chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
真実を探して http://seekingtruth.starfree.jp/wp/

20代カトリック求道者の信仰と哲学の日記

カトリックの教えや暮らしについて、求道中の若者が学んだことや考えたことを綴っています。ワンクリックで英語版でもお読みいただけます。

ウミガメ
フォロー
住所
北アメリカ
出身
未設定
ブログ村参加

2020/04/20

arrow_drop_down
  • noteにお引越し

    このブログを始めて早半年。noteに引っ越します。 引っ越し先はこちら https://note.com/sea_turtle これから少しずつ記事を引っ越していきます。   元々、独自ドメインで始めた大きな理 […]

  • マタイ22:37

    マタイ22:37 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。   無断転載禁止。Instagram @seekingtruth_art

  • カトリックになるまで1 -カトリックを知らなかった頃の話

    今日から始める「カトリックになるまで」というシリーズでは、私がカトリックになるまでついて書いていければな、と思います。(執筆現在、洗礼を受けたいと決めま、入門講座受講中です。) まずは生まれてから高校まで、私がカトリック […]

  • カトリックの「慈悲」① -慈悲とは何か

    「慈悲」というと、ただただ人を赦し、人に施しを与えることを連想しがちだ。許すことは正義の対義のように聞こえ、施しは哀れみの類義に聞こえる。しかし、カトリックの「慈悲」とは本来正義であり、善であり、愛だ。(この記事はFr. […]

  • 『塩狩峠』三浦綾子

    クリスチャン作家として有名な三浦綾子の『塩狩峠』。彼女の代表作の一つであり、キリスト教がテーマの作品だった。この本の書評を書いていきたい。

  • カトリックと科学は矛盾しない

    宗教と科学の対立というのを話す人がいる。科学者たるもの、現代人たるもの、宗教を信じるとは何事か、みたいな人だ。だが、実際にはカトリックは科学と矛盾しないし、科学を歓迎してる。科学と信仰とは、別次元において共に真実を探す手段だからだ。

  • カトリックの貞節と恋愛・結婚

    無宗教の自分が敬虔なカトリックの恋人と付き合う中で学んだ、カトリックの貞節と恋愛・結婚について。貞節は真実の愛への実践。禁止事項の羅列ではない。

  • カトリック入門講座に行ってみた

    カトリック入門講座は、カトリックについて学びたい人すべてカトリック入門講座は、カトリックについて学びたい人すべて(カトリックの人も、今から洗礼を受けたい人も、洗礼を受ける気はないが学んでみたいだけという人も)のための講座だ。自分は2019年に一年間、アメリカのカトリック教会で入門講座に通った。今も洗礼を受ける気は当分ないが、とても良い経験だった。のための講座だ。自分は2019年に一年間、アメリカのカトリック教会で入門講座に通った。今も洗礼を受ける気は当分ないが、とても良い経験だった。

  • 永井隆(2) -長崎原爆と愛と祈りの生涯

    永井隆はカトリックの医学博士。原爆投下直後の長崎で懸命に人々を救い、その後も愛と慈悲、勇気との信仰に導かれた生活を送った。彼の被ばく以後の献身的な救護と平和啓もう活動、そして貧しくも前向きで心豊かな生涯についての紹介。

  • 藤井風『もうええわ』

    所要時間:4.5 分 藤井風『もうええわ』。久しぶりに心にぐっと来る曲だった。サウンドも、歌詞も、MVも、すべてが最高。     しゃべるように自然 英語が一切入らない曲は意外と少ない。最近の曲の多くはサビで英語やカタカナが使われることが多い。それに、歌詞が方言で書かれることはとても少ない。筆者(ウミガメ)自身も地方出身なので、日常的には意識せずに方言交じりで話している。『もうええわ』は、歌詞がしゃべるのを聞いているようにすっと自然に流れてくる。それは、普段自分が使う言葉で書かれていることが大きいのではないかと思う。心の内をそのままアウトプットしている感じがして、ぐっとくる。そしてメロディーがキャッチ―でクールで流れていく。岡山弁とこのサウンドがとけあっているのが感動的だ。   歌詞が秀逸 筆者(ウミガメ)がカトリック/クリスチャン的な感覚で歌詞を勝手にした解釈と感想を綴りたい。(藤井風がどういう意味でどういう気持ちで書いたのかをリサーチしたわけではないのであしからず。) 欲を捨て自由になる さぁ羽のばして ここから 捉われてばっか だったから 行き詰った悦び手放す時は今 心軽くして これから 自由に歩いて みたいなら すれ違った人だって過去だって怖くない 人間は生まれた時から自分自身の欲=「悦び」にとらわれている。それは、食欲や性欲などの肉体的な欲望だったり、自己顕示欲やエゴなどの感情的な欲望だったりする。しかし、結局のところの本当の完璧な幸福なんてものはこの世にないし、そこに生きているうちにたどり着くことなどできない。それは行き止まり、「行き詰った」もの。お金を持っていても持っていなくても、家族がいてもいなくても、誰もがその欲や悦びとよばれる檻にとらわれている。 自由になること、それは欲を手放すこと。この世に真の幸福がないことを受け入れること。それを受け入れれば、今の苦しみや満足できない状態も許せる。心が軽くなる。 欲を手放すということは、ストイック(禁欲的)になるということ。それは一見、自由を手放すことのように見える。しかし、実際にはこれだけが本当の意味で自由になる唯一の方法。これは仏教の悟りなどにも通じているのではないかと思う。 欲を捨て、自由になるとき。それはカトリック的な言い方をすれば、「神様に従って生きる」ということ。そのとき、他人の目など怖くはない。なぜなら、正しいことをすることは真の幸福につなが

  • 永井隆(1) -カトリックになるまで

    永井隆は長崎の原爆投下後に現地で医療に従事した医学博士。自らの命の危険をもかえりみず、多くの人々を助けた。晩年は平和や信仰についての随筆を多く執筆した。永井はカトリックで、彼の生涯は祈りそのものだった。自分が「カトリックについて知りたい、もしかしたら真実かもしれない」と思う大きな理由の一つが永井隆だ。   永井隆がカトリックになるまで 普通の神道の家に生まれた永井隆がカトリックになるまでの道のりは決して短くはなかった。多くの人がイメージする、キリスト教への回心とは全く違う道筋だ。科学者である永井がカトリックになる過程には、頭と心の両方があった。 科学を志し、唯物論に 永井は生まれながらのカトリックではなく、家は神道だった。永井は科学を志し、現代の若者のように、科学が世界を記述する言葉だと信じて学問にまい進していた。大正デモクラシーも相まって、唯物論(物質主義)に系統していった。 精神世界の存在を感じる しかし、彼の祖母の死は彼を変えた。祖母は素晴らしい人だった。永井に愛、優しさ、慈悲を教えてくれた。そんな祖母がある日突然死んで、無になってしまったとは到底受け入れられなかった。そのもやもや感は唯物論ではとても解決できなかった。永井は、人は死んでも無になるわけではないのではないかと考え始めた。こうして、世界には物質だけでなく、精神世界があると考えるようになった。 カトリックに触れる -理屈から その後、永井はパスカルの『パンセ』を読み始める。パスカルは永井が最も尊敬する科学者の一人で、パスカルのような偉大な科学者が信仰を持っていたことは永井には衝撃的だった。パスカルは『パンセ』で、カトリックの自信の哲学や信仰を、理論的に説明している。永井は、信仰が理屈に反しないことを学び、感銘を受けた。永井はこの本から、カトリックを頭では理解しだしたが、回心するには至らなかった。 カトリックに触れる -信仰生活に触れる 永井は長崎で医学生をやっていたが、より勉強に集中するために、家を浦上(医科大学により近かった)に移した。浦上は隠れキリシタンの子孫たちが暮らす町で、そこで永井は森山家に書生として住まうことになる。森山家は「帳方」と呼ばれる、キリスト教弾圧の時代(神父がいなかった時代)に教会コミュニティーを管理するリーダーをする家系だった。森山一家の暮らしは祈りそのものだった。 浦上の村人たちの一日は祈りに始まり、祈りに終わった。村人

  • カトリックの彼氏/彼女と付き合うって(1)-恋愛の意味

    カトリックの彼氏/彼女と付き合うって?宗教の違いは問題じゃない。どんな宗教であっても、結局個人の人間レベルで、お互いをありのまま受け入れられるか。

  • 神父のスキャンダルと教会の体裁

    ただの一人の神父の異動。だが、自分にとっては、教会がいかに体裁ばかりを気にするのかを垣間見た瞬間となった。

  • ヒジャブはムスリム女性を自由にする

    ムスリム(イスラム教)の女性が、ヒジャブと呼ばれるスカーフのようなもので髪を隠していたり、肌を露出しない服装をしている。これは男尊女卑だと思われがちだが、実は自由を得るためのものだ。性別や見た目から自分自身を解き放つものだ。

  • キリスト教と進化論

    キリスト教も科学もどちらも真実なので、その二つは矛盾しない。キリスト教の創造論は進化論を否定していない。進化論を創造論のコンテクストで理解するには?

  • 洗礼から一年

    私はブログなどを書いたことがないので、またツイッターなどもしていないので、勝手が分からないながらも手探りで書いて行けたらと思う。 私は現在二十三歳。表題の通り約一年前に洗礼を受けた。正確には去年の四月二十一日、イースターである。 洗礼という言葉について少し説明すると、本来のキリスト教における意味は、世間一般の用法「何々の洗礼を受けた」で表現されるような試練とは異なる。かえって、洗礼はイエス・キリストを信じる決断をした人が、その信仰を公にする機会として捉えられる。 私がどのようにして、キリストを信じるに至ったかを少し書いておこう。 二十一歳の時、私は大学三年生で、この時アメリカに留学に来ていた。半年間のプログラムで、一学期の間アメリカの大学で勉強するというものだった。 学期の初めに、その大学のキリスト教のサークルから、学生の宗教観やキリスト教に対する考え方、宗教的なバックグラウンドを調査するためのアンケートがEメールで届く。生真面目な日本人である私は、それが義務なのだと思って自分の名前とアドレスを記入して答えた(あとでそれが任意だったと分かった)。一ヶ月くらいして、そのサークルのスタッフの人からメールが届き、今度二人で会わないかと誘われた。やはり日本人である私は、内心怖いと思いつつも断るのは悪いと思ってその提案に乗ることにした。 約束の日が来て、待ち合わせ場所で待っていると三十歳くらいの白人男性が来た。彼とは後に親しくなるわけだが、この時点で私は、アメリカで宗教勧誘にあったというふうに思っているので、当然だが緊張している。席について、お互いのことについて話しながら彼はプリントを取り出した。そこにはキリスト教についてまとめた情報が、初心者にも理解しやすいような形で記載してあり、それを一緒に見ながら、彼はキリスト教の信仰について解説してくれた。最初は緊張していたものの、大学受験で「倫理」を勉強したことが幸いして、意外にも多くのことを理解することができた私は、彼の落ち着いた人柄にも引かれて、途中からは最初ほどの気まずさを感じなくなっていた。 「よし、信じよう!」と、この時すぐにはならないわけだが、少なくとも私がその時まで思っていたよりも、キリスト教の考え方が道理にかなうものではあるとは思ったことを覚えている。(キリスト教の世界観を前提とすれば、救済などに係る結論が論理的に導けるということ。)その一時間強の会見の最後、彼は

  • 無宗教だけどいろんな教会に行ってみた

    無宗教の自分が、プロテスタント教会の礼拝、日本のカトリック教会のミサ、アメリカのカトリック教会のミサに行った体験談と感想。初めて行くのにおすすめの教会

  • キリスト教(カトリック)から見た他宗教

    キリスト教(カトリック)は排他的ではない。他宗教は部分的に正しいと認めている。だが、これは相対主義ではない。真実は絶対的なもので

  • 善人でも信じないと救われないのか?-カトリックの場合

    カトリックの公式見解では、善人であれば信じていなくても天国に行けることがあるとしている。では、信じる意味とは?

  • 良心はどのようにして生まれるのか

    最も基本的な良心は人間の心にもともと備わっている。そう考えると、地域や時代を超えた、倫理観の共通点や相違点の説明がつく。C.S.ルイス『キリスト教の精髄』の考え方より。

  • 依存症にも優しさを -コロナ渦中のパチンコ客から

    コロナ渦中のパチンコ客は、典型的なギャンブル依存症。病気から抜け出すには助けが必要。怒りではなく優しさと解決策を。

  • 仕事を祈りに -在宅ワークのモチベアップ

    在宅ワークはだらだらしがち。そこで、モチベアップのために自分は仕事を祈りにしている。家族や恋人のため、神様のため、いろんな祈りで仕事の効率アップ。

  • 信者ではないけれど「神父様、質問があります!」

    信者ではないが、疑問があれば神父様に直接質問している。何事も一次情報が一番。ときに哲学的、神学的な議論、ときに人生相談。なんでもありのミーティング。

  • マタイ22:37

    マタイ22:37 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。   無断転載禁止。Instagram @seekingtruth_art

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、ウミガメさんをフォローしませんか?

ハンドル名
ウミガメさん
ブログタイトル
真実を探して
フォロー
真実を探して

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用