上役の顔色をうかがったり、出る杭は打たれるから、打たれないようにしたりということが、私には一切ありませんでした。肩書きも、地位も、権威も、お金もないかわりに、私はいつも自由でいられたのです。まだまだ、道半ばというより、始まったばかりですが、ひたすらに自分の道を探求していこうと思います。自由な教育者
人間はそう簡単に立派な存在にはなれないもののようです。紀元前の孔子やブッダやキリストの教えさえ、まだ体現することは出来ないのですから。一体、古いものは遅れているという思想はどこから生まれてくるのだろうかと思います。新しかろうが、古かろうが、人間の真実に迫る教えは、尊く、そして、変わるものではないと私は思います。古き教え
私は特定の宗教を信じる人間ではありませんが、神道も仏教もキリスト教も大切だと思い、敬意を表しています。また、神様に守られているなぁと思うことしばしばです。(仏様かもしれませんし、天かもしれませんが…。)危険を避けてくれたり、また、そのことで、危険を知らせてくれているようにも感じます。根拠はなくとも、私にも何かしらの天命があるのだろうと思っています。だから感謝をしています。神様にも仏様にもご先祖様にも天にも。「至誠天に通ず」とは、吉田松陰の大切にした言葉であり、孟子の言葉であります。至誠を胸に抱き、日々、全力で世の中のために生きる。そうすれば、その思いは天に届き、天のご加護を受けることが出来る。慢心する余裕などどこにもありませんが、謙虚に、虚心に、真心を尽くして一日を大切に生きていこうと思います。至誠天に通ず
おそらく忠誠心についてのコメントは、色々と誤解を受けるであろうと思います。私はただ、日本人的感覚からすれば、人情酷薄と思える海外のグローバル企業と、日本に続く100年企業との対比を思っただけです。個々人の働き方や、境遇、考え方、価値観はそれぞれであろうと思います。とにかく働くことが人生の大きなウェイトを占めている中で、何が幸せと言えるのだろうかと改めて考えてみたいと思うのです。おそらく
会社から会社を転々とすることが、キャリアアップになるという考えが主流を占めていて、終身雇用という形態は終わったかのような印象を受けることも多々あります。しかし、いくつかの会社を渡り歩いてキャリアアップしていくことも良いとは思いますが、一つの会社に忠誠を誓って、その仕事と共に人生を生きていくことにも大きな価値があると思います。創業者の思いと共に生きるということは、そういうことだと思います。無論、変化の時代ですから、変化への対応力はなければなりません。しかし、転々とするだけで、忠誠心も義理人情もない人と、共に人生を賭けて仕事をしていこうという気持ちには、少なくとも私はならないだろうと思います。忠誠心
私は幸いにして、固定観念から脱した教育を形にすることが出来るようになりました。それには多くの人たちの支えがありましたし、一方で、多くの逆境がありました。どちらに対しても、感謝しかありません。困難なこともありましたが、それでも安易な道を選ばず、自己顕示欲を満足させるような道を選ばず、偽りの発展を望まず、本物とは何のことかを考え、粛々と自分の道を歩いてきました。あとは、たくさんしていただいたことを、いかにして後の世代に手渡していくかだけです。まだ、私の歩いてきた道に価値があるなどとは思われてもいません。社会に知られることのない、ささやかな成果でしかないのです。しかし、私はこの価値の大きさを信じます。自分のやっていることの価値を自分が信じなくて誰が信じるでしょう。それを押しつけることなく、喧伝することなく、粛々...ただ粛々と
誠実であることと誠実を装うことは違います。冷静に、言行が一致しているのか、そうでないのかを見定めていけば、両者の違いはすぐにわかることです。嘘偽りのない人とは、共に過ごしていて居心地が良いものです。私は真っ直ぐである方を選びたいと思います。誠実さ
日本は危機に立っています。それは人間としての日本人の劣化という、かつて無い大きな危機です。日本という国がなくならないように、覚醒し、行動する人たちが、一人でも多く出てこなければなりません。解決が難しいのには二つの理由があります。、死に至る病に冒されている自覚がないこと、その治療薬の処方箋を書くことが、よほど深い洞察力がなければ困難であること。この二つです。私も及ばずながら、全力を尽くします。何を言うかではなく、何をするか。そのことが大切だと思います。やるべきこと