職場の大掃除をした。色んな物が出てきた。私は躊躇いもなく物を捨てられるタイプなのでポイポイと片っ端からゴミ袋に突っ込んでいった。過去のいらない物で場所を埋め尽くすより、これからの可能性の為に空間を作っていたいという考えの元だ。どうしよう?もしかしたら使うかも…という可能性はあまりに低いと思うので、それなら自分のプラスになる物に出会える可能性に賭けた方が合理的ではないだろうか。元カレに未練を残していては、いい出会いが逃げていってしまうのと同じだなと。色んな想いをゴミ袋に詰め込んだ。
最近100円均一では100円じゃないものが沢山並べられている。あ、これいいなーと手に取ったものが300円だったりすると何だかしてやられた感がする。そんな中、今日50枚入りマスクが売られているのに気がついた。2000円だった。うーん、ここ最近のマスク価格からすると安いけど、100均からすると高すぎない?とどうしても突っ込まずにはいられなかった。100円均一というよりか100円の商品が大多数というお店になってしまっている気がする。
頭が痛い時や体調不良の時は、かなりの確率で薬に助けられている。昔の人は堪えるしかなかったんだと思うとすごく恵まれているなぁと思う。しかし、薬には飲みすぎはもちろん、副作用というリスクもある。そのリスクをとってでも目先の苦しみを手放したいという人間の本能には逆らえない。頼り切ってはいけない、強い体を作らないととは思っているのですが…すみません、悪用はしませんので今日もどうかお力を貸してくれませんか?
欲しいものというのは尽きなくて。欲しくて仕方なく買った物であっても幸福心を満たしてくれる期間は短い。購入することで得られる満足感には限度があるから。さらに今はSNSで他人の持ち物まで気軽に見れてしまう時代。永遠に物欲と対峙していかねばならないだろう。私自身、一時の欲に流されないよう「欲しい」と思ってもすぐに買わず心を落ち着かせるためにもその場を離れるようにしている。そうして普段通りの暮らしに戻ってもまた巡り合ったり必要だと確信した時に縁を感じて生活を共にしようと購入するに至る。まぁ、堅苦しく言葉を並べては見たが、欲しいものが湧いて出てくるので本当に困ったモノだ。
求められる場所がある。きっとそれはとても幸せなこと。それが仕事の場合天職と言われる。しかし、それが自分の望んでいる場所じゃなかったら?他人はそれを望んでいて自分だけが望んでいない場合、それはとても苦しいこと。自分だけが我慢すればいいやと思う人は沢山いると思う。周りの皆がそれで幸せなんだったらそれが自分の幸せになると信じて。私はそうは思わない。一度思うようにやってみたら、新しい場所でもまた求められる可能性が大いにあるから。一つの場所でしか生きられないなんて誰が決めた?今ある最前よりまだ見ぬ最善があるかもしれない。一人一人の可能性は無限大なんだから。
キラキラ光る透明なあなた。ふわふわゆらり飛んでいる。ねぇ、ちょっと待って一緒に遊ぼうよ。すぐにいなくなってしまわないで。触れたら壊れてしまう儚い命に魅せられて。ふわふわゆらりついていく。公園でシャボン玉を追いかける子供の笑顔を見ていたら周りの大人まで笑顔が伝染していく幸せを今日、肌で感じました。綺麗で儚くて、シャボン玉って本当に魅力的なんですよね。
どうして人は絶叫マシンが好きなのだろう?私はどうしても分からない。絶対死なないという安心に囲われたスリルを味わうことが快感なのだろうか?命をかけて雪山登山する人や冒険家、スカイダイビングをする人達には「クレイジーだ」と言葉を投げかけるのに。何事も安心・安全の範疇で無理をすることが当たり前の世界だからなのか。欲しいものだけ簡単に手に入れて、何か起きたら誰かのせいにできるという安心が欲しいんだろうな。
昔から、プレゼントは開ける前が好き。本はこれから読もうと表紙を眺めている時間が好き。食べ放題は並んでいる時が1番楽しい。ワクワクする少し先の未来を感じる時が何にも変えがたい幸せを感じる。人はそれを変わっていると言う。でも、ワクワクの終わりが見えた時の寂しさが何よりが辛いのだ。ウチには最終話だけ読んでいない本が沢山ある。まだ封を開けていない大切なものが沢山ある。無理でもいい、願わくばそのワクワクをこっそり抱えて生きていきたいんだ。
幼い頃から人に期待をしないで生きてきた。期待をしたらその分がっかりするし、ほとんどの場合思い通りに人を動かすことなんて出来ないから。自分さえ頑張れば、自分がなんでも出来る人間になれば期待なんてする必要なくなるんだ、と思ってた。でもその考えは虚しいのかな?と最近思う。自分にだって限界や欠点はたくさんある。理想ばかり膨らみ結果的に負担がかかり過ぎてしまう。いい大人にもなってもまだ、上手くバランスが取れないでいる、私は大きな子どもだ。
ドラマや映画の美術担当の方は貧しい家庭を表現する時、棚や床をモノで溢れさせて生活感を出す。一方、裕福な人の部屋を表現する時には、余計なモノを置かずにすっきりさせることによって、経済的余裕を表現するらしい。そこにあるのはありのままの自分を見ているか見ていないかという視点だと思う。今ある苦しみの原因が他人や社会のせいだとする人ほど、何が必要で何が不要か判断できていないのだ。結果自分に必要な努力もせず、成長もなければ輝かしい未来さえこない。今のままの未来がそこにあるだけ。堂々巡りなのだ。あーだこーだ愚痴を言ったり人を批判してる時間があるなら自分の内側を見直そう。
動画が主流のこの時代。非日常を映すより最近では日常生活をただ動画として残すことが流行っているそうだ。朝起きるところから夜寝るまで、他人の1日を動画で見ることが出来てしまう。何故そんなものが見たいのだろう?と思ったのだが一度見てみると理由がわかる。自分以外の日常を擬似体験しているのだ。共感したり、学んだり、時には非難したり。刺激を求めず、安心を求めてそこに好感を持っているように思う。今の時代は特に手の届かない憧れの人より、いつもそばに居てくれるお馴染みの方がフィットするようだ。
昔の自分が集めていたものを取り出してみた。消しゴムやシール、ギターのピックなど。今となっては何故集めていたのかもよく覚えてないのだが、今だに集めたそれらを手にするとゾクッと当時の感情がよぎる。なんでも良かった訳じゃない。たくさんある中でも選りすぐりの選抜メンバーたち。何かインスピレーションがあったに違いない。余韻が大人になった自分をも刺激するとは恐れ入ったものである。いくら歳を重ねても私は私のまま変わりないんだなぁと当たり前のことを思い起こさせてもらった五月雨の日。
目に見えないものを怖がる癖がある。幽霊や怪奇現象はもちろんのこと、試したことのないことを実行する前から、あぁしたらどうしよう?こうしたらどうしよう?と必要以上に考えてしまう。実際してみると怯えてた割に大したことがないことの方が多いのにも関わらず。今、色々経験して思うのは自分を誤魔化すことが1番恐ろしいということ。誰かにどう思われたって何?その人に嫌われたら死んじゃうの?失敗して傷つくのが怖い?成長する可能性を自ら捨てる方がよっぽど虚しいよ。現状維持が安心という妄想に取り憑かれて高みの見物をするより、人生RPGのプレーヤーとして経験値積んでった方がカッコ良くない?怖いんじゃなくて知らないだけ。知…
人生において目標やビジョンがあるかないかはその人の行動を見ていたら分かる気がする。目標がある人は他人の為に行動し、目標がない人は自分の為に行動している。きっと自分の為の行動を突き詰めていけばいつしかそれは他人を喜ばせる事になって、そのうちそれが回り回って自分の為になるという好循環が生まれているんだと思う。長い目で物事を見ることが出来ているのだ。今の自分を幸せにするより未来の自分を幸せに出来たらそれが人生の満足度に繋がるんじゃないかな。
話すことに苦手意識を持っている。自分の思っている事をいつもうまく伝えられない。だからこそ話が上手く、その場の空気を掴むことに長けている人に憧れる。きっと初めからうまく出来た訳じゃなく、沢山経験をして自分なりに磨いてきた結果なんだと思う。人それぞれ皆違う才能があって役割は違う。だから張り合う必要もないんだけれども、つい羨んでしまうのが人間の性かな。お互いに無いものを補い合って助け合って生きていけるなら、どれだけ素敵で理想的な世の中になるのかな。。
何度も何度も同じ間違いを繰り返したり、いっこうに成長を感じられないともどかしく思う。誰しもそうだと思うが、何事もそう簡単には思い通りにいかないシステムなのです。その葛藤や悔しさこそを成長の壁として乗り越えた時に手に入ると信じ頑張るしかない。簡単に手に入ってしまうと人は衰えていく。成長し続けるには壁を乗り越え続けるしかない。楽を選ぶことは簡単、今こそ自制心が試される時だ。
賞味期限は黄色信号、消費期限は赤信号というイメージがある。最近は一度に食料品を買い込んでいるもので食材管理を徹底しないと「やっちゃった…」ということになってしまう。今日は生モノの消費期限が1日過ぎてしまっていたことに気づいた。1日くらい大丈夫だろう、と甘くみて手を出したら最後。健康リスクを犯す必要が今あるのだろうか?と自分の中の危険信号が点灯し始めた。たかが1日、されど1日。ごめんね、ナマモノ。さようなら、ナマモノ。
機械に頭を悩まされている。機械のおかげでできることが増え、生活も豊かになっているのだがその分使いこなす頭が求められる。自分には無理だと投げ出してしまうと、もう一生そこから先には進めなくなってしまいそうで意地で食らいついているのだが、どうしても難しい。これをこうして、あれをこうしてと色々試してみても何も起こらない場合が多い。そんな時、あぁこの時間が無駄になってしまったと悲観的になってしまうものだが、無理だと投げ出さず挑戦し続けた今を称賛したいと思う。そうやって自分を保ちながら今日も頭を悩ませる。
フリマアプリを使って断捨離を実行していると、この人と気が合いそうだなという人をよく見かける。持っている本やCD、趣味嗜好に人柄が出ているものだ。文章でのやりとりをしながら、その一度きりの取引相手を想像して楽しんでいる。ある種の文通のようだ。この方にもらわれるなら安心。私の思い入れがある品々をどうぞよろしくお願いします。という想いを込めて発送する時、嫁ぐ娘の親にでもなったかのようなそんな気持ちで送り出している。
暑い暑い暑い。いや、気象の機嫌が狂れすぎている。まだコートや厚手の上着がクローゼットを占めている中での30℃は体がついていかんて。マスクが蒸れるて。早速もう2時間外にいただけで日焼けですわ。夜中になっても体の熱が逃げていかないという。テレビをつければ「熱中症に気をつけて」だの「コロナに注意」だの「緊急地震速報」だの。もう、どうせいっちゅうねん!とツッコまずにはいられません。どうにもこうにも腹が立ったので絶対生き延びてやろうと心に誓った夏日。
STAY HOMEと言われているが今の時代、家にいたら何でも出来てしまう。欲しいや食べたいものを家まで持ってきてもらえる事もできれば、友達や職場の仲間の顔を見ながら一緒にお酒を飲めたもする。何かを作って作品を他人にも見てもらえたり、自分の日常動画をupしてお金を稼ぐ人だっている。本当にネット様々だなぁと思う。しかし便利になりすぎた今、今度は逆に手間を楽しんでいる人も多いようだ。お家時間を楽しむ上でも、隣の芝はいつも青く見えてしまうものらしい。 【お題「#おうち時間」】
教えられるだけでは辿り着けない領域がある。人の話を真剣に聞き、謙虚に受け入れることはとても大切だが、どうしてもそれだけでは成長が限られてしまう。では、どうしたらいいか。自ら何度も試して気づくことだ。気づく事で定着の早さは段違いに増す。自分なりに工夫して自分と向き合い何度も挑戦することでしかその気づきは手に入らない。誰かに聞いてもまとめサイトを見ても情報として通り過ぎるだけで身にならない。自分なりに噛み砕き、自分なりの方法を見つけて取り入れ、成長した人には誰も敵わない。それこそが自分の財産になり、永遠に色褪せない唯一のモノだと思う。
物事や人を片面からしか見れない人は愚かだ。この人はこういう人だから。とか、これはこういうことだから。とか。自分で視野を狭めてどうするの?と突っ込みたくなる。誰かが書き記した人生の攻略本通りに生きようとしてるようなもの。自分の視野や新しいものは排除するくせにまとめサイトで得した気分になって知識を得たつもりで満足ですか?あなたが見てる世界と私が見てる世界はきっと違う。自ら動いて肌で感じ手に入れたものでまとった誇れる生き方を。答えはいつも一1つじゃないから。
今時の若者に将来の夢を聞くとYoutuberと答える人が多いとか。きっと理由は楽しそうだからとか出勤しなくていいからとか楽をするためと答える人が大半だろう。昔から言われている楽しそうに見えるのは裏での苦労があってこそだということ。簡単・楽そうに見えるのはその人がプロだから。例えば楽器だってプロが弾けば簡単そうに楽しそうに見える。その裏にある汗と努力に気づかないもの。毎日動画をupして自分をさらけ出してる彼らの根気強さには脱帽しかない。私は個人的にリラックスするよりかこんなにも頑張っている人がいる、と自分を鼓舞する為にいつもYoutubeを拝見させてもらっている。
人は生まれた時から目が見え、耳が聞こえ、口を使って話すことができる。誰かにこうやってするんだよ、と教えられた訳でもなく本能で使いこなせる。しかし、大抵の人間はそこで満足してしまう。自分の見えてるもの、聞こえてる音、話してる声はこういうものだと思い込んで生きているのだ。画家や写真家、音楽家などアーティストがすごいのはその先を追求するから。自問自答を繰り返し、すべてを疑って打ち壊してその上で自分らしさを磨き上げる。だからこそ難しいし、答えのない問題と一生向き合わねばならない覚悟は計り知れない。常識をぶち壊した先に自分らしさを築き上げるって、なんてかっこいいんだろう。自分の当たり前に満足しない生き方…
新しい事を始めた。見たことのない機械を導入して悪戦苦闘の毎日。STAY HOME習慣のおかげで着々と新しい事を始められている。したことのない、気になっていたけどまとまった時間もないという事を始めるには今がぴったりな気がする。一つ始めてみると「これはどうなっているんだろう?あれを試してみたらどうかな?」と好奇心がどんどん膨らんでいく。まずはやってみること。これがどれだけ大切か思い知らされた。今まで見えなかった景色がどんどん見えていくのは自分の可能性を広げているようでかなり楽しいものである。家ですることがない、と嘆く時間も惜しいほど今は時間が足りない。自分と向き合える時間を頂けたことに感謝。
こどもの日が近づくと空に鯉が泳ぎ出す。あぁ、この家に男の子がいるんだなぁとほっこりする。大きくても小さくてもそよそよと泳ぐ姿は可愛らしい。鯉のぼりを見ながら思い出すのは小さい頃の親戚の集まりでのこと。関西出身なもので『ちまき』といえば細長い円錐型のものが柏餅と並びよく食卓に置かれていた。皮を剥ぐのは楽しいのだが食べても食べても無味な「ちまき」。白くて細長いお餅だけで一体これはなんなんだろう?といつも不思議に思っていた。今、東京で細長いあの「ちまき」を見ることはなくなったからこそ、久しぶりに食べてみたい。大人になった今だったらあの美味しさが分かる気がする。
集中することはいいことだとされている。何をするにも精度が上がるもの。しかし、私の場合「過集中」気味になる事が多いので気をつけなければいけない。この自粛期間中明日のことを気にしなくてもいいし自分の為に使える時間が増えたから止まらない。集中している間は気にならない疲れや疲労が集中が切れた途端ドッとくる。寝込むくらいしんどくなる。最近ちまちまくる不調の原因は風邪でもコロナでもなくここにあった。できる限り意識して何もしない時間を作るように、自分を大切しようと思った夏のはじまり。
お尻に火がつかないとやる気が出ない。期限が決まってたり誰かと約束したりしない限り「やらなきゃ!」と思わない。この自粛期間中に何か始めたいと思った。せっかくだから何か自分が成長できそうなものを。時間だけはたっぷりあるんだから「時間ができたらしてみたい」と言ってた事を片っ端からやってやろうと思った。しかし、モチベーションというのを保ち続けるのがいつも厳しい。どうしたらいいか考えた時に手元のスマホに無限の可能性があるじゃないか!と思い至った。モチベーションを保つ証人になってもらうのは見知った人じゃなきゃいけないなんて決まりはない。今まで二の足を踏んでいた動画に手をかけてみようかな。誰かに見せるためな…
昨日まで暖房をつけてたかと思えば、今日は半袖で大丈夫というそんなおかしな5月の始まり。暑い暑いと急いで衣替えをした。こうも急に気温が変わられると体がついていけない。ただでさえ鈍った四肢な上、久々に服から伸びる腕を見ては「あら、私の手こんなだったかしら?」と記憶障害さえ引き起こす。蓄えた脂肪と放置状態の惨事を目にし、保湿と脱毛ケアを再開せねば!と自分が女性だったことを思い出させてもらった。女らしさには時間がかかるものよ、と急かしてくる夏日に一言言ってやった。
シラスにいかが入っていた。どうってことない。あさりに蟹だって入っている。気づかずに食べちゃうことが多い中で見つけたらとても嬉しい。小さくて可愛いから愛でたくなってしまうもの。今では彼らに「チリメンモンスター」なる名前が付いているそうな。今日出会った子はとても綺麗な顔立ちをしてたので、ちょっとイイ紙にのせて写真を撮った。色んな角度から見る表情に切なさと命の強さを感じた。短い期間だったかもしれないが彼がこの世に生きた証拠をおさめさせてもらった。ありがとう。
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